リミット
森本 晃次
第1話 ポスターの女の子
今まで、一目惚れなどしたことがないと思っていた幸一は、これからも一目惚れなど自分には無縁なものだと思っていた。理由は、一目惚れした女性に対しては、どうしても感情が先走ってしまい、本当に好きなのかどうか、見極める前に有頂天になってしまうことが目に見えているからである。
その女性と出会ったのは、通勤途中にある広告を気にするようになって、数か月経ってからだ。ちょっと大きめの看板に、標語のようなものが書かれているポスターのイメージガールのようだった。
制服警官に扮した彼女の笑顔は、普段ならアイドルグループが目立っているのを感じていたが、女の子が一人だと、大人しく見え、そのくせ一人でも目立っているのは、清楚な雰囲気が、ポスターから醸し出されているのを感じたからだ。
清楚な感じの大人し目の女の子は、幸一にとって好きなタイプではあったが、ポスターになっていては、あまり意識しなかった。ポスターのモデルになるような女の子と、自分の好きなタイプの女性は一致しているわけではなかったが、たまに好きなタイプの女の子がモデルになっているのを見かけると、ドキッとしてしまうことはあった。しかし、それは逆に憧れであって、高嶺の花でしかないことから、好きになることはありえないと思っていたのだ。)
ポスターになるような女の子は、遠い存在であり、気持ちを込めるなどありえないことだった。惚れっぽいくせに、一目惚れがないのは、遠い存在に思える相手に対し、自分の中で惚れていい相手かどうか、冷静に見極めていたからだった。
それに、メディアへの露出度の高い女の子が、自分の身近にいるなどという発想は、最初からなかった。
もし、同じ学校にいたとしても、彼女のまわりには、たくさんの人が絶えず群がっていて、自分なんかが近づけるはずもないからだ。同じ学校にアイドルやモデルなどがいれば、却って近づけるわけのない自分を情けないという目で見るに違いない。相手はちやほやされている女の子で、こちらは、何の取り柄もない、ただの平凡な学生でしかない。情けないというのは、そんな状況を捻くれた目でしか見ることのできない自分に対してのことなのだ。
今回、一目惚れした女の子は、正直に言えば、今までの幸一の好みのタイプからはかけ離れていた。
大人し目の女の子が好きな幸一は、あどけなさから醸し出される大人しい雰囲気が好きだったはずだ。しかし、今度のポスターの女の子は、今まで好きになった女の子とはまったく違っていて、あどけなさというよりも、妖艶な雰囲気と言った感じで、色もピンクというよりもパープルが似合う女の子だった。
髪型も、基本的にはショートカットで、黒髪よりも少し茶系統の髪の毛の方が好きだったのに、その女の子は、綺麗な黒髪ロングだった。
――ここまで好みって変わるものだろうか?
と思ったほどだったが、考えてみれば、異性に興味を持つ前の小学生の頃、女性と言えば、黒髪ロングのイメージだった。
別に幸一はミーハーというわけではない。中学時代の思春期などに、アイドルに興味を持っていたわけでもない。
逆にミーハーは嫌いだった。
「何をそんなにキャーキャー騒ぐ必要があるんだ」
と思っていたが、今から思えば、それはただのひがみからくるものだったに違いない。――自分と同い年くらいの子が、まわりからチヤホヤされるなんて許せない――
という思いが強かった。
それは、自分には到底できないことを、他の人、それも女の子がしている。もちろん、中学時代には、芸能界での努力がどんなものかなど知る由もないので、嫉妬心しか生まれないのだが、その思いが、自分の中でミーハーを嫌いになる要素を秘めているという事実をなかなか認識できないでいた。
大人になってからも、どうしても、ミーハーにはなりきれなかった。音楽もあまり人の聴かないものを聴いてみたりしたが、基本的には、クラシックが好きだった。
クラシックは、小学生の時の音楽の先生が好きで、昼休みや、授業の合間の休み時間という少ない時間にでも、校内で流していた。
小学生の頃は、何とも思っていなかったクラシックだったが、一旦中学に入って聴かなくなると、そのまましばらく聴くこともなかった。
だが、大学に入り、先輩などから喫茶店に連れて行ってもらうと、そこで流れているクラシックが懐かしく聴こえてくる。
大学の近くにある喫茶店では、結構クラシックを流している店が多かった。中にはリクエストすれば流してくれる店もあり、クラシックの街の様相を呈していた。
幸一は、この街が好きだった。
大学を卒業し、数か月研修を終えて戻ってくると、勤務地は、大学の街だった。
しかし、幸一には複雑な気持ちだった。
――就職して働くようになった街と、大学時代を謳歌した街とが同じだというのは、故郷がないようなものだ――
と感じるからだ。
「故郷は、遠きにありて思うもの」
という言葉を聞いたことがあったが、まさしくその通りだ。
この街は、前には海、後ろには山があり、両隣の街同様に、人が住める範囲は、横に広くなっている。縦に狭い街を、主要道路が三本に鉄道が二本通っている。そのため、ほとんどが住宅地になっていて、学校はあるが、企業はほとんど進出してきていない。住宅街として定着したので、企業が入りこむ余地はなくなってしまった。
学校や美術館、公園などは。元からあったので、移動させるわけにはいかない。都心部にさほど遠くないこともあり、ベッドタウンとしての機能は十分に果たしている。
この街を見下ろす丘があるが、大学は、その麓に立っている。近くには大きな川が流れ、その上流は、この街から続く連山の登山口になっている。秋にもなると、登山の客が日曜日などたくさんやってくるが、普段は静かな佇まいだった。
幸一は、海よりも山の方が好きだった。
さすがにこの街では海水浴は無理だったが、入り江になっている地形なので、あまり波が高くないことで、釣りをする人は少なくなかった、海辺の防波堤から、釣糸を垂らしている人を見ていると、
――この街は、住宅街以外の面も持っていて、十分いろいろな顔を表に出すことのできているところだ――
と感じていた。
幸一が、この街の
「隠された顔」
をいくつも見つけていくうちに、次第にこの街が好きになってきた。元々嫌いではなかったが、好きだという意識もさほどなかった。やはり自分の住んでいる街に愛着を感じるというのは、毎日の生活に大きな影響を与える。
――毎日があっと今に過ぎる時もあれば、なかなか過ぎてくれない日もある――
そう感じるのも、毎日が充実しているからであろう。
「波乱に満ちた毎日を過ごしているほど、時間の感じ方にばらつきがある」
と言っていた人がいたが、まさしくその通りだ。実に説得力のある言葉過ぎて、最初はピンと来なかったが。それぞれの場面で、この言葉を思い出すうちに、自分への格言のように思えてくる。
幸一がこの街に感じたもう一つの思いは、
「赤と青に彩られた街である」
というイメージだった。
天気のいい日に、その感覚は序実に現れる。
この街に来てから、空を見ることが多くなった幸一は、何度となく真っ青な雲一つない空を見たことがあった。そういう日に限って、夕方は、空が燃えているような夕焼けが見えてきて、
「夕焼けの次の日は晴れる」
と言われているらしいが、まさにその通り、雲一つない時の空の青さから煌めきを感じると、余計に夕焼けも激しく燃えているようだ。
この街での赤と青を同じ時間に味わうことはできないが、雲一つない空のイメージが残ったまま見る夕焼けは、二色のコントラストを見事に描き上げていて、雨の上がった時に見られる虹を思い起させる。
この街では、雨が上がると、虹を見ることができる可能性は、他の街に比べればかなり高いようだ。信憑性など関係ない。幸一がそう思うのだから、そうに違いない、
そういう意味では、どんよりとした重苦しい空気や雰囲気は、この街にはふさわしくない。ショックなことがあったり、落ち込んだことがあっても、大学の裏にある小高い丘に昇って街を見下ろすと、少々のことなら、気分が晴れるというものだ。
特に、大学時代には、大小さまざまな失恋を経験した幸一によっては、この街の光だけに限らず影までもが、自分に味方してくれているかのように思うのは、ただの錯覚だろうか。
いろいろな顔を持っていて、赤と青のコントラストが魅力的なこの街を、幸一は、
「自分の故郷よりも、故郷らしい」
と思うようになっていた。
この街がベッドタウンになってから、もう三十年近く経つという話なのだが、市に昇格したのが、二十五年前と少し遅かった。昇格した市の名前は「漆市」という。昔からの漆塗り工芸が今も息づいているということで、
「永年の繁栄を祈って」
だということで、今も変わらず街の繁栄を支えている漆塗り工芸と、大学や美術館、さらには音楽ホールと文化的な事業とで、街を特徴づくっている。何と言っても都心へのベッドタウンということでマンションや、大学の街ということで、コーポやアパートが多いのも特徴だった。
漆市の特徴は、住宅街と文化的な街並みと、漆塗りの工芸の街とが完全に別れているというところだった。
