二章「〝なりそこない〟の鬼」
その頃、一人の少女がそのマンションの近くの道を歩いていた。
彼女の名前は
ユウは【悪の此岸】の創設時からのメンバーであり、戦闘員の筆頭でもある。そんな【悪の此岸】の中心人物である彼女が何故こんなふうにリーダーの元を離れて一人で街を悠々と闊歩しているかと言えば、それは単純にチームの求心力が高くないことや、日野悠という少女自身が単独行動を好む性質であることもあるが、それ以上にダイレクトな理由が一つある。
彼女は、そう――高校生なのである。
今は高校からの帰り道なのだった。着ているのも学校指定のジャージとスカートだ。
ただそんな理由があっても、こうして帰路の途中でなんとなくアジトであるマンションの近くへ来てしまうあたり、彼女もどこかで後ろ髪をひかれるような気持ちがあるのかもしれない。
先日の一件にしたって、そういう気持ちがあったからこそ、あんなにも早く彼女の雇主の危機に駆けつけることが出来たのだ。ただ、休み時間に学校を抜け出したことを担任に気付かれてしまい、あとでこっぴどく叱られたが。
ちなみに彼女は成績に関しては優秀なので、普段の教員ウケは悪くない。
「……あんまこういうのはガラじゃねえんだけどなあ」
彼女は今日もまたアジトであるマンションまで足を向けていた。
一つため息をつく。
「……顔だけでも見せてくか」
そして、彼女は雇主の部屋へと目的地を定めた。
Φ
桂の『稼ぎ方』というのは簡単に言えば〝賞金稼ぎ〟という方法である。
五年前――桂が一三歳になったころに起こった【秋戦争】と呼ばれる一つの契機以来、世界の〝裏側〟の部分には【異能】を操る者たちが現れるようになった。人知を超えた力を有する彼らの中にはその能力を悪用するものも少なからずおり、そういった人間を
【異能遣い】の中には力に溺れ、いたずらに混乱を巻き起こすような者たちもおり、そんな脅威を前にして権力者たちはいくつかの手を打った。〝対特殊能力者用治安維持隊〟――通称【治安隊】の設立もその一つである。
「――まあ、正直かなりいいセンいってたんじゃないかな、彼らは。中心部にキレた奴がいたんだ。【王君】なんて呼ばれてるらしいが……、ただ、そんな
秋島純はソファに深く腰掛けて、ホワイトチョコを齧りながら言う。
まあつまり、彼らの予想したよりもはるかに【異能遣い】は数が多く、そして――強力すぎたのだ。
「で、悩んだ結果、俺たちに白羽の矢が立ったってわけか」
「そういうこと。凶悪な【異能遣い】に懸賞金を掛け、同じ【異能遣い】にその捕縛や討伐を丸投げする。目には目を、【異能遣い】には【異能遣い】を――考えてみればこれほど効率的な話はないよね。なんせ、倒すべき敵と同じだけ数も戦力も存在するわけだし」
彼女は気の抜けた欠伸をする。
「五年経ってこの業界もそれなりに賑わってきたよ。いつの間にか【異能遣い】同士で徒党を組んで獲物を狙うのがスタンダードになった。雨月くん、君はこれまで個人で稼いできたみたいだが、正直非効率だぜ。今じゃ大物はみんな名のある集団が持ってっちまうんだ。一人で情報収集から何からやっているようじゃ、全部かっさらわれるだけだからな。ウチに来て正解だ」
「……まあたしかにここんとこはかなりキツかったな」
「ああ、だろうさ。――そう。ちなみに言っておくが【悪の此岸】はそこまで名のある集団ってわけじゃないぜ。二つ名で呼ばれるような名の知れた【異能遣い】なら何人か在籍しているが、彼らがウチにいること自体も――知ってる人間はあまりいないだろう。君はユウという情報源があったからこそここにいるわけだが、ごく一部の酔狂な人間を除いて、大抵の人間は【悪の此岸】という集団の存在すら知らないはずだ。ただ、まあ――」
「実力は本物――か?」
ユウに誘われた時点で、桂はそれなりの調べは済ませてある。
この土地近辺の有名どころ――【騎士団】などに比較すれば、目立たないものではあるが、【悪の此岸】は過去にそれなりのビッグネームを数人、捕縛ないしは討伐した経歴があるようだった。単純な総合値だけでは測れないものは確かに持っているらしい。そして、それが、その筋で『変わり者』だなんて言われて揶揄される原因になっているようだ。
「――安定した収入は約束しよう」
純はその場で姿勢を正すと笑みを浮かべてそう言った。
