第12話 第12章
◇
達郎は、恵美と知り合ってから、由紀のことを思い出すようになっていた。
由紀という女の子は不思議な女の子だった。達郎はつくづく、
――不思議な雰囲気を持った女の子を好きになることが多いものだ――
と、溜息交じりに考えていたが、由紀のことを思い出すのは本当に久しぶりのはずなのに、ちょくちょく思い出しているような気がするのも、由紀の不思議な雰囲気によるものなのかも知れない。
何が不思議といって、由紀は、集団の中では存在感があるが、一人になると、急に存在感がなくなってしまう。普通であれば、集団の中に存在感が埋もれてしまって、存在感が湧き出してこないということがあるが、由紀の場合は逆だった。
達郎が由紀を敬遠し始めたのは、自分が躁鬱症になった原因について考え初めてからのことだった。躁鬱症の原因など分かるわけはなく、ただ自分が人と関わるのが嫌な鬱状態の時、由紀を見ているのが忍びなかった。だが、鬱状態から躁状態に抜けてくる途中で、ふいに、
――躁鬱症の原因は、由紀になるのではないか――
と思うようになった。
躁鬱症を感じ始めたのは、由紀と付き合うようになってからであったし、最初はそれが躁鬱症だとは気付かずに、何をするのも嫌で、人の顔を見るのすら嫌になった時期があることに、我ながら信じられない状態になった。
それまであまり感じたことのなかった自分に対しての腹立たしさを感じ始めたのも、その時からだったのだ。
その時に、ほぼ同時に感じたのが、由紀に対しての不思議な感覚だったのだ。
集団でいる時には、目立っていないのに、なぜか存在感を感じる。いつも端の方にいるのに、誰に聞いても、
「彼女のことは気になるんだよな」
と言っていた。
それは彼女を意識しているから気になるわけではなく、目を逸らそうとしても、勝手に目が寄っていくような、まるで怖いもの見たさに薄目を開けて見てしまうという感覚に似ている。
かといって、一人になると、まったく気配を感じない。そばにいてもいることを感じない、いわゆる存在感のなさは、「路傍の石」を感じさせる。
ただ、それは集団に紛れているからそばにいても意識がないだけであって、まわりに誰のいないのに存在感がないのは、昔ある物理学者が創造したという「暗黒星」のようだ。
宇宙の彼方に存在するかも知れない星。
星というのは、自らが光を発するか、あるいは光っている星に照らされて、反射の力を利用して光っているかのどちらかである。しかし、自ら光を発することもなく、恩恵を受けるはずの光を遮断してしまい、暗黒に取り込んでしまう星が、存在するかも知れないという。
由紀はまさしくそんな存在ではないだろうか。見えているはずなのに見えていないというよりも、存在自体を消してしまっているので、そこにいても気づかない。由紀はそんな存在ではないかと達郎は思った。
ただ、それは自分が鬱状態に陥った時に感じることで、他の人は誰も由紀にそんな感覚を感じない。達郎だけが感じることで、由紀の不思議な力を感じないわけにはいかなかった。
そして自分の躁鬱症も、由紀の不思議な力に誘われているのではないかと思った時、それ以外の考えはまったく遮断された。それは、由紀が持っている存在感をうちに籠めている感覚に似ている。したがって自分の鬱は、由紀によって作られているのではないかとさえ感じたのだ。
一旦思い込んでしまうと抜けられないもの。達郎がそのことに気付いたのだと由紀が感じていると思い、達郎は由紀に対して、
――絶対に逆らえない存在なんだ――
と感じた。
由紀が、力のすべてを達郎に向ける前に、逃げ出すしかないと思った達郎は、何とか由紀から逃げることを考えた。
由紀から逃げるのに一番の得策は、
――集団に入り込むことだった――
ちょうど大学入学を機会に、大学生の中に紛れることで由紀から離れられた。達郎はやっと離れられたことに安堵の溜息をついていたが、その後遺症は、なかなか消えるものではない。