「それくらいなら、他にだってあるだろう」
と言われるだろうが、実はその特徴を見ることができるのは、山の上からだった。
横に広い造りになっている漆市だったが、キチッと区画整理されていて、真上から見ると、碁盤の目のようになっている。
「まるで平安京みたいだ」
ということで、小京都ならぬ、「小平安京」と呼ばれているところでもあった。
「こんなところは、日本中探しても、ここくらいだろうな」
どうしてこんな造りにしたのかは、ハッキリとは知らない。
「話題性を高める宣伝のため」
という説がある。一番有力とされている説であるが、
「いやいや、もっと実質的な理由があるんじゃないか。考えられるのは、防災に対する考え方なんじゃないかな?」
これに関しては。専門家でもない限り、どこが防災に役立つのか、具体的に分からない。それだけに、説得力はグッと落ちる。
漆市の一番海に近いあたりに、大学や美術館、役所や市民会館などが密集している。そこから少し山に近づいたあたりに、住宅街が広がっていて、大学などの施設を取り巻くように位置している。
工芸は、さらにそこから山に入ったところにいくつかあるが、近くを流れる川からの新鮮な水が、工芸には適しているのだと聞く。
幸一の行動範囲のほとんどは、学生時代に過ごした大学の街に限定されていた。就職してからも、事務所が大学の近くにあることで、マンションは駅裏徒歩五分という最高の立地にあった。事務所まで歩いても、さほど時間が掛かるわけではない。十五分ほど歩けば、会社に着くことができる。
ただ、休みの日となるとまったく違っていた。
小高い丘まで行って、街を眺めるのが好きだった。その近くに一軒の喫茶店があり、そこはクラシックをBGMに流していて、店の雰囲気も昼間でも薄暗く、まるで「隠れ家」のような雰囲気が好きだった。
そこの喫茶店を見つけたのは。実は学生時代だった。就職が決まるまでのイライラした精神状態を癒すにはちょうどよかった。学校の近くには癒される喫茶店もあるにはあったが、どうしても、大学時代の楽しい思いが沁み込んだ場所では、その場所にいればいるほど、自分が孤独に感じられる。その孤独は寂しさを含む孤独ではなく、孤独だけを感じさせるものだった。
寂しさを伴わない孤独というのは、他人を意識させるものではなく、一人だということがすべてである。場合によっては、この時の孤独を決して嫌だとは思わない。一人でいることの方がありがたいと思うこともあるからだ。それは寂しさを伴わないからで、寂しさというのは、必ず相手があって、人と一緒にいる自分と比較し、今の自分を見た時に感じるものである。最初から一人だと思うと、孤独も嫌ではない場合があるのだが、本当の孤独は、もっと奥の深いところに存在しているものだということに気付いた時、孤独というものが、自分の神経を蝕んでいることに気付かされる。
まわりに感じるものは、人間だけではない。大学時代の雰囲気を感じさせる世界にいることがそれまで当然のことであり、意識することもなかったのに、同じ環境でも、自分の立場が変わると、今度は、まわりから隔離されてしまったかのように感じる。それが寂しさであり、憤りであったりもするのだろう。
だが、小高い丘の近くに見つけた喫茶店は、同じ寂しさを伴わない孤独であっても、嫌だと思わない方の孤独を味わうことができる。
――結局、一人なんだ――
それまで友達だと思っていた人たちが、皆ライバルなんだという思いは、今までに受験で経験していたはずだったのに、就職活動ともなると、また違った感覚に襲われてしまう。やはり、学生最後のイベントであり、受験もすべてこの時のためのプロセスなんだと思えることからくる感覚なのだろう。
小高い丘にある喫茶店は、名前を喫茶「アルプス」と言った。小高い丘なのに、世界的にも有名な高いところを名前につけるのは、やはり店長の欲がそうさせるのか、あるいは、憧れに近いものがあるのか、最初は分からなかったが、入ってみて、
「常連になってみたい」
と思うほどの店であることに気がついた時、やはり後者だと思った。
店の客も風変わりな人が多そうだった。
客層からいけば、普通のサラリーマン、学生から、年配や主婦の時間潰しが多い。しかし特徴としては、複数で来店する人は少なく、ほとんどが一人でやってきて、好きなようにしていることが多かった。
さすがに常連になると、常連同士の会話に花が咲くというものだが、同じ常連でも一人になりたいと思ってくる常連さんにまで会話の中に引き入れようとは誰もしない。それは気を遣っていると思っていない自然な態度が、さりげない優しさを産むのだ。さりげない優しさには暖かさがあり、幸一はそれが嬉しかった。
この店の常連に、ポスターの女の子がいることを知ったのは、この店の常連になって一か月後のことだった。この店の常連になった時、ポスターの女の子のことが一番気になっていた時期だったというのも、何かの暗示に思えるくらいだった。もし、この暗示がなければ、この娘のことを、ここまで気に掛けなかったかも知れない。
今までなら、別にタイプというわけでもない女の子だったので、もし、ここで会話になったとしても、それ以上気に掛けることはなかったに違いない。それなのに、ここまで気になったということは、ポスターを見た時感じた感覚が間違いではなかったという証明と、さらに、自分が暗示にかかりやすいという、さらなる暗示を二重に自分に掛けたことで生まれた感情だった。
彼女はお忍びとまでは行かないが、サングラスにズボンといった、ポスターからは想像できないような雰囲気を醸し出している。幸一も、
「彼女、ほら、よく街に貼ってあるポスターがあるでしょう?」
と、マスターから教えられなければ、まず分からなかっただろう。ポスターの彼女は、完全な正面からというよりも、若干右下の方から軽く見上げるような視線が、何かモノ欲しそうな不安に見える表情を醸し出すことで、男性の心をドキッとさせる効力を持っているようである。
幸一は、それを彼女の魅力だと思いながらも、どこか嵌ってはいけない穴がそこにあるように思えた。一度嵌れば抜け出すことのできないアリ地獄のような穴だ。
だが、ポスターを何度も見ているうちに、それが自分の思い過ごしであることに気付いた。思い過ごしというよりも、思いこみに近い。あまりにもポスターとして嵌りすぎていることで、自分にとっての高嶺の花を飛び越したような錯覚に陥ったからだ。思いこみというのは、ポスターの中の彼女が、自分を引き寄せている力を持っていて、魅力が魔力に変わってしまった感覚が襲ってきたからだ。
最初にポスターを見た時よりも、回数を重ねるごとに、ポスターの中で彼女の占める割合が、次第に大きくなってくるかのようだった。それも顔が大きく感じられるようになったからで、全体的にはさほど変わっていないのかも知れない。それでも、顔がすぐそばにあるように感じると、ポスターの彼女と目が合った時、しばし目を背けることができなくなった。ポスターを見つけると、どうしても目に視線が行ってしまう。人間なら簡単に目を背けることができるのに、どうしてポスターなら無理なのか、幸一は不思議に感じていた。
ポスターの彼女のイメージが強すぎるために、サングラスやズボンなどで変装した彼女は、なるべくなら見たくはなかった。イメージを壊してくれたマスターに思わず嫌みを言いたくなったくらいで、それを堪えていると、お忍びで店にやってきた彼女のソワソワした態度は、本当に別人のようだった。
ポスターの彼女は、凛々しく、まわりを気にするなど、ありえないという雰囲気を持っていた。それなのに、
――どうして、そんな夢を壊すようなことをするんだ――
もし、これが他のポスター、たとえば人気アイドルを使ったポスターで、彼女がお忍びで来ていたとしても、腹は立たない。
――人気アイドルなんだから仕方ない――
と思うからで、
――差別なんだ――
と思いながらも彼女に対して余計な思い込みを持っている幸一は、自分が失礼なことをしていることは自覚していた。
だが、アイドルではない普通の女の子が、ポスターに起用されることに偏見があるわけではないが、アイドルにはない何かを持っていてほしいと思っている。
「彼女、名前を理美ちゃんといいます。仲良くしてあげてください」
と、マスターが紹介してくれると、
「理美です。よろしくね」
サングラスを取って、笑顔で彼女は握手を求めてきた。まるでアイドルの握手会にでも行ったような錯覚に一瞬だが陥ってしまった自分が恥かしかった。思わず、ズボンの生地の上で、手を拭いてしまうという、初めてミーハーが追っかけアイドルの握手会に参加したみたいな気分だったのだ。
ポスターで見た時は大人し目の女の子だというイメージしかなかったが、実際に生で見ていると、笑顔が絶えない普通の女の子だ。どちらかというと、こっちの方がタイプなので、ポスターの女の子という意識は次第に薄れてきて、親近感が湧いてくるのを感じた。
理美も幸一のそんな気持ちが分かったのか、絶えず楽しそうな表情になっていて、
――本当に、あのポスターの女の子と同一人物なんだろうか?
