13 もう一度約束を
※
アースィムは、瑠璃色のタイルに囲まれた一室に屹立する水の柱の中で、ただ生かされていた。
全身が水で覆われているはずだが、苦痛はない。食事をとらずとも、目を閉じることが叶わなくとも、呼吸すらできなくても、ただそこに存在するだけだ。肉体を失い精神だけになったとしたら、このような感覚なのだろうか。
どれほど時間が経ったのか、わからない。ほんの数日だったようにも思えるし、数か月経ったようにも感じられる。
時の流れすら曖昧なその部屋に、久しぶりに来訪者が現われた。
上階から続く階段を、三つの足音が下って来る。一人は、青年姿の
闇に溶けてしまいそうな
身体の自由が利く状況であったならば、彼女の名を呼んでいただろう。
アースィムを助けるために来てくれたのだろうか。それならば、一刻も早く翻意させなくては。精霊王は狂っている。彼は、我が子の中に眠る
精霊王と赤毛の女が足を止め、ラフィアだけが進み出る。ほっそりとした指先が、アースィムの頬の辺りの水流に触れた。爪に弾かれた流れが音を立てて飛沫を上げる。ラフィアの指が透明な水壁を侵入し、アースィムの頬に触れる。いや、触れたと思ったが、感触はない。
「アースィム」
微かに震える声が囁いた。スカーフに覆われたその表情は判然としない。
マルシブ帝国の女性がスカーフを被るのは、灼熱の陽光から頭部を守るためであり、決して他者から顔を隠すためではない。にもかかわらず、室内でも頭部を覆い続けるのは、感情を悟らせないためだろうか。
水盤を通し最後に見たラフィアの泣き顔が、脳裏を過る。今この瞬間、妻はどんな顔をしているのだろう。
「ラフィア、これで信じてくれたね? アースィムを砂漠へ帰す。君が僕の後継者になってくれさえすれば」
精霊王の楽し気な声に呼ばれ、ラフィアは肩越しに振り返る。
「僕のことが憎いだろう。それで良いんだよ。怒りの感情が、水を動かす大きな力となる」
「憎くないわ」
凛と発せられた言葉は、風のない夜の水面のように穏やかだ。そして。
「憎くない。楽しいわ。この上なく」
声はどこか狂気を宿している。
ラフィアはスカーフの陰から、信じられない言葉を吐き出し続ける。
「あなたも知っているでしょう、子供の頃からずっと、私は自由が欲しかった。広い世界に出て、色々なものを見たかった。小さな集落で人間として暮らすよりも、精霊として水と共に生きる方が楽しいわ。これからは、水に纏わる全てを意のままに扱える。これ以上の自由はあるかしら」
精霊王は虚を衝かれた様子で目を丸くしてから、次第に歓喜を滲ませ、最後にはうっとりとした笑みを浮かべて手を叩いた。
「素晴らしいよラフィア。それでこそ我が娘。さあ、彼をそこから出してあげて。僕が集落まで送り届けるから」
「ええ」
ラフィアの腕に抱かれ、アースィムは水の柱から脱した。
肌が空気に触れた途端、急激に息苦しさを覚え、身体を折って咳込む。苦痛に喘ぎながら辛うじて顔を上げ、アースィムは訴えた。
「ラフィア、どうしたんです。こんなのあなたじゃない」
「最初に言ったでしょう? 私が欲しかったのは自由。後宮から出るために、あなたの妻である必要があったから、一緒にいただけよ」
アースィムは、濡れた前髪から滴り落ちる水滴の間から、ラフィアの姿を凝視する。
ラフィアは小さく鼻を鳴らし、アースィムの腕を引いて精霊王の方へと進んだ。
アースィムの身体は、ラフィアの腕から無邪気な青年に託される。頬のすぐ横に、精霊王の顔がある。
「君はラフィアを大切にしてくれたんだよね。ありがとう。そのお礼に、白の氏族、だったっけ? 君の仲間には手を出さないよ。他の人間は血祭りだけど」
「いいえ、お父様」
ラフィアが精霊王の腕を撫でた。
「氏族なんて関係ないわ。この国には、
「へえ?」
