第2話 異国情緒 独

 空を見上げる。闇夜に輝く天井の月。星々を隠す白雲。代わりに黒を彩る淡い粉雪。思わず白い息が出る。厚手のコートに手袋、それにマフラーなど防寒着は完璧だ。それでも冬の厳しさを癒してはくれない。


 町並みはロンドン。石造りの家に石畳。向こうには教会チャペルなんかも見える。とはいえロンドンなんて行ったことないので所詮イメージでしかないが。


 見知らぬ街を当てもなく歩く。同じようにコートを羽織った紳士に、厚手の地味なドレスを着た女性。幾人もの人間と擦れ違う。


 西洋人ばかりで東洋人は俺一人。談笑している人々の言葉に耳を傾ける。異国の言葉でまるで理解できない。そして彼らは俺という存在に一切の関心を持たない。



―― ここは酷く無関心だ。



 冷たい風に身を打たれ思わず震える。ただただ歩き続ける自分。そこに現実感はない。まるで自分の身体を俯瞰的に観察しているようなものだ。


 気がつけば誰もいない。自分という存在が酷く薄れる人混みの虚無感よりも、いっそ一人きりの孤独感の方が幾分マシというもの。


 チャペルの隣を通る。知らぬ間にかなりの距離を歩いていたようだ。ガス灯の橙の光。ふとチャペルの白い壁に奇妙な影が映った。

 平面犬。あるいは影絵。子供の落書きのように不鮮明で、かろうじてわかるのはその口くらいか。だが不思議とあの影が犬であることがわかる。

 フンフンと鼻を鳴らす影絵の犬。この近くに犬でも影絵の元となる犬でもいるのかと周囲を見渡すもやはりなにもいない。


 さてどういったことなのだろうと考え込む。影絵の犬の大きさは理解できる。人間と同じくらいの大きさだが、あれが影ならば光源と対象の位置でいくらでも大きさが変わる。しかし周囲にはなにもいない。近くの光源なんてあそこのガス灯一つ。どう考えても壁のあんな高さには影が映らない。


 奇妙な光景に思わず立ち止っていると、影絵の犬がこちらを向く。威嚇のつもり一声吠えると迷わず一直線の俺目掛けて駆けてくる。壁を滑るように進み、石畳も二次元的に進む。そしてそれは俺の足元に来た時、二次元の犬は三次元に干渉する。地面を這うことしか出来なかった影絵の犬が飛びかかり、俺の首目掛けその口腔が迫る。


 その時の俺はやっぱり現実感がなくて、自分という存在を俯瞰で眺めていたわけだから「あ、こりゃ死んだな」なんて他人事のように思った。


 コンッという硬質音。何かが高速で脇を通り抜けていく風圧。そして影絵の犬は幾条もの蒼い光の帯に縛られる。

 嫌がる影絵の犬。絡め取られつつも蒼い光から逃れようと必死に暴れ、おぞましい咆哮をあげる。


 不意に戻る視界。今までのような俯瞰ではなく、肉体に意識が戻ったというかようやくこの非日常的な光景がおぞましいほどの現実感リアルとなって襲いかかる。思わずペタンと尻餅をつく。それと同時に再び影絵の犬へ向かい迫る蒼い光条。だが新たなそれが影絵の犬に到達するより先に、力づくで拘束から逃れた影絵の犬が逃亡を図る。結果それは石畳を抉るだけに終わり、影絵の犬は物の見事に逃げおおせた。


「逃げられてしまったか… 」


 綺麗なソプラノ。いまようやっと思考が追い付いた。振り返る。

 ステッキを持ち、その頭には何故かデフォルメされた兎の耳が付いたシルクハット。タキシードを着た謎の人物がこちらに向かって歩いてくる。


「君転んだようだけど、大丈夫?」


 スッと出された右手。それに掴まり立ち上がる。遠目からでは性別がわからなかったが、胸部の控え目な主張が彼女が少女であることがわかる。綺麗に切りそろえられたボブカット。顔立ちは整っているが、それは男性のようにも女性にも見える。男装の麗人という言葉が似合う人物を初めて見た。


「ああ、ありがとう。ところでさっきの変な犬はなんだ?」

「…… なるほど。君が虚数か」


 なんて一言呟いたかと思うと、ふむと考え事を始めた。そしてそれは一瞬で終わった。


「いいよ。全部説明してあげる。あながち君も無関係ってわけじゃないし。ただしこんな所じゃなくてね」


 そういってついっと顎を向ける。その先には明かりの灯いたコーヒーショップが見えた。

 夜にも関わらずこのコーヒーショップは盛況だった。むさ苦しい男たちが議論を交わし、チェスに興じている。とはいえ話している言葉がまるでわからないので、一体何で盛り上がっているのかまるで見当つかないが… 。


