赤い靴を履いた女の子 8

「お人形さん。海って知ってる?」


 少女はルナを抱えながら、色んなことを話した。

 ほとんど歩くこともなく、服が汚れるのもかまわないで、そこに座りながらずっと。


 どうやらなにかワケがあるらしい。ということだけは理解した。間違いなく普通の少女ではない。

 とりわけ人の気配には敏感で、だれかがくる前に分るらしく、そうした際には生ゴミに身を隠し、指に手を当てながら静かに笑うのだった。


「絵本で見たの。私は字が読めないから教えてもらったんだよ。水がいっぱいあって、とても大きいんだ」


 驚くほど彼女はなにも知らなかった。

 身なりはいいので、それなりの家柄だろうとルナは推測していたが、字が読めないとはあり得るのか?


「水がしょっぱいんだよ。不思議だよねぇ」


 それよりも妙なこともある。

 いま、彼女の周囲には虫や小動物が這っている。それにはなんの理由もない。むしろ、這っていることが妙だった。彼らはまるでそこになにもないかのように振る舞っていたから。


 人間がしゃべって、人間が動いて。

 それなのに。


「でもね、私ほんとは知ってたんだ」


 ……そういえば。

 ルナは思い出した。


 自分が捕まったときも気配がなかった。

 話しかけられるまで足音もなく、急に現れたように感じた。話しかけられてから現れた。


「お母さんと一緒に行ったことがあるんだよ」


 なのに普通の少女のように笑っている。

 まったく背景が見えない。

 彼女は何者なのだろうか?


「あっ、お人形さん、静かにしててね」


 ……私はずっと静かにしてるわよ。

 ルナは納得がいかなかった。


 また生ゴミのなかで潜める必要もない息をさせられる。いつまでこうしていればいいのか……ずっとこのまま? いや最悪この子が寝てから抜け出せばいい。

 妙な境遇になってしまったものだ。ルナは嘆く。


 でも。


 生ゴミのなかで外をうかがう少女。


 まあ……ちょっと放ってはおけない。

 アトリエの仲間たちにはもうしばらく我慢してもらおう。あの男と主については、遅かれ早かれどうせなんとかなるから。


 さて、いまならすこしばかり動いても問題なかろうと退屈しのぎがてら、ルナも少女の掻き分けた穴を眺めてみた。


 不健康そうな細身。

 黒い髪をした男が歩いていた。

 フラフラと白昼夢でも見ているような歩き方だ。

 酔っているのか? きっとロクな人間ではない。できればこの子には会わせたくないような、陰鬱な雰囲気があった。


「殺す……少女……金……」


 近づいてくるにつれて、独り言が聞こえてくる。

 ドン引きだ。間違いない。完全にヤバいやつだ。

 かなり頭のネジが飛んだ犯罪者なのだろう。

 少女もあまりの内容に目を丸くして怯えていた。


 ルナは憎しみを込めて狂人を観察した。

 あとであの男にでも呪ってもらおう、と。


 黒いスラックスに白いワイシャツを腕で捲った服装をしているが……どこか見覚えがある気がする。

 口には煙草を咥えて、俯いてなにかを眺めている?


 通りすぎざま、はっきりと見えた。

 気の抜けた顔。緑色の眼をしていた。

 つまり、毎日のように見る情けない顔。


「荷物まとめねえとなぁ」


 あの男、モリヤだった。


「ダメ!」


 瞬間、ルナは生ゴミのなかから飛び出していた。


 

 


 


 


 


 


 

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