2 その道に、水神の加護を
※
「族長、シハーブが来ましたよ」
集落で最も視力が良い少年が、東の砂丘を指差しながら声を張った。
アースィムは物思いから覚め、意外な人物の訪れにイバと視線を交わし合ってから、少年に言葉を返した。
「そうか、今行くよ」
弟シハーブと会うのは、ほとんど一年振りである。止まっていた時が動き始めたかのような微かな高揚を抱きつつ、アースィムは弟を出迎えるために集落の東端へと歩いた。
「兄さん、お久しぶりです。お元気そうで良かった」
「ああ、シハーブも」
垂れ幕を巻き上げたままの開放的な天幕の中、簡潔な挨拶を交わしたきり、兄弟の間には沈黙の
無理もない。喧嘩別れではなかったものの、あの事件の後、シハーブは族長の任を兄へと托し、シハーブを指導者に推す者らと共に集落を出て、
砂竜は繁殖しない。ゆえに、マルシブ皇帝より
そもそも、シハーブに従った者のほとんどが、砂竜と絆を得てはいなかったため、彼らが連れて行った砂竜はシハーブの相棒バラーと、ほんの数頭だけだった。
一見、短絡的で愚かな行動にも見えるのだが、アースィムは弟の真意を察している。彼は、己は巨大な白の氏族を率いることに向かぬと思い、潔く族長の任を降りたのだ。
しかし、敬愛する父でもあった前族長の遺言に公然と反する訳にはいかない。それゆえ、価値観の相違から別の集団を作り、白の氏族を離脱したという体裁をとったのだ。
そのことを、明言されたことはない。しかし、兄弟の間には、言葉にせずとも理解し合える深い絆がある。少なくとも、アースィムはそう確信している。
「皆は元気か」
「ええ、誰一人として大きな怪我や病はありません。バラーも成長して、最近は背に乗っています」
「そうか。良かった」
先ほど出迎えの際に目にしたバラーの姿が脳裏に蘇る。ラフィアが可愛がっていた幼竜は立派な若い砂竜となり、凛々しい眼差しでアースィムを見下ろしていた。頼もしい成長を知れば、ラフィアは喜ぶだろう。
「兄さん、僕たちが白の集落に立ち寄ったのは、皇女様を偲ぶためです。ほら、あれからそろそろ一年が経ちますから」
精霊憑きと恐れられ、集落を飛び出したラフィアだが、彼女は身を挺し、豪雨の天変地異から砂漠を救った。マルシブ帝国の忠臣であり砂漠の覇者である砂竜族は、誇り高くあるべきだ。恩人を迫害し、死してなお汚名を着せるなどあってはならぬ。
ゆえにラフィアは白の氏族では英雄の一人に列せられたのだ。
本人が聞いたら、どのような顔をするだろう。面映ゆいとはにかむだろうか、はたまた面白がってはしゃぐだろうか。いかなる時も天真爛漫なラフィアを思い、自然と頬が綻んだ。
「ラフィアもきっと喜ぶよ」
「そうだと良いのですが。僕が最後に皇女様と交わした会話は、彼女にとってあまり好ましいものではなかったでしょうから」
ラフィアが集落を飛び出した日、いったい何があったのか、カリーマからそれとなく聞いている。
明け透けな物言いをすれば、シハーブは兄の妻を口説いた訳だが、アースィムが本当に命を落としていたのであれば、白の氏族長としては正しい判断だっただろう。あれからもう時が過ぎたのだ。今さら非難するつもりは毛頭ない。
アースィムは、妙に達観した考えを抱いていることに戸惑いつつ、珈琲を口に含む。鼻を突き抜けるような芳香と同時に苦みが口内を滑り、喉へと流れていった。
「それで、これからシハーブ達はどうするんだ」
「実は、商売でも始めようかと」
「商売?」
想像すらしなかった返答に、アースィムはただ復唱することしかできない。シハーブは悠然と微笑んだ。
「ええ。僕らは将来的に、砂竜使いではなくなってしまう。だから、今のうちに生きる術を身につけておかねばなりません」
「だからこその商売か」
「委細はまだ詰められていないのですが、ほら、その道に関しては砂竜族内に頼もしい先人がいるでしょう?」
「青の氏族」
成金と揶揄されることの多い氏族だが、財を成す才覚に恵まれた者達だ。シハーブは彼らの助言を得ながら、自らが率いる仲間を守り導こうと邁進しているのだ。
また一つ精悍になった弟の顔を見て、アースィムは眩しさに目を細めた。
砂竜族の支配が及ばぬ中央砂漠。新たな土地で暮らしを立てるのは、困難なことだろう。
シハーブが突き進むその道に、水神の加護があると良い。心からの願いを胸にアースィムは、珈琲の杯に指先を浸し液体を救い取ってから、指を弾いて砂上に撒いた。
「成功を祈っている。水神マージのご加護を」
兄の後押しを得て、シハーブが破願する。途端に、見慣れた弟の姿が戻ってきて、アースィムは言い知れぬ充足感に包まれた。
世界は変わり、人も変わる。だがしかし、決して変わらぬものもある。それぞれの願いを叶えるために、道は分かたれ、また交差する。
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