6 誰かを愛するということ

 斜めに陽光が差し込む洞穴の中、二人の女が言葉なく食べ物を咀嚼する音だけが響く。


 ハイラリーフは精霊ジンであり、その実体は、神性を得た水蒸気である。肉体ある者に姿を変えれば当然消化器官があり、食物を摂取することができるのだが、食事を必須としている訳ではない。


 それでも隣でチーズを噛んでくれているのは、ラフィアに食事をとらせるためだろうか。憎まれ口を叩きがちな精霊だが、彼女の心根は優しい。


「ねえ、ご主人様。気を悪くしないで欲しいのだけど」

「言って」


 促すと、ハイラリーフは純真な色を帯びた瞳で真っすぐラフィアを見つめた。


「あんたの今後を考えたら、シハーブの所へ行くのが良いんじゃないかしら」

「なぜ」

「思い出してみて。初めて帝都を出て、砂漠の熱気に包まれた日のことを」


 いくらか素直な心持ちになっていたので、ラフィアは言われるがまま、数か月前の降嫁の旅を思い起こす。


 肌を刺す日差しの熱さが新鮮だった。吹き出す汗は一瞬にして乾き、いくら水を飲もうとも、すぐに口内が乾燥した。


 地に足を下ろせば、炎を帯びたかのような砂がサンダルの上に盛り上がる。しかし少し深くまで爪先を潜り込ませれば、ひんやりとして心地の良い感触に包まれる。


 日中の空には雲一つなく、夜空には乳白色の星の海。


 駱駝の糞は良く燃えて、砂の下で焼いた平パンは素朴で香ばしい。


 集落の外れには砂竜さりゅうの囲い。滑らかな白銀の鱗と、ほんの少し酸っぱいような鱗の匂い。


「あんたが欲しかったものは自由でしょ。このまま皇女が失踪したとなれば、後宮から役人がやって来るわ。それで帝都に連れ戻されて、自由な生活は終わっちゃう」


 出会う前、帝都を出たばかりのラフィアの感情をハイラリーフが的確に理解しているのはなぜなのだろう。少なからず驚きを抱いたが、とにかく彼女の言葉は正しい。


 思えば、後宮を出てからの全てが目新しかった。広大な世界に飛び出して、ただそれだけで幸せだった。集落中から変わり者扱いされて、ほんの少しだけ寂しさを覚える日もあったものの、後宮に帰りたいとは一度も思わなかったはずなのに。


 アースィムがいない集落で、彼の弟を夫として生きる未来を考えた時、ラフィアの口から飛び出した言葉は「後宮へ帰る」だった。


「私が欲しかったのは、自由。でも今欲しいのは」


 驚きに満ちた砂漠で出会ったのは、実直な民と、初めて言葉を交わした脳筋。大切な師匠兼友人のカリーマと、何よりも、ありのままのラフィアを受け入れようとしてくれた愛しい夫。


 ラフィアは、胸の辺りから喉元を遡上して込み上げた涙を堪えようと、唇を噛む。ハイラリーフが、いつになく生真面目な顔で言葉を紡ぎ続けた。


「あたしね、わからないの。誰かを愛するというのがどういう気持ちなのか」


 ラフィアは顔を上げ、ハイラリーフを見つめた。深紅の瞳の奥で、消え入りそうな炎が揺らめいている。


「あたしが生まれた時にはもう、この辺りにはほとんど精霊がいなかった。マルシブ帝国が天竜の縄張りになってしまったから、同じ水神の眷属である精霊の多くは、移住してしまったんだって。宮殿に住む古参の精霊だけが、あたしを可愛がり色々なことを教えてくれた。親ではないわ。でも大切な存在なの。だけどそれが愛なのかはわからない。ただの同族意識なような気もする。だから、ご主人様がアースィムにこだわる理由がわからないのよ」

「愛する気持ち……」

「アースィムとシハーブはそっくりじゃない。同じ顔をしているし、族長であるのも同じ。シハーブもきっと、アースィムと同じものをあんたにくれる。何より白の集落にいれば、あんたは自由なのよ?」

「でも、違うの」


 ラフィアは淀みない声音で言う。


「アースィムは、私に奇妙な力があっても受け入れてくれた。きっと、何があっても私を愛してくれる。本当は自分だって苦しみを抱えているのに、何よりも私を大切にしてくれたの。そんな彼だから、ずっと側にいたい。支えて生きたかったの」

「でも、旅から戻った時、アースィムはあんたのこと『何者なのか』って追及したじゃない。話は途中になってしまったけど」

「きちんと話せば理解してくれるわ」


 そう、何を不安がることもなく、真実を話せば良かったのだ。確執を残したまま離れ離れになってしまったことがこうも心に陰を落とすと知っていたら、決して隠しはしなかった。


「でもアースィムはもう」


 ハイラリーフは指先でナツメヤシを転がしながら、残酷な言葉を吐き出した。きっと、ラフィアのために。


「多分、砂と水に還っているわ」


 死すれば皆、身体は砂に還る。一方で、精神は陽光に熱され蒸発した水に乗り、水神マージの元へと還っていく。やがて雨となり世界中を巡り、再び肉体に宿るのだ。


 世界を循環する水は、過去と現在の全てを知っている。そう、全てを……。


「そうだ、水よ」

「え?」


 ラフィアは弾かれたように腰を上げ、掴んでいた乾燥ブドウを口に押し込んでから、洞穴の外へ出た。背後から、困惑した様子のハイラリーフが追って来る。


 ラフィアは背後を振り返ることはせずに膝を折り、両手を砂に突いた。


「ちょっと、急にどうしたのよ」

「水に訊くの。アースィムがどこにいるのか」

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