三章「死神」

 

 桂が【悪の此岸】に加入して数週間が経った。

 桂は毎日〝アジト〟に通い続けていた。彼が【悪の此岸】に加入する前に覚悟したのは、壮絶な【能力者】たちとの戦い。しかし、彼がやったことといえば今のところ、秋島純の身の回りの世話のみである。

 ふと外を見ると、いつの間にか外は真っ暗だった。ついさっきまでは純の心に憂愁とかそういったものを訴えかけていたオレンジ色もいつの間にかその色を消されて、孤独で虚ろな本当の空の色がそこにある。もっとも、空なんてものが果たしてどこにあるのかなんて桂には知ったことではないけれど。

「なあ、秋島総長、訊いていいか」

「だから何度も言うけど、総長なんてつけないでいいって、仰々しいな」

「秋島」

「なんだったら下の名前でもいいぜ」

「秋島」

「いけず」

 ひねたような口調。あとそれはもう死語である。

「――しかし、君の方から僕に話しかけてくれるとは珍しい。いいぜ、僕は君のどんな質問にでも答えよう。さあ、来い。僕を質問の嵐で丸裸にしてくれたまえ」

「まあ、お前に迫るような質問をする気はないんだけど」

 自分に向かって両手を大きく広げる純を桂は突っぱねる。

 純はそのまま後ろ向きにソファに倒れこんだ。

「俺、こんなんでいいのか?」

「こんなんって? 何か不満かい?」

 倒れたままの不自然な姿勢で、視線だけを桂に向けて純は言う。

「いや、不満はないよ。むしろ逆かな。申し訳ないっていうか」

 そう。桂は別に不満があってこんなことを言っているわけではない。

 昨日自分の口座に振り込まれていた最初の報酬。それは一か月の半分しか働かなかった割にはかなり大きな額だった。

「――それなのに俺がやったことといえば、お前が散らかした書類を片づけたり、お茶を汲んだり、楽なことばっかり。それであれだけもらっても、むしろ怖いんだが、俺は」

「そうか? 実際君のおかげでかなり助かってるぜ。前は鉄森のやつ――妹の方な――が週に一回くらい来て部屋を片づけてくれてたんだが、一週間も空くと次来るまでには大分散らかしてしまってな。君が来てからは快適に仕事が出来るよ」

「お前がそれでいいっていうなら俺に文句はないんだけど」

「まあ、君のメインの仕事は僕のボディガードだからな。君がいれば僕はいつでも気兼ねなく外出することができる。少なくともこのマンションにいる間ならボディガードは必要ないのだろうが」

 綜合警備保障も顔負けのセキュリティがあるからね、と純。最初にここへ来た時に、あんなにも早く彼女に接触されたことを思い出しながら、桂は言う。

「そこがまずおかしくないか。俺はまだ入ってきたばっかりなんだぜ。そんな奴にそんな仕事を任せてもいいのかよ」

「あはは、違う違う。来たばかりだからこそ、僕の傍に置いてるんじゃないか」

「…………」

 そこで純は「おっと、口が滑った」と言った。

「……まあでも、あんまり意図は確定させてないんだよね。ボディガードとして使えたならそれはそれでよし。ボロが出たなら僕が責任者として対応する――そんな感じかな」

「対応、ね」

「だから、逆に言えば、僕が自ら依頼に着手するときは君にも付いてきてもらうってことさ」

 彼女は何とはなしにそう言う。

「雨月くん、君は戦うことが好きかい」

「……別に、そういう闘争本能が疼くとか、そんな意図で言ったわけじゃないよ」

「本当に?」

「ああ」

「林檎との戦いは楽しくなかったのかい?」

「…………」

 どこから伝わったか知らないが、把握されていたらしい。

「正直、降って湧いた災難って印象だよ、俺個人としては」

「じゃあ、もっと別のものが楽しかったのかな」

「……それは――」

 桂が抗議の声を上げようとしたその時、唐突に部屋の電話が鳴った。

「あーもしもし? なんだ瀬名か」

 瀬名。

 桂も何度か顔を合わせたことがあるが、なんというか不思議な女性である。

「……うん。分かった」

 そして、純は受話器を置き、桂に向かって言った。

「丁度いい。荒っぽい仕事がきたぜ、雨月くん」


      Φ


 ここは【悪の此岸】のアジトであるマンションの駐車場。

「もしもしユウか? これからだけど急な仕事が入ったから、君も――え? 学校? 土曜日なのにか、たいへんだなあ……へえ、生徒会の仕事がねえ……って、は!? 生徒会!? 君、生徒会なんか入ってたの!?――」

 純がユウに電話をかけている隣で桂は体をほぐしていた。特訓自体は毎日欠かしていないので体が鈍っているということはないとは思うがなにぶん実戦は久しぶりだ。念入りに準備をしておくに越したことはない。

「分かった。じゃあ、とりあえず終わったらでいいから来てくれ。詳細はメールで送っておくから。……ライン? 線か? 何だそれは。知らん」

 純が電話を切った。

「お待たせ。さて、では行こうか」

「お前、その格好で行くのか」

「ん?」

 純は自分の格好を見下ろす。

「いつも通りだろ」

「いや、そういうことを訊いてるんじゃなく」

 カットシャツ、サスペンダー、スラックス。

「動きづらいだろ」

「あーなるほど。でもまあ問題ないよ。デスクワークだろうと前線だろうと、これが僕の仕事着だから」

「……ふうん」

 質問の答えになっているかは微妙なところではあるが、まあ純がいいというなら文句は言うまい。

「ちなみに五着を着まわしてるから衛生的には問題ないぞ」

「それは知ってる」

 なぜならそれを洗濯するのも桂の仕事のうちだからである。

「ただ下着まで俺に洗わせるのはどうかと思うぜ、秋島」

「何? 気になるの」

「そういう言い方はやめろ」

「まあしょうがないよね。雨月くんももうお年頃だ」

 やれやれ、と肩を竦める純。そのからかうような態度にむっとした桂はポツリと漏らす。

「……そんなことを言うならもっとマシなもの選べよ」

「なんだと!?」

 純は激怒した。

「僕の下着のどこがいけないというんだ!」

 感情を露わにする。

「柄」

「あれがいいんだろうが!?」

「ファンシーすぎる」

「いいだろう別に! 僕は女の子だぞ!」

 純はボルテージを上げていき、しまいには頭を抱えて「ぐぬぬぬぬ」とうなりだす。

「――上等だ! そんなに言うなら脱ぐ!」

「はあ!?」

 サスペンダーを外そうとする純。

「パンツ見せる!」

「やめろ馬鹿」

 桂はサスペンダーの背中部分を思い切り引っ張って離した。

 スパンと小気味よい音が駐車場に響く。

「うにゃっ!?」

 純はその場に倒れ伏す。

「……」

 思いの外、叫び声が可愛らしかった。たしかにその気ままさとか、思えば猫っぽい部分もありはしたが、しかし叫び声で猫になる必要はない。

「痛いな! 何をするんだ!」

「お前が悪い」

「んぐぐ」

 恨むような目つきでこちらを見上げてくる。

「ちっ。覚えていろ。――行くぞ」

「……」

 つくづく。

「変な奴だな」

 桂は呆れたように呟いた。


      Φ


「で、どんな奴なんだよ今から狙いに行くって奴は」

「まあ、当然【異能遣い】だね」

 桂は相変わらず姿勢の悪い純の左斜め後ろを歩く。桂はいつものように【枝霧】をドラムのスティックケースに入れているが、純は得物の拳銃を腰のポーチに入れているようだ。

「少し遠いが一応縄張り内で起こったことだからね。僕らが自ら手を打った方がいいだろうということで、上が手を打ってこの件はウチが独占することが認められた」

「上? お前がトップじゃないのか」

 それに縄張りなんてものがあることも初耳である。

「今の世の中、何をするにも資金がなきゃどうしようもない。後ろ盾ってもんが必要なのさ。上ってのはその後ろ盾を仕切ってる人間のこと」

「ふうん」

「じゃあ、話を戻そう。その目標は、性別は男。身元はすでに特定されてるね。名前が坂巻清十郎さかまきせいじゅうろうといって年齢は四十五だ」

「身元?」

「元はオモテの人間だったみたいだね。まあ、珍しいことではないさ」

「へえ」

「六人殺してる」

 純は言った。

 その数字に何の感慨もなさそうだった。

 そんなものだろうと桂は思う。そういうことにいちいち胸を痛められるような世界では――ここはない。

「…………」

 桂自身もそうだ。彼が身を置くこの非日常。いつのまにか、それは彼の日常になっていた。

 それが悲しい事なのかどうかは、純と違って達観していない桂には分からない。

「何を難しい顔をしているんだ君は」

 いつの間にかこちらを振り返っていた純が桂の顔を覗き込んでくる。

「いや、なんでもないよ」

 桂は手を振って否定する。

「なんでもないってことはないだろうに。どうせ庶民な君のことだ。六人の犠牲者に胸を痛めていたのだろ」

「それも、微妙に違うんだけど」

「あ?」

「お前は、なんとか思わないのか」

 純が突然噴出した。

「……なんだよ」

「いや、ごめん。君は僕のことを考えてくれてたんだな。そうかそうか」

「…………」

 確かに、自分のこの思考がお門違いのものであることは桂も分かっていた。

「――だからって笑うなよ」

「ごめんごめん。つい、ね。君はやっぱり面白いなあ」

「……」

「そう睨むな。そうだね。僕も人間の魂を尊いものだと思っていた時期があった」

「へえ」

「いつからだろうな。人の死に胸を痛めなくなったのは」

 純は遠い目をする。

「でもそれは異常なことではないと僕は思うよ」

「どういう意味だ」

「それは、この世界に限られて起こるようなことではない」

 桂は首を傾げる。

「人間はどんなことにでも慣れてしまう生き物だ。人間が求めるもの――心の安らぎとは突き詰めてしまえば停滞のことだからね。どんな新鮮で刺激的な行為でも人間はそれを繰り返し経験する内にいつか慣れる。慣れてしまえる。だから、どんな感動も、衝動も、動揺も、時間が経てば名前だけの概念になっていくものさ。人を殺すってことでさえ、例外ではない」

