最後の楽園
半ノ木ゆか
*最後の楽園*
太平洋のただ中に、小さな平たい島があった。四方の大陸から遠く離れていて、よその人間は滅多に訪れない。その海崖で、二人の少年が釣りをしている。
「腹が減った。貿易船はまだ来ねえのか」
暇そうな顔をして、ベントスが呟いた。バケツには小魚一匹泳いでいない。ネクトンがなだめるように言う。
「大陸では戦争が始まったんだ。世界中で食べ物を奪い合ってるんだから、こんな孤島なんて二の次なんだよ」
いくら待っても、釣竿はぴくりとも動かない。ベントスは次第にイライラしてきた。
「この役立たずが!」
釣針を
「ベントス。今、ごみを海に捨てたな」
二人の背後に、杖をついた白髪の女性が立っていた。ベントスは舌打をした。
「なんだクソババア。たかがごみ一つくらい」
「ベントス、長老に失礼だよ」
態度の良くない友人を、ネクトンは叱った。長老は一段と低い声で、こう諭した。
「母なる海をけがす者には、めぐりめぐって罰が当るよ」
彼女の忠告を、ベントスは笑い飛ばした。
「そんな迷信、誰が信じるんだ。ごみが俺のところへ仕返しに来るって言うのか」
「長老、大変です!」
一人の女性が駈けてきた。息も絶え絶えに、彼女が報せる。
「浜に、人が倒れていたんです!」
水びたしの道をばしゃばしゃと走り、フジツボの付いた梯を登って小屋に転がり込む。人混みを搔き分け、ネクトンは目を丸くした。ベッドにぐったりとした男性が横たわっている。
「水を飲まないと死んでしまいますよ」
コップを差し出されても、首を横に振るばかりで口をつけようとしない。体は痩せていて、目は虚ろだった。全てを諦めたような表情だった。
「お前さんはどこから来たんだい」
長老が問いかける。男性はしわがれた声で、こう答えた。
「北の島から来ました」
彼は語った。
「その土地は、七色に輝いています。戦争のない、平和な場所です。食べ物も、飲み物もたくさんあります。海の水かさがどんなに増えても、沈むことはありません」
「そんな場所が、本当にあるのかい」
驚く長老に、彼は弱々しく頷いた。
「確かにあります。その島の名は――」
言いかけて、彼は息絶えてしまった。
夜になり、潮が満ちた。小屋の床下まで海水に浸かっている。梯の周りをネムリブカが泳いでいた。
「沈まない土地なんてあるはずがない!」
老若男女の寄合で、一人が声を上げた。
「天気が暖かくなって、周りの島々はどんどん海に浸かってるんだぞ。そんな夢みたいな場所、浮島でもない限りありうるもんか。そもそも、この北に島なんてない。あの人は、本当は大陸から逃げて来たんじゃないか」
地図を広げて見せる。確かに、彼の指す場所には暗礁一つ見当らなかった。
「七色の島はありますよ!」
前のめりになって、別の一人が反論する。
「あの人の舟を見なかったんですか。あんなにちっぽけな
「長老、あなたはどうお考えですか」
意見を求められて、彼女は長い唸り声のあとに答えた。
「そんな場所が本当にあるのか、私にも分らないよ。ただ、一つだけ確かなことがある。この島が、いずれ海に沈むということだ」
ネクトンもベントスも、みんな黙り込んでしまった。長老は続けた。
「住む家を失う前に、引越先を決めておかねばなるまい。そらごとだったとしても、探しにゆく値打はあると思うよ」
「行こう! 最後の楽園へ行こう!」
話は決まった。信じていてもいなくても、島があるなら移り住みたいと、ここにいる誰もが思っていたのだ。
「でも、誰が探しに行くんですか。潮の流れに乗れば、数日で着くはずですが」
赤ん坊がぐずり出したのは、その時だ。ネクトンはハッとした。席の端っこで、両親が我が子を一所懸命あやしている。もし引越先が決まらなければ、あの子の将来はどうなるだろう。
彼は勇ましく立ち上がった。
「僕が行きます!」
「俺も行く」
ベントスが手を挙げたので、ネクトンはぎょっとした。二人を見て、島の大人たちが感心する。
「二人とも壮健とは言え、子供だけで行かせるのは危ない。私が
厚い胸板を叩き、フンペが名乗り出た。彼は腕利きの漁師で、海のことなら島の誰よりも詳しい。長老は深く頷いた。
「フンペがいれば安心だね。二人のことを頼むよ」
夕焼色の海を一艘の船が行く。魚の串をもてあそび、ベントスはあくびをした。
「ネクトン。今日も島は見つからねえのか」
船室の屋根に坐り、水平線に目を凝らしていた彼は言い返した。
「文句を言うくらいなら、どうして名乗り出たんだよ」
ベントスは鼻で笑った。
「俺が最後の楽園を見つけて、あのババアを見返してやるんだよ」
また、太陽が昇った。日が肌をじりじりと焼く。舵を取っていたフンペは、暦を見て呟いた。
「やはり、そらごとだったか」
二人に呼びかける。
「飲水もそろそろ半分を切る。もう引き返すとしよう」
ベントスがさっさと船室に戻る。ネクトンも屋根から降りようとして、はたと立ち止まった。
北の水平線に、平らな白っぽい影が見える。
「フンペさん、島です! 島が見えました!」
ネクトンは大喜びで指差した。
船が岸に着くなり、ベントスは裸足で飛び降りて宣言した。
「一番乗りは俺だ、俺の手柄だ!」
島には
浜に降り立ち、ネクトンは我が目を疑った。地面がきらきらと光っている。桃色に水色、黄色に紫。色とりどりの粒で埋め尽くされていたのだ。
「すごい、七色の砂浜だ」
「いや、砂じゃない」
フンペが言い、片膝をつく。蔦のように見えたのは、緑色の
二人で小高い丘を登る。ネクトンはすぐ、この島がおびただしい数のごみの集まりだと気付いた。足元に目をやれば、お菓子の袋やペットボトルが見つかる。漢字が書いてある物もあった。彼は気を落とした。
「どれもこれも、食べかすと飲みかすばかりじゃないか!」
ここに戦争があるはずもなかった。そもそも人間がいないのである。
「太平洋ごみベルトだ」
西の果てを見据えて、フンペが言った。
「昔、聞いたことがある。日本や中国から流れてきたごみが、潮の流れのよどみに溜り、漂っていると。それがいつの間にか寄り集まって、こんなに大きな浮島になっていたんだ」
「痛ってえ!」
ベントスの悲鳴が上がる。二人は彼の元へ駈けつけた。
「ベントス、どうしたんだよ」
うずくまる背中に訊ねる。彼は顔をしかめて答えた。
「何か、尖ったものを踏んづけたんだ」
ベントスは足の裏を怪我していた。傷は深いらしく、血がどくどくと流れ出ている。
「私が手当しよう」
フンペが救急用品を持ち出す。心配するネクトンをよそに、ベントスは怒りに任せてわめいた。
「誰だ、こんな物を海に捨てたのは!」
傷口を見て、ベントスは青ざめた。
彼の足に突き刺さっていたのは、彼の釣針だったのだ。
最後の楽園 半ノ木ゆか @cat_hannoki
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