と感じるほどだった、
確かに顔のパーツを一つ一つ思い出してみると、同一人物のようだった。特徴は少し厚めの唇にあった。サングラスをしていても、マスクをしていなければ、分かる人には分かるかも知れないと思ったほどだ。
「私、今度引退するのよ」
と、会話の中でぽつりと理美が呟いた。
幸一は、理美が自分の仕事に誇りを持っているだろうと思い、なるべく会話の話題を彼女のモデルとしての仕事に持って行こうとしていたのだが、彼女の意外な言葉に、少なからずのショックを感じていた。
「えっ、そうなんだね」
ショックを受けたが、それに対して、どう答えていいのか分からなかった。
ただ、今度はそのことに触れてはいけないと思い、また何を話していいのか、悩んでしまう結果になってしまった。
理美は、自分からいろいろなことを話そうとするタイプではない。聞かれたことに対して、二言三言返すくらいだ。声のトーンは非常に高く、印象に残りやすい。幸一も理美の声を聞いて、心地よい暖かさに感じられるのが嬉しかった。
目を瞑って理美の声を聞いていると、感じられるのは、今正面にいる理美の顔だけだった。最初笑顔が絶えない普通の女の子だと思ったのだが、話が進むにつれて、次第に表情が暗くなってくるのを見ると、よほど自分の話題がつまらないからなのか、それとも、本当に彼女は明るさとは無縁な性格なのかのどちらかに思えて仕方がなかった。
ポスターの彼女の顔が思い出された。今、少し暗くなりかかっている顔とは、それでも少し違っている。
――彼女は一体いくつの顔を持っているんだろう?
というのが、幸一の思いだったが、
――そのうち、どれが一番の彼女の魅力なんだろう?
と思うようになった。だが、彼女に関して言えば、魅力に感じられるのは一つだけとは限らない。それだけ多彩な表情を持っているように思えた。
「理美ちゃんは、お付き合いしている人や、彼氏と呼べる人はいるのかい?」
今までの幸一なら、理美のようなタイプの女性に、いきなりこんなことを聞くなど、今までに考えられないことだった。
「前はいたんですけど、今はいない」
理美はそう言って、少し俯き加減になっていた。
「ごめんね。変なこと聞いちゃったかな?」
と言って、理美の顔を覗きこむと、理美はそれを察したかのように、すぐに顔を上げると、
「幸一さんは、どんな女性がお好みなんですか?」
と聞いてきた。
「そうだなぁ、落ち着いた感じの人なんかいいんじゃないかな?」
と、思いに耽りながら答えた。
「そっか、だから、お母さんなんだ」
「えっ、何か言った?」
「あ、いえ、何も」
小さな声で呟いたが、
――お母さんって、何のことだろう?
と、理美のことがおかしいと、最初に感じたのがこの時だった。
だが、この時に聞いた言葉を覚えていたことで、これから起こることを少しだけ予期できたのは、よかったのかも知れない。
理美が幸一のことをどう思っているかというのを、一生懸命に考えていたが、あまりにも性格が違いすぎるという点、そして、掴みどころのない表情をする女の子という点で、なかなか想像のつくものではなかった。
だが、それ以上に、どこまで行っても、考えが及ぶはずもないのだが、そのことを幸一は、感覚で悟っていた。
しかし、理美がどういう女性であるかということを分かった時、そこからが本当の二人の関係を紐解くカギを探し始める前兆であること、さらには、自分の将来がどう展開されるかということを悟るチャンスであった。
ただその時は、真正面から理美という女性を見ていて、
――本当に可愛いな――
と思ったのは事実だった。
今年、二十五歳になる幸一だったが、それまで女性を好きになったことは多々あったが、一目惚れは一度もなかった。二十歳くらいの頃に自分に一目惚れがないことを考えてみたが、
――いずれ、そのうち一目惚れするような女性が現れるだろう――
という思いを持っただけで、他に疑問を感じることもなかった。
――別に一目惚れしなくても、人を好きになれるんだから、何の問題もないはずだ――
という思いを、至極当然のように考えていた。
今年、二十五歳にして、一目惚れに値する女性と初めて出会った。それが理美だった。理美が、幸一の気持ちのどこを擽ったのかは分からないが、理美に感じたポスターを見た時の最初のイメージ、そして出会った時のイメージ、そして、その後デートを重ねてからのイメージと、さらには理美の声を最初に聞いた時に感じた思いと、それぞれにまったく違った感覚を抱いたことが大きかったように思う。
――ああ、最初から好きだったんだ――
と、後になって感じる。それも立派な一目惚れではないかと幸一は感じた。
初めて出会った喫茶店のマスターは、理美のことを、自分の甥っ子だと言っていた。
「自慢の甥っ子というところですね」
と、幸一がマスターにいうと、マスターはしばし複雑な表情をしたかと思うと、
「あの娘は、本当にしっかりした娘だと思っています」
と、呟くように言った。
「そうですよね。しっかりしているからこそ、ポスターのモデルをできたりするんですよね。最初はポスターに似合っていないように思えましたが、よく見たら、彼女の表情、真剣さが滲み出てましたね。まるで何かの覚悟を決めているようなそんな雰囲気を感じましたよ」
というと、さらにマスターは苦み走ったような顔になり、
「あの娘の覚悟、たぶん、誰にも分からないでしょうな」
と、ボソリと言った。
いつもなら、
「どうしてそんな言い方するんですか?」
と聞き返すであろう幸一だったが、あまりにも思いつめたようなマスターの表情に、幸一は、それ以上言及することはできなかった。
ただ、理美という女性が、ただならぬ気配を持って、そしてそれが本人の覚悟と結びついていて、それをマスターは知っているということだけは、見当がついた。見当がついただけで、その思いがどのように自分に結びついてくるのか分からずに、幸一は、理美のことを考えていた。
――やはり、彼女は一目惚れに値するだけの女なんだ――
と、マスターの話で、確信が持てたような気がした。
理美という女性が、結構モテる女性なんだという意識もある。モデルをするくらいなので、当然、理美に憧れを持っている男性も多いことだろう。そんな男性たちを横目に、自分が仲良くなっていることに、優越感を抱いたことも確かだ。
そういえば、幸一が異性に興味を持つようになったきっかけの一つとして、
――他の人から羨ましがられるような交際がしたい――
という思いがあった。
――見せびらかしたい――
という、子供のような発想があったのも事実だ。いや、その思いが一番だったのかも知れない。
理美と知り合うまでの幸一は、人を好きになっても、すぐに付き合い始めることはなかった。
「まずは友達から」
と、交際を申し込んでも、相手からそう言われて、その言葉に従うしかなかった。焦ってしまっては、うまくいくものもいかなくなるという思いを、学生時代に何度かしたからだった。
だから、一目惚れはしないと思いこんでいるのかも知れない、
元々、幸一は自分から女性を好きになる方ではないと思っていた。相手が自分に、少なからずの興味を持ってくれたことで相手を意識する。そこから気持ちが膨らんでくると思っていたからだ。
一目惚れだということになるのなら、必ず相手も自分のことを好きになってくれたという確信めいたものがなければ成立しないと思っていたのに、理美の場合は違っていた。むしろ、
――僕なんて、相手にしてくれるはずはないんだ。何しろ、モデルさんをしているくらいなんだからな――
と思っていたくらいである。
そんな女性に一目惚れ、今までなら自分の好みの女性ではないと思っていたので、一目惚れなどするとは、思ってもみなかった。
しかし、考えてみれば、一目惚れしたことがないということは、一目惚れする女性のタイプが存在し、その人がどんな雰囲気なのかも、おぼろげにしか分からず、まだ出会っていないということになる。
もし、出会っていれば、おぼろげであっても、気付くはずだ。そう思えば、それがちょうど理美だったと思えば、後は出会ったこの時期が、本当に一目惚れする気持ちをもたらしてくれるかということに掛かっているだけだ。
女性を好きになるにもきっかけがいると思っている。それが一目惚れともなれば、さらに微妙ではないだろうか。そう思うと、理美との付き合い方も慎重にしなければいけないのだと思った。
幸一の方は一目惚れだったが、理美の方はどうだったのだろう?