 いつの間にか桂は純と並んで歩いていた。その横顔は何かを悲しむようでもあったし、何かを諦めているような表情でもあった。

「補足をしようか」

 純は子どもをたしなめるような口調で言う。

「僕たちの目に見える世界は三段階の相を持つんだ。これは大昔の偉いやつが言ったことの受け売りなんだけどね、僕たちは世界に対してつまりは三つの接し方をする。感じて、受け容れて、考える――厳密に言うともっと繊細な言い方が出来る事なんだけどね」

 純は桂をちらと見て微笑んだ。

「これでもかなり噛み砕いてるんだけど、少し難しいかい?」

「いや、大丈夫。続けていい」

「わかった――これらに即して言えば、たとえば誰かが死んだとき、僕たちは、悲しいと感じ、悲しいと悟り、それを元に悲しいという言葉――一つの規則を生み出す。規則と言うのは元を辿れば推論によって生まれるものだよね。そして、僕たちは多分あり方としてこの感覚から悲しみを抱くのが本来正しいのだろう。それが理想だ。そして――幻想でもある。さっき言ったように僕らは慣れてしまう生き物なのだからね。この三段階のプロセスは、生きていくうちに逆転していく。つまり、どのように人は悲しむのかを知るから、自分が悲しいのだろうと悟り、自分が悲しいのだろうと知るから、悲しいと感じなければならない。子どもが怒りやすかったりするのを語彙不足のせいだなんてことを言う輩がいるけど、その怒りやすさはこの逆転現象を起こせないことから生じる問題なのだろうね。そして、面倒くさがりな人間は、この『感じなければならない』という段階を放棄するようになる。これもまた慣れるということなのだろう。そういうもんさ。性善説も性悪説もありはしない」

 一息に喋った後、純は一つ短く嘆息した。

「――君はどう思う?」

 桂は戸惑う。随分急なフリだ。

 それでも彼は考える。

 少しの沈黙のあと、答えた。

「多分、悲しいと思う」

「ふふ、純情だね、君は。だけど、さ――」

 純は歩きながら人差し指を立て、ニヤリと笑って言った。

「僕らは自分がどんなふうに世界に接しているのかなんて気になんかしちゃいない。たしかに、僕は人の死に感慨を抱かなくなった。身内のそれならまた話は別だろうけどね――でも、今でも命は尊いものかと問われれば僕は間違いなくイエスと答えるだろう」

「それは……」

「それは悲しいことだとは君は断定できないだろう」

「…………」

 そのたった一言で、純はそれまでの議論をまとめてしまった。

 桂は舌を巻く。

 同じだけの年齢しか生きていないはずの少女にこんなふうに諭されるのは、奇妙な気分だったが、不思議と不快ではなかった。

「まあ、こんなことを言ってはみたけどね。どんなふうに詭弁を並び立てても、言動と行動が一致しないという人間のあり方はやはり言ってしまえば悪なのだろう――だが、それがどうしたと、僕はそう声を大にして言いたいね」

 それから、純は桂よりも一歩大きく踏み出て、最初と同じ立ち位置を取った。

「それにね、ここに――【悪の此岸】に来たのなら〝悪〟を恐れるなよ、雨月くん」

 桂は自分が所属した集団に対し、捻くれた連中の集まりだと勝手に断定していた。しかし、その瞬間、彼は認識を改めることになった。

 集団――【悪の此岸】。

 ここは、捻くれていて、そのくせ真っ直ぐな人間を集めた場所なのだ。

「さて、では話を戻すけどね。これから言うことを考えると、今した話もあながち無駄ではないのだ。慣れてしまうってことは実にありふれたことだよ。そうすれば〝人を殺す〟ってことに慣れてしまう人間だってあり得る。何の感慨もなく人を殺せてしまう人間がいる」

 純は言う。

「これから、僕たちが狙う【殺人鬼】――彼もまた慣れてしまった人間さ。人の命の重みにね」

「……おい、秋島、それは――」

 何かを言おうとした桂を純は片手を挙げることで制する。

「君にとっても思うところがあるだろうが、悪いね。あまりゆっくり議論もしていられない――もう着くぜ、雨月くん」

 桂は目の前の大きな門を眺める。

 ここは【悪の此岸】がその居を構える九軒町という街の郊外。

 それが先ほどまでいたのと同じ町の中だとは思えないような、人よりも自然が幅を利かせる土地の中で、その廃屋は異様な存在感があった。自分が普通の子どもだったら、ここはきっといい遊び場だったのだろう。

「何だここ」

「住宅」

 それは巨大な武家屋敷。

「ここがターゲット――坂巻清十郎の潜伏場所だ」

「でかいな……」

「見ての通り、現在、人は住んでない。十年くらい前には老夫婦が住んでいたらしいが、相続する親類がいなかったのだろうね。町の開発もまだここまでは及んでないし、だから、こうして、住人もないのに解体されずに残っているんだろう。こんな土地の有り余った田舎じゃ、買い手がなかったのも頷ける。まあ、どんな事情があるにせよ、潜伏するのにはうってつけと言えばうってつけだね」

「ここにいるのか」

 六人の人間を惨殺した男が。

 緊張で桂の胸が高鳴った。

「――じゃあ、行ってらっしゃい雨月くん」

「は?」

「何を驚いた顔してるんだい」

「いや、お前は来ないのか」

「あれ? 僕、行くなんて言ったっけ」

「言っては……ないけど」

「だろ? 今回はあくまで君の試験運用を兼ねたものだから。共闘するならなんとしてもユウも呼ぶし」

「……そういうことは先に言えよ」

「先に言ったところで何も変わらないだろ」

「変わるだろ! 気持ちの問題で」

「あのねえ雨月くん」

 純は呆れたような顔で言う。

「君が今までどんなふうにこの世界と関わっていたかなんて知らないけどね、君、この最前線の世界でいつでもいちいち気持ちなんか作る余裕があると思うかい?」

「……それは、たしかにそうだけど」

「だろ。いいからさっさと行きたまえ」

 丸めこまれている感じがなくもないが。

「……分かったよ」

 桂はしぶしぶ首肯するほかなかった。


      Φ


 屋敷の中は酷く散らかっていた。

 締め切った屋内は薄暗く、不気味だ。

 床板の軋む埃っぽい廊下や物が散乱する畳の間を桂は靴を履いたまま進み、探索する。表情や立ち振る舞いには余裕があるが、抜身の【枝霧】を手に、いつ現れるかもわからない目標の気配に神経を研ぎ澄ませる。

「でも確かに生活感はあるな」

 通った扉や障子はその都度閉める。自分の存在や居場所を相手に気取られないようにするためだ。

 桂が入った部屋の床には誰かが使った後のある敷きっぱなしの布団や、部屋の隅にまとめて放置された食べ終えたカップ麺の容器がある。

 どうやらここが寝床のようだ。

 しかし、純の案内のままにここへ来たはいいが、果たして本当にここに目標は潜伏しているのだろうか。仮にそうだったとしても、今は外出している可能性もあるのではないか。そうなればむしろ危険なのは待機している純の方である。

 純のことに気を向け始める桂。しかし、そこで妙な匂いが鼻を突いた。

「……焦げ臭いな」

 鼻を押さえたくなるような臭いだが、そこはこらえて、その大元を探し始める。

「ここは、風呂か」

 臭いの元を辿っていくと脱衣場に出た。

「何だこれ」

 桂は風呂場の壁に妙な焦げ跡が付いていることに気付いた。

『――今回の目標は火――あるいは熱を使う』

 ここへ来る間の道中、純から聞いた情報を思い出す。

『具体的な使役方法は分からないね。ただ、遺体の様子からするに、多分、ある範囲を集中して焼くような物だろう』

 どうやら、この焦げ跡は目標の能力で開けられたもののようだ。

「……さて」

 それから、桂は風呂釜の方を一瞥する。

『何故そんな詳しいことまで分かったか。それは被害者の遺体がすべて同じような状態だったからさ――』

 桂の質問にそのとき純は至極簡単そうに答えた。そして、その答えを桂は今改めて確認した。

「……なるほどね」


 風呂釜には真っ黒な顔をした死体が口を開けて横たわっていた。


『――被害者は全員、顔面だけ炭にされていたんだ』

「七人目、か」

 桂はその場に膝をついてすでにただの物と化したそれを検分する。来ている服から察するに、多分女性だろう。

「…………」

 今の桂に彼女に対し手を合わせてやるような暇はない。とりあえず先に終わらせなければいけないことがある。

「そうだ、秋島……」

 一旦、戻るべきだろうか。

 どちらにせよ、目標が不在なら、いつまでもここにいるわけにはいかないし、たまたま帰ってきたところに純が出くわしてしまう可能性だってある。

 桂は立ち上がり、もう一度無残な死を遂げた彼女を見る。

 胸の――奥の方から一つの感情が湧き上がって来る。

「――どんな気分だった。〝鬼〟に殺されるのは」

 しかし、彼女は何も答えなかった。

 桂は溜息を吐き、純の元へ戻ろうとする。


「――見つけた」


 背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 桂は視線を背後へと向ける。

 そこにはギラリと光る獲物を見つけた獣の目があった。


      Φ

 

