墓標の捨て台詞

森本 晃次

第1話 墓標の捨て台詞


「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 そんな疑念を抱いたことが、あなたにはないだろうか?

 疑念というよりも、不安である。別に時間が経てば人は忘れていくものであるから、自分のことを知っているという人が減ってくるのも当たり前、その分、新しい出会いがあれば、人生が活性化されるというものだ。

 普通ならこんな気持ちが頭を過ぎったり、通り過ぎることがあっても、不安に感じたりすることはないだろう。

 人生の節目節目で、そんなことを考えるようになった。これは、そんな男の物語である……。


 桜舞い散る遊歩道を歩いていると、この間まで真っ暗だったはずの退社時間、夕闇が夜の帳を開けようとする時、歩いていて湧き出してくる汗が、心地よくさえ感じられるほどだった。

 人通りも普段よりも多い気がする。花見にはもう遅いのかも知れないが、散り際を見ようと集まってくる人も決して少なくないと聞く。去年、初めてこの通りを通った時、すでに桜は散った後だった。引っ越してきてから最初に立ち寄ったこの場所、毎年来てみようと思うようになったのは、一年間の思いをこの場所で確かめようと思うようになったからだ。最初の一年目はただ訪れただけ、花見のメッカだという話を聞いたのも、後になってからのことだった。気にしなければ何もない場所、これから一体何回この場所を訪れることになるのか、我ながら興味が強くなっていった。

 佐藤五郎は、夜桜見物を一人で済ませ、そのまま部屋に帰るだけだったその時、ひときわ大きな桜の木の影に隠れる一組の男女がいるのに気が付いた。一人は見覚えのある。いや、今では忘れることのできない人がいることで、胸が早鐘を打ち始めたのを感じた。

 佐藤五郎が、この土地にやってきたのは、就職してから二年目のことだった。最初の勤務地も田舎だったが、今度の勤務地も負けず劣らずの田舎。それでも、最初の一年で田舎に対しての免疫ができたのか、さほど田舎に来たというイメージはなかった。

 最初の勤務地のイメージが、漁業が盛んな場所で、海に囲まれているような街だったのに対し、今回の赴任地は、工業が盛んで、最初の赴任地とは、違った意味で、活気があった。

 だが、工業が盛んだと言っても、その恩恵が庶民にいきわたるわけではないので、雰囲気としては、あまり活気に溢れている感じはしなかった。

 この土地に来る前に、やっとの思いで車を買い、休みの日などはドライブに出かけることが多かったので、転勤になって田舎に移ってきても不便な感じがしないのは、最初から車があったからだ。

 車のない時にこの街に来ていれば、カルチャーショックをまた引き起こしたかも知れない。最初の赴任地で嫌というほど味わったカルチャーショック。都会の大学を卒業して、――何が悲しくて、就職した途端、田舎に引き込まなければいけないのか――

 と感じた。

 大学時代は、駅前に喫茶店が何軒もあり、洒落たブティックなどもあったことで、自分のことを、都会人だと思い込んでいた時期もあった。それだけに田舎への赴任はカルチャーショックに陥るだけのものを十分に秘めているのだった。

 田舎に行けばいくほど、方向音痴になっていくようだ。特に最初の赴任地は、どこを通ればどこに出てくるかなど、まったく分からなかった。免許は持っていても、最初の三か月は、先輩の運転するトラックや営業車の助手席から見ているだけだった。自分で運転しないとなかなか道は覚えられない。しかも三か月とはいえ、人の運転する車から見た景色が目に焼き付いてしまって、ハッキリと道を覚えられないどころか、錯覚すら植え付けられたようだった。

 街の中心部には、城があった。道が複雑に入り組んでいるのは、城下町の名残なのかも知れない。敵に容易に攻め込まれないようにするためのものだということである。まっすぐに進んでいるつもりでも、気が付けば元の場所に戻っているという思いに何度なったことか、

「自分で運転するようになれば、道は自然と覚えるようになるさ」

 と先輩は話してくれたが、会社の車と、自分の車とでは覚える早さも違ってくるだろう。この街にいる間はほとんど会社の車だったことで、道を覚えることができなかったのだろう。

 新しい赴任地も決して、分かりやすい街でもなかった。ここも街の中心にはお城があったということで、元は城下町である。今は城跡として公園になっているが、昔の面影はほとんど残っていない。そんな中、最初に訪れた場所が、城跡から少し離れたところにある桜の名所である市民公園だった。

 この場所も実はお城の一部だったようで、元々のお城の大きさがどれほどだったのかということを彷彿させられるものであった。

「暖かくなると、ここは桜のメッカから、アベックのメッカに変わるのさ。蚊も結構いるはずなので、アベックには向かないと思うんだが、気にならないのかね?」

 と、先輩が教えてくれた。

 確かに、街灯を見ると、虫が無数に飛び交っているのが分かる。だが、これがすべて蚊であれば、溜まったものではないが、そうでなければ、少し大きめの公園。人数が集まれば。誰に気兼ねすることのないアベック公園に早変わり。他にアベックがいれば人の目も気にならないというものか、同類意識の表れによるものなのか、噂が噂を呼び、人口密度の高さは。アベックだけにとどまらないことを示していた。

 二か所目の赴任地ということで、期待と不安が入り混じる中、少し期待の方が大きかった。

 五郎は、期待が大きいと、自分でも予期していないような、楽しいことが起こることがあることを分かっていた。それが期待の一つだということもあるが、後から考えると、最初から期待がどのようなものかすら分かっていたかのような記憶の残り方をしていた。

 特に、恋愛関係に対しての期待が大きい。二十歳代の前半というと年齢的にも、そろそろ結婚を意識したりする年齢でもあるし、彼女がほしいと思うのが必然な年齢でもある。学生時代には、恋愛経験が皆無ではなかったが、その内容は結構希薄だったと思う。

 仲良くなる前に、相手から別れを告げられることが多かった。別れを告げられるのは突然で、ビックリする。ただ、仲良くなるのも結構早く、自分の人当たりのよさを感じている五郎だった。

 友達との間でも、

「きっかけを作るのがうまいのは、五郎だよな」

 とよく言われる。

 だが、その後があって、

「でも、いつもおいしいところは持っていかれるんだよな」

 と言われる。

 確かにそうだった。もっとも、それは、五郎にあまり話題性がないのかも知れないと思う。なるべく本を読んだり、人から情報を得たりもして、何とか話題性を豊富にしてきたようだ。

 就職してから、五郎の中で何かが変わったのか、それとも、学生時代では五郎の良さが分かる女性がいなかったのか、就職してから、五郎のことを分かる女性が増えたのか、五郎は、就職してからの二年間で、付き合うところまでは行かないが、よく話をする女性が数人いた。

 最初の赴任地でできた女性の友達が数人いたが、皆年上だった。馴染みの喫茶店ができたのだが、そこのウエイトレスであったり、常連客であったりする。学生時代から馴染みの喫茶店は作っていたが、田舎町での馴染みの喫茶店というのは、イメージが違って感じられた。

 喫茶店には暖かさがある。学生時代から感じていたことではあるが。社会人になると、仕事が終わっての自分の時間、メリハリがついて、落ち着いた時間を感じることができる。

 就職してから、五郎は本を読むようになった。

 学生時代にも読んでいた時期があったが、社会人になってから読むのとでは、かなりイメージが違う。趣味というほど大げさなものではないが、仕事の疲れが、いい意味での気だるさに変わり、落ち着いた気分にさせるのかも知れない。

 読む本は、恋愛モノが多い。学生時代には読まなかったジャンルだ。少しブラックな話の小説は、学生時代では読めなかったが、今では読めるようになった。学生時代では刺激が強すぎたようだ。

 学生時代は、どうしても、ベタな恋愛を好んで読む。ブラックな話は、暗くなりそうで、学生時代から、暗くなることは自分にとって辛いことだと思っていたこともあって、なるべく避けていた。

 社会人になって読むようになったのは、本屋でゆっくりする時間を持とうと思うようになったからだ。学生時代にも本屋で本の背を眺めていても、他のことを考えていたりすることも多く、本を選びきれないこともあったくらいだ。

 今は本屋に行けば、読みたい本はすぐに見つかる、最初から、分かっていた気がするくらいだ。

――本が僕を呼んでいる――

 と、感じていた。もちろん、学生時代にはなかったことだ。好きな作家もできたことで、本を読む方向性が決まってきたのだ。一冊読んでしまうと、次も読みたくなる。読書に落ち着きを感じられるようになったのは、仕事を離れて自分の時間を持ちたいという気持ちの表れでもあるのだ。

 本を買って、喫茶店で読む。夕食の後のコーヒーを飲みながら読んでいると、睡魔に襲われることもあるが、それが仕事の疲れからなのか、それとも本を読んでいるからなのか、ハッキリとしない。

 本を読んでいると眠くなるのは、五郎だけではないだろう。特に学生時代に専門書などを読んでいると一気に眠くなってくる。だが、小説のように自分が興味を持って買ってきた本を読むのは、学生時代に読まされていた感のある専門書を読むのとでは、はるかに違ってくる。

 難しい本を気を遣いながら読むのと、興味を抱いて買ってきた小説に、引き込まれながら読むのだから、違って当然だが。小説は興味があるだけに一気に引き込まれて読んでしまうことで、知らず知らずのうちに疲れが蓄積されても不思議はなさそうだ。

「気が付けば一時間が経っていた」

 まだ二十分くらいしか経っていないのに、一時間も経ってしまったかに思えるほど、集中するのだから、それだけ無意識な疲れが生じても、無理のないことだろう。

 その喫茶店で、いつものように本を読んでいると、

「佐藤君」

 と、五郎を呼ぶ声が聞こえた。

 その声は聞き覚えのある。透き通るような高い声の女性だった。

「高山さん?」

 彼女は、高山和代。五郎の会社で事務員をしている女性だった。

 五郎の事務所には、事務員の女性が三人いる。いつも三人一緒にいるのを見かけるが、よく見てみると、その三人の中で一人だけ浮いて見えるのが、和代だったのだ。

「佐藤君も、ここによく来るの?」

「ええ、先週知って、今は毎日寄ってます」

 この土地に赴任してきて、そろそろ一か月が経とうとしていた。先週この店を見つけるまでは、他の店も寄ってみたが、どうにもしっくりと来ない。初めての客にはどこか冷たさを感じさせる店や、最初から、常連などいないと言った、愛想を感じさせない店もあったり、どうにも馴染めそうになかった。

 それでもこの店を見つけて、マスターと話をするようになり、今までの店の話をしてみると、

「どうにも、この土地は閉鎖的なところがあってね。よそ者を嫌う昔の悪い習慣が残っていたりするんだ。人間は悪くないと思うんだけど、この街の人は結構両極端だからね。それは覚えておいた方がいいかも知れないね」

 と、話してくれた。

 確かに、閉鎖的な雰囲気を感じる。だが、中には元々都会の大学を出ている私を都会人として見ているのか、興味津々で見ている人たちもいる。パートのおばさんたちなどがそのいい例で、何かと話しかけてくれて、都会の話など聞きたがっている。もっともパートのおばさんは、この街のことを話題として話すことが多い。自分から話したいという思いも強いのだろう。

「五郎ちゃんは、この土地の女の子をどう思っているの?」

 パートのおばさんたちは、五郎のことをちゃん付けで呼ぶ。親しみを込めてのつもりなのだろうが、五郎もまんざら嫌な気分はしない。今までに接したことのないタイプの明るさを持った人たちで、どこか憎めないところがあるからだ。

「どうって、まだこっちに来てそんなに経たないから分からないですよ。でも、素朴な感じの人には、好感が持てますね」

 こういう核心を突くような質問は、本当は苦手だったが、おばさんたちにされると、さほど嫌でもない。ただ、本当にまだ来て間もないので、どう答えていいのか迷うところだったが、

「うんうん、そうだよね。五郎ちゃんは優しそうだから、きっと、すぐに彼女ができるよ」

 と、ニコニコしながら話してくれた。

 五郎は、おばさんの、

「優しそう」

 という言葉が嬉しかった。褒め言葉の中で一番嬉しいのは、優しいと言われることで、相手が好きな女性から言われるのが、もちろん一番嬉しいのだが、他の人から言われても十分嬉しい。自信に繋がるというものだ。

 和代のことは、本当のことを言うと、一目惚れだった。五郎は今まで学生時代にも何人かの女性と付き合ったが、一目惚れはなかった。付き合ったといっても、予期せぬ突然と別れを言われたり、気が付けば自然消滅していたりがほとんどだったが、一目惚れしたわけではない女性たちばかりだったので、別れることになったのも必然ではないかと思えた。

 それでも、別れが訪れた時のショックは相当なもので、数か月間、落ち込んでしまって笑うことすら忘れていたかのようになっていた。何しろいきなりの別れなので、悩むのも当然といえば、当然である。

 それでも今から思うと、まだまだ自分が子供だった時の感覚だと思っている。学生時代自体が子供のような感覚で、恋愛に対しても、まだまだ甘かったのだろう。就職してからの自分が大人になったとは思えないが、学生時代よりは間違いなく大人に近づいていた。

 一目惚れがなかったことに、今までたいした意識を持っていなかった。一目惚れをしてみたいという感覚もなかったのである。それまでの五郎は、自分から好きになるよりも、相手から好感をもたれることで、相手を好きになるパターンが多かった。

「好きだから好かれたいという思いよりも、好かれたから好きになる」

 というのが、五郎の恋愛パターンだった。

 好きになるということに消極的だったわけではない。ただ、人から好きになられることの方が、自分が好きになるよりも、ドキドキするのだった。自分が好きになると、主導権は自分であるが、緊張してどう接していいか分からなくなる。

――会話がうまくできなければどうしよう――

 という思いも強かった。

 相手から好きになられたのであれば、自分は受け身で、相手に提供してもらった話題に答えていけばいい、そんな短絡的な考えが頭の中にあった。

 だが、そんな理論的なことよりも、人から好かれるというのは快感だった。子供の頃から男女問わず、人から好かれるよりも嫌われることの方が圧倒的に多かった。嫌われるというより、相手にされないと言った方が正解なのかも知れない。

 子供の頃の五郎は、意地っ張りだった。友達ができないのは、その意地っ張りのせいで、人がせっかく教えてくれようとしていることでも、勝手に押しつけだと思い込み、拒否の姿勢を示していた。殻に閉じ籠る性格があったが、意地っ張りな性格が結びついて人を寄せ付けないようになっていたのだ。

 友達ができないことが不思議だった。自分から話しかけようとすると、相手の冷たい態度にドキッとして、それ以上話ができなくなる。嫌われているのは歴然だった。

――どうして?

 今度は、意地っ張りな性格が顔を出し、

――こっちから歩み寄る必要なんてないんだ――

 と思い、そこで壁を作ってしまう。完全な悪循環なのだが、それでも原因は分からない。きっとここまで来ると、原因などどうでもよくなって、意地だけで反発することが自分の生き方だと思っているのだろう。

 そんな五郎なので、人から好かれたことなど、ほとんどない。好かれたとしても、本人が気付いていないのかも知れない。何とも損な性格と言えるのではないか。

 だから人から好かれることに飢えている。本人は

――人から好かれなくてもいいんだ――

 と思っているが、それが自分の性格である「意地っ張り」に結びついているなど、夢にも思っていないことだろう。

 中学に入ると、異性に興味を持ち始めた。最初は徐々に異性への興味を持ち始めたのだが、ある時、急激に異性が気になり始めた。

 理由は分からなかったが、友達が彼女を連れていて、楽しそうにしているのを見ると、いたたまれなくなるのだ。

――この僕が人を羨むなんて――

 意地ばかりを張って、まわりと比較すらしたことのない自分が、急に羨ましく思うようになったのは、思春期になったからだと思っていた。

 それは間違いではないのだが、思春期になると、なぜまわりが気になるようになるのかという一歩踏み込んだことを考えたことはなかった。漠然と思春期というものは病気のように襲ってくるもので、あがいても抜けられないものだと思い、諦めていたのかも知れない。

 一目惚れの相手、和代は今までに自分のことを好きになってくれた人の中にいるタイプだった。五郎が好きな女性のタイプは、基本的には大人しい子で、あまり口を出さないタイプの女性だった。見ているだけで、

「守ってあげなければいけない」

 と感じる、そんなタイプの女性である。

 和代は、いかにもそんなタイプの女性で、化粧の濃い他の二人の事務員と違って、薄化粧で、あまり明るい表情が似合う感じがしなかった。ただ、どこか気になる存在で、そばにいると、話しかけてあげなければいけない雰囲気を要していた。

 中学時代に異性が気になり始めた時、自分がどんなタイプの女性が好きなのか、考えたことがあった。すぐに見つかるわけのない結論だったが、ふっと思いついた時のタイプが、今もそのまま意識として残っている。

――自分が連れて歩いていて、他の人が羨むような女性――

 だと、最初は思っていたが、どうやらそうではない。自分の好きな女性のタイプは他にあった。もちろん、人が羨むような女性を連れていたいという思いが大きいのは否定できない。

 和代と初めて話をしたのも、転勤してから、数日経ってからだった。他の女の子たちが、好奇心いっぱいにいろいろ聞いてくるのを横目に、興味なさそうに自分の仕事をコツコツこなしている姿は威風堂々としているが、五郎は気になって仕方がない。

 気になる五郎は、チラチラと和代を気にしている。何度も気に掛けているうちに、さすがの和代も気になり始めたのか、五郎を気にするようになっていた。

 お互いに気にしているのだろうが、表情が変わることはなかった。

――相手が笑顔を見せれば、最高の笑顔を見せるだけの自信はある――

 と、五郎は思ったが、間違っても自分の方から笑顔を見せることはないと感じたのは、意地ではないような気がした。

 和代も決して笑顔を見せようとはしない。ただ、五郎を意識しているのも分かってきたし、もし笑顔を見せるとすれば、他の人に見せたことのないような最高の笑顔を見せてくれるような気がした。

 最高の笑顔というのは、どういう笑顔だろう?

