2 精霊王を知っていますか


「アースィム!? おい、大丈夫か?」


 大声が鼓膜を叩き、強く肩を揺さぶられた。腹の底には、太鼓の音を彷彿とさせる重低音が響いている。


 大きく息を吸った拍子に微細な砂を吸い込んで、軽く噎せる。瞼を上げれば強烈な光が眼球を刺し、慌てて顔を背けた。


 砂漠だ。アースィムは状況理解が追い付かぬ思考の中、肘を突いて、太陽を直視しないように俯きがちに顔を上げた。


「アースィム。やっぱりアースィムだ。こりゃ驚いたな。死んだんじゃなかったのか」


 砂粒一つ分の遠慮すらないこの声には覚えがある。アースィムは彼の名を呼んだ。


「ディルガムさん」


 目を細めて見上げれば、赤茶色の髪と蒼天色の瞳を持つ大柄な壮年男の姿がある。赤の氏族長ディルガムだ。彼は、砂に倒れ込んでいた知人の意識が確かであることを確認すると安堵を全身から滲ませて、アースィムの腕を自身の肩に担いで助け起こした。


「無事みたいだな。立てるか」


 頭が痛むが、大事ない。アースィムは頷いて、状況理解を試みた。


「いったいここはどこですか」

「砂漠の辺境だ。白の集落よりも少し西、もうすぐ草原が近いって辺りかな」


 アースィムは眉根を寄せる。


「なぜそのような場所に」

「崖から落ちたおまえがどうしてここにいるのかは知らないが、俺達は砂竜さりゅうを追って仕方なく来たんだ。他の氏族も一緒だ」

「砂竜を?」


 ディルガムが視線で背後を示す。目を向けて、アースィムは絶句した。


 砂塵が煙のように立ち込めて、茫漠とした砂漠を覆い尽くしている。砂色の靄の間から時折、赤、青、紫、そして白銀の光が煌めいている。砂竜の鱗が陽光を弾いているのだ。しかも異様なことに、四氏族全ての砂竜が一団となりアースィムらの方へと歩んでいる。先ほどから、腹に響いている低音の正体は、多数の巨躯が前進することにより引き起こされた地鳴りのようだ。


「何があったんです」

「原因が不明なんだが、全氏族の砂竜が西へと大移動している。まるで、東から迫る何かに追い立てられているみたいに。また地下水のせいなのかなって見込みをつけてるんだが」

「大移動」


 アースィムは瞬時に全てを察した。間違いなく、精霊王とラフィアの仕業だ。


 彼らは水に干渉し、かつて精霊ジンの土地であったマルシブ帝国から天竜てんりゅうとその子である砂竜を追い出そうとしているのだ。


 アースィムは唇を噛み締めて砂竜の群れを睨み、決意を込めて言った。


「全族長を集めてください。この状況を一番理解しているのは、おそらく俺です」



 族長と有志の数人が砂竜の歩みに先行して進み、簡易の野営地を整えた。天幕が並ぶ中央に焚火を熾し、族長らが囲んでいる。


「兄さん、ご無事で……」


 遅れてやって来たシハーブとの再会を果たし、力強い抱擁を交わす。


「今までどこにいたのですか兄さん。どうして崖から落ちたのです」


 自ら落ちた訳ではない。聖地の崖縁で聖杯を拾おうとした瞬間、アースィムは何者かに背中を押されたのだ。


 今ならばわかる。あれは精霊王の仕業だ。アースィムの死を装いラフィアに絶望を抱かせて、精霊としての力をより強めようとした。同時に、アースィムを捕らえることで人質も得た。全ては狂気じみた娯楽のために。


「その話は後でしよう」


 アースィムは弟の背を軽く叩き、抱擁を解く。


「皆さん、お呼び立てして申し訳ない。これから話すことは受け入れ難く奇怪な内容かもしれません。ですが全てが真実であると水神マージに誓います」


 アースィムは膝元に置かれている杯に指先を浸し、付着した水滴を親指で弾いて天に捧げた。水はいずれ空へと昇り、水神マージの元へと届くはず。


 アースィムの誓いを目にし、赤の氏族長ディルガムが口角を上げて頷く。その隣では、青の氏族長ブルハンが不敵な笑みを浮かべ、紫の氏族長ルクンが値踏みするような眼差しを寄越した。


 彼らを視線で一巡し、アースィムは語り始めた。


「精霊王をご存知ですか――」


 マルシブ帝国がまだ弱小の王国であった頃。この近辺を守護していたのは、天竜ではなく精霊だった。最も力の強い精霊である精霊王は粛々とこの地の水を導いていたものの、ある時退屈を覚え、広範囲に旱魃を引き起こす。


 人や獣が渇きと空腹に耐えかねて争いを始める様子に精霊王が歓喜する一方で、ひどく心を痛めた精霊もいた。彼は、この混乱に対処しようとして、マルシブ国王に働きかける。やがて精霊は王の養子となった。


 為政者としての才覚も持ち合わせていたのだろう精霊王子は、砂漠の民の助力を得て混乱を鎮め、水神マージより天竜との契約を許可される。天竜の力を借りつつ諸民族への支配を強めたマルシブ王国は帝国となって、広大な版図を得た。そして天竜帝の下、平穏な百五十年が過ぎる。


 その間、沈黙を貫いていた精霊王だが、いよいよ退屈を持て余したらしい。彼は好奇心からマルシブ帝国の後宮へ入り、皇帝の側女になる。しかし彼が恋に落ちたのは、皇帝ではなく女官仲間。元より雌雄を持たぬ精霊王は男性の姿をとり側女と愛を交わし、やがて娘が生れ落ちる。第八皇女ラフィアだ。


 ラフィアは半人でありながら、精霊としての素質に溢れていた。そのため、精霊王は彼女に目をかけ、自身の後継者としようと目論んだ。


「え、じゃあ、兄さんに降嫁こうかしたのは皇女ではなく」

「そう、俺の妻は精霊王の娘だ」


 弟の目に浮かぶ困惑と嫌悪を一瞥し、アースィムは淡々と続ける。


 アースィムの失踪から始まる一連の事件の最中、ラフィアは嘆きと怒りを募らせた。強烈な感情はやがて、精霊としての能力を各段に伸ばす原動力となり、精霊王は最後の一押しとして、アースィムの解放を条件にラフィアに真なる精霊となるようにと告げた。


 ラフィアはそれを受け、精霊王が立てた狂気じみた筋書きを演じ、天竜と砂竜に奪われた精霊の土地を奪還するための協力を余儀なくされている。全ては、精霊王の身勝手な欲望のために。


「……これが、砂竜大移動の背景です」


 アースィムの言葉の最後の一音が夜気に溶けて消えると、焚火が爆ぜる軽やかな音だけが野営地を満たした。

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