第9話 第9章

 二人の男性は、大学が近いこともあり、時々会っていた。

「お前は理沙ちゃんが気に入ったようだが、実際はどうなんだい? 今までに付き合った女性と比べて」

 低い声になると誰だか分からないほど、声が変わってしまう達郎が声を掛けてきた。

「そうだね。悪くはないよ。年が同じで、相手が働いているとなると、甘えたくなってしまう。実際男性よりも女性の方が、同い年なら成長が早い。お姉さんのように慕っていれば、相手も喜んで甘えさせてくれるさ」

 武雄よりも、さらに誰だか分からないほどの低い声で話すのは、どうも後ろめたさを感じているからであろう。達郎のこんなに低い声、顔が分からないと、誰が話しているのか、絶対分からないに違いない。

 武雄は達郎が時々怖くなることがある。武雄にも達郎が二重人格なのは分かっている。しかし、恵美が感じている二重人格とはまた違っていて、武雄の考えている二重人格は「自己支配」に包まれた二重人格である。

 まるで「ジキル博士とハイド氏」である。一つの人格の中で、主従関係が存在しているような人は、片方が表に出ている時は完全に片方は眠っている。人から指摘されても、

「そんなバカな」

 と笑って言い返すが、そこには何ら疑いを持つことはない。

 二人が話をしている場所は普通の喫茶店である。声が少々低くなっているのは、相手がいないところで噂をしているという後ろめたいものがあるからなのかも知れない。

「でも、俺が見る限り、理沙ちゃんのような女の子は、甘えさせてくれるようにも見えないけど、違うかな?」

 最後に、

「違うかな?」

 という言葉を付けるのは、達郎のくせのようなものである。自分の放った言葉にいまいち自信が持てない時に、語尾につけることがあるのだった。

「それは俺も感じているよ、でも、理沙ちゃんの指にあるルビーの指輪を見て、自分の昔のことを思い出したんだ。俺は以前に付き合っていた女の子にルビーの指輪をいつもしてくる女の子がいたんだけど、その娘によく似ていたんだ」

 そう言って、武雄は少し顔を赤らめて、目は遠くを見つめていた。

 以前のことを思い出しているのだろうか。短い間だけだったが、武雄は自分の世界を作って、入り込んでいた。

 武雄が過去のことを思い出して、顔を赤らめたり、遠くを見るような目をするなど、達郎には信じられなかった。あまり過去のことを話さない武雄を達郎は、

――よほど、以前に嫌なことがあったのではないかな?

 と思っていたのだ。

 だが、達郎は武雄の話を聞いていて、

――なるほど――

 と思えることが多かった。

――俺なら、武雄のような考えをしないと思っていたのだが、今回に限って、話を聞いていると、よく分かる気がするんだ――

 それは、お互いに最初から気に入った相手が、ハッキリと別れたからである。

 武雄にしても達郎にしても、二人の女の子のどちらが好きで、どちらが嫌いだというイメージはなかった。しいて言えば、

――二人とも甲乙つけがたい――

 と思っていたのだ。

 恵美も理沙も、それぞれに可愛いところがあるが、突出して可愛いところがあるわけではない。

「顔のパーツの中で、どこが気に入ったんだ?」

 と、聞かれて、すぐに答えられることはできなかった。

「全体的に見て、可愛いと感じたんだ」

 としか答えようがないだろう。

 これが二人の一致した意見だったが、二人の意識の共有の中に存在し、二人とも分かっていることであった。

 だが、武雄には武雄の、達郎には達郎の、二人の女の子に対しての気持ちもあった。だからこそ、二人の間で競合することがなかったのだろう。

 武雄の中には、理沙に対して、恵美にはないものをまず最初に感じた。

 ルビーの指輪を最初に見た時に感じたのが、その最初だったのだが、ルビーの指輪を見て理沙を気に入った本当の理由を、達郎に悟られないようにしなければならなかった。

 武雄は、今回のナンパに対して、文字通り、ナンパな気持ちであればそれでよかったのだ。相手を好きになったりすることはなく、大学生の中でも「遊び」で終わらせればそれでよかった。

 最初から乗り気だったのは達郎の方で、武雄の方からすれば、ただの「付き合い」程度のものだった。せっかく友達になった達郎から、

「クリスマスの日にナンパしよう」

 と声を掛けられた時も、

「そうだな、気分転換にはいいな」

 と、中途半端な答えしかしなかったが、

「何気取ってるんだよ。これでいつも野郎同士の会話の中に、少し色がついたようでいいかも知れないじゃないか」

 と、あくまでも達郎の意見は能天気だ。

 考えてみれば、お互いに同じ時期にナンパして、片方だけがうまくいく可能性だってあるのだ。もし二人ともカップルになったとしても、どちらかがすぐに破局を迎えれば、それで男の友情にもヒビが入らないとも限らないのだ。そんな事態を考えようともしない達郎に、

――一体何を考えているんだろう――

 と思わずにはいられなかった。

 それでも達郎の話に乗ったのは、やはり武雄が田舎から出てきてずっと友達もいない学生生活を送っていたからだろう。なぜか武雄は同じ大学で友達を作ろうとしなかった。きっとグループでつるむのが苦手な性格だからなのかも知れない。大学内で友達ができたとしても、友達と二人で行動することは珍しいようだ。二人だけで行動したとしても、できた友達にはさらに他に友達がいて、武雄はその中で

――何番目の優先順位がついているんだろう?

