第13話 第13章
理沙が相手の中にもう一人の自分を感じることができるようになったのを初めて感じたのは大学卒業間近の頃だったが、その時はそれほど大げさに思っていなかった。
――ただの勘違いだわ――
確かに、一度感じただけで、それ以上感じることはなかったからだ。それは、自分の中で、
――そんなことってあり得ない――
という思いが強かったからで、この影響を与えたのが、
――美佐枝ではないか――
と感じたのも事実だったが、ありえないと思ったのは、美佐枝と自分があまりにも性格は似ていなかったからだ。しかも美佐枝とはほとんど連絡を取っていなかったのに、何を今さらと思ったからだ。逆に連絡を取っていなかったことで、美佐枝に対しての忘れられないという意識が働いていたなど、その時思いもしなかったからである。
今からでも、あの頃に美佐枝に対して忘れられない何かを持っているなど思ってなかった。それが何かということ以前に、
――このあたりが潮時――
と思ったからだ。
美佐枝も同じことを思っていたようで、お互いにずっと付き合って行ける仲だとは思わなくなっていたようだ。
最初は二人とも、親友としてずっと付き合って行くと思っていたが、実際にそんなことは不可能だと思い始めた。そこに、
――住む世界が違う――
という意識が生まれてくるからで、性格の違いがそれを表していた。
特にすぐに結婚してしまった美佐枝の心境を理沙はまったく理解できなかった。
――美佐枝だけは、簡単に結婚しない――
と思っていただけに、ショックだった。
勝手な思い込みに対して、勝手にショックを受けている理沙に対して、美佐枝からは、
――大きなお世話――
なのだろうが、理沙にしてみれば、ここまで執着した性格を押し付けられたような感覚は、あまり気持ちのいいものではなかった。
――ひょっとしたら、あの時に潮時だなんて思わなければよかったのかも知れない――
美佐枝も同じ考えだと思って、潮時だと勝手に考えたのだが、美佐枝とすれば違ったのかも知れない。結婚をいきなりしたのも、理沙の気持ちの変化に受けたショックが大きかったと考えれば納得はいく。
だが、理沙は自分が悪かったとは思わない。
――なるべくしてなったことだ――
としか思っていない。そう思うことが潔さを前面に出していた美佐枝に対しての思いだということに変わりはない。
もちろん、美佐枝に対して一番の影響を与える相手は由紀であるなどということを理沙は知らない。妹がいるということは知っていても、その妹に対してどれほどの気持ちがあるかなど、その時の理沙に分かるはずもなかった。少なくとも理沙と美佐枝は一緒にいるだけで自分たちの世界がすべてだと思っていたくらいだ。その時に美佐枝が理沙の中にもう一人の自分を見ていたなど、想像もしていなかったのだ。
それが、なかなか会えなくなって、連絡も疎らになった頃、時間差となって訪れるというのはどういうことだろう。理沙は美佐枝の影響を後になって受けたことで、この後もひょっとして、ずっと美佐枝の影響を受け続けるのではないかと思ったくらいだ。
――会ってみたい――
そう思ったのは、もう一度会って話をすることで、自分の考えをハッキリさせたいと思ったからだ。それなのに、結婚して連絡が取れなくなると、自分の中に残ってしまった美佐枝を意識しなくてはいられなくなった。その時に、理沙はハッキリと
――自分の中にもう一人の美佐枝がいる――
と感じたのだ。
ウスウスは感じていても、目の前にいるわけではない人の影が、まさか自分の中で燻っているわけなどないと思っていたからで、それでもずっと感じているわけではなかった。そして、他の人が自分を見ている時、
――私の中の美佐枝を見ているのだとすれば、困ったものだわ――
と思うようになっていた。
それから理沙は、自分の性格を作るようになっていた。自分ではない自分が中にいれば、もう一人の美佐枝が居座る理由も隙間もなくなるだろうと思ったからだ。
もう一人の自分を作ってみても、美佐枝は都合のいい時にしか現れないのだから、たちが悪い。まるで伝染しているのではないかという思いは理沙の中に渦巻くようになってきて、基本的な考え方として培われるようになってしまったのである。
