#4
窓辺のアイビーに水をやる。その横に伏せられた写真立てを視界に入れないようにして、アイビーにおはようと挨拶をした。
先日柚木くんと行ったプラネタリウムはとても楽しかった。人と行くのはいつぶりだろう。柚木くんも楽しんでくれたようでよかった。俺の好きなものを好きだと言ってくれる柚木くんの顔を思い出すだけで、少しだけ心が温かくなった。
柚木くんにも言った通り、ゲームや課題に詰まった時にもプラネタリウムには行くけれど、本当はなんとなく寂しいなと思って行くことのほうが多かった。自分にとって孤独とは、幾千にも光る星を時には嫉妬し、時には羨望し、時にはそれを愛するようなものだ。一人でいることはよくないことかもしれないし、寂しくて苦しくなることもあるけど、夜空に散りばめられた星の光を見ればそれだけで心が慰められた。たとえそれが、つくりものだったとしても。
(・・・・・・銀河鉄道の夜、か)
星空を見て、あの作品を思い出すのは当然のことだろう。俺もあの作品は好きだけれど、でも。
「あの本が悪いわけじゃないけどね、」
水をさしたアイビーにそう呟いても、返事は当然帰ってこない。
ここは静かで落ち着くけれど、時折苦しくなることがある。それが寂しさから来るのか、それとも俺を苦しめる悪夢を思い出すからか、なぜかはよくわからない。
一人きりで、静かで、守られているような気もするのに、それでも時々ここにいたくない、いられないと思ってしまうことがある。
まるで故郷で一人、星空を見ていた時のように。
朝から暗い気持ちになりながらも、俺は荷物片手に大学に行く。習慣とは恐ろしいものだ。必修の二限と三限を受けてふとスマートフォンを見ると通知が来ていた。柚木くんからだった。四限が休講になったからゆっくりお昼にしようと思って、俺を誘ってくれたらしい。幸い俺も今日は三限までしかない日なので、了解の意味もこめて流行りのキャラクターのスタンプを押す。自分の行動を頭の中で言語化してなぞると、ちゃんと生活ができているような錯覚を覚える。だからついそうしてしまって、疲れてしまうこともあった。よくない癖だとは思いつつも直らないし、直す気がない。
待ち合わせ場所に着いて辺りを見渡す。柚木くんからはもう着いていると連絡があったが、一度見た限りでは柚木くんらしき人はいなかった。場所をまちがえたのかもしれないと思いつつ、もう一度ゆっくり確認してから連絡してみようと歩き出す。
小さなカフェが併設されたエントランスホールには大きな吹き抜けがあって開放感がある。上階には中くらいの教室やサイズの違う二つのホールなどもあり、そこを使う人も多かったので、カフェテリアほどではないがそこそこ学生がいる。
テーブルの間を縫うようにして歩きながら柚木くんを探していると、窓辺の席に見慣れたふわふわの頭が見えた。今日は珍しく眼鏡をしていたからわからなかったのかもしれない。俺やシノさんの前ではくるくる変わる表情もなりを潜めて、伏目にアンニュイさをにじませながら一人でスマホをいじっている。
シノさんが柚木くんを連れてきた時、「柚木は俺以外に友達いないから心配で」と言っていたことを思い出した。柚木くんは俺の前では常にニコニコして楽しそうだけれど、実際は人見知りしがちなシャイな子だった。俺も初対面の人と話すのは苦手だったから、出会ったばかりの頃はシノさんがいないと会話が続かなかったし、お互いに苦手意識を持っていたような気がする。その頃はこんな関係になるなんて思いもしなかったけれど、仮とはいえ付き合うのは苦じゃなかった。自分でも不思議に思う。
「柚木くん、お待たせ」
声をかけると柚木くんが俺を見上げて、少し驚いたようにぱちりと瞬きをした。それから少しして日向さんと言ってふんわりと笑う。先程までのアンニュイな表情と今の笑顔のギャップに、巷で言われるギャップ萌えってこういうことなのかもしれないなと思った。
「結構待った?ごめんね、急いできたんだけど」
「いえ全然!俺のほうこそ、急にすみません」
いつものようににこにこ笑いながら話す柚木くんを見て少しほっとする。俺のことがまだ苦手かどうか聞いたことはないけれど、仮の恋人を持ち掛けてきて、そしてそれが続いているくらいには俺のことを面倒だと思ってないとうぬぼれたい。
