一章「悪の此岸」
世界には裏側がある。
ある日、世界が壊れ、その領域は少しだけ拡張した。
けれども世界は今日も変わらず回り続けている。
「……朝か」
青年――
何となく天井を見つめて、自分が今日も相変わらず自分であることを確認すると、彼はゆっくりと体を起こした。
「…………?」
ふと違和感を覚える。
なんだろうこれは?
桂は首を傾げてその感覚の原因を探る。……匂い? そうだ、匂いが違う。なんだか柔らかくて安心するどこか慣れ親しんだ匂い。彼は寝ぼけ眼のまま隣を見る。
そこには安らかに寝息を立てて少女が眠っていた。
桂の頬が一瞬で真っ赤に染まる。これは一体どういう状況だろう。
しばらく一人で勝手に慌てふためいた後、決心して彼女の体を揺さぶった。
「う……」
少女が目を開いた。眠たそうに両目を擦ると、うつ伏せの体をゆっくりと持ち上げて、その場でいわゆる女の子座りをする。
「眠いぃ……」
彼女が桂の存在に気付いたのは、ひとしきり伸びを終えた後だった。
「――!?」
桂の姿を見とがめた少女はその場から吹っ飛んだ。
「……って、うにゃあ!?」
そして、ベッドから転げ落ちる。
普段はおっとりして清楚と言う言葉のよく似合う彼女が、こんな風に派手な驚き方をするのはあまりないことである。
「あ、あの、城咲……」
「なんで桂が私の部屋にいるのぉっ!?」
泣きそうな顔をして、彼女――
「いや、城咲、ここ俺の部屋」
「へっ……?」
言われて、ハルガは部屋をもう一度見まわす。
「な、なんで私、桂の部屋にいるのっ!?」
「俺に訊かれても知らないよ」
ハルガがいまだに状況を掴めずに「あわ、あわわわわ」とか言っているのをよそに、桂の心はもう落ち着きを取り戻しつつあった。
もしかして、既成事実というやつか?
いや、そんなわけはないだろう。
多分、〝仕事〟で疲れきっていたため、あまりの眠気に間違えて桂の部屋に入ってきてしまい、そのまま気づかずに布団に潜り込んだとか、そんな事情だろう。最近忙しいようだったし。
「えと、朝ご飯にする?」
部屋の隅で体育座りしながらしょんぼりしている彼女に、とりあえず言葉をかける桂。
「……うん」
そのなんとも切ない返事を聞いて、桂はなんだか泣いている子どもを慰めているみたいな気持ちになった。
Φ
故郷であるこの街に帰ってきてもう三日ほどが経つ。
最初のうちこそ引越しのあれこれに追われていた桂とハルガであったが、そろそろようやっと落ち着いてきて、昔住んでいた場所とは言え、まだ慣れない環境に新鮮さを覚える余裕も出てきていた。
「桂、さっきはごめんね?」
生姜の効いた野菜炒めを無心に頬張っていると、ハルガが唐突に謝罪してきた。
「……ん」
照れくさそうな、バツが悪そうな、そんな顔をする上目遣い気味のハルガ。先ほどのことを思い出して、桂の頬はもう一度赤くなった。
口の中のものを飲み込むと、照れを追い払うように桂は言う。
「えと、気にすんなよ」
ありきたりすぎる言葉である気もしたが、とっさに言える言葉がそれだけだった。
「うん。ありがと」
そう言いながらも、やはりもじもじしている彼女の様子が桂は気まずい。
そんな空気を変えるために、適当に話題を振る。
「昨日、そんなに忙しかったのか?」
彼女はどうやらだいぶ遅い時間に帰宅したようだった。桂も桂で昨日は日付が変わる時間帯まで起きていたのだけれど、彼女が帰ってきたのはそれよりも後だったらしい。
「うん。大変だった」
朝食を食べ進めながら、話を聞く。
「俺で力になれることがあったら遠慮なく言えよ」
「……うん。ありがと」
ハルガは微笑む。やはり疲れを隠しきれない部分はあるが、その表情は何だかとても優しいものだった。
なんとはなしに見つめてしまう。
「……何? 私の顔になんかついてる?」
「いや、なんでもないなんでもない」
慌てて視線を逸らした。
彼女と同居して長いこと経つが、いまだに困っていることはこういうところである。
有体に言って、桂の同居人は綺麗すぎるのだ。
(――意識しちゃうよなあ、どうしても)