理沙がそんな性格であることを最初に気付いたのは達郎だった。
達郎は理沙が、誰かの目になって、その先に見ている人が、自分に関わりがあった人だということにウスウス気付き始めていたが、それは部分部分であって、接点が見つからない。
達郎の視線の先にあるものは、理沙だった。自分が恵美を気に入ったのがなぜなのか、最初は分からなかったが、誰かと比較していたことに気付いてみると、それが由紀であることは一目瞭然である。
由紀と恵美とでは、似ているところは少ないかも知れないが、恵美を見ていると、由紀を見ている感覚に襲われるのだ。
――まさかね――
その時感じた思いは、
――他の人の目を通して見ているのではないか――
という思いだったが、当たらずとも遠からじであることを、すぐに否定した。
否定するということは、それだけ信じてしまうからなのかも知れないということを意識しているからなのだと分かっていなかったのだ。
理沙が恵美とその日初めて知り合ったことを、達郎も武雄も知らない。
――もし知っていたら――
本当は知っていれば、ここまで達郎は頭を痛める必要はないのだが、知らないことで、いろいろな発想が頭を過ぎる。もちろん、達郎の頭がパンクしそうになるほど、話さなかったことが影響してくるなど、思ってもいなかったのである。
理沙はしばらくして、達郎の訪問を受けた。それは初めて知り合ったクリスマスの日から、二か月ほど過ぎた寒い日のことだった。
前もって連絡を受けて会ったのだが、会うのはこれが四回目くらいであろうか。
最初はクリスマスに出会った時、二回目、三回目は、グループ交際のように、四人で会って、それからはお互いのカップル同士、邪魔しないようにしていた。恵美とはたまに連絡を取っていたが、お互いに男性のことを口にすることはしなかった。それが二人の間での暗黙の了解だったのだ。
本当であれば、ここで達郎と二人で会うのはルール違反なのかも知れない。しかし、
「これは君にも関わることなんだ」
と言われて、つい誘われるままに出てきてしまった。
まったく後悔していないと言えばウソになる。しかし、理沙が達郎と話をしてみたいと思ったのも事実だった。
恵美も武雄も知らない喫茶店で会うことにしたのだが、何をどうやって話していいのか分からない。
――呼び出したのは相手なんだし、私は気楽に構えていればいいのよ――
と自分に言い聞かせたが、それだけでは済まない気もしていた。
理沙が会社を出た時はすでに日は暮れていた。この時期は午後五時を過ぎた頃にはほぼ真っ暗なので、最近は夜の街に出るのも違和感がなくなってきていた。
武雄からの呼び出しはそれほど頻繁ではない。会った時は、一緒に食事をして、差し障りのない会話を重ね、お互いに気持ちが盛り上がれば、ホテルへと足を向ける。
それでも外泊したことはない。武雄の方が、
「帰ろう」
と言い出すのだ。
律儀なのか、気を遣っているのか、少し物足りないが、贅沢は言えない。押しつけや暴言を吐く男にはウンザリし、
――ひょっとすると、男運が悪いのでは?
と思いたくなるほどの人生にいい加減「さよなら」したいと思っていた理沙にとって、武雄は、
――もったいないくらいの男性――
だと思っていた。
ただ、今まで男性に対して、感じたことのない思いを彼に感じていた。それは、
――物足りなさ――
であり、少なくともいいことではない。律儀な男性を嫌いではないのだが、束縛は嫌だった。彼からすれば気を遣っているだけのことなのに、それを物足りなさだと感じられてしまってはたまらないだろう。だが、人の感情に蓋をすることはできず、理沙は自分も欲深い女性であることを痛感していたのである。
武雄はベッドの上でも淡白だった。何と言っても、果ててしまった後に、抱きしめてくれないことが理沙には不満だった。だが、それを誰にも相談することもできず、
――男性というのは、そんなものなんだ――
と思い込むことで我慢しようとしていた。ただ、このままいけばセックスに対して嫌悪感を持ち、次第に男性不信に陥るという道を歩んでしまうのではないかという危惧を、まだ感じていなかったのである。
そんな時に達郎から、
「君に相談があるんだ」
と言って連絡があった。
理沙は、すぐに、
――恵美のことで相談があるということなのかしら?