 初めて和代の笑顔を見た時、

――前にも見たことのあるような笑顔だ――

 と、初めて見たはずの笑顔を、過去にも見たと思う。それが最高の笑顔だと思った。

――和代が見せた笑顔だから、そう思うのかも知れない――

 とも感じた。

 それも間違いではない気がするが、以前にも同じように好きになったことがある人がいて、その人の笑顔を思い出しているのかも知れない。だが、それを感じさせたのは、和代の笑顔を見たからに違いない。ほとんど笑顔を見せることのない和代が、五郎に対してだけ見せた笑顔、それこそ、初めて見せた笑顔ではないことを思い出させるものだった。

 和代と会社の外で初めて顔を合わせたのは、ただの偶然ではないように思えた。だが、顔を合わせても、何を話していいのか分からずに、黙っていた。座った席は別々のテーブルで、和代は声を掛けただけで、それ以上のことは口にしなかった。

――ひょっとして、声を掛けたことを後悔しているのかも知れないな――

 その時の五郎は、自分が和代に一目惚れをしているという意識はなかった。どうしても話しをしないと我慢できないわけでもなく、しばらく本を読んで、

――いつものようにキリのいいところで帰ればいいのだ――

 と思っていただけだった。

 だが、そう思えば思うほど、そして時間が経てば経つほど、和代のことが気になってくる。

――目の前にいて、触れようと思えば触れるくらいの距離――

 と、五郎は感じていた。だが、声を掛ける勇気がないことを自覚すると、今度は、まわりが真っ暗になって、二人だけがスポットライトを浴びているかのような錯覚に陥るのだった。

 和代には、人を寄せ付けない雰囲気があるのだと、五郎は思っていたが、それが錯覚であることに気が付いたのは、この時だった。そのことに気が付くと、初めて自分が和代に一目惚れしていたことに気が付き始めた。

 その時にすぐ感じたわけではない。徐々に気付き始めたのは、その日の喫茶店では、結局話をしなかったからである。その時、どちらからか話しかけていれば、一目惚れだったことに気が付いたはずだ。いや、ハッキリそう言い切れない。話しかけていれば、ただの同じ会社の人間というだけで済ましていたかも知れないからだ。

 仲良くなってから聞いてみると、その時のことは、和代もハッキリとは覚えていないという。

「あなたが、話しかけてくれると思ってました」

「僕は、君から話しかけてくれるものだと待っていたんだけどね」

 五郎の方は売り言葉に買い言葉。本当に待っていたとは言いがたいところがあった。口から出まかせというわけではないが、本当に待っていたと言い切るだけの自信はなかったのである。

 和代と付き合うようになってからも、お互いに喧嘩が絶えなくなった。わがままがぶつかり合ったというわけではないのに、絶えず喧嘩をしていた。すぐに仲直りしていたが、五郎は喧嘩をするたびに、どんどん仲良くなって行っているように思えたのだ。きっとその時に一目惚れだったことを再認識したのかも知れない。

 和代には、どうしても譲れない部分があったようだ。それがどこから来るのか、五郎には分からなかったが、それが分かる日が来るのは、お互いに付き合い始める前のことだった。

 今までに付き合った女性には、相手が誰であれ、絶対に譲れないものを持っている人はいなかった。好きになった相手であれば、何でも許せるという人ばかりだったので、喧嘩になることはなかった。だが、別れは突然に訪れる。その時には、すでに引き返すことができないほどの気持ちが相手の女性にはあるようで、何を言っても同じだった。

「女性というのは、ある程度のところまでは我慢するけど、ある程度の線を超えると、今度は誰が何と言おうとも、引き下がらないところがあるものだよ」

 という話を聞いたことがあるが、まさしくその通りである。

 相手が我慢していることに気付かずにいると、最後はしっぺ返しを食らってしまうのだろうが、付き合っている時には。万に一つも相手を疑わないという気持ちが強い。相手に対しての思い入れが強いからなのかも知れないが、

――自分が好かれているんだ――

 という気持ちが油断を生んでしまうのかも知れない。

 自分には油断などないという思いが、驕り高ぶりになるのだろうが、それを相手の女性が見抜いているとすれば、決してそのことを相手に言えるはずもない。この悪循環が、知らず知らず相手に我慢を強いることになり、我慢の限界を超えると、そこから先は、相手の開き直りだけを引き出す結果となる。そうなると、もう修復は不可能なほど、お互いの距離が遠ざかってしまっているのだろう。

「もう、あなたの姿が見えない」

 と、彼女たちの背中が言っていたのかも知れない。黙ったまま後ろを一切振り向こうとしない背中だけが、五郎の記憶には残ってしまうのだった。

 五郎は、夢で何度か女性と別れた時のことを見た記憶がある。夢というのは目が覚めた時にはほとんど忘れているもののようだが、女性から別れを告げられた時のことは、なぜかイメージだけは残っているのだ。相手が誰だったかということまで覚えているわけではない。いつも違う人だったのか、それとも同じ人だったのか、分からないのだ。

 別れた時のシチュエーションは、相手によって様々だが、残ったショックとダメージにそれほど変わりはない。それだけに時間が経ってしまうと、その時のシチュエーションは相手が誰であったとしても、さほど変わりがない気がしていた。だから、夢に見た相手が誰であったのか覚えていないのではないかと思うし、わざと覚えていないのかも知れないとも思う。

 残ったショックは時間とともに薄れていくが、さまざまなシチュエーションが、一つのものとなって記憶に封印されてしまっているのではないかと思うようになっていた。

 夢で見た内容は、その日一日は頭に残っている。それが消えるのは、その日の夜、眠りに就いた時なのだった。

 夢の続きは見ることができない。夢には続きがあるのだ。なぜなら、肝心な場面で夢は目が覚める。本当ならあまりいい思い出の夢ではないのだから、目が覚めてしまったことで安心するはずなのに、その夢に限っては、その先を見ることができないのを悔やんでしまうのだ。

――どうしてなんだ?

 ある程度覚えている夢のはずなのに、先が見えないことが不思議なのだ。

――想像もつかないということなのか?

 確かに想像もつかないことではないはずなのに、考えることを自分で拒否しているかのように思えてならない。

――思い出さないといけないことではないのか?

 という思いが頭の中にあって、それが無言のプレッシャーとして意識の中にあるのかも知れない。

 以前付き合っていた女性と別れる夢を見るようになったのは、和代と付き合うようになってからだった。今まで他の女性と付き合った時は、いつから付き合い始めたのかということを意識していなかった。それは、告白らしいものはなく、友達からいつの間にか付き合う相手に昇格していたからだった。

 和代の場合は、付き合い始めるまでに、ワンクッションあったのだ。それは、五郎の告白という行為だった。

 元々、今までのように告白までは考えていなかった。だが、告白しなければならない状況を作ったのは、元を正せば五郎なのだが、お膳立ては、まわりの人たちであった。

 パートのおばさんたちには、五郎が和代のことを好きなことも分かっていて、和代も気にしていることが分かっていたので、二人を見ていると、じれったく思えていたに違いない。

 映画の無料券を二枚出して、

「二人で行ってらっしゃいよ」

 と、五郎の手に渡した。

「相手は言わずとも分かっているでしょう」

 と、言わんばかりの笑顔を見せる。五郎も暗黙の了解を察知して、笑顔で礼を言うとともに、頭を下げる。

 お膳立てをしてくれるのは、ありがたいことではあるが、これがプレッシャーとなるのだ。気を遣ってもらっていることに気が付くと、次第に緊張してきた。それでも五郎は、すぐに告白の場面を作ったのだが、それは自分なりの開き直りがあったからで、一旦開き直ってしまうと、すぐに行動に移さずにはいられなくなっていた。

――そういつまでも、緊張感を保てるわけではない――

 というのが理由であるが、開き直りが緊張感の行き着く先だという理屈でもあった。それに開き直りの裏には玉砕覚悟の気持ちが含まれているのかも知れない。裏に覚悟がないと、開き直りなどできないと思っているからだ。

 見に行った映画は、恋愛モノだった。二人並んで見ていていたが、五郎はスクリーンと同じくらいに、いや、それ以上に和代の様子を気にしていた。それだけに、途中から和代の様子に変化が見られることにすぐに気が付いた。

――泣いているのかな?

 両肩が小刻みに揺れていて、微妙に顔が前のめりになっていて、鼻をすするような音さえ聞こえてきた。我慢しているのだろうが、じっと見ていると、いつ嗚咽が聞こえてきても不思議がないように思えた。

 暗闇にも目が慣れてくると、スクリーンの明るさや色で、和代の顔が歪んでいるかのように見えた。苦悩に歪んだ顔に見えてきて、

――何とかしてあげないと――

 と、思うようになった。

 できることとすれば、手を握ってあげるくらいしか思いつかない。だが、映画館のような暗闇で急に手を握って、ビックリさせないだろうか。あまり男性と交際経験のない女性なら、男性恐怖症の引き金を引いてしまうのではないかという思いもあった。

 それでも、目の前で震えているのは紛れもなく、自分が好きになった女性である。手を握ると、ぐっしょり汗を掻いているようだった。やはり最初はビックリしたのか、手を引っ込めたが、五郎が臆せずさらに手を握ろうとすると、和代は抵抗するのをやめた。五郎の握った手を、自分の方から握り返したのだ。

「その時、気持ちが通じ合えた気がしたんだ」

 今でも、気持ちが初めて通じ合った時を聞かれると、迷うことなく、この時だと答えるだろう。

 映画の内容は、一人の男性が好きになった女性を残して、旅に出るというところから始まっていた。男性には過酷な運命が待っていて、彼女もその運命に引き込まれていくというのが大筋の内容だった。

「こんなことなら、何としてでも、あの時にあの人を引き留めるんだった」

 女性は、後悔の念に押し潰されそうになる。それを救うかのように現れる主人公の男性、二人の紆余曲折は、もう戻ってくることのない男性を中心に繰り広げられる。運命に左右されていると思っている彼女の気持ちをいかにほぐしていくかが問題なのだが、自責の念で押し潰されそうになっている人を救うために、彼は彼女と一緒に十字架を背負い生きていくことを誓う。

「これが俺の恋愛だ」

 と言い切る主人公。見ている人にとって、如何様にも判断できうる内容だが、最後は結局同じ結論に行きつくという、最たる例ではないかと、五郎は感じた。

 映画館を出てからの和代は、もう泣くことはなかった。本当はこの日に告白をしようと思っていた五郎だったが、和代の涙を見た瞬間に、告白することを断念した。

 次の日会社に行って、パートのおばさんたちから、

「どうだった?」

 と聞かれて、

「ありがとうございます。楽しかったですよ」

 と答えると、おばさんたちは顔を見合わせて、そのうちの一人が、

「ほらね、私が言った通りでしょう? 五郎ちゃんは告白してないみたいよ」

 というと、他の人たちも納得したかのように頷いた。すべてお見通しということか。

「どうして分かったかというとね。五郎ちゃんが、『楽しかった』って言ったでしょう? それ以外の答えだったら、告白したと私は思ったのよ。楽しかったという答えは、告白できなかったことに対して唯一、私たちに話ができる答えだったと思ったのよね」

 まったくもって、その通りであった。憎いくらいの洞察力に感心しながら、

「うんうん」

 と、頭を下げながら、五郎は、頭の中でさらにいろいろ考えていた。

――彼女が泣くことを予想してあの映画にしたのかも知れない――

 と思えてならなかった。すると、おばさんたちは五郎の知らない、和代の過去を知っているということか。

――彼女は引っ込み思案な性格だが、何かあった時は、表に気持ちを出すのかも知れないな――

 と思うのだった。

「でもね。横田さんのことがあるからね」

 一人のおばさんが聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。もし、その時、ちょっとでも風の悪戯があれば、その声は打ち消されていたに違いない。

 それを聞いて、一人がそれ以上言わないように制したおかげで、そのおばさんもそれ以上は何も言わなかった。最初から口を開きたくて仕方がなかったのかも知れない。制されて急に我に返ったようにまわりを見渡してから、急に表情がこわばった。それはまるで、口に出してしまったことは取り返すことができないことを、今さらのように悔いているかのようだった。だが。おばさんが後になって思っても、それはやはり後の祭りでしかないのだ。

 五郎は、そう思ったからこそ、聞いていないふりをした。おばさんはホッと胸を撫で下ろしたようだが、まわりの空気が一瞬固まってしまったことは、それこそ取り返しのつかないことであった。そのおばさんは、気付かれなかったことだけに安心して、その場の空気まで考える余裕はなくなってしまったかのようだった。

 五郎が聞かなかったことにした理由はもう一つある。それは、五郎はこのおばさんたちを、完全には信頼していないということだった。

 ここで下手に聞きただすと、きっと教えてはくれるだろう。だが、それはしょせんは他人がもたらした話題。どこまでが真実なのか、そして真実であっても、感情の移入のあるなしで、五郎の判断がしにくいというものだ。信用していない相手から聞いたとしても、それは参考でしかない。必要以上に心配を植え付けられるだけの結果にならないとも言えないではないか。

――それにしても、横田さんというのは誰のことだろう?

 この支店に来てから、その名前を聞くのは初めてだ。だが、おばさんたちが知っているということは、少なくとも支店の他の人も知っていていいはずだ。

――タブーになっているんだろうか?

 と思うと、余計に気になってくる。

 ただ一つ言えることは、おばさんたちが、五郎とその横田という人物を比べているのは間違いないだろう。

 知らない人と比べられるのは、五郎の性格から言って、決して許されることではなかったが、その中心にいるのが和代ということで、五郎は複雑な気分になっていた。逆に横田という人物の名前があがったことで和代への興味がさらに膨らんできたのも事実である。一目惚れした相手に対してさらなる思いが募るなんて、今まで考えたこともなかった。

――一目惚れした相手だから、募る思いもとどまるところを知らないのかも知れないな――

 と思っている。

 和代に対して、付き合い始めたわけでもないのに、最初から喧嘩ばかりしていたのだが、それは和代に対しての募る思いが次第に膨らんでくるための一つの布石のようなものではないかとさえ思えた。

「ケンカするほど仲がいい」

 というが、その通りかも知れない。

 だが、二人が付き合う前から喧嘩ばかりしていたという意識は、かなり後になって木がついたことだった。最初は付き合い始めてから喧嘩ばかりしていたように思っていたが。それは、正式に五郎が和代に告白する前からだった。考えてみれば、なかなか告白しない五郎に対して、和代が業を煮やしたように思えた時期があったくらいだ。そのことを五郎は最初から分かっていたはずだったではないか。後から思ってそう感じるのは、すでに和代に対して冷静に表から見ることができる自分の存在もあったことを示しているのだろう。ただ、付き合い始めから、完全に五郎は、和代のペースに嵌っていたようだった。

 嵌るほどのペースを和代が意識して作っていたとは思えない。五郎は和代に対して過大な妄想を抱いていたのかも知れない。妄想だけではなく、和代の後ろにある見えない壁のようなものを意識しすぎていたのだ。その壁は、しかも一重ではなく、何重にも重なり合っているように思えてならなかった。

 今、五郎は自分が後になって和代のことを思い出しているという意識を忘れかけていた。だが、実際に思い出そうとすると、和代という女性ほど、時系列で思い出すのが難しい女性もいない。思い出としては、古いものであるにも関わらず、その時々を点で捉えると鮮明に覚えているのに、時系列に並べようとすると、なかなか難しい。過去の思い出を思い出すのが難しいのは、個々の記憶というよりも、時系列で結びつけることを一緒にしてしまいそうになるので、自分で難しくしすぎているのかも知れない。五郎は、最近になってそう思うようになっていた。

 次の日になって、和代に告白する決意を固めた五郎は、和代をドライブに誘った。今までに何度かドライブに出かけたが、夕方から出かけるドライブは初めてだった。

 場所は海の見える小高い丘だった。夜になればあたりは真っ暗で、本当はムードもないのかも知れないが、五郎にとって、海の近くは特別な思いがあった。

 本当は潮風が苦手である。小学生の頃に、家族で海水浴に何度か出かけたが、帰ってきてから、決まって熱を出していたのだ。潮風が気持ち悪く、潮の独特の匂いが、五郎には辛かった。

 身体にべたつく潮の感触は、魚臭さが元々苦手だった五郎には、ダメ押しに近い形で海を嫌いになる決定的なきっかけを作ってしまった。それでも発熱の原因が、最初は海にあるとは分からなかったのは、相当海に対して甘い考えを持っていたからに違いなかったのだ。

 それなのに、五郎はどうして、告白の場面を、その嫌いな海辺に決めたのだろう? 和代が海を好きだと言ったわけではない。五郎にしてみれば、きつい思いのある海辺で告白することで、逃げられないような環境を作ることで、何かを覚悟しなければいけないとでも思ったに違いない。

 ただ、覚悟しなければいけない何かを、五郎はハッキリと把握しているわけではない。海に来たのも、気持ち悪さを忘れるくらいに緊張しているからなのかも知れないが、来てみると確かに気持ち悪さを感じることはなかった。

 季節がまだ、春だというのも、さほどの気持ち悪さを感じさせない理由の一つかも知れないが、すでに初夏の息吹は近づきつつあった。梅雨を思わせる雨もその頃には降っていて、いつ梅雨に突入してもおかしくない状況でもあった。

「僕は、海って、本当は好きじゃないんだ」

「じゃあ、どうして私を連れてきたの? 私が海が好きだと思ったの?」

「それもあるんだけど、夜の海は昼の海とは違って、僕が好きではない海とは違う海が広がっているんだよ」

 そう言って、五郎は身を乗り出して海を見ながら、さらに続けた。

「この向こうには海が広がっているはずなんだけど、僕にはハッキリと見えないんだ。昼間を知っているから海だと分かるけど、知らなかったら、海だなんて、想像もしないだろうね」

 五郎は何が言いたいというのか。

「私も、この吸い込まれそうな景色、本当は怖いんだけど、あなたといると、不思議ね。怖い気がしないの。こんな気分になったのは、久しぶりだわ」

 と、和代がいう。

――こんな気分になったのは久しぶり?

