第2話 三年という月日

 確かに幸一は、理美のことを詳しくは知らなかった。

 知り合ってから長いとも短いとも言えない期間だったが、気が付けば、あっという間だった。

「世の中、本当に何が起こるか分からないな」

 本当は他人事ではないくせに、思わず呟いてしまったことで、笑ってしまいそうな衝動に駆られた幸一だった。

 一緒にクラシックコンサートを見に行った翌日から、理美の消息が忽然と消えてしまったのだ。

 住まいを知っているわけではなかった。コーポに一人暮らしだという話だけは聞いていたが、それ以上詳しいことは聞いていない。探そうにも探すことができない。

 唯一の連絡先だった電話連絡も、メールはエラーとなって返ってくるし、電話を掛けても、

「ただいまお掛けになった電話番号は、使われておりません」

 としか言わない。

「ただいまお掛けになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かないところに……」

 ではないのだ。

 完全に削除されている。

 合コンで知り合ったのだから、彼女の友達に聞いてみようと思ったが、何と、友達に聞いても、

「理美なんて女の子、友達にいないわよ」

 という返事しかなかった。一緒に合コンに参加した人に話しを聞いても、あの日は、幸一が一人あぶれてしまって、可哀そうだったという話しか聞けなかった。それも一人ではなく皆からだ。

 幸一からいつ聞かれるか分からないようなことを、口裏を合わせられるわけもない。理美という女の子は、幸一の頭以外から、忽然と姿を消したのだ。

「なぜなんだ?」

 幸一は、理美を好きになっていた。

「愛している」

 というところまで言えるかどうか難しいところだが、親密な気持ちになっていたのは間違いない。しかも、それは理美に関しても同じだったに違いない。幸一にとって、理美の存在が、自分の中で固まっていたことは確かだった。

 そんな理美が忽然と消えた。まわりの誰もが記憶に残さずである。

 まるで幸一の頭だけが、どうかしてしまったのではないかと思うくらいで、その時、幸一は、

「どうして、僕の記憶だけ消してくれなかったんだ」

 と、理美が存在していたことを確信しながら、記憶を消さずに中途半端な状態で消えてしまった理美に対して、皮肉の一つも言いたい気分だった。

 掛かっていた梯子に昇るように促しておきながら、昇ってしまうと、その梯子を下から外されたような気分である。梯子で昇った時の、下の世界と、上の世界、そのどちらにも同じ世界が広がっている。上にも下にも同じ人たちがいて、同じような暮らしをしている。それぞれの世界が存在していることを誰も知らない。上の世界の人は下の世界を知らないし、逆も同じだ。

 だが、上下の世界の存在を知っている人がいた。それは理美と、幸一だけだった。

 理美はいなくなったわけではなく、階下の世界の残ったままで、幸一だけが、上の世界に放り出されたのかも知れないなどという妄想が生まれた。

 しかし、上の世界は下の世界とまったく同じなのである。なぜまったく同じ世界が広がっているのか分からないが、パラレルワールドという世界観を思い浮かべれば、分からない理屈ではない。

 今、この瞬間から次の瞬間に移る時、可能性は一つだけではなく、いくつもあるのだ。たとえば、もし自分が、朝起きて、家を出る時、どっちの足で敷居を跨ぐかによって可能性が変わってくる。無限に存在する。それがパラレルワールドというものではないだろうか。

 すると、時間の歪みの中で、紆余曲折があった中、元に戻ってくるパターンだってあるはずだ。そう思うと、別の世界に、まったく同じ世界が広がっている可能性も否定できない。

 そんな上下の世界の別々に、幸一と理美はいる。ただ、気になるのは、上の世界に、もう一人の自分が存在していないかということだが、同じ瞬間に、まったく逆の行動が展開されていたとすれば辻褄が合う。この世界の理美によって、下の世界に追いやられたということだ。

 もちろん、そんなことは普通の発想では考えられない。理美は消えたわけではなく、こっちの世界にも存在していると思うと、何かの力で、幸一には見えないような細工がされているのかも知れない。あまりにも突飛な発想に、さすがの自分も呆れてしまっていた。だが、理美が忽然と消えたのは事実であり、そんな発想をしたのは、

「理美に惑わされた」

 という、まるで理美がキツネだったのではないかと思わせた。

 しかし、キツネに抓まれたとでも思うと、理美の存在自体が架空だったという思いから、次第に理美がいたという意識が薄れていった。それはある一瞬から、急激に変わっていったことだが、その一瞬がいつだったのか、自分でも分からない。

 人が忽然と消えてしまったという事実、そのこと自体、理美の記憶と同じように消えていった。やはり、これもある一瞬からだったのだが、いつだったかは分からない。理美の意識が薄れてくるよりも早かったことだけは分かっている。

――あの時の僕は、どうかしていたんだ――

 と、しばらくの間、ボーっとした感覚が続いていた。

 理美を意識しなくなると、次第に、自分が孤独であることを思い出してきた。その孤独は寂しさから来るものではなく、以前からあった、

「一人の自分も、悪くない」

 という思いを今さらながらに抱かせるものだったのだ。

 同じ一日でも、孤独を思い出すことで、二十四時間の感覚が変わってきた。孤独を感じていないと、漠然とした二十四時間だが、孤独だと思っていると、二十四時間のどの瞬間にでも、自分にとって意味のあるものだという意識が戻ってきた。

「やはり、僕は孤独を感じている時が、一番自分らしいんだ」

 と、自分に言い聞かせていた。

 以前は自分に言い聞かせるなどということは不要で、孤独だという感覚を中心に自分を考えてみると、そこには自分だけの自由な時間が広がっている。

「そうさ、僕は誰に縛られることもないんだ」

 自分に言い聞かせたわけではないが、呟くことによって、自分の感性が元に戻ってくる。やはり感性が戻ってくる瞬間というのは、本当に気持ちのいいものだということを、幸一は今さらながらに感じていた。

 理美がいなくなって、一か月もすれば、元の生活に戻っていた。もちろん、理美のことを完全に忘れたわけではない、ただ、記憶の中が欠落してしまった感覚が残ってしまい、日々の孤独な生活に心地よさが戻ってくるまでに、時間が掛かったのだ。

 心地よさは開き直りなのかも知れない。開き直りの瞬間があったのは分かっているし、感じることもできた。それは理美への意識が薄れていった瞬間に似ていた。まるで同じ世界に迷い込んで、そこから戻ってきたような感覚である。

――よく同じ場所に戻ってこれたな――

 と感じるほど、その瞬間に入り込む機会は、かなりあった。

――ひょっとすると、いつでも存在しているのかも知れない――

 その頃になると、時間や瞬間について、自分がいろいろ考えていることに気が付いた。自分でも分からないほど無意識に考えていることが多く、

「何も考えずにボーっとしていた」

 と感じる時は、そのほとんどが、時間や瞬間のことを考えている時だった。

 理美のことを記憶が薄れてきてくれたおかげで、ショックが小さくて済んだのかも知れない。一か月で忘れることができたというのは、幸一にとって、短い期間だったからだ。それまでも失恋というと、半年くらいショックだったこともあったくらいで、どうしても忘れることができないと思っている間は、まずショックが消えるその先が見えてこないのだ。

 一か月が長いか短いか、それは、ある一点を迎えるかどうかに掛かっている。それをターニングポイントとするならば、一か月で吹っ切れるのであれば、最後の五日間くらいに訪れるのではないだろうか。

