第4話
「ニナさま。こんを詰めすぎてはお体に障ります」
夜。アニータの声に、私は頭をもたげた。
私は物語をつづるため筆を持つ。
しかし、机に向かいながらも、頭はタジラ王との時間を思い出していた。
ぼんやりとしていたところを心配したのだろう。水を持ってきたアニータに、心配ないわ、と笑い返す。
グラスに口をつけながら、机上の文書に目を通す。
それは、私の故郷、そしてアズラク公国に訪れるまでに聞いてきた物語を綴ったものだ。
王様の書斎には多くの本があった。世界中の本が集められていた。
しかし、当然この世のすべての物語が書に記されているわけではない。人間が皆、文字を書けるわけでも、ましてや、本を作れるわけでもないのだから。
むしろ、一生において本を触らずに人生を終える者の方が多い。故郷を出て、アズラク公国に入るまで見てきたその事実は、白い砂漠や大河の存在よりも私を驚かせた。
なにせ、故郷のグラン王国では、識字率も高く本が身近なため、本に触れない人生など考えも及ばなかった。
しかし、グラン王国と異なり、紙も手に入らず字も書けない人々の間に伝わる物語は、いつしか形を変え、消えてしまう。
私はそれが惜しいと思った。
聞く者が消え、語る者が消え、物語が消える。それは、人が生きてきた痕跡が、その歴史ごと消えることを意味する。
私はなんとしても、それをとどめたいと思った。
道中書き留めたメモを元に、私はなるべく聞いたままをそのまま、脚色も憶測も加えずに紙に書き起こす。
「ディアン」
だが、私が筆を取る理由は、そんな義務感だけではない。
無意識に口にした名が、私に思い起こさせた。
名を口にするたびに、あの子の顔が浮かぶ。
グラン王国は地形により外国との交易が断たれた国だが、まったく接点がない、というわけではない。
アズラク公国の急死した先王、タジラ二世は、グラン王国とつながりを持つことを切望していた。
そのような意志から、一度、二国間で茶会を開いたことがある。両国の王、そして親族や大臣が集まる茶会だ。
そこに、当時7歳だった私も出席していた。
そしてあの場にもう一人いた子供、それがディアンだった。
今でもあの子を思い出すkとができる。はふわふわの白い羽毛を持った鳥人。羽毛に隠れた青い目や、小さなかぎ爪、そして黒い肌。すっぽりと私の膝に収まる様子は、まるでフクロウのヒナを思わせる。かわいいあの子。
あの場に子供が私とディアンしかいなかったため、私たちはすぐに打ち解けた。
幼いゆえか、発音が上手くいかず、口下手なディアン。しかしあの子は私が話す、グラン王国の物語に熱心に耳を傾けてくれた。
別れ際に、まだお話を聞きたい、そう駄々をこねていたディアン。あのときのぬくもりを思い出す。
『また今度。そのときに、もっとたくさんお話を聞かせてあげる』
ディアンがひな鳥のように泣くものだから、私はつい、そんな約束をしてしまった。
だが、アズラク公国とグラン王国の茶会は、あの一度だけだった。
あの茶会で、当時の人員や経済力では両国の交易を維持できない。両国でそう判断されたからだ。それほどに、グラン王国は険しい自然に囲まれている。
あれから15年。私はあのときの約束を果たせないでいる。
アズラク公国とグラン王国の交易は開通したが、そもそも、私はディアンがどういった立場の子供なのか知らなかった。
父王に聞いても、そのような子供がいたことすら覚えていなかった。そもそも外国と交流がない父の、数少ない外交だ。タジラ二世の顔を覚えるだけで必死だったのかもしれない。
果たされない約束は、私の心にしこりとして残っている。
だからこそ。書をしたためることで、本を作ることで、いつかあの子に、ディアンに私が書きとめた物語が届く日が来るのではないか。
その希望を持って、私は本を作る。
そして、本の完成はタジラ王も楽しみにして―。
私は首を横に振る。
ディアンを動機にしたものを、ついでのようにタジラ王に見せるなど不誠実もいいところだ。
ディアンへはディアンへの思いを。王様へは王様への思いを。分けなければならない。
書斎で話に花を咲かせる中で、私が本を作ろうとしていることもタジラ王に伝えてしまった。本を愛するタジラ王は、私の提案を楽し気に肯定してくださった。あの笑顔を裏切ってはならない。
私は、ただのトロフィーでしかない私を迎えてくださっただけでなく、書斎にまで通してくださったタジラ王に誠実な態度をとりたかった。だからタジラ王へ渡す本は、タジラ王への思いしか込めてはいけない。
じわりとにじんだインク。
私は顔をしかめた。
アズラク公国において紙は貴重品だ。特に、上質な紙となれば容易に手に入れることはできない。
現在手元にあるこの紙は、故郷のグラン王国から持ってきたもの。
私が、本を読むだけでなく、書くことが好きということを知っている父王が持たせてくれた、グラン王国でも一等上質な紙。
貴重というだけではない。母国を離れる際、荷物の多くはアズラク公国への貢物。私個人の物はわずかにしか持てない。そんな制限のある中、故郷から遠く離れる私を思い、父王が持たせてくれた。
当然、そのような大切な品を乱暴に扱うことはできない。
紙の上で走る文字に、自身の疲れを察し、私は筆をおく。
「お休みになりますか、ニナさま」
控えていたアニータがしずしずと現れる。
「そうね……でも寝る前に紙の状態を見ておきたいわ」
父に持たされた上質で丈夫な故郷の紙。
けれどそれは、あくまでも故郷での話だ。アズラク公国の暑く乾燥した環境下で紙はどのように変化するのか。確認する必要がある。
アニータに誘導され、紙を納めた倉庫に向かう。
昨晩は、寝込んでいたために確認できなかった。放っておいてしまった紙たちに少し罪悪感を覚え、挨拶をするように遠巻きに燭台で照らした。
故郷で作られた紙は、整然と倉庫に並んでいる。
私はそれらの山に、ふと違和感を覚えた。
「アニータ。あなた、紙は何枚持ち出したの?」
「10です。いかがなされましたか」
私は目の前の山から10枚の紙束を取り出し、その厚さを確かめた。そしてそこから目測でおおよその紙の量を見る。
「……アニータ」
「はい」
少し低くなった私の声に、アニータは事態を察する。
「紙が、盗まれているわ」
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