大学時代に培われた性格は、由紀への惜別の思いと、さらに入りたくて入ったわけではない集団意識に対して過剰な反応を残してしまった達郎の歪んだ思考によって生まれたものだ。
あまりにも大げさであったことで、由紀の呪縛から逃れられた達郎は、トラウマを残してしまった。トラウマを感じないようにするために、わざと軽薄な態度を取っていたが、そのことは誰もがウスウス気付いているだろう。
だが、気付いていても、それ以上入り込むことのできないその人の領域ギリギリのところで、それ以上気付かせることはない。だからまわりにとって達郎の性格は、躁鬱症というよりも、二重人格に見えていたことだろう。
確かに二重人格に近いものであるが、他の人の二重人格とは違っていることに気付く人はなかなかいなかった。
ただ、恵美には最初から分かっていたような気がした。そして理沙も途中で気付いたように思っていたが、実は最初から気付いていたことを、意識し始めていたのだ。
それは、理沙が美佐枝を知っているからであって、分かるはずなどないのだが、その時の由紀が、美佐枝の妹であることは、事実だったのだ。
誰もその繋がりを知らない。繋がりが偶然という言葉で言い表してもいいことなのかハッキリとは分からなかったが。暗黒星のような女性が、自分の近くにいるのではないかということを、理沙はウスウス気付いていたのだ。
理沙は物理学に精通していたわけではなかったが、なぜか暗黒星の話だけは知っていた。誰かから聞いたという記憶はあるのだが、それが誰だったのか覚えていない。この話を知っている人などそうはいないと思っていたが、実は達郎も知っていたのだ、
達郎の場合は、人から聞いたというのもあるのだが、その時に興味を持って、図書館で調べて、少しだけ書物を読んだ。
難しすぎて、簡単に読破できるものではなかったが、肝心なところは何とか分かった気がする。それが理解できたとは言い難いが、意識する上で、知っているという意識があるだけ、怖いという意識は薄れていった。
それは、由紀と離れられたことにも大きな影響があったかも知れない。
吸血鬼を寄せ付けないようにするために、ニンニクを身体からぶら下げたり、いたるところに取り付けたりする発想と似ているのかも知れない。
達郎は由紀の過去を聞いたことがあったが、その時に気になったのが、
「私、苛められっこだったの」
という言葉だった。
自分から苛められっこだったことを告白するのも珍しいと感じた達郎だったが、ちょうどその時から、自分の中に躁鬱症の気を感じ始めていたので、苛められるということに、やけに敏感になってしまったことも否めなかった。
陰湿な苛めではなかったようだが、由紀の中に相当根深いトラウマが生まれた。トラウマは、由紀の中から眩しさを持ってまわりに影響を多大に与えていたようで、姉の美佐枝がいうには、
「あの子の眩しさは、異様な光を放っていて、誰も近づくことができなかったの。でも眩しさがまさか、苛めから来ているものだなんて、誰も思わなかったわ」
一生のうちに放つ光に制限があるとするならば、この時に光を放ち続けた由紀が、もう放つ力が残っていないほどの光を毎日のように放ち続けたのかも知れない。
――もう光を放つエネルギーがないのかしら?
と思うと、人間の表に出ている力が、本当に微々たるものであることを痛感させられた気がするのだった。
苛められっこがどんな気持ちなのかというと、皆同じではなかっただろう。
一人でいることを喜びとすることで、苛められることを我慢しようする気持ちを持った人間、または、苛めっ子に対しての憎しみだけが、自分の生きる支えだと思っている人間、さらには、いずれは自分が苛めている連中を見返してやると思って、必死に勉強に勤しむ人、いろいろではないだろうか。
ほとんどは一人の世界に入り込むのではないかと理沙は感じていたが、
――自分が苛められたらどうなるだろう?
