7 水泡と波の間から

「はあ?」


 ハイラリーフは、素っ頓狂な声を上げてから大きく首を横に振った。


「いやいや、無理よ。あんたが後宮ハレムで、水と話す変わり者皇女と呼ばれていたのは知っているけど、あれはただ、精霊ジンと会話をしていただけでしょう?」

「水神の眷属に触れて、彼らの感情を感じ取ることができるわ」

「でも、こんなからっからの砂漠で何ができるの」

「あなたが教えてくれたのよ。一見何もない砂地でも、地下へと精神を向ければ、水脈がある」

「でも、水に訊くだなんて、それこそ精霊王せいれいおうでもないと無理よ。あたしにだってできないんだから」

「精霊王ではないけれど、私はマルシブ帝国の皇族よ。天竜てんりゅう様の加護を受けた精霊である初代皇帝の血を引いているの」


 根拠はない。しかし、できぬとは思わなかった。ラフィアは傍らに置いた革水筒の栓を抜き、腕を振って一筋の水を撒いた。


「水神マージよ、どうかお力をお貸しください」


 砂に描かれた水の軌跡は見る間に蒸発し、元の砂色へと戻っていく。ラフィアの願いは水に乗り、天におわす水神の元へと昇っていった。


 強情なラフィアに、これ以上何を言っても無駄だと思ったのだろう、ハイラリーフは口を閉じ、ラフィアの隣に膝を突いた。体温の低い手のひらが、ラフィア手の甲を包む。


「仕方ないわね、あたしも力を貸してあげるわよ」


 ハイラリーフの肌から、水のうねりを感じる。どこか高揚したような波が渦巻いていた。


 ラフィアは顔を持ち上げて、ハイラリーフに微笑みを送る。呆れたような表情が返ってきた。


「ハイラリーフ、水脈の場所を教えて」

「精霊使いが荒いわね……ほら」


 ハイラリーフに導かれ、手のひらがずりずりと砂上を移動する。やがて、砂岩の辺りまで動いた時、ラフィアの全身を、氾濫したれ川のような濁流が打ち付けた。


 水脈だ。


 ラフィアは目を閉じて、深く深く、地中へと精神を潜り込ませた。


 水脈に辿りつくのは、前回よりも容易であった。しかし今回は、ここで終わりではない。


 入り込むだけでなく、水から情報を得ねばならぬのだ。誰に教えられた訳でもない。しかしラフィアは知っていた。世界を巡り過去と現在の全てを知る水を、意のままにするその方法を。


「水よ、どうか教えて。アースィムはどこ? 無事なの?」


 精神が溶けていく。徐々に水と一体になり、ラフィアという輪郭が失われていく。そのことを察したハイラリーフが心配そうな声を上げたが、ここで引き返すなど言語道断だ。


 濁流が渦巻くような振動と騒音の中、水泡と波の間から、めくるめく映像と明瞭な音声の断片が流れ込んできた。


 ――アースィム、おまえは将来、氏族を背負うのだ。

 ――本当に優しくて聡明な子ね。自慢の息子だわ。

 ――兄弟は助け合わねばならぬ。

 ――何だ、また皇女様を見ているのか。毎年飽きないなあ。話しかければ良いのに。

 ――戦だ。手柄を上げて来い、アースィム。氏族のために、おまえ自身のために。

 ――腕を失った……? 残念だが隻腕の族長など認められん。これからはシハーブを支えて生きよ。

 ――父は言いました。シハーブが熱病から快復したのは、過去と現在の全てを知る水神マージの思し召し。やはり白の氏族の繁栄のためにはシハーブが必要だと。つまり、族長代理はもう終わりということです、兄さん。

 ――さあ兄さん、水神マージに誓いましょう。

 ――兄さん、兄さん!


 崖の上で、シハーブが必死の形相で腕を伸ばしている。


 アースィムの身体が宙に浮き風に煽られる。左手には銀の杯がしかと握られており、右手の袖は空である。ゆらりと舞った袖の布地をシハーブが掴むも虚しく、音を立てて裂け散る。


 アースィムの飴色の瞳が、蒼天を映す。そのまま背中から、崖下へと落下する……。


 ああ、アースィムは本当に落ちたのだ。絶望がラフィアの全てを溶解せんと襲いかかる。アースィムがいない、アースィムが、死んだ。


 そんな世界、生きる価値などない。いっそのこと、全てを手放し水になろう。このまま、水流に身を委ねてしまえ。そう思った刹那。


 ――ラフィア、危険なことをしてはいけない!


 ラフィアの脳内に、鋭い言葉が突き刺さる。


 ――来るな。来てはいけない。俺のことはもう忘れてください。探そうとしてはいけません。


 アースィム!


 ラフィアの心は彼の名を叫んだ。


 渦巻く泡の間から、壁面を瑠璃色のタイルに覆われた薄暗い回廊が覗いた。その終点に、水盤を覗き込む愛おしい姿を見る。


 アースィム、アースィム。


 きっとこれは現在の彼の姿。夫は、今も生きている。


 希望を取り戻した精神は、ラフィアという輪郭を取り戻す。水に還るのはまだ早い。アースィムの側で一生を過ごすと決めたのだ。


「アースィム、どこ? そこはどこなの」

 ――来てはなりません。目を瞑り、耳を閉ざして。


 しかしラフィアは目を見開き、耳を澄ませた。


 上質な内装の室内には、水のせせらぎが響いている。微かに、礼拝の時間に尖塔の上から捧げられる祈りの言葉が聞こえた。その独特な声質に、ラフィアは息を呑む。


「アースィム、あなたがいる場所は」

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