と感じた。
もしそうであれば、
――どうして自分がそこまで他人の恋の行方について絡まなければいけないのか?
と憤慨してもいいはずだったが、あまり嫌な気はしなかった。
達郎の話を聞いてみたいという思いも正直な気持ちであるし、達郎がどんな話をするかということよりも、その時の達郎がどんな顔をするのか見てみたいというのが、正直な気持ちであった。
普通であれば恵美という女性がいるのに理沙に会って話をしたいというのだから、少しは後ろめたい表情をするのかどうか、それが気になったのだ。理沙には達郎の後ろめたい表情が、どうにも思い浮かばなかった。
だからといって達郎が冷徹な男性だとは思わない。下手に後ろめたい表情をされると、こちらがかしこまってしまうだろう。それに後ろめたい表情は情けなさが前面に出てしまい、達郎には似合わない。さりげなく、どこかとらえどころのない表情が達郎にはお似合いだったのだ。
というイメージが達郎にはある。後ろめたい表情をされれば、正反対だというイメージが狂ってしまうという思いがあるからだ。
待ち合わせの喫茶店に、達郎は先に来て待っていた。少し早く来たつもりだったのに、すでに来ているというのは、思ったよりもさりげない気の遣い方ができる人なのではないかと思った。ここでも、武雄との違いを思い知らされたのだ。
達郎が思っていたよりも律儀な男性であることに気付くと、少し見直した気がした。元々まったく男性として意識していなかったわけではない。ただ、自分とは住む世界の違いを感じていたのも否めない。それなのに、なぜか気になるのは、達郎の後ろに誰かを感じていたからだ。
――達郎の後ろに見える影――
それが、女でなければ気付かないもの、それも、自分でなければ気付かないのではないかという思いを抱いたのは、恵美も武雄も、達郎に対しての遠慮が微塵も感じられないからだ。
達郎の性格が軽薄であるのは、最初から分かっていたことであるが、同じ軽薄な男性に対してでも、少しは遠慮というものが見えてもいいはずである。そうでないと、お互いに遠慮なしでは、まるで無制限のジャブの打ち合いに思えてならない。発展性もない代わりに、収束も感じられないからだ。
達郎の性格は、相手に遠慮のない態度を取らせても、違和感のないところだった。普通なら、失礼に当たりそうなことも、さりげなく吸収することで、ジャブの打ち合いにならないのだ。単発がいくつか存在するだけで、見る人が見なければ、誰もおかしいとは感じない。
達郎はそんな性格なので、恵美は少し物足りないと思っているようだ。ただ、恵美にもその理由がハッキリと分かっていないようで、
――それが達郎の奥の深いところ――
だとして、いい方に解釈しているようだった。
知り合ってそれほど経っていない恵美の性格だが、彼女にしては寛大な気がする。
――ひょっとすると、好きになった人にはかなり懐を深く開いて、受け止めようと努力しているのかも知れないわ――
と思うのだった。
理沙には理解できないところだった。冷静沈着に見える恵美だが、懐を深く持てるのも、冷静沈着に見ることができるからだという解釈もできる。
理解できないのは、達郎に対してそこまで懐を深くしてしまうことだった。達郎のように底なしの軽薄さを振り向く相手に、懐を深くするのは、底なし沼をさらに広くするようなものだ。そう思うと、恵美が達郎の本当の性格を理解していないからだと思えるのだった。
達郎の底なしの軽薄さに嵌らないようにするには、最初から自分も底なしの沼に入り込んでいるのが一番だ。逆らうようにもがけばもがくほど抜けられなくなる。それが底なし沼の本当の恐ろしさだ。
理沙の想像している底なし沼は水ではない。湯気が立ち込めながら、大きな泡が浮かんでは消えるにも関わらず、熱を持っていない不思議な液体。いや、液体というよりもドロドロになっているコロイド状、まるでホットケーキを焼く前の小麦粉を溶かした状態のドロドロさであった。
身体に纏わりついてくるのだから、水よりも厄介かも知れない。水であれば、まだ身動きが取れるが、コロイドでは動かしたところから、間髪入れずにさらに纏わりついてくる。決して逃げることはできない。もがけばもがくほど逃れられないのも、分かるというものだ。
