3 あなたを待っていた
※
停止していた時が動き始めた。その直感は、間違っていなかったらしい。
シハーブとの面会が終わった直後、再びアースィムを呼ぶ声があった。
「族長。変な人が来ました!」
例の、視力が良い少年である。変な人、と表した割にその声に恐れはなく、あるのはただの困惑だ。アースィムは、待ち人が来たことを察し、腹の奥底に力を込めた。
「会おう。それから、少し遠出する。数日留守にするかもしれない。迷惑をかけるが、集落を頼んだよ」
「ええっ!?」
目を白黒させる少年には悪いのだが、説明する時間が惜しい。アースィムは真っすぐに、集会用の天幕へと向かう。
野外の強烈な陽光に眩んだ目では仄暗くすら見える天幕の中央に、炎のように派手な女がぽつりと座している。想像通りの姿をした客人は、息を弾ませやって来たアースィムを見上げて開口一番に言った。
「新婚旅行に行きましょう」
アースィムは高鳴る鼓動を押し隠しつつ、軽口を返す。
「あなたが言うと違う意味になる」
「まあっ! こっちから願い下げよ!」
アースィムは軽やかに笑い、旅支度を整えて、イバを連れて砂漠へと出る。向かう先はもちろん、白の聖地。二度向かい、いずれも中断することとなってしまった新婚旅行の約束を果たすために。
※
青一色の空が、世界の半分以上を満たしている。
高所の断崖である白の聖地では、地上の営みが遥か遠い。崖の先端に立てば足元まで空が迫り、砂の赤や小石の灰色よりも、青が鮮烈に目に映る。
「雨が降るわ」
ハイラリーフは言うのだが、薄雲一つない蒼天である。半信半疑でしばらく待つ。
彼女の言葉に反し、いっこうに降雨の気配はない。そもそもが、ここは砂漠地帯。滅多に雨など降らぬのだ。
アースィムはしかし、希望を捨てることはなく、白い四つの花弁を持つ高山花を集めた。白の氏族では、大切な人に高山花を贈る習わしがある。ラフィアと約束したのだ。萎れかけた一輪の花ではなく、新鮮な花束を贈るのだと。
できることならば、花冠を作ったり、凝った形状にしたりして渡したいものだが、あいにく片手では困難だ。しかし、一つ一つの花に込めた思いは誰にも劣らぬと自負している。
やがて、風が強まった。ハイラリーフが、空気の匂いを嗅いで呟く。
「来た」
彼女の言葉通り、ぽつり、と一粒の水が砂に染み込んだ。続いて、それは勢いを増し、アースィムの足元に斑模様を描く。
決して強烈な雨ではないが、今ここに、世界を巡り新たな水が辿りついたのだ。
ハイラリーフが、半ば透けている薄い衣裳の袖を捲り両手を地面に突いた。鮮やかな赤に塗られた爪の先に、青玉の耳飾りが無造作に置かれている。ある時からラフィアが常に身につけていた耳飾りだ。
「何をしているんだ」
「まあ黙ってなさい。あんたはその花を持って、ただ皇女様のことを思っていれば良いわ。あいつはきっと、帰って来る」
そう、ラフィアの精神は水となり世界を循環している。そして今日この日、彼女は生前叶わなかった新婚旅行の約束を果たすために、白の聖地へと巡って来る。
水に還った精神が自我を保つには、本人の強靭な意思が必要である。その上で、何か強烈な感情を呼び覚ますきっかけがあればもしかすると、
ラフィアは肉体が焼け落ちる前にそのことに思い至り、ハイラリーフに告げたのだ。『アースィムに伝えて。新婚旅行に行きましょう、と。私は人でなくなっても必ず彼の隣に帰る。アースィムの側で、彼を支えて共に生きるのだと水神マージに誓ったの』と。
確証はない。しかし、ラフィアは己がそれをやり遂げると信じて疑わなかった。強い意思が、精霊を生み出す。彼女の信念は申し分ない。そしてアースィムとハイラリーフは、ほんの少しの助力にでもなればと思い、ラフィアの心残りでもある聖地で強く祈るのだ。彼女にもう一度会いたいと。