「副業もやってるしね」
「副業?」
「そ。便利屋まがいのことをやってる。行方不明のペット探しとか、ね。――そう不思議そうな顔をするなよ。珍しいことでもないんだぜ。【騎士団】なんかは警備会社の真似事みたいなこともしてるし」
「そうなのか?」
それは知らなかった。
「ま、今日はこれといった依頼はないんだけど。――あ、
ちなみにここは秋島純の住む部屋。つまりはさきほど一悶着のあった階層に位置する部屋だ。今、室内には桂を含めて四人の人間がいる。桂、純――それから先ほど廊下で襲い掛かってきた青年と少女である。
「お嬢、人の妹を顎で使わないでください」
青年の方がどこか気の抜けたような声で抗議の声をあげる。
「しょうがないだろ。凝りやすいんだよ。胸だな。人一倍重いんだ僕は」
「それと林檎とは関係ないです」
どうやら青年と少女は兄妹であるらしい。
「もう。いいってば
「林檎は健気だなあ。お嬢――ウチの妹をもっと見習ってください」
そして、少女はせっせと純の肩を揉み始めた。
「んあーそこそこ。かなりいい感じだ」
「…………」
なんだろうこの人たち、と桂は思った。このあまりにも気の抜けた雰囲気――もしかすると、本当に本当の意味で『変わり者』なのかもしれない。自分はあまり踏み入るべきではない場所に来てしまったのではないだろうか。彼は一つため息を吐いた。
まあ、それでも。
後悔をするには、まだ今は『後』ではなさすぎるだろう。
「あーそうそう、紹介が遅れたね。このちっこくて真面目そうな女の子は鉄森林檎。で、こっちの見るからに能天気そうな朴念仁がその兄の才悟くん」
「よろしくお願いします」
「や。どーも」
見た感じの若さの割には落ち着きのある丁寧な物腰の少女といかにも軽薄そうな黒縁眼鏡の青年は同時に挨拶してきた。
「……よろしく」
ついさっき痛い思いをさせられただけに、返す桂の愛想笑いは少しばかり引きつったものだったかもしれない。
「で、俺はこれからどうすればいいんだ」
挨拶もそこそこに桂は純との会話に戻った。
「今日はこのまま帰ってくれて構わないよ。明日の朝九時ころにまたここへ来てくれたまえ。頼みたい仕事がある」
「帰っていいのか?」
「ああ。君の性格とか実力とか諸々については今日一日で聞き出せるとも思ってないしね」
彼女は仕方ないというふうに肩を竦めた。
そして、それから不敵な顔をして彼女はこんなことを言った。
「その刀のことも追々聞き出すつもりでいるからそのつもりで」
桂は背筋に冷たいものを感じた。
「…………」
秋島純。
ふざけているような態度を装っていても、どうにも目敏い。
桂は改めて気を引き締める。
「……じゃあ、また明日来るよ」
だがしかし、それは却って対象以外に対する警戒を怠らせる行為でもあった。
秋島純に気を取られていたがゆえに、桂は気付かなかった。
その彼女の隣から送られる敵意を含んだ鋭い視線に。
Φ
桂には、何故かそう昔のことでもないのに、上手く思い出せない記憶がある。
その夜、彼は暗い道を一人で歩いていた。
いったい自分がどうして一人家を飛び出したのか、あるいは、どうやって飛び出せたのか。理由も方法も今となっては曖昧にしか思い出せない。頭の中に浮かぶ断片的な映像をつなぎ合わせて、ようやく、漠然としたそれを推理することが出来る。
どうして今、こんなことを思い出すのだろう。
ジャリ、ジャリという、やけにゆっくりとしたあの足音。
数メートル先も見えないような暗い道。そこに浮かび上がるように現れたのは――スーツ姿の長身の男だった。
映像自体はやけに鮮明に思い浮かぶ。
スーツなんてきっちりしたものを着ておきながら、スラックスのポケットに手を突っ込んで背筋も曲がっているその立ち姿はなんだかとてもだらしがない。
髭なんて伸ばしているし、暗いということもあって断言はできないが、顔から判断するに男はそれなりに若いらしく、まだ二十代後半と言ったところだろうか。男は、パーマのかかった少し長めの髪を頭の後ろで結んでいる。男の出すしゃきっとしない雰囲気とは対照的に、そこだけ綺麗に刈り上げられたこめかみは妙に攻撃的で、桂はその時、なんというかしっちゃかめっちゃかな印象を受けた記憶がある。
男は桂に気付くと、特に驚く素振りも見せず、こんなことを言ってきた。
「少年、今晩は一雨来そうだぜ」