 その言葉の裏には、以前にも同じような気持ちにさせてくれた人がいるということか。もしそうなら、五郎は、二番煎じを演じていることになる。自分の本意ではない。だが、ここまで来て、気持ちを元に戻すことなどできない。もし、和代が過去のことを思い出そうとしているとしても、五郎の感情から生まれた行動を妨げることなどできるはずもなかった。

 海の見える丘の向こうに広がる果てしない暗黒の世界。怖いはずの世界が、一緒にいる人のおかげで、まったく違ったものに見えてくる。目の前に広がっている世界が、ウソかまことか、それは、これからの五郎の告白で決まってくるのだった。

 吸い寄せられるような光景は、身を乗り出した五郎に何を見せるのだろうか。最初は何も見えないが、目が慣れてくると、見えてくるものがある。吸い寄せられる光景に、最初はざわついていたような波の音が次第に気にならなくなってくる。

 だが、何も聞こえないわけではない。気にならないと言っても、ざわつきが減ってきただけで、ざわつきが減った分、定期的に聞こえる音は、リズミカルに感じさせられた。

 遠くの方で光が点滅しているように見えたが、どうやら、灯台があるようだった。そういえば、ここは入り江になっていて。左側の奥は断崖絶壁の岬になっていると聞いたことがある。

 断崖絶壁を思い浮かべていると、そこには灯台があっても不思議のない光景が目を瞑ると瞼の裏に浮かび上がってくる。

「和代さんは、この景色、初めて見るわけではないようですね」

 五郎はすでに、和代のことを、舌の名前で呼ぶようになっていた。和代からいいも悪いも聞かされたわけではないが、嫌われるのを覚悟で、呼んでみた。

 嫌われるのを覚悟とは言っても、和代の性格からして、嫌うわけはないという思いの元ではあったが、五郎としては、それも冒険の一つであったことは、疑いようのない事実であった。

「ええ、初めてじゃないわ」

 何か、海に向かって話しかけているように見える。

 最初の五郎が。自分の決意を覚悟に変えようと、前の海を、見えない海を、何とか見ようと試みたように、今度は、和代が前の海を見つめている。

 それは、決意を覚悟に変えようとしている五郎とは違い、和代の場合は、逆に覚悟を決意に変えようとしているのではないかと五郎は思った。海を見ながら話しかけていることに、五郎のまだまだ想像も及ばない何かが、和代にはあるに違いないのだ。それが会社で聞いたおばさんたちの会話に結びついてくるのだと五郎は思っている。

 五郎は、初めてではないという和代の話を聞いていたいという衝動に駆られている。最初は、何かあるのであれば、和代が話をしてくれるだろうから、それまで待てばいいのだと思い、聞いてみたいとまでは思わなかった。もちろん、その時も、気持ちの上では聞きたいと思わないというよりは、聞いてはいけないことだとして何とか思いを封印しようとしていた、だが、気持ちとは裏腹に湧き上がってくるもの、それが不安だと感じた時、聞いてみたいという思いは、衝動に駆られている思いだと感じるのだった。

 今の和代を見ていると、話しをしてくれそうに思うのと、このまま気持ちを封印してしまおうとしている気持ち、五郎が思うに、半々に思えている。

 和代は、迷っているというよりも、心の中にあるわだかまりを何とか振り払おうとしているかのようである。とうことは、わだかまりさえなくなれば、和代は五郎と付き合う気持ちが固まるということである。

 五郎の勝手な思い込みであるが、この思い込みには確信が隠されているように思えてならない。

 五郎の中には。確信が表に出てくる感覚を持てる時が時々あった。それは口では言い表せるものではないが、気持ち的に自分の中での確信が表に出るというよりも、表から見た自分が身体から滲み出るのが見えるような感覚を確信というのであった。

 海を見ていた和代は、まだ、何か呟いている。その視線が次第に下に下がっていき、ついには俯いてしまった。

 もう和代は呟いてはいない。下を向いていた時間はさほどではなく、また顔を上げると今度は、表情が変わっていた。

――覚悟が決意に変わった瞬間――

 五郎が、和代の中に感じた想いは間違いではないだろう。何かを吹っ切った顔をしているからか、変わった表情に、迷いのようなものがなくなったかのようだった。

「実は私。前に付き合っていた人がいたんです。五郎さんは、そのことを誰かからお聞きになりました?」

――やはりそういうことか、だけど、それだけではないような気がするが――

 という思いもあったが、とりあえず、和代の話を聞くしかなかった。

 和代は続ける。

「その様子では、ハッキリは聞いていないけど、ウスウスは分かっていたというところでしょうね」

 洞察力はなかなかのようだ。

「その人は、横田さんといって、同じ会社の営業の人でした。だから、五郎さんから見れば先輩に当たる人ですね」

「そのようですね。和代さんは、その人のことを、横田さんと呼んでいたんですか?」

「ええ、名前で呼ぶことはなかったです。最初は年上だったので、苗字で呼ぶのが当然だと思っていて、付き合うようになってからも、そのままでしたね。横田さんもそのことについては触れることはなかったですし、私もこのままでいいのかなとも思いましたけど、急に変えるのも不自然に思えて、結局、横田さんという名前で呼んでいました」

「じゃあ、横田さんは、和代さんのことは何と呼んでいたんですか?」

「和代、と呼び捨てにしていました。私がそう呼んでほしいと言ったわけではないんですが、気が付いたら、そう呼ばれていました。私には、きっとそう呼ばれることが安心感を呼ぶということに気が付いていたのかも知れませんね」

「じゃあ、僕も和代と呼びたいな」

 まずは告白に対しての、軽いジャブのつもりだった。和代にその思いが伝わるかどうかは、問題ではなかった。五郎の中だけの頭の整理ができれば、それでよかっただけのことである。

「いいですよ。私もそう呼ばれたい」

 軽いジャブを、和代は受け止めてくれたようだ。

「横田さんとは、どれくらいのお付き合いだったんですか?」

 本当は、付き合っていたことを聞きたいのは期間ではなかった。だが、まずは期間を知ることで、和代がどれほどの苦しみがあったかを、外観からでも見ることができると思ったからだ。

「三年ですね」

 三年という期間は、聞いてはみたが、五郎には想像できるものではなかった。今まで長くても数か月。それ以上の付き合いはなかったからである。自然消滅と、突然の別れ。それ以外を経験したことのない五郎は、本当に経験値は低かったのだ。

 三年前というと、五郎はまだ二十歳の時、大学時代で一番楽しかった時期にも当たる。何をしたいか、将来どうすればいいのかなど、漠然としてしか考えておらず、ただ、目の前のことだけを見ていただけだった。

 そう思うと、和代の過ごした三年間、五郎の知らない三年間がどれほどのものであったか、想像できそうにもないと、最初から臆してしまったように思えた。臆してしまったことで却って、想像力が増してくるのではないかと思う気持ちもあったが、想像することが怖い気持ちが強く、話を聞くまでは、先走っての想像は禁物だと思えたのだ、

 五郎は、今まで付き合った女性のことは、先走って想像してきた。

――自分とは随分違った環境で育ってきたんだな――

 という思いは誰に対してでもあったが、和代に対しては。同じ違ったという言葉が前についても、

――自分とは随分違った人生を歩んできた――

 と考えるのだ。

 どこに違いがあるかと言えば、明らかな違いは、和代には以前付き合っていた人がいたということである。今までに付き合った女性にもいたかも知れないが、想像する時は、話を聞く前だったので、誰もいなかったものとして考えていた。

 相手の環境に誰か他の人、大きく関わったであろう人がいたと思うと、その人を見る時は「環境」ではなく、「人生」を見ていることになるからだ。

 自分の知らない誰かと、人生を歩んでいた。それは横に並んで歩いてきたのか、それとも三行半で、後ろから黙ってついて行ったのかは分からない。聞くのが怖い気もするが、五郎は告白しようと決意を固め、それが覚悟に変わったのだ。

 和代にとっての三年間の人生、それはその人の現在を写す縮図ではなかったか。彼女の中にある三年間を無視して付き合っていくことは、五郎にはできないことだった。もし、和代が三年間の話を五郎に黙ったまま付き合うような人だったら、五郎の目が節穴だったことになる。今まで付き合ってきた相手とは自然消滅だったり、突然の別れを切り出されたとはいえ、五郎の目は自分では節穴だとは思っていない。後から思えば、自分だけが悪かったわけではないと思うようになっていた。

「別れが、その人を大きくする」

 という言葉がウソでないとすれば、五郎は間違いなく成長している。そかも、もう学生時代とは違い、人間関係に関しても、それなりに経験しているつもりである。そんな五郎は、覚悟ができた瞬間、開き直りとともに、自分の成長も確信していたのだ。

 そんな五郎に対して、和代の態度は大人だった。告白しようとしている五郎に対し。秘密にはしておけないと思ったのだろう。放っておいても、誰かの口から耳に入ることが分かりきっている。それならば、自分から話をするのが、一番いいと考えたに違いない。

 確かに横田の話題は、会社内ではタブーのようになっていた。誰もが触れないようにしていたが、誰もがしゃべりたくてウズウズしているような環境、一触即発な状態は、それまで他人事だった五郎には、それほどビリビリくるものではなかった。もしあったとしても、心地よさすら感じさせるものだっただろう。

 だが、実際に渦中に入り込むと、身体に電流が走ったような感覚に陥る。それもずっとではなく、定期的に襲ってくる電流、身体が慣れてくるわけではないので、刺激というには厳しい状態がずっと続いている。

 横田の存在がどうしても大きくなってくる中で、五郎は、和代の話を待った。和代は何をどう話していいのか考えているのだろう。いかに話せば一番自然に話ができるかということになるはずだ。

「三年というと、長いのか短いのか僕にはよく分からないけど」

 話のとっかかりになればいいと思い、五郎は答えた。

「そうですね。私にも正直分かりません。でも、分けるとすれば、一年単位かも知れませんね。少なくとも最初の一年が一番楽しかったのは間違いないです。それ以降は楽しさという意味では。あまり感じなかったかも知れない。それ以上の感覚、もう少し現実的なものが私たちの前に立ちはだかったような気がするんですよ」

 そういうことであれば、確かに三年という期間が長かったか短かったか分からないかも知れない。

「遅すぎた春」

 という言葉があるが、三年という期間は、男女の気持ちがすれ違いから生じる修復不可能な亀裂を生むには十分な期間なのだろうか。

 五郎も、今までに付き合った人との間に、すれ違いから生じた修復不可能な亀裂のようなものを感じたことがあった。付き合い始めて三か月も経っていない時期だったに違いない。亀裂が生じたと分かった時、五郎はどうしていいか分からずパニック状態に陥っていた。今から思い出しても赤面に値するほどの恥かしさが、胸を締め付けるほどであった。

 その時の彼女は、社会人だった。五郎がちょうど二十歳、奇しくも和代が横田と付き合い出した時期と重なっていた。彼女は短大を卒業し、社会人になっていた。知り合ったのは、彼女が短大卒業前で、就職が決まって、一段落ついた時だったのだ。

 これから社会人になることでの期待と不安、今の五郎には分かるのだが、その時の五郎には想像もつかない。いくら彼女が、

「不安と期待が半々くらいかな? でもやっぱり不安の方が大きいわ」

 と言っていても、まったくピンと来ない五郎からすれば、

「辛い時は僕がそばにいてあげるから、安心してもいいよ」

 と、言いながら、そんなセリフを吐くことができるその時の自分の立場に満足していた。だが、それは満足というよりも酔っていたと言った方がいいだろう。相手に対しての思いやりの気持ちというよりも、自己満足だったのだ。それも自分勝手な自己満足。これでは気持ちのすれ違いが起こるのは必然である。

 すれ違いが起こっても、それが分かっているのは。彼女の方だけで、五郎の方は相変わらず、自分勝手な自己満足から、親切の押し売りをしていたのだ。

 彼女からすれば、いくら訴えても答えてくれない相手を、いつまでも慕っているわけにはいかない。自分で解決しなければいけないと感じたのだろう。あるいは、その時にもっと素敵な男性に知り合ったのかも知れない。もし、そうであれば、五郎に対しての気持ちは失せてしまい、未練などまったくなくなってしまう。あるのは自分に付きまとうストーカーのような男性の存在だけだった。

 自然消滅であれば、彼女の方が、かなり気を遣ってくれてのことであろう。それに今さら話をする気にもならないという気持ちからだろうか。どちらにしても、気持ちは完全に切れている。

 その時になって初めて、事の重大さを知ることになる五郎にとっては、青天の霹靂であろう。青天の霹靂ではあるが、

――これは一過性のものであり、すぐに戻ってきてくれる。悪い夢を見ているだけなのだ――

 という思いを、何度同じ目に遭っても、考えてしまう。それ以外には考えられないのだった。

 一番ショックだったのは、彼女から、

「もう、私に付きまとわないで」

 と言われた時だった。自分が付きまとっているわけではなく、

――あなたのために――

 と考えているだけだと、喉まで出かかった言葉を飲み込むしかなかった自分が悔しかったことだ。

 後で思えば、もちろん、そんなことを口にしてしまえば、自分の人格すら否定してしまいそうで、絶対に口にできない言葉だと分かっている。だが、同時に相手からショックなことを言われて、一言も言い返せなかった自分が悔しいという思いも強いのだ。自己嫌悪から、鬱状態に陥ったとしても、それは仕方がないのかも知れない。

――僕は彼女の何を知っていたというのだろう?

 晴天の霹靂で、さらに彼女への思いが募ってきたのとは裏腹に、今まで何を見ていたのかという疑念が浮かんでくる。

――僕は人を好きになること自体、失格な人間なのではないか?

 と思うことから、鬱状態が始まっていた。

 それまでに付き合ったことのある女性のイメージが走馬灯のように駆け巡る。自然消滅してしまった人の顔が浮かんでくるが、その顔は自分が好きになったその人の表情ではなかった。

――僕の知らない顔――

 それがきっと、その人の本当の顔なのだろう。

――別れてから知るなんて、何とも皮肉なことなんだ。これだったら、好きになることもなかったのに――

 と思うが、それは勘違いだった。

 五郎は間違いなくその人を好きになったのだ。一瞬であったとしても、その人の中に自分が愛するべく顔を見つけたのだ。そのイメージを感じた瞬間。それ以外の彼女を想像することができなくなった。自分で勝手に作り上げた彼女のイメージをかぶせながら、付き合っていたのかも知れない。

 相手からしてみれば、

――この人は私を見ていないんだわ――

 と思っていたのかも知れない。

 自分を見てくれていないことに気が付けば、今までの目線とは違ってくる、まわりを今までと違った目で見るようにもなったことだろう。今まで気付かなかったことに気付くようになると、彼女なりの疑念が大きくなっていくのだろう。

 和代は、横田の話を始めた。

「彼は、私がこの会社に入る前からこの支店で営業をしていたんです。私は入社した時、彼のことをそれほど意識はしていなかったんですが、私がいつもドジばかりしていたので、落ち込むことも多かったんですね。そんな時。彼から声を掛けてもらって、とても嬉しかった。それで私は彼を好きになったんです」

 人を好きになる理由など、多種多様で、人によって全然違う。

――優しくされたから、好きになった――

 少し短絡的に思えたが、和代にとっては立派な理由であった。

 人を好きになる理由なんて、人を納得させる必要などない。自分だけで納得していればいい。そう思うと、否定など誰にもできるはずなどないと思えるのだった。

「その気持ち、よく分かりますよ」

 とはいえ、ここまで和代の気持ちに影を落とした横田という男は、どんな男性なのだろう? 好きになった人から見られる相手、もうすでに過去の人だという相手に今さら競争心を抱いても無意味である。愚の骨頂と言ってもいい。

 だが、なぜか気になる。和代が覚悟を決意に変えるために通らなければいけない道だと思ったからこそ、横田の話を五郎にしているのだろう。

「横田さんは、実は離婚経験者だったんです」

 この言葉には、少し驚かされた。離婚経験者ということで思い浮かぶのは、悲哀に満ちた男性の姿。男としては情けなく見える姿なのだが、女性の目から見ればどうなのだろう?

――母性本能をくすぐられるかも知れない――

 和代には、どこか母性本能を感じさせるところがある。それも、絶えず感じるわけではなく、ふと気が付いた時、

――これが母性本能なのかな?

 と思わせるところがあった。わざわざ母性本能だと感じるくらいなので、急に感じさせ、しかもすぐに消えてしまうようなものである。したがって、意識したとしても、後から思い出そうとすると、

――母性本能を感じた――

 というだけで、どんな内容なのかなど、まったく分からない。

「年はいくつだったんですか?」

「三十五歳でした」

 十歳以上も年上の男性。これにはさすがに五郎はどう話をしていいか分からない。離婚経験があるというよりも、年齢の方が気になったのだ、

 上から見下ろすのと、下から見上げるのとでは、実際の行為と違って、年齢「という意味では逆に感じられる。それは、一度通ってきた道を、相手が追いかけてきていうという感覚があるからだ。

 三十五歳から見る二十四歳は、それほど遠く感じないが、二十四歳から見る三十五歳はまったくの未知数。見当もつかないほど遠い存在である。

 和代はその相手を知っているのだが、五郎は知らない。ここに年齢以上の距離が感じられ、どうしていいか分からないという感覚がここから出てくるのだった。

――もうすでに過去の人――

 と言い聞かせても、一抹の不安が残ってしまう。和代の心の中にある以上、気にしないわけにはいかない。だが、それでも和代が話をしてくれたということは、隠してはおけないという思いと、五郎には知っておいてもらいたいという気持ちの交差が、表れているのかも知れない。

「どんな人だったの?」

「一口に言えば、優しい人ですね、ただ優しいだけではなく、厳しさもあったかも知れないわ」

 その話を聞きながら、五郎は自分のことを思い浮かべる。優しさの中に厳しさなど、自分にはできないと思った。どちらかというと、五郎は猪突猛進型だと思っている。思い立ったらまっしぐらというところがあり、それが自分の性格の長所でもあり、短所だと思っていた。

――長所と短所は背中合わせ―― 

 と言われるが、見方によっていろいろ見えてくるというものだが、和代はどちらで見てくれているのだろう?

 あまりここでたくさんのことを聞いて、必要以上に横田のことを思い出させるのは、和代に辛い思いをさせることになるとも思う。それに、五郎としても、必要以上のことは今さら聞きたくないという思いがよぎっていた。

 だが、和代は話し始めると、タガが外れたように話をする、それはまるでまくしたてるかのようにも思えた。

「彼は、母子家庭だったんです。実は私もそうなんですけどね。そういう意味で話が合うところもありました」

「彼に子供は?」

「いいえ、離婚の時に子供がいなかったのは、不幸中の幸いだって言ってました。自分のような思いを誰にもさせたくないと言ってましたからね」

 他の人はともかく、自分の肉親にさせたくないのは当然であろう。それを親心というものなのだ。五郎は自分が親になったことはないが、親に対し、特別な思いがある。だが、それがいずれは憎しみに近い思いに変わることを、その時はまだ気付いていなかった。

 子供の立場からしか考えられない。しかも自分には両親ともに健在だった。二人がどういう経緯で母子家庭になったのか分からないが、父親がいないというのは、相当きついのだろうと思う。

「和代さんの方が、きつかったんじゃないですか?」

「そうかも知れないですけど、彼の性格を培ってきたのが、父親がいないことに起因していることは一目瞭然。私だから分かったんだと思っています。でも、ただそれだけなら、ただの傷の舐めあいだったんじゃないのかなって思ったりもしました」

 和代は相手のことを気遣いながらも、厳しさを兼ね備えた考え方ができるようだ。

「いつまで付き合っていたんですか?」

 すると、和代は少し黙ってしまい、考えているようだった。だが、すぐに顔を持ち上げながら、

「今年の春までです」

 今年の春というと、五郎が赴任してきた時ではないか。すると、和代を初めて見た時は。彼女自身、失意のどん底にいた時期である。そんな事情を知らなかったので、和代のことを、

――大人しくて、冷静な感じの人なんだ――

 と、思い込んだのだ。

 だが、逆に知っていれば、どうだっただろう?

