第8話

 家に帰ってからのルーティンが増えた。ストーブをつけ、映画をつけ、ビールを飲み、カーテンを開ける。いつしか、再生したままの映画を背にして、窓枠に座り、ビールを飲むのが習慣になっていた。ビールが少しまわり始めたところで、車は現れる。けれど、これはアルコールが見せる幻覚ではないと、僕は分かっている。

 あるとき、車がことさらにはっきり見える、と思った。今までも、しっかり分かるくらいだったのだが、なんというか、立体感というか、何かが違った。何かが違うと感じた。いつもと変わらない、たいして季節も進んでない、寒さと夜と孤独の、吹き溜まりのような僕の部屋と、窓の外。幻のような車は、僕よりも現実感、存在感があるように思えた。

 車の中の花が、ワサッと動いた。僕はギョッとしたが、すぐに分かった。親友が、中にいるのだろう。姿を見せてくれるのだろうか。


 親友は、手を額のあたりにかざし、肘も使って泳ぐような仕草で花をかき分け、ドアを開けて車から降りてきた。はっきりとはしているが、輪郭だけが白っぽく光って、少しだけ、ぼんやりしている。足はきちんと地面についているようだ。親友は僕を見て、腕を嗅ぎ、僕の顔を見て、

―すげー花の匂いついた。

と言った。あのときのままの顔と、声だった。少し笑っていた。


 僕はあの日以来以来、自分の時間が止まったような気持ちになっていたが、今、現れた親友の姿を見て、自分の時間がそれなりに経過しているのを知った。僕が手にしているのはビールだ。ほとんど毎晩飲むそれを、今まで消費した量をふと思う。割と端正だった顔立ちがそのままの親友を見ると、自分はいくらか老けたのだろうと思った。

 恐ろしさより、混乱より、懐かしさが込み上げた。降り立った親友の後ろに、懐かしい車と、こぼれ出た白い花が散らばっていた。久しぶりに顔を合わせる僕らを、風もない、そっけない夜が見ている。


―ビール飲んでるの。


 親友は僕の手元をのぞいて言う。無邪気な年下に言われているような気もするし、同い年に軽く咎められているような気もする。


―うん。 飲む?


僕と親友は、車の中で一度だけ、こっそり、一本のビールを試しに飲んでみたことがあった。不味かったが、二人とも強がって「うまい」と言った。今だって、僕は美味しくて飲んでいるのか、自信はないが。

 親友と僕の間に距離はあったが、僕は飲みかけの缶を持ち上げて差し出した。親友は笑って、やめておくと言った。


―不味かっただろ、あのとき。


親友も、覚えているのだ。


―今は、うまいの?


―さあ。実はよく分からない。


 僕も笑った。飲まないとやってられないときがある。そんな大人の言い訳は、親友の前ではしなかった。それよりも聞きたいことがあった。どうして現れたのか。どうして、今。どこから来たのか。地面に立ってはいるが、声も耳に確かに響いていると思うが、部屋に入れよと誘っていいのか。「幽霊なのか」と、聞いてもいいのか。


―あのさ。


何も聞かないうちに、こちらの頭を読んだふうでもない口調で、親友は言った。


―顔、見たかったんだよ。車から出られるまで、けっこう、力がいるし、時間がかかるんだ。


そういうものなのか。別に僕は今の状況を受け入れるだけで精一杯なので、親友がものごとを進める過程の話が当たり前のように感じていた。

 僕もお前のこと、忘れたことないよ、と言いたいところだったが、実際は、そうではなく。考えないようにするために、必死で耳や目を塞いで生きていたと言ってもよかった。親友を突然亡くしたショックはいつも、あるとき、初めてその事実を知ったときと同じ強さで僕の頭を揺さぶり、心臓を奪ってそこに空いた穴を灰色で塗りつぶす。きっかけなどなかった。騒がしい場所でたくさんの音を聞いていても、眠りに落ちる寸前でも、ただ単に靴の片方に踵を入れようとかがんだときでも。僕は一瞬にして、彼が死んだと知ったそのときの僕になり、白い花が詰め込まれた車が目の前に現れる。そのとき吸い込んだ空気。寒い、乾いた空気、枯れ草の匂い。花の匂い、かすかな排気ガスの匂い。僕の肺は、何度もその匂いでいっぱいになる。親友が死んでから、僕はそのショックに襲われ続けて生きていた。

 けれど、実際に(幻なのか何なのか、よく分からないが)車と親友が現れてみると、地面に穴が空いて底なしの奈落に落ちていくような絶望感はなく、懐かしいと思った。


―何してんの、今。


親友がのんきに聞いてきた。突っ立ったままの姿勢でする会話にようには思えなかった。


―バイト。


―へえ。


親友は何になりたいと言っていたんだっけ。僕は忘れていた。


―お前は何してたの。


聞いてもいいのかどうかを考える前に、口に出てしまった。いつも、親友が何か聞いてくるときは、自分にも聞いてほしいことがあるときだったからだ。


―ここに来れるように、うまくやれるように、練習してた。いつも見てたわけじゃないぜ。


多分親友は、自分が死んだという自覚があるのだろう。


―今日はここまでかな。


親友は言った。また来ていい?と。つまりこれからも来るということなのだろうか。次はなんなのだろうか。けっこう疲れるんだよ、とも言った。でも会いたかったからさ。と。

 僕からは到底、会いには行けない。そう思うと、やはり親友が懐かしく、会えて嬉しいと思った。


―また会えるの?


そう聞くと、そうだと思う、と親友は答えた。


―夜はヒマだろ?


親友は無礼なことも言った。そのとおりなので黙ってうなづくと、親友は笑って、じゃあまた、と言った。

 そこから朝までの記憶は、僕にはない。僕は飲みかけのビールを片手に持って、半分開けた窓の下に座ったまま眠り、早朝の冷たい空気を首に浴びていた。

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花の匂いと排気ガス @manolya

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