二章の五

「アコ。アコ」

「……ぁ、せんぱ……」


 手を握ってみれば冷たくなっていて、上手く話せないほどに固まっている。

 アコの手を握ったまま近くのベンチに座らせて、それからフィギュアの箱を拾う。


 ……あまり人目のある場所にいるべきではないだろうと考えながらアコの手を握っていると、少しずつアコの手にぬくもりが戻り、顔色も若干だけマシになる。


 けれども、先ほどまでのはにかむ笑顔は影もないぐらいだ。


「……平気か?」

「は、はい」

「……絶対に嘘だろ。……手、握っていていいか?」


 肯定も否定もなく数秒。俺の手をほんの少しだけ握り返そうとしてからまた数秒、アコは今更になって俺の手から逃げようとする。


「だ、ダメです」

「……ダメってことはないだろ」


 俺がそう言うとアコの手が戻ってこようとして、耐えるように膝の上でギュッと握られる。


 上から覆うように触ると、アコは俯き、顔をあげないまま口を開く。


「……僕、最低なんです。嘘ついて、騙していたんです。先輩のこと」

「小説を書いたことがないって話か? 別にそんな気にすることでも……恥ずかしいって隠すぐらいなら。読まれるのは恥ずかしいぐらいなんとなく分かる」

「……読んだこと、あるんです。先輩は、僕が書いたの」

「……? いや、ないと思うけど……。…………いや……嘘だろ」


 俺のアコは知り合ったばかりで、読書をしているところなんて見せたことはない。


 初めて会った日、確かアコは「俺の名前を知っていたが、顔は知らなかった」……俺の名前だけを知る機会があったのだ。


「……図書室に置いてあったのか? その貸出履歴を見て、俺が読んでた……と」


 アコが頷く。

 ……俺がこの学校に来てから図書室で借りた本なんて限られている。特別本が好きなわけではなく……話の話題として使えそうなものを暇つぶしに読んでいるだけだ。


 古い名作、有名な翻訳小説…………それから、北倉 譲の小説。……北倉アコの祖父である彼の。


 アコの書いた小説を読んだ可能性があるとすれば……それは、北倉 譲の小説がそうであったとしかあり得ない。


 にわかには信じがたい……信じがたい……が、今のアコの怯えた様子は、嘘とは思えなかった。


「……ゴーストライター」

「……はい。…………僕は、二度、祖父を殺したんです。一度目は作家として、祖父が困っていると思って……文章をつぎはぎに真似て。二度目は……僕がかつて取り上げた筆を取り返そうと、病院で管を外してペンを手に取ったことで」


 思わず、否定してアコを庇おうとしてしまう自分の口を閉じる。

 アコは俺の方を見ないままに続ける。


「幼い、考えでした。代わってあげればよくなると思っている。……今も、結局、また、同じことをしようとしている」

「……」

「幼い優しさしか持っていないんです、ぼくは。それが祖父を苦しめていたなんて、知らなかった、知っていても」


 何を言えばいいのか分からない。

 祖父を助けようとゴーストライターをして、なのに……また祖父の死後に同じことをしようとしている。


「……おじいちゃん、喜んでくれたんです。だから、ずっと、いいことだと思ってたんです」

「ああ」

「……おじいちゃんを、殺した。分かっていても、繰り返し、繰り返して。それしかできないから」


 ……俺から逃げようとする手を握る。


「そういや、廊下とかで友達相手に「北倉先生の新作微妙だった」みたいなことを言ってた気がする。それを聞いていたのか」

「……はい」


 俺が気づかずにアコの書いた小説だけを否定していたから、アコにとっては「自分の文章は下手くそで、祖父の真似なんて出来ていなかった。だから、自分は祖父の尊厳を傷つけていなかった」という風に思うことが出来たのだろう。


 …………アコにとっての俺は「都合のいい言い訳」を作ってくれる相手だったのだろう。

 祖父のプライドを壊すような真似をしたのは自分ではなく、見る目がない読者と思えたのだろう。


「……優しくされるべきじゃないんです。悪くて、卑怯で。嫌われるべきなんです」

「……俺がどう思うかは、俺の勝手だろ。アコにどうこう言われるものじゃない」


 そう言ってもう一度手をしっかりと握り直す。


 ……出会ってからの期間が短いからか、それとも単純に俺が薄情な人間だからか。

 「見損なった」みたいな感情は起きない。

 ただ、なんとなく親近感のような、共犯の仲間意識のようなものが芽生える。


 これはよくない感情だろう。この心底生真面目な少女を自分のみっともない泥沼の感情に巻き込むべきではない。


 分かっていたのに、その細い脚を掴んで引っ張るように……優しく彼女の手を握り込んだ。


「……大丈夫、嫌いじゃない」


 好意にも取れるこの言葉は、俺の確かな悪意を持って吐き出された。

 まるで呪詛めいた言葉から、俺の手はアコの肩を触ろうとし──。


「お待たせーっ! ねこねこドラゴンさんがきたぞー! わおーん!」


 楽しそうな少女の声に、思いっきり肩をビクッと反応させてしまう。それはアコも同じだった。


 振り返ってねこさんの顔を見て、ふと我に返る。


 ……今、俺は何をしようとしていた? 


 アコの肩を抱いて「君は悪くない」と口にして、慰めて、尤もらしい言葉を並び立てて……アコの懺悔も贖罪も、全て捨てさせるつもりだった。


 思わず自分の口元を抑える。


 ……それは、ダメだろう。他の人がするのなら分かる。

 けれども、死んだ母のことで後悔し続けている俺がその妥協の中にアコを引き摺り込むのは、違うだろ。


「あれ? もしかしておこってます? 遅刻」

「……ドラゴン」

「な、なんでしょうか? あ、これ、お詫びに買ってきたんです! ど。どうぞ」

「いや、怒ってないよ。ありがとう。ただ……本当にドラゴンだなぁと思って」

「な、なんです、その謎の評価は」


 ……本当に助かった。

 アコはワタワタと慌てて俺の手から逃げて、ねこさんの手からジュースを受け取る。


「あ、ありがとうございます。思ったより、早かったですね」

「走ってきたからね!」


 そう言いながらねこさんは俺の隣に座る。


 息はもう収まっているようだが、頰は赤くなっていて、首筋やミニスカートから覗く白い脚はほんのりと汗ばんでいた。


「……ねこさんの分のジュースは?」

「あ、忘れてた」

「もうちょっと落ち着けよ……。走ってこなくても怒ったりしないから」


 ジュースをベンチに置いて立ち上がり、自販機に小銭を入れる。


「え、わ、悪いからいいよ。近くもしてきたし、自分で……」

「コーラでいいか?」


 俺に渡したのもコーラだぅたし、たぶん嫌いということもないだろうと思ってボタンを押し、落ちてきた冷えたコーラをねこさんに手渡す。


「あ、ありがとうございます」


 そう言ってコーラを受け取ったねこさんは、隣に座り直した俺がねこさんからもらったコーラを手に取ったのを見て、くつくつと口元隠しながら笑う。


「コーラを交換して、変なことになってるね」

「……まぁ、いいだろ」


 近くの自動ドアが開いて風が流れ込み、曇っていた空が晴れたのか日の光が漏れてくる。


 ……アコも少し笑っていた。


「アコ。贖罪になるか分からなくて不安で、だから人に助けを求めたんだろ。……なら、平気だ。アコは隠そうとしていないし、向き合えている。だから、いい答えが出せる」


 俺と違って、なんて言葉は飲み込んで笑って見せる。

 アコは少し難しそうに俺に笑みを返す。


 ……強い子だ。

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