 すぐさま浴びせられた攻撃を、桂は男の懐に潜り込むようにして回避した。

 そのまま背後へと回り一度距離を取る。

「坂巻……清十郎……!」

「人の家に土足で踏み入るなよ」

【異能】によって巻き起こった煙に隠された坂巻清十郎の身体が露わになり、桂はそこで一つの異常に気付く。坂巻は今、上半身に服を纏っていない。そして異常なのはその両腕。程よく筋肉のついた無骨な腕。それがまるで絵具で塗ったような赤色に染まっていたのである。その表面には光沢があり、薄く光っているようにも見える。

 そして、次の瞬間、桂を襲う熱気。

 どうやら、これが坂巻の能力のようだ。

「人の家って、お前の家じゃないだろここは」

「おい、目上の人間には敬語を使うように習わなかったか」

 両腕を高温にする能力。風呂場のあの遺体は、あの両手で顔を握りつぶされたのだろう。

「訊きたいことがある」

「なんだ」

「何故殺した」

「何故? おかしなことを訊くな。こんな力を得ておきながら、使わないって方がイカれてる。だって、俺たちは特別な存在だろ?」

「そうか」

「そういうお前はどうなんだ? あれだろ? お前、【治安隊】ってやつだろ。一体どんな【異能】を持ってるんだ」

「情報がこんがらがってるな。誰に聞いたのか知らないけど、【治安隊】は別に【能力者】を集めた組織じゃない。中にはそういうやつもいるみたいだけどね」

「じゃあ、なんだお前は」

「ちょっと変わった組織にいる研修中の新人さ。【異能】は持ってるぜ」

「やはり、そうか。同類を相手にするのは初めてだな」

「……同類ね」

 それは当然、坂巻にとっては【異能遣い】として、という意味なのだろうけど、彼が〝鬼〟と呼称されるような人間の一人だと認識している桂としては複雑な気分である。

「……どっちにしろ、一緒にしないでほしいな」

「何だ? この俺を侮辱しようってのか」

 桂は先ほどの純との会話を思い出す。

「『悪を恐れるな』ね――違うよ。俺はお前のことを見下してるわけじゃない。むしろ見下されるべきは俺の方さ」

 劣っていること。

 すなわち――劣悪であるということ。

【枝霧】を胸の前に構える。

「――お前なんかが、俺の〝悪〟を穢すなよ」

 戦闘開始である。


      Φ


「……とりあえず、お手並み拝見だ」

 駆け出す桂。

 ついこの間、林檎との戦闘においてさんざん後手に回されたのは苦い思い出である。しかも、今回は最初から相手の【異能】が分かっている。純も待っていることだし、さっさとカタを付けてしまおう。

 しかし。

【枝霧】を振りかぶった桂に対し、坂巻は攻撃ごと巻き込むようにして正拳突きを繰り出してきた。

「――あっぶねえっ」

 桂は咄嗟に這うようにして体勢を低くし、それを躱す。

「刀なんざ怖くねえ」

 振り返った桂の前で力を誇示するように壁に手を触れる。その周りの壁が見る見るうちに焼け崩れる。

「俺に燃やせないものはない」

「……なるほどね」

 これはかなり苦戦させられそうだ。

 それも、以前やりあった鉄森林檎とは別種の強敵。

「くそ。熱いな」

 それに、問題は坂巻の攻撃自体だけではなかった。坂巻から伝わる熱気がこの部屋を覆っているのだ。

「扉、全部開けっ放しにしとくんだった」

 漂う熱気に桂は息苦しさを感じる。この距離にいてさえ皮膚の表面に焼かれるようなのである。すれ違う瞬間はまるで燃え盛る炎の中に突っ込んだような気分だった。こんな状況では戦い云々の前に体力がもたない。持久戦になればまず勝ち目はないだろう。

「あの腕に直接触られるのはヤバいな――なら」

 決心して、もう一度、桂は坂巻に飛びこむ。

 繰り出された拳を、体勢を低くして避ける。

「――下だ!」

 すれ違いざまにその足元へと一閃。

 しかし、その感触は肉を断ったようなそれではなかった。

「――っ!」

 手の中に残るビリビリとした感覚。桂が切った部分は異常に硬さを持っていた。

「弱点に対策をしていないとでも?」

 裾のあたりから鈍く光る何かが覗いている。どうやら脚を鎧のような物で保護しているらしい。

「……用意周到だね」

 桂の中に疑念が生まれる。

 坂巻は素人だと純から聞いていたし、実際その通りであると桂も感じていた。

 しかし、少し用意が良すぎやしないだろうか?

「まあ、あとで聞き出せばいい」

 桂は構える。

「……俺の実力じゃ斬鉄なんて出来るわけないな」

「どうした? 表情に余裕がなくなってきたぞ」

「…………」

 実際その通りだった。

 こんな環境では消耗が激しい。

 すでに意識が霞がかったように朦朧としだしている。

 たった二回の交錯でもう心が折れてしまいそうだ。

「じゃあ、俺の番だ」

 坂巻が突っ込んでくる。

 縮まる距離に比例して上昇する温度。

 桂は顔を歪めながらも視線は逸らさない。

「燃えろっ」

 坂巻は正拳を繰り出してくる。

 桂はその高温の塊をギリギリまで引きつけて避ける。

 拳がすぐ横を通り過ぎ、顔の表面が焼ける。しかし、それでも確実に避けることが優先だ。あんなもの直接くらえば一たまりもない。

 桂はそのまま坂巻の股の間をすり抜けるようにしてその背後へと回る。

 下半身にあんな鎧をまとっている分、足元の動きは鈍重だ。そこを徹底的に突けばなんとか攻撃自体はやり過ごせるだろう。弱点対策がむしろ仇となったといえるかもしれない。

 坂巻は上半身を捻って背後の桂に向かって薙ぐように腕を振るう。

 桂は坂巻とは反対側の、自分の向いていた方向に跳び、それを避ける。

「……それで、勝算もあれば最高なんだけど」

 桂はとっさに判断して目の前にあった襖から部屋の外へ跳びだす。

「……一旦離れるか」

 熱気は廊下にまで充満していた。おそらくは坂巻が桂を探しながらここを通ったのだろう。あの部屋に比べれば幾分かはマシだが、それでも環境としてはやはりかなり応える。

 桂は噴き出す汗を拭いながら廊下を駆ける。

「少し、姑息だけど……」

こうなれば、どこかに身を隠して、坂巻の不意を突くしかない。下手に上半身の赤くない部分を狙ってあの腕に捕らえられるのはあまりにリスクが高すぎる。


「――どこへ行くんだよ」


 その声が聞こえた瞬間、桂は急に立ち止まって背後へ跳んだ。

 次の瞬間、廊下の壁を貫いて現れる真っ赤な腕。完全に避けきることが出来ず、その腕は桂の胸元を水平に掠めた。

 触れられた部分の服は一瞬で焦げ、胸元の皮膚が焼けただれる。ほどなくして、そこから真っ赤な血が滲んだ。

「痛っ――てえっ」

 あまりの熱に、一瞬遅れて痛みがくる。

「甘いな」

 坂巻が、先ほど風呂場でそうしたように壁をぶち破り、左手で瓦礫から自分の身体を庇っている桂の前に立ちふさがる。

「ここは俺の根城だぞ? 追いかけっこして勝てるとでも思ったのか?」

「くそっ」

 倒れ伏す桂の顔に、坂巻の開いた手が迫る。

「――これで終わりだ」

「――っ」

 しかし、勝利を確信した坂巻の手は虚しく宙を掴んだ。

「……?」

「――……間一髪、だ」

 背後から声が聞こえる。

「……ほう」

 坂巻の手を逃れた桂は振り返った先にいた。

「〝瞬間移動〟ってやつか」

「どうかな」

 桂はとぼけて肩を竦める。

「とりあえず、やっと一太刀だ」

「?」

 坂巻は自分の左腰を見下ろす。

 そこには一筋の線と、そこから漏れる赤い滴。

「貴様っ……!」

「さすがに熱くて溶けるかと思ったけど――我慢の甲斐はあったな」

 坂巻の額に青筋が浮く。しかし、彼はすぐに平静を装った。

「……上等だ」

 坂巻はにやりと笑った。

「まずその刀を溶かしてやる。貴様を殺すのはそのあとだ」

「やれるもんなら」

 桂は坂巻に対し取り繕った笑みを返した。桂の気力も、この熱気でもう限界に近い。このままでは埒が明かない。

 そろそろ、覚悟を決める時が来たかもしれない。多少のリスクは伴ってでも、ここは賭けに打って出るしかない。ハナから安全な勝利などあるとは思っていない。やるかやられるか。ここはそういう世界なのだ。