と思った時に感じたのが、一人の世界に入り込むことだった。
理沙は、それを逃げだとは思わない。
逃げというよりも、却って攻撃に近いものだと思っている。一人の世界に入り込み、まわりを遮断することで力を蓄えるという考え方だ。苛められている人がそこまで考えているかどうか分からないが、無意識に思っているとすれば、その時に蓄えられる力は、尋常ではないように思えた。
一人の世界に入り込むことは、苛められっこではなかった人でもあるのだ。
逆に一人の世界に入り込むことで、まわりの人間の中には、一人の世界に入り込むことを、集団内での裏切りと捉える人もいるかも知れない。
あるいは、誰かを苛めたくて仕方がない輩がいるとすれば、必ず相手がいないと我慢できないだろう。そんな時の口実に、自分の世界に入ることでの裏切りを挙げることは、その人にとって好都合なのではないだろうか。
――仮想敵――
まさに、対象がなければ、成立しない性格なのであろう。
由紀は子供の頃の苛められていた頃に、姉の美佐枝が、妹のことを心配して、いろいろアドバイスを送っていたことが溜まらなく嫌だった。
なぜか姉には逆らえないと思っていた由紀は、姉がいうことを、黙って聞いていたが、耳を向けているだけで、入ってきた内容は、すべてが右から左だった。
由紀は、記憶力が極端に悪い。なぜ悪いのか原因は分からなかった。
誰にもそんな悩みを打ち明けられるわけもなく、まわりから、
「どうしてそんなことも覚えられないの?」
と罵倒されても、何も言い返せない自分が悔しかった。
だが、途中からどうして覚えられないか分かってきた。
――姉の余計なおせっかいのせいだわ――
と思っている。
姉の余計な助言を、どんなにいいことであっても、右から左に抜けさせてしまうことで、無意識に逃げに回っていた。
逃げは由紀にとって敗北だと思っているので、本当は認めたくない。そのくせ言うことを聞かないというジレンマが、記憶を極端に妨げる性格を形成させてしまったのだ。
そのことを人に悟られるわけにはいかない。なぜなら、由紀にとって自分一人の世界を形成することだけが救いだったからだ。
一人の世界を作ることは逃げに繋がると思っている人も多い。そのため由紀は人から攻められても文句は言わない。だが、心の底で、
――いつまで我慢できるのかしら?
という思いがずっと燻っている。
一人でいることを喜びとすることと、物忘れが激しくなってしまうことは背中合わせになっていて、一番近い性格のくせに、お互いに表に出るのはどちらかだけなのだ。そんな自分を分かっていることが、さらに記憶を意識させることの妨げになっていることを、由紀は知る由もないだろう。
由紀は姉との距離を少しずつ広げていった。姉には気付かれないように細心の注意を払ってであったが、払ったつもりでも、姉の方が一枚上手だったのか、
――姉妹のうちの姉には適わない――
という意識が由紀の方にあるからなのか、すぐに悟られてしまったようだ。
姉の美佐枝には、そこまでの意識はないが、
――妹のことは誰よりも私がよく分かる――
という意識を持っているはずなので、少しは分かって当然でもあった。
由紀にとっての美佐枝という存在は、
――かけがえのない人――
という気持ちもあった。
それは姉妹の垣根を超えたものがあったのかも知れないが、
――たった一人の肉親――
とまで言えるほどの感覚だった。
両親は揃っていたが、どこかよそよそしさを感じた。
実は両親からすれば、由紀の存在に怖いものを感じていたのだ。両親は社交的な性格で、普段は、一人の世界に入り込む友達がいたとしても、そのことを意識することはなかった。
「友達として意識しなければいいのよ」
母の口癖だった。冷たいようだが、言っているのは正解なのだ。
しかし肉親と言えばそうもいかない。まさか無視できない相手が現れようとは、そして、それが娘であることに両親はビックリしたことだろう。そんな気持ちは伝わるもので、両親から嫌われているという意識だけが、強調されて由紀の意識の中に残ったのだ。
美佐枝は、そんな時、中立の立場だった。いくら姉でも、まだ子供なのだから、面と向かって両親に逆らえるはずもない。今であれば理解できることだが、子供には理解できることではなかった。
――姉もしょせん、両親の味方なんだわ――
と思い込み、姉を憎んだ時期もあった。しかし、少しずつ気持ちが分かってくるようになるが、そうなると、今度は姉が、いろいろ助言を始めたのだ。
姉の方とすれば、本当は言いたくないことなのかも知れない。しかし妹のために言っているつもりでも、言いたくないことを無理に言っている姿は、これ以上ぎこちないものはない。
それを由紀は悟ったのだろう。
由紀が勘の鋭い女の子だということを結構まわりの皆が知っていた。そのことについて他の人同士で話をすることはなかったようだが、暗黙の了解のようなものは存在していたようだ。
そういえば、美佐枝が由紀に言っていたことがあった。だいぶ大人になってからのことだが、
「あなたの手は本当に暖かいわね。お姉ちゃん、あなたの手を握るのが好きなのよ」
と言って、何かあれば手を握りたがっていたのだ。
「でも、心が冷たいかも知れないわよ」
と言い返すと、
「どうして?」
「だって手の平が暖かい人って、心が冷たいんでしょう?」
というと、姉は急に寂しそうな顔になり、
「そんなことないわ」
と言ってくれた。
この時の姉の寂しそうな顔、その時初めて見たような気がしなかった。以前にも見たことのあるようなその顔を、由紀はしばらく忘れることができなかったのだ。
姉の寂しそうな顔は、今に始まったことではない。気が付けばいつも寂しそうな顔をしていた。
「どうしてそんなに寂しそうな顔をするの?」
と聞くと、
「これが私の一人の時の顔なのよ」
と言われ、ハッとした。その言葉で、由紀は子供の頃の自分のことを思い出していたが、子供の頃の記憶は、苛められていた記憶が強く、その影響で一人でいることの喜びを感じていたという意識は、すでに記憶の奥に封印されていたのだ。
姉の驚愕の表情を、由紀はずっと忘れることができなかった、
由紀の後ろに誰かがいるのではないかと思うほど、視線は由紀の胸を突き刺すかのように痛いものだった。目はカッと見開いて、これ以上どこを見ようというのかと思うほど、意識は由紀の後ろに向いていたとしか思えない。
――一体何を見たのかしら?
