第2話 金曜の朝

「うーん、よしっ! 気分……最低……」


 窓からは爽やかな朝日が差し込んでいるのに、俺の心は鬱屈である。

 ずっと眠りが浅かったのだろうか、二日酔いみたいに頭がギンギン痛い。

 雨漏りでもしてたのかと思うぐらい、すげー量の寝汗がパジャマとシーツを濡らしていたので、とりあえずシャワーを浴びて着替える事にした。真夏でもないのに、こんな事は初めてだ。

 全く内容を覚えていないが、昨夜の夢はよっぽど嫌な夢だったのだろう。

 寝ながら魘されてる自分が想像できた。

 恐らく課長にしこたま怒られてる夢だろう。夢の中ぐらいは仲良くしたいものだ。

 そんな事を考えながら鏡を見ると、まるでタヌキみたいな自分の顔が写り、落胆する。


「うわー、目の下にクマが出来てるよ。何か言われるだろうな、これ」


 シャワー室から出た俺は冷蔵庫を開け、片手に牛乳パックを持ちながら机に向かった。

 昨夜、暗闇を照らしていた卓上のパソコンは、何事も無かったかのようにスリープ状態に戻っている。やはり何かの更新だったのだろう。一応故障じゃないかを操作して確認したが問題なさそうだ。

 朝のルーティンであるウェブニュースチェックと、エゴサで担当商品の喜びのコメントを見てニンマリしてからクローゼットに向かい、出勤準備をはじめる。

 皆から「派手過ぎ」と言われる、お気に入りの青と緑のグラデーションネクタイを締めてから、何時ものダークブルーのスーツをバシッと決めた。


「ではでは、何か頭ん中は今一スッキリしないが、出勤しますか」


 俺は支度を済ますと、一人暮らしの我が家に施錠をしてから会社へと向かった。

 入社から三年、最初は世間知らずでヘマばっかりしていた俺、穴戸あなどろくであるが、今では一人で担当地区を任してもらえる一人前の営業マンに成りました。

 俺は元々子供の頃、「何か人の役に立つ仕事がしたい」という漠然とした将来の夢が有ったのだが、血を見るのが苦手で医者に成るのは早々と諦め、体力が無いので警官や消防士に成る事も諦め、何やかんや悩んだ末、現在の健康食品会社の営業職に至ったわけである。

 この仕事も消費者の方々に長生きしてもらうという、立派な『人の役に立つ仕事』なので、俺は責任感と遣り甲斐をメラメラ燃やす日々を送っているので有りますが、一生懸命やっているとトラブルも多いわけで……。


「うおーい! 穴戸!」


 駅前の道路を歩行中、後ろから同期の長谷川に声を掛けられた。

 以前は毎日ように一緒に飲みに行くぐらい仲が良かった同期なのだが、あいつに彼女が出来てからは遊びに行く事もめっきり少なく成った。幸せそうで、ホント羨ましい。


「おっ! どうしたんだ? 目の下にクマなんか作って。あっ! まさか、お前もついに彼女が出来たのか?」

「なに変な誤解してんだよ。残念ながら、ただの睡眠不足だよ」


 俺は昨夜の件を説明した。

 長谷川は期待はずれで、つまんなそうな顔をして聞いていたが、いきなり何かを思い出すかのように「あっ!」と叫んだ。


「お前それ、ウイルスじゃないのか?」

「ウイルス? 確かに寝汗は酷かったけど、熱は無いし、風邪じゃないと思うぞ」

「バカ。そっちじゃない。パソコンの方だよ」

「パソコン? あー、コンピューターウイルスの方ね。大丈夫だよ。お前と違って変なサイト開かないし」

「分かんねえぞ。最近のサイバー犯罪は手が込んでるからな。知らない間にパソコンが乗っ取られていて、個人情報や会社の機密事項が遠隔操作で盗まれてるかも知れないぞ」

「やめてくれよ。そんな事に成ったら又課長に叱られるじゃないか」

「そう言えば、お前。昨日も課長と口論に成ってたよな」

「ああ。意見が合わなくてね……」


 うちの課長は利益至上主義だから、多くの消費者の方々に喜ばれたい顧客第一主義の俺とは、どうしても意見が対立してしまう。

 課長の考えは勿論わかる。利益が無いと会社は成り立たないし、俺達の給料も支払われない。けど、お客様有っての仕事なんだから、常に消費者の方々の立場に立ち、最初は損をしてでも信頼を得る事で仕事が増えたら自ずと利益も上昇するという考えを俺は絶対に曲げられない。子供っぽい考えかも知れないが、俺はやはり『人の役に立つ仕事』がしたいのだ。


「穴戸、お前このままじゃ出世できないぞ。納得できない事も上司には『ハイ! ハイ!』って言っとけよ。特に仕事の話ならな」

「そんなイエスマンだけで会社が本当に良く成ると思うか? 悪いが俺は会社の為にも上司の人が間違ってると思ったら意見するよ。たとえそれが社長や会長の発言でもね」

「おー、かっこいいねー。けど、それじゃあ何か有った時に助けて貰えないぞ。会社はどんなに足掻いても縦社会なんだしさー。たとえ仕事が出来る人間でも、お前みたいに反発ばかりする人間なんて、少しのミスでも切り捨てられるぞ」

「分かってるよ。それでも俺は、お客様第一に考えたい」

「けどな、なんだかんだ言っても上に立つ人は、それだけの実績や経験を積み重ねてきた人達なんだしさー……あれ? あれ高橋じゃないか? 何してんだあいつ?」


 長谷川の言うとおり、前方に経理課に配属された同期の高橋が居た。

 まるで有名なお寺に有る憤怒の仁王像のように、会社の門前で凄い形相をしながら佇んでいる。

 何か俺の事を睨めつけているようにも見えるが……。


「おはよー! 何してんだ高橋。こんな所で誰か待ってんの?」

「穴戸君。あんた、どういうつもりよ」

「えっ? 何の事?」

「しらばっくれないでくれる。あんなの送って来て……」

「いや、だから何の事だよ?」

「はあ? 間違って送ってきたの? まあ、いいわ。二度とあんな事しないでくれる!」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 何の事だか――」


 一方的に捲し立ててから去ろうとする高橋を追いかけようとしたが「気持ち悪いのよ! 近づかないでくれる!」と、一蹴されてしまったので俺はその場で固まってしまった。高橋はそのままツカツカと会社のエントランスの方へと消えて行く。

 俺は本当に高橋をそこまで怒らした原因が思い当たらず困惑した。

 そんな俺を見て長谷川はウンウン頷きながら、慰めるように肩を叩いてきた。


「穴戸、エッチなお店の領収証を経費で落とそうとしたんたな。一人で行っても接待費には成らないと、あれほど教えたろ」

「行ってねえよ。お前と一緒にするな!」

「なら何であんなに怒ってんだ?」

「マジで分かんない。何か経費の事でミスしたかな? また課長から何か言われるなー」

「睨まれてんだから、あんま詰まんないミスするなよ。まあ、怒られた後の愚痴なら俺が聞いてやるから」

「最近付き合い悪いくせに……」



 この日、特に何事もなく仕事は終わった。体調が思わしくなかったので珍しく残業をせずに早めに帰宅したのだが、帰る前に高橋に怒っていた内容を聞いておくべきだったと痛いほど後悔する事になる。

 まさか水面下で、あんな事が起こっていたとは……。

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