桂は一つ大きく深呼吸をする。

「次で、最後にする」

 そう言って目の前の敵を強く睨み付ける。

「来い」

 坂巻が笑う。

 それを見て、桂は飛び出した。

 今この瞬間だけ恐怖はただのお荷物だ。そんなものは捨てて、全ての感覚をこのたった一回の交錯に注ごう。

 あと一歩。この右足の踏み込みで、間合いに入る。

 桂は【異能】を発動しようとする。

 しかし。

「――――」

 強く踏み込もうとした桂の右足から、急に力が抜けた。

「……クソ」

 桂の体力は超高温の中で既に消耗しきっていた。

【枝霧】を取り落とし、桂は膝から崩れ落ちる。地面に手を突き、そこで初めて自分の呼吸の粗さに気付いた。

「……ふん、結局そんなものか」

 頭上から浴びせられる嘲笑。

「では、宣言通り、その武器をまずいただこう」

 坂巻が、その足元へと転がった桂のたった一つの得物に、手を伸ばした。

「やめろ……」

 桂は倦怠感に襲われていた体にもう一度鞭打ち、立ち上がる。しかし、すでにもう手遅れだった。

 坂巻は【枝霧】を手に取った。そして薄く笑うと、もう片方の手で、刀身を握りつぶす。出力を上げるように、その手元がさらに眩く、煌々と輝いた。

 そして。


 次の瞬間、坂巻の足元には真っ赤な色をした液体が滴り落ちた。


 極限まで熱せられた金属の有り余る熱エネルギーの一部分は光のエネルギーへと変換され、オレンジ色に光る。

 坂巻は、一度はそれを融けた刀だと思いにんまりと笑った。しかし、すぐに違和感に気付き、その表情が硬直する。その液体の色は朱ではなく、紅。

 地面に落ちたのは融けた刀ではなく――坂巻の血液だった。

 坂巻は見る。

 さまざまな物体という物体を溶かし、そして、いくつもの金属を融かしてきた超高温の両腕――その中でその刀は――未だ尚、毅然として、一本の刀としてあり続けていた。

 坂巻は驚きのあまり、【枝霧】を取り落とす。

「――……そっか」

 しかし、それは地面に落ちることなく、その前に【異能】を発動させた桂によって、その手の内に再び摑まれていた。

「これが――〝呪い〟ってことか」

 桂は力なく笑った。

 それは、もはや自分にはどうしようもない現実を突きつけられたかのような、憂いを帯びた表情だった。

 桂は幽鬼のようなゆっくりとした動作で、視線を坂巻へと向けた。

「な、なんだその刀は」

「〝終わりのない凶器狂気〟――【枝霧】」

 桂は、ただ物憂げに、その刀を握りなおす。

 それまで坂巻のあの手に握られていたはずの刀には一切の熱が残っておらず、やりきれない気持ちの矛先を向けるように、強すぎるくらいに手に力を込めた。

 その眼には、もはや覚悟すら宿ってはいない。

 命を賭したそれまでの戦いは、今の桂にとって、もはやただ消化するだけの単調な作業でしかなくなっていた。

 その様子に、坂巻は戸惑う。

 今の出来事で、何かが変わった。それは言うまでもない。しかし、一体どうして? 確かに、自分に溶かせない物体があるということには、坂巻も驚いたし、その得体のしれなさを不気味にも思う。だが、たかだか得物を失う心配がなくなったというそれだけの事実が、なぜ彼をあそこまで変えたというのか。

 桂が坂巻に向かって歩き出す。

 そうだ、ハッタリに違いない。忙しなく巡る思考の中で坂巻はそう結論付ける。ただ、自分の動揺を誘うための――これは策略なのだ。

「う、うう……」

 しかし、そう断定したはずの坂巻は結局目の前の青年への恐怖を拭えずにいた。その歩みの一歩一歩が、何か不吉な結果へのカウントダウンのように思える。

「ううううう……」

 坂巻は重圧に耐えられず、ついに隠していた奥の手を発動する。

 次の瞬間、それまでは腕だけだった赤い色が上半身全体に行き渡った。

 文字通り真っ赤な顔をした坂巻が不敵な表情でハジメを見る。

「どうだ、これで――」

「だから、今更――そんなの関係ないんだって」

 だが、そんな変化を意に介することもなく、青年はその姿を消した。

「宗家雨月流――〝空蝉〟」

 桂が消えたと同時に、坂巻は上半身の数か所に衝撃を覚える。

 なかでも、頭部へのそれは――決定的だった。

 かくして。

 坂巻清十郎は雨月桂の手によって打倒されたのである。


      Φ


 近くに壁にもたれ掛かり、額を押さえながら桂は呟く。

「六発か。こんなバッドステータスの割にはなかなか悪くない数字だ」

 桂は倒れて動かなくなった坂巻を見下ろす。

「俺にとっての不安材料は一つだった。お前の無鉄砲さだよ」

 こちらの攻撃を無視してしまえるような滅茶苦茶さ。それが坂巻の【異能】にはあった。絶対的な火力。その前には、どんな物体も紙切れのように燃やし尽くされてしまう。つまり、彼は何も考えず、ただ攻撃することにだけ意識を向けていることが出来た。闇雲に暴力を奮うことが出来た。

 桂が脅威に感じた部分はそこだ。桂の【異能】ならあるいはそれを上手く避けることも出来たかもしれないが、しかし、如何せん、相手があまりに素人すぎるために、桂は万が一のことを考えざるを得なかった。

 だが。

「――コイツは、どうもその無鉄砲さごと切り崩せる力を持ってたらしい」

 桂は自分の手元の凶器を見下ろす。

〝攻撃を無視する〟という相手の攻撃姿勢の前提となるものそれ自体をひっくり返すだけの性能が【枝霧】にはあった。それによって、桂は勝機を見出すことになった。

 まあ、もっとも――前提を覆されたことで坂巻が怖気づいてしまい、その無鉄砲さによる物量重視の攻撃も、最後にはナリを潜めてしまいはしたのだが。なりふり構わず攻撃を繰り出して来れば、また別の結果になっていたかもしれないというのに。

 どちらにせよ。

「ふう」

 これで決着だ。

「――あ、かふっ」

 地面に伏せった坂巻が、唐突に咳き込んだ。

「なんだ、もう立ち直ったのか」

「た……頼む、見逃してくれ」

 その体勢のまま坂巻が懇願してくる。

「まあ、それによって俺が何をするってわけでもないんだけれど、一応職務の一環として、訊いておきたいことがある」

「言えば……見逃してくれるのか」

「考えてやらないこともない」

 桂は淡々と答える。

「お前が〝こっち〟に来るきっかけを作ったのはどこの誰だ」

「……知らねえ」

 桂は【枝霧】を振りかぶった。

 その気配を悟ってか、慌てて坂巻が言う。

「ほ、本当だ……俺に【異能】をくれた奴は自分のことを何も明かさなかったんだ!」

「全く何も話さなかったのか」

「そ、そうだよ。……いや、待て。そうだ。カガリビ……アイツがどっかに電話を掛けた時にそんなことを言ってるのを聞いた」

「……篝火?」

「そう、それだ! なあ、話したろ! 頼むから殺さないでくれ」

「……俺は『考える』、としか言ってない。それに、お前の手配書は生死問わず、だ」

「くそおっ」

 最後の抵抗とばかりに、坂巻の上半身が赤く染まった。

 しかし、桂は坂巻が起き上がるよりも前に攻撃を放った。それをモロに後頭部にくらって今度こそ坂巻は気絶し、動かなくなった。

「悪いけど、お前とは背負ってる業が違う」

 坂巻が倒れた拍子に、解除し切れなかった【異能】の熱が、周囲の畳を燃え上がらせる。

 桂はそれによって取り乱すこともなく、【枝霧】を再び構えた。

「とどめを――」

 一発で確実に止めを刺せるように、心臓の位置のアテをつける。

 刃を今まさに振り下ろそうとしたその時、桂の心に何か黒いモノが渦巻いた。

「…………」

 そして、桂は高く上げた刃を――


      Φ


 門を出たあたりで、燃え盛る家屋を見ながら、どこか他人事のように純は言った。

「――随分派手なことをやったねえ」

「うん。瓦礫の下から死体は二つ見つかるだろうからそのつもりでいてくれ」

「何?」

 純は片方の眉を吊り上げる。

「あれは……多分女の子だと思う」

「……そうか」

だが、すぐに意味を理解したようで小さな溜息を吐いた。

「後始末は【治安隊】にでも任せるんだろ? 行こうぜ」

「なぜ止めをささなかった」

「……見てたのか」

「当たり前だろ、試験運用なんだから」

 純は咎めるような視線を桂に送ってくる。

「どうせあいつは目を覚ます前に焼け跡の下敷きになって死ぬよ」

「自分で直接手を下すのが嫌ってわけかい」

「……さあね」

「君は甘ったれだな。〝鬼のなりそこない〟ってのは――つまりあれか? 君が自分の手を汚すのが怖いってことなのかい?」

「……」

「だとしたら、くだらないな」

 純は溜息を吐いた。

「君はさっき反論しようとしていたよね。僕だって知ってるさ。あの程度の男が『殺人鬼』と呼ぶにふさわしくないものであることくらいは、ね」

 純は言う。

「〝鬼〟とはもっと概念的な――絶対的な存在だ。目の前にするだけで、それが一体どんなものなのか分かってしまうくらいに。便宜上の呼称としての比喩的なものではなく、本当にそのものとして――それをそう呼ぶよりも前からそのようにある存在は――たしかにいる」

「……お前は――」

「僕は〝鬼〟ってやつに会ったことがある」

「……」

 そうか、と桂は呟いた。

「あれはやはり、坂巻清十郎とは似ても似つかない存在だった。力の誇示のために人を殺すのは鬼ではないよ――人間だ。鬼とは怪物――人でなしだ。人間とは異なる常識の下にある存在なんだよ」

