口元で泡となって消える



帰宅し始めたのが下校時間より早い時間だったのもあって、学校に戻ってきても、まだかなりの人数の生徒たちがいた。


日も落ち始めていない時間帯だから、まあそれも当然だろう。


夏の運動部は他の季節以上に部活を頑張っているし、文化系の部活は忙しくしていなくとも秋前というちょっとだけ頑張り始める時期だから。



運動部の何を言っているのか内容がよく分からない掛け声を聞きながら、文芸部の部室へと戻る。



部室には部長が本を読むために残っているだけで、他のみんなはもう誰もいなかった。


まあそもそも、みんなと言っても私を含めて6人しかいない部活なのだけれど。




「川越さん、どうかしたの?」



「あ、部長。ちょっとバックナンバーの作品を読もうと思って、戻ってきたんです」



「バックナンバー……ああ、笠幡さんの作品?」




…………バレてた。


部長は読んでいた本を閉じて、にっこりと楽しそうな笑みを浮かべる。




「笠幡さんと仲良いもんね、文芸部に所属してたって知っちゃったら、色々と気になるんでしょ?」




部長はにこにこと毒気のない笑みでそう言いながら、立ち上がる。


そして部室の隅の小さな本棚から、2冊の部誌のバックナンバーを持ってきた。


片方は今日読んだものだ、センパイの短編が載っているバックナンバー。


けれどもう片方は知らない。




「こっちはね、笠幡さんが匿名で寄稿してくれた時のバックナンバーなの。本人には私が教えたって言わないでね」




部長はそのまま元々座っていた席へ戻っていく。


椅子に座れば、先程まで読んでいた本をまた読み始めた。


私もその対面に座って、センパイが匿名で寄稿したというバックナンバーを開く。



センパイの作品は、真ん中から少しだけ後ろに載っていた。


恐らくはひとりが使っていいと決まっていたであろうページを、全て使い切る長さの小説だった。



題は、「口元で泡となって消える」



『例えば世界に真実の愛が存在するとして』


センパイの作品は、そんな一文から始まった。


後ろ向きで、暗くて、自罰的な主人公が、不幸と理不尽について語るお話。



そのお話では主人公が、まるでニュースを見るような気軽さで、自分の周りにある理不尽を並べ立てていく。


猫が車に轢かれて死んでいたのに、誰かは眉を顰めるだけでただ通り過ぎていくだけだった、だとか。


お金持ちの家に生まれた友達が、実は家ではモラハラに泣いている、だとか。


自分の隣にいた誰かが、自分の代わりに顔と心に深い傷を負ってしまった、だとか。



そしてこのお話は、『こういう人を可哀想と思う私には、きっと真実の愛は掴めるはずもないのだ』という言葉で締められていた。



それは別のバックナンバーに載っていたのと同じように難解そうに見えて、同じように簡単な言葉ばかりで。


けれど、同じように複雑でも、同じように優しくもなかった。



読み終わった後に心に残ったのは、重たい何かだ。


こんなに簡単そうに書かれた暗いお話は、きっと誰にも届かない。


強いて言うなら、主人公と同じ、自罰的な誰かの心を悪い意味で動かすような、そんな作品だ。


けれどこれこそが、センパイの書きたかったものなのかもしれない、それを否定はできない。



でも私は、このお話を他のお話のように好きだとは思えなかった。



バックナンバーを閉じる。


センパイが匿名で寄稿したというバックナンバーは、去年の秋のものだった。


けれどセンパイの名前は、部長が持ってきてくれたもう片方のバックナンバーにしかない、はずだ。


つまりこれは多分、センパイが部誌に小説を載せなくなってから書いたものだ。




「あ、読み終わった?」




本に目線を下げていた部長が、こちらに目線を向けてくる。




「あんまり気分のいい内容じゃないから、どうかと思ったんだけど……その顔を見ると、やっぱり見せない方が良かったかな?」



「いえ、なんというか、ビックリしただけです」




部長はまた本を閉じて、それを机の上に置く。




「うん、分かる。私も笠幡さんの作品で、こんな攻撃的なものを見たことなかったから、最初は驚いたよ」



「他の作品はもっと、優しかったですよね」



「時間が経って、書きたいものが変わったり、心に何かの変化があったのかもしれないね」




部長は困ったように笑って、私が閉じたバックナンバーを手元に引き寄せる。


そしてバックナンバーを開くとパラパラとめくって、恐らくはセンパイの作品を、読み始めた。




「笠幡さんにはね、無理を言ってお願いしたんだ。この頃は部員が5人しかいなかったし、そのうちひとりが色々あって全然書けなくて……だから、過去作品の先生からの評価が高かった笠幡さんに、無理を言ってお願いしたの。その頃にはもうとっくに部員じゃなかったんだけどね」




センパイの作品を読みながら、部長は言う。




「最初はびっくりしたんだ、全然一年前の作風と違うし。でもこういう作品が一本あったら、それはそれで味があるかなって思って、先生の反対を押し切って載せちゃったの。書いてもらった手前もあるし」




懐かしいなぁ、なんて言いながら、去年の話を部長は続ける。


センパイは、何を思ってこの作品を書いたのだろう。


この作品を書いた頃のセンパイは、先の帰り道での言葉から察するに、人に読んでもらっているということを意識して書いていた、はずだ。


けれどそれで出てくるのがこの作品だというのは、なんだかとても、不思議と悲しくなってくる。




「笠幡さんにね、これはどういう意味の作品なのかって聞いてみたらね」



「はい」



「この中に出てくる不幸と理不尽のお話は全部、前の年に書いた作品のキャラクターの話なんだって」




前の年の作品というのは、センパイが本名で作品を載せたバックナンバーの作品、なのだろう。


そっちの作品は、湿っぽいけれど、優しくて……なんというか、繋がらない。




「笠幡さんが言うにはね、誰だって不幸とか理不尽とか仄暗い部分はあってね。でも一昨年の短編は、その不幸とか、理不尽とか、仄暗い部分の設定を全部隠して書いてたんだって」



「隠して、ですか?」



「うん。そういう部分ばっかり設定が降りてきて、でもそれだけ書いてても楽しくないからって。でもこのお話は、楽しまずに書いたらしいよ」




根性がないから、書き続けられなかった。


あれはあながち、まったくの嘘ではないのかもしれない。


嘘をつく時の仕草をしてはいたから、きっとそれだけではないのだろうけれど。


あの言葉全てを疑う必要は、ないのだろう。




「じゃあセンパイは、なんで楽しめない作品を書いたんでしょう」



「それ、私も聞いた」




まるで初対面で共通点を見つけた女の子のように、部長は笑った。



「そしたら、なんて?」



「馬鹿だなぁ、高麗川は、だって」




高麗川は、部長の苗字だ。




「誰かが繰り返し呼んでくれるような作品を書くのも、疲れるんだってさ。だから楽に書けて、他の誰かが読み返さないような内容にしたんだって」



「らしいというか、らしくないというか……」



「ね。でも実際、このお話は評判が悪くてね。私は嫌いじゃないけど、好きって言う人に会ったことはないかな。多分最後まで読んだ人も、そんなにいないと思う」



「私も、この作品を好きとは言えないです……」



「正直でよろしい。笠幡が聞いたら笑うだろうけどね」




そうだろうか。


……そうかもしれない。



あの人は、こういう時困ったようにしながらも、薄ら笑いを浮かべる人だ。


それを思うと、なんだかおかしくて、口の端に笑みが浮かぶのを自覚する。




私は結局この日、下校時間になるまで、バックナンバーを読み漁った。



また、あした。

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