ノーネーム・グリムリーパー

緋星

ノーネーム・グリムリーパー

「ねえ、あなたは何をしているの」

 私は彼に尋ねた。

 彼は答えない。

 初めて会った時からそうだ。彼は私の質問に答えてくれたことはない。だから、私は彼の名前も知らない。

 唯一知っているのは、私が出歩いているといつの間にかやって来るということ。時間も場所も関係ないのが不思議だとは思うけれど。それだけだ。

「君は、何をしているの」

 質問を質問で返すのもいつものことだ。

「散歩」

 私は彼の質問に答える。そうしないと会話が成り立たないから。

「もう夜更けだよ」

「知ってる」

 こんな時間になって出かけても、たぶん両親は心配しない。

 最近、両親は私を無視するようになった。挨拶をしても、話しかけても返事をしてくれない。食事も自分たちの分は用意するのに、私の分は作ってくれない。しかも誰もいない方に向かって喋っている。意味がわからない。きっと変な宗教にでも入信してしまったのだ。

 学校でも同じ。皆が私を無視する。クラスメイトだけでなない、先生だって私が教室に入る前に授業を始める。いつの間にか席すら片づけられてしまった。

 ――なーんだ、私はいてもいなくてもいいんじゃない。

 それに気づいてからは、学校に行かなくなった。適当な時間に家を出て、適当に遊び歩いて、適当な時間になったら帰る。それの繰り返し。

 それでも小言のひとつも言いやしない両親は、何て薄情な人間なのだろうか。

 今日も日付が変わる瞬間に家を飛び出した。目的もなくふらふら歩いて、近所の川辺の遊歩道を歩いていたら、彼が現れたのだ。

「ねえ、一緒に行く?」

 そう訊くと、彼はうん、と頷いた。

 遊歩道を並んで歩いて、すぐ近くの公園のベンチで休憩。それから自動販売機でジュースを買おうとして、財布を持ってくるのを忘れたことに気がついた。

「君は何が好き? 私はコーラが好き」

「特には……ないかも」

「そうなんだ、ジュースとかあんまり飲まない?」

「そうだね」

 思いもかけず彼のパーソナルな情報を知った。少しだけ距離が縮まったような気がして、ちょっと嬉しい。

 公園から出て、そのまま大通りに向かう歩道を歩く。ここは通学路として毎日使っていた道だ。

「この道を通るのも久し振りだなあ」

「どうして」

「学校に行かなくなったから」

「いつから」

「うーん……半年くらい?」

 いつからだったか、正確には覚えていない。学校に行くのが億劫になってしまって、「行きたくないなあ」と思ってしまってからなのだ。

 そう言えば、両親に不登校の宣言をした時も、何の反応もなかった。

「まったく、ああいうのを冷徹な人間、っていうんだろうね」

「どうしてそう思うの」

「私のことに感心ないんだよ。ずっと大学に行きたいって言っているのに、どこの学部だとか、どういうことをやりたいのか、とかも訊いてくれないんだ」

 前々から大学進学については考えていて、自分なりにある程度調べてある。後は進路相談とか三者面談とか、ちょっと面倒だけれども大人たちを説得させるかというところまで来ていたのに、実際はこのありさまだ。

「私、心理学の勉強をしたいんだ。それで将来はスクールカウンセラーになりたい。そのためには勉強が大事だってわかっているんだよ。まあ、今の自分がやっていることも、将来に繋がっていると思いたいんだけどね」

