11 父と娘①


『ねえ、本当に行くの? 宮殿の敷地内とはいえ、こんな夜中に抜け出すなんて、衛兵に見つかったら即連れ戻されて部屋から一歩も出られなくなるんじゃない?』

「行くしかないの」

『でもあたし、心の準備が』

「私が捕まったとしても、あなたには関係ないでしょう? 何の準備をするというの」

『んまあ、冷たい!』

「大声出さないで!」


 ラフィアは青玉の耳飾りを掴む。外して、夜の庭園に投げ捨ててしまおうかと思ったが、辛うじて思い止まった。


 八つ当たりは醜い。ラフィアは、常に笑って過ごしたかった。


「ごめんなさい、最近疲れているみたいで」

『ふんっ、良いわよ別に。あんたが激情を知るのは、あたしにとっても好ましいことだし』

「どういうこと?」


 ハイラリーフはしばし沈黙する。普段はあれほど姦しいのに、都合が悪くなると黙り込むのはいかがなものか。


 ラフィアは溜息を吐き、宮殿の窓から漏れる微かな光に揺らめく中庭を、ゆっくりと進んだ。


 宮殿内とはいえ、夜更けに後宮ハレムを抜け出すのは、容易なことではない。ハイラリーフが猫に化け、衛兵の気を引いている隙に、なんとか中庭に出ることができたのだった。


 芝生を踏み分け向かうのは、城壁の側に位置する小さな泉。幼少の頃より通い、唯一の友であった精霊ジンと会話を楽しんだ場所だ。すぐ近くにある、門に併設された控室から、アースィムがラフィアを見初めた場所でもある。


 この場所に向かおうと考えたのは、博識な精霊に助力を請おうとしたためだが、同時に、この場所以外は事前に水脈を通じ調査済みだからでもある。


 今やラフィアは、ハイラリーフに頼らずとも自身の力で水に精神を同化させることができる。水溢れる帝都中をほとんど巡り切った時、何かに阻まれたように進めぬ場所があることに気づいた。それが宮殿内の、天竜てんりゅうが住む巨大な泉と、精霊が住む小さな泉だけであった。


 アースィムが捕らわれているとすれば、このどちらかに関連する場所である可能性が高い。


 天竜の泉は神聖なものである。そのため、外部からの干渉を受けぬよう、水神の加護により障壁があっても不思議ではない。しかし精霊の泉は、事情が異なるのではなかろうか。


 ラフィアは、幼少期より彼女を慈しみ、世界の広さを教えてくれた老人姿の精霊の顔を思い浮かべた。笑むと目尻に皺が寄る優し気な風貌は、父皇帝の厳粛な表情と対比をなして思い起こされる。精霊は、縁が薄い父皇帝よりもずっと距離の近い、父親のような存在だった。


 その彼が、アースィムが消えた事件に関わっているかもしれない。胸の奥に、ひんやりとした絶望が這い寄るような心地がした。


 やがて芝生を抜け、低木が茂る生垣に入る。頭部を覆ったスカーフが小枝に引っかかり、小さな穴が空いたが気に留める余裕はない。長衣の裾が絡げられ、露わになった足首を植物の棘が薄く裂く。しかし痛みは感じなかった。前へ。一刻も早く前へ。


 泉は、ラフィアの身長の半分ほどの直径である。簡素な石積みに囲まれた水面は、建物から漏れる朱色に照らされても濃紺に沈んでいる。月影すら映さず、大穴のようにぽっかりと空いたそれを覗き込み、ラフィアは声をかけた。


「おじいさん……」


 囁き声は、木々の間に吸い込まれて消える。


 何度か呼びかけ、痺れを切らして両手を水に浸した。その途端、全身に痺れるような衝撃が走る。熱砂に触れた時のように、皮膚が焼かれる感覚。だが同時に、骨の芯まで凍り付くかのような冷たさも感じた。


 ラフィアは小さく悲鳴を上げ、泉から両手を引き抜く。恐怖と混乱に喘ぎ胸元で両手を擦り合わせ、奇妙な感覚を打ち消そうとした。その時、木々の間から、小枝を踏む音が近づいた。


「やあ、ラフィア。もう子供じゃないんだから、勝手に人の家に入ってはいけないよ」


 やや高い、青年の声だった。ラフィアは声の主を見上げる。


 淡い色合いの髪が、辺りに満ちる朱色の光に透けて赤味を帯びた金色に煌めいている。滑らかな肌を見る限り、まだ若い。アースィムと同年代に見える。口角は楽しげに上がり、満面の笑みが浮かんでいる。そして瞳は、薄闇の中でも爛々と輝く青玉の色。その色合いには、見覚えがある。この泉の主と同じ色。しかしラフィアは、青年と出会ったことはないはずだ。


「誰……」

「ああ、そうか。この姿では初めてだったね。これならどうかな」


 青年の全身から水蒸気が溢れ、姿が揺らぐ。靄が晴れた時、現れたのは見知った白髪の老人であった。


「おじいさん?」

「うむ。久しぶりだなラフィア。また会えて嬉しいぞ。……ま、そろそろ来るって知ってたけどね」


 老人の姿が掻き消え、霧散した水蒸気が少し離れた場所に収斂。再び青年の姿が形作られた。一連の出来事から導かれる結論は一つ。樹木の幹に背中を預けて腕を組み、こちらを見下ろす青年は、ラフィアが良く知る、馴染みの精霊である。


 ラフィアは混乱の最中、辛うじて問うた。


「どういうこと」

「うーん、こういうこと? それよりも、聞きたいことがあるんじゃないの?」


 まるで緊張感のない回答だ。しかし彼の言うことは正しい。ラフィアは諦めて、本題に入ることにした。


「アースィムの居場所を知っている?」

「アースィム」

「私の夫よ。帝都のどこかにいると思うの」

「君の夫がどうして帝都に?」

「見聞きしたの」


 ラフィアは、青年と距離を詰めた。


「水に乗って、彼の所へ行ったの。瑠璃色のタイルに囲まれた、綺麗な部屋。昼時には、聖堂の塔から祈りの声がする」


 青年はラフィアの顔をじっと見つめ、やがて破顔した。


「そうかそうか! やはり君は素晴らしい。肉体を持っていることが悔やまれる。その邪魔臭いものさえなければ、より純粋な水になれるのに」

「水?」

「ラフィア、まだ気づかないの?」


 青年は腕を解き、ラフィアの方へと歩み寄る。


「君のその力は、人間が持ち得るものではない。それは精霊の力だ」


 ラフィアは絶句し、ただ、眼前の青年に視線を注ぐ。


「どうしてそんな力があるのか、不思議そうだね? ああ、初代マルシブ皇帝が精霊だったから、だなんて冷たいことを言わないでくれよ? そう、君はね」


 青年が腕を伸ばす。体温の低い指先が、ラフィアの頬を撫でた。


「精霊王である僕の、可愛い娘なんだ」

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