「……眼鏡」
「あ、今日朝ばたばたしててコンタクトしてくるの忘れちゃって。眼鏡カバンに入れてて助かりました」
家では眼鏡なんですけどねと照れたように言って、柚木くんが俺から目を逸らす。いつもと違う眼鏡姿の柚木くんに新鮮さを感じながら、まじまじと横顔を見つめた。
「柚木くん、眼鏡も似合うね」
「え?!」
「なんか、いつもと違う感じでいいなと思って」
素直にそう伝えると、勢いよく俺のほうを見て驚いていた柚木くんの顔から、ふっと力が抜けた。困ったように笑う柚木くんが、そういうこと他の人に安易に言わないほうがいいと思いますよと言っていたので、今のは失言だったのかもしれない。覚えておこう。
なんとか荷物を片付けた柚木くんと大学を出る。少し歩いたところにお気に入りの喫茶店があって、せっかくお昼時を避けられたし、そこに日向さんと行きたいと思ってと柚木くんが嬉しそうに話していた。
大学の周りは住宅や公園が多く、緑も多い。近くの小学校で体育の授業をやっているのか、子どもたちの声がした。大学の敷地を越えて生い茂る木々の下、坂を下りながら二人でカフェを目指す。
「そういえばそろそろシノさんがまた一緒にゲームしたいって言ってました」
「そうだ、連絡来てたね。もうゲーム決めてるんだっけ」
「みたいですね。なんか三人でもできるけどつまんないから誰かもう一人呼べるといいなって言ってました」
「なるほど……ちょっとまたチャットとかで相談しといたほうがよさそうだな」
「ですね。俺ほかの人いると緊張しちゃうな」
木漏れ日で柚木くんの横顔がきらきら輝いて見える。これからの季節、木々は次第に葉を落としてしまうのでこうやって落ち着いて見られるのは最後かもしれないなとふと思った。何回か二人で街の中を歩いたけれど、その時は暑くてどうしようもなかったし。
「柚木くん、今なんかゲームやってる?」
「いえ、特には。昔やったことあるゲームのリメイクが出たので、それをやってます」
「あ、そうなの?あのね、俺柚木くんにやってほしいやつがあって。俺はもうプレイ済みだから、一緒にやりながら見守れたらなって」
「すごい楽しそうですね!この前の島みたいな」
「そうそう。あ、柚木くん怖いの大丈夫だっけ?候補が二つあるんだけど」
「ホラーゲームとかじゃなければ……」
柚木くんにしては歯切れの悪い回答に、きっと怖いのは苦手なんだろうと察した。頭の中にあったゲームのうちの片方がジャンプスケアが多いので候補から外したほうがよさそうだ。
今度貸すことにして、二人で予定をすり合わせたりゲームの内容を少しだけ話したりしている間に、喫茶店に着いた。
雑居ビルの一階だったのでどんなところなのか予想できなかったが、入ってみれば暖色の灯りの下、カウンターの向こうでは店主がコーヒーを淹れていた。道路に面したところにはドアがないが、そこから一本入った通りを臨むように壁一面がほぼ窓になっているので日の光も入ってきていて、作り込みすぎてはいない空間が、居心地の良さを感じさせる。
ベンチの席や水槽が置いてある席などがある中、なんとなく同じタイミングで二人で見つけた丸テーブルの席についた。近くに観葉植物が置いてあって、それもなんだか自分の部屋を思わせて少し落ち着く。
「ここ、コーヒーがおいしいんですけどご飯もおいしいんですよ」
柚木くんがメニューを広げて俺に向けてくれたので眺めつつ、柚木くんにもメニューが見えるように向きを直した。二人で顔を寄せ合うようにメニューを眺めると、思ったより距離が近くて少し緊張する。
「パンケーキおいしそう。俺これにしようかな」
「パンケーキいいですよね、ここのふかふかでおいしいですよ」
「俺こういうパンケーキ出てくる絵本が好きで一人暮らし始めた時に思いついて作ったことあるな」
「一度はやってみたいですよね、わかります。俺は今日はナポリタンにしようかな」
飲み物何にします?と聞かれてメニューを見たものの、豆の種類の記載もあるからか、コーヒーだけでもすごくたくさんあった。カフェラテやカフェオレよりはブラックが好きではあるけれど、種類が多すぎてさすがにわからない。そう正直に伝えると、柚木くんが難しいですよねと言って笑った。