 と思いながら一緒にいなければならない状態では、落ち着くことなどできるはずもない。それなら、いっそ友達などいない方がいいと思うのだった。

 武雄には、孤独な影が見え隠れしているようなイメージを抱いた人は、少なくなっただろうが、その原因の一旦に、武雄の性格が直接影響していることに気付く人は、ほとんどいなかったに違いない。

 自分の性格を押し殺して、いつも前を見て歩いているつもりでいると、それだけでまわりの人に、本当の性格を悟られないということも、えてしてあるものだ。

 普通であれば、自分に自信を持たなければできないことのはずなのに、性格を押し殺すことでできてしまうのだから、押し殺すことに対して、自分に自信を持っているのかも知れない。

 武雄の気持ちを本当に分かってくれているのではないかと思うのが達郎だった。達郎には武雄にはないところがある。何と言っても、達郎は自分の性格を押し殺すようなことはしない。人に言えないことはあっても、言いたいことを押し殺すようなことはしない性格だった。

 そんな達郎に、武雄は心の中で敬意を表していた。それも表に出すことはなく、ただ横目でじっと見ているような感覚である。

 武雄が押し殺す性格の一番強いものはやはり、

――主従関係が存在する二重人格――

 であろう。

 人は、大なり小なり、二重人格な面を持っているというのは、達郎も思っていたことで、自分にも存在する二重人格は、人畜無害だと思っていた。実際に分かる人にしか分からないようで、分かる人は、それだけ達郎のことを真剣に見てくれている人なので、嫌な気はしなかった。

 武雄の場合、主が表に出てくることはめったにない。ただ、従者が表に出ている時は、必ずその後ろに主が存在していて、まるで影のように操っているのだ。その時の武雄は、操られている意識があるからなのか、身体に力が入らない。自分ではない何かに操られていることの気持ち悪さを感じながら、気持ち悪さに慣れてくると、自分を動かしている影の存在に身を委ねるところまでになっていた。

 身を委ねることは気が楽であった。

 まるで二人羽織の前にいる人間のようで、下手に力を入れると、後ろの人間にプレッシャーを与える。実際に自分を動かしているのは、

――目に見えない自分――

 であり、何をされるか分からないのは、まったく考えが見えてこないからだ。それを思うと、

「ちゃんとあなたに従いますから、何を考えているのか、教えてください」

 と、お願いしたくなるくらいである。お願いしたとしても、影の自分は何も言わない。本当に影の自分など存在するのかを疑問に感じながら、影の存在を不気味に感じないようにしようと心がけているのだ。

 従者の部分の武雄が、もし主に逆らったとすれば、その気持ちは主には分からないだろう。それが従者としては、都合のいいことだった。従者が初めて逆らったのは今までにもあったことだが、最初から最後まで主はそれに気付かなかった。ひょっとすれば、今も気づいていないかも知れない。

 今回も、主は気付いていないようだ。それは、武雄が達郎を親友として感じ始めていることだった。達郎が親友としてふさわしい人間かどうかというよりも、寂しい気持ちになった時、いつも目の前にいたのは達郎だった。

――生まれて最初に見たものを親だと思う――

 という習性を持った動物がいるのと似ている感覚かも知れない。気弱な時に目の前にいた人に委ねる気持ちにあるのは当然と言えば当然だ。

 達郎の方も武雄に委ねている部分は多々あった。達郎の方がむしろ委ねる気持ちは強いに違いないが、お互いに委ね委ねられたり、結構いい関係なのかも知れない。

 ただ、これだけは誰にも言っていなかったことがあるのだが、実は武雄には田舎に残してきた恋人がいた。

 武雄の一番悪いところが、優柔不断なところなのだが、なぜかそのことはあまり目立たない。最後の最後まで迷ってしまって決めかねている。一旦迷ってしまえば、後はどんどん選択肢が狭まっていくことが分かっているのかどうなのか、捨てることができない気持ちがどうしてもそうさせるのかも知れない。

 優柔不断な性格が、都会に出てくることで災いすることも多いだろう。だからなるべくまわりの人に知られないようにしているのだが、本当は知ってもらって、理解してもらうべきだということに頭が回らないのだ。

 それだけ冷静でいるつもりでいても、それはただ、怖がっているだけの自分を隠しているに過ぎない。しかもそれは外的な要因に弱いオブラートに包まれているだけなのだ。

 武雄は、田舎にいる彼女のことを思い出していた。思い出そうとすると、田舎にいた頃の自分に戻る必要がある。普通に過去を思い出すだけではないことを自覚していた。それは、田舎者のレッテルを嫌がっていた自分に気が付いていたからである。ただそれは普通の都会に憧れる田舎者とは少し違っていた。他の人は、田舎の生活に飽き飽きしていて、それが都会への憧れになっていることがほとんどであるのに、武雄の場合は田舎の生活が嫌なわけではない。田舎の生活も、まんざらではないと思っているほどで、ただ、都会に出ることで自分を少しでも変えたいという気持ちが強いことが、武雄を都会に出させたのだ。