――好きな人を忘れるには、一か月は短すぎる――

 と考えるのであれば、幸一は、まだそんなに理美のことを好きになっていなかったのかも知れない。

 一か月が過ぎると、それから半年ほど、女性を意識することはなくなっていた。

 好きになるのが怖いという気持ちと、自分にウソが付けない自分が、また傷つくことを恐れている気持ちとが交錯していた。

 一人の女性を忘れるまでに一か月程度だったにも関わらず、女性を意識できなかった時期が半年とは、かなり長かった。

 幸一本人の意識としては、一人の女性を思い続けた一か月も、女性を意識できなくなった半年とでは、さほど基幹的な開きを感じていない。

 それだけ、一人の女性を想っていた時期が長かったということだろうか。幸一は頭の中から理美のことが消えていくのを感じながら、

――このまま会えなくなるとは、どうしても思えない――

 という意識を、ずっと持っていた。

 そのせいか、半年間という長い間、女性への意識がなかったのは、怖かったという意識だけではなく、自分の前からいなくなってしまった女性を完全に忘れているわけではないという思いがあったからなのかも知れない。それでも季節は容赦なく通りすぎる。何事もなく季節が過ぎたかと思っていると、気が付けば三年が経っていた。

 その三年間で、幸一は好きな人が数人いた。

 孤独を自由として味わっていたのは事実なのだが、孤独が自由を支配してくると、孤独の頂点が、自分の幸せのように思えてくる。

 一人でいると煩わしいことなど何もない。何か心境の変化があっても、その都度まわりに気を遣う必要もない。自分のまわりに誰もいないというわけではないが、その人たちに対して気を遣うという意識を持たなくても、そのままでいることが、お互いのためになるような関係。それが自分にも自由をもたらしてくれるのだと思うと、

――やはり孤独がいいのかも知れないな――

 慣れてくると、苦しさも次第に楽になれる方法を自分なりに工夫できるようになってくる。

「住めば都」

 という言葉もあるが、要は気の持ちようである。どんなに狭い部屋でも、工夫次第でいくらでも居心地のいい部屋に変えることができる。そのために自分のまわりに遊びの部分を作っておけるような自由な空間を持つことが、自分にとっての「孤独」という感覚だと思っている。他の人にとって辛いことでも、幸一にとっては、チャンスを迎え入れることのできる空間、それを自覚できる自分を、幸一はまわりに自慢したいくらいのつもりになっていた。

 その三年間は、好きになった人はいても、なかなか進展しなかった。相手をそこまで好きになれなかった自分がいたのも事実だし、相手によっては、最後に幸一の悪口を惨々言いまくって、離れて行った女もいた。

 それでも、幸一は、

――自分の戻ってくる場所に戻ってきただけだ――

 と、何を言われようとも、すぐに忘れることができた。

 むしろ、惨々言いまくってくれた方が、却って気が楽だった。

――しょせん、あんな女なんだ――

 と思えば諦めもつく。

 しかし、それでも、どうしてそこまできつく言われなければいけないのかと思うと、さすがにショックを隠し切れない時期もあった。それでもすぐにショックから抜けることができたのは、自分が孤独だという意識があるからだ。

――孤独という考え方は、寂しさを伴わなければ、自分の感情を万能にすることができる――

 それが、幸一にとっての三年間という期間の基本的な考えだった。

 三年が経ったある日、

――これまでの三年間って、自分にとって、一体何だったんだ?

 と感じさせる出来事があった。

 それまで忘れていたはずの理美が、突然、幸一の前に現れたのだ。

 それはあまりにも唐突で、存在すら他の人の記憶から抹消されていたはずの理美が、一人ポツンと、幸一の部屋の前で待っていたのだ。

 出会った時の理美の雰囲気とはまったく違っていて、まるで捨てられたネコのようだった。

「私、行くところがないの」

 顔色も悪く、立っているのがやっとの様子。見るからにやつれていて、見る影もなかった。

――これが三年前の理美と、同じ女なんだろうか?

 その姿は、完全に憔悴しきっていて、一体何があったのか、想像することさえ罪ではないだろうかと感じさせるほどだった。

「どうして、僕のところに?」

「だって、幸一さん言ってくれたでしょう? 『いつもそばにいるよ』って……」

 幸一は愕然とした。

 三年前のあの日、忘れられなくなる手前で別れはしたが、確かに心の中で、

「いつもそばにいるよ」

 と思い続けていた。

 だが、それを言葉にして表に出した記憶はない。理美への思いすら記憶が薄れているのに、ずっと感じていた思いは忘れないだろうが、それを言葉に出したかどうかなど、覚えているわけもない。

 ただ、この気持ちは、他の女性に感じたことはなかった。そこまで相手を好きになったことも、相手との距離の短さを感じたこともなかった。それだけ、理美への思いは特別だった。

「それにしても、一体どこにいたんだい?」

 理美をこんなに正面から見つめたことがあっただろうか? 今にも倒れそうな理美を抱え起こそうと、幸一の手は勝手に動き始める。言葉を発したと同時に理美の身体が、崩れるのを感じた。

 一気に歩み寄って、抱え起こそうとする幸一。それはまるでスローモーションであるかのように、ゆっくりと時間が進行していた。言葉の余韻を残した状態で、抱き起こした理美は、もう自分では立っていられない。肩に背負うようにして、部屋の鍵を開けて、中に入ろうとすると、今度は幸一の力が急に抜けていき、そのまま二人して玄関先になだれ込むように倒れこんだ。

 すでに、発した言葉すら忘れてしまっていた幸一だったが、何とか、理美を部屋の中まで連れて入ると、急いで布団を敷き、そこに寝かせた。

 理美を抱きかかえるまでのスローモーションがまるでウソであるかのように、抱きかかえてから、部屋に入れ、布団に寝かせるまで、あっという間の出来事だったのだ。

 布団の中に入った理美は、完全に憔悴しきった身体を起こすことができず、そのまま眠りこんでしまった。それでもこん睡状態というほどではなく、スヤスヤと寝息を立てている。その様子を見ていると、三年前の理美への思いがよみがえってくるような気がした。

 その時はまだ、

――よみがえってきた気がした――

 という程度で、これから思い出すことができる可能性が上がってきている程度にすぎなかったが、実際に顔を見ていると、それが現実味を帯びてくるようで、やはりこの三年間というものは、幸一にとって、あっという間であったことを感じさせた。

 幸一は、理美の静かな寝顔を見ながら、三年前のことを思い出そうとしていた。

「あれ?」

 なぜなのか、思い出そうとしているのに、理美に対しての記憶がほとんどよみがえってこない。

――あれだけ好きだったはずなのに――

 今でこそ、記憶の奥に封印されてしまった理美の記憶だったが、もし再会することができれば、記憶は必ずよみがえるという気持ちが強かった。

 それなのに、思い出せないどころか、さっきまで思い出せそうに思えてきたことが、どんどん深みに嵌ってくるかのように、記憶の奥へと潜りこんでいくようだった。

――思い出すために、記憶を手繰り寄せているつもりが、手で奥の方へ押し込んでいるようだ――

 と思った。

 考えてみれば、穴に手を突っ込んで奥から一つのモノを探し出すことよりも、手を突っ込んで、何でもいいから奥へ押し込む方がどれほど楽なのか。そう思うと、思い出したいという思いよりも、

――楽をしたい――

 という気持ちになる方を選んだことになる。

 ただ、その楽というのは、傍目から見ると、苦労する方に自ら入り込んでいるように言えることがある。

「まわりからは同情的な目で見られ、さらに、自分が楽できるのなら、どれほどいいものか」

 ということを無意識に計算しているのだとすれば、これほどしたたかなことはない。

 だがそのことに気付くと、自己満足であることが分かってくる。

 自己満足を、幸一はしたくないと思っていた。自己満足で終わってしまっては、そこから先がないからである。しかも、自己満足を自覚してしまうと、何もできなくなってしまうような気がしたからだ。実際に、大学時代自己満足を感じたことがあったが、それが失恋した後、どうしてうまくいかなかったのかという原因を考えていた時にぶつかったのが、自己満足なのだ。

――自己満足は、自分にとって、負の要素でしかない――

 そう思うようになったのは、その時からだった。

――理美とのことを思い出せないのは、思い出すことで、自己満足を引き出すことが分かっているからなのかも知れない――

 それが理美と付き合っていた時に自分で気付かなかった、

「別れへのパスポート」

 のようなものだったのかも知れない。

 しかも、そのパスポートは、本人に意識させることのないほど急速なものであり、理美のことを想っている間は、自己満足が自分にあったということを意識させないものだったに違いない。

 記憶の消滅は、自己満足の気持ちとともに、記憶の奥に封印されてしまったのだろうか?

