五章「家族」

 

 目的の家に着くと、桂はその前で、一つため息を吐いた。

「……よし」

 思い切ったように顔を上げると、インターホンを押した。


「――壊れてる、それ」


 その声に桂は心臓が止まるような錯覚を覚えた。

「……母さん」

「久しぶり」

 雨月奇江きえ

 彼女は、桂の母親である。

「……気配を消して人の背後に立つのはやめてくれよ」

「そんなつもりはなかったわ」

 そっけない口調。別に怒っているわけではなく、これが彼女のスタンダードである。

 クールビューティー。そう言えば聞こえはいいかもしれない。

 背が桂よりも高く、線が細い。年はもう随分いっているくせして、白いシャツにジーンズのパンツというカジュアルすぎるファッションを堂々と着こなしている。

「入りなさい」

「……うん」

 桂はおずおずと首肯した。


      Φ


 家の中に足を踏み入れた途端、桂は周囲の空気が一変するのを感じた。

 暖かい家庭なんて言葉があるけれど、ここはその真逆だ。冷たくて、無機質。立っているだけで、腹の奥底に重たい何かが圧しかかるのを感じる。

「……ただいま」

 桂は靴を脱いで、家にあがる。

 玄関の目の前には廊下があり、そこに二階へ続く階段がある。

 桂は階段の上の暗がりを見つめた。

「ユキに会う?」

「ああ、あとで」

 母親のぶっきらぼうな問いに、桂もまた淡白な口調で答える。

「変わったわね」

「え、何が?」

「あなたが」

「それはそうだろ。俺は前とは違う生き方をしてんだから」

「それを踏まえても、よ」

「?」

「何かいいことでもあったの」

 いいこと。

 桂には心当たりがない。

「恋人でもできた?」

「ぶっ」

 桂は噴出した。

 かなり古風なリアクションをしてしまった。純の影響だな、と桂は心の中で雇い主を非難する。

「ハルガちゃん?」

「……は、城咲? 何の話をしてるんだ母さん」

「……鈍感」

「何だって」

「変なところばっかりお父さんに似るのね」

「……あんまり嬉しくないな」

「あの人も同じことを言うと思うわ」

「父さんは?」

「仕事よ」

「そっか」

「帰りは九時ごろ。残念ね」

「別に。待つさ」

「あの人への用事のために来たの?」

「故郷に帰ってきたから、家族に挨拶で来たんだ。そんなに薄情に見える?」

「じゃあ、違うの」

「……まあ、もちろん、それもあるけど」

 桂はこめかみのあたりを掻く。

「父さんが遅いんじゃ、やっぱりユキに先に会おうかな」

「そう」

 桂は階段の方へ足を向ける。

「健闘を祈るわ」

「変なことを言うなよ……」

 桂は非難するような視線を奇江に送った。

 段差に足を掛けたところで、彼女は声をかけてくる。

「――私のこと、恨んでる?」

「……ううん」

 桂は少し俯いて答える。

「でも、に生まれたってことは――ちゃんと恨んでるよ」

「どちらも私にとっては同じことだわ」

「じゃあ、母さんは俺のことどう思ってるんだ」

「どうって?」

「【枝檻】を俺に渡したこと、後悔してるだろ」

「【枝霧】よ。『折る』なんて、刀の名前ではないわ」

 そう言ってから、彼女は改めて問いに答える。

「――いいえ」

「嘘だ」

「嘘じゃないわ」

「これはユキが持つべき――」

 奇江は遮るように言う。

「自惚れないで。その刀にあなたが相応しいと思ったから渡したわけじゃないわ。あなたにその刀が相応しいと思ったのよ、私は」

「…………」

「どんな道具に囲まれるかで人間の価値が変わるだなんて言った人がいるみたいだけれど、それがそもそもどんな道具であるかを決めるのは人間なのよ」

「……難しい話だな」

「そうね。私も自分が何を言っているのか全く分からないわ」

「いや……」

 あんたが分からなきゃこの話は迷宮入りだ。

 桂は呆れた顔をした。

 まあ、とりあえず。

 これは自分がいい母親を持ったということでいいのだと思うが。


      Φ


 階段を上りきって一つの扉をくぐった先にあったのは――ごくありふれた女の子の部屋だった。

 もっとも、桂にはそういくつも女の子の部屋というのを見た経験というのがないので、あくまで、彼のイメージの中にある女子の部屋と言うものに当てはめてそう思うのだが。しかし、たまに覗くことがあるハルガの部屋もこのような雰囲気なので、大体あっていると思う。秋島純の部屋は……例外だ。

 その部屋には名前も知らないようなファンシーなキャラクターの人形がたくさん置いてある。

 しかし、よく考えてみると、ハルガの部屋がこれと似たような趣だというのもどうなのだろうか、と桂は思う。ハルガは少女趣味が過ぎるところがある。桂は幼いころよくその趣味の巻き添えを被ったものだ。

 何はともあれ。

 そんなごく普通の部屋であるからこそ、その分そこにいる少女の、異様さが際立つ。

「あっ、お兄ちゃん。久しぶり!」

「よう」

 机に向かう一三歳の少女。


 その少女は――鎖に繋がれていた。


 その清潔そうな首元には無骨な首輪がかけられ、両手には三重に手錠がかけられている。

 雨月ゆき――彼女は桂と血の繋がった実の妹である。

 そんな露骨すぎる拘束状態にあって、彼女は何の疑問も抱いていないように無邪気に桂の来訪を喜んだ。

「わーい――あ痛てっ」

 桂の元へ駆けよろうとして、ユキは仰向けに転ぶ。首輪の鎖が駆け寄る途中で伸びきってしまったからだ。無骨な金属製の首輪が、彼女のたおやかな首に食い込む姿は痛々しいが、本人はそれを全く気にせずに、恥ずかしそうに笑った。

 荒唐無稽。

 そう言うと、不謹慎だろうか。

 とにかく、それは不安感を否応なく煽るような――異常だった。

 その異常を目にした後で、注視すれば部屋自体にも異様な点を見つけられるかもしれない。この部屋には、窓がない。それから、今桂がくぐってきたこの扉。彼はもう慣れてしまったが、これを見て違和感を覚える人間は多くいると思う。造り自体は、普通の扉なのだが、材質が一般的なものと違い、随分と重い。それから、それ以外にも一つ、この扉には普通ではない点がある。これは他と比べて気付きづらいものかもしれないが。

「前に来た時から半年くらいか。まだ出してもらえないんだな」

「そうなの。お父さんもお母さんもいじわるなんだよっ」

「そうだな。いじわるだ」

 桂は転んだユキに手を差し出す。

「ありがと」

 手錠が掛かっているために、両手を使って桂の手を掴む。

立ち上がると、ユキはそのまま桂に寄り添うようにしてきた。両手が自由なら抱き付いてきたのかもしれない。

「ほら、くっつくな」

「えー」

「いいから」

 ユキは不満そうな顔をして、やがて机に戻る。

 勉強の真っ最中だったようだ。

「何勉強してるんだ?」

「道徳」

「それ、家で勉強するようなものか」

「だってお母さんがやれって」

「へえ」

 桂はユキのそばまで行って机の上の教科書を覗き込む。

 そのページの真ん中にはひらがなで大きく『命』という文字が書いてあった。

「命のことをどう思う?」

「大切な物!」

 彼女は無邪気にそう答えた。

「そうだな。大切な物だ。簡単に奪っちゃいけないんだ」

 彼女は他の同年代の人間に比べれば精神年齢が随分と幼い。思えば桂も彼女くらいの頃にはそうだったのかも知れない。それは世間というものから隔絶された環境で育ったが故の結果だ。

「って、こんなつまんない話はしたくない。止めよう」

「つまんなくないよ。お兄ちゃんと話しているだけで楽しいもん」

「……ははは、ありがと」


      Φ


 好きなテレビ番組とか、そういう与太話をしばらくした後、ユキは切り出した。

「いつになれば出してもらえるのかな」

「んー、いつだろうな」

 自分はどのくらいだったか。

 そういえば、この部屋を出て、しばらくの間は同世代の話題についていけなかった。どころかコミュニケーション自体が上手くいかなかったことなんてザラだ。

「まあ、良い子にしてればいつか出してもらえるよ」

「良い子にしてるよ? 私」

「そういうのは自分じゃなくて相手にそう思ってもらえないとダメなんだ」

「えー。難しいよ、そんなの」

 桂は微笑む。

 この少女には想像できないだろう。それは裏を返せば、相手にこうだと思われていれば、自分が自分自身のことをどう思っていたって――あるいは自分がどのような人間であったって――関係がないのだ。ユキが桂のことを優しい兄だと思っているように。ハルガが桂のことを世話の焼ける弟のように思っているように。そしてそれから、純が桂のことを信頼に足る人間だと思っているように。

「私、他の子と違うの?」

 不安そうな顔をして、ユキは言う。

「いや、変わらないよ。お前は普通の女の子だ。ただ、ちょっとお父さんとお母さんが変なんだ」

「パパもママも変じゃないよ!」

 ユキは声を荒げた。

「だって、優しいもん!」

「……そうだな」

 桂は柔和な笑みを浮かべてそう言った。

「大丈夫、きっとすぐ出してもらえるさ」

「うん!」

「じゃあ、俺、もう行くよ」

「え、もう行っちゃうの」

「うん。そろそろ父さん帰ってくるみたいだから」

「……寂しい」

「……ごめんな」

 桂は本当に申し訳なさそうに言う。

「ほら」

 手を広げると、ユキは桂の胸元に頭を寄せる。

 それをそっと抱きしめるようにした

「あ……お兄ちゃん、イイ匂い……」

「じゃあな。ここ、すぐに出してもらえるといいな」

 桂はそう言って、ユキから離れる。彼女との別れ際にはいつもこうするのが決まり事だった。

 そういえば、この間純を介抱したときに、自分が自然と純を抱きしめるなんて行動を取ってしまっていたことを疑問に思っていたが、思えばあの時、桂は純をユキと重ねて見ていたのかもしれない。

「うん。お兄ちゃんも元気でね」

 妹に見送られ、桂はその部屋を後にした。


      Φ


「――どうだった」

 部屋の前に奇江が立っていた。

 しかし、そんな言葉に耳もくれず桂はその場に膝をつく。

 そして、彼は――嘔吐した。

「あら、酷い有様ね」

「駄目だ、耐えられない、あんなの」

「そう」

 奇江は苦しそうにする桂に冷たい口調で言い放つ。

「あなた、本当に普通になったのね」

「…………」

「それとも、それは空気に当てられて〝返りそうに〟なるのを必死にこらえてたからなのかしら」

「……実の息子をあんまりいじめるなよ」

「親は子供をいじめるものよ」

「何だそれ……」

 奇江はあらかじめ用意していたらしいタオルを桂に手渡した。

「三二回」

 口元を拭いながら桂は言った。

「何の数字」

「ユキに殺されそうになった数」

 桂は振り返って扉を見る。

 その扉の異常。

 それは廊下側のドアノブに鍵を回す部分があるということだ。

 この家を取り巻く息の詰まるような空気。それらは全てこの部屋――この部屋の中にいる人間から、発せられている。こうして出てきてから改めて眺めると、桂にはその扉が、この世ならざる場所へ通じる扉であるようにさえ思えた。

「命を奪っちゃいけないと言った時、あいつは本当に不思議そうに首を傾げてたよ。命は大切とか言っておきながら……」

 彼女は――幼い一人の〝殺人鬼〟は――他人の命を軽んじているから、桂の言葉に理解を示さなかったのではない。むしろ、彼女自身の言葉通り命のことを大切には思っている。だが、そこには大切なものを弄んではいけないという論理が決定的に欠けている。

「自分の〝力〟を自覚しなきゃ、人は本当の意味でそれを制御することなんて出来ないわ。でもあの子はまだそれをしていない。今のあの子にあるのは衝動だけ。衝動――欲のために知恵を働かさず、ただ、いたずらに目の前のエサに手を伸ばす。あなたのように欲そのものをどうこうしろとまでは言わないけど――抑える手立てくらいは憶えてほしいものね」

 珍しく饒舌な母親の言葉に、桂は息を整えながら耳を傾ける。

「人を殺すのが〝殺人鬼〟。どうしたって人を殺せば自分のためになる。でも、自分のためだけに殺すというのはいただけないわ。大義名分がない。それじゃ、本当の鬼だわ。意志を持たない、冷たい存在。あの子――ユキは自分自身の衝動と向き合わなければならない。あの人と出会って変わることが出来た私のように。あの人がいなければ、私はただの化け物だった。今でも私が〝鬼〟であることには変わりない。でもね、自分と向き合うことが出来た私は、同時に人間でもあったんだわ――」

 奇江は階段の方へ一人で歩いて行ってしまう。

「あなたたちには私のようにはなってほしくないのよ――〝鬼〟の道を進んでほしくない」

「……〝殺人鬼〟が〝鬼〟の道を歩かないなんて、そんなのおかしな生き方だよ」

「ふふ、でもあなた、もう手遅れじゃない」

「そうだよ。だから、こんなに痛い目を見てる」

「後悔はしないの」

「後悔は、後になってからするもんだろ」

「でも、もう後がないんじゃない? あなたには」

「……まあ、そうかもね」

 やっぱり見透かされてるな、と桂は思った。

「ユキだけど」

「何?」

「最後抱きしめたときだけ、俺を狙う手が止まった」

「ふうん」

「少しはマシになってきてる」

「そう。じゃあ、そろそろ出れるかもね」

「そうなることを祈るよ」


      Φ


 リビングでクッキーをつまんでいると、玄関の方で扉の開く音がした。

 しばらくして姿を現したのは、背が高く、がっしりとした体格の男性だった。見た目は四十代後半といったところだろうか、その目元には年期の入った皺が刻まれている。

「――おう、クソガキ。帰ったか」

 ボリューム調整を間違えたかのようなよく通る低い声。慇懃という言葉の対極にありそうな、乱暴でぞんざいな口調。

 振り返った桂と彼の目が合う。

「……おかえりっていうべきか、ただいまっていうべきか」

 桂は視線を、気まずそうに逸らした。

「とりあえず久しぶり――父さん」

「……ああ」

 彼の名前は――雨月ぜん

 桂の父親である。


      Φ


「今日はスーツなんだな」

「ああ。俺がスーツを着ちゃあ悪いか」

 黒のジャケットの下に、群青色のカットシャツ。ネクタイはしておらず、ボタンを上から二つ開けていて、しかも、そんな格好をこの目付きの悪い三白眼の壮年がしている。それを見て、桂は何度言ったか分からない台詞を口にする。

「本当にガラが悪いよな」

「なんでぇそりゃ、ほめてんのか?」

 かかか、とゼンは笑う

「積もる話……なんかねえやな――お前が来た理由は分かってる」

 無精ひげの生えた顎を撫でながら、ゼンは試すような視線を送ってくる。

「潜入は出来たのか」

「ああ。一応ね」

 桂は一つため息を吐く。

「思ってた以上に変なとこだよ。あそこは」

「秋島純。可愛いだろ」

「……やっぱり知ってたんだな、女だって。何で教えてくれないんだよ」

「教えてって言われなかったしな。で、どうだ? 目の保養だろありゃ」

「……別にそういう目では見てない」

「あん? 本当にテマエはつまんねえ男だな。全く……ハルガみたいな上玉がすぐそばにいても出さないしよ」

「あいつは俺の幼馴染だ。変なこと言うなよ」

「お前も成人したんだ。生の女の裸の一つくらい見といた方がいいぜ」

「……エロオヤジ」

 突然、何かがゼンと桂の間に降ってくる。

 机の上にはその名に恥じない立ち振る舞いっぷりで、一本の万能包丁が突き立っていた。

「――変なこと教えないで」

 キッチンの方から奇江の声。

「冗談だよ」

 怯える素振りも見せず、ゼンは肩を竦めた。

「……父さん。それで、俺はこの後、何をするべきだ」

「『何をするべき』ね」

 ゼンはソファの背もたれに深く腰掛け、足を組む。

「それなんだがな。あとはお前の判断に任せる」

「は?」

「最終的なオーダーは伝えてあるはずだ。あとは自分で考えて行動しろ」

「だけど」

「だけども何もない、テマエももう立派な一人のプレイヤーなんだ。いちいち何かをするのに他人の指示を待つな」

 ゼンは言った。

「お前は兵隊じゃない、そうだろ」

「……まあ、そうだけど」

「納得してないツラだな」

「正直、困惑してる」

「俺はお前の価値を今問うてる」

「…………」

「俺の息子なら、道の一つや二つ自分で切り開け。その道が最高の結果になるか冴えない結末になるかは、知らねえけどな」

「無責任だな」

「責任なら、お前を送り出した時点でとっくに果たしてる」

「……」

「もし出来ないっていうなら、俺に連絡を寄越せよ。まあ、ケツ拭いくらいならしてやらないこともないさ」

 かかか、ととても大きな声でゼンは笑った。


      Φ


「じゃあね、母さん」

「ええ」

 桂は玄関で靴を履きながら、突然思いついたように訊いた。

「そういえば母さんは父さんのどこに惚れたんだ」

「急にどうしたの」

「いや、よく考えると、タイプ的にあまり合いそうじゃないなと思って」

「……そうね。最初は嫌いだったわ。あの人のこと」

 さらっとそんなことを言う。

「昔はすごかったのよ。何て言うか錆びだらけで刃こぼれだらけのよく切れる包丁みたいな人だったわ」

「どんな奴だそいつは」

「私はね、さる筋の組織からあの人を殺す依頼を受けた。で、殺そうとしたらあの人に求婚された」

「え?」

 何だか驚くべき個所がいくつもあって、茫然としてしまった。

「さすがの私も戸惑ったわ。あのころはまだ若かったしね。それで、私はあの人を殺し損ねた」

「失敗したってことか……。で、その組織ってのに追われたりしなかったのか」

「ええ、もちろん制裁を受けそうになったわ。でも、そしたらそこ――あの人が潰しちゃった。跡形もなく、ね」

「……」

 もう何が何だか、と言う感じだった。

「私の印象としては、気付いたら結婚してたという感じよ。だから、どこに惚れたかと言われると、正直分からないわ。空気に流されたとしかいいようがない。でもね――」

 一拍置いて奇江は言った。

「私は、後悔はしてない」

「……そうか」

 桂は静かに頷いた。

「とりあえず、じゃあ俺は父さんに感謝くらいはしなきゃかな」

 桂は、自分がもっと違う形で自分が生を受けていたらと何度となく思った。

 物事に何らかの意味を求めたがるのは自分が〝弱さ〟に生きていることの証左だろうか。彼は、自分が自分として生まれたことに何か意味があると、多分信じたいのだ。それを信じることで、自分という奴のことも信じてやりたいのだ。

 だけど、彼は今迷っている。彼にはもう、最良の道が見えている。なのに、彼はその道を選び取ることが出来ない。

 毒されたというしかない。彼はもどかしく思う。そして、彼女のことを恨みがましく思う。自分がこんなにも迷わなければならないのは間違いなく秋島純と言う少女の所為だ。


 だって彼女は、桂に〝悪〟という道の存在を教えてしまったのだから。


 桂は、迷う。

 迷うことが苦しいことだなんて、あの頃の彼は知らなかった。

「……本当何もかもあいつの所為だよ」

 そして雨月桂は譫言のようにそう呟いた。


      Φ


 ここは桂とハルガの家。

 彼は真っ暗な部屋の中で目を覚ました。

「……眠れない」

 ここのところ、こういう日が続いている。

 寝ようとしても、色々なことを考えてしまって、どうにも落ち着かないのである。

 彼は身体を起こして、窓の外を見やった。

「……ふう」

 何故、自分はこんなロマンチストみたいな真似をしているのだろう。

 父親に言われたこと。それが桂の悩みの種だ。

「最初からそのために秋島に近づいたんじゃないか……俺は今更何を悩んでるんだ」

 その時だった。

 桂の部屋の扉が勢いよく開いた。

「――ただいま、桂」

 扉の向こうにはハルガがいた。

「お、お帰り」

 身じろぎながら、おずおずと桂は返事をする。

 ハルガはスーツ姿だった。つい今し方帰ってきたばかりのようだ。しかし、何だかいつもの彼女より、妙に迫力みたいなものがあるように感じる。

「……どうした城咲、何だってそんな乱暴に扉を開けるんだ」

 ガチャリ。

「……何だって鍵を閉めるんだ」

 すると彼女は大股でハジメの元へ近づいてくる。

「な、何!? 何だよ!」

 ベッドの前で立ち止まるかと思いきや、彼女はそのままの勢いでベッドに飛び込んできた。

「痛ってえっ!」

 桂は彼女に突進され壁に頭をぶつけた後、そのまま横に倒れた。

 狙いすましたように、ハルガは桂の上に馬乗りになっている。

「桂さん」

「は、はい」

「私はね、心配なのです」

「な、何故敬語……?」

「桂は少し前までとても悠々自適な生活を送っていました」

「そうかな」

「毎日夜遅くまで漫画を読みふけっては次の日の昼過ぎに起き、何日かに一度、稼ぎに行くと言ってふらっと出ていく。そんな自堕落な生活を送っていました」

「…………」

 そういえば、そうだったかもしれない。

 非常に申し訳ない。

「しかし、桂は変わりました。夜一一時には寝て、朝八時には起きる。まるで社会人のようです。私は嬉しいです」

「城咲……もしかして、酔ってる?」

 桂は恐る恐る指摘する。

 すると、ハルガは案の定、暴れ出した。桂の上に乗ったままで。

「もーっ! 私は飲めないって言ってるのにぃっ! 馬鹿あっ!」

「ごめんなさい」

 何故か謝る桂である。

 今年ちょうど二十歳を迎え、慣れない酒に泥酔している彼女は再び敬語に戻った。

「……でも、やっぱり心配なのです」

「……どうして」

「最近、桂はとても思いつめた顔をしています」

「…………」

「私は小さい頃からずっと桂の面倒を見てきました。血の繋がっていないお姉ちゃんです。もっとも、最近は君が私を姉としか見てくれないことに悩まされていたりしますが」

「な、何を言ってるんだ」

「うふふ、乙女の秘密です」

 駄目だ。完全にデキあがっている。

「とにかく、心配なのです。私は桂がかわいくてしかたがないのです」

「城咲……」

「そう、桂は、とてもかわいいです。とても――とってもかわいいです。どのくらいかわいいかと言うと、食べちゃいたいくらいかわいいです。桂はきっとおいしいです。違いありません。だからもう食べちゃおうと思います」