――最初から、一目惚れを自覚していたかも知れない――

 と感じるのだった。

 何か訳アリの人を見ると、気持ちが勝手に傾くことは自分の性格でもあると思っていた。それは相手も自分に対して、特別な思いを抱いてくれる。それが慕ってくれる思いだと感じるからだった。

「彼は、それから?」

「転勤で、隣の県に移動になりました。きっとここの支店の人は誰もが知っていることだと思います。本当は私もこの春に会社を辞めようかと思っていたんですけど、辞めてしまおうと思った時、勇気が急になくなって、辞めれなくなったんです。どうでもよくなったのかも知れません」

「辞めるのにいる勇気というのは、現実的なお話ですか?」

「それもありますね。それに、会社を辞めて、一人落ち着いたら、結局余計なことばかり考えてしまうと思ったんです」

 余計なことを考えてしまって辛くなるくらいなら、会社を辞めない方がましだという意味も分からなくはない。知っている人がいて、辛い時期もあるかも知れないが、人の和台などというのは、新しい話題に消されていくだけの運命なのだ。そう思うと、少々我慢して触れさえしなければ、我慢できないことではない。

 だが、五郎は今の彼女の立場を思うと、和代の中で「計算違い」があったのではないかと思う。それは、パートのおばさんたちを見ていると分かってきた。

 おばさんたちは、皆知っているのに、口に出さないように、和代と横田のことをタブーとして扱ってきているのだろうが、それが皆の間で微妙な緊張感を作り、忘れてしまうスピードを極端に下げているように思えてきた。しかも、誰もが心の中に秘めているタブーへの思いが様々であることで、忘れ去るであろう期間までは、まちまちになってしまうのではないだろうか。

 春から数か月が経っているのに、誰もの気持ちの中に燻っているものがいまだに残っている。その中心にいるのが和代だ。だが、和代の期待云々にそぐわず、誰もが忘れていないのは、和代自身、どこかに後悔の念を抱いているからに違いない。

 和代が落ち着いた気分になれないことで、まわりも落ち着かない。まわりが、五郎に期待するものがあるのも分かるというものだ。五郎の出現が、和代を救ってくれる救世主であるかのごとくに思っている。期待が大きすぎるのは困ったものだが、相手が和代であるならば、

「望むところだ」

 と、意気込んで見たくもなるというものだ。とにかく和代は会社を辞めなかった。それが二人に運命の出会いをさせたのだ、五郎は少なくともそう思っている。

「今は誰とも交際をする気にはならないんですか?」

 五郎はここまで聞けば十分だと思い、核心に迫ってみた。

「そんなことはないですよ。横田さんは私にとって、過去の人ですからね」

「じゃあ、もし僕が付き合ってくださいと、お願いすれば?」

「……」

 和代は、しばし返事を渋っていた。考えているようだったが、答えは二つに一つだと思っていた五郎は、和代の頭の中が堂々巡りを繰り返しているように思えてきた。

「少しの間、お返事は待ってもらえますか? お気持ちは嬉しいし、あなたには好感を持っています。でも、もう少しだけ頭の整理をつけさせてください」

「いつまでですか?」

「頭の整理がつくまでです」

 これ以上は、会話が堂々巡りを繰り返すだけだった。でも、断られたわけではない。頭の整理がつかないと言った和代の返事もウソではない。五郎はこれ以上このことに触れるつもりはなかった。自分の目的のほとんどは果たしたのだった。

「では、会社外で、こうやって時々食事をしたり、映画に行ったり、ドライブに行ったりするのはいいと思ってもいいんですか?」

「いいと思います。ただ、お付き合いとなると、自分の立場が自分で納得がいくまでハッキリさせたくないんです。わがままだということは十分に分かっています。でも、あなたなら私のことを分かってくれるんじゃないって思っているのでお願いしているんです。もしこれが他の人だったら、最初からお断りしていると思います。これでも、まだご不満がありますか?」

 まくしたてるように話す和代は、必死の形相に見えた。付き合っている既成事実だけなければそれでいいんだ。不満がないと言えばウソになるが、それで今は十分だと思った。

「分かりました。それだけで十分ですよ。これからが始まりなんだって思うようにします。だから、和代さんも、僕と同じように思っていてください」

「ご納得いただいて嬉しいです。これからも宜しくお願いします」

 形式的な会話に終始したが、下手にため口にならない方が、今はいいに違いない。お互いにそれでいいと思っていれば問題はない。和代も、五郎も最初の段階を超えただけのことだった。

 そのことを毎日顔を合わせているうちに気付くようになっていった。

 和代はあくまで会社では、冷静な顔をしている。心の中も冷静に違いない。だが、五郎の心はそうはいかなかった。目は和代に向いて離れない。ひと時も目を離すのが怖い気がするくらいだ。他の人と話をしている和代の声でも聞こえてくれば、心臓がドキドキ早鐘を打っているかのようだった。

――僕がここまで人を好きになるなんて思わなかった――

 この思いがそのまま「一目惚れ」という感覚に結びついているのかも知れない。しかも社内恋愛という禁断のイメージの強い恋である。

 しかも、和代にしてみれば、これが二度目の社内恋愛、付き合っているとは言い切れない間柄ではあるが、まわりから見れば、正真正銘の交際にしか見えないだろう。

 和代が冷静でいればいるほど、五郎は、和代が気になって仕方がない。すでに仕事が手につかない状況は迎えていて。和代からも、

「ちゃんと仕事はしてるの?」

「ああ、大丈夫さ」

 と、最初の頃は、和代がそばにいると思うだけで、仕事がはかどると思っていたのに、いつの間にか、まったく違う感覚に襲われていたのだ。

――何でこんなことになったんだ?

 きっと、人を本当に好きになったことがなかったからなのかも知れない。これが人を好きになるということなのだとすれば、少し五郎には、試練の道であることには違いない。

 社内恋愛というのがどういうものであるかというのは、ドラマや映画で見たもののイメージしかないが、最後は悲惨な結末を迎えることが多いだけに、自分は社内恋愛には足を踏み入れないようにしようという思いがあった、また、踏み入れないという自信もあったのだ。

 一目惚れとは言いながら、本当に和代が自分の本当に好きなタイプなのかと聞かれると、ハッキリとそうだとは答えられない。

 このままだと、自分が会社の中での立場を危うくしてしまうのではないかという危惧が付きまとう。

 和代を見ていると、三分の一に感じることがあった。大きさという意味ではなく、性格のことだった。

 和代が五郎に見せる面、そして、五郎の知らない横田に見せていた一面、そして、和代自身が誰にも見せない一面である。五郎は和代のことをすべて知ったとしても、それは自分に対して見せる部分でしかないところなのだ。

 他の人は、この人にだけしか見せない部分というのを明確に意識しているものだろうか? 五郎も確かに

「この人にだけしか見せないところがある」

 という部分を持っていたりするが、だからと言って絶対にその人にだけしか見せない部分を作ることは、かなり難しい。思うことはできても、実際に実現は難しいのかも知れない。

 今まで五郎も、他の人で、

「この態度は自分にしか見せていないものなのだ」

 と思ったことがある。確か小学生の頃の初恋の相手だったと思うが、それを思い出すことがたまにあった。

 和代には複雑な思いがある。

 三分の一の一つは確かに自分に対してのものだが。もう一つは、横田が今もまだ和代の中にいる証拠である。そして、和代独自の性格。好きになった相手なのだから、本当であれば、すべてを知りたいと思うのが当然である。

「私、昔の音楽が好きなの」

 これは誰にも話したことのないことだという。これは和代の中にある三分の一のどれにあたるのだろう? 五郎は、和代独自の性格にあると思っている。この部分は、和代が誰にも譲れない部分であり、相手が横田でも五郎でも、入り込めない世界だった。

 実際に付き合い始めてからの音楽の話になると、どうしても入り込めない領域を感じる。和代が、わざと話題を逸らしているように感じるくらいだ。

 それを最初、自分の知らない部分である三分の二のどちらになるのか、分からなかった。横田と共有していた部分であれば、五郎との共有ではありえない。五郎との共有でなければ、五郎との共有でもありえない。すると、和代独自の世界ではないかという、変則的な消去法を頭に思い浮かべる。しかも、消去法も、かなり五郎にとって都合のいい考え方であることには違いないようだ。

 和代の三分の一をあまり気にしないようにしようと思い始めると、和代から、お誘いがかかった。

「今度の日曜日。ドライブに連れて行ってくれませんか?」

「君から誘ってくれるというのも珍しいね」

「こんな日があってもいいでしょう?」

 ニコニコとした屈託のない和代の笑顔に、五郎は同じ笑顔で返した。まったく同じというわけではないが、和代の笑顔を見慣れてきた今では、似たような笑顔を返せる自信がつくまでになっていたのだ。

 日曜日は快晴で、雲一つないとはこのことだった。海岸べりのドライブは、最初に告白した時の夜の砂浜とは違い、海面から無数に照り返している光が眩しかったが、気にしないようにしていると、いつの間にか、海べりを抜けていた。

 海を抜けると、今度は山間部に差し掛かる。夏が近づくと、山が涼しくていいのだが、今までに山に夏に出かけたことはあまりなかった。

 深緑の中まで入り込むと、夏の虫が無数に声を立て、何事にも集中できなくなってしまいそうな気がするのだ。そのため、山に立ち寄ることはしなかった。

 ただ、車で通りすぎる分には、涼しさが感じられ、最高のドライブであった。

「この先に大きな池があるの。行ってみませんか?」

「よし、分かった」

 ハッキリと付き合い始めたわけではないのに、主導権は完全に五郎が握っていた。喋り方も、まるで亭主関白の気分で、和代はそれでも文句を言わず、まんざらでもない顔をしている。

 和代に教えてもらった池というのは大きな森の中にあり、池の大きさも半端ではなかった。大きな池というよりも、小さな湖と言ってもいいくらいで、車を止めて歩いていくと、池のほとりにボート小屋があった。

「ボート乗りませんか?」

 整備された公園ならまだしも、ここはボート小屋しかないような場所だった。しかし、ボートを借りている人が他に三組、上々の人気のようだ。

「まるでガイドブックに載っていない、穴場と言ったところでしょう?」

「なるほどそうだね。和代さんが教えてくれただけのことはある」

 どうしてもこんな喋り方になってしまう自分が照れ臭さを抑えていることだけは分かってきた。風もないのに、海面が揺れているのか、さっき波に感じた時のような無数の光の反射が、目に突き刺さって眩しかった。

 ボートに乗っていると、普段見ることのない角度から見ているようで、今まで見えていなかったものまで見えてくるような気がする。それは初めて見る光景でも、知っていたのではないかと思えせる景色で、五郎は、

「これがデジャブというんだ」

 と、感じたものだった。

 和代も同じことを感じているのか、五郎よりも、さらにキョロキョロしている。まったく知らない景色を、興味深げに見ている感覚とは違っている。なぜそう思うかというと、首を同じスピードで動かして、まるでパノラマの映像を映し出している光景ではない。最初に見た地点の真後ろに、即座に首の位置を持っていくと、じっと見ていたかと思うと、また同じ位置に戻ってきたりする。今度はゆっくりと首を動かし、パノラマを楽しんでいるが、最初の行動は、この景色に何か感じるものがあったことを示しているのだ。

「私は、ここに来るのは初めてじゃないのよ。実は、横田さんと以前に来たことがあるのよ」

――また、横田か――

 和代から横田の話題は、まず出ないだろうと思っていただけに意外だった。もし、和代から横田の話が出たとしても別に気にならないはずだと思っていたが、和代の性格からすれば、相手に対して失礼というよりも、自分がまだ気持ちをふらつかせているのを、相手に悟らせることになるからだ。

 実際に、溜息を吐きたくなったではないか。そう思うと和代の真意がどこにあるのか、不思議な気持ちだった。

「ごめんなさい。横田さんの話題を出してしまって。でも、ここに来たのは、それもひっくるめて来てみたかったからなの。もう、私の中で横田さんは過去の人。その覚悟を決めに来たのかも知れないわね」

 五郎が黙っていると、

「今日ここに来たのは、あなたからの告白の答えをここで言おうと思ってね。来てもらったのよ」

「それで?」

「私は、あなたとお付き合いしたいと思います。最初から憎むべからずのお人だと思っていたこともありますし、素直にあなたの気持ちを受け入れる覚悟が私にできたと思うんです」

「覚悟ですか?」

「ええ、大げさに聞こえるでしょうけど、以前私は横田さんと、婚約寸前までいっていたんですよ。それが私のせいでダメになってしまった。彼には本当に悪いことをしたと思ってるんだけど、もう引き下がることはできない。そういう意味で、彼以外の人を好きになることは、私にとって覚悟のいることなんですよ」

「結局、中心には横田がいるわけだね」

 もう、横田にさん付けするなど、五郎にはできなかった。

「ええ、今はまだ、それが完全にはできていない。だから、吹っ切りたいという思いもあって、私が告白を受け入れるという気持ちを表現したいと思った場所がここだったんですよ」

「ここはなかなか静かなところで、完全に街からは切り離されていて、自分を見つめなおすにはいいところですね。きっと和代さんは横田との思い出をここに置いておきたかったんでしょうね」

「ええ、だから、ここには別れてから初めて来るし、本当は、ずっと来ないつもりでいたんですよ。ここは、横田さんからプロポーズされたところなんです。本当に嬉しかったし、私はあれから、何か覚悟を決めた時には、ここに来ようと決めたんです」

「でも、いい思い出にはなっていないんでしょう?」

「ええ、確かにそうね。相手にとっては、気分を害する場所以外の何者でもないからですね」

 大きな池は、まわりを山に囲まれている。五郎はボートで漕ぎ出した時に感じたのが、

「要塞というか、まるで秘密基地のようだ」

 という思いであった。

 沖に漕ぎ出すほどまわりが狭められているかのように見え、池の中心まで漕ぎ出せば、ちょうどすべての中心に出てきたような錯覚を覚えるのではないだろうか。そうなると、照り付ける日差しがちょうど山に隠れた時、明るい部分と暗い部分が歴然と見え、今の自分を知ることができる、唯一の場所であり、時間ではないかと思えてくるのだった。その時間には、きっと山が迫ってくるように見え、この場所の本当の広さを肌で感じるようになるのではないかと思うのだった。

 五郎はその時、今まで女性と付き合ってきたと思っていた瞬間が、まるでウソっぽかったように思え、これからお和代との人生だけが、すべて本物に変わっていくのだと、確信していたのだった……。


「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 五郎は、結婚してから五年が経っていた。結婚した相手は会社の事務所から五分ほどの雑居ビルに入室している病院の看護師だった。最初に診療を受けた時は、可愛い女の子だとは思ったが。まさか結婚するに至るとは、想像もしていなかった。

 性格は大人しめ、五郎が好きなタイプではあったが、一目惚れというわけではなかった。むしろ、一目惚れに関しては、和代が最初で最後だと思っている。妻に関しては、

「好きになられたから、好きになった」

 と、ハッキリ言えるかも知れない。

 妻の名前は、敦美という。知り合った時は、年齢的に二十五歳は超えていたのに、まだ未成年のようなあどけなさがあった。彼女に感じたのは、新鮮さというよりもあどけなさであった。

 髪型がおかっぱだったのも、幼く見えた原因なのかも知れない。彼女と付き合うようになった原因は、「偶然」という言葉が当てはまる。

 敦美は、いつも一人でいるような女の子だった。同じナース仲間からはいつも離れて行動することが多く、そのあたりは和代に似ていた。

 和代と別れたことが相当ショックだったのか、一年以上、笑わない時期が続くほどの苦しみだった。女の子なら、

「涙も枯れちゃって、笑顔しか出ないわ」

 と、我慢の限界を超えた開き直りに近いものを感じるに違いない。

 敦美と知り合ったのは、健康診断が最初だったのだが、その時はあまり意識をしていたわけではない。その後、二、三度体調不良で点滴を打ってもらいに行ったことがあり、彼女が点滴をしてくれたことがあったが、それでもドキドキしたりすることはなかった。

 五郎は、三度目の転勤を和代と知り合ってから、二年後に言い渡された。和代とはすでに別れていたので、転勤することにわだかまりはなかった。まだショックが残ったままではあったが、新天地に異動することは、プラス思考にしなければいけないと、考えるようになっていた。

 新天地では、今度は違った仕事が待っていた。最初は営業関係の仕事だったのだが、新天地は、本部だった。東京、大阪のような大都市ではないが、地場大手として地元に親しまれている会社で、コマーシャル宣伝も頻繁なので、会社の名前は結構知られていた。

 五郎は、営業の仕事からシステム関係の部署に配属された。

「今までとはまったく違う仕事」

 とにかく覚えなければいけないことがたくさんあり、一からの勉強だった。今までは足や身体を動かすことが仕事だったが、今度からは完全な頭脳労働である。ずっと椅子に座って、モニターの前でちまちまと仕事をする。そんなイメージが頭に湧き上がってくるのだった。

 キーボードもまともに障ったこともない人間が、入力にどれほどの時間が掛かるか。勉強と同時に、「慣れる」ことも大切で、慣れるためには、それまでの仕事のイメージを一新しなければならない。

 そのために無意識なところで身体に力が入ってしまったり、必要以上に緊張してしまい、身体がこわばってしまったりするのも仕方のないことであった。五郎は、気付かないうちに身体を酷使していることで、疲れとは別にストレスを溜めこんでいったのだ。

 健康診断で、再検査通知を受けた。今までで初めてのこともあって、少し焦った気持ちになった。それは、今までとまったく違った仕事による心体の酷使を、分かっていたことを知ったからだ。

 知っていて、自分の中で無意識に考えないようにしていたに違いない。

――考えないようにするのが、一番気が楽だ――

 と思っていたのは中学まで、それ以降は、逃げても。どうせ自分に降りかかってくることが分かっている問題なので、逃げる方が却って危ない。

「敵に後ろを見せるのは、死に等しい」

 と、武士道の話などではよく聞くことであった。それと同じことではないか。分かっていることに背を向けることがどれほど怖いことなのか、その時の五郎は分かっていた。

 ただ、無意識に考えないようにしていたことは逃げにならないのかというところに疑問が残る。意識外なので、まるで夢の中のことのようだ。社会人になれば、それほど甘いものではないことは承知しているつもりだが、無意識に逃げを求めているようで、どこかに後ろめたさを感じていた。

 五郎が転勤してきて半年が過ぎようとしていた時、友達ができた。社会人になって初めての友達と言ってもいいかも知れない。

 先輩に連れていってもらったスナックで意気投合した連中と、再度飲み会を開いた時のこと、友達になった杉本という男は、五郎によく話しかけてきた。

 話の内容は、学生時代の話や恋愛の話と言ったもので、学生時代を思い出したようで、結構気が合った。あまり会話が上手だと自分でも感じていない五郎が、饒舌になれるのだから、杉本の話題と性格に合っていたのだろう。

 杉本は営業畑の男だった。そのわりに営業トークが上手そうではない。それでも成績はいいというから、普通の会話が上手なのだろう。

 彼の会社の事務員のパートさんの娘が、敦美の勤めている病院で同じくナースをしている。敦美と彼女は仲がいいらしく、杉本が仲介しての男女二対二の合コンをしたのだ。まったく知らない仲ではなかったこともあり、敦美と顔を合わせた時、心地よい緊張を覚えた。それは敦美も同じだったようで、ニッコリ微笑んだ二人は、最初から二人だけの世界を作っていたかのようだった。