 幸一にとって、自己満足というのが何だったのか、今では少し分かっているような気がする。

――好きだったという考え自体が、自己満足だったのだとすれば、これほど悲しいことはない――

 それを認めたくない自分がいたことで、記憶が喪失していったのかも知れない。そんなことを考えていると、次第に、

――過去の記憶なんて、どうでもいい――

 と思うようになっていた。

 最初から、そう思っておけばいいはずなのに、そう思えないところが、幸一の自己満足の成せる業ではないだろうか。

 次第に気が楽になっていき、いつ目が覚めるとも分からない理美の顔を見つめていた。

「そういえば、じっくりと寝顔を見たことなかったな」

 ボソリと言葉にしてみた。記憶が封印されているとしても、こういうことは覚えているのである。きっと感覚が覚えているのだろう。感覚という字には、覚えるという文字が入っているではないか。

 理美の寝顔は、さっきまで憔悴していたはずの表情は残っていない。それまで不安しか感じられなかった顔に、安心感が浮かんでいる。それだけで幸一は、

「理美と再会できて嬉しい」

 と、思えた。

 なぜ今なのか、そして理美は今までどこにいたのか、さらにどうしてあの時、急に姿を消したのか。他の人の記憶までも抹消して……。

 疑問は尽きないが、幸一は理美の寝顔を見続けていた。

 次の日から、理美は幸一の部屋に住むようになった。

「私、行くところがないの」

 突き放すわけにはいかない。その言葉だけで十分だ。何と言っても、理美が帰ってきてくれたのだ。それだけでも嬉しい限りだった。

 あまり広くない部屋。それでも誰かが来た時のためにと思って、もう一セットの布団を用意しておいてよかった。まさかその布団を理美が使うようになろうとは思いもしなかった。

 一夜明けると、理美はだいぶ元気になっていた。ぼろ布のようになって、表に立っていた面影はだいぶ消えていたが、

「しばらくは疲れやすいだろうから、ここでゆっくりしておけばいい」

 と、声を掛けると、

「ありがとうございます」

 と、恐縮した様子で答えていた。

 疑問を一つ一つ聞いてみたいというのは山々だが、あまりにも多すぎて、何から聞いていいのか分からない。疲れやすいからゆっくりしていろと言った手前、余計なことを聞くのは野暮だろう。

――落ち着いたら、彼女の方から話してくれるだろう――

 という思いだけで、今はいいと思っていた。

 幸一は、仕事が終わったら、一目散で家に帰ってきた。いつもなら途中で買い物をして帰るところだが、まずは、理美の顔を見ないと安心しないという思いから、まっすぐ帰宅していた。

「ただいま」

 扉の鍵を回して、扉を開けて、大きな声で呼びかけると、奥の方から、

「おかえりなさい」

 と、声は小さいが、しっかりした理美の声が返ってくるのが確認できただけでも嬉しく思う。

 奥の部屋に入ると、テレビが付いていて、パジャマ姿の理美が、こちらを見上げた。

「お疲れ様でした」

「起きていて大丈夫なのかい?」

「ええ、だいぶ元気になりました。本当にありがとうございます」

「理美さえよければ、いつまでもいていいんだからね」

 というと、笑顔が涙目になり、安心した表情になった。

 理美が見ている番組はニュースだった。若い女の子なので、ドラマなどを見ていてもよさそうなのだが、ニュースを真剣に見ている。もし、幸一が声を掛けなければ、どこまでも真剣な表情になっていただろうと思うほどだった。

「ニュース、そんなに気になるかい?」

「ええ、前までいたところは、このあたりの情報がほとんど入ってこないところでしたから、新鮮なんです」

 という。

――このあたりの情報?

 おかしなことを言う。このあたり以外に、どのあたりの情報が入ってくるというのだ。ニュース番組なら、どこで見ても、全国的に共通のニュースであれば同じはずだ。地域で違っても、それは必要以上に意識することではないし、理美が新鮮だというのは、ニュース全体のことに対してなのか、それとも、この地域独自のニュースをいうのか、よく分からなかった。

――きっと、どこか遠くに行っていたんだろうな――

 と思ったが、聞くには及ばなかった。

 ニュースを見ていると、ちょうど、隣の県で発生した連続殺人犯の二人組が、民家に押し入り、籠城し、その家の人を人質にして、立てこもっているところだった。

「この人たち、本当に可哀そうだわ」

 と、理美は言った。そして、よく見ると、涙を流している。

「きっと、警官隊が助けてくれるさ」

 というと、

「そうね。でも……」

 と、言って、さらに暗い顔になった。

 幸一が、テレビを見ている理美を横目に、風呂に入っている間に、事件は解決していた。解決はしていたが、結果は最悪。犯人、被害者ともに死亡という悲惨な結果に終わってしまっていたのだ。

 理美は、もう涙は流していないが、寂しそうな顔でテレビを見ている。

――理美は、結果を知っていたとしか思えない――

 幸一は、その悲惨な瞬間を見ていないので、何とも言えないが、すべてが終わって後始末に追われている光景を見ているだけで、喧騒とした雰囲気が残っているのが感じられた。実際の場面がどれほど殺伐としたものだったのかを思い浮かべると、生放送中だったとはいえ、放送限界ギリギリの生々しさだったに違いない。

 幸一は、少し茫然としている理美の背中を見ながら、しばし佇んでいた。理美の背中は不安に満ちているように見えたからだ。

――小刻みに震えているのかも知れない――

 そう思うと、幸一は後ろから思わず抱きしめていた。

 理美の両肩から幸一は腕を通し、理美の前で腕を組むようにして、後ろから抱きしめた。その腕に理美は手を添える。

――オーケーの合図だ――

 と思った幸一は、そのままさらに強く抱きしめると、理美の手にも力が入っているようだった。

 ふいに理美が後ろを向いた。待っていたかのように幸一は理美の唇を塞ぐ。

「わざと、後ろを向いたね?」

 と、意地悪っぽく聞くと、

「ふふふ」

 と、今度は理美がいたずらっ子の笑顔を、幸一に向けた。

 キスをしながら、幸一は身体を動かし、理美の前に回り込む。二人が三年前に付き合っていた時のことを幸一は思い出していた。

――こんなにキスがうまくなかったのにな――

 と、理美がキスを上手になるようにした誰かが存在するのだと思うと、少し嫉妬した幸一だったが、それは理美の方にとっても同じことで、この三年間の間に、すぐに別れることはあっても、キスくらいまでする仲に至った人もいたからだ。