「私も、幸一さんが好きよ」
と話してくれたが、今度は幸一の方で、理美からそう言われると、思わず尻込みをしてしまう。
――どうしてなんだろう? 好きだという気持ちにウソでもあるというのだろうか?
と考えてしまったが、そんなことはない。普段したことがない一目惚れなので、幸一の中に戸惑いのようなものがあるのかも知れない、
戸惑いは、理美の方にも見られる。
「私、お父さんいないの」
と言っていた理美だった。
いろいろ聞きたいこともあったが、それ以上聞いてはいけないような気がして、幸一は質問を控えていた。
本当は、喫茶「アルプス」のマスターに聞けばいいのかも知れないが、マスターがまともに答えてくれるはずもなかった。
付き合い始めて何回目のデートだっただろうか?
「今度、クラシックコンサート、ご一緒しませんか?」
と、理美に誘われた。お互いにクラシックが好きなのは分かっていた、喫茶「アルプス」で知り合ったのだから、大体お互いに想像が付くというものだ。
ちょうど、漆市にあるホールに、オーケストラが招かれて、公演を行うことが、大々的に宣伝されていた時だった。幸一も理美から誘いがなかったら、本当は自分の方から誘おうと思っていたところだったのだ。
「もちろん、いいですよ。誘ってくれてありがとう」
理美から誘われて、有頂天になっている幸一だった、
今まで幸一はクラシックが好きだというわりには、コンサートに赴いたことは一度のなかった。
一番の理由は、
「一緒にいく人がいなかった」
というもので、一緒に行ってくれる人がいるのなら喜んで出かけられた。
大学時代の友達に、クラシックに造詣の深いうやつがいたが、彼には彼女がいるので、一緒に行く相手には困っていなかった。彼女のいるやつを誘うほど野暮ではないし、見せつけられるのは、耐えられないと思っていた。
そのうちに、
「コンサートなんて、別に行かなくてもいい」
と思うようになっていた。まるでふてくされたような気持ちだったが、別に寂しいわけではないので、いじけているわけでもなかった。ただ、一人で行くというのも、
――わざわざ出かける――
という感覚になり、あまり気持ちのいいものではなかった。
気が付けば、二十五歳になっていたのだ。
そんな時に一緒に行ってくれる人が現れたのは嬉しいことだった。しかも、一目惚れの相手、それまでに何度かデートはしたが、同じ趣味のものを楽しむということはなかったので、新鮮な気がした。
今まで一度も行ったことのないコンサート、会場の音響は想像することはできないほどすごいものなのだろう。
「私は、何度かあるんですよ。でも、コンサートというのは本当にたまにしか行かなかったですね。もっとすごい音響で聞けましたからね」
詳しくは聞かなかったが、理美は音響装置の立派なものを持っていたのだろう。それにしても、クラシックが好きな女性を今まで何人も見てきたが、ほとんど、皆似たような雰囲気の人が多いのは、同じ音楽でも、ジャンルが違えば、ここまで聴く人の種類も違っているのだろう。
――そういう意味では、僕などはどうなんだろう?
他の人から見て、
「やはり、クラシックが好きなのが、雰囲気で分かる」
と思われているのだろうか? それとも、
「クラシックを聴く人の雰囲気じゃないんじゃないかしら?」
と思われているのだろうか?
男性の場合は、クラシックを聴く友達は、二種類いた。
女性と同じように落ち着いた雰囲気を持った人のパターンと、もう一つは、理屈っぽい人のパターンである。自分のことを分析してみたり、自分のことだけでは飽き足らず、人のことも分析してみる人だ。普通は人のことを分析する人はいるかも知れないが、先に自分のことを分析しようとする人は、幸一のまわりには珍しかった。
幸一の場合は、どちらかというと、自分の分析をする方だった。しかし、自分の分析はしても、他の人の分析まではしようとしない。下手に相手を見つめてしまうと、露骨に嫌な顔をされる。それが嫌なのだ。
待ちあわせはクラシックコンサートの会場の前ですることにした。その日、幸一は仕事が押していて、どうしても、待ちあわせると遅れてしまう可能性があったからだ。現地集合にしておけば、遅れても何とかなるという考えだったが、幸一は思ったよりも仕事が終わるのが早く、コンサート開始までに余裕のある時間に着くことができた。それでも客は結構いて、表のベンチには、座るスペースは残っていなかった。
「待った?」
約束三十分前に、この場所に来ていたので、待つことは覚悟していたは、待ったのは十五分程度、予定の半分だった。
だが、幸一は、待たされるとすれば、その程度だろうということは想像がついていた。理美は相手を待たせるようなことは決してしない性格だというのを分かっているからだ。
それは、過去に待たされたことで、嫌な思いを経験した人でないと分からないものを感じているからに違いない。人から待たされることを知っている女性、それはきっと待っていた相手が男性だったのだろう。
その人が理美にとって、どんな男性だったのか分からない。ただ、気になるのは、その人がその時に本当に理美の前に現れたのかどうかということだ。
いくら待たされたとしても、その人が来てくれたのであれば、それまで待っていた疲れも一気に吹き飛ぶこともある。人によっては、待たされたことを忘れてしまう人もいるだろう。
理美は、その人がもし来てくれたのだとすれば、それまで待った思いを忘れることができるか、あるいは、それすら楽しい思い出に変えることができる人だと思っている。
――理美の待ち人は、その時、来なかったんだろうな?
と、幸一は感じた。
理美はその時のことをショックに思っている。しかし、恨んでいるような感じではない。――来ないなら来ないで分かったいた?
そう思えば納得できるところもある。
理美の待ち人のことが、幸一には気になっていた。
それが誰なのかということが気になるのではなく、幸一は、いつの間にか、自分が理美の待ち人になったような気がしていた。
――どうして、こんな気分になったんだろう?
理美の待ち人は、決して理美を裏切ったわけではない。むしろ、本当に待ちあわせの約束をしていたのかどうかすら、怪しいと思っている。
理美を疑っているわけではなく、理美が何か大きな妄想を抱いているのを感じるからである。待ちあわせた相手が理美にとってどんな立場の人だったのかということが気になっていた。
「彼氏? お兄さん? それとも、父親?」
何となく、このあたりではないかと思えてならなかった。幸一が感じるのは、その中でも最後に浮かんできた「父親」だった。
そんなことを考えていると、
――やっぱり理美にはお父さん、いないのかも知れないな――
という思いが勝手に頭に浮かんできた。もちろん、根拠があるわけではないが、なぜか理美を見ていると、感じてくるものがあるのだ。
――父親がいないのは、母親と別れたから? それとも死別したのかな?