「柚木くんコーヒー好きなの?おすすめとかある?」
「俺好きで飲むので少しならわかりますよ」
「あ、そういえば前喫茶店でバイトしてるって言ってたもんね」
確かシノさんとチェーン店の喫茶店でバイトをしているという話をしていた気がする。好きで飲む上にバイトもしているなら詳しいだろう。
「そしたら柚木くんのおすすめにしようかな」
「うわー、緊張しますね。そしたらパンケーキに合いそうなやつにしますね」
柚木くんが軽く右手をあげると、店主が気づいて注文をとりに来てくれた。パンケーキとナポリタンと、あとコーヒーをたぶん二杯頼んだんだろうなということは理解したので、注文の確認をされた時にはとりあえず頷いておいた。
その後二段重ねの分厚いパンケーキと昔ながらのナポリタンとコーヒーが運ばれてきた。ふかふかでしっとりしたパンケーキと苦味が少なめのコーヒーの相性はとてもよくて、ついついコーヒーのおかわりをしてしまった。これはしばらく俺も美味しいコーヒーと甘いものに目覚めるかもしれないと思いつつ、柚木くんとこの前のプラネタリウムの話やゲームの話、同好会の話、最近読んだ本の話などいろんな話をした。
喫茶店を出ると、少し太陽が傾いていて一日が終わりのほうに差し掛かっているような気がした。そろそろ帰宅時間に差し掛かるのだろう、その忙しさに備えるような、それでいてまだのんびりとした時間を残しておきたいような、そんな中途半端な感じのこの時間帯が好きだ。
「急だったのにありがとうございました。俺この喫茶店好きなんです」
「こちらこそ。俺もああいう雰囲気のところ好きだよ」
「本当ですか、よかった」
また行きましょうね、と言う柚木くんは本当に嬉しそうだ。柚木くんが嬉しそうだと少し心が温かくなる。こんな自分でも誰かを喜ばせられるのだという自己満足から来るものだとしても、俺はこの温かさを手放したくなかった。
「コーヒーおいしかったですよね、俺あそこの豆わけてもらったんですよ」
ちょっと手間かかるんですけど、豆から淹れるとおいしいんですよね、と嬉しそうに語る柚木くんをかわいいな、近くで見ていたいなと思ってしまって、気づけばついつい距離が縮まってしまっていた。ぱっと顔をあげた柚木くんそれに気づいたのか、楽しそうな話が止まってちょっと驚いたような顔をしたので、己がしでかしたことに気づく。
「ご、ごめん。キモかったね」
「い、いえ全然。ちょっとびっくりしましたけど」
今日は柚木くんを驚かせてばかりの気がする。どうして俺はこう、肝心な時に謎の行動力を起こしてしまうんだろう。前にはるさんにもそんなことを言われた気がする。はるさんはそこもぺちょさんの良さですよとは言ってくれたけれど。
(・・・・・・いや、もしかして)
「もしかして、キスとかしたほうがよかった?」
「え?!そんな、そんなことはないです。というか日向さん、そんな無理に恋人っぽいことしようとしなくていいですよ」
「そ、そう?なんか距離が近かったから・・・・・・こういう時キスするのかなって思って」
最近一緒に出かけたりゲームをしたりと二人で過ごす時間は増えたものの、恋人らしい触れ合い的なものをしたことはなかった。もし、先ほどの距離の近さで柚木くんに何かを期待させてしまったら申し訳ないなと思って伝えてみたが、どうやら違ったらしい。よかった。これでなんでキスしてくれないんですかと怒られたら正直困るところだった。自分はそういう欲は薄いほうだと自覚しているくらいには、本当は他人とふれあいたいという気持ちがわからない。でも柚木くんがかわいくて、もう少し近くで見ていたいと思う気持ちを抱いているのも本当だった。
今まではあんまり人と接してこなかったから、どうやって人を特別にしたらいいのかがわからない。あの日から俺は、あと何日何時間何分何秒後に死ぬとわかっていて、そこに向かってただひたすら暇つぶしをするような人生だったので、そういう前向きで生産的な人付き合いがわからなくなっていた。だからこの人のことをもっと見ていたい、この人の近くにいたいと思っても、どうしたらいいのかがよくわからない。
「日向さん」