 純は桂の方を見ると、一拍置いて、続けた。

「君も――人間だよな。雨月くん」

「…………」

 桂は驚きもしなければ、その言葉を否定もしない。

「君は到底殺人鬼なんかには見えない――だのに何故その刀を持っている」

「それを訊きたいのは俺の方だよ」

 桂は言った。

「だって、俺は、〝鬼人のなりそこない〟なんだ」

「……だから、その〝なりそこない〟っていうのは一体何なんだい」

 桂は言いづらそうに口を開く。

「俺は……」

 その時だった。

 純の直感が何かの気配を敏感に感じ取った。

「――誰だっ」

 純は門の方を振り向く。

 隣では桂もすでに、【枝霧】を構えていた。さっきの戦闘でのこともあり、その刀自体のことについても知りたいことはある。しかし、それは後回しだ。

 純は桂が止めを刺さなかったばかりに、坂巻がまた目を覚まして反撃に来たのではないかと思った。

しかし、門の影から出てきたのは――やせぎすでいかにも優男のような風貌をした一人の青年だった。

「誰だ、お前……」

 桂がその男に声をかける。

 しかし、桂を無視して青年は言った。

「――黒いスラックスに、灰色のカットシャツ、サスペンダー……やあ、秋島純。迎えに来たよ」

 口調はトゲのない柔らかいもの。そうであるのにもかかわらず、そこには一切の温かみが感じられず、むしろ冷たささえ感じられる。

 純は――その男を知っていた。

 額に汗を浮かべて、余裕のない笑みを浮かべる。

「秋島?」

「おい、雨月くん、やばいぞ」

 一目見て憔悴しきっていると分かる桂に、純は最悪の報告をする。

「……やばいって、どうして」

「そうだな……目の前に気味が悪いくらい嬉しそうな笑みを浮かべた日野悠が立ちはだかっているのを想像してみろ」

「……そのくらいの状況だってことか」

「いや」

 純は否定する。

「それ以上だ」

「それは……やばいな」

 ただ、一応訊きはしたものの、そんなことをするまでもなく、桂の方も状況の危険さに気付いていた。彼が現れたその瞬間、この場の雰囲気が――まるで空気そのものに色が付いたかのように、明確に変化をしたからだ。

 今、世界の中心に、その青年は立っている。

 その眼に宿るのは虚無。

「何か、妙な気分だ」

 彼を見ているだけで、桂は不安な気分にさせられる。

「あんまり直視しない方がいい」

 動揺している桂に純が言った。

「――死にたくなるぜ」

 そういうことか、と桂は思った。

 そうだ、この不安は脱力感だ。彼を見ているだけで、桂はなんだか生きる気力をなくすような、そんな気持ちになるのである。

 彼の眼は、物珍しそうに桂の方を向いている。そこでもまた桂は違和感を覚えた。互いの顔を見ているはずなのに、なんだか目線が合わないないような、そんな奇妙な感覚。

「死にたくなる、ね。親しくもない人に対してそんなことを言うのはあまりに失礼じゃないかな」

「ふん。【死神】が何を言う」

 純が鼻を鳴らす。

 青年――【死神】はおかしそうに笑った。

「はは、もっともだね。それにそもそも、親しさ云々は関係なかったか。――しかし、【死神】なんて随分大仰な名前だよな。僕なんて、たった一人のか弱き人間に過ぎないというのに」

「よく言うぜ」

 純は肩を竦める。

「秋島、あいつと知り合いなのか」

 純は一瞬返事をするのを躊躇うような顔をした。

「……まあね。会いたくない相手だ」

 それもよりにもよってこんなタイミングではね、と純は独りごちるように言う。

 純は鋭い視線を【死神】に送った。

「君クラスを寄越してくるとはあの男もいよいよ切羽詰って手段を選べなくなってきたようだ」

「どうだろう。ただ面倒くさくなっただけかもしれないよ」

 薄く笑って彼は答える。

「元々、君を必要以上に傷つけないようにって意味で中途半端な【異能遣い】を送り付けてはいたけどね、そもそも君の【異能】を鑑みるならばそんな配慮なんて必要なかったんだ。まあつまりは君の精神を尊重するっていう気持ちがなくなったってそれだけのことなんだろうさ。まあ最近、僕らに対する【治安隊】の目も厳しくなってきていたしね。それがそもそもの原因としてあるんだろうけれど」

「そうかい」

 純はおどけるように肩を竦めて、それから――

「……胸糞りい」

 桂がこれまで聞いたことのない低い声でそう言った。

「僕は人間の表情の変化って奴がどうしても分からないんだけど、その声音から察するに君はどうやら怒ってるみたいだ」

「あの男に伝えておけ、『僕はアンタが大嫌いだ』とな」

「君が本人に直接会って言えばいい」

「……悪いがそのつもりはない」

「そう。――さてそろそろ、無駄話は止めよう。一応訊くけど、つまり大人しく付いてくる気はないわけだね」

「ない」

「だよね」

【死神】はそれまで手に持っていたものを地面に置き、ジーンズのポケットから、手の中に納まるほどの小ぶりなナイフを取り出す。

「――は?」

 声を上げたのは桂だった。

「ん? 何、この程度の装備じゃご不満かい」

「違う。そんなことじゃない。お前――」

 その声は幾分か震えていた。

「お前今、何を地面に置いた……?」

「ん、これ?」

 彼は淡々とした口調で桂に答えた。

「そこで拾ったんだ。ついでに持って帰るんだよ。悪いかい?」

 その足元に置かれた物。

 それは先ほどまで桂が対峙していた――

 桂は――それが地面に置かれた瞬間に初めて現れたように感じた。

「どうして……」

「どうしてって、台所の包丁を拝借してね。てっきり死んでるものだと思っていたら、寝ていただけみたいで血がいっぱい出たけど」

「……手段を訊いてるんじゃない」

「ん? 君は理由の方を聞いていたのか? 失礼。人の意図とか感情の機微って奴に僕は疎いんだ。理由……理由ね」

 それから、一拍置いてにこやかにいう。

「――持って帰るのさ、せっかくだから」

「はあ?」

 思わず、喉から、自分でも間抜けに思うくらい素っ頓狂な声が出る。

「雨月くん、あれがあの男の趣味なんだよ」

 割り込むようにして隣で純が言う。

「なんだよ、人が悪趣味みたいな言い方をしないでくれ」

「それがお前にとっての戦利品なのだろう」

「そんなつもりはないんだけどな」

「どういう意味だ」

「まあ、こっちの話さ」

【死神】と純が話す横で、桂は思い返す。

 何故、自分は彼がそんなものを持っていることに気付かなかったのだろう。

 そうだ。

 自分は確かに、彼がそれを持っていることを知ってはいた。しかし、それを持っている様子があまりに自然すぎて――あまりに風景になじみすぎて、その異様さに気付けなかったのだ。それを彼が手放して初めて、そこに違和感を覚えることが出来た。

 桂は彼への警戒を一層強くする。

 只者ではないのは分かるが、単純に戦闘能力の高い人間と言うわけでもなさそうだ。坂巻とは明らかに別種の存在である。

「じゃ、今度こそ、始めよう」

 彼がそう告げたのを聞いて桂は身構える。

【死神】は鷹揚とした足取りでこちらに向かってきた。

「下がれ、雨月くん。奴は僕が相手する」

「おい、何言ってんだ、お前を守るのが俺の……」

 桂は純を庇うように前に歩み出ようとする。しかし、不意に視界が眩み、その場に膝をついた。

「やはり、限界だな。だから言ったんだ。君は無理をするな」

 純はその手に握った拳銃を【死神】に向ける。

 一発撃つと、【死神】は横に駆け出してそれを避ける。続けざまに引き金を引くが、弾は当たらない。

「動くものに弾を当てるのは得意な方なんだけどな」

 しかし、そこは相手の技量に感服せざるを得ない。ただ超速で避けるだけでなく、スピードを唐突に緩めたりすることでフェイントを掛け、弾を躱していく。

「ちっ」

 計一六発の弾丸を使い切り、ポシェットの中から新しい弾倉を取り出す。

「銃なんて効率の悪いものをつかうなんて【悪の此岸】の総長らしいユニークな発想だ」

 その隙に、【死神】は純との距離を詰めてきた。

 新しい弾倉と取り換えながら、落とした空っぽのそれを空中で蹴り飛ばす。

「そういうのは――」

【死神】はそれをナイフで難なく弾き、間合いに入ってくると、純の首筋を狙い、鋭く一閃する。

 しかし、純は体勢を低くしてそれを避け、その隙に銃のスライドを引く。その動作を一瞬で終えると、地面に手を突いて右足で【死神】の細い片足をすくう。

「――勝ってから言えよ」

体勢を崩した彼の手元に、純はすかさずもう一度蹴りを繰り出す。【死神】はたまらずナイフを手落とした。

純はそのまま倒れる彼の上に馬乗りになった。

「頸動脈を狙ったな。殺す気満々じゃないか」

「君を信頼したのさ。秋島純」

「ありがとよ」

 つまらなそうにそう言うと、純は銃口を【死神】の額へ向ける。

「君の【異能】が〝再生〟の能力であることは噂で聞いている。でも、これならさすがの君も死は免れないだろうぜ」

彼は抵抗することもなくその小さな空洞を見つめていた。次の瞬間、純は何の躊躇もなく――撃った。

 一発の銃声とともに、【死神】は動かなくなった。

「終わった……?」

 まだ状況が呑み込めないといったふうに、傍観していた桂は口を開いた。

 なんというか、思いのほか呆気ない幕引きである。

 だが、ここは純を褒めるべきなのだろうか。自分が【悪の此岸】に加入したときの一悶着の様子から、てっきり純は戦闘を周りの人間に任せっきりにしていて、銃も護身用として持っているだけなのだと思い込んでいた。だが、何ということはない。あの時はただその気じゃなかっただけなのだろう。

 つまり。

「やっぱ遊ばれてたのか、俺」

 恨みがましく言う桂なのであった。

「おいおい、何をシケた面をしていやがるんだい」

「ボディガードなんていらなかったんじゃないのか」

 皮肉げに桂は言う。

「拗ねてんの?」

「……うるさいな」

「でも僕もユウとかくらいずば抜けて強いってわけじゃないぜ。林檎より少し上くらいかな」

 その林檎に、相手の【異能】は知っていながら自らの【異能】を明かさないという、なんとも大人げないやり方でようやく勝利した桂の立場からすれば、それは十分すぎるくらいの実力だった。