普通はそのどちらかであろう。
しかし、理美を見ている限り、そのどちらでもないように思えてならなかった。
最初に感じたのは、死別だった。しかし、理美には父親と接した意識がなさそうだ。どこか甘え下手なところがあるのは、父親の愛情を知らないからだと思えてならなかった。幸一も父親に甘えるということがどういうことなのか、ハッキリと分かっているわけではない、どちらかというと、男の子は、父親に甘えるというよりも、母親の方を意識する。子供の頃は、別の異性の親に甘えるものだという意識が強かった。
物心つく前に父親を亡くしたのだとすれば、もっと、父親に対して、漠然としていたとしても、
「愛してほしい」
というような受動的な感覚が芽生えるものなのだろうと思っていた。
しかし、理美に関しては、
「愛してほしい」
という気持ち以外にも何か相手に与えたいという思いが含まれているように思えてならなかった。
それは、どこか、母性的な発想であり、理美が、求めているのは父親であり、自分はまるで母親のような感覚すら持っているように思えて仕方がなかった。
普通では考えられない発想だった。
――そんなことってありえないな――
と思いながら、自分には、相手への観察力よりも、妄想力の方が強いように思えてきた。
文章にするとあっという間のことであるが、実際に掛かった時間は結構なものだった。一つのことを思うと、ずっとそれが頭を離れずに、ずっと考えている。それが何日も続き、終わらなかった。
――こういう発想は、最初に感じたことが一番的を得ていて、それ以上考えようとすれば次第に的から遠ざかっていく――
つまりは、最初に的を得ることができなければ、永遠に悩み続けるだけのことだったのだ。
幸一は、理美のことを想像すると、他の人ではできないような想像ができることが、一目惚れの一番の原因だったのではないかと思うようになっていた。
それは勝手な想像でしかないのだが、思ったよりもリアルで、今まで想像力に関してはあまり達者ではないと思っていた自分が不思議なくらいだった。
「待った?」
と聞かれて、何と答えようか、考えてみた。
「そんなに待ってないよ」
と、答えるのが、デートでは鉄則なのかも知れないが、それでは面白くないように思えた。
デートの待ちあわせに「面白さ」など必要はないのかも知れないが、理美には楽しみを与えてあげたい気がしていた。やはり父親のような感覚にもなっているのではないだろうか。理美から、
「私、お父さんいないの」
と聞かされて、ドキッとした。
何となく分かっていたような気がしたからだ。甘え下手なところもそうなのだが、理美はこちらが聞いてもいないのに、自分から答えたことで、却ってこちらから質問する機会を奪われた気がした。
しかし、それは幸一にとって不幸中の幸いでもあった。
もし、今度のように唐突に言われたのではなく、話の流れから出てきた言葉であれば、幸一の方から、何かを聞いてあげないといけないようなシチュエーションを感じる。
幸一には、
――聞いてみたい――
という思いは十分にあったのだが、実際に考えると、
――何を聞いていいのか分からない――
という思いだけではなく、
――本当は、聞いてはいけないことなんだ――
という思いがあり、きっと言葉に詰まったことだろう。
聞いてはいけないという思いは、理美に対して、気を遣って聞けないという思いと、幸一自身、
――僕には聞く権利はないんだ――
というなぜか権利の問題に発展しそうだった。
最近知り合ったばかりの相手に、何をここまで気を遣う必要があるのか、幸一は自分でもよく分からなかった。
ただ、相手に気を遣うことがこれほど心地よいことだということを、幸一は今まで知らなかった。理美にお父さんがいないという話を聞かされ、胸の奥がドキドキしてくるのを感じると、
――理美が今までどれほどの寂しい思いをしてきたのだろうか?
と思うようになり、これまで幸一の知らない理美の今までの人生を想像しようとしているうちに、たまらない気持ちになってきたのだ。
――この娘に、寂しい思いをさせたくない――
その時の幸一の気持ちを支えていたのは、この思いだったに違いない。
「少しだけ待ったよ。でもね、絶対に来てくれると思っている人を待つのって、本当に楽しいものだよ」
幸一は、どう答えようかと、本当は気持ちの中で固まっていたわけではないが、
「下手な考え、休むに似たり」
というではないか。
何も考えずに答えたとしても、同じことを口にしたかも知れないと思うのだった。
理美は、幸一の返事を聞いて、幾分か涙腺が緩んでいるように見えた。
――そのまま泣き出してしまうんじゃないか?
と思ったほどで、しばらく理美から言葉が返ってくる様子もなかった。
かといって、幸一の方から話しかけるわけにはいかない。何か返事を返そうと思っているのは伝わってくるので、少々の膠着状態くらいは、気にしなくてもいい。
「絶対に来てくれると思ったの?」
理美がしばらくしてボソッと答えたが、幸一の言葉のどこに反応するか気になっていたが、まさか、
「絶対に来る」
というところに反応するとは、想像していなかったので、今度は、幸一が戸惑ってしまった。
しかし、この言葉に反応したということは、今まで理美は誰かと待ちあわせをしていて、待ちあわせをした相手が、
「絶対に来る」
という確信が持てないでいたのかも知れない。
確かに絶対というのはありえないことであるが、それでも自信を持って口にされると、ありえないことであっても、あり得ることに思えてくるような気持ちになるというのも、心の奥にしまいこんでいた感覚ではないだろうか。
それは幸一に限ったことではなく、誰にでもあり得ることであるが、表に出してしまうと、
――本当に来る相手であっても、来なくなることがあるかも知れない――
という逆の心理が働くとも考えられる。
幸一も、今までに何度も人と約束をした。
相手が女性で、しかも、まだ付き合うかどうかハッキリしていない相手との初デートの時など、期待と不安が入り混じる緊張感の中、気が付けば、相手に対して、
「絶対に来てほしい」
と、願いを込めている。
――来ないかも知れない――
絶対に相手が来るとは限らないという気持ちの中で、時間が経つにつれて、そう思うようになってくる。それは、最初に期待しすぎていたために、万が一だと思っていた確率は、次第に現実味を帯びてくると、今度は、自分の中で、
――なるべくショックを少なくしたい――
という、絶対に来ると思っていた相手に対し、かなりの確率で、来ない方に傾いた時に働く防衛本能が、幸一の中で現実味を帯びてくるのだった。
――そんな思いを何度したことか……
幸一は、黄昏気味に考えてしまう。
しかし、この時の理美に関しては、
「絶対に来る」
という思いが変わることはなかった。早く来てくれたからというのもあるが、理美が来ないという思いが、頭に浮かんでこなかったからだ。
理美は笑顔を浮かべていた。今までに何度も女性の笑顔を見てきたつもりだったが、それらをすべて頭の中で打ち消してしまいそうなほど、ドキッとするものだった。
理美の笑顔は自然であり、自然さが新鮮だった。どこに自然な感覚を覚えるのだろうと思ったが、あどけなさがすべてであることにすぐに気付いた。
しかも、その笑顔は、今まで知っている女性の笑顔とは違ったものだった。
どこが違うのか、最初は分からなかったが、他の女の子の笑顔には、不特定多数の人に対しても同じような表情をするんだろうなと思わせるものがあったが、理美に関して言えば、
――この笑顔は、誰か一人のためにできる笑顔なんだ――
と感じさせるものだった。
不特定多数相手にする笑顔とは一味違ったものを感じる。その顔にはあどけなさの中に、相手を見つめる視線を、一度見つめられると、逸らすことのできない雰囲気を感じさせ、
「この人と、初めて会ったような感じがしない」
という気分にさせられる。
しかも、理美に対してだけは、その思いが錯覚ではないと思わせるに十分なオーラを感じる。
普段は少し大きめなのに、笑顔になると、他の人よりもさらに細く感じさせる唇だったり、頬に浮かんだエクボを見て、思わず自分も笑顔になったり、何よりも見つめられて、ここまで焦った気持ちになることなどないのような、視線を逸らすことのできないほどの瞳を見て、
――この表情、他の誰にも見せたくない――
という気持ちにさせられることが、一番強く感じる思いだった。
理美の黒髪が、その時風に揺れていた。それを、理美は自然に指で髪を掻き上げるようにしながら、のけぞるような姿になった。
その時に感じた思いは、
――なんて大人っぽいんだ――
というものだった。
たった今、あどけなさを感じたかと思うと、今度は大人っぽさを感じさせられた。理美という女性には、
――大人っぽさの中にあどけなさが含まれるのか、あどけなさの中に大人っぽさを醸し出す何かがあるのか――
という不思議な魅力を感じさせられた。
これからコンサートデートだというのに、すでに待ちあわせの時点で、彼女の魅力をすべて知ってしまったのではないかと思ったほどだった。
――でも、女性の魅力って限界があるのかな?