考え込んでしまった俺に、柚木くんが声をかけてくれた。
「あの、それなら手とかつなぎますか?」
言い方は軽いのに、柚木くんの顔は真剣だ。おそらく彼も言い慣れてないから緊張しているのだろう。いつも柚木くんに言わせてばかりだなと自己反省を挟みつつ、ここで考え込んでしまうとまた柚木くんを困らせてしまうだろうなと思って、一応周囲に人がいないかだけ確認をしておずおずと手を差し出した。
「よろしくお願いします」
「あは、そんな日向さん、握手じゃないんだから」
ちょうど授業中の時間だからか、学生の姿もほとんどない。絶好のタイミングだったなと思いながら、二人で手をつないで坂を上る。俺の勇気がなくて指を絡めることはできなくて、親と手をつなぐ子どもみたいになってしまっているけれどそれでもいい気がした。
「・・・・・・知らなかった」
いつもより近くに柚木くんがいて、なんとなく恥ずかしいような、うれしいような、そんな気持ちになる。ごまかす様に口を開いたけれど、声が少しかすれてしまった。
「人間ってこんなに温かいんだね」
そう言うと、柚木くんが照れたように笑いながらそうですねと言った。この手の温かさや、心をひたひたと満たすこの気持ちは、孤独な惑星に引きこもっている限りは気づけなかったことだ。一人でいると感じた苦しさや朝心の中に広がっていた暗い気持ちが、今は消えてなくなっているような気がした。
それでも眠れば、相変わらず悪夢を見る。
夢の中の俺はやはり孤独で、他人の中にうまくなじめない、他人の中で生きていけない。ずっと一人でいいと思いつつも、こんな俺と仲良くしてくれる人の手を離したくないと思ってしまう。そんな矛盾した一面を、夢は容赦なく暴いてくる。
この前柚木くんと会った時は見なかったのになぜだろう。そんなことを思っても、悪夢は今日も俺を苛んで、蝕んでいく。
川の音が聞こえてくる。
誰にも話せない、あの暗い川。
自分は弱い人間だ。弱くて、無力で、それでいて、傷つきやすい。
だからあの時も何もできなかった。足がすくんでしまった。あの時あの川で、死ぬべきは俺だったのに。
だから俺は星を眺めるように孤独を愛して、人から離れて、それで生きていけば誰の害にもならないのに。
(それなのに、)
それなのに、柚木くんと仮でも恋人関係になってから、少し彼に救われている自分がいることに気がついてしまった。彼と話して、一緒に過ごして、それが楽しくて幸せで、とても満たされていることに気づいた。柚木くんだけじゃない。はるさんやシノさんと交流している時もそうだ。楽しくて、幸せな気持ちになる。その中でも、やっぱり柚木くんは特別で、一緒にいると、彼が恋人として振る舞ってくれている間は泣きたくなるほど満たされたような気持ちになる。孤独を愛して孤高を謳う俺は、所詮人に愛されたいだけの存在なのだと。ただ孤独を正当化して、自分の世界に引きこもっているだけなのだと、忘れてしまいそうになる。
暗い川がこちらを見ている。
あの日の濁流が、うねる水が、全てを押し流すようなあの川が、俺を見つめている。
ごう、ごう、ごう。
耳の奥であの時の、あの川の音がする。
暗い川がこちらを見ている。
(まさかお前、)
お前、幸せになりたいなんて思ってないか?
はっとして目を開くと、いつもの天井が見えた。
ベッドから起き上がって、なんとなく台所に向かう。とりあえず水でも飲んで落ち着くことにする。
ふと、何かを感じて窓辺を見やる。夜の闇に沈むアイビーの横に伏せられた写真立て。
あの日の俺の後悔や悲しみや罪悪感が、俺をあの川に引きずり込もうとする。こんな夜は、特に。
ふらりと歩いて、窓辺に近づいた。カーテンをひいた室内からは外の様子はわからない。
「・・・・・・忘れてないよ、」
写真立てをなぞりながら、言い訳をするようにそっと呟いた。
「ごめんね」
暗い川がこちらを見ている。
あの日の濁流が、うねる水が、全てを押し流すようなあの川が、俺を見つめている。
ごう、ごう、ごう。
耳の奥であの時の、あの川の音がする。
(せめて、ずっと一緒に)
それが俺にできる、全てだから。
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