第2話

 ふわふわの小さな子。

 白い羽毛の小さな子。

 抱きしめて、膝に乗せて、たくさんの物語を聞かせましょう。

 くりくりの、青い目がこちらを覗く。

 私を映す瞳。

 ああ、またあなたに会いたい。

 私の……。


「でぃ、あん」


「ニナさま!」

 微かに目を開ける。アニータの小さな手には私の手を強く握っていた。

「あ……アニータ? ……ここは?」

 光に慣れない目をしたたかせながら、ゆっくりと周囲を探る。

「アズラク公国の宮殿。ニナさまのお部屋です。覚えておいでですか? 戴冠式で暑さのあまり倒れてしまったのですよ?」

 知らない天井。知らないベッド。故郷とは異なる空間に、混乱していた私だが、アニータの言葉に平静を取り戻す。

「そうだわ……王様のご機嫌は? もしお怒りなら」

「ご安心ください。タジラ王はお気になさっていないようです」

 ほっと息をついた私に、アニータは小柄な体で精いっぱい胸を張った。

「大丈夫ですよニナさま。もしものことがあれば、このアニータが、必ずやニナさまをグラン王国へ送り届けます」

「ありがとう。アニータ」

 私が嫁入りのため唯一つけた従者、アニータ。まだ16歳と若い彼女だが、やはり頼りになる。

 嫁入りのため、父はもっと多くの従者をつけると言っていたが、私は固く断った。国の復興へ必要な人材を、無為に裂きたくはないからだ。

 そのため、故郷からアズラク公国への道のりは、アズラク公国から派遣された兵に伴われた。冷たい雰囲気の方々だったが、外の世界を知らない私たちよりも適した人材だったと思っている。


 私は髪をかき上げ切り替えた。

「さ、着替えを用意して、アニータ。王様にご挨拶をしなければいけないわ」

 こちらをうかがった彼女は、ためらいつつも、はい、と短く返事をした。

 私はアニータから渡された水を口へ含みつつ、ドレスが整うまで待つ。

 アニータを選んでよかった。

 従者の候補には、長年城に仕えてきた爺やや、武闘派の執事などもいた。しかし彼女だからこそ、私の嫁入りに連れてきた。

 彼女は体力も物覚えも人一倍にある。しかし、理由はそれだけではない。同性であるがゆえに、私の立場も考えも理解できる点が、従者に選んだ最たる理由だった。

 これが爺やや、武闘派の執事なら私の言葉を却下し、私を無理やりでも寝かせただろう。


「ニナさま、ご用意ができました」

「ありがとう」

 アニータが選んだ、生地の薄い緑の夏用ドレスに袖を通す。

 しっかりと髪を結い上げ、化粧で顔色を隠した。

 出口の前に立った瞬間には、もう私は戴冠式で倒れた女性ではない。タジラ王に謁見する妃だ。


 アズラク公国の宮殿は広い。

 故郷の城も、そこそこの大きさがあった。しかし、縦に長く、改築と増設を繰り返し複雑な構造をした故郷の城と、今いる宮殿は全く異なる。

 まず、設計の時点で完成されていること。もちろん、多少の改造はあるだろう。しかしアズラク公国の宮殿に不格好な改築の跡は見受けられない。

 次に、面積が広く平屋が多い点。広大な敷地面積を利用し、無為に階数を重ねることはない。王が住まう建物や、政治の場は多少階数があるものの、それが6重にも7重にもなることはない。

 そのような宮殿は、巨人の家かと思うほど天井が高く、どこまでも同じ形の太い柱が支えていた。

 レンガで組んだ壁に、石灰石を塗ったつくりの宮殿は、どこもかしこも真っ白。反射される陽光にめまいがしそうだ。けれど私はしっかりと両足で体を支える。

 太陽はすでに高い位置に。王様は公務でお忙しいだろうか。すでに宮殿の兵を利用し、私が向かうことは伝えてあるが、実際に会えるかは怪しいだろう。

 とはいえ、自室のベッドの上でのうのうとしていることは許されない。


 広間に差し掛かったところで、ふと私は足を止めた。

 そこに故郷の影があったからだ。

 それは大きなクロス。本来ならば、テーブルにかける布として使用される。しかし、芸術性の高いクロスは絵画のように飾られることも多い。

 目の前のクロスも、敷布としてよりも飾ることを目的としている。職人の手で丁寧に織られた布に、翡翠やガラスをちりばめ、故郷の森と水の風景を表している。それが広間の最も目に付く場所に飾られていた。