達郎は、底なし沼であることを隠そうとはしない。もし隠そうとしているのであれば、もう少し違って見えているに違いない。底なし沼であることに誰も気づいていないのは、達郎が隠そうとしないからだというのもあるが、まさか底なしの軽薄さが存在するなど誰も思いもしないからだろう。知っていれば、もっと違ったリアクションを示すだろう。達郎の底なしに気付かないまでも、何かおかしいと感じるはずだからである。
達郎は、世の中のことに関して、結構単純に考えているのだろう。達郎の底なし沼である性格は、生まれ持ってのものではなく、育ってきた環境から培われたものだと思うのだ。そうであるなら、かなり長い間に蓄積されたと考えるべきであろう。その間に形成された性格は、底なし以外にも存在しているはずである。人とモノの見方、考え方が違っているのも仕方のないことであろう。
そんな達郎が理沙に対しては律儀な態度を取り、遠慮を見せている。
――私の考えていることを悟ったのかしら?
と思えた。
それに達郎の性格からして、すぐに女性を呼び出すようなことがないように見えた。確かに底なしに軽薄でも、それは集団で一緒にいる時に感じられること、二人だけになれば、いくら何でも、底なしの軽薄を貫けるわけでもないだろう。
――恵美と二人きりのこの人って、どんな感じなのだろう?
ふいに感じた。一度感じてしまうとその思いは次第に強くなる。
恵美は冷静沈着なところがあるくせに、抜けているところがある。
――天然だ――
と思われれば幸い、とらえどころのない雰囲気に見えても仕方のないところであろう。
ただ今は達郎が何の用事で自分を呼び出したのか分からない状態の理沙は、達郎が口を開くのを待っているしかなかった。
コーヒーを口に含んだ達郎は、それを飲みこむと、それまで何も話そうとしなかった態度から、まるで覚悟を決めたように口を開いた。
「理沙さんは、美佐枝さんをご存じのようなんですね」
――美佐枝?
達郎の口から、まさか美佐枝の名前が出てくるとは思わなかった。一体どういうことなのだろう?
「え、ええ、以前知り合いでした」
「実は僕、美佐枝さんの妹の由紀さんとお付き合いしていたことがあったんです」
またしても驚かされた。この場で美佐枝はおろか、妹の由紀の名前が出てくるとは思っても見なかったからである。
「由紀とは、自分の性格の不一致ということで別れるに至ったんですが、僕はその時から、女性の後ろに、他に誰かがいるのではないかと思うようになったんです」
「……」
理沙は考え込みながら、話を聞いていたが、それには構わず達郎が話し始めた。
「ただ、恵美さんの後ろに感じる誰かよりも、理沙さんの後ろに感じる誰かの方が、僕には気になって仕方がないんですよ。なぜかというと、恵美さんの後ろにいる人の見当はまったくつかないにも関わらず、理沙さんの後ろに見えている人に関しては、何となく分かってきているようで、手を伸ばせば届くくらいのところにいるような感じなんですよね。でも、そこからが遠い。手を伸ばせば今度は却って遠くなってしまいそうに感じてしまうんですよ」
「それで?」
「ええ、まるでシルエットのように浮かんでくるんです。しかもそのシルエットは黒いシルエットで、まるでその人に対して自分が黒いイメージを抱いているんじゃないかって思ったんですよ」
「自分なりに分析して行ったんですね?」
「ええ、もちろん、分析できないところの方が圧倒的に多いんですが、少しでも突破口が見えると、そこから発想を巡らせるのは我ながら得意だと思っているので、どんどん発想を膨らませました。でも、そこで壁にぶつかったんです」
「壁にぶつかった?」
「もちろん、自分に関係のある人であることは当たり前だと思っていたんですが、その人本人ではなく、その人に関係のある人が思い浮かんでしまったことが、不思議で仕方がないんです。ここまで言えば分かると思います」
なるほど、自分に関係があるのは由紀であるが、理沙の後ろに見えたものが由紀ではなく美佐枝だというのであれば、理沙の後ろに見えた理由も分からなくもない。ただかなり強引な考え方であることは否めなく、しかも、達郎が只者ではないというイメージを植え付けられることになる。
「それで、美佐枝さんのことが気になったわけですね?」
「実は、この間、理沙さんが美佐枝さんと会って話をしているのを見かけたんです。その時に二人が知り合いであることを知りました。こんな偶然もあるんですね?」
「え? 私は美佐枝さんと会ったりしていませんよ?」
「僕が幻を見たということでしょうか?」
何と言われようと、理沙は美佐枝とはずっと会っていなかった。これは一体どういうことだろう?
