終章

1 彼女が遺した言葉は


 山羊の間延びした鳴き声が響く長閑のどかな朝。焼き立てのパンが砂から掘り起こされて、香ばしい香りが漂っている。もうじき朝食時だ。


 古くから変わらぬ暮らしが繰り広げられる集落の片隅で、陽光を弾く鋭利なやじりが空気を裂いた。ひゅっ、と勇ましい音が鳴ったものの、矢は的に届くより前に減速し、呆気なく墜落して砂上に転がった。


「グルル」


 首を左右に大きく動かし矢が描く光の軌跡を視線で追っていた砂竜さりゅうのイバが、つぶらな目を不思議そうに瞬かせ、小さく鳴いた。


 軽く首を傾けたイバと目が合って、アースィムは苦笑する。干からびて半ば化石と化した灌木の陰から身を起こし、溜息を吐いて矢を拾う。


「やっぱり片腕では弦を引く力が足りないな」


 アースィムは、隣に歩み寄って来たイバの首を撫でながら、失った右肘の先に目を落とす。何もないはずのそこには、弓が固定されている。この状態であれば、左手で弓弦を引き、矢を射ることができるのだ。無論、両手で扱うのとは勝手が異なる。精度以前に膂力が不足して、飛距離が出ないのである。


 おそらく、集落の子供が射った方が数倍役に立つ。それでも、再度武術を磨こうと思うようになっただけでも、アースィムにとっては進歩であった。


「あの時は、ディルガムさんに全部持っていかれたからな」

「グル……」


 アースィムの頬に鼻面を寄せ、イバが甘えるように唸る。アースィムは相棒の角の間を撫でて、小さく笑った。


「励ましてくれるのか、ありがとう。まあ、あんな極限の戦い、もう二度とごめんだが」


 あの煙たく湿っぽい豪雨の夜、空へと逃げた精霊王せいれいおうを一矢で仕留めたのは、東方の小競り合いを鎮圧して帰って来たばかりの、赤の氏族長ディルガムだった。


 彼の弓の腕に、皆が救われた。その間アースィムは、ラフィアが作り出した水の絶壁に阻まれて、何もできずにただ傍観するだけだった。


 後になり、己の無力さに失望し、自己嫌悪を抱いたのは確かである。しかし、アースィムが隻腕ながら弓を鍛錬しているのは何も、反骨精神からではない。ラフィアが最期に残した言葉を守るためなのだ。


 アースィムは、約一年前、妻を喪った直後の出来事を思い起こす。


「お久しぶり、アースィム。ご主人……ごほん、ラフィア皇女からの伝言よ」


 精霊王と相討ちになり炎に焼かれ絶命した妻を弔い、世界が暗黒に包まれたかのような絶望の深淵に沈み込んでいたアースィムの元を、ハイラリーフと名乗る赤毛の女が訪ねて来た。


 久しぶり、と言われて内心首を傾けた。親しくした覚えはないのだが、確かにどこかで見たことがある。記憶の箱を引っくり返してみれば、精霊王の隠れ家で、ラフィア達から一歩離れた場所で佇んでいた女だと気づいた。少なからず因縁がある。むしろ敵なのではなかろうか。


 思わず顔を強張らせたアースィムに、女は大仰に慌てて無害を主張した。


「そ、そんな怖い顔しないでよ。相変らず陰気な奴ね。あんたの妻から頼まれて来てやったのよ。泣きながらお礼を言ってくれても良いくらいでしょ」


 胡散臭過ぎる話である。その上「相変らず」という程の仲でもないだろう。


 薄ら気味悪いことに、まるで旧知の仲であるかのように馴れ馴れしい言動だ。もしや記憶にないだけで、親密に過ごした過去があっただろうか……いや、ないはずだ。このような派手派手しい女、記憶に残らぬはずがないのである。


 アースィムは返答に窮し、ただ眼前の女を見つめた。ハイラリーフは盛大に溜息を吐き肩をすくめ、仕切り直してから言った。


「まあ良いわ。皇女様の言葉を伝えるわよ。こほんっ、『私は私の方法で皆を守る。だからアースィムも、あなたの方法で氏族を守って。あなたにできないことなんて、何もない』だってさ」


 アースィムの方法で。


 隻腕でも、父から族長に望まれなくとも、失意に沈むのではなく、動くのだ。己の可能性に枷を嵌めなければ、できることは無限にある。ラフィアらしい前向きな言葉に胸の奥底に熱が生まれたが、ハイラリーフの言葉には奇妙な点がある。


「……あなたはそれをどこで聞いたんだ」

「そりゃあ、あの夜の火の中で」

「火の中? その割には火傷の一つもない」

「うげっ!? そりゃあ、だってあたしは耳飾りに」

「耳飾り」

「ななな何でもない!」


 もしや彼女は人ならざる者なのではなかろうか。そう、たとえば精霊など。ラフィアや精霊王に寄り添うように佇んでいた姿を思えば、あながち突飛な推論とは言い切れない。


 もしそうであれば、ラフィアが最期に言葉を残したという話は真実味を帯びる。アースィムにとっては、人生に活力を与えてくれる言葉達。


 だがしかし、生来の質なのか、物事を無条件に楽観的に捉えることのできないアースィムは、心に灯った小さな期待の火種を掻き消した。


「とにかく、妻は砂と水に還った。彼女を冒涜するような虚言は控えてくれないか」

「その思考、嫌気がするほど人間的ね」


 ハイラリーフは相手の感情を逆撫でするような挑発的な話し方をするのだが、皮肉な調子というよりは感情に素直なだけらしい。遠慮を知らぬ幼子のような歯に衣着せぬ物言いに、不思議と不快感は抱かない。


「あのね、確かに彼女の身体は砂に還ってしまってもう動くことはないでしょうけど、精神は水に還り世界中を巡っているのよ。この世の本質は水。肉体なんて、精神の器でしかない」

「つまり?」

「自我さえ保っておけば、皇女様の心は生き続ける。そりゃあ、意思が脆弱だったり、あまりにも時が経ったりすれば他の精神と溶け合って、別の存在に生まれ変わって肉体に宿るんでしょうけど。はい、そこで、もう一つの伝言」


 こちらが本題よ、と得意気に胸を張る。


「『今度、新婚旅行に行きましょう』ですって」


 身体が焼け落ちる想像を絶する苦痛の中で、希望を捨てずに微笑んだラフィアの横顔が見えるかのようだった。

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