と、時々感じている幸一は、今最高に思っている理美の魅力を、どんどんそれ以上に引き出すことができるのではないかと感じるようになっていた。
理美と一緒に歩いている横顔を見ると、またさっきとは違った魅力を感じる。
さっきまでは顔全体の魅力の中に埋もれていたが、横から見ると、鼻の高さには驚かされた。正面から見ているのでは決して分かることのなかったものを、横顔から新しく発見できるなんて、やはり、女性の魅力に限界はないという考えは、間違いではないと思えてきた。
コンサート会場に入ると、人ごみで呼吸困難に陥りそうなほどだった。
元々、こういう熱気に満ちた会場は苦手だった。
アイドルのコンサートではないんだから、そんなに神経質になる必要もないはずなのに、元々人ごみが大の苦手だった幸一には、それでも、厳しいものがあった。
あれは、小学生の頃だっただろうか。友達と野球観戦に出かけて、試合終了まで見てしまったため、帰りの電車の切符を買うのに、混雑した中に並んでいた。
並んでいると言っても、整列して並んでいるわけではなく、ほとんど混乱した中で、誰がどの列に並んでいるのか分からないような状態の中、子供が大人に混じって並んでいるのである。
ちょうど、前の方から押されるような形になり、大人であれば、自分の体重で持ちこたえられるのだろうが、子供の幸一にはひとたまりもなかった。
「うわぁ」
そのまま、その場に転んでしまい、起き上がることなどできなくなってしまった。
「助けて!」
と叫んでみたが、ざわついた中だからなのか、それとも皆自分のことだけで必死なのか、誰も気づいてくれない。
どうやって、その場から逃れたのか覚えていない。自力で逃れた気もしたが、人の流れがうまく作用して、表に放り出されたような気もしていた。少なくとも誰かに助け出されたわけではなかった。
その時の教訓は、
――他人なんて当てにならない――
ということと、
――君子危うきに近寄らず――
であった。
――近づきさえしなければ、自分から危険に入り込むことさえしなければ、後悔をすることもない――
という結論に達した。
その時から、幸一は、人ごみが苦手になった。
街にも、土曜、日曜には出かけないようになったし、ただ、通勤ラッシュだけは、仕事に行くためには仕方がないと思っていたのだが、幸いにも同じ漆市での勤務。ラッシュに巻き込まれることがなかっただけでも幸いだった。
どうしてもラッシュに乗らなければいけなくなった時、必ず最後に乗るようにしている。扉に押し付けられる分には、人ごみの中で揉まれるよりも、どれほどマシなのかということを、幸一は分かっていたからだ。
ラッシュの経験は、少しだけあった。その少しだけの間に、最後に乗って、扉に張り付くという知恵を得たのである。
だが、幸一は、それ以外の人ごみを解消できるすべを持っていなかった。
――君子危うきに近寄らず――
という教訓だけしか持ちあわせていなかったので、どうしていいのか分からず、とりあえず、誘われるままに出てきた。
「ええい、何とかなるさ」
という開き直った思いもないわけではない。
いや、開き直りだけしかないと言っても過言ではない。
その時、理美を見ていて、
――人が一緒にいると、耐えられるかも知れない――
と感じた。
理美に対しての、依存心がかなり高かったことを示している。それまでに、ここまで他人に対して依存心が高かったというのも初めてだった。
それなのに、なぜか依存心の強さに対しての違和感がない。
他人に対しての心配りがないと言えば、冷たいようだが、それよりも、
――まるで他人のような気がしない――
という思いの方が強かった。
相手が肉親であるかのような感覚は、
――ひょっとすると、この人と僕は結婚する運命なのかも知れない――
という思いを感じさせるものだった。
今まで、運命などというものを感じたことはない。
感じたことはないというのは嘘になるが、感じたとしても、それが現実になるはずなどないという思いから、自分の中で早々に否定していた。否定しなければいけない理由は他にもある。
子供の頃に将棋倒しになった時、誰も助けてくれなかったということがトラウマとなり、人間不信に陥っていた。相手が人間である以上、運命などありえないという思いが、感覚の根底には存在していた。
「幸一は、優しくて、冷静なところがある」
表現としては、褒め言葉に聞こえるが、実は大きな皮肉が込められている、
冷静というのは、静かというニュアンスよりも冷たいの方が強い。少々のことに動じないというのは、静かというよりも冷たいからで、冷たさは、静かさを超えることで存在しているものだと思っているので、冷たさを感じると、その中には、静かさも存在しているのだ。
幸一にとって、誰かに対し依存心を求めることのできる相手がいるとすれば、それは肉親でしかないと思っていた。
しかし、最近ではその肉親に対しても、違和感を感じている。
「皆、自分のことで精一杯なのよ」
年を取っていく親の言葉は、寂しさと切なさ、やるせなさすべてを含んでいた。それまでの差さえを失った気がした幸一は、一人でいることが辛くないようにするための方法を模索していた。
「やっぱり、彼女を作るのが一番だよ」
と、友達は簡単に言うが、そんな簡単なものではないことくらい、幸一にも分かっていた。
幸一は、やっと孤独を脱した。
最近になって、
――僕は一人でもいいんだ――
という開き直りの境地に入りかけていたのも事実である。
――寂しさが精神を凌駕することで、開き直りに入ると、それがそのまま孤独に吸収されたのかも知れない――
孤独に吸収されたのは、精神を凌駕した寂しさだけではなく、開き直りの気持ちも吸収されていた。
結果、孤独という思いは強く残っていたが、そこに寂しさという気持ちはすでになかった。開き直った寂しさは孤独だけしか意識されることはなく、精神的にもスッキリとしたものが残るだけだった。
だから、幸一の中では、孤独は嫌なものではなかった。
――自分一人の時間を好きに使える時間――
つまりは、「自由」だということだ。
――誰からも束縛されることもなく、一人で好きなことができる。それを孤独だというのであれば、孤独も悪いものでもない――
と思わせる。
ただし、そこには、根底に開き直りが存在していることは意識していた。その開き直りが生死を凌駕させたのだから、凌駕された寂しさを思い出すことはない。実に自分にとって都合のいいことではないだろうか。
本来なら、たった一人の辛く寂しいはずの時間、それが開き直りと吸収によって、別の精神状態を作り出すことができた。最低の状態のはずなのに、そう感じさせないのだから、これこそ、ポジティブな考えと言えるのではないだろうか?
ただ、
――孤独でいいんだ――
と思っていても、彼女ができるかも知れないという状況に陥れば、こんな嬉しいことはない。
――これで最低から這い上がれる――
と、特定の女性を意識するまでは、感じていなかったはずの最低ラインという思いを意識させられるのだ。
何とも、自分に都合よくできた精神である。
理美は、ちょうど幸一が開き直ってそんなに経っていない時に、目の前に現れた女性だった。
――もし、開き直る前に、理美と出会っていれば、どうだったんだろう?
という思いが頭を掠めたが、それも一瞬だけのことで、
――出会っていたとしても、意識することはないような気がするな――
それだけ、凌駕された精神状態は、前と後では相当違っていたのだろう。それは陥ったことはなかったが、躁鬱症を持っている人の、躁状態と鬱状態の違いのようなものではないだろうか。
コンサートの始まるブザーが鳴ると、それまで喧騒としていたホール内が、静寂に包まれる。それでも、これだけ大きな会場で、しかも音響効果抜群な中での状態なので、完全に静まることはありえない。しかも、喧騒とした雰囲気が、ザワザワ程度に収まるまでには、少し時間を要した。
舞台の中心で、こちらに背を向けて立っている燕尾服の男性の両手は、ちょうど、視線正面くらいに持って行かれていて、ある程度音が収まるのをじっと待っていたが、
「時、ここに至れり」
と判断したのか、一気に両手を、下に振り下ろした。
すると、少し間が合って、オーケストラの一団から、大きな音が響いた。響いた音は低音で、お腹にその振動がモロに伝わった。最初のインパクトとしてはなかなかだった。
その演出に一役買ったのは、指揮棒を振るう手が、一気に振り下ろされてから、演奏が始まるまでの瞬間、最初は少しだけの間だったかのように思っていたが、本当は、結構時間が掛かっていたのではないかと思った。
その微妙な時間が、大きな錯覚をホールにいた人全員に作用した。本当に絶妙な演出である。
最初に強烈なインパクトで引きこまれてしまうと、どうしても単調になりがちなクラシックも、長く感じさせる時間を、あっという間に感じさせる力に変えられる。まるで魔力のようなものだ。
時間的には二時間だったが、たっぷりと堪能できたような気がする。
「あっという間だったわね」
この思いは理美にも同じだったようで、幸一はその言葉に対して、無言で頷くことで返していた。
「私、コンサートって初めてだったの」
「えっ?」
これは意外だった。
今回のデートを提案したのも企画したのも理美だったので、てっきり慣れたものだと思っていたが、
「私、コンサートには、好きな人とデートで最初に行ってみたいと思っていたの」
と答えた。
――好きな人って、僕のことだよな――
そう思うと、照れ臭いやらくすぐったいやらで、心地よい気分になることができた。
「理美は、今までに好きになった人とデートしたこと、なかったのかい?」
この質問には、二つの意味が隠されている。一つは、
――好きになった人が他にもいるのか?
ということと、文面通りに、
――好きになった人とデートするのが初めてなのか?
ということだった。
「好きになった人がいなかったわけではないけど、デートしようとまでは思わなかった。そういう意味では今まで好きになったと思っていた人たちに対して、本当は好きだったわけではなく、ただの憧れだっただけなのかも知れないわね」
と答えていた。
「じゃあ、今日が理美にとって、記念日だということになるのかい?」
「ええ、私にとって、とても大切な日になったのは確かだわ。そういう意味でも、幸一さんと出会えたことに、感謝しないといけないと思うの」
そこまで言われると、幸一も有頂天にならずにはいられない。
――夢でも見ているんじゃないだろうか?
