第8話 やりたい放題の桃春



 琉杏るあん達は今日は早朝から出ていたため、夕方には仕事上がりらしい。瑠杏達と別れた後、言われていた掃除を終わらせたくらいでちょうど桃春とうしゅんの夕餉を下げる時間になったので彼女の部屋へ急ぎ戻る。

 夜の帳もすっかり落ち、回廊の柱に煌々と火が灯っていた。後宮を囲む堀の水面に灯りが落ち、肌寒い風が建物の間を吹き抜けると橙色の影もゆらゆらと揺れた。薄着でいると風邪を引きそうだ。

 

「ただいま戻りまし――」


 桃春の房間へやの扉をくぐると同時に、勢いよく私の顔の横を何かが通過した。

 ちらりと目だけで確認すると、飛んできたのはどうやら箸のようだ。背後の衝立にぶつかって落下した箸が床に転がっていく。

 瑠杏と玉鈴ぎょくりんと話して燕子えんしの衝撃で曇っていた気分が更に曇る。今度は一体なに……。

 

柊月しゅうげつ! あなたの不手際ね!!」

 

 箸を投げつけた格好のまま、桃春が目を釣り上げて私を睨んでいた。


「わたくしの嫌いな魚が入ってたわ! こんな食事早く下げてちょうだい! 二度と出すなって尚食に伝えて!」


 桃春の前に置かれている食膳には魚をふんだんに使った豪華な夕餉が並んでいたが、桃春はほとんど手をつけていなかった。

 なんてもったいない。鱈魚たらに、帯魚たちうおまである。藍家ですら出たことのない立派な食事だ。内陸の陽威よういで海の魚が食べられるなんて、どんなに贅沢なことか知らないのか。


 そんな桃春の様子を、他の侍女らは壁際から遠巻きに見ていた。

 家から連れてきた侍女二人は、またかといった顔で黙って俯いている。それとは別に、後宮付きの雑用係の宮女も一人いるが、こちらは完全に引いていた。どん引きである。私もどん引きなので、気持ちはすごくわかる。


「そこの宮女、早くこれを下げなさい!」


 桃春がどん引き中の宮女を見ながら食膳を叩く。


「は、はい……」


 その子が恐る恐る投げられた箸を回収して食膳を下げる。手が震えていて、なかなか食器が片付けられない。

 苛立った様子でそれを見ていた桃春が、卓子つくえに置いてあった湯呑をその子に投げた。ぱしゃりと中の茶が溢れて彼女の服を濡らす。


「遅いわ! 早く私の目の前から下げてってば!」

 

「桃春様」


 見ていられなくて思わず私が間に入ると、桃春はきっと目を眇める。


「あら、何か文句でもあるのかしら?」

 

「お止めください」

 

「なぁにそれ。貴女がわたくしに物を言える立場なの?」


 横の宮女はカタカタと震えていた。藍家で母に湯呑を引っ掛けられた自分を思い出す。こんなの、見ていられない。


「やりすぎです。後は私が片付けますから」


 震える宮女と私、そして壁際の俯く侍女らを見て、桃春はふんと鼻を鳴らした。


「惨めったらしい……もういいわ。勝手にやって」


 なら勝手にやらせてもらう。私が宮女に手を差し出すと、その子はありがとうございますと小声で呟いた。

 落ちている湯呑を拾って手早く片付けていると、コンコンと桃春がくつで床を叩いた。何かと思って顔を上げる。


「ねえ、甜点あまいものはないの?」

 

「甜点ですか?」


 今度は何だ。

 

「うちでは必ず出ていたじゃない。食事がろくに食べられなかったから、甜点くらいは欲しいわ。柊月、貰ってきて」


 そんな無茶な。ここは後宮であって、融通のきく家じゃないのだから。


 呆れ半分で返答に困っていると、桃春が大袈裟にため息をついた。


「相変わらず使えない……もういいわ。主人にまともな食事も出せない柊月は、罰として今日の夕餉は抜き。いいわね?」

 

 壁際の侍女達もとばっちりを恐れてか俯いて何も言わない。私はゆっくり息を吐くと、頭を下げた。


「かしこまりました」

 

「ふん」


 気が済んだのか、桃春は立ち上がって奥の牀榻ベッドへ向かう。

 

 桃春に解雇されるまでの、あと少しの辛抱だ。

 内心ため息をつきながら片付けをしていると、奥に消える直前、桃春が思い出したように振り返った。

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