第三章
第20話 書簡
ある妃はこう言う。
「ご機嫌いかがでしょうか? どうか藍妃さまの嫌がらせなんてお気になさらず。私は貴女様のお味方ですわ。ですから、もしよろしればお家同士も含めてこれから仲良くしてくださいませんか?」
別の妃はもっとわかりやすかった。
「
欲望渦巻く女達の後宮。まさにその通りだ。
初夜から一夜経つと、私への挨拶と称してあちこちから人が訪問してきた。そのほとんどが何かしらの見返りを求めてのものだった。
人付き合いって難しい。というか、面倒くさい。私に頼んだところで本当に殿下に寵愛されている妃ではないのだから、なんの意味もないのに。
内心そう思いつつ、私からは口に出すことはできないので、正直心苦しい。
初夜を過ぎて後宮も少しずつ落ち着きを見せ始めると、妃らは日中裁縫や養蚕、詩歌を嗜んだりと自分磨きで忙しくなる。いつか訪問があるかもしれない皇太子殿下のため、女達は着飾り教養を深めるのだ。
私も同じくではあるのだが、それ以上にしなければならないことがあった。
「背筋を伸ばして、顎を引いて、そう! そうです!
「うっ……はい、
教育係の女官が私の身体を支えながら何度も私の姿勢を直す。絶賛美しい歩き姿の練習なのだが、私には難しい課題だった。短袍ばかり着てきたせいで、裾の長い服に慣れていないのだ。幼少期で教育の止まっている私には、こういう大人の女性の歩き方や作法は知識がない。かれこれ半刻以上は同じ姿勢で頑張っていた。
目の前には大量の綴本に巻子本、そして墨と筆。
今日も今日とて、勉強に明け暮れる私であった。
私に起きた大きな変化が三つあった。
まず一つ目、太子妃としての素養を身につけるため、来たる
二つ目、
気の許せる宮女がいるなら侍女に召し上げると
阿子は私の正体を知っても自分のことのように喜んでくれ、侍女の指名も二つ返事で受けてくれた。下女から女官の侍女へ大大大出世したこともあり、泣きながらお礼すら言われてしまった。こちらこそありがとうと言いたいのに。今も勉強の合間にとお茶菓子を持ってきてくれようとしている。
「お菓子、こちらに置いておきますね」
「阿子、ありがとうございます」
「柊月様! よそ見なさらないでくださいまし!!」
教育係の女官達に首を前に向くよう固定される。く、苦しい。
壁際でこの女官達を監督していた長身の侍女が私のもとにやってきてパンと手を打つ。
「柊月様、できるようになるまで休憩はなしです。よろしいですか」
この侍女の名前は
明睿は女官には珍しい日焼けしたすらりと長身の美女……ではなく、実は女装した
武に通じ、仕事とあらば女装も受け入れる明睿は、殿下と緑紹の昔馴染みなのだそうだ。今の時期に宦官をべったり側に侍らすと周囲からあらぬ噂を立てられる恐れがあるため、女に化ける形で私の侍女となったらしい。私の術についても知っており、私と素手で接触しないよういつも手袋をつけてくれている。
どう見ても女性にしか見えない明睿は、なんなら私より女性の服装が似合ってる。歳は殿下と同じか、少し上くらい。肩口で揃えられた真っ直ぐな黒髪が明睿の几帳面な性格をよく表している。口数も多くなくて冷静沈着、必要なことを端的にしか話さない。私もお喋りな方ではないので居心地はよかった。
私の目の前の女官がにこりと微笑む。
「ささ、柊月様! もう一度!」
素手の接触が多いせいで、女官達の思考が
「少し待ってください……」
「さっきも休憩したばかりですよ?柊月様は体力が少なくていらっしゃいますねぇ」
「そうなんですけど、そうじゃなくて」
私の術について周りに話すなと殿下に言われている。彼女達はまさか時折勝手に頭の中を覗かれているとは思っていないだろう。
私の疲弊具合を見かねた阿子が助け舟を出してくれた。
「あの、少しお菓子をつまむくらいはいいんじゃないでしょうか? 柊月様のお顔色も悪いですし……」
「はぁ、仕方ないですねぇ」
女官達が私を解放する。私はそのまま床にへたり込んだ。
服の重みに加えて術の発動による体力消耗が激しい。ふらふらするし、すぐにお腹が空く。
「柊月様、大丈夫ですか? お水飲まれます?」
阿子が水の入った玻璃の器を差し出してくれる。ありがたく受け取って飲み干した。
「ありがとう、ございます……」
一緒に出されたお茶菓子も口に入れる。素朴な小麦の味と
横で見守っていた明睿が腕組みする。
「これでは来月の太子妃選儀に間に合いません」
「が、頑張りますので」
「覚えは早くていらっしゃるんですが、体力が問題ですね」
体力は下働き経験のおかげである方なのだが、いかんせん覗見術に持っていかれている。
項垂れていると、衝立の陰から声がかかった。外で別の仕事をしていた女官の声だ。
「
後宮では、
「どうかしましたか?」
声をかけると、眉を下げた女官が入室してきた。
「他の妃方から燕妃さまにと、今日もたくさんの贈り物が届いております」
ああ、まただ。もういいって伝えたのに。連日の贈品にげんなりする。
「どういたしますか? お返ししますか?」
「いえ、いつも通りここの隅の方に置いておいてください」
「かしこまりました」
私と繋がりを持って殿下と懇意になりたい妃らが、あれこれと贈ってきてくれるのだが。
私は宝飾品に興味がなく、欲しいとも思っていない上に、私に何をしても殿下と懇意にはなれない。
そうはっきり言ってあげたいが、殿下から“見せかけの後宮通い”について固く箝口令が敷かれているため、こちらからは何も言えない。
頑張ってください。私は貴女達の健気な努力は本当にすごいと思います。
そう心の中で応援しておくに留める。部屋の隅で物置決定の贈品達にも謝っておく。物に罪はないのに。ごめんなさい。
「後で検品だけしておきます。何か仕込まれていたら怖いですから」
阿子が腕まくりしてくれているので、その厚意に甘えることにする。検品が必要なのは当然だが、私の場合は嫌がらせも混じっているため、侍女達の手を煩わせるのが申し訳なくもある。先日は綺麗に包装された鼠の死骸がでてきて侍女達を騒がせていたし。
今の私は後宮の格好の噂の的。何らかの理由で表には出てこれず家に籠もっていた、“日陰で生きてきた藍家の
私をよく思わない人間の嫌がらせだろが、贈り主は誰だか特定できない。桃春である可能性も捨てきれない。
そういえば桃春と私はあの酒宴の池ポチャ事件以降、表立った対立はなかった。そもそも桃春は部屋からほとんど出ていないようで姿すら見えないため、桃春の取り巻きの妃がこれみよがしに悪口を言ってくる程度で済んでいる。
今桃春は何を考えているんだろう。これ以上変な揉め事が起きなければいいと思うばかりだ。
女官が下げた後、明睿が私を振り返る。
「柊月様。この後はお伝えしておりました通り、夕餉の後に殿下のお渡りとなります」
殿下に会うのは初夜以来だ。連日の講義で眠気が辛いが、少し顔を合わせて寝るだけだ。多分大丈夫。
私は小さく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます