四章「秋島純」
「――よう雨月くん。おっはー」
何度となくくぐった扉の向こうから、けろっとした顔をして、秋島純は飛び出してきた。
「…………」
「実に一日ぶりだな。傷の方はどうだい?」
「まあ、体を酷使したからな。痛いところはそりゃあるよ」
「そうか。じゃあ、今日は無理はしないようにな」
「ああ。……って、おい、秋島」
桂は唖然として、純の左目を指差した。
「お前、目は……?」
「ん? ああ、これ? 治った」
さらっとそんなことを言う。
三日前、純の顔に付けられた傷が――綺麗さっぱり消えていた。傷痕すらなく。
「いや、治ったって……そんなわけないだろ。眼球に傷がついたんだぞ」
「まあ、それが僕の【異能】だからね」
「【異能】? そうか、じゃあ、お前の【異能】は〝傷が再生する能力〟ってことか?」
そういえば、ミコトが彼の能力を再生だと断定した純にむかって『そう思いたくなる気持ちは分かる』といっていた。あれはつまりそういうことなのだろうか。
「ん、まあ厳密には違うのだけどね。似たようなもんさ。説明の難しい胡散臭い能力だ」
純が部屋の中を指差す。
「まあ、とりあえず入りたまえ。今日も一仕事頼むぜ」
Φ
「なあ、秋島、訊きたいことがあるんだけど」
「何だい?」
桂は短刀直入に訊いた。
「あの【死神】――ミコトってやつ、どうしてお前のことを追ってたんだ」
「ん? んー」
純は書類の束に目を通しながら、適当に返答してくる。
「今は話したい気分じゃない」
「…………」
随分おざなりなはぐらかし方である。しかし、何の躊躇いもなく返された答えである分、問い詰めづらい。
「……そうか」
桂は質問を続けることをやめた。
まだ一か月も経っていない付き合いで、既に桂は、こういう時に純が絶対に口を割るようなタイプではないということを知っている。
彼女は気分屋だ。言いたくないときには何も言わない。しかし、逆に言えば、何気ない瞬間にとんでもなく重要なことをさらりと口からこぼすこともある。
彼女は、桂にとって到底理解できないような生き方をしている。他人や世間のことなど興味がないのではないかと思うほどに、あまりに気ままで、あまりに飄々としているのだ。
時折、桂は彼女が自分自身のことにさえ関心を持っていないのではないかと思うこともある。とはいえ抜かりない奴ではあるので、その口こぼした内容も、大抵が桂のような相手を化かすために意図されたものであったりするのだが。
ともあれ、彼女の――目に見えない何かを茶化し続けているような態度には変わりはない。
一体彼女はどんなふうに生きて、それから、どんなふうに考えて――ここまで来たのだろうか。
秋島純の隣にいると、否応なく、そんなことを考えさせられる。
「――秋島、コーヒー淹れるか」
「ん。頼むよ」
「砂糖とミルクは?」
「今日はどっちもナシで」
この間はスプーンで四杯分も入れていた。
「分かった」
桂はキッチン入ってお湯を沸かしはじめた。
「――砂糖は……なし、と」
シンクの上の棚からインスタントコーヒーを取り出しながら独りごちる。
神を味方につけるのと、神が味方するという言葉は、同じ意味ではあるのだが、しかし、ニュアンスというのがやはりあるな、と桂は思うことがある。それもまた、秋島純を見ていて思うことの一つだ。要は積極性の話である。
彼女は有体に言って恵まれていると思う。これまで一緒に過ごしてきて分かったことだが、彼女は何しろハイスペックなのだ。だから、もしも、その近くに神様なんてものがいるのなら、果たして、どちらなのだろうか。彼女は自ら神様に言い寄って、秋島純というクオリティを手に入れたのだろうか。
――僕は別段恵まれているという訳ではないよ。
以前、桂が純にそんなことを直接話したときに、彼女自身が言っていたことだ。それは謙遜ではなく本当にそう思っているようだった。
――だが、そう思えることが、あるいは僕は恵まれているということなのかもしれないな。
思えば、その口ぶりは桂が本当に言いたかったことを理解していたのかもしれない。
彼女の近くには、いつの間にか神様がいたのだ。
優秀と呼ばれるような人間になりうる可能性は十二分に秘めている――やろうとすれば、大抵のことを卒なくできてしまえる彼女は、しかし、それでも【悪の此岸】という組織を自ら立ち上げ、その中に身を置いている。【悪の此岸】のことを甘く見ているわけではない。しかし、それでも桂は『甘んじている』とそう思うのだ。
どんなものでも手に入れられるというのに、今更いったい何にこだわる。
ただ、それもまたある種、彼女らしさなのだと思う。彼女は、価値の基準がそもそも人とは違う。
彼女はそう――変わり者だ。彼女は上を目指さない。栄冠の輝きに手を伸ばさない。ひたすらに、自分の目指す方向を目指すだけなのだ。良いか悪いかで言えば悪い。しかし、〝悪〟という言葉が彼女は好きなのだから問題はない。
つまりはやはり、先ほどの桂の思考は正しかったということなのかもしれない。自分自身のことになど興味がない彼女だから、近くにいた神様のことなんか余計に眼中になどないのだ。ならば、恵まれているという実感など、あるはずもない。
お湯が沸騰したところを見計らって、こげ茶色の粉が入ったカップに注ぐ。用意したのは二つ分だ。ティースプーンでカチャカチャと中身をかき混ぜてから、片方は自分用にミルクを入れる。桂は二つともトレイに乗せて雇主へと提供する。
「お、ありがと」
すると、彼女は桂用のカップを取り上げて、中身を啜り始めた。
「……秋島、それ俺のなんだけど」
「気が変わった」
ここでいたずらっぽい笑みでも浮かべてくれれば可愛いものだが、それすらもない。ただの無表情で、目の前の資料に没頭している。
全くもって――雨月桂には秋島純が理解できない。
キッチンに戻って、桂は残されたブラックコーヒーに改めてミルクを投入する。
先日のことがあって、桂は少し気分が沈んでいた。……いや、厳密に言えば、先日のことがあって、今日の秋島純の反応を見て、桂は気を落としている。
だって、そうだろう。
顔を合わせたら、もっと、気まずいような顔をされると思っていたのだ。どう言葉を選んでいいかという反応をされると――思っていたのだ。あんな自分を見ても今まで通りに接してくれるだなんて思っても見なかった。
それは、あるいは桂が今の桂でなかったなら喜ぶべき事態ではあったのかもしれない。だけど、彼はどうしようもなく今の雨月桂でしかなく――〝なりそこない〟だ。
だからこそ、余計に辛いのだ。彼にとって、あの状態の彼を見せてもどんなリアクションもないというのは。だって――それは、彼が〝なりそこない〟でしかないという事実を改めて叩きつけられたことに他ならない。
不完全な存在である自分には。
何かを為すということすら十分ではないのだ。
「…………」
これは、自分で選んだ道のはずだった。
だけど、こんなにもどかしいのなら、昔の自分のままであるべきだった。
雨月桂は自分自身の〝弱さ〟になど、期待するべきではなかったのだ。
そしてそれ故に、羨ましく、恨めしい。
どんなことでも為し得る――どんなものにでもなりうる才能と器用さを持ちながら、何にも頓着しない秋島純の姿勢が。
「……やっぱり、ここへ来るべきじゃなかったのかもな、父さん――」
誰にともなく呟いたその瞬間。
彼に背後からもたれかかる人間がいた。
「――砂糖もちょうだい、雨月くん」
「……秋島、驚かすなよ」
後ろから腰に手を回すようにして、秋島純が自分のカップを桂の前に置いた。
「ふふ」
彼女はそのまま、本当に桂の腰に手を回しだす。
「こうして誰かを抱きしめると、その人が何なのか分かったような気持ちになるよ。その人の主張も性格も、結局はガワに過ぎないんだよね」
彼女がどんな顔をしているか、この角度からでは窺い知れない。
「あるいは――〝なりそこない〟という君のパーソナリティも、ね」
だけど、笑っているんだろうな、となんとなく思った。
桂は自分の顔が火照っていくのを感じた。それが彼女の思惑通りだと分かっていても、抑えられないものは抑えられない。
「ほら、鼓動が強くなってきた――」
「…………」
彼女は今の桂の呟きを聞いていただろうか。
「僕は君が羨ましいよ、雨月くん」
ふとした呟きに、桂は耳を疑う。
「羨ましい……?」
嘘だ。
才能ある彼女に限って、自分なんかにそんなことを思うはずはない。
「雨月くん、何があっても僕という人間にだけは期待というものをしてはいけないよ。……応えられないからね。あるいは、ここにいたのがユウとかなら、君を変に悩ませることもないのかもしれないな」
「……別に悩んでなんか」
「ねえ、雨月くん――雨月桂くん。こないだのあれで、僕には少し君が分かった気がしたよ。ガワではない君がね。それが、こうやって抱きしめてみて確信に変わった」
すんすん、という匂いを嗅ぐ音が聞こえる。
「君は君をもっと愛するべきだよ」
突然何を言うのだろう。
「……好きになんかなれるか」
「好きか嫌いかの話はしていない」
「…………」
「なあ、君は〝弱さ〟を選んで、どんな景色が見えるようになった」
「俺に見えるものなんか何もないよ」
「そんなはずはないさ」
彼女は耳元でそう囁いた。
「……とりあえず離れろ。砂糖入れてやるから」
「はーい」
彼女はすんなりと桂を解放した。
桂はそのまま棚から取った角砂糖を二つのカップに両方とも入れてしまう。
「あれ、お前のカップどっちだっけ」
「DかEかで言えばEだ」
「そのカップの話はしていない」
桂は先ほどの背中の感覚を思い出しながら、いや、もう少しあったのではないか、と思った。
「…………」
純だけでなく自分も大概かもしれない。桂はため息を吐く。
「雨月くん、今まで手に入れたどんなものも僕の〝強さ〟だと、僕は言いきれるよ。だから、やはり何があっても僕は声を大にして、君は僕にだけは変な期待をしてはいけないとそう言おう。僕は君の〝弱さ〟とやらに寄り添ってやる気など毛頭ない」
純はただ事実を並べるように淡々と述べる。
自分のカップを取り上げて、リビングの方へ戻ろうとしたところで、彼女は不意に立ち止まった。
「……だけど、それでも君が僕に何らかの未来を見出そうとしてくれていたのであれば、そのお返しくらいはしなきゃいけないな」
君なら、きっと見られると思うんだ、と彼女は言った。
「君になら僕の弱いトコ――見せてあげてもいいかもしれない」
Φ
「――雨月くん、まだしばらくここにいる?」
「ん? あー、そうだな」
外からはいつの間にか夕日が差しこんでいた。
桂は部屋を見渡す。
「……そうなりそうだ」
室内は強盗にでも荒らされたような有様だった。
たった一日仕事をしただけで、どうしてここまでの状態に出来るのか。
「そっか。どうしようかなあ。じゃあ僕もう風呂入っちゃおうかな」
「ん。分かった」
いつものシャキッとしない足取りで純は脱衣場の方へさっさと行ってしまう。
それを見送って、桂は腕まくりをする。
地面に散らばった無数の書類。これを片付けるのが自分の仕事である。書類というのは依頼書やら依頼のために集めた情報、それから、【悪の此岸】にはスポンサーがいるらしくそこへ提出するための報告書のような物もあるらしい。桂はこれを毎日内容ごとに分けている。純は一緒にまとめてしまうだけでよいと言ってはいるのだけれど、いちいちそこに手間をかけてしまうのが桂の性格なのかもしれない。
「さて、やるか」
桂は一日で最後の仕事に着手した。
Φ
秋島純は長風呂をする。
今日のように桂がその仕事を終える前に純が風呂へ行ってしまうことは少なくなかった。だから、桂も純がかなり長い時間をかけて入浴をすることはすでに知っている。
――風呂っていうのは考え事をするにはうってつけの時間なんだよね。
たしか、純はそんなことを言っていた。彼女が考えていることなんて桂には分からないだろうし、そもそも分かりたくもないのだけれど、しかし、一日を締めくくるにあたってその時間が純にとってかかせないものであることは確かなのだろう。
桂はソファに腰かけてテレビを観ていた。
彼はもう仕事を一通り終えて、帰り支度をしたあとだった。どうにも声もかけずにそそくさと帰るのは気が引けるので、このような場合にはこうして純が風呂から出てくるまで時間を潰している。
ニュース番組は殺人事件が起こったらしいことを伝えている。意外と近場で起こったらしいその事件を、桂はどこか他人事のように眺めていた。その視線がやがて動き、彼の荷物へと注がれる。前のものがボロボロになってしまったということで新調したばかりのスティックケース。その中に入っているのは彼が父親から受け取った【枝霧】という名前を持つ短刀である。
「……」
――呪い。
桂にとってその凶器はそういう意味合いを持っている。
「……ふう」
そんな時だった。
「――おーい、あーめつーきーくーん! いないのかーどこへいったんだよーう! おーい。君の雇主がお呼びだぞーっ」
風呂場の方からぎゃあぎゃあと喚き散らす声がした。
桂の顔に露骨に面倒くさそうな感情が浮かぶ。
「どうしたんだー。さては敵襲でもあったか。それでこっちに来られないんだな。そうだそうに違いない。でなければ雨月くんが僕の言うことを聞かないことに理由が付かない。何てこった雨月くんが今まさに僕を守るために戦っているというのに僕には何も出来ないなんて」
桂はしょうがなさそうにため息を吐くと立ち上がって脱衣所のドアの前へまで来る。
「――何だよ」
風呂まで聞こえるように大声で言う。
「あれ? 雨月くん、敵は?」
「それはお前の妄想だ」
「何だよ、面白くないなあ」
雇主のことを『お前』呼ばわりすることにすっかり慣れてしまっている桂である。
「で、何の用だ」
「シャンプーの替え、取って」
「どこにあるんだよ」
「そこ」
「そこってどこだ」
声だけで伝えられても分かるわけがない。
「ドア開けてよ」
一瞬躊躇してから桂は言われるがままにドアを開ける。
ドアの向こう側には浴槽に入ったまま引き戸を開けて、浴室から顔だけをのぞかせている純がいた。浴室はそんなに広くなく、入って左に浴槽があるという構造をしている。純は桂が向いているのと同じ方向に体を向けて入浴していたようで、今は上半身をひねってその浴槽のへりからやや身を乗り出しているという状態だった。
「そこ」
色の白いしなやかな腕を持ち上げて、彼女は洗面台の上の棚を指差す。
桂は純の方を極力見ないようにしながらそれをとって、差し出された純の手に渡した。
「これでいいのか」
視線を純と合わせないまま言う。
「うん。ありがとう」
桂の反応を面白がってか、純は少しいたずらっぽい笑みを浮かべて受け取る。
「ごゆっくり」
すぐに脱衣場の出口へ行こうとした桂の手を純が掴んだ。
「何をする」
その場で硬直したまま桂が言う。
「ちょっと話そうぜ」
元々そのつもりで桂を呼んだのか、それとも本当に思い付きでそんなことを言ったのか分からないけれど、純はそんな提案をしてきた。
「嫌だ」
「雇主の意向に逆らうのかい」
「俺が仰せつかった仕事はボディガードと補佐だけだ。越権行為だ」
「うるさい言うことを聞け」
暴君である。
「いーやーだー」
桂の方も頑なだった。言うことを聞けば何かよくないことをされるのが分かりきっているからだ。そんな彼にに痺れを切らし、純は一言。
「ちゅーするぞ」
「ごめんなさい」
従った。
「まあ、座れよ」
桂はその場に座り込んだ。もちろん浴室に背を向けて。
「話すって、一体何を話すんだよ」
「こういうプライベートな瞬間だからこそ話せることもある」
引き戸を開けっぱなしにしたままそんなことを言ってくる。
桂の背後から、純が湯船を出る音がした。桂はドキリとしたが、そのあとすぐにシャワーの音が聞こえてきたので、ただ体を洗おうとしているだけか、と桂は胸をなでおろす。
「うわっ!」
「ど、どうした?」
「助けて雨月くん!」
「秋島っ!」
秋島純を守るのが自分の仕事だ。その仕事を全うせんとばかりに勢いよく振り返った桂。
しかし。
「ぐわあ」
桂は叫んだ。
振り返った先にあったのはすぐ目の前へ迫った純の顔。もちろん下は全部裸である。大事なところは両腕で隠しながら、四つん這いになって意地悪いの笑みを浮かべてこちらを上目遣いに見上げている。
「『ぎゃあ』って、女性の裸を見て普通そんな反応する?」
呆れた声を出しながら純がのそりのそりとシャワーのほうへ戻っていく。
「くくっ。女性経験のない男をからかうのはなかなか愉快なもんだな」
「経験がないって決めつけんなよ!」
「あるのか?」
「ないけど!」
何故、自分は雇い主にこんな辱めを受けているのか。
女性経験の少ないというか、もはや全くなかった桂を、純は容赦なくからかってくる。
というか、どうして、桂にそういう経験がないことが分かるのか。
「匂い、かな」
「……」
「君は女性を食い物に出来なさそうな顔をしている」
匂いといったくせに、桂の顔のことを評価してくる。
シャワーの栓が閉じられ、もう一度湯船に浸かる音。「ふう」と息を漏らしながら純は言った。
「さて、さっきの話だけどね、雨月くん」
「さっきの話?」
「君が訊いてきた事だ。何故、僕があの【死神】に追われているか」
「教えてくれるのか」
「教えてほしくないのかい?」
「……いや、教えてほしいけど」
「ふむ」
背後でパシャリ、と水面を叩く音がした。
「だが、しかし、人から情報を得たいなら、それ相応のものを君からももらわないとな」
「は?」
「等価交換だ」
「それは……まあ分かるけど、俺は何をやればいいんだ? 言っとくけど、今日はそんなに持ち合わせはないよ」
「お金をもらおうってんじゃない。情報ってのは確かに価値あるものだが、いささか価値計算が面倒だからな。それよりも簡単に交換できるものがある」
「なんだ?」
「情報の支払いには同じく情報を、さ」
桂は呆れた顔をする。
「回りくどい言い方しないで最初からそう言えよ」
「ははは。回りくどいことをしたいお年頃なんだ」
どんなお年頃だ。
「情報……か」
桂は目を伏せる。
昨日のことがあって、桂が純に訊きたいことがあったように、純にも訊きたいことはあったのだろう。これといったリアクションがなくても、考えることはあったということだ。
「――僕が以前、〝殺人鬼〟に遭ったことがあるという話はしたっけ」
「ああ、そうだな。聞いたよ」
「僕はてっきり殺人鬼という奴は〝常にそのようにある〟ものだと思っていた。だけど、君は違った。これは、僕の認識が間違っていたのかい」
「おい、まだ情報を交換するとはいってないぞ、俺は」
「君は、僕の話を聞きたくないのかい?」
「……いや、訊きたい」
訊きたい理由がある。自分のことを晒すことになってでも。
「なら、話したまえ」
「……分かった」
「で、どうなんだい」
「俺の知る限りでは、多分、お前の認識は正しい」
「ほう。つまり――」
「〝殺人鬼〟は、己を偽れない」
桂は静かに言う。
「目的や他人のためじゃなく、常に自分のために人を殺し――殺し続ける。それ以外の生き方はない」
「ほう。ならば、君はどうして今こんなふうに普通の人間のようにしていられるんだい? 〝殺人鬼〟は己を偽ることが出来なくとも隠すことくらいは出来るということか?」
「……分からない。出来るかもしれないな。それっぽいことをしてる人は知ってる」
「君がやってるのは違うのか」
「俺のは『隠す』なんて前向きな行為じゃない。俺のは『躊躇』だよ」
「躊躇?」
「そう。だから、この間、お前が俺のことを怖がっているといったのは、正しい――」
昔――とはいっても昔といえるほど、自分も長く生きているわけではないが、しかし、ほんの数年前までは桂も殺人鬼らしい殺人鬼だったのだ。しかし、ある一つの経験がその頃の桂のあり方を壊した。
「トラウマとかそういうのではないんだけどな。でも、ちょっと色々あって、俺は……なんていうのか、自分と向き合っちゃったんだよ。それ以来、俺は自分が分からなくなった――ずっと不安定なままだ……夢中なままでは、生きられなかった」
「なるほど、〝なりそこない〟というマイナスな言い方はそういう事情か――曖昧な物言いではあるが。坂巻を殺さなかったのもそういうことかい」
「多分、そうだ」
「人殺しは良くないと思ったと?」
「……いや、それは違う」
一瞬静寂がその場を包む。
「……どういうことだ」
「あれ以来、俺が人を殺すことを躊躇しているのは確かだ。坂巻の時も俺は人殺しをしたくないと思った。だけど、それは人殺しは良くないって言う気持ちとはまた違った。あの時だけじゃない。人に手を下さないといけないような場面に直面すると、いつもそうだった。……正義とかそう言うのじゃないんだ。俺の中に、浮かんでくる言葉がある。説明は……上手く出来ないけど」
「その言葉っていうのは?」
桂は少しの間俯いて、それから決心したように言った。
「『俺はちゃんと上手く人を殺せるのかな』――って」
「…………」
桂の言葉に純は沈黙を返してきた。
「……つまり、躊躇っていうのはこれだけのことだよ。勿体ぶるまでもなさすぎて、あえて話そうとも思わないような話だ。こんなのは情報にもならない」
「…………」
桂は、返ってこない言葉に肩を落として、一つため息を吐く。
当然だ。自分が何年たっても飲み込めなかったこの気持ちをつい今し方聞いたばかりの純に理解できるはずがない。心のどこかで、この偏屈な少女なら自分に何事かを示してくれるかもしれないという期待もあったのは事実だけれど、それでも、この期待はあまりにも酷なものだ。
桂はどこか諦観したような笑みを浮かべた。
しかし、このすぐ後に、彼は自分の諦めが早計であったことを知る。
次の瞬間、純は笑った。それもとても愉快そうに。
「――やっぱり、僕の見る目は間違っていなかった」
「は……? 何を言ってるんだ、お前は」
「雨月桂くん、僕は君が好きだ」
「……」
いや。
彼女のことだ。それがそういう意味じゃないのは分かっているのだけれど。
「……鳴り止め、心臓」
「ん? 何だい?」
「いや、何でもない」
桂は平静を装って言う。
「どういう意味だよ」
桂は、また純が笑ったように感じた。
彼女のことを全て理解するのは、きっととても難しいということは分かるけど、こと彼女がその表情を浮かべるタイミングに限って言えば、それは非常に分かりやすい。彼女は笑うという行為に対してとてもシンプルなのだ。
「『オッカムの剃刀』って言葉――知ってるか」
「まあ、聞いたことくらいは。……急になんだよ」
「これは、要は物事の真理がもっともシンプルな形をしているべきだって話さ。余計な物を削ぎ落としていって、最後に残ったものこそが真理だってね。だがね、そこで僕は思うわけだよ。逆に言えば、それが最後に残ったものであるならば、たとえそれが複雑怪奇な事実であるように見えても、僕たちはそれをシンプルに捉えなければならないのではないか、とね。複雑に見えるそれこそがきっと真理なんだ。この世界にはあまりにも巨大な数値の素数が存在する。この世を構成する最小単位(モナド)に形而下(僕たちの常識)の世界で言うところの大小という概念を当てはめることが果たして正しいことだと誰が言いきれるだろうか」
純は一息にそう言う。
桂はもう既にうんざりするような気持だった。
ここからは彼女が言いたいことをまくし立てる時間だ。
「君は、君のその気持ちをおかしいと思っている。それが問題なんだよ」
「問題?」
「人は良くあるべきものだと、誰もが知っている。社会と時代によって道徳と呼ばれるものが違おうとも、生まれ方と生活によって常識と呼ばれるものが違おうとも、その認識は共通だ。そりゃそうさ――誰だって自分にしか従えない。自分がいいと思ったことしかできない。悪いものなんてないんだ。多くの人間にとって、良くあるべきことはいい事だから――そこで初めて〝悪〟が生まれる。あるいはそこで初めて〝善〟が生まれるということが言えるのかもしれないがね。とにかく、だから悪とは〝食い違い〟だ。君は多分その食い違いを自覚してしまったのだろう。自分は他人とは違う、と。そして、同時に君は自分がどうして悪であるか分からなかった。この場合の悪とはとても空虚なものであるからな。君のようなはずれた存在には疑問でしかなかっただろう。僕には共感は出来ないが察することは出来る。言ってしまうと、僕も考えに関して言うならば君側だ。悪なんて概念は人間が勝手に作り上げた――空虚なものへの空虚な対立概念だよ」
「悪を否定するなんて意外だな」
「僕が否定するのは悪という言葉を作り上げた人間のあり方さ。悪と呼ばれるものは好きだ。まあ、悪なら押しなべて好きというわけではないけどね。僕は、悪であるものが好きなのではなく、好きなものすべてが悪だったってだけなのさ。だから、良いものを否定するわけでもない。――君もそうじゃないかな?」
そんなことを言われても、困る。
「……どうして悪を好きになったんだ」
「それが愛ということだからさ」
「…………」
桂にはやはり理解できない。彼女の言葉も――自分の気持ちも。
「世界は悪で満ちている。謂ゆる所のニヒリズムって奴だ。人は僕を見てこう思うのかも知れない。秋島純はそんな絶望的な世界に対して、背を向けているだけ――希望があると思い込みたいだけで、だから、悪はすばらしいと譫言のように言うのかも知れない、とね。だけど、僕は否定する。怖いけれど否定する。だって、僕は確かに思うんだ――悪と向き合ったものは美しいと。僕は、悪それ自体に関して言えは人間一般と同じように、嫌いさ。でも、それを嫌いだと思うからこそなんだよ。愛とは、好きか嫌いかとかそういうことではない」
「……その話と、俺は一体どう関係があるんだ」
「君は本当に分からないのか、分かりたくないのかどっちなんだい」
「…………」
「君の生き方は、とても良いものだとは言えない。二つの相対する立場のそれぞれから見て、どちらから見ても、君は悪い生き方をしている存在だ。人間として〝殺人鬼〟なんていうおぞましい肩書を背負い、〝殺人鬼〟として人間のような価値観に縋り付こうとする。これほど滑稽なことはない――誰もが口を揃えてそう言うだろう。しかし、僕は違う。僕は君に――君のその生き方に、好感を抱く。今の君にはとても自分自身を誇ることなんて出来ないだろう。でも僕は、それでも君は前を向いていいんだと――そう思う」
桂は顔を伏せる。それから彼は肩を震わせた。俯いた顔に浮かぶのは――憎しみのようなそれだった。
「だというのに、君はそれが出来ないでいる。前を向いて、そして一歩を踏み出すことを恐れている。何を躊躇う。剃刀なんてもう捨ててしまえ。たとえ歪に見えても、削ぎ落とすものなんてもうそこにはない。君はたった今自分に見えているものを受け入れなければならない。そして、認めるべきだ。君は自分が為す全てのことに対してただ卑屈になっているだけだ。過去の自分が本来的に為せていたはずだったことにさえ、君は自分がそれに報いない人間だと思っている。一度、離れてしまった〝殺人鬼〟というあり方にすら後戻りが出来ず、君は後悔しただろう。足を踏み入れた――踏み入れてしまった場所に居場所がないことに気付いたのと同時に、君には帰る場所もなくなっていた。『ただ、自分が自分そのものでいられていたなら良かったのに』。君が時として浮かべる憂鬱はそういうことだろう。背徳的な憂いだね。人にあるまじき、鬼であることに恥じる後悔だ。辛かっただろう、君は。生きた心地なんて、しなかっただろう」
背後で、純が湯船の中から立ち上がる音。
「だから、これはきっと君が期待した言葉じゃ……間違ってもないのだろうけど、僕にしか言えないことを――言ってやるさ」
キュッ、キュッと蛇口を捻る音。
桂はその言葉を、聞きたくなかった。
「――君は、ちゃんと人を殺せる人間だよ」
「だまれっ!」
桂は憎悪とともに振り返った。頭の中は、とにかく秋島純を滅茶苦茶にしてやろうという気持ちでいっぱいだった。
そして。
そんな桂に突然降り注いだのは――冷たい雨だった。
「……」
「まあ、頭を冷やせよ」
視線の先には、体を腕で隠しながらシャワーの口をこちらへと向けている純がいた。
桂の服にたちまち冷水が浸み込んでいく。
「…………。……――はあ」
桂はその場に座り込んだ。
「冷えたかい」
「冷えた」
手をかざして、自分の顔にかかる水を防ぐ。
「おい。かけすぎだ。もう水をかけるのをやめろ」
「楽しい。君をいじめるのは大変に愉快だ」
「…………」
消えた怒りが再燃しかけたが、そこはぐっとこらえた。
純が蛇口を閉めた。
びしょ濡れになった脱衣場の床を見て桂が言う。
「……誰が掃除すると思ってるんだ」
「僕以外の誰かだ」
「そう、つまり俺だ」
桂は額に手を当てた。
「……カッとなって悪かった」
「全くだよ。思わず僕もちびっちまうところだ」
彼女は肩を竦める。
「でもまあいいか。この後、君に迷惑をかけることを考えれば」
「迷惑?」
「まあ、そうせっつくな。――と、その前にそうだ。君に訊きたいことがもう一つあった」
「訊きたいこと? なんだ」
「まあ、君の〝同業者〟だからっていう安易な理由で、それも『もしかしたら』って気持ちで訊くんだけど」
桂は首を傾げる。
同業者。
つまりは〝彼ら〟のことについて訊きたいということなのだろうけど、しかし、ハジメはやはりあくまで〝なりそこない〟だ。そこまで顔が利くわけでも、見聞が広いわけでもない。それでもいいというなら耳は傾けるが……。
「僕が知っている〝殺人鬼〟のことについてだ」
桂の口の端がぴくりと震えた。
「――君はゴスロリ衣装に身を包んだ殺人鬼のこと、何か知ってる?」
背中に悪寒が走り、嫌な汗が噴き出るのを感じた。
「――知らない」
桂は、即答した。自分の喉から出た声は想像以上に冷たいものだった。
「俺は、聞いたことないよ」
変に思われただろうか。
そう。
桂はその〝殺人鬼〟のことを知っていた。
だけど、アレのことを秋島純になんか告げられるわけがないだろう。
「――そうか。ならいいんだ」
危なかった、と桂は胸を撫で下ろした。
この一見軽薄そうな変わり者の少女は、腹の内に何かを秘めながら気軽に向かい合っていいような相手ではない。
【道化】
彼女は――【悪の此岸】の首領は――外部のごく一部の人間からそんな異名でもって呼ばれている
道化師。
彼女が恐るべき存在であることを、桂は改めて痛感した。
「そっか。知らないのか。じゃあしょうがないな」
浴室で純が立ち上がる音。
「さて、薬も飲んでないし、そろそろ来る時間かな」
「薬?」
「君はいいよ。否、とても悪い。だから、先ほどキッチンでも言ったように、そんな君にちょっとしたお返しだ」
「おい、何をする気だ」
「デモンストレーションさ」
桂は既に情報を純に与えた。ならば、これから彼女は桂が求める情報を彼にくれるのだろうか。そのデモンストレーションとやらが、あの【死神】に追われていたことと関係があるのだろうか。
「じゃあ、雨月くん――」
純は笑った。
「――頼んだぜ」
次の瞬間、彼女の顔が苦痛に歪んだ。
Φ
「――んぎぃあああああああああああああああああああ」
耳を裂くような悲鳴が、脱衣場にこだました。
桂の目の前には地面に転がって苦痛に悶える純の姿があった。
「秋島っ!?」
桂は慌てて純のそばに駆け寄る。
「ぅぐあっ……けふっ――」
純は体を丸くしてガクガクと痙攣していた。両目は見開かれ、声にならない声が口から漏れている。
「秋島、どうしたんだよ! おいっ!」
「ぁ……がっ……ぁがっ……」
拭うことのできない分泌液が口の端や目じりから流れっぱなしになる。
「秋島……」
桂はどうしていいかもわからず、その場で呆然としていることしかできない。
身体の様子を確認してみても異常は見当たらない。
狼狽しているうちに純の体が一度ビクンと大きく震える。
「ぎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」
彼女は体を仰け反らせて、人間のものとは思えないような悲鳴を上げた。
「……」
桂は決意して、立ち上がる。
「待ってろ、今人を呼んでくるから!」
桂は脱衣場を飛び出ていこうとする。
「――いくな」
あまりにも悲痛な声。
信じられないような思いで、桂は純を見る。正気を保つことさえできないような苦痛の中で、純は縋るようにそう言った。
「だけど、秋島――」
「――いくな」
桂はわけが分からなかった。
「俺は……」
彼はただ、立ち尽くす。
「――痛い、痛い、痛い――いたいいいいいいいっ――」
あんな飄々とした彼女の声はいつの間にか悲痛な泣き声へと変わっていた。
「俺はどうすれば……なあ、桂……」
何もできない、自分が悔しい。
どこまで……自分はどこまで半端なんだ。
「俺は、なんて弱いんだ――」
力なく、桂は呟いた。
彼は純の姿を見る。
苦しむ彼女を、何故か桂は美しいと思った。
彼の中で、純の姿が何かと重なる。
「秋島」
桂はそっと純に近寄って、肢体を濡らしたままの彼女を抱き寄せた。
「ごめん。俺は無力だから」
子供の様に泣きじゃくる彼女の頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫。――痛くないから」
Φ
「――あー、ごめん雨月くん。服濡らしちまったか」
しばらくして、天井を見つめながら、純は言った。
二人は今リビングにいる。落ち着いたのを見計らって、桂がリビングまで純を運んだのである。
「いいよ別に。今日はちょうど服を濡らしたいなあという気分だったんだ」
タオルである程度は水を拭き取ったものの、未だに湿り気の残る服の感覚を肌に感じながら、桂は応える。
それを聞いて、純は力なく笑った。
「どんな気分だよ。君は面白いこというなあ」
「……大丈夫なのか」
「雨月くん、女の子ってのは結構忍耐強いんだぜ」
純はソファからむくりと体を起こした。
それから、桂が被せた毛布をその身に纏うようにして、立ち上がる。
「あれは、何だったんだ」
「ちょっと着替えてくる」
純は隣の部屋へ消えた。
Φ
「女の子の身体をバスタオルで拭く気分はどうだった?」
灰色のスウェットを着て帰ってきた純は、開口一番に桂をからかった。
「はは、そう睨むなって。冗談だ」
「……あのな、秋島」
「しかし、女の子を躊躇なく抱くのはどうだろう」
「…………」
無言の桂に対し、純は肩を竦めた。
「だから、冗談だってば」
「……なんだか、ハイになってないか、お前」
「……あまり人には見せたくないものを見せたからね」
「あれのこと、訊いてもいいのか」
「そのためのデモンストレーションだ」
「……そうか」
桂は一つ息を吸うと思い切って訊いた。
「あれは一体何だ」
「……これだと断言するのは難しいのだけどね。ただ、僕のこの症状について分かりやすく説明をするのなら――幻肢痛、そう言うのが正しいのだろうな」
「幻肢痛? ――でも、お前は」
「そう。幻肢痛とは四肢を失った人間に起こる症状だが、僕は見ての通り、体のどこも失ってはいない」
「じゃあ、どういう意味なんだ」
「どういう意味も何もない。そのままの意味さ」
「……わけが分からない」
「エンパシーって知ってるかい?」
「人の気持ちとかが分かっちゃうって奴か?」
「そう。稀有な現象なのだけどね。僕は、生まれた時は実は双子だったんだ」
「そうなのか?」
まず純に兄弟がいたことに驚くハジメである。
「小さい頃、僕らはずっと一緒にいた。僕は彼女と感情を共有していた。そして、肉体もだ。エンパシーではね、双子の片方がどこかで怪我をすると、もう一人の身体にも同じ症状が発現するということがあるそうだ。僕らはそれだった」
「そのもう片方ってのは」
「死んだよ。この世界には細胞一つ残っちゃいない」
「…………」
「僕らは二人で一つだった。だから、僕の脳は時折勘違いしてしまうんだ。あるべき体がどこにも見当たらない、とね。この世からいなくなっても、まだ僕の中に彼女の残滓があるんだ。だから、さっき見せたあれは幻肢痛だ。普段は世の中に出回ってないような薬で抑えているのだけどね」
「……ピンとこない話だけど」
「ああ。だろうな。かなり突拍子もない話だから」
純は俯く。
「でも、僕の原点は全てそこにある」
「どうして……その双子のもう一人は死んだんだ」
「僕が、殺した」
桂には純の姿がとても痛々しく感じられた。
そこにいるのがまるで、普通のか弱い少女であるように思った。
「僕のエゴだ。自分が生きるために、僕は彼女を殺した」
「…………」
「僕は罪深い人間さ」
純は肩を竦めて笑った。
「でも、僕が彼女を殺さなければならなかったのはある男の思惑によるものだった――その男に僕は復讐をしなくてはならない」
「その男っていうのは……?」
「私欲のために自分の能力を利用する【異能遣い】たちの集団――【篝火】。そのリーダー、秋島
純ははっきりとした口調で言う。
「僕の父親だった男だ」
「な……じゃあ、父親が娘を利用したってことかよ」
「そうなるね」
桂はただ唖然としている。
【篝火】。そういえばそれは、聞いたことのある名だ。
坂巻清十郎が口にしていた。
「賞金を懸けられた【異能遣い】を追うため、僕たちが徒党を組んだように、彼らもまたその対抗策として同じことをした。そういった集団の一つが【篝火】さ。そして、あの【死神】――ミコトと名乗った彼はそこに所属する【異能遣い】だ」
「じゃあ、お前が追われてたのは……」
「……本当は、君にこのことを話すのはもっと先のことになるはずだった。ボディガードとして雇っておいてだが、今のところは『この世界ではいろんな人間の恨みを買うんだよ』とか適当な理由を付けて誤魔化すつもりでいた。しかし、あの男がまさか【死神】の奴を寄越してくるとはね。これではさすがにそんな悠長なことを言っていられない。正直に話そう――秋島龍は僕を取り戻そうとしている」
「どうして……」
「僕があの男の〝研究結果〟だからさ」
「それは……」
どういう意味だ、と言いかけた桂を遮るように純は続けた。
「だけど、奴が僕に対しそういった明確な意志を持って働きかけを行ってくるように、僕の方もまた奴に用がある。僕は、あの男に復讐するつもりでいる。【悪の此岸】も、元はと言えばあの男を倒すための力を得るために立ち上げたチームだった。戦力はそれなりに整ったと言えるだろう。こちらから打って出る日は近い。君も、その数の内に入っている。……しかし、今更何を言っているのかって話ではあるが、やはり、僕の勝手な都合に他人を巻き込むのは忍びない。だから、問おう」
純はこれまで見たこともないような切実な顔で桂に詰め寄った。
「報酬は約束する。他の連中からは、ずっと前に返答をもらっているから、あとは君次第だ」
桂は彼女から目を背ける。
「――僕のわがままに付き合ってくれるつもりはないかい、雨月桂」
Φ
純の部屋の玄関先。
桂は純に見送られていた。
「……あんなデモンストレーション、する必要なかっただろ」
「試したかったんだ。君が僕の〝弱さ〟を見てくれるかどうか」
「……なるほどね」
坂巻と戦った時のことといい、すぐに人を試したがる性分のようだ。
それこそがきっと、〝弱さ〟を持った桂にしか見ること出来なかったものだと、彼女は言いたいのだろう。
「あ、そうそう、雨月くん」
「何だよ」
「なかなか悪くない抱かれ心地だったぜ」
純はいつも通りの人を食ったような笑みを浮かべてそんな軽口を叩いた。
「……からかいやがって」
「ははは。――じゃあね。いい答えを待ってる」
「ああ」
桂はアジトを後にした。
時間はもう随分と遅くなっていた。
Φ
桂が去った部屋で、純はいつものようにソファの上で脱力していた。
静かな部屋の中、冷蔵庫から取ってきた好物のホワイトチョコをかじりながら、独りごちる。
「もう少し長引くこと覚悟してたんだけどな――あんなに早く鎮まるとは思わなかった。彼のおかげだろうか……」
以前――それこそ薬が試作品さえ完成していなかった頃は、一晩中あの痛みに苦しめられていた。
「彼は不思議だ」
何故だか分からないが、知的好奇心だけでは説明できないような雨月桂に対する興味が純の中に芽生え始めていた。
「僕は――もっと彼のことが知りたい」
その感情の正体が何なのか、純には分からなかった。
だから、彼女は、彼女が心の底から望むことを、口に出した。
「僕を助けてよ、雨月桂――」
Φ
「……ただいまー」
帰宅すると、奥の明かりが点けっぱなしになっていた。
暗い廊下を進んでリビングに入るとハルガがいた。机に突っ伏してすやすやと寝息を立てている。それから、桂の目には、机の上にラップをかけた状態で夕飯が並べられているのが映った。
「……何だろう、この新婚気分」
悪くない気分だ。
帰りが遅くなってしまったことを申し訳なく思いながら、ソファの上に畳んで置いてあったひざ掛けをハルガに掛ける。
それから、桂は彼女の隣に座った。
いつも食卓につくときは正面同士に座るのだが、たまにはこの角度で見る景色というのも悪くない。
「いただきます」
夕食からラップを外して、静かな声で桂は言った。
今日の献立はピーマンの肉詰めである。
「……うん。美味しい」
桂は晩御飯を咀嚼しながら、ハルガの寝顔を見やる。その時、桂の中に無性にその小さな頭を撫でたい衝動が込み上げてきた。起こしてしまうかもしれないと思いながらも、衝動に抗えず、桂はゆっくりと手を伸ばす。触れた彼女の髪はさらさらで、それから柔らかかった。
すると、ハルガがうっすらと目を開いた。
「桂?」
「あ、ごめん。やっぱ起こしちゃったか」
言わんこっちゃない、と桂は心の中で思う。
机に突っ伏したまま、緩んだ寝呆け顔のハルガが口を開いた。
「おかえり」
「うん。ただいま」
「……もう、遅すぎだよ」
彼女は口を尖らせる。拗ねているらしい。
「悪いな」
「……別にいいけど」
そう言って、ハルガはそっぽを向いた。
その子どもみたいな仕草に桂は笑ってしまう。
「ぶすくれてるのか」
「ぶすくれてなんかないよ」
「許してくれよ」
「許すも何も怒ってないし」
「何でもするからさ」
「え、何でもするの?」
急に目が覚めたように、こちらを振り返って食いついてきた。
「お、俺に出来る範囲内のことなら」
「じゃあ、もっかい頭撫でて」
「え、あ、ああ、分かった」
桂は言われた通り頭を撫でる。
「何だ、こんなことでいいのか」
食いついてきた割には随分控えめである。
「こんなことって、まだ色々あるけど」
「しまった」
回数制限を付けるのを忘れていた。
失敗したと思いながらも桂は頭を撫でる。
「うー」
心地よさそうにハルガは目を細めていた。
何だろう。
ペットでも愛でているような気分である。
「ねえ、桂」
「なんだよ城咲」
「どうして、この間、あんなに怪我して帰ってきたの」
「ん? あーそれは……」
「何をしてるかは聞かないけど、心配だよ、私」
「……そっか。悪いな」
「バカ」
ハルガが桂の胸を軽く小突いた。
そこはちょうどミコトに傷を付けられたところだったので、地味に痛い。
「桂に何かあったら、私、ゼンさんに顔向けできないよ」
「……うん。そうだな、ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないんだよ」
「ごめん」
「……もう」
ハルガは立ち上がった。
「じゃあ、もう私寝るね。洗い物は水につけておいてくれればいいから」
「おい、城咲?」
「おやすみ」
「……」
怒らせてしまったかもしれない。ハルガは寝室へ行こうとする。
少し罪悪感を覚えながら、桂はその背中を見送る。
「おい、城咲」
「何?」
「ありがとう」
「……うん」
ハルガはリビングを出て行った。
「……いい答えを待ってる、か」
一人になると、桂の頭に先ほどのことが浮かんできた。
「でも、お前と一緒だ。俺は――お前の期待には応えられないよ」
暗い表情をして、彼は誰にともなく言ったのだった。
Φ
次の日。
桂はいつも通り、【悪の此岸】のアジトへ出勤した。
いつも通り。
ここへ来ることはもう彼にとっての日常の一部となった。
しばらくして、玄関口にユウが出てくる。
「おう、おはようアニキ」
「あれ? 日野、なんでここにいるんだ」
「何だ? オレがいちゃいけないのかよ」
「そんなことはないけど」
「昨日、遅くに仕事があったんでな。帰るのが億劫なんで泊まっちまった」
「へえ、そういうことか。――学校は?」
「アニキ、今日は日曜だぜ。授業なんかないよ」
「そうか」
桂としては部活動とかがあるのではないかという質問のつもりだったのだけれど。
「純、アニキが来たぞー」
廊下の奥に向かってユウが呼びかける。
すると、廊下の奥から、純がひょっこりと顔を出した。
「よう、桂くん、おっはー」
「……おっはー」
ひらひらと手を振ってくる純に桂が軽く手を上げて応える。
「上がるぞ」
「どうぞ。散らかってるけど」
社交辞令とかじゃなく、彼女の部屋は本当に散らかっていた。
これもまたいつも通りである。
「さっそくコーヒー淹れてよ」
「分かった。砂糖とミルクは」
「なしで」
「日野は」
「オレは冷蔵庫にコーラが入ってるから」
「ん」
冷蔵庫を開けると彼女の言う通り缶コーラが六本ほど入っていた。こうして買いだめしたものが入れてあるところを見ると、ユウが純の家に宿泊することはそう珍しくもない事なのかもしれない。冷蔵庫の中にはコーラ以外に物はあまり入っていない。ただ、その代わり、冷凍庫に大量の冷凍食品が入っていることを桂は知っている。ちなみに、いつもなら純の好物であるホワイトチョコも大量に入っているのだが、それは切らしているようだ。
桂はコーラを取り出して、次にコーヒーを用意した。インスタントコーヒーの粉を入れたカップに、沸かしたお湯を注いでいく。先日の失敗を踏まえて、トレイに砂糖とミルクも乗せておいた。
ふと、純を見る。彼女は床に散りばめられた無数のA4用紙の上に直に座って、その中から選び取った書類に読みふけっていた。
「そんなところに座るなよ。絨毯じゃないんだから」
テーブルにトレイを置きながら桂は純を咎める。
「いいじゃないか。僕の勝手だ」
「書類が破れたらどうする」
「ちゃんとしたところにちゃんと座るよりも、こうした方が集中できるんだ、僕は」
澄ました顔をしてそう言う。
桂はそのままソファに腰かけた。
「ありがとよー」
向かい側に座っていたユウがコーラを取り上げてそのまま片手だけで開栓するという芸当を見せる。プシュッと言う爽快な音。それから、中身を口に含むと、「くあー、うめえ」と相変わらず女の子らしくない口調で感想を述べた。
すると、桂の背後で純が立ち上がった。読んでいた資料を手に裸足でペタペタとソファへ近づいてきて、そのまま桂の隣へ腰かける。
「……?」
桂はふと、違和感を覚えた。
部屋にあるソファは二つだけだ。故に、こうして彼女が隣合わせに座ってくること自体は少なくないのだけれど、何だろう――今日は妙に距離が近い気がした。気がした、というよりも、事実だ。肩と肩が触れ合う距離。比喩でも何でもなく、お互いの肩が触れ合っている。しかも心持ち、体重がこちらに預けられているような気もした。
「あの、秋島……?」
純は、桂の動揺などどこ吹く風とでも言うように、コーヒーを飲む。
そして、カップを机の上に置くと、彼女は突然、桂の膝の上へ倒れ込んできた。
こてっと。
ごく自然に。
「え……」
おかしいことなど何もない。そんな表情で純は膝枕の上で資料読み始める。
「え? え?」
突然のことに動揺を隠せない桂だった。
助け船を乞うようにユウの方を見る。
「仲良しだなー」
何だその反応は。
まるでドギマギしてる自分の方がおかしいみたいではないか。
いや、それとも本当に自分がおかしいのか。
女性経験の少ない桂には分かりかねる。
「桂くん」
急に純に呼びかけられて、桂の肩がびくりと震えた。
「な、何だよ」
「チョコレート持ってきて」
「え、いや、いいけど……」
しかし、この体勢のままではソファから立つことが出来ない。
「……どいてくれないと動けないんだけど」
「どきません」
きりっとしてそう言い切る純。
「…………」
何だ。
何なんだこの歯の浮く感じのするやり取りは。
「というか、チョコレート、冷蔵庫になかったけど」
「え、本当に?」
「うん」
そこで、純は起き上がった。
「それは僥倖だ」
「は?」
何で僥倖なんだろう。普段なら、冷蔵庫のストックを確認して買っておかなかったと、桂を罵倒して暴れ出す癖に。
「買いに行こう」
妙に張り切って、純はそんなことを言いだす。
「いや、いいよ。俺が一人で買いに行くから」
「嫌だ、僕も行く」
「…………」
……どうしたんだろう。
ここまで行くと、疑念を通り越して不安を覚え始める桂である。
頭でも打ったのだろうか。
「秋島、お前、大丈夫か?」
「ん? 何がだい」
「何か様子がおかしいぞ」
「僕の様子がおかしいのはいつものことだろう」
自分で言っちゃうのか。
いや、確かに純自身が言った通りではあるのだが、ただ、今日のはそれとまた趣が違うものであるように思える。
「……というかそもそも出かけるって言ったってよ。お前、例の連中に目を付けられてるんだから、あんまり目立つことはしない方がいいんじゃないのか?」
「その辺は抜かりない」
「は?」
「さあ、行くぞ」
Φ
秋島純という変わり者の特徴の一つに、その服装がある。
サスペンダーで吊った黒のスラックスに、灰色のカットシャツ。日によってはネクタイを付けたり、第二ボタンを開けたり、着こなしを変えるようなこともあるが、しかし、そのモノクロな服装自体は変わることがない。まるで、何かのポリシーのように、彼女はその服を着続けている。今では見慣れてしまったが、それはやはり彼女の特徴を語る上では欠かせない部分の一つだと言えるだろう。桂はこれまで寝間着などを除いて、彼女がそれ以外の服を着ているのを見たことがなかった。
そう。
『これまで』――は。
「――秋島、何だその格好……」
「ん? 何って」
純は自分の身体を見下ろす。
「似合っていないのか、もしかして。僕なりに良いと思ったものを選んでみたのだけれど」
紺色のフリルのスカートに、クリーム色のタートルネックのセーター。肩口までの髪は後ろで縛って束ねてある。
「いや、似合ってないことは……ないけど」
何というか、まるで。
「……女の子みたいだ」
「……僕は女の子だが」
「え? いや、うん。そういうことじゃなくて……」
「そういうことじゃなくて?」
「……えと、なんでもない」
綺麗だな、と桂は純粋にそう思った。それを口に出して言うことは、何だか癪な気がして憚られたが。
「しかし、何だってそんな格好を?」
「何故って、そりゃ変装のためだ。奴らは僕の服装を目印の一つにしているようだしね。それに、この格好なら目立つということもないだろう。少なくとも
「へえ」
周囲から送られる視線に、純は気付いているだろうか。嫉妬とか、羨望とか、そういう感じのそれに。なるほど確かに変装という点ではそれは大いに功を奏しているだろう。しかしながら、目立たなくする、という意味では失敗であるようだ。
「あ、そうそう。忘れてた」
純はトートバックから何かを取り出す。
「変装用にってユウから借りたのを忘れてた」
そう言って、彼女は一本の黒縁メガネをかけた。
そういえば日野は学校だとメガネしてるんだっけ、と思いながら、桂は純の顔を眺める。
「…………」
「ん? 桂くんどうかした?」
「……いや、何でもない」
誰だこの清楚系美少女。
……とは、やはり言えなかった。
「……ふむ、思ったより良い反応だな」
「? 何か言ったか」
「いや、こちらの話だ」
桂は首を傾げる。
「しかし、チョコレート一つ買うのにやりすぎじゃないか」
「そんなことはない……と否定したいところではあるけれど、だが、今回はあえて賛成させてもらおう。あーあ、せっかく久しぶりにこんな格好をしたのになー。買出しだけかー」
いかにもわざとらしい言葉である。
純は桂に何かを期待するように上目遣いをしてくる。
「?」
純のおかしな態度に不審そうな顔をする桂である。
「……いや、でもまあ、せっかくだし、色々見てから帰るか?」
その瞬間、純が桂の腕にすり寄ってきた。
「うん! 行く!」
「…………」
これじゃ、本当に。
ただの普通の女の子だ。
Φ
「おいしかった」
ここはファミリーレストラン。
軽食を取った後で、ホットコーヒーを飲みながら純は満足げに言った。
「馬鹿な味だなあ。でも、こういう分かりやすくてチープな味が結局一番いいのだ」
「……またよく分からない感想を」
「庶民派と言ってくれたまえ」
「……変態め」
「ほめ言葉だ」
「……」
桂はため息を吐く。
秋島純という少女は、変わり者だ。以前にも同じようなことを思った気がするが、普段は飄々としていて何を考えているか分からないし、考えていることを伝えられたところで、桂のような凡庸な脳みその持ち主にはそれを到底理解出来ない。彼女の中には歪曲した理屈がある。歪曲していて、しかし、たしかに一本筋の通った理屈がある。それは、時として〝理屈に従わない〟という理屈さえ可能にしてしまうような論理だ。そして、それを持っているが故に、どんな時でも彼女は――常に彼女らしくあることが出来る。
例えば、どれだけ普通の女の子らしい格好をしたとしても。
紡がれる言葉の端々から、やはり彼女は秋島純なのだ、と理解出来てしまえるほどに。
「――こないだの話だけど」
桂がそう切り出すと純はそっと目を閉じた。
「うん」
「【治安隊】を頼るってことは出来ないのか」
「……それでは、意味がないんだ」
「どうして!」
桂が身を乗り出す。
「雨月くん、落ち着きたまえ」
「でもよ、秋島――」
「周りを見てみろ」
見れば他の客がこちらを見てひそひそと何事かを話していた。