 二人がキスをしている間に、ニュースは終わっていた。CMが流れていたが、二人がテレビに気が付くまでに、どれくらいの時間が掛かっただろう。結構二人の間のキスは長かったように思う。それはまるでお互いに知らない間の三年間を埋めるかのように、幸一は感じていた。

 幸一の三年間は、理美が目の前に現れたことで、長かったと思っていたのに、今から思えば、あっという間のことだったとしか思えなくなっていた。もちろん錯覚に違いないが、錯覚を覚えさせるほど、理美の存在は、幸一にとって大きかった。

 それは、今まで消息不明だった相手が目の前に現れた。しかも、他の誰でもなく、自分のところに来てくれたというのは、幸一にとって男冥利に尽きるというものだ。理美にこの三年という間に何があったとしても、

「僕は理美を守り抜いてみせる」

 と、まるでヒーローか何かになったような気分になっていた。

 キスが終わると、幸一が声を掛けた。

「今日は、表で食事しようか?」

「ええ、じゃあ、着替えますね」

 と言って、理美は部屋の端の方に行くと、パジャマを脱いで着替え始めた。

「シャワーは、さっき浴びていましたので、着替えが終われば、すぐに出かけられますよ」

 と言って、後ろ向きの格好から、首から上をこちらに向けて答えた。その様子が、今まで知っている理美とはイメージが違ったことに、幸一はドキッとしてしまった。

 元々以前に、表で食事をしようと最初に言い出したのは、理美だった。

「近いうちに私が食事を作るようにしますから、最初のうちだけ、表で食事をしませんか?」

「どうしてだい?」

「ずっとお部屋の中にいるよりも、幸一さんと一緒にお出かけしたいと思うんですよ」

 その意見には幸一も大賛成だった。あまり広いとは言えない部屋で、しかも、今までは男やもめの一人暮らしのむさ苦しい部屋、一日に一度くらいは外出しないと、息が詰まることだろうと思っていた。

「そうだね。昔を思い出して、表でデートするのも悪くない」

 というと、理美は二コリと微笑んだが、それ以上に、笑顔の裏に隠れた寂しさが幸一には感じられ、気になっていた。

――一体、何が理美をこんなに寂しそうな雰囲気にさせるというのだろう?

 見当もつかないが、今はそっとしておくべきだと思った。ただ理美が自分のそばにいたいという気持ちだけを大切にしてあげることが一番であり、それ以外のことは考える必要のないだろう。

 夕食は、駅前にできたハンバーグ屋さんに決まった。ここを決めたのも実は理美だった。開店三日目だったようで、客はそこそこだったが、正直高級メニューの値段もそれなりだった。それでも理美が行きたいというのだからと、少々無理を承知で店に入った。

「わぁ、綺麗だわ」

 と、理美は天井から部屋の隅々まで見渡していたが、

「懐かしいわ」

 と、一言口にした。

「ここって、最近できた店じゃないのかい?」

「ええ、そうよ。でも、私には懐かしい感じがするの」

 と、理美は答えた。

「懐かしいとは?」

「こんなに綺麗なお店じゃないんだけど、どこか似たようなお店に入った記憶があるのよね」

 と言って、さらにまわりを眺めた。

――理美は、この三年の間に何かがあって、記憶が曖昧な時期があるのではないだろうか? それとも、この街と似たようなところに住んでいて、そこの記憶を失くしているのかも知れない――

 と思うようになっていた。

 このレストランの記憶が、理美の失ったであろう記憶を呼び起こす何かになればいいと幸一は思うようになっていた。

「あれ? 理美じゃないの?」

 レストランに入って注文を終えたところに、ちょうど後ろから声が掛かったので振り向いてみると、そこにいたのは、三年前に理美と一緒に合コンに来ていた女性だった。

「久しぶり、元気にしてた?」

 と言われて、

「ええ、何とか」

 と、少し元気がない様子で答えていたのも関わらず、

「そう、それならよかった」

 と、理美の様子よりも言葉を信じたのか、雰囲気の違いを、あまり気にしていない様子だった。

――待てよ・確か彼女は、三年前に理美の行方を聞いた時、理美の存在すら知らないと言ってなかったっけ?

 その時に、

「そんなバカな」

 と、思わず声に出してしまいそうになったのを必死で堪えたのを思い出した。その時は彼女が、

――結構暗いタイプの女性なんだ――

 と、感じた記憶があったが、今の彼女は、明るい性格が滲み出てくるような雰囲気に、あの時と本当に同じ人間なのか疑いたくなるほどであった。

 それにしても、三年前には、理美の存在を忘れていたというよりも、知らないと答えた人間が、三年経てば、今度は知らないと言った本人から、声を掛けてくるのだから、信じられないという思いも当然のことだ。

「未来も、元気そうね」

 と言って、二人で微笑みあいながら、幸一には二人だけの世界が目の前に展開しているように思えてならなかった。

 未来と呼ばれた友達も、よくよく見てみると、

――これが本当に三年前に話を聞いた女の事同一人物なのだろうか?

 確かに外観は同一人物だが、中身はまったく違う人間になっているかのようだった。その証拠に、理美にだけ話しかけて、隣にいる幸一に話しかけるどころか、まったく見ようともしない。

――本当に僕が見えているのかな?

 と思うほどの反応に、苛立ちを覚える以前に、呆れかえる気分にさせられていた。

 未来という女の子の雰囲気を見ていると、二人だけの世界も、他の世界から、どこか逸脱しているかのように見えたのは、幸一の偏見による錯覚なのではないだろうか。

 いや、そんなこともないようだ。未来を見ていると、明らかに三年前に会った彼女とは違っているように思えてならない。

 どこが違うのかと聞かれても、ハッキリとは分からないが、どこか一貫性がないように感じるのだ。いくら三年経っていたとしても、同じ人間であれば、パターンがあるはずであり、彼女にはそのパターンが三年前とどこか違っている。最初にパターンの何が違うのかを考えた時、見えてきたのが、相槌の打ち方だった。

 二人の間に、どこかぎこちなさがあるにも関わらず、呼吸はピッタリと合っている。それは旧知の仲でなければ通じ合うことのできない阿吽の呼吸であった。

 ただ、それも二人だけの世界に入っている時だけで、まわりの景色が目に入ってしまうと、途端にぎこちなくなってしまう。

――二人だけの世界は、ここにはないのか?

 二人がこちらを見えないように、今見えている二人は、どこか遠くに存在していて、映写機のようなもので映し出されているだけのように思えた。

 錯覚には違いないが、理美のまわりにはそんな錯覚が多い。

 幸一は三年前の理美との日々を思い出そうとすると、今度はモヤが掛かったみたいになってしまい、思い出すことができない。

――おかしい、昨日は思い出せたのに――

 一晩寝ただけで、昨日まで思い出せたことが急に思い出せなくなる。こんな感覚は初めてだった。

――理美には、相手の記憶を操作する力があるんじゃないか?

 などと、オカルト的な発想が浮かんできたが、すぐに否定した。改めて、オカルト的なことを考えて、すぐに打ち消すなど、苦笑いしか出てこない自分に対して、嘲笑している自分がいた。

 二人の世界を見ていると、幸一も自分の世界を作ってしまい、余計な妄想を抱いてしまったようだ。我に返ると、すでに二人の会話は終わっていて、今まさに理美から声を掛けられようとしているところだった。

「何よ。ボーっとしちゃって」

 と、理美は笑っていた。

――これが昨日と同じ人間なのか?