「……」

 桂は赤くした顔を、隠すように純から背けた。

「……そんなぷいっていう効果音が付きそうな感じで顔を背けるなよ。愛らしいな」

 桂は後で、この時自分は本当に一体何をやっていたんだと、自分を責めることになる。

 純から顔を背けたために、当然、その足元の【死神】が視界から外れる。

 そのせいで、それに気付くのが遅くなってしまった。


 純がこちらを向いている間に、【死神】の身体がむくりと起き上がったことに。

 

 桂がようやく異変に気づいたとき。

「秋島っ――!」

【死神】は既にナイフを拾い上げていた。

「――っ!」

 振り返る純。

 そこに、【死神】がナイフを振り上げる。

「うあっ」

 悲鳴を上げながらも、純は至近距離で銃を発砲する。

 しかし、それだけの近さにいながら、【死神】は身体を捻って銃弾を避けた。

 桂は、重たい脚に喝を入れて、純の元へ駆け寄る。

 純は顔の左側を押さえていた。

「おい、大丈夫か!」

「くそ……油断した」

 離した左手の下は血で赤く染まっていた。

 とっさに上体を引いたおかげで、そこまで深い傷ではなかったが、しかし――

「お前、目が……」

 頬から額に掛けて伸びるその傷は、純の左目を通過していた。

「二個あるうちのたかが一つだ、問題ない」

 苦痛に歪んだ表情がその毅然とした言葉を痛々しいものにする。

 純は話が違うとでも言わんばかりの口ぶりで言った。

「――〝再生〟ではないのか、お前の力は」

「不正解だ。人が勝手に言っているだけだろう、それは」

 彼は何もかもを包み込むような優しい声で言う。

「【死神】は――自分自身にとっての【死神】であってはならない」

「どういう意味だ」

「そのままの意味さ。僕の【異能】はね――〝自殺が出来ない〟というものなんだ」

「自殺……? 今のは明らかに他殺だっただろう」

「本当に自分を殺せる人間はこの世にはいない」

 純を遮るようにして、【死神】は言う。

「命と言うのはね、オンオフが出来るようには作られてはいない。死のうと思ったからといって死ぬことは出来ない。自殺と言うのは自分で自分を殺すことであるはずだ。しかし、飛び降り自殺、首つり自殺、服毒自殺――自殺と言っても色々あるけどね、どれもやっているのは、ただを作り出していることだけ。でも、人はそれを自殺なんだという。だから僕は、自殺とは自分を自分で殺すことではないのだと知った。ならば、自殺の定義とはなんだろうか。僕はね、いくつもの事例から考えるに、自殺とは避けることが出来た『死』に対し、抵抗をしない――多くの場合においてはむしろ自分からそれに向かっていく――つまりはそういうことだと、思うんだよ」

【死神】は続ける。

「僕がはたしてそれをうまくできたかどうかは分からない。だけど、僕には君の銃撃から逃れようとするという選択肢があった。にも拘わらず、僕はそれをしなかった。『死』を遠ざけようとはしなかった。それが僕の【異能】の発動条件だ。僕は避けることのできた――避けようとすることのできたはずの傷をすべて無効化する。避けたという結果を、その未来を、現在の自分自身の身体に具現化する。『死』だけでなく、普通の傷でも同様だ。つまり――」

 そして、彼は勝利を確信するでも自信に満ちた顔をするでもなく、ただ、歌うように、泣く子供を諭すように、言った。

「向こう見ずである限り、僕は死なない」

「……最悪じゃないか」

 純は苦虫を噛み潰したように言う。

「まあ、無効化するにしても、痛いのには変わらないんだけどね」

 困ったような顔をして、【死神】は言う。

「……こうなれば仕方がないな」

 何かを決意したように純は言った。

「雨月くん、僕を置いて逃げろ」

「何だって?」

「こんな状況だ。もはや今の僕たちに残されている選択肢は少ない」

「二人がかりで行けばなんとかなるかもしれないだろ」

「二人で行っても、意味はない。相手が死なないのであればね。――大丈夫、少なくとも逃げる時間くらいは僕でも稼げる。それに、元々、奴の狙いは僕なのだからね。口封じで狙いはしても、僕を放ってまで君を追いかけはしないだろう」

 純は笑う。それは穏やかな顔だった。

「君はまだ【悪の此岸】にそこまで愛着もないだろう。次はもっとちゃんとした雇い方をしてくれるチームを探したまえ。それこそ【騎士団】なんてどうだ? 人数も多いし、安定してる。何より、あそこのリーダーなら君を気に入るだろう」

 純はもう一度銃を構え、【死神】に対峙しようとする。

「……分かった」

 桂はそう言って純の前に立ち、【死神】と向き合った。

「……おい、雨月くん……言動と行動が一致してないぞ」

「分かったけど、納得はしない」

 桂は【枝霧】を構える。

「下がるのはお前の方だ、秋島」

「ちっ……君も物分かりが悪いな雨月くん。殺しても生き返る以上アイツは僕たちには倒せない。これは根性論でどうこうなる問題ではない。合理的に考えろ」

「殺せないなら、拘束すればいい」

「……そんなことから説明しなきゃいけないのかよ。いいか雨月くん――」

 純の言葉を、桂は片手を挙げて制した。

 分かっている。

 拘束するというのは、命を奪うことよりもよっぽど難しい。ただでさえまともに戦える状況ではない今、それはさらに難易度が高い試みになるだろう。純がそのことを提案しなかったのは、ただ単にそのことに思い至らなかったからというわけではない。それが不可能だと判断したから、こうして桂に撤退するように指示したのだ。

「じゃあ、せめて一緒に――」

「駄目だ」

 桂は即答する。

「片目の奴に銃で援護されても危険なだけだろ」

「……」

 純はその言葉に反論することが出来ない。だから、代わりに桂に尋ねた。

「……どうしてそこまでする」

 その質問に、少し考えてから桂は答える。

「……まあ、そんなんじゃ、俺の同居人に顔向けできないってのもあるけど――この変なチームも、割と居心地がいいんだよ」

「……意外だよ。君もそんなに素直になることがあるんだな」

「うるせえ馬鹿」

「分かったよ」

「分かったって、何をだ」

「ユウが言ってたけど、君、やっぱり阿呆だ」

「…………」

「普段は常識人ぶってるくせに妙なところで片意地を張りやがって」

 純は笑う。

「それじゃあ――」

それは、何かを諦めたような穏やかなものではなく、ただ可笑しいものが可笑しくてするような笑いだった。

「やっちまえ、雨月くん」

「おう」

 桂も屈託なく笑った。


      Φ


 ナイフに付いた血をなんの感慨もなさそうに眺めながら【死神】は言った。

「しかし、秋島純が連れてるのは、ジャージ姿の女だって聞いてたんだけど。それとも君がかの【銃弾】ってわけかい?」

「違う。担当が変わったんだよ」

「へえ、担当ね。……まあ、どちらでも問題はないさ」

 僕はただ命令に従うだけだし、と【死神】は言う。

「――そろそろちゃんと仕合にも本腰をいれようかな。あまり、【異能】に頼りきりな奴だとも思われたくないし」

「……」

 先ほど、純にやられたときは本気じゃなかったということか。

「……【死神】のくせに小悪魔みたいな性格しやがって」

「あはは、なかなか面白いこと言うね」

 不気味で不快な――見るものを不安にさせる笑み。

「悪いけど、痛い目見てもらう」

「そんなズタボロでよく言うなあ」

「土壇場で力を発揮するタイプかもしれないぜ」

 もちろん、満身創痍の桂に出来ることなどたかが知れているだろう。自分も随分と大口を叩くようになったものだ。

 桂は【枝霧】を構え、【死神】へ切り込む。

「なんだよ自棄になったのかい?」

 桂の体力は言うまでもなく限界だ。

 故に、【死神】の言うようにかなり強引な攻め方ではあるが、ここは、短時間で決着をつけるべきだろう。自分の身体に後々襲い掛かってくるだろうリスクも、今は忘れてしまおう。自棄でも、闇雲でなければいい。

「無駄口叩いてる暇があるか?」

 桂は縦に【枝霧】を振るう。

「――あるさ」

【死神】は避けようとして下がるどころか、一気に距離を詰めてきた。

 懐に潜り込み、直接振り下ろす寸前だった右腕の肘を押さえてくる。

「なっ……」

 一瞬でも迷いがあれば、まず致命傷は免れないようなぎりぎりの行動。なんという判断力だろうか。

【死神】は隙だらけになった桂の腹部に肘鉄をする。

 あまりの重さに桂は背後に吹っ飛んだ。あの細い体のどこにそんな力があるというのか。

「かふ――っ」

 口から血を吐く。しかし、それをろくに拭うこともしないまま、桂は次の行動に移る。

 桂は、何の勝算もなく純に啖呵をきったわけではない。すでに頭の中にはこの戦いの突破口が既に浮かんでいた。

 先ほど、彼は【異能】を使い、自分の死を無効化したが、一度死んでから生き返るまでの間にはタイムラグがあった。狙うのはそこだ。致命傷を与え、動かなくなった数秒の間に、その身体を拘束する。