人懐こそうな丸みのある双眸に、少し濃い目の、形の整った眉。日の光を浴びると綺麗に輝く、肩口で切りそろえられた赤みがかった髪。いかにも人の良さそうな、いつも微笑みの絶えない口元。
身長は平均的なそれより少し高めだが、男子の平均より五センチほど高いハジメと比べると、やはり女性として高い程度である。
異性としてはかなり魅力的と言っていいだろう。
ちなみに、ハルガは桂よりも年上で、二つ年が離れている。
桂は自分の思考回路の中で徐々にその幅を利かせつつあった雑念を取り払い、漠然と自分の一日の予定を思い浮かべる。
「俺、今日はちょっと用事あるから、遅くなるかも」
「あれ、そうなの」
「ちょっと稼ぎ方を変えてみようと思って」
ハルガが見るからにキョトンとした。
「……なんだよその顔」
「へ!? ……い、いや、急にどうしたのかなと思って」
「まあ、やることは変わらないけど、やり方くらいは変えてもいいかなと思ってさ。今のままだと、お前にも迷惑がかかるし」
「ははあ」
感嘆したような声を漏らす。
桂の収入の得方ははかなり特殊な部類に入るものだ。その形態からして安定なんてものとは程遠い。一方でハルガの仕事は安定している上に給与も高いので、桂は何度も彼女に助けられていた。、故に桂にとってハルガは単なる同居人ではなく頭の上がらない姉のような存在である。
ちなみに、この町へ帰ってきたのはハルガの仕事の都合だ。
「――へえ。あの桂がねー。私のためにねー」
ハルガは嬉しそうにニヤニヤしていた。
「……その顔やめろよ」
「えへへ、つい、ね。……じゃ、お互い今日は忙しい日になるかもね」
「そうだな……」
桂は「ふう」と一つため息をついた。
「まあ、お互いボチボチやろうぜ」
「ボチボチ、ね。分かってる。お互い無理をしすぎずにってことで」
ハルガは微笑んだ。
Φ
その日の午後。
画面に地図の映し出された携帯を片手に、桂は目の前に聳えるマンションを見上げた。
「ここか」
彼は手元にドラムのスティックケースをぶら下げていた。
マンションの廊下を進むと、ところどころ葉が落ちていた。風に運ばれてきたのだろう。冬もそろそろ終わりを迎えて、風の強さが季節の移り変わりを物語る時期になってきていた。
桂は欠伸なんかしながらエレベーターを目指す。
――〝節電にご協力ください〟。
エレベーターにはそんな貼紙がしてあった。
「…………」
これは、どういうことだろう。文面通りに読み取って意訳するなら、使うな、ということか。試しに押してみたところ、ボタンは点灯しなかった。
「……階段か」
桂の目指す階は七階。少し足労モノだが、これではやむを得ない。
「反対側にもう一つあるよ」
「あ?」
振り返ると、妙な格好をした少女がいた。サスペンダーで吊った黒いスラックスに灰色のカットシャツというなんだか外国の刑事ドラマで目にしそうな服。その少女はカラスの濡れ羽のように艶のある黒い髪で、長さはハルガと同じくらいだが毛先をシャギーにしている。なんだか妙にこざっぱりした印象を受けた。見た感じ、桂と同い年くらいだろうか。
「エレベーター、使いたいんだろ? ミュージシャンのお兄さん」
彼女はなんだかあまり女性らしくない言葉を用いた。
「……ああ。えと、ありがとう」
ミュージシャンなんて呼び方をしてきたのは彼がスティックケースなんか持っているせいだろう。特に訂正する必要性も感じなかったのでそこは受け流す。
「どういたしまして」
その少女が指差した方に向かって歩くと、確かにマンションの反対側にもう一台エレベーターがあった。
「こっちまで来なきゃいけないの面倒くさいよねえ」
「いや、何でついてきてるんだよ」
桂は自分の後ろにぴったりとくっついて歩く彼女を咎めた。
なんだろう彼女は。妙に距離感が近い。
「そりゃあ僕もこのマンションの住人でエレベーターを必要としているからだろう」
『僕』という少女の妙な言葉遣いに、桂は眉をひそめた。
「おかしいか。女がこんな一人称を使っちゃ」
心の中を読んだように少女は言う。