 つまりは、ずっと都会で生活していくつもりはない。時が経てば、いや、時が来れば、いずれは田舎に帰ろうと思っている。

――引き際が肝心だ――

 とまで思っているのは、都会に憧れて田舎を出て、最終的に何も得ることもできないどころか、悲惨な精神状態になって、都会を去らなければならないことを思えば、いかに引くかが問題である。

 もし、武雄が田舎に帰ってくるつもりもなく、憧れだけを持って都会に出てきたのであれば、彼女とは別れて出てきたであろう。前だけを見ていることがいいことだと思っていると、後ろから襲われた時に、対処できない。そんな簡単なことを忘れてしまい、前を向いていることが美徳だと思ってしまえば、結果は見えているだろう。

 田舎で付き合っていた女性は、都会の女の子には叶わないところもある。どうしても垢抜けないところは田舎に染まってしまっていては、抜けるものではない。特に都会に出てきて、都会の女性ばかりを見ていると、田舎臭さが身についてしまった自分の臭いを、いかに隠すかが一番重要なところだった。言葉遣いやアクセント、それだけでも大変だ。表に出ているものは自分にも分かるからまだしも、自分の目に見えないところは、どうしようもない。田舎者だというレッテルを貼られてしまうと、ずっと抜けることはないだろう。そう思うと、口数が少なくなってしまうのも、仕方のないことだろう。

 口数が少ないのは、表に見える部分のボロを出さないことと、内面的なことでも、目立たないようにしていれば、少なくとも田舎者と言われてバカにされることはないだろう。

――一体、何のために都会に出てきたんだ――

 大学での勉強はそれなりに成果のあるものだと思っているが、人間関係の壁がこれほど厚いものだとは思ってもみなかった。

 それでも、達郎という友達ができて、よかったと思っている。達郎は武雄が田舎から出てきている田舎者だということを気にしているわけではなかった。

「そんなことは関係ない」

 一度、田舎から出てきていることで、達郎から誘われた合コンを断ろうとした時、達郎はそう話してくれた。本当はそこまで義理堅い男ではないのだが、それだけで、武雄は達郎を信頼できる相手だと思ったのだ。

 達郎の本心がどこにあったとしても、とりあえず武雄にとって達郎は心強い友達ではあった。達郎程度の力量では、とても人を裏切って、相手に精神的な優越感を与えるところまではないだろう。

 武雄は、理沙のことを気に入っていたが、頭の中に大きな存在として残っているのは、田舎に残してきた恋人だった。

 しかし不思議なことに、田舎に残してきた彼女のことを考えれば考えるほど、理沙が気になってくるのだ。自分の中で存在が大きくなってきた理沙と、これからどのように付き合っていけばいいのか、達郎は考えあぐねていたのだ。

 理沙が武雄の中で存在が大きくなっていくなど、自分でも分からなかった武雄だったが、どこか彼女と理沙の似ているところをいつの間にか探していた自分に気が付いた。

――どうして比較なんかするんだ。比較したって仕方がないのに――

 と思ってみたが、それが自分の性格であることに気付いた武雄は、二人の女性を天秤にかけている自分がそれほどモテる男でないことを再認識した。

 理沙と恵美を今度は比較してみた。どちらが綺麗な女性かと言われれば、誰もが恵美だと答えるだろう。ただ、愛嬌という意味では理沙の方が明るく、そして何よりも馴染みやすい。

――俺とお似合いだな――

 と相手の男に思わせるタイプの女性で、何が嬉しいといって、安心感を与えてくれるところが理沙にあるところだった。相手が恵美だったら、絶えずどこかに不安を感じさせられ、

――俺は嫌われているのではないか――

 と、彼女のことを気にしていなければいけないタイプであり、何よりも疲れてくる雰囲気を持っている女性である。

 武雄は自分が理沙を選んだことは、田舎に対する望郷の念が強いからではないかと思うようになっていた。都会に出てきて一人で頑張って行こうと思っていた気持ちが今は昔の感覚に陥っていて、田舎を思わせるものに対して、飛びついてしまうのが、何よりもその証拠だと思うようになっていた。

 武雄が時々田舎のことを思い出すのは、主である自分が田舎を欲しているからなのかも知れない。本当は田舎にいたいと思っている主に対して、従者であるもう一人の自分は、主であるくせに急に心細くなる癖のある主の心の間隙をついて、気持ちを表に出すことで、都会に出てくることを選択したのだ。だから、武雄の望郷の念は他の人よりも強く、絶えず頭の中にあることで、却って気持ちが田舎に帰りたいという衝動に駆られることがないのだ。

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