「それは何とも言えませんけれども、私は美佐枝さんとはここ数年会ってませんね」
「そうなんですね。では、私が意を決して、理沙さんに会いに来たというのも、少しお門違いだったのかも知れないですね。今のお話を聞いて、僕もなぜ理沙さんに会いにきたのかということを、忘れてしまったような気がしたくらいです」
達郎はそう言って、両手の平を逆さにして、おどけて見せた。
しかし、達郎の態度には、おどけて見せているだけで、本気で見間違いだとは思っていないようだ。もし本当に見間違いだと思ったのなら、そんな大げさなリアクションを示すはずはないと思ったからだ。完全に理解できるほど達郎とは親しくはないが、自分の後ろに感じるもう一人の誰かが、そう思えるのだった。
達郎が見たというのが二人とも別人だったと思うのも却って不自然だ。きっと理沙か美佐枝か、どちらかが本当だったのだろう。
「どこで見たんですか?」
というと、達郎は少し思い返すようにして、
「ここ一週間くらい前だったと思います。そこの交差点で二人が話しながら歩いているところを見た気がするんですよ」
確かに理沙は、この交差点をよく利用する。
「時間的には?」
「そうですね。夕方近かったと思います、理沙さんよりも美佐枝さんの方が結構話しかけていましたね」
理沙は美佐枝と一緒にいる時は、確かに理沙から話しかけることはほとんどない。諭される雰囲気だったからだ。
ただ、喫茶店で面と向かったりすると、自分からも話しかける。そのあたりが理沙が美佐枝を慕っているところの表れだと自分で思っていた。
「交差点ですれ違ったのを見たんですか?」
「そうですね、美佐枝さんは、ずっと前を向いて歩いていました。理沙さんの方が顔を横に向けて、頷いていたりしましたね」
確かに美佐枝は、歩きながら話をする時でも、理沙の方を見ようともせず、絶えず前を向いて歩いている。それが美佐枝であり、理沙の知り合いにもあまりいるタイプではなかった。
だが、一週間前といえば、確かに交差点を歩く時に、前ばかりを向いて話をする人と一緒だったことがあった。ただ、その人は美佐枝とは似ても似つかない人であり、いくらちょっと見ただけだとはいえ、見間違えるというのもおかしなものであろう。
達郎が、理沙と美佐枝を見かけたという交差点では、理沙にも特別な思いがあった。達郎に言われる前から、あの場所で、
――実は誰かに見られていたのではないか――
という思いが頭を過ぎった気がしたのだ。
もちろん、それが達郎だったなどとは思っていない。理沙が視線を意識した時期がいつだったのかということをハッキリと覚えているわけではないが、クリスマスよりも前だったような気がするのだ。
つまりは、達郎と知り合う前だったということだ。
理沙は、明らかに違っているという思いを持ちながら、それでも達郎が話した時間帯である夕方だったということもあって、話を合わせられる気がしたのだ。
――少しお話に付き合ってみようかしら>
達郎の口からどういう話が飛び出してくるのかということにも興味があったので、
「あ、でも、私は美佐枝さんと一緒だったというような夢を見た気はしました」
相手が美佐枝であるというのは、夢で見たような気がしていたので、まんざら嘘ではなかった。しかも、交差点で誰かに見られていたという意識は達郎の話と重なって、想像ができるのではないかと思えてきたのだ。
誰かに見られるという感覚は今に始まったことではない。他の人に同じような経験がどれほどあるかが分からないので、単純な比較はできないが、少ない方ではないと思う。それだけにいちいち人に話すことでもないという思いと、話をしているとキリがないという思いとが重なって、自分が人に見られているという感覚に慣れてしまっていることに気がついた。
思い出しながら美佐枝のことを考えていた。