当時の桂には雨が降ることに対する抵抗感や不快感を理解できなかった。
だから、そんな質問を無視して言う。
「何故、僕を少年だなんて言うの」
自分はあの頃どんな声色をしていただろうか。
男は「どっくらせ」と、スーツの裾が汚れるのも気にしないでその場にしゃがみこみ、桂と目線の高さを合わせる。
「だって、そりゃ君がそんなにあどけないからだろ」
彼の答えに桂は首を傾げた。
「何だ、納得してなさそうな反応だな。もしかして、あれかい? 君が訊いてるのは――」
「おじさんはこんなところで何をしているの」
「誰がおじさんだ」
顔をグニ、と鷲掴みにされる。
「おお、さすが小さいだけあっていいほっぺたをしている」
男は桂のことをまじまじと見つめながら、頬の感触をしばらく味わう。
「俺は
うろ覚えなのでその名前で合っていたかどうかはわからない。しかし、それに対して自分がこう反応したことは憶えている。
「いい名前だね」
「【道化】って呼んでくれてもいいぜ。世間ではそれで通ってる。……で、君は?」
「雨月桂」
男は口をへの字に曲げて変な顔をする。
「ふむ、少年もなかなかいい名前を持っているじゃないか」
「そうかな」
「ああ、それに聞いたことのある名だ。とても――」
彼は笑っていた。
「――とても、不吉だ」
桂の記憶はここで唐突に途切れる。その後、自分が男とどんな会話をしたのか、桂は全く憶えていない。
だけれど、何故だか、結果だけは憶えている。
その〝出来事〟の終わり――降りしきる雨の中で、彼は水溜りの中に浮かぶスーツの袖を纏った一本の腕を見下ろしていた。
これは、今から五年前の記憶。
後に【秋戦争】と呼ばれる日の記憶であった。
Φ
マンションから離れてしばらく経ったところで桂はふと違和感を覚えた。
「……?」
なんだろう。
やけに周りが静かだ。人の気配が……一切ない。
「――これは……」
――人払い。
人の目から逃れるために用いられるかなり手順の面倒な技術だ。
「誰だ」
桂は背後に近寄るその人間に声をかけた。
「――あなたは、少しばっかり警戒心に欠けるようですね」
「君は」
振り返った先にいたのはついさっきまで顔を合わせていた少女。
「鉄森……林檎ちゃん?」
Φ
桂が出て行き、鉄森兄妹を帰したあとの純の部屋。
純はそれまで座っていたソファに体を投げ出すように横たわった。
「どう? 彼、使えそう」
唐突に彼女のものではない声が部屋に響く。
視線を声のした方にやると、開いたガラス戸の向こう側に、いつの間にか女が一人立っていた。
「
ベランダの手すりに背中を預けながら腕を組んでいる女。年齢は二十代前半と言ったところだろうか。茶髪を風に靡かせながら微笑んでいる彼女には、どこか近寄りがたく、しかし同時に目を引き付けるような、艶やかな雰囲気がある。
「閉めてくれ。風が入ってくる」
「いいじゃない別に。風、気持ちいいわよ?」
「風ってのは空の下で感じるもんだ」
「じゃあ、あなたもこっちに来れば?」
「嫌だね。魔女の誘いなど誰が受けるか。そうでなくとも……億劫だというのに」
言いながら純はソファの上で心地よい寝る姿勢を模索する。
「可愛くないわねえ」
「余計なお世話だ」
女は部屋の中に入ってガラス戸を閉めた。
「で、どうなの」
彼女の名前は瀬名
【悪の此岸】の創立メンバーの一人である。
彼女は純の向かい側のソファに腰かけた。
「――雨月桂、ね。どうだろう。僕的には『呆けているようで肝心なところで掴みどころがない』というのが正直なところかな」
「そうなの? 今日の様子を見た感じはそれなりに戦力になると思うわよ。ユウちゃんと比べれば、それは見劣りはするかもしれないけれど」
「彼の価値は、そこにはない」
「どういうこと?」
「瀬名、君は〝殺人鬼〟って属性の連中にあったことがあるか」
「そう〝呼ばれてる〟人間なら、何度も相手にしてきたけど」
「そうだね。この呼称はこの世界でそう珍しくないものだ。国外であれば、それは〝吸血鬼〟なんて呼ばれたりもする。シリアルキラーの中でも特に残酷で冷徹な人間に付けられる呼称だ」
純は溜息を吐く。
「僕が会ったのは……いや、〝遭った〟のは、本当の鬼だった」
「…………」
「いるものだね、ああいうのは。呼び名というのは往々にして、その者の見てくれやその行いを観察することによって後になって付けられるものではあるし、〝彼ら〟も多聞に漏れずその通りにその名をつけられたものではあるのだろうけれど、なんと言うか――」
