第7話 第7章

「パスタのおいしいお店、知ってますよ」

 と言い出したのは、武雄だった。

「じゃあ、そこに行きましょう」

 と後押ししたのは、達郎だった。主導権は達郎が握っているように見えて、実は武雄の側にあるのではないかと思ったのは、理沙だった。恵美はそこまで考えることなく、この状況を楽しみながら見守っているようだった。少なくとも理沙にはそう見えたが、男性二人からは、恵美にはどうも人見知りするタイプだということしか、感じていなかったようだ。

――そういう意味では恵美は損をしているのではないか?

 グループの中には必ず一人はいるタイプの女性で、まるでまわりの引き立て役のようで、もし彼女の親友であれば、見ていてイライラするに違いない。ただ、初対面でありながら、恵美に対して、正面から見てはいけないのではないかと思わせるところがある恵美なので、ただの人見知りだけだとは理沙は思っていない。

 恵美はそんな理沙の視線を感じていた。だが、気持ちを抑えることができるようになっていた恵美は、理沙にも本当のところを悟らせない何かを持っていたのだ。

 男性二人、女性二人のグループは、武雄の話していた店に着いた。中はさすがにクリスマスイブ、お客さんでいっぱいだったが、武雄が従業員に一言声を掛けると、声を掛けられた従業員がこちらにやってきて、

「お待ちしておりました。どうぞこちらに」

 と言って、中に案内してくれた。

――どうぞこちらに?

 ということは、最初から予約されていたということなのだろう。声を掛けた時から予約して取れるものではない。ということは、ここまでは少なくとも武雄の計算通りだったということで、それはだいぶ前から計画されていたことだということになる。

「実は、達郎とは以前からのバイト仲間で、今日のクリスマス、一緒のバイトだと分かった時から、可愛い女の子がいたら声を掛けようと思っていたんですよ。去年のことを忘れてですね。お店まで予約していないと失礼でしょう?」

 武雄は、内情を暴露した。だが、ここまで見事に思い通りに決まれば、誰も文句を言うことはできないだろう。それを見越しての計算ずくだとすれば、なかなか頭がいいのではないだろうか。理沙は結論が出た時点から考えているから、事実を遡ればいいだけなので、発想することもたやすいことだが、最初から未来への発想で、どう転ぶか分からない中での予見は、そうたやすいことではない。そう思うと、武雄は頭が切れる男性ではないかと思った。

――それは、女性の扱いにも慣れているということかしら?

 発想や予見は、女性に対しての思いに対してであれば、今までにも同じようなことを繰り返していたのかも知れない。そうであれば、女性との付き合いも一度や二度ではないだろう。そうなると、女性への扱いが慣れているのかどうなのかということを次に考えるのは、女性として無理もないことだと思った。

 だが、もし女性の扱いに慣れているという発想が当たっているということになると、武雄は女性と付き合っても、長続きしないということを示しているように思えてならない。

 だが、武雄にはどうしても、プレイボーイとしてのイメージが湧いてこない。軽い男性だという意識が湧いてこないのだ。どちらかというと、体型を見ているからかも知れないが、武雄には重たいものを感じる。それは決して表に出せない何かを持っていて。封印した記憶として、誰にも知られたくないと思っている過去があるのではないかという思いである。

 武雄は理沙を意識しているように感じていた。理沙の思い上がりかも知れないが、思い上がりは理沙の中で今までの自分を作ってきた基礎になる性格のように思えていた。偽りの自分を表に出して、今まで付き合っていた男性に自分を嫌いにさせようとした小悪魔的なところもある。ただ、それもある程度の思い上がりがないとできないことではないかと、理沙は思うのだ。

 パスタのお店に入ってからの会話の主導権は、達郎に移っていた。それは理沙が見ていて、

――さりげなさ――

 急に主導権が変わった時、場の雰囲気は普通なら一変すると思っている理沙だったが、実際には場の雰囲気は変わりがなく、しいて言えば、

――一塵の風が吹き抜けた程度――

 だと言える程度であった。

 理沙は、武雄の視線に気が付いた。

 武雄の視線の先にあるもの、それは理沙の指先で、さっき自分へのご褒美にと思って買ってきたばかりのルビーの指輪であった。

――ルビーがそんなに珍しいのかしら?

