月下の蛇とカエル



「旦那様、奥様、お帰りなさいませ。ご無事のお戻り、何よりにございます」


 エーデルブラートのタウンハウスでは、執事のリニをはじめ、メイドのミンケ、従僕兼調理人のノエルがそろって待ってくれていた。

 

 夜遅くにも関わらず、起きていてくれたことに驚くと

「なにかあるかもしれないと、旦那様が脅すので致し方なく」

 リニが微笑みつつ、皮肉を言い

「はは。備えは必要だろう? 何事もないのが一番だけどな」

 ユリシーズが苦笑した。


 王都郊外の小さな屋敷は、ユリシーズが幼少時に住んでいた家なのだそうだ。

 大きく取られた二階のバルコニーはサンルームになっていて、大人二人ぐらい優に寝そべることができるカウチソファが置いてある。

 

 湯浴みを終えて、すぐに寝るのも躊躇ためらって、そうだあそこに行ってみようと思い立った。

 ソファの背もたれに背を預けてぼうっとしていたら、リニがホットミルク、ミンケがブランケット、ノエルが干し肉とチーズの乗った小皿をそれぞれ持ってきてくれる。

 

「「「ごゆっくり」」」

「へ? ありがと……?」

 

 やたら気が利くな? と驚きつつも、ありがたくコクリと温かいミルクを飲む。

 サンルームには昼間のぬくもりがまだ残っていて、居心地が良い。

 晴れた夜空にはたくさんの星々がまたたいていて、ただただ、その美しさに惹きこまれた。


 

 

「寒くないか?」


 どれだけの時間、ぼうっとしていたのだろう。

 背後から、低く落ち着いたユリシーズの声がして、我に返った。


「……はい」


 ブランケットにくるまって、ソファの上で膝を抱えていた私は、振り向かずに言う。


「そうか。隣、いいか?」

「どうぞ」


 彼が手に持っていたのは、グラスに入ったホットワイン。ふうわりと立ち上る湯気から、芳醇ほうじゅんなブドウとアルコールの香りがする。

 カン、とそれをローテーブルに置いてから、左隣にどかりと座ったユリシーズ。その体積と体温を身近に感じて、たちまち心臓が跳ねる。

 

「はー。気疲れしたな」

 足を組みながら、彼はホットワインを楽しんでいる。

「ふふふ。ほんと」

 

 

 このドキドキが、悟られませんように……


 

 ユリシーズも湯浴みをしてきたようだ。

 ナイトガウン越しに、微かに石けんの香りがする。


 

 隣にいるだけで、ドキドキする。嬉しい。……苦しい。


 

 きゅーんと絞まる喉にあらがいたくて、私は何度も何度も唾を飲み込む。


「セラ? どうした」

「んーん。なんでもないよ」


 あえて、軽く答える。


「なんでもなくは、ないだろう。何があった」

「何も、ないよ?」


 月を見上げたまま、口角を上げる。


「セラ……そんなに辛そうな横顔で、そんなことを言うな」

「っ」

「なんでも言え。言っただろう? 俺様は」

「大魔法使い、ユリシーズ様」

「わかってるなら、……!?」


 私の左目から、涙が一筋ツーッと静かに流れ落ちるのを見て、大魔法使いは息を呑んだ。

 

「わかっています。これ以上、望んではいけないって」


 月明かりだけが、ふたりを隔てているのに、

 

「どういう意味だ? 望みたいだけ望めばいい」


 ユリシーズは軽々とそれを乗り越えて、こちらに体ごと向けて強い言葉で言うから――私の思いが、せきを切って溢れてしまった。


「これ以上! 望んではいけないんですっ! ……貴方様を! だってこれはっ、白いけっこ……」


 言い終わる前に、抱きしめられた。

 

 強く、強く。

 熱く、厚く、ゆるぎないユリシーズに。

 そして――


「望みたいだけ望め。許す」

「え」

「俺も、望む。お前が欲しい」

「り……す……?」

「信じられないか? あれだけ『ちゅー』をしたのに」

「はえ!?」


 腕をゆるめ身体を離したユリシーズが、至近距離でおかしそうにクククと笑っている。


「前世では、キスをそう呼ぶのだろう?」

「な、なななな」


 

 ちょちょちょ、なに!? わた、わたし、なにやっちゃったの!!


 

「ちゅー、した……?」

「した。が、覚えてないんだろ。相当酔ってたからな」

「ううううそおおおおおお」

 


 酔っぱらってキスするとか! 穴があったら入りたいとは、このことだ!


 

「だからまあ、あれはなかったことにしないか」

「えっ」


 顔を上げると、エメラルドが眼前できらめいている。


「セラ……」


 それから、熱い息が鼻先にかかったので、自然と目を閉じた。

 柔らかな唇が、――優しく私の唇に触れて、すぐに離れる。


「リス……」

「ん?」

「大好き」

 

 ちゅ、と返事代わりにキスが降ってきた。


「ずっと、一緒にいたいの」


 

 今度はまぶたに、ちゅっと降ってきた。

 後頭部からうなじを撫でられ、くすぐったいけど気持ちがいい。指先で、私の鱗の感触を楽しんでいるようだ。


 

「ああ。ずっと一緒だ」

「うううほんとぉ?」

「本当だ。よかった、心変わりしていなくて」

「ずび。え?」

「ディーデが、お前を嫁に欲しいって言い出しててな」

 


 ディーデが、私を、よめ……嫁……嫁ぇ!?



「はあ!?!? 絶対、嫌! 断固拒否!!」

「ぶっはははは! そらよかった」

「えっ……あ! だからあの時、匂いで分かるって……あーいーつーめーーーーーー!!」

「ああ。ほんと困った奴だ。油断も隙もない。だから」

「キャッ!」


 一瞬で膝の上に抱っこされました、私。

 慌てて首にしがみついたけど、びくともしない。やっぱり筋肉すご!


「今すぐ、匂いでも分からせてやりたいんだが」

「ふふ。『白い』契約を破棄しないと、ね?」

「はー。カールソンだからな」

「あとが怖いです」

「おいセラ。言っておくがこの俺様が二回もお預けなんだぞ? ったく信じられねえ。覚えとけよ」

「ひー!」

「ぶは、なんだその声」

「んふふ。ちゅー」


 遠慮なく、ユリシーズの唇に吸い付いたら

「こら、あおんなって」

 と苦笑されて、落ち込んだ。


「じゃあ、もうしない?」

「……する。くっそ、今すぐ食いてぇのによ」

「ゲコゲコ」

「! ぶふふっ」

 


 わたくし、カエルちゃん。どうやら後ほど蛇侯爵様に、美味しくいただかれてしまうようです。

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