「止せ。正気か」

 桂は抗議の声を上げた。

「いただきまーす」

 しかし、その制止をもろともせず、彼女は倒れ込んでくる。

「うわっ」

 軽く悲鳴を上げる桂である。

 食われた、と思った。

 桂はしばらくその場に硬直していたが、やがて耳元にすやすやという寝息が聞こえてきて、それで彼はようやくハルガの様子を窺った。

「城咲?」

 どうやら、眠ってしまったようだ。

「……全く」

 何故、酒に強いわけでもないのに泥酔するほど飲んでしまうのか。

 桂はそのまま彼女を自分のベッドの上に寝かすようにした。

「俺も、お前に心配はかけたくないよ」

 桂は優しい目をしてハルガの頭をそっと撫でる。

「分かったよ、父さん。俺は――」

 そして、彼はゆっくりと彼の決意を言葉にした。

「俺は【悪の此岸】を潰す」


      Φ


 都内某所にある、テナントビル。

 その地下一階にあるコンクリートが打ちっぱなしにされた部屋で彼は絵を描いていた。

 その寂れた空間に、いかにも好青年らしい顔付きをした彼はあまり似つかわしくない。

「――ミコト、仕事だ」

 そこに彼――ミコトとは別の人間の声が響く。

 扉を開ける音さえなく現れたのは、一人の男。

 男は【篝火】の下っ端で、何度かミコトとも顔を合わせていた。

「あなたは、ええと」

 聞き覚えのある低音の声。

「松山さん?」

「ああ。いつもながら思うが、何故毎度そんな確認するようなことを言うんだ」

「いえ、こちらの事情ですよ。お気を害してしまったならごめんなさい」

 ミコトは微笑んで、立ち上がる。

「ここでは表のお客さんも来ちゃいますから、どうぞ奥の部屋へ」

「いや、ここでいい」

 松山は即答した。

「手短に話したい」

 言われてミコトは再び描きかけの絵の前に座る。

 しかし、松山がミコトの申し出を断るのには他に理由があるように見えた。

「分かりました。今お茶を出します」

「それもいい」

 これもまた松山は即答する。

 まるで、ここにいることそれ自体も嫌がっているようだった。

「……あなたは」

 ミコトはあくまで笑みを崩さないまま言う。

「僕のことが嫌いなんですね」

「……」

 彼の問いに男は答えなかった。

「……まあ、いいです。慣れてますから」

 ミコトが描いたの絵を見た人間は皆、一様に不快感を示す。

 彼は自分の見ている世界を他人に共有させることに長けている。それは表現者としては必要な才能だ。しかし、彼の場合、それが過剰すぎた。

 何故なら彼は、

 目の前の男も、例外ではないだろう。だとすれば、こんなところに長居したいはずもない。

「九軒自然公園を知ってるか」

「ええ、一度絵を描きに行ったことがあります」

「数日後、秋島純がそこに現れるらしい」

「……ふむ」

 つまり、仕事の内容は先日と同じ、ということか。

「どこからの情報です?」

「それなんだがな」

 松山は少しどもる。

「【悪の此岸】内部からの情報らしい」

「? どういうことです」

「内部分裂、ということじゃないのか」

「罠の可能性は?」

「それもあり得るとは思うんだがな。組織では信頼することに決めたらしい」

「どうして」

「龍様がそうおっしゃってるからさ」

「……へえ、あの人が」

 ミコトは考えるような仕草をする。

「まあ、あんまりそのあたりを詮索しすぎるのは良くないかも知れないですね。どちらにせよ僕は言われた仕事をするだけですよ」

「前回のような失敗は許されないぞ」

「ははは、痛いところをつきますね。分かってますよ」

 ミコトは肩を竦めて言う。

 それから、急に真剣な顔になる。

「……彼もいるのだろうか」

「彼? 何の話だ?」

「いえ、何でも」

「おい、ミコト、何か報告していないことがあるのか」

「ありませんよ、そんなものはない。僕はジャージ姿の女にあえなく敗退して撤退した。その報告に誤りも偽りも存在はしません」

 彼は嘘をついた。

 彼がここで『雨月桂』という名前を男に報告していたなら、この後の結末はまた別のものになっていたかもしれない。

「とにかく、仕事の件は了解しました」

「……そうか」

 怪訝そうに言って、松山はミコトの部屋を後にしようとする。そんな彼の目が、不意にミコトの描いていた絵に留まった。

「その絵……」

「どうかしましたか」