何か具体的な光景を思い出しているように純は言う。
「出会った瞬間に、〝彼ら〟は自分たちがどんな存在であるか、こちらに知らしめてしまう」
「『それらしさ』という点に関しては、あなたもそうだと思うけれど」
「そりゃあ僕は僕であることが得意だからね」
肩を竦める。普段ならもっと大仰なそれも、スイッチの切れた純がすると力ないものになってしまう。
いつも饒舌な純がこんなにもぼんやりとしているのは、つい今日やってきたばかりの人間である桂などが知れば意外に思われるかもしれない。しかし、瀬名のように付き合いが長い人間からすればとりわけ珍しい光景でもない。純は躁鬱の切り替えが極端なのである。
「――だけど、僕のは所詮偽物だ」
「――で、その〝鬼〟の話と彼の話はどうつながるの?」
「つなげるも何も、この話をしたってことは――そういうことだろう」
「彼が?」
瀬名は腑に落ちなさそうに言う。
「でも、彼を見た時にこれといって変わった感覚はなかったわよ?」
「君がそういう反応をする気持ちは分からなくもない。僕も分からなかったさ。
「単純に戦うことに飢えているとかそんな意味ではないの? まあ、そうすると〝なりそこない〟なんて回りくどい言い方をする説明がつかないけど」
「かもしれないね。ただ、どちらにせよ、あの〝刀〟を持ってるってことは、決定的だ」
「刀?」
「そう。僕はあれを使っていた〝鬼〟を一人知っている。まあ、ともあれ――」
ソファに沈み込んで純は笑う。
「――彼は、面白そうだ」
「あなたは、ブレないわね」
その顔を見て、鬼灯も笑った。
「――それはそうと、最近は発作、出てないわね」
「そうだな。薬がちゃんと効いているのかもしれない」
どうでもよさそうに純は反応する。
「とにかく、彼が何であろうと、利用できるものは利用してやるさ。僕の目的のためにもね。君も、協力してくれよ」
返事はなかった。
「……出て行ったか。全く、挨拶もないなんて勝手な女だ」
そしてそれから物憂げそうな顔をして、彼女は呟いた。
「〝鬼〟――か」
その脳裏に浮かぶのは、暗い道の真ん中に佇む一切の表情を無くした少女。
「彼女は今どこにいるんだろうな……」
純はソファの上で、電気も消さないままそっと目を閉じた。
Φ
桂は背後に現れた少女の名を呼んだ。
「鉄森……林檎ちゃん?」
「林檎って呼んでください」
小柄でいかにも真面目そうな顔をした彼女は桂に向かってにっこりと笑いかけた。
「……何の用?」
「いえ、大した用じゃないんです。ちょっと訊きたいことがあって」
「訊きたいこと? なんだよ。さっき部屋にいる内に澄ませてくれれば良かったのに」
「まあ、いいじゃないですか」
桂は目を細める。
「……で、何を訊きたいんだ」
「あなた、
単刀直入に彼女は言った。
「さっきの話か」
「ええ。私と兄さんであなたの相手をさせて頂いた先程のことです」
「手は、抜いてない」
「そうですか」
林檎は残念そうに肩を落とした。
「――そんな嘘を吐かれるんでしたら、もうあなたの身体に直接お訊きするしかないみたいですね」
彼女は先ほど桂の首筋に当てていたあの得物を取り出す。
「……おいおい」
どうりで不穏な空気だと思った。
「本気じゃなかったらどうだっていうんだよ」
「命の掛かった戦いで手を抜くような中途半端な男をお嬢の元へ置くわけにはいきません」
その眼が暗く光る。
「あなたには〝不慮の事故〟にでも遭ったことにしてもらいましょう」
「そうか」
興味のなさそうな返答。
「一つ、言わせてほしい」
つまらなそうな顔をして、桂は呟くように言う。
「俺は手なんか抜いちゃいなかったし、あの場で降参したのは本当に手詰まりだったからだ」
その場を【異能】で乗り切ることは出来たかもしれない。だが、そこにいた敵は三人。どうせ敗北することは目に見えていた。だから、彼はすぐに白旗をあげたのだ。
「だから、それは嘘だと言っているじゃないですか」
林檎は即座に否定する。
「私はあの瞬間、確かにあれがあなたの全力ではないことを感じたんです。私は兄さんや〝式宮さん〟に比べれば未熟ですけれど、直接戦いぶりを目の当たりにすればそのくらいは分かります」
式宮。
