2 赤き来訪者
※
このような朝と夜がもう数回続いた後、ラフィアは医術師カリーマの天幕を訪れていた。灰色幾何学模様の絨毯の上に這いつくばるような姿勢になり、怪しげな挿絵が所狭しと描かれた書物を、舐めるように読み進めている。隣では、床に零れ落ちた淡い乳茶色の髪の束を、
「やっぱり過去に似たような現象はなかったようね」
『そもそも、
「でも、あなた達
『とは言っても、精霊は人間に正体を明かすことは少ないから、人の記録には残り辛いし、そもそもあたし達は長命だから、自分達のことを文字にして書き残すこともないからね』
「ハイラリーフは何歳なの?」
話の流れで何気なく問うてみると、束の間の沈黙の後、青玉の耳飾りから、実体があれば唾を飛ばさんばかりの勢いで罵り声が返って来た。
『信じらんない! 乙女に年齢を聞くなんて!』
「まあ、ごめんなさい。とにかく、あなたの記憶にある限り、今回と同じような事象はなかったのね」
『当たり前でしょ。知っていたらこんな回りくどい調べ物はしないわ』
「じゃあ他の年長の精霊なら、知っている人もいるかしら」
『あり得なくはないわね。でも、天竜が来てからこの辺の精霊はほとんど引っ越しちゃったのよ。一番近いお隣さんは、帝都かしら』
「それって、
『そうそう。まあ、老人の姿をしているのはただの趣味でしょうけど。とにかく、あんまり砂漠から離れた場所にいる精霊に聞き込みをしたところで、砂漠で起きる異変の手がかりは望めないわ』
それもそうだろう。ラフィアは溜息を吐き、隣の書物を開いてみる。
人間が記した、精霊についての数少ない記述である。肉体を持たない精霊が人や獣に化け、伴侶を得て子孫を残した逸話が物語調の文体で綴られていた。興味はあるが、調べ物とは関係ない。
万事休すだ。一休みしようと上体を起こす。その拍子に、髪を甘噛みをしていたバラーが釣れて、慌てて抱き留めた。
『その幼竜、したたかよね。いつになったら乗り手とやらは帰ってくるのかしら……』
「あれ、皇女様。いつの間にバラーを連れ込んだんですか」
呆れ声と共に、細身の女が帰って来た。カリーマである。
ラフィアは行儀良く姿勢を正し、家主を出迎えた。
「お帰りなさい、カリーマ」
「はい、戻りましたよ。……何さバラー。邪魔者がやって来たぞ、みたいな目をしちゃってさ。ここは私の家だよ」
カリーマは遠慮なく顔を顰め、部屋の隅に積み上げられた荷物の山に、革袋を投げる。ラフィアの横にどかりと腰を下ろし、白銀の幼竜の頭を半ば叩くように撫でた。
「アースィムのイバも皇女様への態度は大概ですが、バラーの方も負けてませんよね」
「イバの態度?」
「呆れた。気づいてないんですか。イバもバラーもたいそうな悋気持ちですよ。竜卵を孵した乗り手が似たような二人だから、それも関係しているんですかねえ」
確かにイバは時々冷たいし、バラーもよくアースィムやカリーマにつんと澄ました顔を向けている。だがしかし、後宮で遠巻きにされていたラフィアから見れば、このような可愛らしい拒絶、わざわざ気にするほどでもないと思えた。
それよりも聞いてみたいことがある。
「孵した乗り手? そういえば、バラーの乗り手はどんな人なの」
「あれ、聞いてませんか、弟ですよ」
「カリーマに弟がいたの?」
「違いますって。アースィムの弟のシハーブです。四つ下の」
ラフィアは思わず口を閉ざす。アースィムに弟がいるなど、初耳だった。
そういえばアースィムは、家族の話題を極端に嫌う節がある。ゆえに、弟のことを語らなかったと言えばそれまでなのであろう。しかし、ラフィアはバラーの世話係なのだ。にもかかわらず、本来の乗り手のことを語る時にもそれが血を分けた弟だと告げなかったのは、どうしても意図的なものを感じてしまう。
「アースィムと彼の弟は、不仲なの?」
カリーマは僅かに眉を上げ、それから視線を逸らせて頭髪を掻き乱す。
「ああ、いや、しまった失言だったか。すみませんがその辺りのことは、アースィム本人に」
その時、不意に砂竜の囲いから警戒を孕んだ唸り声が立ち上がった。続いて、集落の住人らが騒めく声が伝染して、カリーマの天幕にも入り込む。
ラフィアはカリーマと顔を見合わせてから腰を上げ、強烈な陽光の下に飛び出した。
「いったい何ごと」
近くに立っていた少年の腕を掴み、カリーマが訊く。彼は、わからぬと首を振り、集落の南側を指差した。
「事情はわからないんですが、ほらあそこ」
少年の指先が示す先には、流麗な風紋が残る、人気のない橙色の砂丘。その中に、ぽつりと赤く光るものがある。
ラフィアは目を細め、その姿を捉えようとした。そして、その正体に気づいたと同時、カリーマが驚愕の声を上げた。
「な……あれは赤き砂竜? でもどうして」
砂丘の頂上から、さらにもう一頭、赤銀が姿を現わした。
砂漠内、砂竜は四種類存在する。西に白、北に紫、東に青で、南は赤。それぞれの氏族に固有の体色を持つ砂竜が暮らすのだ。
灼熱の陽光に熱されて、揺らめく赤銀の光を放つ彼らは南方赤の氏族と共に暮らす砂竜だろう。どちらにしても、同族の砂竜であり、敵ではないのだから恐れる必要はないはずだ。
それなのに、集落には激しい動揺と怯えが砂嵐のように吹き荒れた。ラフィアは腹の底に重たい石が沈んだような不安を覚え、カリーマに問うた。
「赤き砂竜は遊びに来たの?」
カリーマはちらりとこちらを一瞥する。お気楽な言葉を耳にしても、呆れも嫌味も出ぬ様子で、彼女は再び視線を南の砂丘へと戻す。それから言った。
「同じ砂竜族ですがね、四氏族は隙さえあれば潰し合おうとしているんですよ。我々にはそれぞれ縄張りがあり、許可なくそれを侵すことはない。あるとすればそれは、宣戦布告の時……かもしれません」
不穏な言葉は砂塵と共に風に煽られて、砂漠の熱気に溶けて消えた。
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