「……ごめん」
「いいんだ」
痴話喧嘩か何かだと思われたかもしれない。傍から見れば自分たちはどういう関係に見えているのだろうとか思いを馳せて、桂は少し頬を赤くする。そんな彼に純は言った。
「実を言うとね、以前【治安隊】から忠告を受けたんだ。それもただの忠告じゃない。治安隊の創始者――【王君】って名は前にも出したと思うが――彼女から直々にだぜ」
「じゃあ、どうして」
「……これは僕が自らカタを付けなければならない問題なんだ」
「そんなの、お前の意地だろ」
「そうだよ。意地だ」
静かに、彼女は言う。
「すべては僕のわがままさ」
「……お前は、馬鹿だ」
「君がどう思おうと、僕はそれを実行しなければならない」
悲しそうに、純は言う。
「ごめんよ」
「……謝るくらいなら、最初から言うな」
「【悪の此岸】になんか入らなければよかったって思うかい」
「そんなことはないよ」
その言葉に純は驚いたような顔をする。
「俺はお前に会えてよかったと思う」
飾り気のない言葉。
「……そう、それは良かった」
「? 頬が赤いぞ、どうかしたのか、秋島」
「……何でもない」
突然責めるような口調になって純は言う。
「……君はずるいな。わざとやってるだろ、それ」
「は? それって?」
「……なるほど、そう思ってしまうのは僕の心の澱みか」
「何だって?」
「聞き流せ」
「……さっきから変なやつ」
純は一つ息を吐いた。
「――で、桂くん、答えはもう決まったのかい」
「……ああ、決まった」
「そうか、言ってみたまえ。どんな答えでも、僕は君を責めるようなことはしない」
「俺、やるよ」
純は面食らったような顔をする。
「何だ、その顔。嫌なのか」
「え? いや、てっきり君は渋るかと……」
「何でだよ。言っとくけど、俺だって【悪の此岸】に入れてもらった身として、お前に尽くしたいと思ってるんだぞ」
「へえ、そ、そうか」
純は彼に断られる未来を想像していた。むしろ、嫌がる彼を無理やり連れていくことを楽しみにしていたくらいだ。
「じゃあ、詳細について話そう」
その時、自分の中に形容しがたい何かが込み上げてくるのを彼女は感じた。それが何であるかを、彼女は知っている。だけど、それを具体的に理解することを脳が拒んだ。それを理解してはならないと、彼女の理性が警鐘を鳴らしていた。
「――【地獄】にある『ファイアフライ』という高層ビル」
彼女はそれを振り払うように、感情を殺した声で言った。
「そこで、決着をつける」
Φ
行きとは違い、随分と静かな帰り道だった。
レストランを後にし、突然黙り込んだ純の後ろを桂は歩く。
「…………」
「…………」
純は何とも思っていないようだが、桂としては随分気まずい。
アジトであるマンションの前にたどり着いたところでようやく桂は決心して純に話しかけた。
「おい、秋島、お前様子がおかしいぞ。急に黙り込んで」
「……様子がおかしいとは何だ。まるで、四六時中僕がくっちゃべっているような言い方をしないでくれたまえ」
「いや……」
してるだろう、と桂は心の中で突っ込む。
というか先ほどは自分のおかしさを認識している発言をしていたではないか。
「君、今日はこれであがっていいよ」
「は? でもまだ部屋の片付けとか」
「そんなものは明日でいい。じゃあね桂くん」
それだけいうと、桂の手から今日買ったものをひったくって、マンションの方へそそくさと歩いて行ってしまった。
「本当、どうしたんだあいつ」
桂は一人取り残されて、首を傾げる。
まあ、今日は仕事の後、ある場所へ寄る予定があったので、好都合と言えば好都合だったのだが。
「……まあ、いっか」
どうせ、明日になればいつも通りの彼女に戻っているだろう。
桂はそう決めつけて、アジトに背を向け、目的地に向かって歩き出す。
「ところであいつ、俺のこと『桂くん』なんて呼んでたっけ」
つい先日までは『雨月くん』と呼ばれていた気がするのだけれど。
「――――」
しかし、それが意味することなど、桂には分からない。ただ、親密さの度合いが増しただけだろうとか、そんなことを思いながら、彼は再び歩き出した。
Φ
夜。
その少女は裸足で舗装されていない道を走っていた。
「ハァ……ハァ……」
彼女は全身が傷だらけだった。
それは転んだというだけでは説明もつかないような生傷。白い服のあちこちが裂け、そこからはいくつもの痣や切り傷が覗いていた。
やがて、彼女は一つの家の前で立ち止まる。
「いたぞ」
程なくして、彼女は奇妙な格好をした男たちに囲まれた。えんじ色のローブの集団。彼らは皆目深にフードをかぶり、その表情は窺い知れない。
「――やあ、純ちゃん。戻ってきてくれると思っていたよ」
赤ローブたちが道を開けると、その向こうから、一つの影がゆったりと歩いてくる。焦らすように、ゆっくりと。そして、人を食ったような言葉とともに姿を現したのはスーツを着た姿勢の悪い長身の男だった。
「随分とボロボロだね。誰にやられたんだい?」
「響……お兄ちゃん」
男は無精ひげを生やし、パーマのかかった髪を頭の後ろで結んでいる。いかにも軽薄そうでしまらない雰囲気を持っているくせに刈り上げたこめかみが妙に攻撃的な印象だった。
「――で、君はどうしたい?」
彼はその場にしゃがみこんで少女と視線を合わせる。
それはまるで、彼女が自分と対等の相手だと見做すような態度だった。
「私は、凛を助けたい」
「なるほど」
そう言われて、彼――黒瀬響と言う名前を持つその男は立ち上がった。
「それは、無理だ」
その言葉とともに、ローブの男たちが、純に掴み掛る。
「いやっ、やめてっ」
「悪いね、純ちゃん」
「ちくしょうっ」
男たちに拘束されながら少女は叫んだ。
「私は、あなたを許さない!」
「……行け」
家の中へと無理やり連れていかれる少女を見ながら、黒瀬は皮肉げに笑った。
目が覚めると、彼女はその部屋の中にいた。
その部屋はとても白かった。
冷たい床から体を起こすと、彼女の目の前には、彼女と瓜二つの少女がいた。その少女は鎖で壁に繋がれ、拘束されていた。
「凛っ!」
彼女の呼びかけに、少女は応えない。紐の切れた操り人形のように、ぐったりとしている。気を失っているようだった。
その時、彼女のすぐ横にカランカランと音を立てて、何かが落ちた。それは鋸だった。
「――食いなさい」
彼女にとって慣れ親しんだ声が背後から聞こえた。
「……お父さん」
「純、早くしなさい」
彼女は震える手で鋸を掴んだ。
「いやだっ!」
彼女はその鋸を振りかぶって、自分の父親へ襲い掛かる。
しかし、彼女はあまりに非力だった。
父親は彼女を蹴った。
そして、懐から何かを取り出した。
拳銃だった。
それを彼女の方へ向ける。
「あっ、いやっ」
一発の銃声。
彼女は死を覚悟した。
「……?」
しかし、いつまでたっても痛みは訪れない。
彼女は顔を上げる。
父親は銃を少女に向けてはいなかった。
その銃口の先を、彼女は目で辿る。
「凛……」
鎖で繋がれていた少女の腹のあたりが赤く染まっていた。
彼女は少女の元へと駆け寄る。
「そんな……凛っ!」
少女はそれでもなお起きる様子がない。
「凛……」
その時、彼女の顔が歪んだ。
彼女は自分の身体を見下ろす。
腹のあたりが赤く染まっていた。
「――同調は上手く行ったようだな」
「食いなさい、純」
彼女の父親は繰り返す。
「死にたくないのなら、食いなさい」
そして、彼女は――
全てが済んだ後、彼女はぐったりと壁にもたれ掛かった。
「凛……これで……」
笑うその口元は――赤く染まっていた。
「これで、ずっと一緒だ……」
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