天は相変らず強烈な日差しを下界へと注いでいるが、同時に水の礫も投げ付けている。
雨粒が頬を打ち、衣服がじっとりと湿り気を帯びる。砂避けの布から零れる前髪から、水が滴った。そのうちの一粒が頬を伝い、胸元に抱いた花弁を打つ。
その瞬間、突如として白い花が歪む。いや、そうではない。素朴で可憐な花束を包み込むように、煌めきを放つ濃密な水蒸気が生まれたのだ。
地に膝を突き瞑目していたハイラリーフが瞼を開き、忙しない仕草で耳飾りを鷲掴みにして腰を上げた。
「皇女……ラフィア!」
ハイラリーフが叫ぶように呼ぶと、水蒸気はさらに凝縮し、白い靄となる。その中核に、青い耳飾りが差し込まれた。
目を疑うような幻想的な光景だった。
淡く発光する靄は青玉に導かれるように収斂し、鱗粉のような光を撒き散らしながら細い紐のようになり、耳飾りに吸い込まれていく。粒子の最後の一粒が消え去ると同時に雨が止み、涼やかな微風が花束を撫でた。
しばし、沈黙が訪れる。ハイラリーフの手のひらの上には青玉。ラフィアの瞳を彷彿とさせる、透き通る色。
亡き妻と見つめ合っているかのような感傷に浸りながら、宝玉を注視する。やがて、ハイラリーフがそれを握り締め、胸元に抱いて語りかけた。
「出て来なさい、生まれたばかりの精霊さん。怖がることはないのよ。あたしがちゃーんと育ててあげるから」
しかし反応はない。ハイラリーフはその後も根気強く語りかけたのだが、耳飾りには何の変化もなかった。ハイラリーフの頬が、次第に色を失う。
「ちょっと、何のんびりしてんのよ、ぼんくら! もったい付けないで、早く出て来なさいって」
「ハイラリーフ、貸してくれ」
アースィムは有無を言わさず耳飾りを奪い取り、陽光を集めて深い蒼に煌めく青玉に向けて言った。
「ラフィア、この日をずっと待っていた。あなたには言いたいことがたくさんあります。どうしてあんな無茶をしたんですか。この一年、俺がどんな気持ちであなたを待ったと思いますか」
一度自身の感情と向き合えば、前を向いて生きるため心に築いていた堅固な城壁が、音を立てて崩れ落ちる気配がした。
「自己犠牲なんて望んでいなかった。たとえ、砂漠が水の底に沈んだとしても、俺はあなたと共に過ごす未来を望んでいました。俺はこんな利己的な人間です。族長なら氏族のことを一番に考えるべきですから、恥ずべきことです。それでも、あなたを喪うくらいであれば、何を犠牲にしても良いと思った。あの日のことが、悔やまれてならないのです。強引にでも、あなたを連れて逃げるべきだった」
あの夜に全てを押し流さんとしていた濁流よりも黒く濁った激情が、延々と吐き出されていく。
「覚えていますか、あなたを騙して連れ出した最初の新婚旅行のこと。あなたは俺に訊きましたね。将来の夢は何かと。俺は、族長として氏族を繁栄に導くことだと答え、あなたは俺を嗜めました。それは族長としての願いであり、アースィムとしての願望ではないはずだと」
イバの背に揺られる道中で、アースィムの顎の辺りで日差しに照らされていた砂避けの布。そこから溢れた金糸のような髪の、陽に透ける淡い光。ラフィアが好んでいた香油の香りが鼻先をくすぐって、全身が熱を持つようだった。頭頂に口付けたとしても、鞍上の揺れのせいだと言い訳できるのではなかろうか。そんな邪心を抱きもした。
「あの時は、空っぽな俺の心を見透かされた驚きと羞恥で、冷たい反応をしてしまいました。だけど今なら胸を張って言える。俺の望みは、あなたと共にあることです。だからどうか、帰って来てください。あなたと言葉を交わしたい。そして、抱き締めたいのです」
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