そう思って、指で頬を抓ってみる。そんな幸一をニコニコ微笑みながら見つめる理美の目は暖かかった。
――女の人のこんな暖かそうな目、初めて見た――
そう思った幸一は、今までの考えの主流であった、
「孤独の人生も悪くない」
という思いから、一皮剥けた気がしてきたのだ。
コンサートも終わり、
「食事にでも行こうか?」
と誘うと、
「いいわよ」
と、その日は二つ返事だった。
今までなら、
「ちょっと待って」
と言って、携帯で誰かに相談していたようだが、今回は、素直に応じてくれた。
「今日は、誰にも相談しない理美が、嬉しいよ」
というと、理美はまんざらでもないような表情をしたかと思うと、
「今日は特別」
と言って、はにかんでいた。
その様子を見て、幸一は、
――これで、二人の間にあった見えない壁が一つなくなった――
と感じた。
さすがにすべてがなくなったとは思わない。確かに知り合ってから距離が狭まるまで一気に来たと思っているが、何事にも浮き沈みがあったり、リズムがあるというものだ。リズムを見誤ると、自信過剰になってしまい、前が見えなくなることだってあろう。幸一は、それが恐ろしかった。
冷静と慎重とは違う。ただ、一度冷静にならなければ、慎重になることもできないのではないだろうか。
この時間になると、普通のレストランはいっぱいになっているか、予約が必要だったりするだろう。
幸一は、以前から目をつけていたバーに連れていくことにした。バー自体は、自分の常連の店を持っているのだが、まだ連れていこうとは思わなかった。常連同士、わいわいやったことはあったが、そんな仲間のところに、まだ中途半端な状態の理美を連れて行くのに抵抗を感じていたのだ。
下手に茶化されて、せっかく少しずつ自分に対して気持ちの壁が瓦解しかかっているところに無責任な冷やかしは、今後の自分たちの関係を悪化させ、幸一自身の首を絞めるような結果になることは目に見えていたからだ。
幸一が連れていったバーは、こじんまりとしていて。静かだった。他に客がいないからそう思ったのかも知れないが、ただ、どこかに懐かしさを感じたのだ。
幸一は中に入った瞬間、
――初めてきたはずなのに、前にも来たような気がする――
話には聞いたことがあるが、いわゆるデジャブ現象というやつだ。
しばし、立ちすくんでいた幸一だったが、すぐに我に返り、理美を見下ろすと、理美の方も、何かに憑かれたように、前だけを見つめていた。何かに驚いているようだが、
「どうしたんだい?」
と、訊ねてみると、
「何か変なんです」
「何がだい?」
「このお店には初めて来たはずなのに、以前にも来たような気がしているんです」
「あ、それは僕も今同じことを考えていたんだ。奇遇だね。僕たちは気が合うのかも知れないね」
と、幸一は、理美に語り掛けると、
「そうですね。でもね、今幸一さんが感じている思いと、私が感じた思い、本当は違うところにあると思うんです」
「でも、以前にも来たような気がするというのは、いわゆるデジャブ現象のようなことでしょう?」
「ええ、そうです。私もデジャブだと思うんですけど、同じデジャブでも種類があるんですよ。私のデジャブと幸一さんのデジャブとは、少し違うところにあるんです。今は幸一さんには分からないと思いますが、そのうちに分かりますよ」
これが、幸一が理美に対して、
「あれ?」
と思ったことの最初である。
――この娘、おかしなことを言うな――
ただ、そのおかしなことという感覚は、本当に初めてではなかった。同じような思いを感じた時、その時は、彼女に対して、
「あれ?」
という思いまでは抱いていなかったからだ。
理美は店の中を見渡していた。
「思ったよりも狭いわ」
マスターに聞こえないようにボソッと答えたが、理美の一挙手一同を見逃さないようにしようと思っている幸一にとって、少々の声でも耳に入ってくる。
確かに狭いと感じたのは、幸一も同じである。
だが、先ほどの理美の言い方を聞いていると、
「あなたの狭いという感覚と私の感覚では違うのよ」
と言われそうで、自分からハッキリということはできなかった。
席に座って、それぞれ好きなものを頼んだ。
会話はさほどなく、それでも、最初にくらべて、笑顔を見せるようになった理美を見ていて、
――やっぱり、理美は可愛い――
と感じた。
あまり正面から見ると照れ臭いので、横顔を覗くようにしていたが、その横顔がまたいいのだ。
それも、今日、初めて発見したことだった。
――今日は、ひょっとするとターニングポイントになる日かも知れないな――
理美に対して、
「今まで知らなかったことや新しい発見をたくさんできる日だ」
という思いを持ち続けた。
そして、そのターニングポイントというのがどういうことなのか、少しずつ分かってきたのである。
――理美のことを忘れられなくなる日だとして、ずっと僕の心の中に残っていくんだろうな――
という思いである。
その日の理美は、酔いも激しかった。どちらかというと、アルコールは強い方だという話は聞いていたが、確かに、少々飲んでも顔に出ることはない。
――ひょっとして、一気に潰れるタイプの人なのか?
と思ったが、瞑れる様子もない。そして、夜も更けてきて、日付が変わろうとしていたのだ。
「日にちって変わると、本当に明日になっちゃうのかしらね?」
理美は、不思議なことを言った。
「それはそうだろう。そうじゃないと、同じ日をずっと繰り返すことになるからね」
まだ納得の行かないような表情をした理美は、
「でも世の中これだけたくさんの人がいるんだから、一人くらい明日になる壁を超えられない人がいたとしてもいいような気がするんだけどな」
表情を見るとそれほど真剣な表情ではない。どちらかというとあどけなさの残った表情だ。つまりは酔っ払ってはいるが、いつもの理美と変わりがないということだ。
「理美は、ロマンチックなんだな」
幸一もこの場合、ロマンチックという言葉が本当に適切なのかどうか分からない。だが、ロマンチックという言葉を使ったのは、幸一自体、自分もロマンチストだと思っているからなのかも知れない。
「ロマンチックなのは、女性よりもむしろ男性の方なのかも知れないわよ」
と、以前知り合いの女性から聞いたことがあった。
あれは、学生時代に合コンをした時のことだった。まだ大学生というのが、ただの遊び人ばかりだと思っていた頃であって。この話を聞いた頃から、
「大学生というのは、いろいろな個性を持った人がいるものだ」
と、考えを改めたのを思い出した。
合コンは、それでもあまり参加したイメージはなかった。
誘われるのは誘われたが、どうしても自分には会話が下手だというコンプレックスがあったからか、
「人数合わせのための一人にすぎないんだろう?」
と、いう思いにしかならなかった。
「そんなことはないさ」
と言ってはいるが、参加してみると、結局あぶれるのは自分だった。最初から分かっているところに、自ら飛び込んでいくほど幸一は酔狂な人間ではなかった。バカだとは思っていたが。酔狂ではないのだ。
だが、幸一の意志とは裏腹に、今度はまわりが、幸一に対して誘い掛ける人が少なくなってきた。幸一にとっては願ったり叶ったりなのだろうが、どうにも釈然としない思いを持った幸一だった。
自分がバカだと思うのは、合コンが嫌いにはなれないということだった。一度も参加しなければ、自分の理念を完遂できるくせに、下手に希望を持っていることで、たまに誘いの言葉に負けて参加することもあった。そういう意味でいけば、酔狂よりもバカの方がたちが悪い。
だが、まったく無駄にしかならなかったわけではない。仲良くなった女の子もいたこともあったのだ。
その後のフォローがまずくてうまくいかなかったが、まったく失敗だったわけではない。そう思うと、幸一はバカではあったが、酔狂ではないというのは、そういうところにあったからだ。
その時の一人の女の子が、
「女性よりも男性がロマンチック」
だと言っていた。そして、
「だから、女性は男性に憧れるのよ。自分にはないものを、男性が持っている。しかも女性らしい性格だと思っていたことなのに、男性の方が様になっていることに気付くと、それが相手への憧れになっていくのかも知れないわね」
と話してくれたのを思い出した。
彼女とは、話が合った。
ただ、付き合うところまでいかなかったのは、今からどのように考えてもおかしなことだった。
――まるで二人が付き合うのを誰かが知っていて、邪魔をしようとしているみたいだな――
と感じた。
だが、まわりの人にそんなことをする人はいない。下手にそんなことをすれば、友情が崩れるだけではなく、今度は仕返しが待っている。何倍返しでの仕返しになるか、その人がどれだけ幸一のことを分かっているかということにもよるだろうが、そういうことに関して、今まで幸一には誰も想像もつくことではなかったはずだ。そう思うと、幸一が合コンに誘われなくなった理由も分かってくる。それだけ幸一という男性は、他の人から見れば、神出鬼没な存在だった。
――僕には、何か不思議な力が備わっているんだ――
と、思っていたのは前からだったが、それはすべて自分の中から醸し出される力だと思った。
しかし、それならすべてとはいかないまでも自分のために、その力が使われてしかるべきなはずなのに、実際には自分に不利になるような使われ方が多かった。
――どういうことなんだ?