かなりのビッグネームだ。
「あっそ」
桂はため息交じりに自分の愛刀を取り出す。
「俺は、強くない」
桂は言う。
「さっきは三人だったけれど、なんだったら君一人よりも俺はよっぽど弱いかもしれない。けど、きみがどうしてもしたいっていうなら――」
そして、桂は短刀――【枝霧】の切っ先を林檎へ向けた。
「せいぜい俺に圧勝して、がっかりするといいよ」
Φ
ヒュン、という空を切る音。
桂は自分に受かって投げつけられた刃を【枝霧】でいなす。
「ぐっ……」
刃は立て続けに何本も飛んできた。
【枝霧】で捌ききれなかったものは自らかわし、次の攻撃に備える。
「〝刃化〟――それが私の異能です」
その声は上空から降ってきた。
見上げると、空中で体を捻りながら数本の小さいナイフを構える林檎の姿があった。
「やべっ」
桂はその場で前へ転がる。桂の通った場所にナイフが突き立つ。
振り返ると、距離を置いて立つ林檎が自分の髪を一本抜いているところだった。彼女はその髪をさらにプチプチと細かく千切る。すると、その破片は一つ一つが小さな刃物へと変わった。
「私は、自分の身体を刃物に変えることが出来ます」
投擲。息つく暇もなく、そのナイフたちが桂を襲った。今度はそれを避けきることが出来ず、左腕を鋭いそれが掠めて行った。桂の腕に一筋の傷ができ、そこから鮮やかな色をした血が流れる。
「ちっ……」
桂はたまらず舌打ちする。
次の瞬間、一気に間合いを詰めた林檎が目の前に迫っていた。
「くっ……ああああっ」
その手に握られた細長い剣による一閃を桂は身体を反らせてかわす。そのままつま先でその剣を蹴りあげると、林檎は武器を失った――が、林檎は構わずそのまま腕を振り上げる。
その腕が分厚い無骨な刃物に変わるのを、桂は目撃した。
「あまりスマートでないので髪以外を変化させるのは好きじゃないんですけど」
「マジかよっ……!」
「では、さようなら。弱い弱い――雨月桂さん」
林檎は容赦なくその刃を振り下ろした。
Φ
振り下ろした腕には手応えがなかった。
目の前にあるのは、ひび割れた地面のみ。
「それがあなたの【異能】ってわけですね」
顔を上げると雨月桂が離れた位置に立っていた。
「さてね。どうだろう」
彼は少し笑ってとぼけた表情をする。今の状況を回避するというのは芸当としてはかなりのものなのだけれど、その笑みに余裕がない辺りが、どうにももったいない。
本当に、弱そうだ。
林檎は、思い直す。彼は本当にこれで全力なのかもしれない。
そして、彼女はやっと思い至る。
「アジトでも見ましたが――〝空間転移〟の類ってところですか。あなたの【異能】は」
「そんな使い勝手のいいものじゃないよ」
「なるほど」
林檎は実に澄ました顔で言う。
「あなたの『全力』に違和感を覚えた理由がなんとなくわかりました」
「へえ……なんだよ」
「あなたは、あなたの言うとおり、あまりに弱い。そして、弱すぎたんでしょう」
「…………」
「あなたはね、感覚が開いていない」
「……どういう意味だよ」
「つまり、ですね」
林檎は淡々と事実を述べる。
「全力にすらなっていないんです。あなたの
「…………」
「そのくらいの水準は越えているものと思ってたんですが、あなた、よくこの世界で生きてこられましたね」
冷たい言葉。目の前のあの青年はそれをどのように受け止めているだろう。
「そうか、俺は弱いか」
林檎は桂の表情を窺う。そして、彼女は少しだけ目を見開いた。
「――けど、俺はやるべきことに妥協はしない」
彼はちっとも動揺していなかった。
どころか、その口元には笑みが浮かんでいる。先ほどの余裕の無いものとは違う。
「あなたは……」
かといって、それは波一つない湖面のような静けさを持っているわけでもなかった。彼のそれは――
「――何を言ってるんです……?」
林檎は理解した。
それは、闘志だ。敵わぬと分かりきっている敵が現れたことに対して、この男は怖気づくどころか、むしろそれを待ち望んでいたかのように、嬉しくて笑っているのだ。
「俺は今試されてる」
桂はもう一度、仕切りなおすように得物を構えた。
「君に勝ちたくなってきた」
林檎は何故だか彼を自分の雇い主に似ている、と思った。
「あなたはとんだ変わり者ですね」
「うるさい。あんなのと一緒にするな」
「あら、せっかく褒めてさしあげてるのに。どうりで総長が気に入ったわけです」