 と思うほど、アッサリとしていて、他の女の子と、変わりがないことに気が付いた。

「さっきの未来とは、よくお食事に行ったものだったのよ」

 と言いながら、また店内を見渡した。

「未来さんは、理美といつからの知り合いなんだい?」

「中学時代からかしら? 結構長いお付き合いになるわ」

 中学時代からで、長い付き合いというのは、少しおかしな気がしたが、自分の長さを感じるのは、人それぞれ違っている。それをどうこういうことはできないはずだった。

「中学時代からの友達というと、思春期を一緒に過ごしたという感じだね」

「ええ、私はお父さんがいないから、お父さんがちゃんといた未来が羨ましかった。でも、私の気持ちが一番分かってくれていたのは未来だったので、彼氏を作るよりも未来と一緒にいる方が長かったわ」

「そんなに仲がよかったんだね? ところでお父さんがいないというのは?」

「うん、物心がついた頃からいなかったので、『私はお父さんがいない子供なんだ』って、それがまるでくじ引きに負けて、そのせいで父親がいないというような、ほとんど他人事のような感覚だったわ」

 思春期に父親がいないというのは、どんな感覚なのかよく分からなかったが、親に対してあまり深く考えたことのない幸一には、『父親がいない』という理美が新鮮に感じられた。きっと、大切なものを持っていない人が出す独特のオーラを、知り合った時から理美はずっと醸し出していたのかも知れない。

 幸一のまわりに父親がいないという友達もいた。その人の場合は、両親が離婚したからだというが、親の話を一切しなかった。親の話になると、すぐ離席したので、幸一は気になっていた。だが、悲観的なことは一切なく、親の話以外では、別に他の人と同じだった。

「お母さんはどんな人なんだい?」

 と、理美に聞いてみた。

「お母さん、そうねえ……」

 と、半分上を見るように思い出そうとしていた。しばし時間を与えてみたが、理美がおもむろに語り始めた。

「お母さんは、物静かな時と、賑やかな時と、極端だったわ。そして、一人の人を思うと、ずっと思い続ける人。それから、自分の宝物は大切にする人だわ」

 母親の話になると、ウットリしたように話し始めた理美の顔を見ていると、安心感がよみがえってくる。

――この安心感、以前にも味わったことがあったわ――

 それがいつだったのか、そして、誰に対してだったのか、思い出せそうになっていながら、どうしても思い出せない。それがもどかしく感じられ、ゆっくりと理美を見つめていた。

「いつのことでもいいか」

 と、理美が母親を思い出している顔を見ながら、ニコニコしている幸一だった。

「理美も、自分の宝物を大切にするんだろう?」

「ええ、ちゃんと大切にするつもりよ。でも今はこれが宝物だと思えるものがあるんだけど、それが本当にそうなのか、見極めているところかも知れないわ」

 と、言って、幸一を見た。

 理美の言う「宝物」というのが、幸一自身のことであれば、どれほど嬉しいかと思う幸一だった。

「お母さんの宝物って何だったんだろうね?」

「前に一度聞いたことがあったんだけど、その時は、『それはあなたよ』と言われて照れ臭くなったんだけど、どうやら、お母さんには宝物がもう一つあるようなの。それが何なのか分からないんだけどね」

「お父さんとの思い出かも知れないよ」

「それだったら、ロマンチックよね。私も本当はそうであってほしいって思っているのよ」

 この世で、永遠に会うことのない人の思い出は、それ以上よくなることもなければ悪くなることはない。次第に意識が薄れ、忘れていってしまうか、このまま死ぬまで思い出とともに生きていくかのどちらかであるが、後者であれば、これから幸せになれる権利をその人はみすみす逃すことになってしまいかねない。理美の母親はどちらなのか分からないが、静かに温めているところを見ると、後者のような気がする。それでも幸せになれる権利を逃してしまうこともなく、冷静に見守っていける。それが、理美から見ていると、母親の一番暖かな雰囲気を感じるのだった。

 だが、母親の宝物は、本当に思い出なのだろうか?

 失恋した人が、思い出を胸に生きていくつもりだと言っているのを聞くが、本当にできるのだろうかと疑ってしまう。辛い思い出もあったはずなのに、なるべく楽しい思い出だけを残そうという心理が働くのは分かるが、いいことばかりしか思い出さないと、どうにもウソっぽい感じがする。そんなことをしては、せっかくの思い出も違った形で残ってしまう。まず考え方自体が間違っているのだ。

「お父さんがいないことに関してお母さんは何も言わないのかい?」

「お父さんの話になると、急に寂しそうになってしまう母を見ていると聞けなくなるの。他の人もすぐに気付いて『もうしないから』と言って話題を変えたわ」

 幸一は、理美のことを、この三年間で実はほとんど忘れてしまっていた。目の前に理美が現れた時も、一瞬誰だか分からずに、ひょっとすると、訝し気な表情になっていたのかも知れない。

 まるでボロ雑巾のように、くたびれた姿を見せた理美に対して、幸一は見る影もなくなっていた理美を見て、逆にそれが理美だと分かったのだ。

 まるでさっきの母親が父親に抱いているかも知れない思い出と逆ではないか。よいところばかりを覚えている思い出、そして、理美に対しては、最悪なイメージが頭の中にあったのだろう。そうでなければ、完全に忘れてしまっていたのだと思っている相手の最悪の状態ですぐに思い出せるはずもないからだ。

 だが、こんなにひどい状態を三年前に目撃したわけではない。ということは夢で彼女を見た時に、最悪の記憶が刻み込まれたのかも知れない。それにしてもいくら夢で逢ったとしても、火のないところに煙が立つわけもない。どこかイメージ的なものがあったのだろう。特に急に目の前から消えてしまった相手。印象が残ったとしても、異様な印象だったに違いない。

――それにしても、理美が記憶を喪失していたことにびっくりさせられたが、理美と再会して、自分もこの三年間で、理美のことを頭の中から消し去ろうとしていたなど思いもしなかった――

 もちろん、無意識にである。意識して人のことを忘れるなど、なかなかできることではない。

――無意識にでも忘れようとしたことは、誰かの力が介在しているのだろうか?

 と感じたほどだが、そこに働いているのは人の力ではなく、何か超自然的な摂理のようなものではないかと思えた。

「それって、自然の摂理じゃなくて?」

 自問自答してみたが、どうやら、超自然だと思っているのは間違いないようだ。

 幸一は、以前友達から借りた本を思い出していた。

 その内容は、以前好きだった女の子に再会する話なのだが、その女の子に対しては完全な片想いだった。

「ひょっとして初恋だったのかも知れない」

 と本の中では、そんなニュアンスを匂わしている。その本はすべてがアバウトで、決定的な言い回しは極力避けていた。それだけ主人公の思いが多岐にわたっているのではないかと思えるほどで、幸一は、発想の幅を広げながら読んでいた。

 そして、再会した時は気付かなかったが、次第に再会した時、自分の中で抱いていた彼女とイメージが違っていたことに気付き始めていた。

 元々、再会した時に違和感はあった。

――どこか違う――

 と思っていたのだが、それを深く意識しなかったのは、以前知っていた時よりも再会してからの方が、数段イメージがよかったからだ。

 人間、いい方に違和感があると、それが正解だと思いがちだ。しかし、それは事実に背を向けることであり、本来なら、分かっていながらそんなことをするのは、都合のいい方へとばかり考えてしまうからだろう。

