第11話 交渉

 グリッチノイズが掛かった目が一瞬だけ空洞に変わった。

 グリッチノイズが掛かった足が一瞬だけ痣だらけの生足に変わった。

 グリッチノイズが掛かった腕が一瞬だけ傷だらけの腕に変わった。

 所々遺体時の状態に変化させながら、バレリアさんは俺の直ぐ前までやって来た。

 ソファーや机などの障害物はお構いなし。

 やはりバレリアさんの身体は実体がなく、ホログラム映像のように透けているのだ。


「ソ、ソコンさん、急いで下さい。か、彼女の目、明らかに殺意が宿ってます」

「今やってるよ。えーと、『ムエレ』って何だ? ああ、『死ね』って事か」

「何、半笑いに成ってんですか! 絶望的じゃないですか! 交渉成り立つんですか、それ!」

「慌てんな。先ず、お前さんに何故取り憑いたかを聞く」


 ソコンさんは他人事だからなのか、相変わらずマイペースでキーボードを叩き、時折軽く頷いている。

 こちらからは見えないから、どんな形式のチャットで、どんな内容の会話なのかサッパリ解らない。

 グリッチノイズを纏ったバレリアさんは、今は止まって俺を見下ろしてるだけだが、蛇に睨まれた蛙状態で、全く生きた心地がしない。


「分かったぜ。お前さんに取り憑いた理由が」

「なんです?」

「取り憑くのは、誰でも良かったんだとさ」

「……何ですって?」

「この女は自分の殺人事件をもっと世界中に広め、犯人の残虐性を知らしめたいんだ。つまりお前さんから離れる条件はだな……」

「条件は?」

「仇討ちだ。この女を殺したマフィアに復讐しろってこった」


 ですよねー。

 犯人が、まだ捕まっていないって事で、見当はついてました。

 ハアー……違う理由を期待してたんだけどなあ……。


「出来るわけないでしょ! 俺、只のひ弱な日本のサラリーマンですよ! どうやって見知らぬ海外のマフィアと闘えって言うんですか! この幽霊、馬鹿じゃないですか?」

「そのまま伝えようか?」

「冗談でーす。僕、頼りないので無理ですって伝えて下さい。てか、復讐目的だったら何で直接呪わないんですか? わざわざ遠くの関係ない人間に取り憑くより、怨霊なら自分でマフィアに復讐した方が早いと思うんですけど?」

除霊師エクソシストが居るからだよ」

「エクソシスト?」

「昨日も言ったが、海外の方がデジタルスペクターの対策は進んでいる。アメリカには俺みたいなサイキックハッカーだけでなく、デジタルスペクター専門の除霊師が既に居るんだよ。数は少ないから金が掛かるが、デカイ組織のマフィアなら呼べるだろうな。だから迂闊に近づけないんだ」

「そんな……だからと言って俺なんかに頼んでも……」

「それにデジタルスペクターだからと言って、どんなパソコンにでも侵入できるって訳じゃないんだ。実は俺もよく分かってないんだが、何らかの規則や条件が有るみたいなんだ。だからセキュリティに引っかかる場合もある。噂では密かにデジタルスペクター専用のセキュリティも開発されてるらしいぜ。勿論、セキュリティが全く効かない例外的な奴も居るがな」


 無理だ。絶対無理だ。

 まず、見知らぬアメリカまで行って犯行の証拠を探し、事件を解決に導くのは不可能。仮にそのマフィアを見つける事ができたとしても、一瞬で返り討ちに遭ってバレリアさんの後を追うだけだ。こんな怖い怨霊でさえ立ち向かえない相手だろ。どう考えても俺では歯が立たない。気の毒には思うが、頼る相手を完全に間違っている。


「バレリアさんには申し訳ないですが、復讐は諦めてもらって成仏してもらうのが良案だと思います。ソコンさんの知り合いにデジタルスペクターを除霊できる、一流の霊能者さんは居ないんですか?」

「……該当する霊能者を一人知っている」

「本当ですか? その人、紹介して下さい」

「悪いが正直、気が乗らねえ。それに、めちゃくちゃ法外な金額を要求してくるぞ。お前の全貯金、八十三万じゃ足りないかもな」

「な、何で俺の貯金額を知ってるんですか?」

「モバが銀行からデータを持ってきた」

「なに勝手に人の通帳を盗み見してんすかー!」

「知らねぇだろ。モバが勝手に――おいっ! ちょっと待て! 今の俺達の会話、バレリアが翻訳して聞いてたみたいだぞ!」

「へっ?」

「チッ。かなりお怒りだ。まずいな……」


 俺は、恐る恐るバレリアさんの方を見た。

 グリッチノイズがまるで爆発寸前の送電鉄塔のように、猛烈にスパークを繰り返している。

 凄い形相でこちらを睨んだかと思うと、顔の三分の一ほどグリッチノイズが掛かかり、次の瞬間その部分だけ骸骨に成った。

 いや、顔だけじゃない。

 手や足、胴体もグリッチノイズが掛かった部分は骸骨に成っている。

 そして更に異変が起こる。

 まだ朝なのに、辺りが段々と暗く成っていったのだ。

 数メートル先のソコンさんが闇に埋もれて見えなく成った。

 いや、もう自分の足元さえ見えない。

 見えるのはノイズに包まれた骸骨人間だけだ。

 その骸骨の両手が身動き出来ない俺の喉元に迫る。


「ソ、ソコンさん! 何も見えません! 首を締められそうです!」

「気をしっかり持て! 幻覚だ!」

「助けて下さいっ! 俺をソファーから動かして下さい!」

「動かしても一緒だ! ちょっと待ってろ!」


 どうする気だよ?

 交渉は決裂だろ。

 今から除霊師呼んでも間に合う気がしない。

 何か、何か策は無いのか?


 グリッチノイズがバレリアさんの顔全体に掛かり、元の顔に戻ったかと思ったら、彼女は血の涙を流していた。

 その顔からは悔しさが滲み出ている。


「バレリアさん……」


 次の瞬間、俺の首は両手で締められた。

 圧迫を感じる。

 思うように息ができない。

 こんなの幻覚じゃない。


「ソ……ソコンさん……い、息が、できません……」

「首を締められてると思い込んでるだけだ! 自分で息を止めてんだよ」

「そ……そんな……」


 だ、駄目だ。意識が遠のく。

 俺は、ここまでか……。

 どうせ、死ぬなら……どっちにしても死ぬなら、マフィアに向かって行って死んだ方がマシだったかな……。

 ごめんね。バレリアさん。

 ホント、役に立たない奴だな、俺って……。


 死を覚悟しながら意識が消えそうな時、突然ソコンさんの叫ひ声が耳に響いた。


「よしっ! 成功だ!」


 その声が聞こえた途端、喉の圧迫感が取れ、視界が元に戻った。

 俺は咳き込みながら辺りを見回したが、バレリアさんの姿はもう何処にも無かった。


「ど、ど、どうなったんです? バレリアさんは?」

「ああ、交渉が成立したんで帰ったんだろ」

「交渉が成立? 俺、何もしてませんよ」

「当たり前だろ。俺がモバに頼んだよ」

「モバに頼んだ? 何を?」

「マフィアの所からバレリアの殺害証拠を盗み出し、それを地元警察のパソコンにリークした。お望みどおり仇討ちをしてやったんだよ」

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