そして林檎は改めて彼に向かい合う。
「まあ、容赦はしませんけど」
林檎は跳んだ。
第二ラウンド――開始である。
Φ
「【異能】が割れれば、どうにでもなります」
林檎が刃に変わった腕を振るうと、そこにいた桂の姿が消える。
「――ぐっ」
呻いたのは、林檎の背後へと移動した桂だった。
桂の左肩には、数本の細い刃が刺さっている。
「手で持たないといけないなんて言っていません」
それは林檎の頭から直接伸びた髪だった。
桂はそれを抜いてとっさに後方へと下がる。
「全方位攻撃。”空間転移〟の【異能遣い】はすぐに人の背後を取りたがりますからね」
桂を貫いていた林檎の髪がもとに戻る。
「〝空間転移〟は姿を消すことで相手の目をくらまします。けどね、姿を消すっていうのは同時に欠点でもあるんですよ」
――だって、消えてる間は何もできないでしょう。
林檎は言った。
「〝私たち〟はあなたのような弱者とは違って、感覚を開いています。それを研ぎ澄ませば、あなたが〝空間転移〟したあとの短い時間でも十分に対処ができます」
にこ、と笑う。
「どうします?」
桂はそんな彼女に対して一歩踏み出してくる。
彼が【異能】で姿を消した。
「私の話聞いてました?」
やれやれ、と林檎は感覚を針のように研ぎ澄ます。
「え――」
しかし――
次の瞬間、彼女を襲ったのは腹部の強い痛みだった。
現れた桂の拳はすでに林檎の腹部を捉えていた。
「う……、どうして……」
ハジメは拳を引くと、姿を消して、また林檎から距離を取る。
「何を……したんですか」
「すごいな。膝をつかせるくらいのつもりで結構思い切りやったんだけど」
彼女は今、たしかに攻撃を食らった。だが、その痛みは彼が現れるよりも前にあった。〝空間転移〟での転移中には世界に影響を及ぼすことはできないはずなのに。彼女が知らないだけで、それが出来る〝空間転移〟が存在するというのだろうか。それとも――
「まさか……」
彼女は思い出す。そういえば、何故彼は姿を消す前に一歩を踏み出していたのか。〝空間転移〟ができるのなら、それは無意味な行為だ。それに、今彼は拳を引いてから回避のための転移をした。回避行動なら、そのまま転移するだけでいいというのに。
「まさか、〝空間転移〟ではない……?」
だが、しかし、攻撃力からして〝高速化〟などでもないだろう。彼の【異能】は林檎の知るどの【異能】にも当てはまらないものだった。
「これは一体なんですか?」
「〝弱者の能力〟だよ」
そして、また姿を消した桂が、今度は林檎の喉に刃を突き立てていた。
林檎は両手を挙げた。
それは、降参の合図だった
「……どうやら私の負けみたいですね」
「抵抗しないのか」
「ここが戦場なら、あなたがそんなことを言うより前に、私は死んでいました」
林檎は少しだけ悔しそうに言った。
「参りました」
Φ
近くの縁石に林檎は力なく腰かけた。
「そういえば、あなたが勝った時のことを考えていませんでしたね」
「あ?」
彼は【枝霧】を仕舞っているところだった。
「殺しますか? 私を」
「……馬鹿」
「ば、馬鹿って……」
唐突に罵倒されて、面食らった。
「殺すつもりならさっきやってたよ」
「……そう、ですか」
林檎は浮かない顔だった。
この感じは……何というか、そう――生き恥を晒した、そんなときに覚える空虚感だ。〝死ぬ覚悟〟というのは簡単に出来ないからこそ、肩透かしを食らった時、心に大きな穴がぽっかりと空く。ただ、もともと林檎は負ける気などなかったから、彼女がしていたのはそういう決死の覚悟とはまた別のものであるのかもしれないが。しかし、心の中に埋めなければいけない空間ができてしまったことは事実である。そして今の状態の彼女にはそんな空白を埋める作業がどうしても億劫だった。
林檎は俯く。
だから、とりあえず今は、少しだけこの敗北に浸っていよう。
「――まあ、そうですね。私を殺したら【悪の此岸】にいられなくなるかもしれませんしね」
「そういうことでは――」
彼は何か言いたそうにしたが、思い直したように口を閉ざした。
「認めましょう。あなたはただの弱者ではない――でも、あなたが私を始末しないというなら、私はあなたに口止めをしないといけませんね」
林檎は力なく笑う。
「どうします? 私、あまり胸も大きくないですし、男の方を満足させられるか、わかりませんけど」