美佐枝はそのまま意識を失い、しばらく気絶していた。由紀はそんな美佐枝を抱き起こすことも、本当であれば顔を叩いて、意識を取り戻させるのが当たり前のやり方なのだろうが、どうしても顔を叩くことができなかった。
姉の驚愕な表情を、実は自分もしたことがあるのを、由紀は知らない。そのことを知っている唯一の人間が達郎であることも皮肉なことと言えるのではないだろうか。
その時の達郎は、由紀を何とかしてあげたいという思いでいっぱいだった。そのため、姉を見た時の由紀のように目を逸らそうとしなかった。そのせいもあってか、達郎は由紀の視線が自分の後ろにいる何かを見ていることに気付かなかった。由紀は自分を見つめてくれている達郎の気持ちが、その時はまったく分からなかったのである。
達郎は、鏡の不思議な世界を思い出していた。子供の頃に出かけたお祭りで、ミラーハウスがあり、怖いのを承知で中に入ったことがあった。中を歩いていると、すべての面が鏡である。前と後ろが鏡であれば、永遠に自分の姿が映し出される。そのことが恐怖であったことを思い出したのだ。その時に自分を見つめているつもりで、鏡の中の自分は、遠くを見つめているようにしか見えなかった。
美佐枝にとって由紀はかけがえのない妹であった。その妹が自分に対して逆らっているという事実を美佐枝は受け止めなければならない。どうやって受け止めればいいのかを考えていたが、美佐枝は結婚することで、自分と、妹に執着している自分にケリをつけようとしたのだろう。
美佐枝は潔い性格であった。竹を割ったような性格だと皆から思われていたが、まさしくそうだろう。だが、それは自分に厳しいということであり、まわりがどう感じるかということまであまり考えていないのかも知れない。
由紀はそんな美佐枝をずっと見てきている。自分が苛められっこだったことも美佐枝は知っていて、ことあるごとに、様子を伺ってくれた。
由紀は人に構われることを極端に嫌う。それは姉の影響があるからなのかも知れない。集団の中では存在感があるが、一人になると、まったく気配を消してしまう性格は、姉の影響も強いのかも知れない。
美佐枝と由紀の共通点は、
――人と関わりたくない――
という思いがあることだ。
由紀は特にひどく、それは姉に対しても同じだった。
いや、姉に対しての思いが一番強いかも知れない。苛められっこであった由紀は、まわりの人に気を遣うことが多くなった。それは普通に遣う気ではない。苛められっこゆえの気の遣い方で、その裏にはいつも「苛め」という意識が働いている。つまりは苛められないようにするために、最初から逃げ腰なのだ。
そんな相手に少しでもおせっかいな態度は、余計に由紀を頑なにしてしまう。それでもおせっかいを焼くなら、
――それは自己満足のためにする気の遣い方だ――
としか、由紀の目には写らない。
――いつまでもお姉さんの自己満足に付き合っていられないわ――
まともに請け合って話を続けていると、苛められていることに対しての苛立ちを爆発させるかも知れない。
美佐枝の性格から考えて、すぐに相手の話を自分のことのように考えてしまうことで、苛立ちを強めるのも当たり前だろう。また、潔いという美佐枝の考えの根本からは、絶対に苛めなど容認できるはずなどないのだ。少しでも深入りさせてしまうと、美佐枝は何をするか分からない。後先を考えずに相手の家に乗り込んでいくかも知れない。そうなれば、もう収拾がつかなくなるだろう。由紀は相手が美佐枝であれば、自分が冷静に考えることができることをその時に分かったのだ。
美佐枝が人と関わりたくないと思ったのは、もちろんたった一人の妹を守りたいという思いがあるのも事実だが、
――人の幸せを妬んではいけない――
という思いが強かったからだ。