 会社を出てから、待ち合わせ場所まで、普段と違った道に見えた。いつもと同じ道を通っているのに、住宅街を通る時など、おいしそうな匂いを感じると、懐かしさがこみ上げてくる。それは家庭の匂いで、子供の頃にお腹が空いている時に嗅いだ、ハンバーグの匂いだった。

 夕方、友達と公園で遊んだ帰り道、住宅街を通って帰るのだが、その時に感じる身体の重たさは、汗を掻くことで、心地よい疲れを気だるさに変えてしまうのだった。

 そんな時に漂ってくるハンバーグの匂い。空腹に拍車をかけ、指先に痺れを与えることで、汗を掻かせられる。掻いた汗は、背中から腰に掛けて流れ落ち、前を向いて歩くことを許してはくれない。

 夕日が当たる背中には、汗が燃えるような熱さをもたらし、背中から奪った感覚は、美比している指先にまで通じているようだ。

 そのうちに背中の汗が冷えて来て、汗が滴る感覚に、心地よさを感じていたが。腰まで流れ落ちると、今度は気持ち悪くなってきた。まるで、背中を這い回るナメクジのようだった。

 それでも、家まで帰り着くと、身体が敏感になっていて、今にも発熱しそうな感覚に陥っていた。

 海から帰ってきた時、いつも発熱していたのを思い出した。あの時も潮の匂いというキーワードがあったが、住宅街にもハンバーグの匂いというキーワードが存在する。

 匂いが五郎の中枢神経を刺激しているのかも知れない。空腹感も、気だるさも、すべてが匂いから発せられるもの。そう思うと、仕事中に感じる睡魔も、匂いによるもののように思えてきた。

 昼食が終わって、ポカポカ陽気を感じると、眠くて仕方がなくなる。一旦、睡魔に襲われると、一旦眠ってしまうまで、睡魔はなくならない。一旦眠りに落ちれば、今度はすぐに目が覚める。一気に襲ってきたものが、反動なのか、目が覚める時も一気だった。

 眠りは浅いが、一気に突入すると、一度は完全に目が覚めてしまいそうだ。覚めてしまえば、もうしばらくは睡魔は襲ってこない。睡魔が襲ってきて、眠りに入り、また目が覚める時、匂いはおろか、目の前に広がっている光景に、色は感じられない。モノクロの風景は、影の濃淡で色をイメージできるかも知れない。

 ただ、それも色がついている風景が頭にこびりついて離れないからで、イメージがモノクロを支配している。だが、モノクロは、昔から過大にイメージできるようで、ハッキリとした色が分からないだけに、影から想像できることもある。

 足から伸びている影の長さで、濃淡も分かる。長いものは薄く感じられ、短いものは濃く感じられるだろう。

 濃い色は原色、青か赤が想像される。それ以外の色は、黄色だったり、ピンクだったり、その時のイメージで、色が変わり、一定していない。

 そんなイメージを一時の眠りで味わうことができる。睡魔が襲ってくるのも自然現象。身体の痺れが、自然現象であることを意識させないようにしているのかも知れない。心地よさが自然現象と結びつき、眠りの中で、色を想像してしまうのも自然現象の一環だとすれば、想像できる色のほとんどにウソはないだろう。

 睡魔の中での想像は、妄想と同じものなのだろうか?

 妄想の中とは、実際には起きて見るものが多い。寝ていると、夢の中が無限に感じられるが、夢というものは、潜在意識が見せるものなので、しょせんは、その人が信じていることのほかにできることはないのだ。

 それだけに夢というものを過大評価してしまうと、見たい夢を見ることができずに、却ってストレスを溜めてしまうことがある。夢を見るのは、潜在意識の成せる業だと思っていないと、夢の中に逃げ込むことを正当化してしまうであろう。

 待ち合わせ場所に現れた敦美は、友達の後ろに隠れるような雰囲気があった。合コン自体にあまり経験がなく、緊張しているのだろうか? それとも、敦美自身も、この合コンが自分のためであることを自覚していて、余計なことをされたと思っているのだろうか?

 敦美の雰囲気からが、なかなかどちらなのかを想像するのは難しかった。明らかに集まった四人の中では完全に浮いているのは事実だ。

 会話は、主役の二人、つまりは五郎と、敦美以外の二人で展開されていた。それは最初から分かっていたが、緊張をほぐそうとしてくれているのか、お膳立てを整えてくれているか、五郎にとってはありがたいことだった。もっとも五郎も友達が提案した合コンにまんざらでもない気持ちになったのは、敦美に興味があったからで、合コンを開いてくれると聞いた時に、戸惑いの表情を見せたが、それは表向き、心の中では、渡りに船のような気持ちで嬉しかったのだ。

 五郎のそんな気持ちを杉本も察したかのようで、

「お前も乗り気なら、話の持っていきようは、そう難しいことではない。向こうも乗り気で、楽しみだという感じだったからな」

 と言っていた。もちろん、乗り気なのは友達の方だというのは分かっていた。きっとその友達から、敦美は無理やり引っ張ってこられるような感じなのだろう。

 友達の名前は優子さんという。いつも敦美と優子さんは一緒にいるようで、行動力のある優子さんにいつも引っ張られる敦美、そんな構図が目に浮かぶようだ。

 ある程度会話も終わり、時間的にも始まってから二時間が経っていた。

「少しドライブにでも行くか?」

 杉本の提案に、最初に賛成したのは、やはり優子さんだった。五郎は杉本に視線を送ると、杉本は頷いている。五郎はにっこり笑って頷いたが、これで、半分合コンは成功だった。

 あとの半分は、五郎と敦美が付き合い始めることだが、これは、その日のうちに出せる結論ではない。

――楽しみは後にとっておくのもいいものだ――

 という杉本の声が聞こえてきそうだった。

 杉本の車は四人乗ってもゆったりで、運転席にはもちろん杉本、助手席に優子さん、杉本の後ろに五郎、優子さんの後ろに敦美が据わった。後部座席から見る優子さんのミニのフレアスカートから伸びる綺麗な足が、五郎には眩しかった。

――どうして、斜め後ろから見る女性の姿って、こんなにも美しいんだ――

 と、今さらながらに感じた。この思いは今に始まったことではなく、以前から感じていたことで、

――斜め後ろ姿フェチ――

 だと、勝手に思い込んで、思い出すとにやけてしまう自分が恥かしかった。

 ただ、優子さんは、どうやら杉本が好きなようだ。杉本もまんざらでもなく、元々この合コンも前の二人が仲良くなければ成立するものではなかっただけに、少し複雑な気持ちにはなったが、優子さんにドキッとしたのは、その時だけのことで、横に座っている敦美を見ると。今だ緊張がほぐれないのか、身体を固くしているようだった。

――緊張して身体が固くなると、本当に小さく見えるものなんだな――

 と、感じるほど一つの固まりが鎮座しているのを見ていると、どうしても前の優子さんと比較してしまい、どちらを気に入ったのか分からなくなりそうだった。

――そんなに緊張しなくてもいいのに――

 あまりにも緊張が激しいと、せっかく好きになりかかっている自分の気持ちが萎えてしまうのではないかと五郎は思った。今までに幾人も女性を好きになってきたが、今でも本当に好きだったのは、和代だけだった。

 好きになりかかっている敦美に対して、どうしても別れてしまった和代の思い出が頭を過ぎる。

――すでに忘れてしまったことではないか――

 辛い別れを経験し、それを乗り越えた自分は、恋愛、そして別れの辛さに対して免疫のようなものができたような気がしていた。別れに対して免疫ができる分にはいいのだが、恋愛に対して免疫ができてしまうと、新鮮さがなくなり、絶えず逃げの体勢を作ってしまっている自分を想像してしまい、自己嫌悪の原因になりはしないかと不安に感じられてしまう。

 敦美のような大人しい女性に対して、情熱的な恋愛を望むのは無理かも知れないが、その分、ジワジワと湧き上がる恋愛の炎のようなものを感じ、一目惚れにはない強い相手に対しての感情が生まれるのだと思っていた。

 今までの五郎には、ジワジワと湧き上がる恋愛の炎を経験したことがあるが、完成するまでには至っていない。完成する前に、突然消えてしまったり、完成を待っている間、目を離している間に、消えてしまっていたりという感覚がよみがえる。だから、完成してから後は、未知数なのだ。

 完成してから、消えるまで、蝋燭の炎であれば、蝋が存在している間燃え続けるのか、それとも、外部からの攻撃や、予期せぬ出来事が起こり消滅してしまうのか分からない、ただ、一度完成してしまえば、消える時は、炎が消滅してしまう感覚に陥ってしまうのではないかと感じるのだった。

 敦美との二人きりのデートはそれから一週間後だった。

 その日は、五郎の会社が、ちょうど社員旅行で、帰って来る日のことだった。ちょうど敦美とのシフトも都合がよく、

「帰ってきて、その足で待ち合わせ場所まで行くからね」

 という約束をしていた。

 一泊二日の、小旅行だったが、五郎には今までにないワクワクした旅行となった。

――帰ってきたら、待ってくれている人がいる――

 そう思っただけで、気持ちが上ずってくるのを感じたのだ。

 旅行先は、新幹線で一時間ほど乗り。そこから先は在来線で二時間くらいの山間の温泉だった。

 旅行先を決める時は、皆の意見を取り入れるのが以前からの慣わしになっていたらしく、山間の温泉という意味では、誰も反対のない、満場一致で決まった。後は。幹事の人が場所を決めるだけだが、予算が決まっているので、行ける範囲はおのずと知れていた。

 宴会、あるいはまわりの観光地のどちらに重きを置くかは、幹事の性格によるものだが、その時の幹事は、完全に宴会に重きを置いていたようだ。

 まわりの観光地はそこそこに、宿に入って、温泉に浸かったり自由時間が多く取られた。それでも早めに宴会を始めたので、盛り上がりもまずまず、五郎も飲みすぎないようにしようと思いながらも、楽しんでいた。

 久しぶりに酔いを感じたその日の夜、酔い覚ましに表に出たが、林の茂みで、怪しげな影を発見した。

 見てはいけないものを見てしまった感覚で、シルエットに浮かぶ二つの影は、明らかに男女だった。もぞもぞと動いている様子は、どうやら女が男を拒んでいるかのようだった。声を押し殺している様子は、五郎に手に汗を掻かせることになったのだが、女性が嫌がってはいるが、完全に拒否しているわけではない。恥かしさや、

――人に見られたらどうしよう――

 という思いが働いているだけで、むしろ、この状況を楽しんでいるのではないかとさえ思えるほどだった。

「大丈夫だから」

「いや、やめてください」

 と、いう声が聞こえてきそうで、まわりの雰囲気が湿気で濡れているような錯覚に陥っていた。

 もっと近づけば二人が誰なのか分かるだろうが、これ以上近づくと、今度はこっちの素性がバレてしまう。

「誰かが覗いている」

 と、思われる分にはいいのだが、それが特定されると、お互いに気まずいことになる。もし相手が上司であれば、お互いに気まずい思いを引きずることになる。それだけは避けたかったのだ。

 ただ、女の方が、五郎の存在に先に気付いたようだ。明らかに声が大きくなった。

――見られて興奮しているんだ――

 と思うと、どんな女性なのか見てみたい衝動に駆られた。

 今日の宿の宿泊客は、五郎の会社の人間だけだ。ということは、二人とも知っている相手であることは間違いない。そう思うと五郎も、これから繰り広げられる目の前の光景に、胸踊らさずにはいられなかった。

 しかし、その一方で、こんな出歯が目のような状況に、自己嫌悪を覚えていた。しかし、すぐに興奮が頭を擡げ、それぞれが頭の中で競い合っていた。競い合う感覚が短くなり、結局は、興奮が優ることになった。自己嫌悪はいずれ起こるかも知れないと思いながら、今は、この状況に心身を任せることにした。

 女が気付いているのに、男は気付いていないようだった。女も男に話をする気はなさそうで、相手はどうあれ、自分の快感を邪魔されたくないという思いから、相手に余計なことを言わないようにしたのかも知れない。下手に知ってしまって、手加減されては、せっかく盛り上がった気持ちが中途半端で終わってしまう。それだけは辛いことだった。

 まさか最後まですることはないだろうが、次第に女の甘い吐息が聞こえてきた。その前の押し殺すような声での吐息の方が、五郎には興奮があった。だが、男は、甘い吐息の方が好きなようで、責め方も執拗になっていく。見ているだけでたまらなくなってきた五郎だが、吐息の渦に男の声も混じり合い、

――本当に見てはいけないものを見ているのだ――

 という思いは、五郎を有頂天にさせた。

 有頂天な気持ちにはなったが、それ以降の状態を見ることはできなかった。見たのかも知れないが、記憶にはない。気が付けば、しゃがみこんでいて、どれほどの時間が経ったのか分からないが、さっきまで繰り広げられていた情事は、綺麗に消えていた。

 軽い頭痛に襲われたが、それは浅い眠りから覚めた時の痛みだった。知らぬ間に治っているような痛みである。

 五郎は、起き上がると、時計を見た。表に出てから、十五分ほどしか経っていない。少なくとも、先ほどの情事を見ている間だけでも、十分近くは経っていたように感じたのに、気絶していた時間がその差だとすると、五分ほどでしかない。それはあまりにも短い間隔でしかなかったのだ。

 しばし、落ち着いてから、部屋に戻った。まだ宴会は続いているようで、誰も部屋に戻ってきている人はいない。五郎の酔いはすでに覚めていた。今さら、宴会場に顔を出す気にはなれない。

 布団はすでに敷かれていて、両腕を頭の後ろで組むようにしながら、腕を枕にして、仰向けになって天井を見ていた。

――天井の模様というのは、どうしてあんなに複雑に見えるのだろう?

 和風の天井は、まるで年輪のような曲線が、波状に描かれているが。洋風なら、複数の縦横の線で区切られた中に、さらに幾何学模様が張り巡らされているかのような想像が頭を過ぎる、

――まるで、落ちてきそうだな――

 と思うと、思わず目が細くなってくるのを感じた。

 眠気というよりも、目の錯覚から、遠近感が取れなくなっている。実は天井はもっと高いはずなのに、落ちてきそうあ不安感から、逆に近くであってほしいという思いにさせられるのかも知れない。

 宴会場から、笑い声が聞こえた。最初からかすかに聞こえていたが、一気に爆発したような笑い声が聞こえたかとおもうと、すぐに静かになる。耳鳴りが、ザワザワと聞こえてくると、今度は静寂の中で、天井が歪んで見えてくるようだった。

 またしても睡魔が襲ってくる。

 耳鳴りの奥で聞こえる風の通るような音は、海に行った時に巻貝を耳にあてた時を思い出した。

「そういえば、あれから、海が苦手になったんだよな」

 耳に何かが侵入したのかも知れない。風が通り抜ける音は、鼓膜を刺激し、それ以上に平衡感覚を奪っていく。

 耳の奥に平衡感覚を司る神経があるというのも頷けるというものだ。耳が人間の機関の中でも、一番敏感なうちに入るのだろう。人間の五感のうちでもある耳は、それほど大切なところなのだ。

 耳の感覚がマヒしてきて、痛みや違和感が減ってくると、本当に眠ってしまいそうであった。

――眠ってはいけない――

 自分の中の誰かが自分に話しかける。何がいけないというのか、眠い時に寝るというのは、五郎の教訓のようなものだった。

 眠い時に寝ないと、結局眠れなくなるという経験を今までに何度もしている。急に仕事が入って眠ることができなくなったり、眠ろうと意識が強すぎて、起きてからの過酷な仕事が気になって眠れなかったこと様々ではあるが、眠い時に眠らないと眠ってはいけない時間帯が待っているというのは、今までの経験から頭にこびりついていたのだ。

 眠ってはいけないとは、どうせ眠れないのであれば、甘い考えを持つだけ、後で自分がきついだけだということを意味しているのかも知れない。

 海に行くと子供の頃を思い出すのか、すぐに熱を出してしまうような気持ちと同じなのではないだろうか、

 睡魔と、眠ってはいけないという声はどちらが強いかといえば、やはり圧倒的に睡魔が強い。それでも、完全に眠りに入るかと思われそうな時、急に目が覚めて、それ以上眠れなくなる。

 睡魔の堂々巡りを繰り返しているのだ。辛さと気になっている気持ちとがぶつかり合い、綱引きの中で、劣勢に立たされている方が、寸前でその力を発揮する。それが睡魔を押し返す力になるのだ。

 耳鳴りが幻影に変わる時、自分が眠ってしまっていたことに気付いた。目が覚めたのが、自分のいびきによるものだったりする。その時、少し淫らな夢を見ていたという感覚で、額に掻いた汗が気持ち悪く、背中に纏わりついた汗の冷たさは、気持ち悪さを通り越して、気だるさすら思い起こさせる。

 気だるさには汗が付きものだが、流れ落ちる際の気持ち悪さが、たまに快感に変わることがある。その快感が睡魔を呼び起こし、眠りへといざなう結果となるのだった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。三人ほどは戻ってきて、布団に入って寝ていたが、他の何人かはまだ宴会場で飲んでいたようだ。

 さすがに皆付き合えないということで戻ってきたのだろうが、宴会のあととはいえ、さすがにアルコールの匂いがすごかった。

 そんな中にいるのはつらいと思い、五郎は露天風呂に入りに行った。中には誰もおらず貸し切り状態だった。湯気の向こうに見える月には朧が掛かっているようで、少し大きく見えた。

 次第に酔いが冷めてくるのを感じたが、普段であれば、酔いが冷めてくれば寒気がしてくるのに、その日は温泉に浸かっていることで、寒気を感じずに済んだ。アルコールが程よく身体を駆け巡り、血行の良さも手伝って、毛根の間から温泉が入り込んでくるかのような不思議な感覚を覚えたのだった。

 温泉から上がって、そのまま床に就くと、今度こそ睡魔と意識が一致して、心地よい眠りに就くことができた。これも温泉の効用なのだろうか。

 夢の中で見たのは、忘れかけていた和代の面影だった。

 あれは、和代が五郎に別れを告げた日のことだった。

 まさか和代に別れを告げられるなど思いもよらず。しばらくは別れの言葉を聞かされても、自分に何が起こっているのかさえ分からなかった。

「もう、このあたりで別れましょう。考えてみれば、あなたとの付き合いは、最初から無理だったのよ?」

「えっ? どういうことなんだい? 僕は和代もてっきり僕のことを好きになってくれたんだと思ってたよ」

「ええ、もちろん、好きになったわ。だからあなたと付き合うことを決意したのよ。でもそれは決意であって、覚悟ではなかった。横田さんともお付き合いを始めた時は、覚悟はあったけど、決意はなかった。結局、私はどちらも満足させてお付き合いしたわけではないの。だから、私がお付き合いする人は不幸になっていくのよ」

 和代は自分の中の中途半端な気持ちが付き合った人を不幸にしていると思っているようだ。なるほど、だから、好きになった人に対して、探りを入れるようなところがあったのだ。それは自分の気持ちを確かめるという意味も込めてのことであろうが、和代は人を好きになるということを、どのように考えていたのだろう?