「……何言ってんだよ」
ほんの一瞬だけ面食らったような顔をした後、すぐにいらだたしげな顔になって桂は言った。
「俺、そういうの、駄目だ」
「あなた、欲求がないんですか」
「あるよ。ただ、そのためだけに生きてるわけじゃない」
「そうですか。では、私は何をすればいいですか」
そして、桂の次の言葉に、林檎は冷たいものが背筋に走るのを感じた。
「――いいよ、別に。何もしなくて」
そして、彼はさきほどの戦闘で作った傷を押さえながら、林檎に背を向けてこの場を去ろうとする。
ゾワリ、と。
体の表面が震えるのを林檎は感じた。
気づけば彼女は。
「――――」
彼に向かって飛びかかっていた。全身全霊の、殺意をもって。
彼の言葉を聞いた途端、駄目だ、と彼女は思った。
だって――この男はお人好しだ。
林檎は彼の〝弱さ〟を認めたつもりだった。
だけど、これは話が違う。そして、この種の〝弱さ〟は周りの人間まで巻き添えを食らう。
この男を、彼女の雇主のもとに……秋島純の元に置いておくわけにはいかない。
彼女はその腕を刃物へと変え、目の前の青年へと音もなく襲い掛かる。
ほんの一瞬で、何の躊躇いもなく、何の手加減もなく、持てる力の全てを集約させる。それこそがこの雨月桂という青年にはない強者の〝本当の全力〟というものだった。
桂は今、こちらに背を向けている。彼は、状況を理解するまでもなく――死ぬだろう。
彼はこの一撃必殺を避けることは出来ない――
「――死んでください」
――出来ないはずだった。
そして、林檎は信じられないものを目撃する。
彼女が振るった無骨でありながらも鋭さを兼ねそろえた刃物。それを、桂は後ろも見ないまま片手で受け止めたのである。標的に達しないまま、五本の指に挟みこまれ止められた彼女の腕。
彼女は状況が理解できなかった。そして、戸惑った。彼は〝弱い〟はずではなかったのか。
振り返った桂の顔は彼女以上に驚きの色をたたえている。その驚愕は間違いなく林檎の不意打ちに対するものではなく、自分自身の行動に対するそれだった。
そして、林檎は見逃さなかった。
彼が振り返った瞬間、ほんのわずかに見せたその眼を。
「あ――」
――〝殺される〟。
それは本当に一瞬のことだった。刹那の時間にその眼に宿った、暗いもの。炎のように燃え上がる、真っ暗な――闇。
彼女が彼女の兄や、【悪の此岸】の〝荒事専門〟のメンバーと手合せするときに覚えるあの――自分より〝強い〟ものを相手にする感覚。自分の勝利する未来をどうしても描くことのできないあの感覚。それと、〝その感覚〟は根本的に質が違った。勝敗など、はなから見ていない。〝それ〟は圧倒的な、蹂躙であり暴力だ。そして、ぞっとするほどの、それは【愛】に近いものだと、林檎は思った。
怖い、と彼女は思った。彼女は敗北することにさえ恐怖を抱いたことがなかった。その敗北がすなわち〝死〟を表すとしても。しかし、これはわけが違う。彼女を今支配しているのは〝死〟への恐怖などでは決してなく、目の前の存在に殺戮されることへの恐怖だった。
彼女が最初に持っていた殺意はその巨大な闇にいともたやすく飲み込まれ、たった一瞬で心が恐怖に満たされた。彼女は瓦解する寸前だった。
「――ああああああああっ」
もう片方の腕を刃に変え、振るった。
もう、死んだっていい。
死んだっていいから、殺されたくない。
彼女は我を忘れていた。
だが、そうして放たれた攻撃もまた、桂に届くことはない。唐突に動きを封じられた彼女の腕。その腕には背後から誰かの細い腕が交差させられていた。
「――っとと、危ね」
背後から聞こえてきたのは彼女にとってなじみ深い人物の声だった。
「ユウちゃん……?」
そして、次の瞬間、首筋に強い衝撃を受け、彼女は気を失った。
Φ
「ここは……?」
あたりを見渡すと、そこは〝アジト〟の近くにある公園だった。林檎はそこにある二つのベンチの片方に寝かせられていた。
「――せっかくアニキと感動の再会だってのに、まともに話せずじまいで別れることになっちまったじゃねえか」
隣のベンチには、乱暴で尊大な座り方をして、缶ジュースを飲む女子高生がいた。
立ち振る舞いこそ粗暴ではあるが、容姿自体はなんとも女性らしい彼女である。そんな風に不満そうに口を尖らせている姿はなんとも可愛らしい。
