12 父と娘②
「娘?」
ラフィアは、目の間に浮かぶ青玉のような双眸を驚愕を込めて凝視した。
「でも」
ラフィアは血の気が引いた唇から、言葉を絞り出す。
「私の父はマルシブ皇帝」
「違うよ、僕だ。君の母に聞いてみなさい。ラフィア、君は皇女ではない。王女、ではあるけどね」
青年の指が頬から離れ、ラフィアの両手を愛おし気に包んだ。
「一緒に行こう、君は立派な
手を引かれ、よろめきながら、泉に片足を浸す。まるで、沼に踏み込んだかのようにじわじわと身体が沈み込む。
「まずは練習を兼ねて、一緒にこの国を壊してみよう。簡単だよ。洪水でも日照りでも良いし、全ての水を腐らせても良い。ラフィアの中には怒りと悲しみがとぐろを巻いている。君にそんな思いをさせた人間どもが、この世界が、憎くないかい?」
――さあ、楽しいことをしよう。
耳元で囁かれた言葉が孕む猛毒に気づき、ラフィアは我に返り青年の手を振り払った。
「違う! そんなことはしない。私は精霊なんかじゃない。マルシブ帝国第八皇女ラフィアよ」
そうでなければ、今までの人生はいったい何だったというのか。
「ラフィアは僕の娘だよ。半分精霊だ」
「嘘よ!」
「嘘なんかじゃない。ああ、さっきの質問の答えだけど、アースィムの居場所は知っているよ。僕と一緒に来るなら会わせてあげるから」
ラフィアは堪え切れずに叫んだ。
「信用できない。助けて、ハイラリーフ!」
ちりり、と耳元で微かな音がした。だが、それだけだった。
ハイラリーフが、奇妙なほど沈黙している。ラフィアは、耳飾りに触れて、再度呼びかけた。
「ハイラリーフ」
微風が髪を撫で、耳飾りから水蒸気が溢れ出した。躊躇の末、ハイラリーフが応えたのだ。
泉を挟んだ向こう側に、濃密な水蒸気が集う。やがて、見慣れた赤毛の女性の姿が浮かび上り、ラフィアは詰めていた息を吐いた。
「良かった、ハイラリーフ。お願い、助けて。アースィムを見つけて、三人で逃げるの。私、もう何が何だか……」
「ごめんなさい、ラフィア」
不意に、首筋に冷たく硬質な物を押し付けられた。短剣だ。ラフィアは目を疑う。至近距離に、ハイラリーフの燃えるような赤い瞳。どこか悲し気に歪むその顔にはしかし、決意が浮かんでいた。
「あたしの第一のご主人様は、あんたじゃない。精霊王よ」
絶句するラフィアの側に精霊王が一歩進み出て、心底愉快そうに笑う。
「良くやった、下僕よ。ああ、肉体があるって不便だねえ。刃物を向けられてしまえばもう、動けない。でももうすぐ、その苦痛も終わる。身体を捨てて精霊になろう、ラフィア」
狂気じみた精霊王の指が、ハイラリーフの髪を撫でた。ラフィアは、二人の顔を代わる代わる眺める。不意に、洞穴で耳にしたハイラリーフの言葉が脳裏に蘇った。
――あたし、わからないの。誰かを愛するというのがどういう気持ちなのか。
――宮殿に住む古参の精霊だけが、あたしを可愛がって色々なことを教えてくれた。親ではないわ。でも大切な存在なの。
ああ、そういうことだったのかと腑に落ちる。最初から、ハイラリーフには精霊王の息がかかっていたのだ。
「ハイラリーフ、今までのことは演技だったの?」
「あ、当たり前でしょう? あんた、本当に頭の中がオアシスね。考えてみなさいよ、あたし達が出会った日。あんな小さなオアシスに、精霊が住むと思う? この国に僅かしか残らなかった精霊が、あんな貧相な場所に」
「それは」
「あたしは精霊王の命令に従って、あんたを立派な精霊にするために近づいたのよ。ずっと隠れていても良かったけど、あんたの精霊になる振りをすれば、もっと近くで干渉できるもの。ええ、全部演技だった。そして首尾は上々だった」
全部演技だった。冷酷な言葉が胸に突き刺さり、ラフィアの心に亀裂が走る。
友愛の眼差しも、憎まれ口の裏に見え隠れしていた気遣いも、あの時、洞穴で見せてくれた親密さも。あれらは全て。
「演技だっただけじゃなく、全部嘘だったの?」
首に触れた短剣が、微かに震えた。触れた肌を通じて、一瞬の感情の揺らぎが流れ込む。ラフィアは確信した。ハイラリーフとの関係は嘘から始まったが、全てが偽りだった訳ではない。二人の間には、親愛の感情が確かに生まれていた。しかし彼女には、さらに大切な物があったのだ。
「そう」
ラフィアは短剣の柄を握るハイラリーフの手を柔らかく掴んだ。
「あなたはきっと、愛を知っている。何にも勝る大切なもののため、全てを擲つことを知っている」
それゆえ、彼女はラフィアに刃を向けるのだ。それならばラフィアとて、思うところがある。
幼少期から心の支えであった精霊の恩師は実は父であり、ラフィアに無理強いをせんとしている。親愛なる母は皇帝を欺き、ラフィアに重大な隠し事をしていた。白の氏族の皆からは恐れられ、友と思っていたハイラリーフにも裏切られた。ラフィアに残ったのはただ一人。アースィムだけ。
ラフィアは、ハイラリーフを掴む手に力を込めて、冷淡に吐き捨てた。
「私もあなたと同じ。彼以外の人なんて、どうでも良い」
彼さえ幸せならば、それだけで――。
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