 再会した彼女は、何が違うのかというと、最初に感じた新鮮さがなくなっていたことだった。ずっと会っていなかったのだから、久しぶりに会えば、それだけ新鮮さが増して見えるはずなのに、違和感がないのだ。違和感がないということは、新鮮さが増して見えているわけではなく、逆にずっと今まで一緒にいたと言われても不思議に思わない違和感だった。

 一緒にいないのに、一緒にいたような違和感があるくせに、新鮮さがないというのは、いささか矛盾しているように思えた。

 それは彼女が最初の時と、再会した後で、違う人間だったからで、それを隠すために、違和感をなくすための工夫がされていた。

 彼女には、人の記憶を左右する力があった。ただ、前の記憶をそのままに、新しい記憶に細工をするような器用なことはできない。一度自分に対しての記憶を消してしまって、新しい記憶を埋め込むことしかできなかったのだ。だから、イメージが違ったような気がしたのだ。

 彼女の誤算は、彼の記憶を消しに行った時、彼の中にある彼女への思いが、彼が想像していたよりも大きなもので、もちろん、彼女にも想定外であった。それだけに記憶を消しても中途半端だし、中途半端な状態で新しい記憶を埋め込もうとすると、ところどころに矛盾が生まれてくる。

 それが逆に新鮮さとして受け入れられたが、彼が本来感じる新鮮さとは程遠いものだった。

 この本の設定は近未来になっていた。そこまでは覚えているのだが、なぜかそれ以上のことは思い出すことができない。この本の記憶も肝心なところが消えていた。

――どうして、僕は最近こんなに忘れっぽくなってしまったのだろう?

 と考えた時に、思い出すのが皮肉なことに、この本のことだった。

 この本には、強烈なインパクトを与えられたくせに、肝心なところの記憶が抜け落ちている。そのため、幸一は抜け落ちた部分を想像で結びつけようとするが、一つが結びついても、他の部分にうまく結びつかない。それはまるで完成目前のジグソーパズルのパーツが、一つ合わないことを感じているようだ。

 ジグソーパズルのパーツが一つだけ合わないというのは難しいだろう。それは、一つが合わないのではなく、もっと幅の広いところで合わないのだ。一つだけ合わないという考えは、本当は矛盾している、それはここまで作るまでのどこかで、ボタンを一つ掛け違えたことから起こったことだった。

 それを探すのは至難の業である。しかも、

――たった一つのために――

 という発想が頭の中にある以上は、その考えを乗り越えることはできない。

 ジグソーパズルなら、どこまで戻していいのか、少しは見当がつきそうだ。だが、小説ではそうはいかない。それは、パズルのように物理的に全体が見えているものと、本の中の架空の世界という、掴みどころがないことで、前も後ろも読み込まないと分からない内容とでは、最初から目の付け所が違っている。

 したがって、本は読みこめば読み込むほど、情報が膨らんでくる。三十ページで三十記憶できたとして、六十ページを読みこんだ時の記憶が六十になるとは限らない、七十にも八十にもなるだろう。膨れ上がる記憶は、真ん中を頂点として、四方に放射状に広がってくる。

 最初の記憶は、後から生まれた記憶のさらにまわりに押し寄せられ、端の方が見えなくなるほど膨らんでくる。だから、最初の頃の記憶が小さく曖昧になってくるのだった。

 他の記憶や、今までの記憶についても考えてみた。ここまで忘れてしまうような記憶の仕方をしていなかったはずだ。ということは、最初の頃の記憶もそんなに遠くにあるような気がしない。新しい記憶の向こう側にあるのではなく、遠くならない程度に積み重なっているのではないかと思うのだ。つまりは、

「モノというのは、平面で考えるのではなく、立体的に考えないと、間違った意識を持ってしまう」

 ということである。

 その本のことを思い出して、さらに忘れっぽい性格について理論的に理解できそうになっていたが、このことが理美と自分にとって、どのような意味をもたらすのか、想像もつかなった。

 理美は、それからしばらく幸一の部屋にいることになるのだが、

「場合によっては、いつまでもいていいんだぞ」

 と声を掛けていた。

 元々一人暮らしのつもりで借りた部屋。二人になると狭苦しき感じるのは当然のこと。男二人で住むよりも、本音を言えば、理美と一緒の方が嬉しかった。しかし、それは最初だけのことで、次第に億劫になったり、煩わしさを感じたりしていた。

 億劫なのは、相手が女性ということもあり、気を遣わなければいけないところだった。そして煩わしさを感じるのは、やはり相手が女だということで、プライバシーに気を付けないといけないということ。これを破ってしまうと、自分が許せなくなるからに違いなかった。

 億劫な気持ちと煩わしさのコンビは、共同生活には最悪の敵である。その二つが両方とも潜んでいるのだから、どちらかが、精神的に崩れてくると、瓦解するのは時間の問題である。

 最初に崩れたのは、理美だった。

 すぐに怒りっぽくなっていたし、いかにも嫌な顔を露骨にするようになった。

――理美のあんな顔見たこともない――

 と、恐ろしくて震えを感じるほどだったが、逆に理美が幸一の顔を見てどのように思っていたのか、想像もしていなかった。

――本当は最初に崩したのは、自分の方だったのかも知れない――

 理美を疑ったのは、仕方がないが、それも、自分の精神状態が不安定だったことから、余計に相手が自分を責め苛んでいるような目をしているように見えたのだ。

――すべてを理美のせいにして、自分は早くこの世界から逃れたい――

 と思っていたに違いない。

 本当は自分の方から崩れたはずなのに、それを相手から崩れたと勘違いした。そのため、最初は精神的に余裕があった。理由は自分に優位性があるからだと思ったからだ。

 しかし、実際には自分の方が先に崩れたのだと分かった時、どうしようもない自己嫌悪に陥った。

「理美に悪いことをした」

 と思うよりも何よりも、自己嫌悪が先だったのだ。

 こうなってしまうと、意地が先に立ってくる。

――僕をこんな精神状態にしたのは、理美なんだ――

 と、完全な逆恨みを起こしてしまう。

 謂れもないことで幸一から恨まれることになった理美だが、理美には精神的に余裕があった。

 いや、余裕というよりも、こういう相手が精神的に不安定な時ほど、本当はコントロールしやすいことを知っていたのだ。しかも、他人にバレそうな時であっても、状況は完全に、理美の方が、

「悲劇のヒロイン」

 なのだ。

 疑いを向ける人がいたとしても、その疑いの気持ちは長くは続かない。それだけ幸一の精神状態が不安定になっているからで、ある意味、理美の手のうちにあると言ってもいい。理美の思うつぼに嵌ってしまっていたのだ。

 理美は、一時期、幸一の部屋から独立した。しかし、理美がいなくなって一人になったことで、幸一は冷静さを取り戻した。

 考えてみれば、全部自分の妄想から起こったことで、まわりを見る目が欠如していたことは、人から言われるまでもなく、自分で分かっていたことだった。

 幸一は、理美をすぐに呼び寄せようと思ったが、すぐにはできなかった、なぜなら、今呼び戻したとしても、また同じことを繰り返さないとも限らない。まずは自分がしっかりしなければいけないのだと、幸一は考えた。