「いいだろ別に。それとも幼女以外が『僕』っていうのは気に食わないタイプかい?」
どんなタイプだ。
桂は心の中で突っ込んだ。
「あれ? もしかしてアニメとか見ないのか。結構テンプレなんだが」
「…………」
分からなくは、ないけども。
夜更かしが多いので、深夜の時間帯にやっているアニメとは親しみ深い桂である。
「まあ、冗談だ」
少女はへらへらと笑った。
「…………」
しかし、なんだろうか。随分と変わり者のようだ。会ってたった数分会話しただけで、桂は彼女の人となりが概ね把握できてしまった気がする。
えらく無遠慮な――桂にとって見ず知らずの彼女は、数歩歩み出て、エレベーターの上昇ボタンを押した。
エレベーターは間もなくやってきて、二人は狭い密室に乗り込んだ。
七階のボタンを押し、扉を閉じる。
「何階?」
「ん? んー」
少女は首を傾げて、迷うような顔をした。
彼女が考える間にもエレベーターは上昇を続ける。
「おい、通り過ぎちゃうんじゃないか」
「八階」
八階のボタンを押した。
「――そういや君、見ない顔だね」
彼女は唐突に切り出した。
「エレベーターのことも知らなかったから、このマンションの住人じゃないのだろうけど、この町に住んでるのか、君」
「ああ。まあな」
「ふうん」
訊いておきながら、興味のなさそうな反応である。
「ここへは何の用で?」
訊かれて、迷う。だが、知らない人間に正直に答える義理もないだろう。桂は適当に答えた
「バンド仲間の家に遊びに来たんだ」
「へえ」
また、似たような反応。
だけど、なんだかその反応に含みのようなものがある気がした。
そのとき七階に到着したことを伝える音が響いた。
「じゃ、降りるよ。ありがとうな、親切に教えてくれて。危うくいらない体力を使うところだった」
「ん、どういたしまして。ご縁があればまたいずれ」
「うん」
桂はエレベーターを降りて左右を見渡す。
背後で扉が閉まる音がした。
そして、部屋は左奥だと判断して歩き出そうとしたとき、後頭部に固いものが当てられるのを感じた。桂は足を踏み出した体勢のまま固まった。
「……随分早い再会だな」
「――切っても切れない縁だったりして、僕たち」
背後から聞こえてきたのは、エレベーターで上の階へ上るはずだったあの少女の声だった。
「それはなかなかロマンチックだけど、君の部屋は上の階じゃないのか」
「そう言やあ君が先にさっさと降りてくれるからね」
「ブラフ、ね――性格悪いな」
桂はひとまず両手を上げた。ホールドアップ。銃を突き付けられた時に身を守るためのもっとも安全な手段だ。
「……物騒だな」
ぐい、と銃口が後頭部に押し付けられる。
「先に嘘をついたのは君だ」
「何のことだ?」
「何が『友達と遊ぶ』だ。この階は僕の部屋以外は全て空き部屋だ」
「『僕の』?」
桂は聞き間違いだと思った。
「それじゃ、もしかしてお前……〝秋島純〟か?」
それは、彼がこれから会おうとしていた人間の名前だった。
「そうだよ。何をそんな驚いた顔をしていやがるんだい?」
桂は勘違いをしていた。
ここを紹介してくれた人間の話を聞いて〝秋島純〟を勝手に男性だと思い込んでいた桂だったが、それ以上に驚いたのはその若さにである。
「変わり者集団、【悪の此岸】の総長」
それが、〝秋島純〟という人間の肩書き。
「何だ知らないのかよ。僕の命を狙いに来たんじゃないのか、君?」
桂は息を飲む。
自分の背後にいる人間は只者ではない。
純は言った。
「じゃあ、君は何者だ」
「……」
緊張による高揚感とともに、桂は手を挙げたまま振り返った。
今は銃を構えているという大きな違いがあるのにも拘らず、純がそれでも先ほどと変わらない表情をして、それから同じ口調で話しているのが桂には不思議だった。
「勿体ぶるなよ。僕自身はそうでもないが、待たされるのが嫌いな奴がいるんでね」
それは、この場に立ち会っている人間が桂と彼女だけではないということを暗に示していた。
桂は背筋にぞっとしないものを感じた。