 その時、五郎は、和代を追いかけた。釈然とせずに、納得のいかない理由で好きになった人が自分の前から消えるなど、考えられないことだった。

 和代は、二度と振り向こうとはしない。

 女性は、ギリギリまで我慢するが、我慢の限度を超えると、そこから先は、振り向くことをしないという。それは一見わがままに見えるが、わがままも個性の一環で、相手と性格を合わせるためには必要なことだった。それでも性格が合わない時は、いつかは別れがくるのだが、どこまで我慢できるかが、長続きの秘訣だった。

――長続きさせるだけの問題なのか――

 五郎は、和代と二年間付き合ったが、年数が長ければ長いほど、思い出が深くなり、それだけ傷口も深いのだ。

――思い出の数だけ不幸があるなんて、何か皮肉な感じだな――

 それも裏を返せば、やり方によっては、すべてが幸福だったかも知れない。今頃は和代と結婚していて、二人で思い出の数を語り合っていたかも知れないと思うと、涙を流さずにいられない。

 五郎は、涙など見せたことはない。男が人前で泣くなどみっともないだけだと思っていたが、

――涙を流せなくなったら、冷たくなって、そのうち屍だけの抜け殻のようになってしまうだけだ――

 と思うようになっていた。

 和代から別れを告げられた日、和代は五郎の実家に来ていた。何度か遊びに来て、両親とも顔を合わせ、両親も、

「なかなかいい娘さんね、五郎、あんたにはもったいないわよ」

 と、母親には言われていた。

 だが、父親は、最初反対していた手前、和代とあまり顔を合わせようとはしない。顔を合わせても、絶対に目を見ようとはしないのだ。目を見ると自分が負けてしまうことを分かっているからなのかも知れない。

 本当に父親の反対は最初すごいものだった。

「お前は、就職してまだ間がないのに、女にうつつを抜かすとはどういうことだ」

 本末転倒も甚だしいとしか思えない発想だ。

「親父は一体いつの時代の人間なんだ?」

 と、売り言葉に買い言葉、五郎も負けていない。まるで封建的な考え方に、父親との年齢差が決定的だと思ったのだ。

「親に向かって、何だその口の利き方は」

 と、父親も負けていない。

 父親に逆らうことは高校時代からあったが、今から思えば、高校時代から、父親とは絶対的な平行線を描くことが分かっていたように思う。

――あんただって、俺くらいの頃があっただろうに――

 父親が自分の頃のことを覚えていないのか、それともその後の人生が、忘れさせるほど、壮絶なものだったのか、あるいは、本当に子供の頃から、今と変わらない性格だったのか、そのどれかであろう。

 最後の考え方が、最初から考えるに至らないような気がしていた。それは肉親だから思うのであって、高校時代なら、絶対に思い浮かばない発想だった。

 だが、今だから思うという発想だというよりも、ここまで来ると、

――本当に血が繋がっているのか――

 と疑いたくなるのだ。

 ということは、母親に不義があったことになる。父親は嫌いでも、その分、母親が好きな五郎は、そんなことを考えたくはなかった。だから、最後の考えは、考えたとしてもすぐに打ち消し、発想したことすら残したくないと思うのだった。

 今でも、五郎は母親のことが好きで、父親のことを毛嫌いしている。平行線はどこまで行っても平行線なのだ。

 父親は和代に会おうともしない。だが、母親は気に入ってくれている。五郎が実家に帰るのは、父親が出張などでいない時だけだった。

――これが家庭なんだ――

 と、父親抜きの家庭がこれほど暖かいとは思わなかった。

――もっとも、これが本当の家庭の暖かさなんだ――

 と感じたのだ。

――僕は絶対に父親になったら、あんなやつのようにはならないさ――

 と、大人になればなるほど、父親を追い越し、そして、無視できるようになったことに安心感を抱いていた。

 和代に合わせた母親は、最初涙を流して、喜んでくれた。

 母親も理不尽なことの多い父親に嫌気を差していたが、それでも必死に我慢して、子供を育てることで、生きがいを持っていると言っていた。だから、目に入れても痛くないというほど、息子が可愛いのだ。

 かといって、過保護というわけではない。息子の立場や性格を分かっていて、それを尊重してくれる。父親とは正反対だ。

 そんな母親が不義などありえない。ということは、やはり、自分があの父親の息子だと、今さらながらに思い知らされたような気がする。

 和代を最初に連れていった時、あれだけ喜んでくれた母親が、次第に和代の顔を見るのを避けるようになっていた。二回、三回と連れてくるが、なるべく二人きりにさせてくれていたことを、

「気を遣ってくれているんだ」

 と思っていたが、どうやらそうではないと気付いたのが、三回目に連れてきた時だった。要するに、母親は和代を連れてくるたびに、態度がコロコロ変わっていたのだ。気にはなったが、必要以上に意識することもないと思ったのだ。

 さすがに三度目はおかしいと思い。四回目がどのような態度を取るか、今度は最初から意識しておこうと思っていた。しかし、四度目はなかったのである。

 三度目に連れて行った実家の帰り。和代はいきなり。別れを切り出した。

「あなたと別れたいと思うの」

 当然、青天の霹靂である。

「何を、どうして?」

 と聞くだけでもやっとだった。これ以上のことを口にする勇気がないのだ。それ以上を口にすると、何もかもが音を立てて崩れていくように思えてならないからだ。

 和代はそれ以上何も言わない。それだけに不気味で、五郎も喉が乾ききって、声など出るわけもなかった。

 和代の声もいつになくハスキーで、いかにも緊張で声も身体も固まっているような感じだった。

 お互いに緊張の糸が自分だけではなく相手にも繋がっていて。これを赤い糸だと思っていた五郎は、それまで見えていた和代の真実だと思っていたことがすべて信じられなくなり、一言でいえば、他人事に思えて仕方がないのだった。

「なぜ?」

 再度自分に語り掛けるが、答えなど得られるはずもなかった。

 カッと目を見開いたかと思うと、目の前に迫ってくる天井を感じ、思わず目を瞑った。

「ここは」

 そう、夢を見ていて、一気に目が覚めたことで、ビックリしていたのだ。背中にぐっしょりと掻いた汗は、気持ち悪さ以外の何者でもなかった。

 迫ってくる天井を感じた時、どうして和代の夢などを見たのかを考えてみた。

「そう言えば、最近アルコールを口にしていなかったな」

 和代と別れることになってから、五郎は酒の量が増えた。酒に溺れたと言ってもいい。仕事だけは真面目にこなしていたが、仕事が終わってからは、毎日のように居酒屋に入り浸っていたのだ、

 荒れた生活が二月ほど続いたが、居酒屋に立ち寄らなくなってからも、しばらくは、毎日が放心状態だった。そこからどうやって立ち直ったのか、自分でも分からなかった。

 そんな嫌な思い出を、一旦遡ってから、今に至る過程を、一気に思い出そうとしたのだった。

 思い出してしまうと、今度は頭痛がしてきた。目が覚めた時にも頭痛に襲われるが、その頭痛とは異質なものだった。目が覚めた時は、夢の影響からか、眠りの浅さが頭痛を呼んだ。

 だが、思い出しながら湧き上がってきた頭痛は、不安からくるものに思えてならない。別れの瞬間もショックだったが、荒れた生活を今になって思い出すと、不安だらけだった自分を一番強く想い出す。

 思い出してくると汗を掻く。焦りのような汗だ。汗を掻いてくると、不安だった思いがさらに強く思い出される。

 夏の夜は、湿気が多い。特に温泉宿では、露天風呂の湿気が夜になると充満してくるように思えてくるのだ。

 その日も最初眠れなかったが、湿気が影響していた。そして、見てしまった情事が頭から離れず、ドキドキして眠れなかった。

 それは、まるでウブな頃の自分を思い出したかのようだった。

 学生の頃までの自分を思い出すところまで、眠る前に思い出していたのかも知れない。だから、夢を見ている時に、一旦遡った思い出から、だんだん、現在の自分へと移り変わる思い出が、走馬灯のように見えていて、夢に見てしまったのだろう。本当はすべての夢を見ていたはずなのに、インパクトの一番強い別れのシーンだけが、夢の中の記憶として残ってしまったに違いない。

 起きてから完全に目が覚めるまで、荒れていた生活を思い出してしまったのは、目が覚めてから、完全に荒れた生活を忘れてしまいたいという思いが働いたからではないだろうか。

 それだけ、荒れていた生活には不安感ばかりがあったのだ。

 それから、再度眠りに就いたが、時間を見れば三時過ぎだった。こんな時間に目が覚めることなどあまりないだけに、頭痛も致し方ないのだと想っていた。

 再度眠りに就いた時も、ハッキリと眠りに落ちていく感覚はなかった。気が付いたら、皆起きる時間で、さすがに、遅くまで飲んでいた人たちは、かなり二日酔いできつそうだったが、さほどアルコールを飲んでいない五郎までが、きつそうにしているのを見ると他の人から、

「そんなに飲みました?」

「目にクマができているようですよ」

 と心配されたが、

「大丈夫です」

 と、答えて、顔を洗って服を着替えれば、いつもの自分に戻っていた。夢の内容も完全に消えたわけではないが、忘れてしまったかのように、不安感はもう残っていなかった。

 二日目は観光中心で、夕方には戻るということで、その間に完全に体調を戻しておかなければならない。なぜなら、敦美とのデートの約束をしているからで、まさか、旅行中に以前付き合っていた女性を思い出すなど想像もしていなかった五郎は、精神的に、完全に敦美だけを想っていた旅行前にまで戻しておかなければいけなかった。

 待ち合わせは、夕方五時にしていた。スケジュール的に、旅行から帰ってくる時間を考えると、余裕に近い時間だと思っていたのだが、それが少しままならない時間となっていた。

 他の人が、帰りに寄りたいところがあるということで、一人の提案から、帰ってくる途中で、寄り道をすることになったが。五郎だけ、

「すみません。ちょっと野暮用があるので。申し訳ないんですが、先に帰ってよろしいでしょうか?」

 と、幹事に話をして、一人新幹線に乗って帰ってきたのだ。

 少しだけ遅れたかも知れない。敦美は、すでに待っていてくれた。敦美が五郎を見つめる目は、最初に見た雰囲気とは違っていた。

 いつも自信なさげに、俯き加減だったので、あまり表情をマジマジと見たことはなかったが、目はほっそりとしていて、どこを見ているのか分からず、焦点が合っていないかのように見えていた。それなのに、待ってくれていた時の敦美の表情は目を見開いていた。ただ、その眼は驚きのために開いていたわけではない。見開いた目のまま、表情が綻んで、喜んでいるように見える。

――待ちわびていてくれたんだ――

 なかなか現れない五郎に不安を感じていたのだろう。やっと現れたことで、それまで蓄積していた不安感で硬直していた表情を一気に和らげたのかも知れない。

 待ちわびていた相手が現れたことで解放された感情は、普段から気持ちを抑えている人にはひとしおだったに違いない。

「ごめんね。遅くなった。待ったかい?」

 五郎の親しみを込めた表情は、自分でも久しぶりだと思った。和代と別れてからしばらくは女性と付き合うことを自分の中で拒否していた。それは、別れが突然で、ショックが大きかっただけではなく、女性に対して拒否の感覚があったからだ。そんな五郎を好きになる女性がいるはずもなく、そのまま一人でいることに慣れてしまっていた。

「いいえ、そんなには」

 遅れたと言っても、十分ほど、ただその十分が五郎自身には許せないところがあった。

――時間という意味ではないんだ――

 相手を待たせることで、相手に不安感を与えてしまったことへの自責の念が強い。今までに友達と待ち合わせをしても、約束の時間から遅れたことなどないので、相手を不安に思わせることはなかった。

 集団で、待ち合わせた時は、誰か必ず遅れてくる人がいる。それでも待っているのは一人ではないので、不安に感じることはない。遅れる人間がそこまで分かっているとは思えないが、確信犯であることに違いはない。なぜなら、遅れてくるのは、いつも同じ人間だからだ。

「もう、しょうがないな」

 という一言で友達の間では許されることなのだ。

 敦美は、安心感からなのか、続いている緊張感からなのか、顔が真っ赤になっていた。耳たぶまで真っ赤になっているのだから、相当顔が熱くなっているに違いない。

「二人で会うのは初めてですね」

「ええ、緊張しています」

 ヒラヒラが目立つワンピースのせいか、爽やかさが目立って見える。表情も硬直はしているが、こわばった表情に緩やかな風が通り抜けたような雰囲気を感じさせる。

「今日の日のために、私お店を検索してきたんですよ」

 と言って、五郎を引っ張っていく。

 引っ込み思案な性格に見えるが、実際には行動力があって、率先できる能力を持っているのではないかと思った。今のような性格になったのは、過去に何かあったか、一番近しい友達に原因があるのではないかと思ったのだ。

――そういえば、同じ病院の同僚の人とは、学生時代から仲が良かったって言ってたな――

 友達の影響が大きいような気がしてきた。確かに友達といる時、敦美はいつも彼女の後ろにいて、自分から喋ろうとしない。主導権を握られていて、意見をいうことも控えている。

 かといって、完全な主従関係のようなものではない。話を聞いていると、結構友達が敦美に相談しているところもあった。その都度的確な答えを出して、その場を凌いでいたようだ。

――役割分担ができているということか――

 表に出るのは友達の方、敦美は後方支援で、助言やアドバイスに徹している。お互いがそれでいいというのだから、うまくいっていると言ってもいい。

 まわりから見ていても、本当にしっくり行っていた。確かに主従関係のように見えて、敦美一人可哀そうに感じられるかも知れないが、二人のことを知っていくうちに役割分担も分かってきて、お互いに補い合っていることで、

――二人で一人――

 というイメージを植え付けられるような気がしてくるのだった。

 敦美が連れて行ってくれた店は、紅茶のおいしいお店だった。敦美はコーヒーが苦手だという。この間も一緒に皆でレストランに入った時、アフタードリンクをウーロン茶にしていた。あれはウーロン茶が好きだというわけではなく。コーヒーが好きではないので、それならばウーロン茶だということだったのだろう。

 普段は、人についてしたがってばかりの敦美が、自分だけの店を知っているというのは少し意外だったが、考えてみれば、一人の時間を持っていないと、精神的に追い詰められた気分に陥るのではないだろうか。

 五郎も自分の馴染みの店をいくつか持っていた。他の人を誰も連れて行かない店である。和代と付き合っている時も、実は自分独自の店を持っていて、和代ですら知らなかったことだろう。

 実は、和代も同じように自分独自の店を持っていたようである。もちろん、五郎は知らないふりをしていた。そういう意味では、和代も五郎の隠れ家を知っていたかも知れないと思うと、複雑な気持ちであった。

 敦美が連れていってくれた店は。ジャズが流れていた。軽い感じのリズムが、コーヒーではなくいかにも紅茶の専門店といった雰囲気である。自分が馴染みの喫茶店でもジャズが流れている店もある。同じようなジャズであっても、紅茶専門店と、コーヒー専門店とでは、雰囲気が完全に違っている。それはまるで、それぞれの飲み物の色を象徴しているかのようだった。

 コーヒーと違って紅茶は、飲む時間によって、味わいが完全に違っているように思う。コーヒーももちろん同じように違っているが、紅茶ほどハッキリと区別できないだろう。コーヒーは元々味にコクがあるだけに、時間帯で意識することではない。

 その点、紅茶は、モーニング、午後の紅茶、夜に飲むものと明らかな違いを感じる。それは精神的なゆとりに、紅茶が入り込みやすいからではないかと思う。それだけ紅茶は軽いが、発汗作用などの身体に直接影響してくる飲み物だと言えるのだろう。

 五郎はその中でも、昼下がりの紅茶が好きだった。朝や夜に飲みたいのは、コーヒーのようなコクのあるもので、昼下がりには、休みの日など、気持ちにゆとりを持ちたい時に飲んだりする。

 文庫本を片手に飲んでいると、落ち着いた気分になれるが、ティーカップの口当たりが今さらながら、心地よく感じられる。

 コーヒーと紅茶の違いで、カップの違いに気付いたのはいつからだっただろう? 他の人がどれほど意識しているのかは分からないが、五郎が気付いたのは、自分の馴染みの店を持つようになってからだっただろう。

 コーヒーカップは、底と口をつける一番上とで、さほど円の大きさに違いがない。五郎は、差がまったくない円筒形のカップが好きだった。一度、底は丸いのだが、口をつけるところが八角形のカップで飲んだことがあった、真っ白いカップで、気に入っていた。その店はショーケースに飾ってあるカップを自分で選んで飲める店だったので、いつもそのカップで飲んでいるうちに、五郎専用にしてもらったことがあった。今ではその店に立ち寄ることもなくなったが、近いうちにまた顔を出してみたい気がしていた。

 それに比べてティーカップは、底の広さに比べて、口をつけるところは圧倒的に広い。遊園地で、「コーヒーカップ」という乗り物があるが、あれこそ、ティーカップの間違いではないのかと、五郎は思うくらいだった。

 紅茶は色が薄いので、底まで十分に見えることで、そんなカップになったのではないかと五郎は想像していたが、実際に調べたことはない。

「一度調べてみたいものだ」

 と思っていた。

 敦美が連れて行ってくれた店も同じようなティーカップをいくつも並べていた。中にはコーヒーカップではないかと思わせるようなものもあったが、きっと誰かのリクエストで、その人専用のカップなのだろう。

「どうですか? ここに誰かを連れてくるのは、五郎さんが初めてなんですよ」

「なかなか洒落たお店ですね。僕はコーヒー専門店はいくつか馴染みにしているんですが、紅茶というのもいいですね」

 嗜好に違いがあると言っても、紅茶とコーヒーにそんなに差があるとは思えない。コーヒー通が紅茶を好きであってもいいだろう。ただ、紅茶が好きな人にはコーヒーが苦手なので紅茶に走った人が多いだろうから、コーヒーも好む人は少ないことだろう。

 敦美は、格子状のカップを選んだ。少し派手に見えるのは、色に赤が混じっているからだ。少し濃い赤というべきか、深紅のカップは、まるで、ジャムの色のようで。五郎も気に入った。

「そのカップ、いいですね」

「同じものがあるみたいですから、用意してもらいましょう」

 敦美がいうと、新しい紅茶を、敦美お気に入りと同じデザインのカップで入れなおしてくれた。

「ありがとうございます」

「いえいえ、今後もご贔屓を」

 と言って、ウエイトレスの女の子がニッコリと笑って、紅茶を持ってきてくれた。どうやら、敦美は五郎が思っている以上に、この店では常連になっているのだろう。

 五郎のようにいくつも馴染みの店を持っていても、それぞれのお店での自分は微妙に違っている。違う顔があるというべきか、この店でも普段とは違う敦美の顔が存在しているはずだ。

 敦美とは、その日以来、二人きりで会うことが多くなった。たまに杉本と、敦美の友達の話が出るが、二人が付き合っているという話が聞かない。敦美の友達には彼氏がいることは、杉本から一番最初に聞いていた。

「俺は、人のモノを取るのが嫌いでね」

 と、杉本は言っていたが、その言葉にウソはないだろう。だがそれよりも、

「人のお古を押し付けられるのは、もっと嫌だ」

 という考えが頭にあったに違いない。その思いは五郎自身も大きく持っていたので、気持ちは分からなくもなかった。

 だが、五郎にその考えは矛盾しているのではないか。なぜなら、和代と付き合い始めた時、横田という男の存在が頭にあったはずで、和代は、横田のお古ではないということか?