「この国から精霊がいなくなったのは、精霊王に代わる水神の使徒として天竜がやって来たからなのでしょう? それなら、天竜とその子である砂竜がいなくなればまた、私達の暮らしが戻ってくる」
「ラフィア」
思わず名を呼んで、ふと、空色のスカーフにほつれた部分があることに気づく。糸が抜けて薄くなった小さな隙間から、ラフィアの青い瞳が覗いた。すぐに顔を背けられてしまったが、そこに浮かぶ感情を目にし、アースィムは息を呑んだ。
「でもアースィムには恩がある」
「じゃあどうするんだい、我が娘よ」
「私達の土地から追放するの。アースィムも含めて、砂竜族を全員」
「ふうん、甘いんじゃない? 皆殺しにしちゃおうよ」
「いいえ、それではつまらないわ。だって一瞬で全部終わってしまうのよ」
「そりゃそうだけど」
「ゆっくりと苦しむ様を見て、楽しみましょう、お父様。精霊王の力は水を意のままにする。水神の眷属である砂竜にも影響を与えられるはずでしょう? 後から反旗を翻そうとされたなら、その時制裁を下せば良いのだわ」
「……まあ、そういう筋書きも面白いか」
精霊王は明るく言って、アースィムを背負い直した。そのまま、日差しが降り注ぐ中庭へと引き摺られる。
長らく、人知の及ばぬ奇妙な場所に幽閉されていたためか、身体が麻痺してほとんど動かない。されるがまま精霊王に全身を預けていたが、建物を出て眼球を刺す光を浴びたと同時にアースィムは我に返り、声を張った。
「止まってくれ。なあ、ラフィア!」
精霊王の歩みが止まる。ラフィアが、絹を透かしてこちらを見詰めている。
アースィムは強張る手で懐を探る。触れたものを潰さぬよう柔らかく握り、ラフィアの方へと腕を伸ばした。スカーフから覗く鼻先に拳を差し出して、蕾が開くように指を解く。不自由に震える手のひらの上にあるものを見て、ラフィアの肩が微かに揺れた。ずぶ濡れになった小さな白い花。アースィムは細い茎を指先で摘み直す。
「聖地に生えている高山花です。白の氏族では、大切な人にこれを贈ります。最初の新婚旅行の際、約束しましたよね。あなたのために摘んで来ますと」
さあ、と促せば、長衣の袖からラフィアの細い指が伸ばされる。アースィムは茎を掴んでいない三本の指で妻の手を捉えた。
「最初の新婚旅行は俺のせいで台無しでした。悔いています。今はただ、あなたと聖地に行きたい」
震える指先から、ラフィアの心が流れ込むような錯覚を覚えた。彼女は変わってなどいない。スカーフの陰で、彼女は泣いている。青い瞳を覆い尽くす砂嵐のような絶望を、アースィムは先ほど垣間見た。決して見間違いなどではないはずだ。
「これは少し枯れかけていますが、次はもっと綺麗な花をたくさん摘んで来ますから、待っていてください。必ず約束は守ります」
ラフィアは言葉を発しなかったが、確かにその花を受け取った。
衣擦れの音すらせぬ沈黙が、空間を満たした。やがて、やや離れた場所に佇んでいる赤毛の女が、すんと
それが合図だったかのように、精霊王が哄笑を上げた。
「おいおい、実父の前で娘を口説くとは、やるねえ、アースィム」
「彼女はあなたの娘かもしれませんが、俺の妻です」
「あ、そう」
精霊王はつまらなそうに吐き捨てて、アースィムを芝生に放り投げた。
自由にならぬ身体では満足に受け身すら取れず、したたかに全身を打ち付けて呻く。辛うじて細く開いた視界を、作り物のような黄色い太陽を背にした精霊王の上体が埋め尽くした。
「残念だけど、ラフィアは人間ではなく精霊として生きるんだ。肉体という枷を捨て、精神だけの存在となり、純然たる水に一歩近づいて。そうして、偉大な精霊王となる。あの子にとっては人間など、ちっぽけで、短命で、取るに足らない存在なんだよ」
精霊王の足裏が、眼前に迫る。
蹴られる、と思ったと同時、頭部に衝撃を覚え、アースィムの意識は暗転した。
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