 彼の視線でルビーがさらに輝きを増したようだ。

――恥かしいわ――

 彼の視線に、まるで自分の気持ちの裏まで見透かされている気がした。それは、一枚一枚衣類を剥ぎ取られていく気分に似ていた。

 顔が真っ赤になっていくのを感じる。武雄は、理沙の顔を見ようとしない、ルビーにばかり意識が集中していたが、却って、その方が恥かしかった。それはまるで目隠しをされた状態で、裸の自分を曝け出しているかのようだった。

 曝け出した裸体は衆人に晒され、

――これほど恥かしいことはない――

 という思いを抱かせることで、羞恥を快感として記憶に残すことが多かった理沙は、自分の性癖に悩むこともあったが、最近は、

――これが私なのだ――

 と思うようにもなっていた。

 武雄に見つめられながら、自分の中の性癖が目を覚ましてきた。普段は人に気付かれないようにと、眠らせているのだが、それも意識しなくてもできるようになってきた。この思いを与えてくれたのは、さっきまで彼氏だと呼んでいた男、冴えない男であったが勘の鋭い男性、彼の中にも理沙の中で潜在していたアブノーマルな性癖が潜んでいたのだ。

 彼もアブノーマルな性癖を隠していたかったようだ。だが、理沙の本性を見抜くことで、さらにその奥にある性癖に気が付いたのか、理沙に対しての復讐心からなのか、理沙の羞恥を高めることに徹していた。

 そんな彼に憎しみを感じながら、そんな素振りを見せなかったのは、見せたくないという思いもあったが、それよりも、性癖を見抜かれたことへの恥かしさで、見抜かれたことを悟られないようにしたかったからだ。そのためには彼に対して少しでも心を閉ざさなければいけなかった。もうそうなってくると、普通の恋人同士というわけにはいかない。性癖で繋がっているだけの仲でしかないことは分かっていたが、彼に対して

――偽りの自分――

 がどういう自分であるかが分からなかったが、大人っぽくて優しい自分を表現することしか思い浮かばなかった。

 理沙は、彼の前では子供のような幼さと甘えで接してきたが、決して優しくはなかった。優しさが相手を思いやることであるとすれば、理沙には元々持ち合わせていない。それは育った環境にあると理沙は思っている。

 親の勝手な理屈。皆の意見より親の意見、そして、それがいかに場の雰囲気を変えようとも、現場のことを考えようとしない考えに嫌気が差していたことでの反発心から湧き上がってきたものに違いなかった。

 今日の大人っぽい格好。それが決して似合っていないとは思っていない。ただ、目立とうとしても自分にできることではなく、さらに目立とうとして中心に立つと、結局親の一声で、まわりを裏切ることになってしまうことが分かっているだけに、どうしても前に出ることができない。引っ込み思案であるが、そんな理沙も今日だけは大人っぽいおしゃれな服装をすることで、

――ここまで主導権が握れるような性格になれるのか――

 と思えたことが、自分でも不思議だった。

 パスタのお店に入ってどれほどの時間が経ったというのか、四人の中での会話の主導権は、完全に達郎が握っていた。

 達郎の話を恵美は一生懸命に聞いている。時々相槌を打っているが、どうやらタイミング的には絶妙だったようで、さらに達郎は喜々としてまくしたてるように話している。

 理沙は会話に入ることができない。

 というよりも、入ろうという気がしなかった。

 武雄の視線を浴びるだけで精一杯だった。武雄は理沙に何も言おうとしないが、ルビーを気にし始めたことで、何か言おうとしている気がしていたのだが、声を発しないのは、理沙には好都合だった。今声を掛けられても、何と答えていいのか、きっと分からないだろう。そう思うと、理沙には、普段であれば、逃げ出したいくらいのこの場の雰囲気のはずなのに、むしろ楽しんでいるように思える自分が不思議なくらいだった。

 理沙が、自分のことを意識していることは武雄も分かっていたのだが、それは、自分がルビーを見た瞬間からだと思っていた。

 武雄は理沙が思っているよりも、引っ込み思案なところがあり、遠慮深いタイプの男性であった。それは、容姿から来るものであるが、まさか理沙が以前同じように容姿の冴えない男性と付き合っているとは思っていなかった。

 理沙を見た時、清楚な雰囲気を感じたが、それ以上に明るさに眩しさを感じた。今まで武雄が知っている女性に、理沙のようなタイプの女性はいなかった。清楚な雰囲気を醸し出している女性は、ここまで眩しさを感じるほどの明るさはなかった。また、明るさを醸し出している女性に、清楚さはどうしても控えめに見える。