 それは幸一なりに考えて出した結論であり、幸一も自分なりに成長したのだと満足した気分になっていた。

 すると、そんな幸一の気持ちを察したのか、理美の方から幸一のところに戻ってきた。

「ごめんなさい。私が飛び出すような真似をして」

 と、理美はあくまでも自分が悪いからだという殊勝な態度を示していた。そんな態度を取られて、男の方も恐縮してしまい、

「謝ることはない。謝らなければいけないのは僕の方さ。感情的になってしまって、本当にすまないと思っている」

「そんな、幸一さんが悪いわけではないわ」

「ありがとう、これからは、もっと二人が近づいていけるといいよね」

 と、その時の言葉通り、再会した時からこっち、今までで一番仲がよくなっていた。

 この期間は本当にあっという間だった。何しろ、前に再会したのは三年という長い月日を費やしてのことだったからだ。

 戻ってきてからの理美は、どこか以前の理美とは違っていた。

――すぐには分からないのだから、気にするほどの違いではないのだろう――

 と思っていたが、じっと観察していても、なかなか気付かないことに業を煮やしていた。それは、すぐに思い出せそうなことを度忘れしてしまって、思い出せないことが気になり眠れなくなった時に似ているような気がした。

 幸一が気にしている理美の一番の違いは、雰囲気だった。それ以外の理美も、以前の理美と違っているところが多く、料理など前はしようとしなかったのに、今では自分から積極的に作り、しかも味も一級品だった。

「これ美味いよ。こんなに料理が上手だったなんて言ってくれれば、今までもお願いしたのに」

 というと、理美は照れていた。

「ありがとうございます。前から料理は好きだったんですけど、お口に合うものを作れるかどうか自信がなかったんですよ」

 という理美を制して、

「いやいや、これだけできれば立派なものだよ」

 と言いながら、確かにどうしてこれだけ上手なら、料理をしてみようと思わなかったのか、遅かれ早かれいずれ作ろうと思っていたのなら、もっと早い時期でもよかったはずではないだろうか。

 エプロン姿で、台所に立っている理美の後ろ姿は、大人の女性を思わせた。

――前にも見たことがあるような気がするな。母親の後ろ姿? いやいやそんなことはない。あれは子供の頃の記憶だ。見たことがあるような気がしているのは、もっと最近のことで、目を瞑れば出てくる思い浮かぶほどだった――

 確かに、記憶というのは曖昧なもので、本当は、子供の頃の記憶であっても、つい最近の記憶のように思えたり、本当はつい最近のことだったのに、意識としては、かなり昔の記憶のように感じているものもある、どちらも自分の中に存在しているのだが、そのどちらにも法則性のようなものが存在しているのだろうか。

 たとえば、ずっと昔のことでも、その間に、ちょっとでも似たようなことが一度もなかった場合。あるいは逆に、つい最近のことでも、頻繁に似たようなことを意識しているとすれば、意識はかなり昔だったとしても不思議はない。それは必死に思い出そうとしなくても、手を伸ばせば届きそうな距離なのに、その間に似たような記憶がハードルとして立ち塞がっているために、ハードルにばかり気が行っているからなのかも知れない。

――人は、安易に考えている時ほど、困難なことが目の前に存在していれば、いくら自分には関係のないことだとしても、必要以上に意識してしまうものではないだろうか?

 それは、ことわざにある、

「好事魔多し」

 という意識が働く、要するに、安心している時ほど、余計なことを考えてしまい、ありもしない落とし穴に溺れてしまうことがあるからだ。いくら百戦錬磨の格闘家でも、試合の前にデリケートになるのと一緒で、人間にはデリカシーが存在する。だから、近い過去のことでも、かなり以前に考えてしまったりするのだろう。

 逆に似たようなことが一度もなければ、慎重にならざる負えなくなる。そうなると、真剣に考えようとする意識が働き、その作用が、考えている人の不安感を解消しようとするだろう。

 そうなると、どんなに以前のことであっても、その時のことを思い浮かべると、自分以外の光景が思い出されてくる。それだけ集中して真剣に思い出そうとするからだ。

 近い過去を思い出すことには安易な考えがあることで、思い出すこと一点しか思い出せないことも不安を募らせる要因になっていた。

 人間の心理とは、そんな曖昧なものである。

 心理は感情に左右されやすく、本人が、

「心理の錯覚」

 を自覚できるかどうかが、過去の記憶を曖昧さから鮮明さにできるかどうかの問題でもあるだろう。

 エプロン姿の理美の姿を、つい最近のように思えるのは、やはり真剣に感じた思いであり、さらに、似たような光景をほとんど見たことがないからだろう。

 理美は、鼻歌を歌っているようだ。心地よい適度の高さのオクターブが、幸一の耳を擽る。思わず後ろから抱き付きたくなるような衝動を何とか抑えながら、理美の後ろ姿を穴の空くほど眺めていた。

――気付かないのかな?

 これだけ熱い視線を浴びせているつもりでいるのに、まったく気付く気配がない。

――おかしい――

 またしても、幸一の頭の中で異変を感じる時の回路が働き始めた。この回路が働き始めた時だけ、頭の中のどの部分が動き始めたのか分かるのだった。

――幻を見ているのではないだろうか?

 そう思うと、遠い昔だったはずなのに、ごく最近のことのように見えていたその時の光景も、今から思えば、錯覚だったのかも知れないと考えるようになっていた。

 どうしてそれが子供の頃の記憶だったのかというと、あの時自分は立ちすくんで見ていた記憶があるからだ。そして目線が見上げていたこと、その二つに一致することは、まだ背が低かった子供の頃だったという結論しかないではないか。

 そして、今感じているのは、その時に見たと思っていたエプロン姿の女性の姿も、錯覚だったのではないかということである。

――エプロン姿の女性の姿。本当は一度も見たことがなかったのではないか?

 と感じた時、思いついたのが、デジャブ現象であった。

「前にも似たような光景を見たことがある」

 これは、今回感じた、

「以前にも見た記憶があるが、つい最近だったように思うのに、実際はかなり昔の記憶だった」

 という曖昧な記憶に繋がってくる。

 エプロン姿は幸一にとって、印象深いものだったに違いない。だから、見てもいないもの、錯覚だったものを、

――以前に見たことがある――

 と勘違いしたのだろう。

 そう思ってくると、この感覚こそが、デジャブの証明になるのではないだろうか?

 そこで意識として考えられるのが、潜在意識の存在である。

 潜在意識は、誰もが持っているもので。本能のように自分の意志を凌駕するものなのかも知れない。

「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」

 という人がいるが、幸一も同じ意見である。

 夢を見ている時のことは目が覚めるにしたがって忘れてしまう。それは、それぞれに世界が違うからだとも言えるかも知れないが、本能が見せるものだとすれば、想像力も、本能から培われるものではないかと感じるようになった。

 デジャブ現象を、

――感覚の辻褄を合わせるために考えられた、その人の本能ではないか――

 と、幸一は考えたことがあったが、今回のエプロン姿の後ろ姿を見ているうちに感じるのだった。

 エプロン姿の理美は、後ろ姿だから、誰にでも見えるという感覚もある。しかし、逆にこの意識が頭に焼き付いているために、誰かのエプロン姿の後ろ姿を見たとしても、それは理美だと最初に感じないとウソだと思う。

 そんなことを考えながら、ウットリとしていると、

「どうしたの?」

 という声が、どこからともなく聞こえてきた。声は確かに理美の声であるが、目の前で向こうを向いている理美の声だとは思えない。

――一体どこから聞こえるんだろう?

 とキョロキョロしていると、いつの間にか、こちらを向いている理美と目が合ってしまった。

「本当にどうしたの?」

 声は間違いなく、同一人物だ。それなのに、明らかに目の前の理美からではなかったような気がする。

――そういえば、電子音は、その特性上、どこから発せられた音なのか、分からないという話を聞いたことがあったな――

 目覚まし時計などのような音は、少し離れれば、正反対の方向から聞こえてきたような錯覚に陥ることがある。

――疲れているのかな?