 ウサ耳少女と向かい合うように一つのテーブルに付く。しばらくして店の人なのだろう。ムスッとした中年おばさんが、注文を聞きに来た。


「――― ?」

「ああ。暖かいコーヒーを。彼も同じように」

「―――――― 」


 ウサ耳少女の言葉の意味はわかるのに、不思議と店員の言葉はわからなかった。最初から最後まで不機嫌な態度で店員のおばさんは奥に向かう。


「さて、まずは自己紹介からだ。僕の名前は夢野葵兎ゆめのきと

「俺の名前は川瀬尋斗。まあよろしく」


 女なのに僕だなんて男みたいだと思いつつも、タキシードなんて着ている男装少女であることを思い、納得する。


「さてヒロトはここをどこだと思う」

「さあ?外国みたいだが、まるでさっぱり」

「じゃあなんでここにいるの?」

「さあ… 」


 自分がなんでこんな異国にいるのか考えたことはなかった。思い返せば不思議なことだ。まるで夢か幻のように現実感がなく、けれども現状に疑問を抱かない。


「そう、ここは夢だ」


 キトの言葉に思わず頷く。そうか、ここは夢… 。


「僕は夢を渡る力を持っている。まあわかりやすく言えば旅人みたいなものかな。とはいえ今は少しやることがあって夢を渡っているんだけどね」

「なるほど。用事ってのは、さっきの変な犬を追っているという認識であっているか?」

「うん大丈夫。昔はね、ちょっとした観光旅行だったんだよ… 。色んな夢を渡って、夢ならではの不条理を楽しむ。あのティンダロスの猟犬が現れるまでは…… 」

「ティンダロスの猟犬… 」


 思わずその名を口ずさむ。どこかで聞いたことのある名前だがはて。


「とある創作神話に同名の怪物が出てくるけど、それとは別もの。まあ名前の由来はそうだね。ティンダロスは夢を喰う」

「夢を喰う?」

「そう。夢とはその人の潜在意識の顕れ。夢にはその夢を見た原因が必ず存在する。ティンダロスはその原因、つまり夢の根幹を喰らうのさ。根幹を失ったその夢は崩壊する」


なるほど。つまりここは誰かの夢の中で、俺はその夢を彷徨っているわけか… 。そしておそらくこの夢は… 。


「ティンダロスが喰うのは夢の根幹だけじゃない。この夢を創り出した張本人。そうヒロト、君だ」

 夢を見ている張本人を喰えば、自然とその夢は消滅する。成程俺があの奇妙な影絵の犬、ティンダロスの猟犬に襲われたのは必然か。


「夢を見ている張本人、〝虚数〟たる君には一つの能力がある。このテーブルの上に、コーヒーをイメージしてくれ。なに君の夢だ。ある程度君の思い通りになるはずだ」


 言われた通りイメージしてみる。冬の日に自販機で飲んだあの缶コーヒーだ。あの暖かさ、チープな苦みと甘さ。それが脳内に投影される。

 気がつけばテーブルの上に一本の缶コーヒー。触ってみる。暖かい。


「なるほど。確かにここは俺の夢で、俺の自由に変えられる」


 なんとも奇妙な感覚だ、なんて心の中で呟く。自分の欲しいものがこうやって自由に生み出すことが出来るということは… 。

 人の気配がして、思わずそっちを向く。先程注文を取った無愛想なおばさんが、お盆の上に二つのコーヒーを乗せて佇んでいた。


「―――――― 」


 何かを話しながらテーブルに、コーヒーの入ったマグカップを置く。やはり言葉はわからない。

 これで俺の所に缶コーヒーとカップのコーヒー。二つあるわけだ。

 いや、不思議なことに先程俺が創り出した缶コーヒーはいつのまにか消えていた。

おばさんが奥に引っ込む。どういうことだと、美味しそうにコーヒーを飲んでいるキトに目を向ける。


「君の虚数の能力は万能じゃない。君が生み出したものと同じものが、こうして現れると消える。さながらマイナス1のルートを二乗したように、幻想は一つの実数に置き換わる」

「成程。これがデメリットか。だが俺がイメージしたのは缶コーヒーで、これはカップのコーヒー。違うものだ」

「さあ?〝同じもの″ とする判断は僕じゃない。例えば君が切るものとしてハサミを虚数で生み出したとする。そこに剣が現れたらそのハサミは消えるかもしれない。ハサミも剣も切れるものだからね。けれどももしかしたら消えないかもしれない。あくまで君が、いや君の心が同じものだと判断した場合虚数は実数となって消える。判断基準はわからない」

「成程」


 思わず頷く。つまり俺が同じものという判断を下さなければ消えない。缶コーヒーもこのコーヒーも本質的には同じコーヒー。そういった認識が俺の中にある以上消滅するのは当然か。


「そして僕はティンダロスを追っている。夢の世界が好きだからだ。適度な不条理とスリル。そして幸福感。それを喰らうティンダロスは看過出来ない。ましてや君が喰われてしまったら、夢そのものが消えてしまう。だから守るよ、ヒロト。僕が君を―― 」


 ……。どことなくこっ恥ずかしい。まるで愛の告白みたいなものじゃないか。とはいえキトの真剣な目を見れば、それは甘ったれた妄想でしかない。

 どことなく気まずくなって、同時に冷めてしまうとカップのコーヒーを口に含む。僅かな酸味と苦みが、急速に脳を覚醒させる。


「―― な… 」


 同時に世界が歪む。周囲の景色が、楽しく談笑している人々が、まるで押しつぶされたように歪む。


「一夜の内に人は幾つもの夢を見る」


 歪んだ世界。けれどもキトだけは、その歪みの干渉を受けていない。


「これは夢の変わる前兆。掴まって。そうすれば離れない」


差し出されたキトの白い手。無我夢中にそれを握りしめた。


―― 世界が変わる。暗転。

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