「……そうなんだね」

 会話が続かない。彼は私の話に相槌を打ってくれるけれど、それ以上のことは自分から話してくれない。

 これはもう、こちらから何かしらのアクションをするしかない。

「ねえねえ、あなたはいつも私に付き合ってくれるの? かなりお人好しだと思うけど」

「そうでもないよ」

「えー? 今だって深夜の散歩なのに付き合ってくれているじゃない」

 もうすぐ日付が変わる。そんな時間になるのに、今この場にいてくれる。彼の家族だって心配するだろう。

 彼は少し考えるように口元に手を当てて、意を決したのか少し真剣な目で私を見た。

「……ちょっと、行きたい場所があるんだけど、いい?」

 意外にも、ちゃんと目的地があるようだ。今まで彼が私に付き合ってくれていたのだから、私が彼に付き合わない理由はない。

「いいよ」

「ありがとう」

 私たちは通学路をゆっくり歩いていく。周囲の音も気にならないくらい、静かな夜だ。

「君が学校に行かなくなってから、ニュースって見た?」

「ううん。そう言えばテレビもネットも見てないな」

「……今から半年前、ある交通事故が起きたんだ」

 時間は午後6時。男性が運転する普通自動車が交差点に猛スピードで侵入し、左側から直進してきた別の車両と衝突。さらに自動車は衝突の勢いで斜め右前の歩道へ突っ込んだ。事故の根本的な原因は男性の信号無視。その後男性は飲酒運転だったと判明した。

「うっわ、最悪じゃない。でもそんな事故あったら知っていると思うけどなあ、全然知らないよ」

「報道は大々的にされたよ。だって」

 彼が立ち止まる。そこは大通りの交差点で、よく信号待ちを食らってしまう場所。

 片隅には、――花が生けられたビン。


「信号待ちをしていた女子高生が、巻き込まれて死んだから」


 音が、聞こえない。

「名前は佐久間千絵。彼女はこの交差点を通り高校に通学していた。冬には大学受験を控えていて、ご両親は『本人から詳しいことはまだ聞いていないが、夢があるだろうから応援したかった。娘を返してほしい』と訴えていた」

 知らない。そんなこと、私は知らない。聞いていない。どうして。

「このまま留まっていても、君は誰にも気づいてもらえないんだよ。佐久間千絵さん」

 どろり、と頭から何か流れて、それを拭うと血だった。お腹の辺りからも流血があって、全身傷だらけになって、手足も変な方向に曲がる感覚があった。でも痛くない。

 きっと即死――痛いと感じる時間すら、なかったのか。

 ぼろぼろと涙が零れる。起きてしまったことを直視させられて、もう自分に未来などないと突き付けられて、痛いはずの身体は全然痛みを感じなくて。ただ、どす黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。

 腹立たしい。悔しい。恨めしい。憎い。

 やりたいことがある。やり残したこともある。生きていたかったのに、こんなところで諦めなければいけないのか。私はただ巻き込まれただけで、悪いのは全部事故を起こした犯人だ。それなのに、私は全部奪われた。

 憎い、憎い、憎イ。犯人が憎イ。生きてイル人間ガ憎イ。全部全部、私ト同ジニナレバイイ――!!

