ふたりだけの特別授業
タイロク
第1話
昼休みが終わると、私は校舎を出て、体育館とは反対側にむかって行く。
校舎から離れると、校内の音は聞こえなくなって、代わりにべつの音が聞こえてきた。
やっぱり、今日もいるみたい。
やがて、ちいさな二階建ての建物が見えてきた。
スライド式の扉を開けて中に入ると、そこには体育で使うような用具から、美術の授業で使うようなディーゼルなんかが置かれている。
ここは、使われなくなった道具を入れておく倉庫だ。だから、べつにここに用があって来たわけじゃない。用があるのは、ここの二階。
用具の間を縫うみたいにして奥まで進むと、二階に続く梯子があった。それを登ると、だんだん大きくなっていた音はさらに大きさを増す。
同時に、私は開けた空間に出た。
その空間に中心に、一人の少女がいた。
ピアノの鍵盤に、細くてきれいな指を走らせている一人の少女。
音楽の知識に疎い私に分かるのは、クラシックの曲ってことくらい。
あと分かるのは、この音がとても安心できて、やさしいものだということだけ。
曲が終わった。いま気づいたのか、それとも元々気づいていたのか、演奏が終わると彼女は私を見てきた。
窓から迷い込んだやわらかな風が、彼女の長い黒髪をふわりと広がらせる。金髪に染めた私とは、印象はまったく違う。
透き通るような白い肌に、繊細さすら感じさせるきれいな顔立ちは、現実感を希薄にさせる不思議な力があった。
髪を軽く押さえながら、彼女……
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
なんとなく、律義に答えて私は部屋に入る。
「来たってことは、五時間目体育なの?」
「まあね」
軽く答えて、私は窓際に置かれたソファーに座る。
「たまには食後の運動したらいいのに」
「ムリ。だるい。やりたくない」
「サボり魔」
ソファーに寄りかかって足をブラブラさせていると、そんなことを言われた。気のせいか、ちょっとからかうみたいな言い方だ。
「うるさいなー。自分はどうなの? 全然授業出てないくせに」
「私はサボってるんじゃなくて免除されてるの。一緒にしないで」
「免除って……なんで?」
「優秀すぎるから」
「適当ばっかり。てかウソでしょ」
東雲はなにも言わず、またピアノを弾き始めた。
私、
五月の初め。体育の授業に出るのがイヤで、いいサボり場所はないかなとフラフラさ迷っていると、春風に乗ってキレイな音が聞こえてきた。
吸い寄せられるみたいにして音のする方へ歩いていくと、そこでは東雲がピアノを弾いていた。
長い黒髪に、ぱっちりとした二重の瞼。まるで人形みたいにきれいな女の子が、鍵盤にすべらかに指をはしらせている。
とても幻想的で、私は夢でも見ているんじゃないかと思った。
最初、東雲は私には気づいていないみたいだったから、すぐに出て行こうとしたんだけど……
なぜだか、私は動くことができなくなった。梯子に乗ったままっていう、ちょっと危ない状況なことも忘れて、私はその音に聞き入っていた。
そうこうしているうちに曲は終わって、私がボーっとしてしまっていると、東雲に「そこでなにをしているの?」と声をかけられた。どうも彼女は、私の存在には気づいていたらしい。
どう答えていいものか分からずにあうあうした挙句、私の口から出てきた言葉は、
「うまいね。さっきの……もーつぁると? でしょ?」
という言葉。
すると、東雲は一瞬、キョトンとした顔をして、つぎの瞬間にはクスクス笑い出した。
お腹を抱えて、最後には涙まで流して、本当におかしいというように。
なにがなんだかで混乱していると、彼女は指で涙を拭いつつ「そうだよ。ありがとう」と答えてきて……
その日は、すこし話をして、すぐにここを出てしまった。けど、つぎに体育があった日。どうしても気になって、私はまたここに来た。
すると、東雲はここにいて、またピアノを弾いていて。
私に気づいても、東雲はなにも言わなかった。ただ黙ってピアノを弾いていた。だから私は、黙ってそれを聞いて……
以来、私はここで体育をサボるのが日課になった。
「ねえ」
「なに?」
東雲はピアノを弾いたまま答えてくる。
「なんか食べるものない?」
「戸棚」
「ん」
ソファーからのろのろ立ち上がる。戸棚の中には、たしかにお菓子がいくつかあった。缶詰に入ったクッキーとか、コンビニで売っているようなお菓子だ。
ちょっと迷って、チョコ菓子を手に取ってソファーに戻る。ローファーを脱いで、ソファーの上に長くなる。このソファー。結構ふかふかで寝心地がいい。
チョコをつまみながらスマホをいじっていると、
「ねえ」
今度は東雲が話しかけてきた。
「んー?」
スマホをいじりながら答えて、
「太らないの?」
「は?」
その指が止まった。
「だって、お昼食べて、運動しないで寝ながらお菓子って……太らないの?」
「…………私、太りにくい体質だから」
「じゃあ、なんでお菓子しまってるの?」
「お腹いっぱいになったから……ねえ、いまさらなんだけど」
お菓子を戸棚にしまいつつ、私はちょっと早口で言う。
「ここ、こんなふうに占拠しちゃって大丈夫なの?」
ここには、ピアノやソファーだけじゃなくて、お茶を楽しむための机とイス、戸棚や流しもある。
「うん。自由に使っていいって言われてるから」
「え、ホントに? なんで?」
「優秀だから」
またそれか。……まあ、いっか。要するに、答えるつもりがないってことだろう。それならそれでいい。
私はまたソファーに身を投げ出して、でも今度はスマホはいじらずに目を瞑る。
耳に届いてくるのは、きれいで、やさしい旋律。
その波にさらわれるみたいにして、私の意識は、ゆっくりと――
「――っ!?」
突然目が覚めた。というよりも、起こされたって感じだ。チャイムの音に。
スマホで時間を確認すると、ちょうど五時間目が終わったらしい。あくびをして、軽く体を伸ばす。
「ねえ、東雲。私そろそろ……」
声をかけようとして、気づく。部屋にいるのは、私一人だった。いつの間にかピアノの音は聞こえなくなっていて、だからチャイムが鳴り止むと、部屋のなかは無音になった。
いないなんて珍しい。どこ行ったんだろ? まさか、授業を受けに行ったなんてことはないと思うけど。
ソファーから身を起こそうとして、また気づいた。自分の体に、毛布が掛けられているのに。
いつの間に……
ていうか、なんかここが静かなのって、ちょっと変な感じ。いつもピアノの音が聞こえてるのに。ホント、どこ行ったんだろ?
っと、いけない。はやく行かなきゃ、つぎの授業に遅れちゃう。
私は毛布をきれいに畳んで、ソファーの上に置いて、それから梯子を下りて倉庫を後にした。
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