自分へのマイナスの力が働いていることに気付いたのは、数か月前からだった。だが、それは自分の考えに反してはいたが、直接的な被害を被ったというわけでもない。
大学時代に遡ってまで自分にマイナスの力が働いていたのではないかと感じたのにはさすがに驚いたが、考えてみれば、不思議な力が働いたのは一貫していた。
そのほとんどが、付き合っていた女性と別れることになったり、いい雰囲気にまで行って、あと一歩で付き合うことになりそうな時に限って、現れるのだ。
「あなたのあまりよくない噂を聞いたの」
「えっ」
せっかくそれまでうまう付き合ってきて、温めてきた関係を、いきなりそんな言葉で相手から引導を渡されるなど、想像もしていなかった。
特に大学の時、
――彼女とは感性が合うんだ――
と感じた相手、話が合うのも当然で、相手も同じように思っていると確信していた人から、
「あなたのあまりよくない噂を聞いたの」
と、言われた時はショックだった。
「えっ、それがどんな噂か知らないけど、そんな根も葉もないような話を君は信じようというのかい?」
「私もだいぶ悩んだのよ。でも、あなたのことが分かるだけに、噂の信憑性を考えた時、まんざら嘘ではないという気がしたの。それは私があなたのことを好きになった部分だったから。その裏返し、つまり盲点を突かれたような気がしたの。盲点を突かれると、私はどうしたらいいの? まるで金縛りに遭ったかのように、指先は痺れて、冷や汗が出てきたわ。そんな風にしたのは、結局あなたなんじゃないかって思ったら、もう噂の信憑性なんてどうでもよくなった。私は、これ以上あなたと一緒にいてはいけないという結論に陥ったわけも分かってくれるかしら?」
かなり、彼女の話は身勝手に聞こえた。
もし、これ以外の言い草であれば、もう少し粘ってみようと思うのだろうが、ここまで言われてしまえば、言い返すこともできない。それに、彼女の最後に言った、金縛りに遭い、手足指先の痺れ、さらには冷や汗をその時に感じたのだ。
さすがにすぐには返事はできなかったが、その時に気持ちが固まっていたのは事実だった。
幸一が、相手の別れ話を自分から受け止めた最初だった。
それまでにも、うまく行きかけて相手から、
「お友達でいましょう」
であったり、
「お友達以上には思えない」
と言われたことはあった。
中学の時、一度言われたのは前者だったが、その時は、そのまま友達に戻ることができた。実はその娘とは今でも友達であり、女心の相談や、彼女からの恋愛相談などは、お互いにオープンで話ができる仲になっていた。
しかし、高校生になってから、後者がほとんどだった。それもまわりに対しても公然と付き合い始めてからのことである。
「友達以上には思えない」
ということは、
「友達ならいいのか?」
と、思われがちだが、一旦付き合い始めると、後退することはできないのだ。もし友達に戻ったとして、彼女か自分に新しい人ができれば、どう思うだろうか? 相手にまだ未練が残っていれば、ショックを感じるのは当然のことで、それがどれほどのものなのか、幸一には想像もできなかった。
幸一は、理美との付き合いを、見えない力で邪魔されることを恐れていた。
――なるべく焦らないようにしていこう――
高校時代、うまくいかなかったのは、噂を聞いたと、相手から言われた時だけではなく、幸一自身の付き合い方が、単純に下手だったことがあったのも事実だ。
いや、その方が自然であり、
――そりゃ、あんな付き合い方してれば、相手も呆れるわな――
と、後で思い出せば、顔から火が出るようなこともあった。
それは、本人の考え方が、理性や感性などとは程遠い、本能だけで行動してしまおうとした時があったからだ。
相手がもし、幸一の感性を好きになったのだとすれば、本能による行動は、
「もっともやってはいけないこと」
だったに違いない。
幸一には、そういう意味では二重人格性があるのかも知れない。
いや、完全な二重人格ではなく、本能が理性や感性を凌駕してしまう瞬間があるのだ。
ただ、それは幸一に限ったことではない。
――男はオオカミだ――
と言われるゆえんは、そのあたりにあるのではないだろうか。確かに
――紳士の仮面をかぶったオオカミ――
というイメージをテーマにしたドラマや映画も少なくはない。そう思うと、幸一が本能で行動するのは仕方がないことだ。
だが、本当はこの考えがいけないのかも知れない。
それが自分に対しての甘えになり、この甘えに敏感なのは、本人ではなく、一番本人に近い他人ではないだろうか。
この場合であれば、付き合っている女性だったり、付き合い始めようとして、幸一に近づこうと思っている人だったりする。
――やだ、この人こんなことばかり考えている人なんだ――
本能として行動に出そうとしていることばかり考えているわけではないが、一度本能による行動が自分の頭の中に発動されてしまうと、もう自分ではどうすることもできない。前に進むしかないのは、本能であるがゆえなのであろう。
「一点だけを見て、すべてだと思われるのは理不尽だ」
と言いたくなるが、言ってしまうと、今度は相手から、
「何言ってるのよ、その一点だけで十分、それ以上想像すると、あなたはオオカミから野獣になってしまうのよ」
と言われるに決まっている。
「オオカミなら、満月が消えると人間に戻れるけど、野獣なら満月が消えても、元に戻ることはできないの。あなたは野獣としてずっと生きていく運命なのよ」
と言われたかのようで、そこまで考えてしまうと、いくら未練がましい幸一でも、関係の修復が不可能であることを悟るに違いない。
そんな関係が長く続くわけもない。最初の頃は、訳が分からずに別れを迎えたような気がして来て、
――僕は恋愛に向いていないんじゃないか?
と感じた。
そもそも、恋愛に向き不向きを考える時点で、恋愛ということに対して、偏見を持っているということに気付いてしかるべきなのに、そのことに気付かなかった時点で、自分の本能を抑えるなど、できっこないのだ。
幸一は、今まで好きになったと感じた女性を思い浮かべた。中学時代などは、
――まるでままごとのようだったな――
と、恋愛ごっこに夢中になっていたような気がしていた。
高校に入ると、今度は自分の感性と、本能について少しは感じることができるようにはなっていたが、実際にそれをコントロールできなかった。まだまだ理性が頭の中でも固まっていなかったからに違いない。
理性は、確かに持って生まれたものなのかも知れないが、そのまま成長がなければ、意味がない。
なぜなら、本能も成長とともに大きくなるものだし、感性も同じように大きくなるものだ。
だが、本能とは本当に成長とともに大きくなるものなのだろうか?
今の幸一は違う考えを持っている。
――本当は、本能は最初からすべて自分の中に備わっているのではないか。最初は、大きな膜のようなものに守られていて、成長とともに、それが次第に明らかになってくる。もちろん、それをコントロールする理性というものがあり、理性が年齢に応じた本能を、絞り出そうとしているように思う――
と考えていた。
しかも、本能の膜は再生が利かない。つまりは成長とともに大きくなっていくことはあっても、小さくなることはない。あくまでもコントロールする力の問題なのだ。
だから、本人の成長が逆行してしまうと、理性で抑えることができなくなり、理性が本能に負けてしまうこともある。そうでなければ、この世の中から、もっと犯罪が減っていなければいけないのではないかと幸一は思うのだった。
理美と話をしていると、想像が勝手に膨らんでくる。
特に自分の過去を思い出すことになるのは分かっていたが、いいことも悪いことも、同じレベルで捉えることができるような気がするから不思議だった。
幸一はこれからの理美との間で、どれほどの想像や妄想が膨らんでくるのかを思うと、嫌な気はしなかった。理美という女性が、どこか架空の存在で、急にいなくなったら、
――最初からいなかったんじゃないか?
と、思ってしまうのではないかと思うくらいだった。
しかし、その思いは大きな間違いだった。
理美がずっと自分のそばにいてくれるという思いが確信に変わりつつある中で、ここまでの順調に仲を育んできた気持ちが、一気に確信へと向かわせたに違いない。その中に思わぬ落とし穴があることを、その時の幸一は知る由もなかった。
「世の中、何が起こるか分からない」
その言葉を、今まで他人事のように聞いていたが、すぐに身に沁みて分かる時がやってくるのだった……。
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