人の幸せを妬むということは、それだけ自分が惨めになるだけだということを分かっていたからであろう。
――潔い性格――
というのは、ここから培われたものではないだろうか。人の幸せを妬まないようにするには、人と関わりをなるべく持たないようにするのが一番だ。
元々、あまり人とつるむことが好きではなかった美佐枝には、人と関わらないことは苦になることではなく、却って願ったり叶ったりの気持ちだったのだ。
一人だけ例外があるとすれば、それが妹の由紀である。他の人と関わりを持たないことで、無意識の中にある寂しさが、由紀を見ていることで顔を出すのだ。
美佐枝は、由紀の中にもう一人の自分を見つけたような気がした。もう一人の自分は由紀の中から、こちらを見ている。もちろん錯覚に違いはないのだが、由紀を見ていて鏡を見ているように思うことがあるのは、そのせいであろう。
寂しそうな顔を由紀がした時に、
「これが私の一人の時の顔なのよ」
と言われてハッとした美佐枝だったが、それは由紀の中にいる自分から言われたような気がしたからだ。言われた時に、すぐには分からなかったが、自分を見つめる眼差しに、美佐枝は何も言い返せなくなっていた。美佐枝と由紀の間には、姉妹というだけではない何かが存在しているのかも知れない。
美佐枝はまたこんなことも考えている。
――自分の中にも、もう一人の由紀が存在しているのかも知れない――
そういえば、以前、由紀と付き合っている男性から、
「もし、由紀ちゃんを好きになっていなければ、お姉さんを好きになったかも知れないです」
と言われたことがあった。
「何言ってるのよ。お上手ね」
と、照れ笑いを浮かべたが、美佐枝はその時決して照れ笑いを浮かべたわけではない。相手の男性の視線に圧倒され、ゾッとしてしまったのだ。
「余計なことを言ってすみません」
相手の男の子は急に我に返ったかのようにハッとして、少し寂しそうな顔になり、謝ってくれた。
その場の雰囲気は凍り付いたようになり、他に誰もいなかったことは幸いだったが、もし誰かいたとすれば、異様な雰囲気はまわりに伝染していたに違いない。それほど、美佐枝にとっても彼にとっても前にも進めない。そして元にも戻れないところで止まってしまってたのだった。
美佐枝が立ち上がったことで、その場の雰囲気はすぐに元に戻った。後から思い出しても、そこまで凍り付いていたことを思い出せないほどである。
――凍り付く雰囲気というのは、壊れやすい思いなんだわ――
それだけレアなものなのだろうと、美佐枝は思った。ただ、
――もう二度と味わいたくないわね――
それにしても言葉の裏の意味をすぐに理解できたものだと思った美佐枝だったが、さらに美佐枝の表情を見て、彼もよくその場の雰囲気から、自分の言葉の意味に気が付いたものだ。
――あんな顔は、気付いていないとできないわ――
と美佐枝は感じたが、相手が自分だから気付いたのかも知れない。
――あの時、彼も私の中にもう一人の自分を見たのかしら?
自分に関わる人は、それぞれに相手の中にもう一人の自分を見ることができるようだ。美佐枝は、最初それを自分だけではなく、皆も同じだと思っていたが、これが特殊なことだということに気付くまで二しばらく時間が掛かった。美佐枝にとって、長い由紀とだけの関わりは、狭い世界に閉じ籠ってしまう弊害もあれば、二人だけの世界であっても、ある程度網羅できる部分があるということを感じさせるものだった。
美佐枝と由紀の姉妹は、お互いに相手の中に自分を見ることを悟っていた。そのことを同じように感じることができる女性がいたのを、美佐枝は知らない。それは、以前親友だった理沙だった。まるでその時の美佐枝が、理沙に乗り移ったかのようだった……。
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