 たった一度だ。たった一度でいいから、彼に決定的なダメージを与える。

 桂は【枝霧】を持っていない方の手で地面から土をすくい上げ、それを【死神】に向かって掛ける。同時に、桂は【異能】を発動する。

「品のないことをするなあ――って、消えた……?」

 死神の背後に回った桂は、【枝霧】をしっかりと握り直し、もう一度――今度は攪乱ではなく、攻撃のために【異能】を使った。

「〝空蝉〟」

 坂巻を倒した技を、そのガラ空きの背中に放つ。

 桂が目の前に現れると同時に、何発もの剣撃が【死神】を襲った。それも、今回は坂巻の時とは違い、峰打ちではない。

 手応えがあったのは五箇所。やはり狙い通りにとは行かないが、両足の膝の腱、右腕の手首、背筋、首筋にダメージを与えることが出来た。

「ぐっ」

【死神】がよろめく。

「今だ」

 桂はその身体を拘束しようと駆け寄った。

 しかし、桂が【死神】に近寄る前に、彼の体の傷が全て消滅した。

「何!?」

「ははあ、なるほどね」

【死神】がナイフを振るう。

 それは桂が先ほど坂巻に付けられた胸元の傷と交差するように一筋の傷を付けた。

 桂は咄嗟に距離を取る。

「君はつまり、僕がダメージから回復するまでの時間を狙ったわけだね」

【死神】が駆け出す。

「でも判断を誤ったな」

 ナイフによる連続攻撃。

 桂はそれらを際どい所で避ける。

「脳以外のダメージなら、実はすぐに回復出来るんだよ。脳ってのは複雑な器官だからね。――だから、やるなら、そんな範囲攻撃ではなく、頭の一点を狙うべきだった」

 話しながらも、彼の手は休まることはない。桂はその攻撃をすべて躱しきれずに、さらに体に数か所、浅い傷を作った。

「でも、技自体はかなり良いセンいってたけどね。あの首の持ち主の身体にも思えば妙な痣があったけど……一体誰に手ほどきを受けたんだい?」

「自分で身に付けたとは思わないのか」

「君は何だか、自分より格上の相手と戦い慣れてるって感じだ。だから、稽古をつけてくれる師匠でもいるのかと思ったんだけど。まあ、それにしても、なんだか君は勘が鈍いが」

 桂は【異能】を使って、今度は一瞬で距離を詰められないよう、出来るだけ大きく距離を取った。

「まあ、その技も、その【異能】あってのものではあるのかな」

 すると、【死神】はくすくすと笑う。

「しかしその【異能】自体もまた随分と面白いよね」

「…………」

 どうやら、彼は桂の【異能】に気付いていたようだった。

「悪いけど、もう同じ手は通じないよ。どうする?」

「……どうする、ね」

【異能】が割れてしまったのはかなりの痛手と言わざるを得ない。

 だが、それよりも前に、唯一と言っていい策が失敗に終わったことで、桂は焦っていた。

「雨月くん……」

 純が桂の背後で不安そうな声を上げる。

 先ほど、ああして桂を送り出した以上、余計なことは言うまいと口を噤んでいたようだが、桂の講じた策が失敗したのを目にして、言葉を掛けずにはいられなかった。

「他に手はあるのか」

「……」

 いや。策はもう尽きた。

 桂の額に一筋の汗が流れる。

「……雨月くん?」

 しかし。

 彼に出来ることはまだ残っている。

「なあ、秋島……」

 何かを切り出した桂に、純はしょうがないといったふうに肩を落とした。

「……雨月くん……そうだな。君はよくやってくれたよ。十分だ。負い目を感じる必要なんかない、僕を置いて――」

「違う、そういうことが言いたいんじゃない」

「何?」

 見れば、桂は、何か吹っ切れたような顔をしていた。しかし、その表情に心なしか険しさもあるように見えるのは、それでも――その手段を取るほかにないと分かってはいても――やはりまだどこかでそれを実行することを渋る気持ちがあるからなのかもしれない。

 桂は仕方ないのだと自分に言い聞かせるように、一字一句はっきりとした口調で、純に訊ねる。

「――あいつ、倒すぞ」


      Φ


 彼は本当に何を言い出したのだろうと、純は思った。

「それが出来ないから困っているんじゃないか」

「質問の答えは」

 しかし、何かを決心したような静かな、しかし、それでいて強い語気を伴った口調で桂は言う。

 純自身、自分の独特の空気に相手を引き込ませるタイプの人間であるから、それはなかなか出会うことのない体験である。

彼女は――彼に気圧されていた。

「……できれば、聞き出したいこともあるにはあるが、構わない」

「そうか」

 しかし、この直後、彼女はそれ以上をその身を持って味わうこととなる。

「でも、何をする気だ」

「…………」

 桂は純の言葉に答えることはなかった。

 その時。

 純はそれを感じ取った。


      Φ


 視界かのじょはそこにいて、そこにいない。

 真っ白い部屋。

 美しく、温かみのない、真っ白な、立方体の箱。

 視点だけが、その部屋に立ちすくんでいる。


 トプン、と。


 黒い水滴が真っ白な地面に落ちる。

 真っ白な床に黒い波紋が出来る。

 視界が揺らいだ。

 次の瞬間、水滴の落ちた場所から黒い水があふれ出てくる。

 やがて水位は上昇する。

 白い部屋は黒に侵されていく。

 目を開けたまま視界かのじょは沈む。

 全てが液体に飲み込まれる。


 視界かのじょは黒い箱の中にいた。

 目の前に少女が立っていた。

 それは浮かび上がる泡のように、忽然と現れた――自然と、そこにいた。

 ゴスロリ衣装に身を包んだ、幼い少女。

 同時に言葉がよぎる。


 ――少女の内側に世界が在り、

 ――少女の外側に世界が広がる。


 それは理解ではない――浮上だ。

 少女の出現と同じように、いつの間にか、その言葉はそこにあった。

 視界かのじょは、少女に触れることが出来ない。

 伸ばす手を、持っていない。

 諦めかけたその時、少女がこちらを見た。

 その目は、黒かった。

 背景に溶け込むような、光沢のない、鈍い黒だった。

 まるで、そこだけ色を塗り忘れたようだと思った。

 可哀想と、思った。

 次の瞬間、少女の顔が歪んだ。

 それが笑みだと分かったのは、少女が嗤ったからだ。

 少女が笑ったのは、彼女がそこにいたからではない――彼女がそこにいるからだ。

 そこにいる少女は――実在しょうじょではない。

 しかし、かと言って、鏡でもない。

 ただ、顕れではあるのだろう。


 視界かのじょは――

 秋島純は――その少女を、知っていた。


      Φ


「――っ」

 純は現実に引き戻された。

 それは、実際はほんの一瞬のことではあったけれど、彼女にはとても長い時間のことであったように感じられた。

「今の……イメージは」

 脳裏に浮かんだ一連の映像フラッシュバック

それは桂を見た瞬間、意識の底の方から湧き上がった。

「そうだ……雨月くんは」

 彼は、先ほどから変わらずそこに立っていた。

 しかし――

「誰、だ……?」

 そこに立っている人間を彼女は雨月桂だと思うことが出来なかった。その後ろ姿を見ているだけで、不安にも似た、なんだかどす黒い感覚が胸にこみ上げてくる。

 知っている。

 彼女は、その感覚を、五年前から知っている。

 実際、たった今、それに飲みこまれたばかりではないか。

「――〝鬼〟……」

 あの時の少女が、彼と重なる。

 彼は今、どんな顔をしているのだろう。表情が見えないことが彼の後ろ姿をとても不気味なものにする。

 今や、彼の持つ刃物は――彼そのものだ。

 冷徹な凶器がその鋭利な表面に彼の内側の狂気熱狂を映し出している。

「……君、何をした」

 その時、【死神】が声を上げた。桂と正面から相対し――彼もまたその変化を如実に感じ取っていた。

 今まで多くの【異能遣い】を相手取ってきた彼にとっても、敵を前に息を飲むというの初めてだ。

 質問に、桂は答えない。

 彼は、明らかにさっきまでの彼ではなかった。

 純のように、その気迫に飲まれるようなことはないにしても、【死神】は胸の奥の方に不快な何かが込み上げてくるのを感じていた。

 しかし、何故だか同時に、【死神】はその変容が完全なものでないような印象も受けていた。彼とこうして向かい合っている自分だからこそ分かることなのだろうか。彼は、自分が完全に変化し切ることを拒んでいる。彼が一言も話さないのも、彼の中で彼が何かと争っているからなのだと、なんとなく理解できた。

 ただ、それでも、その葛藤の正体が何なのかを――【死神】は知ることが出来ない。

 その辺りが、彼が【死神】と呼ばれる由縁でもある。

【死神】に――人間の気持ちなど分かるはずもない。

「……いいだろう、来い」

 桂が飛び込んできた。

 その速度はこれまでと比べ物にならないものだった。まるで何かのタガを外したかのような。

 しかし、それに怯む彼ではない。即座にその速度に対応し、反撃する。

 桂は【枝霧】をちょうど居合をするような形で体の左側で構えていたが、【死神】はその反対側に回り込んだ。これならば、桂の間合いに入らず、その隙を突くことが出来る。

それは迷いのない、正確な攻撃だった。どれだけの速度があろうと、得物をこちらの反対側に構えている以上、それを捌くことは到底不可能である。致命傷は確実だった。

 しかし、彼の攻撃が、桂に届くことはなかった。

 次の瞬間、彼は理解できないような光景を目にする。

「――おい……、正気かい」

 彼の放ったナイフによる刺突。それを、桂はあろうことか生身の手で掴んでいた。短い刀身の腹の部分を、構えた右腕と交差させるようにした左手の親指と人差し指で挟むように固定している。

「――滅茶苦茶だ」

【死神】の表情から笑みが消える。

 桂の手の中から、赤い液体が滴り落ちた。血だった。片手で、それも咄嗟にでは、【死神】の攻撃を抑えきれるはずもなく、止め切れなかった刃の先端が、彼の手の平を裂いたのである。