 思わず視線で舐めるようにクロスを眺める。

 故郷がそこにある。

 私の目に、耳に、鼻に、故郷の情景が浮かぶ。


「あら、もう起きたのね」

 しかし、鋭い声が、私の望郷をかき消した。

 振り向いた先。赤い鱗を持った女性が、冷たく私を見ていた。

 タジラ三世の従姉にあたる、ワルダ・ゴルドバークだ。

 彼女の父は鱗人の貴族。その血を濃く引いているらしい、赤い鱗に切れ長の目、こちらを値踏みする視線。

 気おされそうになる私だが、ここは自分を奮い立たせる。

「ワルダさま、先日はご心配とご迷惑をおかけし申し訳ございません。後ほど改めてご挨拶に伺います」

 今はタジラ王への謁見が優先される。私とアニータはお辞儀をし、立ち去ろうとした。

「まあ」

 しかし、ワルダはくすりと笑った。彼女に仕えている従者がそれとなく私たちの進行を阻む。

「挨拶だけで立ち去るだなんて、他人行儀でなくって?私たちはもう親族なんですもの」

 ワルダは口角を上げ、ちろりと真っ赤な舌を見せる。

「ありがとうございます。そのようなお言葉をもらえるとは夢にも思わず」

「うふふ。夢でなく現実よ?ここは」

 くすくす、と嘲笑が従者にも広がる。

「それとも、森と山だけのグランしか知らないあなたからすれば、アズラクは幻にしか見えないかしら」

 ワルダは笑みを耐えるように、ゆるりと指先で口元を抑える。赤い鱗に映えるような、金と黒のドレスが擦れた。

「でも、夢見がちなあなたも、アズラクの景色を見れば現実が理解できるわ」

 指先で遠くに見える景色を撫でる。

「宮殿も市外も海も。そして全てを支えるテフス河も」

 テフス河。アズラク公国を支える大河だ。

 アズラク公国ではそれを、貿易のための巨大な水路として、また農業用水や生活用水として利用されている。

 私も母国からこちらへ向かう際に、テフス河を船で下ってきた。砂漠地帯では分岐するため一部枯れ陸路をたどることもあるが、それでもアズラク公国へそして海へ流れてゆくその姿は、大河と呼ぶべきだ。

「船に乗ったことはあるかしら?海風を感じながら、果物をつまむの。侍女を踊らせるのもいいわ。隣には殿方も並べて」

 ご経験ないかしら、とこくびを傾げ目を細めた。


「あなたっ」

 アニータはそれ以上は許せないと食って掛かった。

 私が狭い世界しか知らない、無知な存在だと侮辱されることを看過できなかったのだろう。

 しかし限界が来た彼女を、私は制す。アニータの肩を軽くなで、落ち着かせた。

「アズラク公国では、なにもかもが初めてですの」

 私はにこり、と笑み保つ。

「乾いた空気、海の香り。白い宮殿は目が回りそうなくらい美しく、テフス河の大きさには一生分驚いてしまいました」

 けれど、と言葉を切った私に、ワルダは肩眉を跳ね上げる。

「初めてを知った分、故郷のすばらしさも再確認できました」

 私は背後のクロス、故郷の景色をかたどったそれを、そっと撫でる。

「こちらに参るさいに、テフス河を船で下ることもありました。ワルダさまは、テフス河を上った先に何があるのか、知っていらっしゃいますか?」

 ワルダは眉をひそめ、いいえ、と返した。

「グラン王国です」

 私はクロスの、青い清流を視線でたどる。

「グラン王国、私の故郷に積もった雪が解け、そのしずく一つ一つが集まり、やがてテフス河の大きな流れとなります」

 私はクロスからワルダへと、向き直した。

「ワルダさまにも、ぜひ、訪れていただきたいですわ。いまだ体験したことのない世界が、そこにはございますの」

 アズラク公国を支えるテフス河。その流れの源はなにか。

 あなたたちの国は、そもそも交易というものに支えられている。つまり、どのように巨大であろうと、諸外国の存在がなければ成り立たない。

 それを言外に伝える。

 私は笑みを張り付ける。


 私の言葉を最後に、場には静寂が流れた。

 数秒にも満たないが、その空白が私とワルダの会話に終止符を打つ。

 行きましょう。私はアニータと共に、ワルダの従者を退けるように進もうとする。

 しかし、彼女らは引くことはなかった。

 まだ用があるのか。いいや、違う。

 それが、故意に阻んでいるわけではない、と彼女らの表情が語る。

 目を見開き、硬直した体。たらりと全身を伝う脂汗。

 ジャラリ、私の背後で鳴る金属の擦れる音。

 振り返る。

 そこには、金の装飾に白く塗られた肌。タジラ王が、私たちを覗き込んでいた。

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