 確かに横田と付き合っていたという事実はあっただろうが、その前に和代のことを好きになっていたので、お古というのは当てはまらないだろう。だが、五郎には、ハッキリと否定することができない自分がいることに気が付いた。

「僕は、和代のことを決定的に好きになった理由の一つに、横田という男性の存在があったことを否定できない」

 と思うのだった。

 好きになりかかっている人に、ごく最近まで付き合っていた男性がいたと言われれば、思わず競争意識を高めるのではないか。いや、それは競争意識ではない。それ以上に彼女を独占していたいという独占よりもさらに強い、「占領」という意識に繋がっているのではないかと思うほどだった。

 杉本という男にもそういうところを感じた。だからこそ、五郎は意気投合したのだと思っている。似たところがあること、そして、決定的に対立するところがある人。そういう人が長く付き合っていける友達の条件なのではないかと五郎は感じるのだった。

 二人きりで会うようになっ五郎は、敦美と付き合うために告白をするようなことはなかった。

――別に告白なんて必要ない――

 敦美には、何も言わなくても、五郎が感じていることすべてが分かっているかのように見えていた。何も言わなくても気持ちが通じ合う人が近い将来現れるという予感があったが、それが敦美だったのか知れない。

 敦美にとって初めて五郎に連れていってもらったのが、遊園地だった。

「子重っぽいかも知れないけど、いいかい?」

「ええ、五郎さんとなら、きっと楽しいでしょうね」

 アトラクションも豊富で遊園地というよりもテーマパークに近い場所は、和代とも行ったことがなかった。今から思えば和代とのデートにゆとりを感じたことなどなかったように思う。

 その点、敦美とのデートには、最初からゆとりが感じられる。

「ゆとりとは、時間を贅沢に使えることだ」

 敦美とデートするようになって、感じたことだったが、時間を贅沢に使うというのはどういうことだろう? 自問自答を繰り返していた。

――時間というものは、絶対に取り戻すことはできない――

 実に当たり前のことだが、この当たり前のことは当たり前すぎて、意識することは少ない。まるで心臓の鼓動を誰も意識していないのと同じことだ。

 この感覚を考えていると、どうしても時間を大切に感じ、

――贅沢に使うなど、もっての他だ――

 と、普通は感じることだろう。だが。五郎はそうではなかった。

「取り戻すことがないだけに有意義に使えばいいのだ。有意義というのは、贅沢に使ってはいけないということではない。逆に贅沢に使うことで有意義であれば、それに越したことではないではないか。たとえば、贅沢なことが思い出になるのであれば、どんなに謙虚に時間を使ったとしても、それが思い出にも残らないのであれば、贅沢に使う方がいいではないか」

 と思うようになっていた。

 敦美とのテーマパークでのデートはまさしく、その思いが強かった。

 他の人とであれば想像もつかないが、敦美のあどけなさを考えれば想像がつく。しかし想像はつくが、やはり、突飛な発想であることには違いない。そういう思いが、思い出として残るのかも知れない。

 敦美とのデートでテーマパークには、それから何度か来てみたが、最初ほどのインパクトはない。だが、何度も来るうちに、贅沢だという考え方は失せていった。それは思い出として残らないという意味ではなく、一緒にいることが当たり前のようになってしまい、この場所での二人の居場所がハッキリと見えていたからだ。

 それからの二人は、何度かのデートを積み重ね、気が付いていたら、結婚していた。まわりの人たちも、

「あの二人は結婚するさ」

 と言われていたほど、まわりから見てもお似合いのカップルだったのだろう。

 自分たちの意識の方も、まわりから見られているよりも、さらに自然だった。付き合っていて何も障害などありえないというほど、順風満帆だった。それだけに別れが来た時は青天の霹靂、ありえるはずのないことが起こってしまったはずなのに、なぜか辛くはなかった。

「楽しむだけ楽しんだということかしら?」

 敦美の言葉には皮肉が籠っていた。こんな言葉が口から出てくるような女ではなかったはずなのに、

「何が悲しくて、こんな言葉を言わなければいけないの?」

 と言わんばかりの表情は、従順な女性であるはずのないものだった。

 結婚してから新居となった部屋には、敦美が大好きな紅茶の香りが漂っている。紅茶専門店には、ハーブや紅茶の香りの詰まった袋が販売されている。敦美は好んで買ってきては、いたるところに匂いのする袋を置いている。

 付き合い始めてから、結婚までが三年だった。三年が長いのか短いのかはハッキリと分からないが、五郎は、短かったように思う。結婚してから離婚までが五年間だったが、こちらの方があっという間だったような気がしていた。

 付き合った期間が短く感じたということは、まだまだ結婚するまでの期間を楽しみたかったということだろう、結婚生活が楽しくなかったというわけではないが、結婚してからの五年間が、ほとんど何も変化のない。流れるような毎日だったように思うからだ。

 新婚生活は交際期間の延長に過ぎなかったと思っていたが、それだけではない。結婚してからの方が、次第に新鮮さが深まって行った時期もあった。そんな時期を五郎は一番楽しかった時期だと思い、毎日が新鮮さで埋め尽くされそうに思えたほどだった。

 子供がほしいとは、どちらからも言わなかった。五郎は、敦美の方から言い出さなければ、自分から言うことはないと思っていた。

 別れを言い始めたのは、敦美の方からだった。

 お互いに会話がなくなっていったのを、五郎はあまり大きなことだとは思っていなかった。

「何かあったら、必ず自分から言い出すはず」

 これが敦美に対して思っていたことだったのだが、それは、敦美の態度が他の人に対してのものと、五郎に対してのものとで、かなり違っていたからだ。

 敦美が言い出した別れを、五郎は最初信じられなかった。

 それまでしばらく会話のない生活を送っていたが、それは時期がくれば治るという楽観的な考え方だったのだ。普通に考えれば、

――夫婦生活の危機――

 だということくらい、すぐに思いつきそうなことなのに、それほど、敦美との生活に甘えていたのだろう。

 流されていたと言っても過言ではない、生活に流されていたのも大きな理由で、新婚時代の甘い生活はそのままずっと続いていくとも思っていた。それは交際期間そのままに、結婚生活に入ったことで、それだけ交際期間が甘いものであったということは、やはり、短く感じたということであり、甘えが残っているからなのかも知れない。

 敦美にとっては、五郎との間に感覚の差があったのだろうか?

 少なくとも五郎は、

「何かあったら、必ず自分には報告してくれる」

 と思っていたのだ。

 敦美は元々引っ込み思案で大人しい性格ではあったが、五郎の前では明るく振る舞っている。そこにウソはない。他の人との違いが、五郎を有頂天にさせ、敦美が自分を好きになってくれたのだと思い込むきっかけにもなっていた。

 夫婦生活には、交際期間にはない「けじめ」が必要なのだろうが、二人の間にそのようなものはなかった。交際期間の延長が新婚生活だったことで、新婚生活の終わりがハッキリしなかった。終わりなどないと五郎は思っていたが、果たして敦美はどうだっただろう?

 敦美にも同じように終わりなどないと思っていたとしても、もし直接的に今まで感じたことのない厳しい現実をどこかで感じたとすれば、その矛先は五郎に向けられる。我に返って前を見た時、五郎の甘さが露見していたとすれば、初めて、今まで自分の前にいたと思っていた五郎を後ろに感じるのかも知れない。前ばかり見ていることに満足している五郎は、果たして敦美の開き直りにも似た心変りを感じてくれているのだと思っている敦美との間に、溝ができてしまったのかも知れない。

 離婚にまで至ってしまったが、離婚理由を最初は、敦美は何も話してくれなかった。問い詰めようとすると。

「自分の胸に手を当てて聞いてみなさいよ」

 と、それまでに見たこともないような形相で言われるばかりだった。鬼のような形相とまでは言わないが、初めて見る恐喝的な態度に、五郎は完全にビビッてしまっていた。

 とはいえ、まったく身に覚えのないものを、どうしろというのか、五郎はそれ以上考えが浮かばない。何かを考えようとしても、堂々巡りを繰り返すばかりで、先に考えが及ばない。頭がリラックスするようにと部屋の中にはハーブや紅茶の香りが充満しているが、焦ってくると、鬱陶しい以外の何者でもないのだ。

 後になって分かったことだが。敦美は五郎の浮気を疑っていたようだ。敦美もそれならそうと言えばいいものを、自分の口から言うことを躊躇っている。言ってしまえば、自分が責めたてている立場で、ヒステリーを起こしていることを自らが認めることになってしまう。それを嫌ったのだ。

 敦美と顔を合わせるのが怖い。何をどう話していいのか分からない。

――今まで、一番話しやすいと思ってくれていたであろう人が、今は、自分が一番話しかけにくい相手になってしまった――

 状況が違えば、立場の違いによって、ここまで精神的に変わってくるものなのかと、五郎が感じたのだ。

 最近、敦美に疑われるようなことをしたことがあったかを思い出していた。

 元々、五郎の目はすぐに他の女性を捉えてしまうことを、敦美は知っていた。知っていて、

「しょうがないわね」

 と、ため息交じりの苦笑いを浮かべることで、許してくれていたところがあった。

――それに甘えていたのか?

 だからこそ、敦美が自分の浮気を疑うなど、ありえないとまで思っていたのだ。

 別れを切り出された時に、ハッと思ったのは、自分があまり敦美の過去について知らないということだった。

 今まで男性と付き合ったことがなくて、男は自分が最初だということ、友達も少なく、いつも一人でいるか、初めて知り合ったきっかけになった女の子と一緒にいるかのどちらかだった。

 彼女とは、五郎が想像したように主従関係のようなものがあった、もちろんそんなに強いものではなかったので、お互いに彼氏ができれば、そっちを優先すればいいという話をしていたという、

――そういえば、彼女は彼氏がいるのに、敦美に対してまだ主従関係を続けていたような気がするな――

 と感じたが、それなのに、敦美が先に結婚してしまうと、急に音沙汰がなくなったという。敦美が連絡を取っても、無しのつぶて、何も反応が返ってこなかったという。

「彼女、自分勝手なのよね」

 初めて、敦美が彼女に対して、悪口を言った。ただ、それもその時が最初で最後だったのだ。

 そんな彼女が、また敦美に接近するようになった。それが離婚前夜だったのだ、

 それまで何も不自然なところのなかった敦美の様子が少しずつ変わっていった。その時に急に五郎は、敦美のよそよそしさを感じたのだ。それはまるでお互いに他人同士であるかのような感覚に、五郎まで陥ってしまったかのようで、何が原因なのか、まったく分からなかった。

 ひょっとして、その時に、友達の接近を五郎が察知していれば、どうだっただろう?

 夫婦間での会話にぎこちなさをもっと早く気付いたかも知れない。ただ。早く気付いただけで、何の解決にもなっていない。

 友達がここまで性悪だと分かっていれば、さっさと二人を引き裂いていた方がよかっただろう。敦美に対して、再三、五郎の悪口を言っていたようだ。

――油断ならない人だ。どこか信用できないところがある――

 などと言われている。敦美としても、最初は聞き流していたのかも知れないが、あまりしつこく言われると、気にしないわけにはいかない。

 離婚後、友達が五郎にモーションを掛けてきたことがあった。離婚してからの何とも言えない寂しさに、彼女の口車に乗ってしまい、関係を結んでしまった。情けない話、その時は友達を、

――この寂しさから救ってくれる救世主だ――

 とさえ思ったほどだ。

 まさか、相手を孤独にして、自分のものにしようだなどと思っているなど、想像もつかない。他にはそんなオンナはいっぱいいるのかも知れないが、まさか自分のまわりにいるなどということを想像もしていなかった。

 妖艶な女性は、今までに付き合ったこともない、和代と別れてから、寂しさのせいもあって、風俗に通ったことがあったが、その時の自分の虚しさ、そして相手をしてくれる女性の暖かさは、それまでに感じたことのないものだった、しかも妖艶な雰囲気は淫靡な匂いを運んでくる。こんな世界に誘ってくれたのは、誰でもないもう一人の自分だった。

 その時のことを思い出していた。風俗に通ったからこそ、早く立ち直れるきっかけだったと五郎は思う。相手を好きになってもどうしようもないのが分かっているので、短いその時間だけが、自分のものである。今度も同じような思いが頭を駆け巡り、二人でいない間の生活が、孤独ではない新たな自分の世界でもあるかのように思えてきたのだ。

――一人でいることは、決して孤独ではないんだ――

 一人と孤独を一緒の感覚にしてしまったことが、敦美の友達に誘惑された最大の原因だった。

――誘惑されるのも悪くないな――

 自分のことを気に入ってくれているから誘惑されるのだと思っていた。彼女には敦美にはないものがたくさんあった。その中で一番は、情熱であろう。

 五郎に対して敦美は完全に受け身だったが、別れを決意してからは、完全に主導権が握られっぱなしであった。逆に友達は、五郎に対して受け身どころか、自分から積極的だ。それは彼女が五郎の性格を分かっていて、どうすれば、自分のものにできるかが分かってきているからに違いない。

「五郎さんは、本当に誰かと浮気なんてしていないわよね?」

 と聞かれた。

「どうしてそんなことを聞くんだい?」

 不審に思った五郎が聞いてみた、

「いえ、敦美が何となくそんなことを言っていたからね」

「敦美が?」

――なるほど、そういうことか――

 何か変だと思ったら、浮気を疑われていたわけだ。いくら敦美に問いただしても教えてくれないことを、どうして彼女が知っているのか? 考えられるのは二つだけだった。

 一つは。彼女が敦美に吹き込んだか、もう一つは敦美と、彼女は、普通の感覚では想像もつかないような関係にあるということである。

――想像もつかない感覚。いやらしい――

 想像してしまった自分に嫌悪を感じる。敦美はいったい、彼女とどんな話をしていたというのだろう?

 五郎は、二人とも知ってしまったことで、余計にいやらしい関係が現実味を帯びてきた。

 五郎は、敦美で、清楚な雰囲気の女性から滲み出る暖かさやゆとりを感じた。そして、友達からは、淫靡で妖艶な雰囲気を感じることで、いやらしさと、わざとらしさのない本音の男女の関係を知った。どちらがいい悪いの問題ではない。自分がその時にどちらを求め、相手も五郎を求めていれば、お互いの気持ちが倍増するだろう。だが、今の五郎にはどちらが強いかと言えば、敦美ではないことは確かだった。

「敦美と違って、君は本音で僕を愛してくれる」

「当たり前よ。あなたたちを見ていると、じれったくなってくるもの。結婚したって言っても、結局交際期間の延長じゃないの」

「そうかも知れない」

「私はそんな慣れ合いのような結婚生活なら、結婚なんてしなくていい。こうやって本音で愛し合っていければそれでいいと思っているのよ」

「潔い生き方だと言ってもいいのかな?」

「そんな格好のいいものじゃないわ。それに私の生き方に人を巻き込みたくないというのも本音なのよ。相手が求めてくるのであれば、私は拒まないし、お互いに気持ちが充実していれば、愛し合っていることに変わりはないわよね」

「僕は離婚した理由がずっと分からなかった。でも、まさか、僕に浮気の疑いを掛けているなんて思いもしなかった」

「疑いを掛けられるんだったら、最初から浮気をしておけばいいって?」

 彼女の質問にはいちいち棘があり、返答に困るものが多かった。考えあぐねていると、

「あなたにはそんな勇気、ありそうもないわよね。それがあなたのいいところなんだけれど、でも、私はそんなあなたが一番好きだし、一番嫌いなところでもあるのよ。短所と長所は紙一重っていうけど、好きな人のことはよく分かるわ」

 好きな人だと言ってくれて嬉しい。

 そういえば、五郎は敦美から、

「好きだ」

 と、言われたことがあっただろうか?

 五郎は、敦美に対して好きだという言葉を言ったことはあったように思う。それも気持ちが高ぶっている時に、感極まった気持ちで口走った言葉だったかも知れない。その言葉を敦美が覚えているかどうかも定かではない。

 それだけ、お互いの言葉をハッキリと覚えていないということである。確かに

――僕と敦美の間に言葉なんかないんだ――

 という思いはあった。

 本当に好き合っている者同士であれば、言葉などなくとも、気持ちが通じ合っていれば、強い絆で結ばれるんだと思うからである。

 五郎の中で、敦美に対して甘く見ていた部分は多大にあるだろうが、それ以上に、自分がどれほど愛していたのかが分からなくなっていた。

――和代とのことが頭の中にあるのかも知れない――

 和代からは、別れの時に、かなりきついことを言われた。

「あなたは、口ばかりで、何もしてくれない。そして、都合が悪くなるとすぐに黙り込んでしまう」

 と言って、罵倒されたのだ。

 それ以上はあまり言わなかったが、かなり今まで抑えていたのかも知れない。

 ただ、五郎には、何をそこまで言われなければいけないのか分からなかった。横田という人と比較されていたのかも知れないが、それだけだろうか? 和代が五郎に対して、過大評価をしていたのかも知れない。

 和代のことは、過去の人だと思っていたはずなのに、思い出すということは、それだけ敦美という女性が、それまで一番付き合いやすい人であったはずなのに、今では顔を思い出すだけでも恐ろしい存在になってしまっているということである。

 和代に対しても、敦美に感じたように、甘く考えていたのを思い出した。

――それだけ、僕は同じことを繰り返しているということなのか――

 和代のことを思い出すのは、同じことを繰り返しているという意識もあるからなのかも知れない。

 和代と敦美を比較するのはいけないことなのかも知れない、だが、五郎は比較しないわけにはいかない気がして仕方がなかった。

 和代に対しては、今までで一番好きだった相手だと言えよう。その証拠が一目惚れだということだ。

 敦美に対しては一目惚れではなく、今までにないほどゆっくりと、しかし確実に好きになっていったように思う。

 和代の時には、若さに任せた情熱があった。それを和代も分かったので、付き合ってくれた。しかし、次第に最初の情熱のわりに。行動力や結果がついてこないような男性に愛想を尽かせたのではないかと思うと、和代の気持ちも分からなくはない。

 そんな五郎は、敦美と付き合う時には、情熱的なものを抑えていた。情熱的に好きになる相手ではなかったというのが本音なのかも知れないが、敦美はそれだけ何でも分かっているような女性で、燃え上がることがないだけに、雲をつかむようなところがあった。まるで、

――暖簾に腕押し――

 のような感じて。押しても返ってくる反動がなく、寂しさが残ることもあった。

 本当は、女性が男性に感じる感覚なのかも知れない。

 時々、敦美が男性っぽいところがあると思うことがあったが、頼もしさを感じることで、自分が楽な立場に置かれているような錯覚を感じるのだった。

 敦美が友達とよからぬ関係にあるのではないかと感じたことを思い出した。男性役を演じているのは敦美だったのかも知れない。妖艶な友達が、敦美の前で従順になる。そんな構図を思い浮かべて、五郎は、ゾッとしてしまっていた。

――こんな想像、してはいけないんだ――

 と思ったが、友達の誘惑に乗ってしまった自分に、それを言う資格はない。だとすると、五郎の浮気を疑って、離婚に走るというのは、少し変ではないだろうか。虫が良すぎるというよりも、もし敦美が男性としての部分を隠し持っているのだとすれば、五郎は敦美にとってどんな存在だったというのだろう 少なくとも結婚生活がうまく行っている時は、敦美が「もう一人の自分」に気付くことはなかったのだろう。

 五郎にも、「もう一人の自分」がいる。誰の中にももう一人の自分は存在し、表から見つめていることで、制止が効くこともある。敦美は「もう一人の自分」の存在に気付いた時、何を思ったことだろう?