 そして。

 驚くべきことに、桂はその状態から攻撃行動を続行した。

 掴んだナイフを軸にするようにして、体を半回転させ、構え続けた右手の刃物を振るう。

その一閃は、【死神】の喉笛を切り裂いた。

「――ゴプッ」

【死神】の口から、とても声とは言えないような音がこぼれる。

 一瞬のうちにその傷口が回復する。【死神】は体勢を立て直すために桂から距離を取ろうとする。

 しかし、桂は既に彼の懐に潜り込んでいた。

 腹部を冷たい感触が貫く。【枝霧】の先端が背中から飛び出す。桂はそこから更に握りしめた柄に力を込めた。

 ごきり、と。

【死神】の背骨が破壊される鈍い音が響いた。

「うぐっ……」

【死神】の顔があまりの激痛に引きつった。神経を破壊され、膝から崩れ落ちる。その顔面を、桂の蹴りが捉えた。

 激しい打撃音とともに、【死神】は吹っ飛んだ。

「あ……あぐ……」

 それでも意識を飛ばさないあたりが、並大抵でない【死神】の精神力を表している。視界いっぱいに広がる空を見上げながら、彼は回復を待つしかない。

「……こんなに痛い、と……嫌になっちゃうなあ」

 桂の戦い方が変わっていた。

 それは今まで目にしたことのないような――異常な戦い方だった。

身を守ることがそもそも念頭にないような滅茶苦茶な立ち回り。自分に向けられた攻撃を防ぐというより――避けるというより――ただ邪魔だからどかすと言うような、そんな攻撃のことしか頭にないような――徹底的な態勢。

【死神】は知る由もないが、それはちょうど彼が殺害した坂巻と同じ戦い方でもある。ただ、坂巻はその【異能】があったからこそ、そのような戦い方が出来た。だが、桂には相手の反撃を無視できるほどに絶対的な火力などない。本当の意味での、命知らずだ。それこそ自殺行為である。

 しかし、【死神】がそんな桂に追い詰められているのも現実である。何故、そんな戦い方が出来るのか。何故、そんな戦い方で戦えるのか。これでは、まるで――


 まるで、これが本来の彼のスタイルであるかのようじゃないか。


【死神】は立ち上がる。

「でも――僕にはこの能力がある」

 しかし、どれだけ追い詰められようと、【死神】には自身の敗北など見えてはいない。いくつもの敵と相対し、いくつもの戦場を経験し、彼は確信している。彼の【異能】は――無敵だ。敵が無いのであれば、そもそも敗北などと言うものは存在しない。

【死神】の口元に笑みが戻る。

 そう。

 彼は、【死神】だ。

 どれだけ鍛え上げられていようと、強かろうと、どれだけ何人もの人間を殺していようと、彼の前に、人間と言うものは全て平等である。

 彼は、ひたすらその命を刈るのみだ。

 ただ、無感情に。

 ただ、事務的に。

 彼は、仕事を遂行するだけだ。

「――その命、僕が頂戴する」

 彼は得物を構えた。

 桂は既に駆け出している。

【死神】は彼から目を離さない。

 彼の頭には対抗策が浮かんでいた。

 彼の攻撃が滅茶苦茶だというなら、こちらも滅茶苦茶に対応するだけだ。相手の攻撃を絶対的に無視した一撃必殺。命知らずだというなら、望み通り殺してしまえばいい。歯には、歯を。は本来彼の専売特許である。

 彼は、待ち構える。桂の攻撃を。

「あ――」

 しかし、その時。

 目が合った。

 自分の元へ駆ける桂と、目が合ってしまった。

【死神】の目は、その二つの球体へと釘づけになった。

 真っ黒な瞳。その向こうに映るもの――

 それは、彼がこれまで何度も目撃し続けてきたもの――


 ――〝死〟、だった。


 目の前の青年の双眸には、〝死〟が映っていた。

【死神】はそこでようやく気付く。

 彼があんな戦い方をするのは、打算ではない。結果に過ぎなかったのだ。

 殺意だ。彼は――〝死〟を求めている。

 盲目になってしまうほどに、死に物狂いに手を伸ばすほどに――好きで愛しているのだ。

「――はは」

 背筋が凍るような、嫌悪感。

 口から笑いが漏れる。

「――はははは」

 怖いと、思った。

 そしてその時――。

【死神】の視界には、彼の生きてきた世界を根本から覆すようなあまりにも大きな変化が起こっていた。

「――はは、ははは、はははははははははははははははは」

 結果として。

 この化け物の目に反射する〝死〟を――自分自身の命を、【死神】は惜しんでしまった。

 桂は既に必中の間合いに入っている。本来ならその攻撃に対して、【死神】は身を委ねなければならなかった。それが彼の【異能】の発動する条件であるからだ。

 しかし、彼は――怖かった。


 ゆえに彼は、してはならない後ずさりをしてしまった。


 彼の身体を、【枝霧】が切り裂く。そして熱い血が流れる。

 どれだけ待ってもその傷は治ることはない。当然だ。それが攻撃を避けようとした結果だ。

「――こんな光景は未だかつて見たことがない」

【死神】は止むことのない激痛に苛まれながら――心を恐怖という感情に蝕まれながら――恍惚とした表情で言う。

「はは、あは、あはははははは、あははは、あはははははははははは、あははははははははははははははははははははははははははは――」

 壊れたように、笑う。

 しばらくして彼は唐突に、笑うのを止めた。

 違和感に気付いたからだ。

「――何だこれは」

 彼は自分の身体に目をやる。

「傷が、浅い?」

 確かに、自分は斬られる瞬間、後ずさりをした。しかし、それはとても回避行動と呼べるようなものではなかった。ただ、恐怖で体が自然と動いてしまっただけだ。だから、彼はその身に致命傷を受けたはずだった。彼は死を覚悟していた。確実に自分は死ぬのだと、そう思っていた。

【死神】は視線を上げる。そして、そこで初めて気付いた――

 ――雨月桂に異変が起こっていたことに。

「何だ、君、〝返った〟のかい」

「あいにく……ね」

 そこに立っていたのは、最初に遭遇したときのままの、どこか気苦労の絶えなさそうな一人の青年だった。

 体を酷使したせいだろう。立っているのもやっとのような状態だ。

「理解不能だ。どうしてそこで迷う」

「さあね。俺が訊きたいくらいだ」

 桂は笑うことすら満足に出来ないようだった。

「……まあ、いいさ」

【死神】はナイフを構える。

「もう一度だ。来い」

「……もし断ったら?」

「君を殺す。秋島純も殺す」

「……そうか」

 桂は、悲しそうに言う。

「――じゃあ、しょうがないな」

 そう言って、彼が再び集中のため、目を閉じようとした瞬間だった。

 彼らの間に、一つの影が割り込んだ。

【死神】は秋島純が回復したのかと思ったが――そうではなかった。


 彼女はジャージと学校指定のスカートを着ていた。


「――随分と穏やかじゃない状況みてえだな、コレは」

「日野……?」

「ようアニキ」

 そこにいたのは日野悠だった。

「ちぇ、余計な邪魔が入ったな」

【死神】は予期せぬ――いや、ある意味予期していた人間の登場に毒づく。

「君だな、ウチの人たちを何人も返り討ちにしたっていうのは」

「あ? そういうテメエはなんだ? 気味悪い空気漂わせやがって。……ああ、そうか。さてはお前だな【死神】ってのは」

「はは、僕も有名になったもんだな――しかし、これは撤退せざるを得ない状況みたいだね」

 そして、【死神】は桂に向かって言った。

「――ミコト」

「は?」

 桂は唐突な言葉に疑問の声を上げる。

「僕は仲間内ではそう呼ばれている」

 桂は意図が分からず戸惑う。

「君、雨月桂といったな――

 そう言うと、【死神】はその場で身を翻した。

「な……オイ、お前、待てっ!」

 ユウは撤退する彼を追いかけようと駆け出す。

「――待て」

「何だよ! 何で止めるんだ純」

「いいんだ」

「……いいって言われてもよ」

「アレを追うことよりも重要な仕事が今の君にはある」

「仕事?」

「彼に肩を貸してやれ」

 純が指差した方を見ると、そこでは桂が倒れていた。

「アニキ!」

 ユウはすぐに駆け寄る。

 どうやら意識はあったようで、桂はゆっくりと口を動かす。

「日野……アイツは?」

 視線を上げて確認すると、【死神】――ミコトの姿はすでに見えなくなっていた。

「安心してくれ。尻尾巻いて逃げてった」

「……そうか」

 安堵して桂は息を吐いた。

「随分こっぴどくやられた見てえじゃんか、アニキ」

「ああ、もうボロ雑巾だよ俺は」

 屈んだユウの頭上から声が聞こえる。

「――君がその気になってなけりゃ、きっと今頃ボロ雑巾よりもひどい有様だったろうぜ」

「秋島……」

「おい純。もう立ち上がっていいのかよ」

 ユウの後ろに純が立っている。

「彼に比べりゃ僕のなんてかすり傷さ」

 彼女はなんてことなさそうに肩を竦める。今では表情にこそ出していないが、それが単なる強がりに過ぎないということが、彼女と付き合いの長いユウからすれば手に取るように分かる。

 それでも尚、秋島純は無理を押して雨月桂の傍に立つ。

「雨月くん、君は……一体」

「だから、言ってるだろ。〝なりそこない〟だって」

 憔悴しきった顔で、桂は答える。

「俺は半端モノなんだ。〝鬼〟にも人間にもなりきれなかった、な」

「……試験運用の結果は保留しよう」

 純は目を閉じて、頷く。そして、労いの言葉を彼にかけた。

「ありがとう雨月くん。君のおかげで助かった。もう休んでくれ」

 次の瞬間、桂は糸が切れた人形のように意識を失った。

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