「お前の描く絵はどれも気味が悪いものばかりだったが、なんというか――」

「なんというか?」

「変な言い方だが――ちゃんと、怖い絵だな」

 ミコトはにこりと笑う。

「そうですか」

 松山は部屋を立ち去った。


      Φ


「……ふう」

 再び一人になってからしばらくした後、ミコトはふいに立ち上がった。

「せっかく集中していたんだけどな」

 そう呟いて、彼は部屋の奥にある扉に手を掛ける。そこに立つと、油絵の具の独特な匂いに微かに薬品の匂いが混じった。

 彼は扉を開ける。

 その部屋の壁沿いには、いくつもの大きな瓶が並んでいた。

 多くの人間はこの光景に目を覆いたくなるだろう。松山という男がこの部屋に入るのを渋った理由がこれだ。


 ――それらの瓶の中にはミコトが持ち帰った数百という人間の生首が漂っていた。


 ミコトはその部屋の中央に一つだけ置かれたイスに腰かけた。そして、ぼんやりと、瓶の中の彼らと視線を交わらせた。

 視線を横に移動させていくと、一つの姿見が設置してある。

 彼はその姿見の中に映る自分と、瓶の中の首を交互に見比べ、自嘲気味な笑みを浮かべた。

 彼はたしかに客観的に見れば猟奇的な人間ではあるのだろうけど、しかし単に猟奇趣味によって、こんなふうに人の生首を並べているわけではない。その証拠に、彼は自分の行為の気味の悪さを認識している。

「まあ、自覚した上でやってるってのは、それはそれで不気味ってことでもあるのかな」

 そこに漂ういくつもの表情たち。

 なかには凄惨な死を遂げた悲痛なものもある。一度見れば、目に焼き付いて、夢に出てくるような顔。

しかし、彼はそれらの顔の一つ一つを区別すること出来ない。

 

 彼の抱えている障害は、相貌失認症という。


 彼は先天的に、人の顔と言うものを認識できない。故に、彼は生まれてこの方、人の顔というのをを記憶出来たことがない。それが仕事上、何度も顔を合わせるような相手であったとしても例外ではない。

 彼は人物を描く。そして、彼の絵を見たものは皆、言いようのない不快感を覚えた。何故なら、そこにあったのは決して人物画などではなかったからだ。それは人間などでなく風景だった。人間がそこに立ってこちら側をじっと見つめる風景の絵だった。

人間が人間としてあるためにもっとも必要なもの――顔。それを彼は認識できない。それを認識できないから、彼は人間を認識できない。

彼は、人間を描くことが出来ない。

彼は人を人だと思えない。そして、奇しくもその感覚は、彼が表現者であるがゆえに、彼の瞳を通して、他人へと伝わってしまう。

人を人とも思わない彼を、人はいつしか【死神】と呼ぶようになった。

「……はは」

 彼は壊れたように笑う。

 笑う、という表現が他人にどんな印象を与えるのか――彼はそれを知識としてしか知らない。彼の笑みは――人間に対する憧れと劣等感の残滓だ。笑うことは温かいことだ。人間味にあふれる顔だ。だから、彼は笑う。しかし、彼は知らない。常に笑みを浮かべ続けるということは、帰って不気味なイメージを他人に植え付けるのだということを。

 ――【死神】。

 彼がその名の通りに生きるようになったのはいつからだったろう。

 彼は人間を認識出来ない。

 鏡に映る自分の顔でさえ、例外ではなかった。

 彼にとって、彼は人間ではなかった。

 彼にとって、彼は生きてはいなかった。

 だから、彼は人間であることを放棄し――【死神】になった。

 しかし。しかしだ。

 彼は思い出す。

 一人の青年の静かで鮮烈なあの表情。

 あの顔を、彼は忘れないだろう。

 だって彼はその顔をみて、怖いと――確かに思ったのだから。

「雨月桂――」

 彼は、彼を――彼の生を取り戻さなければならない。

 彼は世界を取り戻さなければならない。

 彼にとって初めての――〝顔〟。

 その持ち主は彼に何を与えてくれるだろう。

 生きることが出来ないがゆえに、自ら命を絶つことすら出来なかった彼に、何をもたらしてくれるのだろう。

「彼に――」

【死神】は呟く。

「彼に殺されるなら、きっと素敵だ」

 ほどなくして、彼は雨月桂という青年に殺されるために、彼を殺しに行くことを決めた。

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