美佐枝は由紀のことを絶えず気にしている話しぶりだったのだが、理沙にとって、由紀はほぼ関係のない人間であると美佐枝が思っているので、簡単に話もできたのだろう。
「由紀は、自殺未遂をしたことがあるの」
「どうして、自殺未遂などしたんですか?」
「どうやら、その時に付き合っていた男性にフラれたのが原因らしいの。でも、本当は由紀の勝手な勘違いだったらしいんですけどね」
達郎は、以前四人で一緒に食事に行った時、恵美のいない時間帯が少しできた時に話をしてくれたことと類似していた。その相手が誰なのか知らないまま、夢で美佐枝からその話を聞かされた。
達郎の話があまりにも突飛だったこともあって、夢に出てきた美佐枝の口から語られたのではないかと思ったくらいだ。それだけ理沙は想像力が豊かだとも言えるだろうが、やはり妄想になるのだろう。
「でも、達郎さんはどうして私にその話をしてくれたんですか?」
「僕は恵美さんの後ろに、その時付き合っていた女性の影が見えた気がしたんですよ。それ以来、躁鬱症に悩まされるようになった気がして、きっとその時から、僕の人生には大きな影が差してきたように思うんです」
「その時の彼女のことを今でも思い出すと?」
「思い出すのは鬱状態の時だけなんですけど、鬱状態というのは、人が思っているよりも、まわりの状態が見えなくなるんですよ。だから、精神状態がその時と同じということはまずありえないので、何とも言えないです。思い出したとしても、それが今の自分にどんな影響を与えているかというのも、曖昧な気がするんですよ」
と言っていた。
そんな達郎がまた理沙を呼び出して、今度はハッキリと、美佐枝や由紀についての話をしてくれた。そして自分の後ろに誰かを見ていると言ったが、それが誰なのか気になって仕方がないのだった。
達郎が自分の後ろに見た誰かというのは、美佐枝以外には考えられない気がしていた。達郎が由紀と別れて鬱状態になった時、別れるきっかけになったことを自分で悟ったのではないだろうか。
ひょっとして、達郎は由紀を見ているつもりで、美佐枝を見ていたのかも知れない。達郎にはどこか年上に憧れているようなところがある、恵美と最初付き合ってみようと思ったのは、恵美の中に大人の魅力を感じたからではないだろうか。
だが、大人の魅力を感じながら、その中に感じたのは、以前に別れた由紀であり、自分を呪縛に陥れることになった相手だと思うと、少し怖くなったのかも知れない。
夢の中に出てきたと思った美佐枝から聞いた話、由紀が自殺未遂をしたということだったが、その原因が達郎だったのかどうか、分からない。最初は夢の中にまで出てきた美佐枝が、
「達郎には気を付けろ」
という警鐘を鳴らしていたのではないかと思ったが、それにしては紛らわしい。後で自殺未遂は勘違いだったと言ったではないか。達郎の何に気を付ければいいというのだろう?
理沙にとって達郎は、恵美と付き合っている男性だという意識しかなかったのに、達郎から恵美のいない間に打ち明け話をされたり、こうやって呼び出されたりするのは、自分に気があるからではないかと思ってみたが、そうでもないようだ。もし、気が合って付き合ってみたいと思うのであれば、今までの話はまったくの無意味である。むしろ、話をすることで、理沙に警戒心を与えることになる。もっとも、達郎という男性が、
――付き合っていく人には、隠し事はしたくない――
と考える人であれば、分からなくもない。
ただ、恵美に対しては、彼女の後ろに由紀を見てしまったことで、これ以上付き合っていくことはできないと思っているのかも知れない。達郎は達郎なりに、悩みを抱えているのだろう……。
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