第二章

1 夜明けは幼竜と共に

 東の砂丘の谷間から濃密な光の塊が盛り上がる。それは、まるで水が溢れるように斜面を流れ落ち、世界を黄金色で満たす。強い日差しを浴びた山羊が目覚めの声を上げ、駱駝はのそりと身体を起こす。夜明けである。


 砂竜の囲いの内側は、朝日を照り返す白銀で満ちている。明滅する光の中、突然異質な色がぴょこんと現れた。


 山羊の乳を茶に溶かしたような淡い色合いの頭頂だ。普段ははっきりとした顔立ちをしている女だが、朝日に照らされた顔には微かな疲労が浮かび、周囲を見回す目はぼんやりとしている。


 誰が見ても寝起きと知れる仕草で、天へと向けて腕を伸ばす。引っ張られた喉から小さく漏れた声に重なって、彼女の足元で「グルル」と何かが鳴いた。腰を屈め、それを抱き上げた時、やや離れた天幕の群れの辺りから、溜息混じりの声が飛んでくる。


「ちょっと皇女様。またバラーと一晩過ごしたんですか」


 呼びかけられたラフィアは、腕の中にいる白銀の幼竜ようりゅうバラーを撫でてから、声の主を振り返った。


「あらカリーマ。おはよう」

「おはよう、じゃないですよ。また天幕を抜け出したんですか。そんなにアースィムのいびきがうるさいんです? それとも歯軋り?」

「アースィムは上品だもの。いびきなんてかかないわ」

「ああ、はいはい、そうですか。何でも良いですけど、アースィムが拗ねてましたよ。毎晩気づいたら皇女様がいないって」


 ラフィアは口を閉ざし、ひんやりとして滑らかなバラーの背中を撫でる。腕の中で幼竜が身体をぴんと伸ばして、大欠伸をした。


 カリーマが言う通り、ここ数日は深夜に天幕を抜け出して、砂竜さりゅうの囲いの中で過ごしている。ラフィアとて、できることならば、夜明けまでアースィムの健やかな寝息と合わせて呼吸をし、夫の端正な寝顔を見つめていたい。朝は天幕の隙間から差し込む陽光で目覚め、「おはよう」と微笑み合って起床の口付けを交わしたい。


 だがしかし、それができぬ訳がある。


『あーうるさいわね。アースィムは大人なんだから、ちょっとくらい我慢しなさいよ。女々しい男ね』


 耳元で、姦しい声がする。ラフィアにだけ聞こえるこの声は、耳朶につけた青玉から発せられている。声の主は、先日よりラフィアのことをご主人様と呼び付き纏う、いや、補佐同行してくれる、精霊ハイラリーフである。


 深夜、幼竜が鳴くと、ハイラリーフは耳元で大声を出す。どんなに眠たくとも、二度寝など許されない。ハイラリーフは、ラフィアが天幕を出て砂竜の囲いに向かうまで、黙ってはくれないのだ。


『あの奇妙な感覚はやっぱり、普通の人間には届かないみたいね。はあ、どいつもこいつも呑気なことありゃしない』


 ハイラリーフが言う奇妙な感覚とは、ここ数日、毎晩砂竜の群れを騒がせる妙な昂りについてだろう。


 最初、ハイラリーフが異常を訴えた時、ラフィアは何も感じ取ることができず、疑い半分で砂竜の群れへと向かったものだ。そこで目にしたのは、個体差はあるものの、恐怖とも高揚ともつかぬ様子で身体を震わせたり、そわそわと歩き回ったりする白銀の群れであり、一目見て異常と知れた。


 砂竜の背中を撫で、体内を流れる水の声に耳を傾けてみても、指先から流れ込むのは困惑と動揺、そして原因不明の不快感だけ。つまり何の手がかりもないのだ。


 そんな夜間の調査が数日続いたある日。ラフィアは夜半に、腹の奥底に溜まった水を掻き回されたかのような不快感を覚えて飛び起きた。それが、砂竜やハイラリーフが感じている違和感と同様のものだと知るまでに、さほど時間はかからなかった。


 毎晩砂竜の群れで過ごしたため、感覚が研ぎ澄まされたのだろうか。それとも他の人も同様に、何か感じるようなったのか。さり気なく数人に鎌をかけてみたものの、集落の人間の中でこの現象が起こっているのはラフィアだけ。おそらく、水を感じるラフィアの変わり者皇女としての能力が、そうさせるのだろう。