一つ深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
「いや、この世界じゃ名前より先に訊くべきことがあったな――」
秋島純は言った。
「――君は、【異能遣い】なのか」
言い終えると同時に――桂は〝それ〟を発動した。
彼は手に握った拳銃を川内純に向ける。
ところがその直後、彼の手の中の拳銃が消失する。
とっさに身を引き、スティックケースを体の前に構える。
桂の目が捉えたのは、地面に伏せった川内純と、その向こう側で拳銃を握りしめた背の高い男の姿だった。
三発の銃声とともに、ケースを握る腕にかかる衝撃。弾かれた銃弾はマンションの壁と天井にめり込み、小さな穴をつくった。
桂はとっさにスティックケースの中身を取り出した。握りしめたのは一本の鍔のない短い刀。
そして、状況はそこで停止した。
「――動かないでください」
背後からかけられる声。
振り返って確認するまでもなく、桂は状況を理解する。
「……詰み、か」
桂が刀を鞘から抜こうとした瞬間に、音もなく迫ったもう一人の使い手。その少女は彼の首筋にナイフを押し当てていた。
「今日は、背中がお留守みたいだね、君は」
純は薄ら笑いを湛えた意地の悪そうな顔をして、服についた汚れを払っていた。
「どうする? もう一回使うかい、今の」
「……いや、やめとくよ」
桂は大人しく白旗をあげた。
「しかし、なかなか場数は踏んでいるみたいだね。何の能力かは知らないが、僕から拳銃を奪った時点で満足して気が緩んじまいそうなもんだけど、そのあとすぐにその拳銃を他の誰かに奪われても取り乱さずに次の行動に移れるなんて。けどま――背後にもう一人が忍び寄ってることまでは気付けなかったみたいだけど」
「…………」
「ま、やはりあくまで『なかなか』ってことだな。【能力者】としてはそこまでずば抜けているというわけではない」
あからさまな挑発。
「そうだな、たしかに俺は弱いかもしれないよ」
しかし、桂はそれを気にも留めない様子だった。
「俺は、強くなれなかった人間だから」
純は眉を顰める。
「強くなれなかった……?」
すると、不意に純は桂のも持つ得物に目を留めた。
「――あれ? 君、その刀……」
桂は怪訝そうな声を上げた彼女の顔を見上げる。そこにあったのは意外な表情だった。
無表情。
「なるほど。君が〝アニキ〟――雨月桂くんか」
そんな顔を一瞬だけ見せると、彼女はそう言って気持ち悪いくらい愉快そうな笑みを浮かべた。
「悪くない――」
彼女の口から言葉が漏れる。
「――いや、違う。悪い。とても悪い。これ以上ないくらいとびっきりに悪だ」
そして、彼女は快感を抑えきれないようにぶるぶると震えた。
「――
桂の背筋に悪寒が走る。
それは、多分桂の知っているその言葉の意味では理解しきれないような何かしらの、あるいは、何者でもない意図をはらんでいるのだろう。多分それは秋島純が秋島純として存在するために欠かせない、キーワードだ。だからこそ、彼女は『悪』という字をを自らの統率する集団の名として――掲げたのだ。
桂は目の前に立つ秋島純という一人の人間を純粋に怖いと思った。
彼女のモチベーションとなっている何かが、桂にはとても恐ろしいものに感じられた。
秋島純は笑みを浮かべて、言った。
「――なかなか面白そうじゃあないか、雨月桂」
桂は、彼女から視線を逸らすことが出来なかった。
「それじゃ、訊こう――君はどうしてここに来た」
彼女は悪魔のように――笑う。
「そうするべきだと……思ったから」
桂は背筋に汗が伝うのを感じながら、絞り出すような声で言った。
「――違うね。君がここへ来たのは運命さ」
そして、純は、傲岸不遜に――名乗りをあげる。
「僕は秋島純。【悪の此岸】の総長を務めている――ようこそ、〝鬼のなりそこない〟とやら。僕の醜悪な城へ歓迎しよう」
とても愉快そうに、とても邪悪に。
彼女は桂に手を差し出したのだった。
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