「心中穏やかではないと思うけど、このまま悔恨と憎悪の感情に塗れてしまったら、“君が事故を起こしてしまう”可能性もあるんだ。落ち着いてほしい」

「ドウシテ!? 私ハ悪クナイ! 事故ナンテ起キテシマエバイイ! 皆私ミタイニナッテシマエバ」

「ご両親を、君が殺すのかい」

 言葉が、詰まった。

「この道は近隣の街を繋ぐ大動脈だ。使う機会もあるだろう。君がその気持ちに呑まれて怨霊になってしまったら、この道を通ったご両親が事故に遭ってしまうかもしれない」

 彼は淡々と告げる。

「それだけじゃない。君と仲良くしてくれた人、優しくしてくれた人、君と関係のない生まれたばかりの赤ん坊も、皆が巻き添えになってしまう」

 それでもいいのか、と彼は念を押す。

 彼の言葉は全く正しかった。よくある話だ。怒りや憎しみは何も生まない。

 けれど、それでも。

「私ダッテ、ヤリタイコトが、あったんだよ……」

 黒い感情が治まっていく。その代わり、ただただ悲しい気持ちになった。

 彼は何も言わない。さっきまで手ぶらだったのに、いつの間にか左手にカンテラを持っていた。

「君のご両親は、毎日君の写真と位牌に向かって話しかけているよ。挨拶と今日あったこと、君が喜びそうな話が多いみたいだ」

「……お父さんとお母さんは」

 無視なんてしていなかった。冷徹な人間じゃなかった。ずっと話してくれていたのに、私は気づいていなかった。

 誤解したまま“時間切れ”にならなくて、よかった。

 彼がカンテラを掲げると、交差点だった場所に水が流れ始めた。目の前には誰かが乗った小舟が停まっている。

「……これからどこへ行くの?」

「君は川を渡って彼岸へ行くんだ」

「お父さんとお母さんに、また会えるかな」

「お盆にはこちらに戻って来られるよ」

「そっか」

 私の散歩はここでおしまい。

 最後に、ひとつ訊いておきたいことがあった。

「あなた、名前は何て言うの?」

「……内緒」

 結局、彼の名前を知らないまま、私は小舟に乗った。

 舟はゆらゆら揺れて、私の意識はそこで途切れた――。


* * *


 小舟の姿が小さくなった頃、彼はカンテラを下した。すると眼前を流れていた水を見る見るうちに引いていき、そこには表面の乾いた交差点があった。

 あれは彼岸と此岸の境を流れる川だ。実際に道路に水が流れていたわけではく、肉体がない者だけが渡ることができる。これから佐久間千絵はこの川を渡って此岸へ辿り着くだろう。

 ひとり残った彼の姿がゆらゆらと揺れて、輪郭が夜に解けていく。

 彼――否、“ソレ”は人間ではない。性別も形すらも持たないあやふやな存在で、相手によって見えている姿は異なる。今回の姿は彼女が“ほぼ同年代の男子”として認識したため形作られた姿だったが、その彼女がいなくなった以上維持することはできない。

 そして、“ソレ”に名前はない。彼女に名乗らなかったのは、内緒でも何でもない。無名だったからだ。誰かが名前を与えてくれるならばいいが、その相手とはすぐに別れることになるため、すぐに呼ばれなくなる。

 “ソレ”の役目は、此岸に留まり続ける霊を彼岸に送り届けることだ。故に生者からは見ることも触ることもできず、死んだことに気づいていない霊だけが“ソレ”に会うことができる。

 消えゆく足元を見ると、花が生けられた瓶があった。これは彼女の冥福を祈った友人が供えたものだ。半年経っても花が絶えないのは、その死を悼む誰かが供えているのだと思う。

(……誰にも気づいてもらえないのは、こちらの方だ)

 誰かが覚えてくれる限り、生きていた証は残るのだろう。例え目には見えず、触れることはできなくても、霊には帰る場所がある。

 しかし、“ソレ”にはそのような場所はない。目の前を通り過ぎる生者と存在する世界が異なる。そして誰かと出会ったとしてもそれは彼岸へ導くべき霊であり、見送る立場の“ソレ”を迎え入れる誰かはいない。

(まあ、自分は“死神”だから、気づかれない方がいいのかもしれない)

 誰だっただろうか。“ソレ”を死神と言った霊がいた。

 死を司る者。死そのもの。死んだことを自覚させて、今まで生きていた世界から追い出す、怖い存在。

 その時の“ソレ”はその言葉に納得した。間違いない、自分はそういう存在なのだろうと改めて己を定義した。例え役目に忠実であったとしても、相手にとってこちらが悪役のような、糾弾されてしまうような存在だということを学習した。

 だから今回の彼女はとても好意的に思えた。もう死んでしまったのが惜しいと思える程度には、“ソレ”は彼女に同情していた。

 せめて、彼女の最期の願いを叶えられたならよかったのに――。

 名無しの死神は独り、夜の闇に解けて消えた。

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ノーネーム・グリムリーパー 緋星 @akeboshi_sora

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