 と感じるが、それだけで説明のつくものではないように思えた。

 確かに最近は疲れている。疲れているが、説明できないほどの疲れではない。熱があるわけでも、風邪の症状があるわけでもない。こんな時は、鬱状態に陥りやすいというのが自分の中にあり、それが怖いところだった。

 幸一のところに帰ってきた理美が、一体この三年間どこにいたというのだろうか?

 幸一にとってはこの三年、かなり長く感じられていたにも関わらず、理美の中ではあっという間だったような気がしているようだ。それを感じたのは、それから三日後のことだった。

 理美は、幸一のくせをほとんど覚えていた。好き嫌いに関しても、熟知していて、三年という月日を感じさせないものだった。

「本当によく覚えているんだね」

 と言うと、

「私にとっては、一瞬のことのようだったからね」

 と言って笑っている。

 その笑顔は、数日前の憔悴しきった理美からは、想像もつかないものだったが、初めて会った時に比べれば、笑顔に覇気は感じられなかった。

 それでも、少しでも元気になってくれたことは嬉しく思い、

――僕の手で、もっと笑顔にしてやりたい――

 と、感じるようになっていた。

 理美は、体力があるようでいて、結構疲れやすいようだった。ちょっと歩いただけでも息切れしていた。一緒に歩く時は、理美にペースを合わせないといけなかった。それでも、じっと部屋にいるよりはマシで、仕事が終わって帰って来てから、ゆっくりと家の近くを散歩するようになっていた。

「落ち着くわ。夕方の時間というのは、前はあまり好きじゃなかったんだけど、今は好きになったわ」

「どうして夕方は嫌いなんだい?」

「日が沈むのって寂しいって思ってたの。夜のとばりが下りても、寂しいとは思わないのに、不思議よね。でも、寂しさがそのまま好きになれないということに結びついてくるとは思っていないのよ」

「僕も、寂しさが、好きになれないわけじゃない。一人でいたいって思うことだってあるし、人の存在を訝しく感じることもあるからね、だけど、寂しさって、孤独とともに、自由もあるような気がするんだ。孤独と思うから寂しさを嫌な気がしてくるんだけど、自由だと思えば、全然辛くなんかないもんね」

「そうですね。逆に私は、孤独が、寂しさだけではなく、自由を含んでいるような気がするの。私の場合は、寂しさよりも、自由の方が大きな感じがしてくるわ」

「それはポジティブな考え方だね。確かに、モノは考えようって言われるけど、まさしくその通りなのかも知れないわ」

 幸一は、理美の目が好きだった。

 優しそうで、それでいて、包容力を感じさせるくせに、どこか頼りなさそうに見えて、人に委ねることを望んでいるその目は、一体どれほどの人を見つめてきたのだろう?

――僕が知らないたくさんの人を見つめてきたと思うと、少し嫉妬するような気がしてくるよな――

 という思いを抱かせた。

 幸一は、この三年間、女性を意識しなかったといえばウソになるが、理美のような女性はいなかった。そして、理美のような女性がなかなかいないと思うようになってくると、今度は、

――理美とは、必ず近い将来、再会できる――

 という、根拠のない自信の元に、再会を望んでいたのだ。

 それが、三年後のあの日だったわけだが、なぜ三年なのか、考えたりしなかった。この三年の間に、理美はまったく変わっていない。幸一が三年間という時を刻んできたのに対し、理美は三年前のあの日から時を飛び越え、いきなり、三年後のあの日に飛び出してきたように思えてならなかった。

 理美を見ていると、あれだけ忘れてしまいそうになるくらいに長かったと思っていたのに、最後に行ったコンサートが昨日のことのようだ。それに比べて昨日のことが、さらに前のことに思えてくるから不思議だった。

 時間の感覚というのは、感じる人によって、いろいろな側面を見せるものなのかも知れない。そこに、違った形のものがあったとしても別におかしなことではない。理美を見ていると、そう感じられて仕方がなかった。

 この三年間、幸一は冬になるのを待っていた。それは、理美と一緒にいた時期が冬だったからで、冬になると、

――理美のことを思い出してもいいんだ――

 と思うようになり、クリスマスの時期など、寂しいことを分かっていても、どうしても、思い出さずにいられない。

 三年前のクリスマス。あれだけ楽しみにしていたのに、理美がいなくなったコンサートの日、あの日は、クリスマスの一週間前だった。

「クリスマスプレゼント、何にしよう?」

 と、仕事が終わってから、夜のとばりが下りた街に繰り出すと、師走の「眠らない」街が、幸一を迎えてくれた。聴いているだけでウキウキしてくるクリスマスソングに耳を傾けながら、ショウウインドウの明るさに目を奪われている自分に気付かされる。

――街がこんなに賑やかになるなんて――

 学生時代にも味わった感覚だったが、卒業した後感じたことがあったとしても、就職一年目くらいのもので、それもそろそろ一年が経とうという中、季節が独特だというだけで、自分の性格が変わってしまうところまでは感じることはなかった。

 学生気分が抜けていないわけではないはずなのに、ウキウキした気分になったのは、それだけ季節が活性化されていたことで、「やる気」に火が付いたと言っても過言ではないだろう。

 もう一つは、社会人であっても、学生であっても、

「楽しいものは楽しい」

 という感覚を持てるからだ。学生時代には、彼女がいなくて寂しいと思いながらも、街の喧騒とした雰囲気を味わいながら、

「よし、来年こそは、彼女を作ってクリスマスを迎えるぞ」

 と、意気込んだものだった。

 しかし、まさか失恋とまでは行かないまでも、彼女になれたかも知れない相手が、急に目の前から消えてしまったことで、気持ち的にはショックのために、最悪だった。それでも容赦なくやってくるクリスマスに対して、幸一は今までにないほどの寂しさを感じながら、今までにない異様な感覚を持って、クリスマスを迎えた。

――クリスマス前まではあれだけ浮かれ気分だったのに、終わってしまった時、心を通り抜ける風の冷たさを、これ以上のものはないと思わせるほど、今年は辛く感じることもなかった――

 前と後でこれほどの違いを感じたのは、初めてだったはずなのに、辛さを感じている時に、クリスマス前の楽しかった時期のことを思い出した時、

――こんな感覚、以前にも味わったことがある――

 と辛さの中にまで、デジャブ現象を感じることになるなど、思いもしなかった。

 幸一は、理美と再会し、クリスマスを二人きりで楽しんだ。そんな中で幸一も理美も、それぞれに考えていることが違っていた。話が途切れてしまうとお互いに自分の世界に入りこみ、考え事を初めてしまう。それでも、お互いに気持ちは通じ合っているつもりでいるのだが、そこには越えられない壁があった。幸一は理美の考えていることを分かろうとしていたが、理美の方では幸一が考えていることは百も承知だった。その状態の中で、理美がいかに行動しなければいけないのかが、自分で分からない。

――ここは、一歩間違えると大変なことになってしまう。かといって、あまり自分を曝け出しすぎて、幸一さんに、余計な考えを抱かせてしまっては、せっかく戻ってきた意味がなくなってしまう。ここが正念場なのかも知れないわ――

 二人は、自分の思いを隠して、お互いの気持ちよりも相手の気持ちを考える。

「相手のためだ」

 などという考えではない。

 これから先のことを見据えての考えであり、お互いに大人の考えだと思っていた。三年目に再会してから迎えた初めてのクリスマス。少なくとも理美にとっては、正念場となるに違いなかった……。

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