――共存している女性というのはいないのだ――

 と、武雄は思っていたのだ。

 武雄は、高校時代に女性と付き合っていたが、付き合っていた女性は、平凡な女性で、目立つところはどこにもなかった。どこか一つでも突出しているところのある女性を自分が好きになるということはないと思っていたからである。

 そこが武雄の謙虚さの表れであった。謙虚さとは、自分の中に潜在する意識を押し殺して、他の人から見れば分かるのに、自分では表に出していないことをいうのではないだろうか。

 理沙は少なくともそう思っていた。

 謙虚さというのは、紙一重で思い上がりにも繋がる。

――長所と短所は紙一重――

 というが、まさにその通りだ。謙虚さも行き過ぎれば思い上がりに繋がることになる。

 武雄は表に出せない性格だと思っていたことを、理沙は謙虚さだと思っている。

 武雄が高校時代に付き合っていた女性が武雄を好きだった理由もそこにあった。

 武雄は彼女と入学から三年生になる前までの二年間ほど付き合っていたが、最後は彼女の方が嫌気を差したのだ。

 それは、理沙が付き合っていた男性と別れるきっかけになったのと似ている。

 彼女は、武雄が自分を好きなのが、

――他に競合しないことで無難な相手を選んだのではないか?

 という思いに駆られたからだ。

 長く付き合っていると、時々そんな気持ちになることもあるのかも知れない。人間はいつも同じような感情でいられるわけではない。表に対しても自分に対しても許せないことがあったり、憤りを感じることもある。そんな時に自分の中で押し殺していた感情であったり、意識していなかった潜在意識が自分の意志とは裏腹に表に出てきてしまうこともあるだろう。

 特にそんな時というのは、えてして露骨なものである。露骨に付き合っていた相手が豹変したのだと思えば、相手が一歩下がって見るのも当たり前、我に返って見ると、今まで見えていなかった相手の悪いところが目立ってくる。見えていなかったわけではなく、

――見ようとしなかったのではないか――

 と思うようになると、後は相手に対しての疑念は大きくなる一方で、修復などできないところまでくるものだ。

 武雄はそのことにすぐには気付かなかった。

 相手の女性が自分を嫌いになっていることが分かった時には、修復できないところまで来ていたというのが、武雄の気持ちだった。

――そんなバカな――

 それはまるで自分にだけ訪れた悲惨な結末であり、他の男性には自分のようなドジな真似をする人はいないだろうとさえ思っていた。

 それは武雄の性格であり、

――俺のまわりの人たちは、皆俺より優秀なんだ――

 と思う時があるのだ。

 そのくせ、普段は自分をあまり卑下して考えることはない。まわりには謙虚であるが、卑下することはない。それだけ気が強いのだろうと自分では思っていた。しかし、ドジを踏んだと思っている気持ちがまわりに対して強く出ることのできない自分を形成した。それが謙虚さに繋がるのだ。

 そういう意味では武雄の性格は複雑である。それがあまり表に性格を表さない雰囲気を作り出し、分かる人にしか分からないようなイメージを与える。逆に、

「お前と付き合う女性が現れたら、さぞやその人は、素晴らしい人なんだろうと思うよ」

 と言われたことがあったが、武雄自身も

――その通りだ――

 と思うのだった。

 理沙の指に光っているルビーの明るさを見た時、思い出した女性がいた。

 武雄の片想いであったが、大学時代、講義の時によく隣に座る女の子で、指にはルビーの指輪が輝いていた。

 彼女は綺麗なタイプではなかった。体型も少しポッチャリしていて、ただ、明るさだけは感じられた。賑やかな、目立ちたがり屋な雰囲気ではないのに、ただそこにいるだけで雰囲気が和むイメージを持った女性であった。

――自分が探していたのは、こんな女性だったのかも知れない――

 と思った武雄だったが、声を掛けることができない。いつも彼女の方から話しかけてもらって、それに答えるだけだった。

――何で、声を掛けることができないんだ?