「やっぱり、ユウちゃん……でしたか」
その高校生の名前は日野悠。林檎と同い年である彼女は、まだ齢一七でありながら、戦闘要員の人間たちの筆頭となる実力を兼ね備えた切り込み隊長であり、創設当時から【悪の此岸】に所属する最古参の人間の一人でもある。
「よう」
「ユウちゃんがここまで運んでくれたんですか?」
「ああ。軽いなお前。ちゃんと飯食ってんのか」
「栄養は摂ってますけど」
「肉を食え、肉を」
ユウはなんともぶっきらぼうにそう言い放った。
「しかし、相変わらず
「……そういう性分なので」
「そんで意外と直情的だ」
どうやら自分の失態を見られていたらしい。
「いつの間にかこの公園も寂しくなっちまったよな。昔はもっといろいろ遊具があったんだけど。あれか、危ないっつって撤去されたのか。世話を焼きすぎる世の中ってのも考えものだぜ」
皮肉な物言いこそすれ、林檎を責めるようなこともなく、ユウは与太話をする。
「危険は遠ざけりゃそれで終わりか。それが迫ってくる速度の違いなんて、誰も気にしやしねえ……いや、分からないのか、そもそも」
「――あの人はなんですか」
林檎は唐突にそう訊ねた。
「さあね」
ユウは即答した。
「俺も、アニキのことは正直わかってない」
「アニキ? お兄さんなんですか」
「心のアニキだ。アニキがいなけりゃオレはここにいない。ここじゃない場所にすらいられなかったかもな。まあ、ごくありふれた言葉でいえば、〝命の恩人〟ってやつさ」
ユウは遠い目をして、炭酸飲料を口に含む。
「あの人を呼ぼうといったのはユウちゃんなんですよね」
「そうだ」
「なんであんな不気味な人……」
「名前で呼んでやれよ。じきに一緒に仕事をする仲間になるぜ」
「……」
――『仲間』。
しかし――どうしても彼のことをそうだと思えないから――林檎はこんなことを言っているのではないか。
「まあ、オレも名前では呼んでねえけど」
そんな林檎の胸中を察しているのか察していないのか、ユウはシニカルに笑った。
「アニキは、たしかに何考えてるかわかんないフシはあるな。あんなに人間臭いくせに」
「よくそんな人のことをそんなに慕えますね」
「そりゃ慕うさ。今んとこアニキにたいして断言することができることがあるといえば一つだけ――」
林檎はその言葉に耳を傾けた。
「――あれは、本物の阿呆だ」
「……」
「おい、そんな期待外れみたいな顔すんなよ。こっちは大真面目に言ってんだぜ」
「……でもですね、ユウちゃん」
「たしかにオレも自分が変なこと言ってるってのは自覚してるけどよ――でも、本当にそうなんだからしょうがねえだろ」
ユウはノールックで空き缶をゴミ箱に放り投げる。缶は吸い込まれるように、円状の枠の真ん中を通って、大きな筒の中に入る。それを確認することもなく、彼女はベンチから立ち上がった。
「アニキは単純だ。ああいう行動原理の単純な人間が、オレみたいなのには心地いいんだよ。それに――きっと純にもそのはずだ」
「……でも」
「問題があれば、オレが全面的に責任をとる」
彼女は真面目な顔をしてそう言う。
それは簡単に口に出せるような軽いことではないし、そもそもが彼女のような年齢の人間が口にしていいようなことでもない。しかし、彼女はその責任を背負えてしまうのだろうと、林檎は思う。気丈さだけではない――そういう強さを彼女は持っているのだ。
「ユウちゃん……」
「どっちにしろ目が覚めたならさっさと帰れよ。お前んちの兄貴もアレで結構人のこと心配するタチだろ」
「うん。ありがとう」
そして、ユウは公園から一人出て行ってしまう。
暗闇に包まれた公園で、林檎とその周囲だけをやけに明るい街灯が照らしている。明るいところから見る数歩分先に広がる暗闇は、なおのこと暗い。この光の中を出て、暗闇のなかを歩けば、きっとやがて眼が慣れて、周りが見えるようになってくるだろう。
暗い闇は、人を孤独にする。
けれど、彼女が体感したあの闇は、それとはまったく別種のものだった。
あれは、いわば黒い闇だ。
どんな色も上から塗りつぶしてしまう――漆黒。
「あなたはあの眼を見たことがあるの、ユウちゃん――」
そして、彼女はその感覚を思い出して、一人震えた。
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