第2話

 バイトから帰って部屋に着くと、部屋は冷え切って真っ暗だ。あまりに寒いから、僕は明かりより先に、まずはストーブを点ける。何年も置きっ放しのストーブまで数歩。住み慣れた部屋だし、できるだけ床にものを置かないようにしているから、暗闇でも何かを踏んだり、つまづいたりすることはない。僕以外の住人を見たことのない、静かな静かなアパートでは、廊下で鍵を探る音や、旧式の鍵を回して開けるガチャンという音が大きく響いた。壁はすぐにその音を吸い込んだし、僕以外の住人も、飲み込んだのかもしれない。

 ストーブは古い反射式だった。いつも、点ける前に灯油タンクを持ち上げて、残りの量を確認した。芯を持ち上げて火をつければ、はじめにボウッと言ったかと思うと、次はどこか内部に大きな空洞を抱えたような音を響かせた。誰かが中から、何かの合図を打ち鳴らすように。まるで、僕が帰ってきたのを何かに知らせるようだと思った。この部屋の、モノたちにかもしれない。僕がこの部屋にいない間、ろくに気にもかけないモノたちはそれらしくない、好き勝手なことをしていないという保証はない。狭い部屋の中、僕が動くとき、邪魔にならない程度に雑多に、適当に雑多に積み上げたモノの数々は、いつの間にか位置が変わっていても、僕は気がつかないだろう。

 ストーブの芯は赤黒く光りはじめ、部屋の中のモノが薄暗く照らされる。すべてが赤黒い。雑誌、本、ゴミ箱、レコード、放ったベルト。リズムもない、雑多な散らかりようの僕の部屋のものたちは、赤黒い光に奇妙な生命力を得たようで、僕をじっと見つめている。その気配をぼんやりと感じ取っていると、そのうち、赤黒い暗闇に目が慣れてしまう。鍵を置いて手を洗い、座って疲れた体をじっと休めていると、自分もこのモノたちと大して変わらないと思ってしまう。僕が散らかした雑然とした部屋で、僕はこの部屋の一部になる。

 帰りはいつも深夜に近い時間で、部屋に入ればもう寝るだけだ。飯も食べず、そのまま明かりをつけず朝まで過ごしてしまうことも多い。明るくうるさいバイト先で、一日中緊張感を持って仕事をしていた僕には、薄暗い静かな、見慣れてはいるがしゃべらない、ものたちに囲まれてぼんやりするのが心地よいと感じる。

 こたつに入って買ってきた缶ビールを開け、ビニール袋をガサガサ言わせてちょっとしたつまみを取り出す。食べたいと思って買ったわけじゃない。腹が減っていたからなんとなく手にとった。明日にはきっと、何を食べたかも忘れてしまうだろう。

 テレビを付けると、昨日見て途中で消したままの映画が、途中から始まった。もう何度見たか忘れてしまった、それでも何度も繰り返し見ている映画だ。僕が何度も見るうちに、モノクロの画面の中で登場人物は何度も殺され、ヒロインは何度も同じ言葉で口説かれる。最後、主人公とヒロインは運命をともにする。何千回も見て、僕こそが映画の中で、何千回も主人公の人生を生きているような気がしている。止めた箇所、その途中から再生をすると、僕の人生もまたそこから、途中からスタートする。そして繰り返す。映画の中では大事件が起こっているが、テレビの中で繰り返される再生と停止ボタンの繰り返しは、僕の一日と大差ない。

 音は消している。疲れた僕の頭の中は、とりとめもない考えをずっと繰り返して、無音の映画よりもずっとうっとうしく、騒がしいと思う。考えても考えても、意味のないことだ。今日の仕事での小さな失敗、行き帰りにすれ違った人たちの会話。僕が降りる駅に近づくにつれ、減っていく電車の乗客の数。ポストに入っていたチラシの文句。それらに対して、僕はいつも頭のどこかで何かを思っていた。心が踊るようなことは滅多になかった。世の中の華やかなものは全て、いつも僕の外側、僕からずっと離れたところにあると感じていた。

 外国の映画だから、外国語が苦手な僕は音声が聞こえても理解ができない。何十年も前のその映画は、字幕の文字も、訳された日本語も古臭い。でも僕は、その古臭い文字の字幕で場面を理解する。何度も見ていれば、言葉は一向に分かるようにならないのだが、役者の表情や場面の展開だけで映画が理解できるようになってくる。新しい発見も、数限りなくある。主人公はどこで女に惚れたか、どこで女の動静に男の影を感じたのか。一つの仕草や一瞬の表情がどんな感情を表したのか、映画の中でどんな意味を持っていたのか。白黒映画では影の大きさや濃ささえ、意味を持っていた。時間の経過や、昼間なのか夜が近いのか。眉間に寄った一筋のシワさえ、映画の中では大きな役割をもった。

 それらが分かるようになることは、どこかで止まった僕の成長の節目でもあった。その表情が意味するものが、この世に、現実の世界にあるのだということ。静かな部屋の中で、一人きりで、僕は昔の映画と自分と向き合っている。前、この場面を見たときはこの意味を、僕はわかっていなかった。今は、今日は、分かる気がする。ビールが体と頭に回り、無音の映画に集中し出すと、やっと僕の頭の中の雑多な考えは静かになっていく。僕はやっとホッとする。

 せわしなくバランスが変わる白と黒の世界が、僕の手やこたつの布団に映る。僕は、僕の生活や人生が映画に侵食されていくようだと感じることもある。僕の人生や生活よりも、白黒のこの映画の方が、テレビの画面の中の方が、ずっと命を持って生きているように思う。

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