第四章
1 アースィムの回顧
窓から暖かな陽光が差し込んでいる。ここが砂漠であったならば、進んで日差しを浴びようと考える酔狂者などいないのだが、当然帝都では事情が異なる。
季節は冬。マルシブ帝国は温暖な気候であるとはいえ、冬季の帝都では、暖炉を灯さずにはいられない。この日はさして冷え込んでいないものの、砂漠で生まれ育ったアースィムにとっては肌寒い。腕を摩りながら、暖かな窓辺に身体を寄せた。
昨年が終わり新たな年の訪れを
新年は
強靭な砂竜を数多く保有することは、他部族に対してだけでなく、砂竜族内でも他氏族に対し優位を得るために有益なこと。ゆえに、各氏族がこぞってマルシブ帝国に忠義を示して功績を上げようとするのである。
しかし今年、白の氏族に与えられた竜卵は一つだけ。元より、人の数よりも少ない砂竜である。当然、全ての者が砂竜を孵し唯一無二の相棒として絆を交わすことができる訳ではない。
では、たった一つしかない今年の竜卵を孵す栄誉を賜る者は誰だろうかと、アースィムは物思いに耽る。四氏族長が出席する御前会議が終わるまで、一人切り控室に残り中庭を眺めていると、静謐な空間がよりいっそう思考を促した。
幼少の頃よりアースィムは、活発な
そして、このようにぼんやりと一人過ごしていたからこそ、運命の出会いは生まれたのである。
その日アースィムは窓辺で温まりながら、中庭で咲く名も知らぬ花々を眺め、低木の間を縫うように飛ぶ鮮やかな色合いの小鳥を目で追っていた。それに導かれるようにして、アースィムは小さな泉の存在に気づく。絢爛な宮殿において、いささか場違いな感のある古びた石積みに囲まれた水場。その側に、一人の少女が佇むのを見た。
彼女の姿を初めて目にした瞬間、世界が一段明るく色づいたような心地がして、アースィムは息を呑む。
乳茶色の長い髪は絹のように細く、日差しを受けて金色に煌めいている。長い睫毛に縁取られた瞳は、蒼天よりも透き通り泉水よりも深い青色で、微笑みが刻まれた口元はまるで、水神の使いのように世界への愛を滲ませていた。
その神々しさに、アースィムは一目で惹き付けられた。そして、彼女の人柄を伝え聞いて、よりいっそう思いを募らせた。
「ああ、ラフィア皇女だよ」
あれは誰か、と問うてみれば、警備の斧槍兵が答えてくれた。
「毎日のようにあの泉に来ては、ぶつぶつと独り言を言っているんだ。水辺がお好きなら、こんな日陰の小さな水溜まりじゃなくて、もっと綺麗なやつが中庭の真ん中にあるのに妙だよな」
「皇女様はなぜここに?」
「それが、誰も知らないんだ。こんな人目が少ない場所に来られて万が一泉に落っこちでもしたら大変だろ。だから皆が窘めるんだけど、全然響かないみたいでさ。何を言ってもあの極上の微笑みで躱されちまうんだよ」
斧槍兵は呆れを通り越して諦念を滲ませていたが、アースィムはむしろ皇女に感心した。誰に何を言われようと受け流し、自分の意思を貫くことができる。それも、アースィムよりも年下と見える、幼く可憐な女の子が。族長の長子として理想的であることに囚われ、常に周囲の顔色を窺い従順に生きるアースィムとは大違いだ。
いったい何が彼女をそのように振る舞わせるのだろう。皇女と言葉を交わしてみたいと思ったが、所詮は皇族と臣下の子供。住む世界が異なるのだからそれは叶わぬ願いだと諦めて、その年、アースィムは帝都を去った。
もう二度とラフィアの姿を目にすることはないと思っていた。しかし予想に反し、翌年もその翌年も、アースィムは控室の窓越しに皇女を目撃した。斧槍兵が述べたことに誇張はなかったらしく、本当にラフィアはこの泉を頻繁に訪れているようだ。
年を追うごとに、皇女は成長し、いっそう美しさを増した。アースィムも大人になり、やがて、ラフィアに対する己の気持ちが淡い恋情であるのだと気づいた。その頃にはアースィムの身の程知らずな片恋は周知のこととなり、手柄を上げればラフィア皇女が降嫁するだろうと茶化されるようにもなっていた。
そして、あの戦乱の折。アースィムは帝国の忠臣としての責務を全うし、自身の右腕と引き換えに皇太子の命を救った。その結果次期族長の地位を失って、代わりにラフィアを得た。
降嫁の隊列が集落へと到着し、思い焦がれた皇女が輿から砂上に下り立つのを見て、最初に感じたのは、高揚ではなく恐怖であった。
重労働などしたことがないのだろう手足はあまりにも華奢で、強烈な砂漠の日差しを知らぬ肌は象牙のように白い。愛しい人の命は過酷な環境に晒されて、呆気なく砂と水に還ってしまうのではなかろうか。そのようなことになれば後悔してもしきれない。そう思い、アースィムはラフィアに冷酷に接した。だが彼女は屈しなかった。
星が降るような夜、月影の下でラフィアは、砂漠が好きだと、そしてアースィムと心の通った夫婦になりたいのだと、真っ直ぐな眼差しで語ったのだ。
その言葉を耳にした途端、頑なに築き上げてきた無関心の仮面は砕け散り、現れたのは情けないほど一途な思慕であった。
ラフィアはいつも、感情豊かである。小さなことは気にせず、常に笑みを湛え、日常の一つ一つを楽しんだ。彼女の側にいると、仮面の下に押し隠していたアースィムの心も素直さを取り戻し、自由に振る舞えるような心地がした。
ラフィアの笑顔を奪おうとする全てのものを排除したいと思った。どんな時でも無邪気に過ごして欲しいと思った。それなのに。
精霊王の住処にて、空色のスカーフの陰から覗いたラフィアの青玉の瞳が瞼の裏に蘇る。
深い絶望に染まった瞳は涙で潤んでいた。己の感情に素直なラフィアは、苦悩を押し隠そうとしてもアースィムを前にすればきっと綻びが出る。ゆえに全身を布で覆い、表情を悟れぬようにしたのだろう。
精霊王に加担するような言葉を述べたのはきっと、偽りだ。夫を人質に取られたゆえ、そうするしかなかったのだ。
ラフィアの口から直接聞いた訳ではない。しかしアースィムは確信していた。
ラフィアは今も砂漠と砂竜族を愛している。そして、アースィムのことも……。
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