 その思いはずっと続いていた。彼女が自分の隣にいつも座るのは、自分に気があるからだという思いはあるのだが、もし違っていたら恥を掻くことになるのが、恐ろしかったのだ。

 声を掛けなければ何も始まらないのに、恥を掻く方が怖いと思う発想、それは自分が引っ込み思案だからなのだと思っていた。だが、実際は相手がその人だったからだということに気が付いたのは、彼女が自分の隣の席に座らなくなってからのことだったのは、実に皮肉なことだった。

 武雄が謙虚に見えるようになったのは、片想いで終わった彼女と別れてからのことだった。女性にモテることはなかったが、男性友達の間では、重宝にされた。中には、武雄を利用しようとする人もいた。むしろそっちの方が多かったのかも知れない。合コンの時など武雄がいるだけで、自分が自由に動けると思っている輩も少なくなく、結構合コンの誘いを受けていた。

 まわりがそんなことを思っていることは、武雄には百も承知だった。モテるわけではない武雄が合コンに誘われるのは、「引き立て役」、あるいは謙虚な男性が一人いるだけで、他の人の露骨な思いを和らげる作用があることくらい、皆分かっているからである。要するに、

――解毒――

 のイメージで武雄が必要なのだ。

「刺身のツマ」にさせられても、今の武雄にはそれでよかった。

 最近の武雄は少し考えが変わってきた。

――近い将来、本当に自分を好きになってくれる女性が現れる――

 という気持ちが強くなったからだ。

 妄想なのかも知れないが、妄想であっても、「刺身のツマ」であっても、強くなってきた感情であることには間違いない。最初はなぜそんな気持ちになったのか分からなかったが、自分の気持ちが躁状態になっていることに気が付いて、躁鬱症の気があることを少なからず自覚してきた。

――そういえば、何をやってもうまくいかないことがあった。あの時は、何もしてはいけないと思っていたが、あれが鬱だったのかも知れない――

 朝起きた時、

――何かおかしい――

 と感じた。すぐには分からなかったが、大学に行く途中の交差点で、何がおかしいか気が付いたのだ。目の前の信号機のシグナルの色が、やたらと擦れて見えたからだ。

――霧が掛かっているように見える――

 その日はいつになく雲一つない快晴で、これでもかというほどの陽の光が、容赦なく照り付けていた。そのせいで目が慣れるまでおかしく見えるのだろうと思っていたが、実は違ったのだ。

――黄色掛かって見える――

 シグナルを一度見てしまうと目が離せなくなった。赤から青に変わるまで、こんなに時間が掛かるなど今までにはなかったほどで、自分でもビックリした。

 シグナルが青に変わっても、すぐには渡ることができず、金縛りに掛かったようになった瞬間、黄色い色を感じたのだ。その瞬間、指先に痺れを感じ、前に踏み出すことができなくなってしまった。踏み出したつもりで前に進んでいないことへの憤りに、額から流れる汗と、血の気が引いていくような得体の知れない恐怖心は、後から思い出すこともできないほどのものであった。

――意識の封印――

 医学が勉強しているが、専門的な心理学までは探求していない武雄にとって、言い知れぬ不安が募り、普段から小さな不安をずっと抱いていることにも気が付くことになったのだ。

 ただ黄色が心理学的に特殊な色だという意識はあり、自分が何かの病気ではないかと思ったが、それが躁鬱だと思うに至るにはもう少し時間が掛かった。そんな時ルビーの赤い色を思い出した。そのおかげで鬱状態を脱したのだが、その時からが逆に躁状態の表れであったのも事実である。

――鬱状態を抜ける時には、予感がある――

 それがルビーの赤い色を思い出すということであり、キーポイントを抜けると、トンネルを脱したその先に待っているのが、躁状態だったのだ。

――普通の状態というのが分からなくなってきた――

 いつの頃か、そう思うようになった。ただ、武雄にとってルビーの赤は、自分にとって分岐点の始まりなのは間違いないことのようだった。

 武雄には、鬱状態を隠して暮らしていけるほどの強かさはない。躁状態は元々隠す必要はないので、武雄を知っている人は、躁鬱症であることを知っている。

 武雄が躁鬱症であることは、最初から理沙には分かっていたような気がした。理沙にとって武雄は、比較的分かりやすい性格に思えた。それは前の彼に似たところが、ほんの少しだが、あるからだった。それがどこなのか、すぐにはピンと来なかったが、理沙にとって前の彼と同じように見えるところでも、微妙に違って感じられるところが、新鮮な気がした。

 きっと他の人から見れば、武雄は前の彼とまったく違った性格に見えるだろう。だが、やはり好きになるのは同じような人なのだ。だからこそ、微妙な違いも大きな違いに見えてきて、そこが新鮮なのだ。人によって見方が違うのは当たり前だが、理沙にとって違って見えるところが大きければ大きいほど、相手のことが気になっている証拠であった。

 理沙は、武雄に感じているものが「癒し」であることを、自分なりに感じているようだったのだ……。

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