 この程度の不快感、無視しようとすればできないほどのものでもない。だが、ハイラリーフは、同じ水の眷属として砂竜の動揺には感ずるところがあるらしい。たとえ深夜であろうと異常を訴え騒ぎ立てるので、ラフィアも方も呑気に眠る気にはなれず、毎晩砂竜の囲いで夜を明かしているという訳だ。残念ながら今宵も、砂粒一つすら手がかりすらなかったのだが。


「とにかく、今度水脈を辿って様子を見に行って頂戴」


 ハイラリーフに囁いてから、ラフィアの独り言に怪訝そうに眉を寄せたカリーマに向き直る。


「心配しないでカリーマ。アースィムにはちゃんと謝っておくし、埋め合わせをするわ」

「どんな埋め合わせですか。いや、言わなくて良いですからね」


 カリーマに止められて、開きかけた口を閉じる。そもそも妙案はない。どのような埋め合わせをしようかと、顎に手を当てて思い悩みかけた時、ラフィアの耳は己の名を呼ぶ声を捉えた。顔を上げ、黒い天幕の間から朝日に照らされながら歩いて来る人影がある。


「アースィム、おはよう!」


 噂の人物の登場だ。


 早朝の光を浴びて、飴色の髪が透けて赤金色に煌めいている。すっと通った鼻梁が片側から強く照らされて逆側に影を落とす。やや陰りのある美貌に胸を高鳴らせ、ラフィアはバラーを腕に抱いたまま、愛しい夫の元へと駆け寄った。


 寝不足ながら晴れやかな表情のラフィアを目に映すと、アースィムは嬉しそうな、それでいて困ったような複雑な表情をしてから、最後には結局微笑んだ。


「おはよう、ラフィア。また砂竜の囲いの中で夜を過ごしたのですか」

「ええ、そうなの。バラーや他の子が鳴くから」


 話題に上がったことを察したバラーが、顎を持ち上げて、ラフィアの胸に鼻面を寄せる。甘えるような仕草に愛おしさを覚え、ラフィアはバラーの白銀の頭部に頬を寄せてから口付けを落とす。バラーは高く鳴いて喜びを表し、円らな瞳でアースィムに含みのある視線を送った。


「……」


 微笑んだままのアースィムの目元が微かに痙攣する。隣でカリーマがぷっと吹き出してから、取り繕うように盛大に噎せた。


 しかし、夫と幼竜の間で交わされる冷えた視線の意味など思いもよらぬ無邪気なラフィアは、バラーを足元に下ろしてから、アースィムの左腕を取った。


「お腹が空いたわ。朝ごはんにしましょう」


 そのまま歩き始めようとしたラフィアの踵を、バラーが寂し気に突いた。視線を落とすと、砂上から物欲し気な上目遣いが迫って来る。


 この幼竜の乗り手は、熱病に罹り遠方の町で療養していると聞く。ゆえにラフィアが世話を任されることになったのだが、他の個体と比べてたいそう甘えん坊である。生来の質なのか境遇がそうさせるのかわからぬが、こうして潤んだ瞳で見上げられてしまうとついつい甘やかしてしまうのだ。


「アースィム、バラーも一緒に食事をどう?」

「……またですか」


 どうもアースィムは、バラーを食事に同席させることを好まない。考えてみれば、当然だろう。ラフィアとて、砂竜と人間が異なる暮らしを営む別種族であると理解しているし、だからこそバラーを夫婦の天幕に連れ帰ることはしない。しかし、甘えたい盛りの時期に本来の乗り手から引き離された哀れな幼竜の孤独を癒すため、少しでも長く側にいてやりたいと思うのだ。ゆえにラフィアは毎回ねだる。


「お願い。本当はいけないことだと知っているけれど、バラーが可哀想で」


 至近距離で見つめれば、アースィムは困ったように眉尻を下げてから、溜息交じりに頷いた。


「わかりました」

「ありがとう、アースィム!」


 ラフィアは勢い良く腰を屈め、バラーを抱き上げる。滑らかな鱗を愛撫して、角の間に頬ずりをしてから、片手をアースィムの腕に絡めた。


『あんたって意外と悪女よね』


 耳元で精霊の声が発せられたが、心外である。全くもって、どこにそのような要素があるのか見当もつかない。


 ラフィアは内心で首を傾けつつ、アースィムの肩に額を寄せた。


 何やら物言いたげな含み笑いを浮かべるカリーマに別れを告げて、新婚夫婦と幼竜は金色に染まる砂に足跡を刻み、天幕へと向かって行くのだった。

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