 正式な離婚が決まる前から、友達とこんな関係になってしまったことで、五郎は敦美の言う通りになってしまったことに、後悔はない。

――遅かれ早かれ、敦美とは離婚することになったのだろうし、彼女との関係も、なるべくしてなった――

 と思うのだった。

 しばらくは、彼女と付き合うことになるだろうという思いを抱きながら、完全に時間に流されていた。敦美と別れたことへの後悔などないはずなのに、どこか放心状態である。

 三か月ほど付き合っただろうか。敦美との交際期間を思い出すことも多かったが、比較になるものではなく、お互いに好きあっていた頃が懐かしかったが、彼女との交際を「大人の交際」だと思うのなら、敦美との交際期間が、さらに短く感じられるのだった。

 敦美の友達、彼女の名前も実は敦美という。ただの偶然だったのだろうか……。


「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 三十五歳を超えると、今までの思い出は、いつくかの壁を越えたかのようで、襖のような扉を開けないと、見ることができないものになっていた。

 そのおかげで、見たくない思い出を必要以上に見ることができないで済んでいるが、人生を半分近く過ぎてしまっていることに愕然としてしまうこともある。それまで感じたことのない人生の長さを意識させられてしまうのは、それまで知り合っては別れてきた女性たちも、自分に対して同じことを感じているかも知れないと思うのだった。

 女性と別れるたびに、馴染みの喫茶店が増えていく。そして、過去に別れた女性と付き合っていた時に持っていた馴染みの店に、足が遠のいてしまい、そのうちに行かなくなってしまうようになっていた、時間の経過とともに、思い出の風化が進んでいることを表していた。

 思い出の風化は、春が多かった。春は出会いの季節でもあれば、別れの季節でもある。五郎にとって春は、出会いというよりも別れが身に沁みついた季節で、散った花弁は二度と元のさやには還らないことを示していた。

 春に離婚してから、友達の敦美と別れるまでの数が月、夏のような暑さの日もあったが、別れた頃は、梅雨の肌寒さから抜けても、例年のように一気に暑くならない、そんな時だった。

 しばらくは女性と付き合うことはなかった。女性と知り合う機会が以前ほどはなくなり、落ち着いた生活だったのだが、心の底では寂しいと思っていた。

――身体が寂しいと思っているのだ――

 暖かさを感じなくなってきたことで、自分の身体自体が熱を帯びてきたのではないかと思うようになっていった。別れた季節が春だったが、身体の感覚がマヒしていたように感じたのは、ショックを受けた時の自分の身体が熱を帯びていたからなのかも知れない。春という季節を、それまでの出会いを期待する暖かさを感じさせる季節から、身体の感覚をマヒさせる別れの季節にさせたのは、度重なる別れの中で、今まで感じたことのない身体の寂しさを、思い出の中に封印させようとしていたからではないだろうか。

 暖かさを求めるようになってから、コーヒーの暖かさを感じていたいと思うようになった。喫茶店で飲むコーヒーもいいが、家で淹れるコーヒーもまんざらでもない。コーヒー専門店に立ち寄るようになってから、自分でもコーヒーを淹れるためのセットを買い揃えたりしたものだ。

 五郎は、何度目かの転勤の間に、課長に昇進していた。年功序列だとすれば、普通であるが、本当は課長になどなりたくはない、平凡に会社に行って、仕事をするだけでよかった。

 仕事が終わっての帰り道、最近見つけたコーヒー専門店。中でゆっくりとコーヒーを飲んで、自宅用の豆も買って帰る。いつも接客をしてくれる女の子が最近辞めたらしく、新しい娘が相手をしてくれるが、先日家の近くでぱったりあったことがあった。

「このあたりにお住まいですか?」

 お互いに、顔を合わせると、ビックリした表情になったが、すぐに笑顔を見せて、どちらからともなく訊ねた。

 その表情は、懐かしい人にでもあったかのような笑顔で、安心感が感じられた。

「安心感を感じるというのは、こんなにも笑顔にさせてくれるものなのか」

 と思ったほどだ。

「ええ、すぐそこなんですけどね」

 と、言って指さした方向は、五郎の住んでいる家の方向でもあった。

 男やもめの一人暮らし、さほど広い部屋がいるわけでもない。駅から十分ほどのコーポであれば、ちょうどいいくらいだろうと思って部屋を選んだが、引っ越してきて三か月、不満など何もなかった。

 五郎が転勤になってから、二年が経ったが、それまでは、会社の社宅に住んでいた。この間課長になったのを機に、社宅を出てみようと思ったのだ。

 それまで何か所か転勤になったが、社宅があるのはここだけだった。

「社宅があるから」

 ということで、家賃もかなり安かったので魅力だったが、一年以上もいると、さすがにまわりが会社の人間では疲れてくる。

 不動産屋を訪れるのは久しぶりだったはずなのに、

――まるで昨日も来たような気がする――

 と思うほど、転勤するたびに訪れていたのだった。

 それだけ転勤の回数も多いということだが、それよりも、定期的に転勤を繰り返しているという方が、たびたび転勤を繰り返している感覚になるのだろう。ほとんど、三年で転勤というパターンで、会社内でもここまで転勤の多い人もいないのではないだろうか。

 社宅に住んでいると、どうしても、前に住んでいた人がどんな人か思い浮かべずにはいられない。他で部屋を借りるのも同じことなのだが、同じ部屋に住んでいた人が、同じ会社だったと思うと、

――会社を離れてまで――

 と思うと、余計に会社の人間と接するのが億劫になってくる。

 社宅を出ると、今度は、なるべく会社から近くない場所に部屋を借りたくなった。と言っても、通勤に一時間以上掛かってしまうのも困る。電車で三十分、駅を降りてから帰り着くまでに十五分、これを基準に探した。

 電車で三十分を少し超えるくらいは何とかなるが、徒歩十五分以上はさすがに厳しいと思った。あまり遠くなると、坂道があったり住宅地があったりと、あまり通勤に景色が変化するのも却って疲れるというものだ。

 電車に乗っている時間は大体二十分、十分すぎるくらいの許容範囲であった。駅から家までは、許容ギリギリの十五分、これもクリアであった。

 コーポは住宅地の入り口にあり、ちょっと行けば大通りに出るので、コンビニや飲食店も揃っている。まわりの環境としては、文句はないだろう。

 引っ越してきてすぐ、休みの日に近くを散策し、休日は人通りが多いかと思ったがそうでもないことが嬉しかった。大通りから少し外れたところには、飲食店も揃っていて、その奥には飲み屋があったり、さらに先には喫茶店もあったりした。

 喫茶店は、家からかなり歩かないといけないので、あまり馴染みにしたいとは思わなかった。せめて家から歩いて十分くらいにあればいいのだが、その店は二十分近くかかる。これでは駅までよりも遠いではないか。

 会社から帰りに見つけた喫茶店、ここは会社への通勤路ではなかった。人通りが多いところにあるわけではなく。少し入り込んだところにある。なるほど、馴染みの固定客で持っているお店なのかも知れないと思うと、

――入ってみたくなるのが人情だ――

 と、馴染みの店を見つけるのがうまい以前の自分を思い出していた。

 馴染みになって、そろそろ一年が経とうとしていた。週に三回くらいは立ち寄っているが、毎日来ている人に比べれば、まだまだだった。ただ、馴染みの人は、近くの商店街の中にあるブティックの店長で、勝手に作った休憩時間を利用して、コーヒーを飲みに来ている。

「いつ来てもいますね」

 と、皮肉を言いたいくらいで、完全に店の主になっている感覚だ。

 五郎は、その人と気が合った。まったく違う仕事をしている相手ということで、気分転換にもなるし、同じ仕事の人との会話にウンザリしている二人だけに、いろいろな知恵や知識を得ることができるようで嬉しかった。

 ブティックの店長は五郎に、普段味わえないサラリーマンの感覚を味わえ、五郎とすれば、店長から、ニュースや仕事の業界以外からしかもたらされない話題を手に入れることができるのがありがたかった。

 店のマスターは、どちらかというと二人の間に位置しているのかも知れない。喫茶店を始める前はサラリーマンだったということで、どちらの話も分かるのは。マスターだけなのだ。

「僕は、まだまだサラリーマンに近いかも知れないな」

 店を開店してから、十年近くが経つというのだが、それでも、今でもサラリーマン時代の夢を見るという。サラリーマンだった頃が、懐かしく感じるのは、店を切り盛りしなければいけない立場ではあるが、サラリーマンを辞めた時のことを思い出すからだという。

「サラリーマンを辞めたこと、後悔しているのかも知れないな」

 普通は後悔していても、他人には言わないのが普通だろう、それなのに言うということは、それだけ自戒の念が強いのかも知れない。

「これでもサラリーマン時代は、重要な仕事を任されていたりしたんですよ:

 と、サラリと言ってのけるが、五郎にはサラリと言えるほど、まだサラリーマンを充実したものにできていない。

「サラリーマンに充実なんてないんだよ」

 マスターはこれも簡単に言うが、何か悟ったものでもあるのだろうか。

 この店には、サラリーマン、OLが結構来ている。五郎もその一人であるが、ほとんどが単独客なのだが、中には、その中で仲良くなる人もいたりする。皆誰もが自分の世界を持っていて、明らかに悲哀を感じさせる人もいる。

 店の女の子の家が近いということもあってか、この店に通う楽しみが増えてきた。実際に家の近くで会ったのは一度きりだったが、それでも何かしら楽しみを感じさせる予感があった。

 ただ、五郎は最近、違う女性が気になり始めた。

 その人は、いつも窓際のテーブル席に一人でいる。

 この店は、ほとんどが馴染みの人が多いからか、それぞれに自分の指定席のようなものを持っている。五郎も、カウンターの一番奥を指定席だと思っている。常連の客は、決まった時間に店に来るからだろうか、その人の指定席が他の人で埋まっているということはほとんどない。同じ時間にバッティングするわけではないのに、偶然というよりも、それぞれの個性が違っていることを示しているのだろう。

 その女性は、いつも外を見ている。

――何が見えるんだろう?

 何を見ているのかということよりも何が見えるかという方が気になっている。実際に見えているもの以外の何かが、その人の目に浮かんでいるように思えてならなかった。

――瞳の色が違うようだ――

 黒目ではないが、綺麗に見えている。外国人のような目にも見えるが、日本人であることは間違いない。五郎は、外国人の女性は、どうにも好きになれないことから、彼女が日本人だということを確信している。

――僕は、彼女を好きになりかかっているのか?

 と、一度感じてしまうと、そのことが気になって仕方がない。

 今までに一目惚れが一度、和代に対してだけであったが、付き合ってきた他の女性に対して、好きになりかかっている意識はあっても、そのことをいちいち自問自答することはなかった。人を好きになるのは、自然なことで、いちいち意識するものではないからだ。

 他の常連客は、一人でいることが多いが、まわりを一切気にしていないわけではない。自分のスペースが決まっていて、その領域には、誰も侵入することはできないが、そのまわりを気にしている様子は時々感じることができる。こうしてまわりを観察している五郎も同じことであった。多少なりともまわりが気になってしまうのは、自分の世界を持っている人にとっては必然なことではないだろうか。そう思うと、その女性は、この場の中にいても、異質なイメージを醸し出していた。

 五郎は、気が付けば、いつも彼女を気にしていた。最初は何も気付いていない様子だった彼女も、五郎の視線に一度気が付いてしまうと、今度は、必要以上に意識しているように思えた。それまでに見せたことのないソワソワした様子を見せるようになったからだ。

――元々、人を意識し始めると、取り乱してしまうところがあるのかも知れない――

 だから、まわりを意識しないようにしていたわけではないだろうが、結果的にまわりを意識しないことでまわりから気配を消すことができていたのかも知れない。

 この店の常連客は、自分の気配を消そうという意識はないのだろうが、まわりに意識させない雰囲気があった。無意識に、

――関わりたくない――

 と、まわりの人に思わせる。ただ、まわりが皆同じ雰囲気なので、却って異様な雰囲気を店全体に漂わせているのかも知れない。それだけ、個性が強い連中の集まりと言えばそれまでなのだろうが、人に構いたくないという思いは共有していて、一見さんには、この雰囲気には耐えられないだろう。

 五郎は、その女性のことがどうしても気になって仕方がない。ソワソワしている様子は、五郎を怖がっているわけではない。五郎を意識し始めた証拠なのだ。期待と不安が表に出初めて、その意識が強いことから、自分でもどうしていいのか分からなくなっているのではないだろうか。

――今までにこんな感情が浮かんだことなかった――

 と、心の中で思っているのかも知れない。

 五郎の中に今までに付き合った女性の面影が浮かんできては消えていったが、彼女はその中の誰でもないように思えた。

 ただ、その中でも、一番「大人のオンナ」を感じさせる。それは妖艶な雰囲気を前面に押し出していた「友達の敦美」とも、違った雰囲気である。妖艶さだけではない大人の女、それは五郎には、まだまだ遠い感覚でしか見えていなかった。

「こんにちは」

 思い切って話しかけてみた。シカトされるのではないかとドキドキしたが、彼女は、五郎の顔を見て、ニッコリと微笑んだ。五郎もニッコリと補助笑み返すが、笑みはやはり引きつっていた。

「こんにちは。あなた、時々見かけるわね」

 どうやら気にしてくれているようだ。

「はい、気にされていてくださったんですね」

「ええ、あなたは、好感が持てる気がしたの。他の人とは目が違うような気がしてね」

「どういう風にですか?」

「他の人は、私を見て少しは気になるようなんだけども、目を離す時はアッサリなのよね。でもあなたの場合は、どこか目を離すのに未練を感じているようで、そこがわいいというか、私には気になるところなのよね」

 何が幸いするか分からない。あまり視力がよくない五郎は、どうしても相手を見つめると、視線を外す時に躊躇してしまう。目を離した瞬間に相手がこちらを見ていたらどうしようという危惧が頭を過ぎるからだった。だが、彼女の場合は、そんな五郎を可愛いとまでいう。ちょっと他の人にはない性格が、五郎には新鮮だった。

「気に入ってもらっていると思っていいんですか?」

「私は気に入っているつもりだわよ。でもあなたはどうなのかしら? ただの好奇心からなのかしら?」

 口元が歪んだが、その時初めて彼女の口紅の濃さにドキッとした。口を濡らしているのは、真っ赤に彩られた情熱を思い起こさせた。

「そうかも知れませんね」

 と、おどけた調子で言うと、

「まあ、ハッキリ言うのね。でも、そのハッキリしたところが好きよ」

 彼女は、とにかくハッキリしているのが好きなようだ。

「僕もハッキリした人は嫌いではないけど、竹を割った性格というのも悪くないですよね」

「私が竹を割ったような性格に見える? まあ、そう思ってくれるのはありがたいと思っておきましょう」

「そうしてください」

 お互いに腹の探り合いのような会話であるが、五郎にとっては、これがまさしく大人の会話に思えてならない。

「私はこれでも、元主婦なのよ。大人の会話に思えるとしたら、そのあたりが影響しているのかも知れないわ。これでも、主婦をしている時は、貞淑な主婦だったんですからね」

 一体何が、彼女を変えたというのか。五郎も離婚経験者であるが、主婦経験者の気持ちがよく分からない。結婚していた頃は、自分も奥さんも、貞淑なのが当たり前だと思っていた。実際に、敦美が疑うような浮気の経験など、一度もなかった。もちろん、綺麗な女性が近くにいれば、目を奪われるくらいのことは平気であった。ただ、それも敦美には分かっていたはずである。その証拠に、五郎は綺麗な女性がいれば、チラッと見るようなことをせず、堂々と見ていた。下手に気兼ねして見ていると、それだけやましいことがあるのではないかと疑いを濃くする結果を招いてしまう。それを思えば、見るなら堂々とというのが、五郎の考えだった。

 そんな時、敦美はニコニコしていた。

「これがあなたの性格なんだから、言っても治るものではないのなら、見ればいいわ」

 と、言われたことがあったが、その言葉には二通りの受け止め方があるだろう。しかもまったく正反対の受け止め方だ。

 五郎は、額面通りに受け取った。自分に都合よくと言った方がいい。下手に曲がった気持ちで受け取ると、

「せっかく、いいように考えてあげたのに」

 と、せっかくの気持ちを無にするような態度は、自分でもっとも納得のいかないことになってしまう。

 しかし、もっとも皮肉っぽい言葉にも取れるだろう。言っても治らないという言葉がミソで、治らないことが仕方がないとして受け止めるのか、それとも、治らないから、相手にできないとして受け止めるのかの違いである。仕方がないとして受け止められることが決していいことだとは言えないが、相手にできないと言われるよりはましであろう。

 文字で表しても棘があるのだが、抑揚をつけると、却って冷静に聞こえるかも知れない。今日初めて会って、まだ全然相手を分かるはずもないところでの性急な判断は、相手のことが、これからもっと気になる存在になりそうに思っているだけに、しない方がいいだろう。

 大人の雰囲気は、会話にも出ていることで、女性の妖艶さを初めて教えられた「友達の敦美」の存在が、今となっては、比較対象になりそうで、忘れかけていた思い出を思い出さざるおえなくなってしまった。

 元主婦だというところにも興味があった。ただ、敦美も今は元主婦である。どうしても比較してしまいそうになり、今の敦美も大人の魅力を感じさせる女になっているのだとすれば、少し複雑な気持ちになってしまう。

 それにしても、敦美は、五郎の何を見て、浮気をしていると判断したのだろう?

 誰かが吹き込んだ可能性はあるが、それでも実際にそうと信じる何かがなければ、離婚までは考えないはずだ。五郎にはそんな記憶はまったくない。それとも、心に大きな溝ができてしまった時に、浮気をしてしまうような何かを感じたのだろうか? 友達の敦美と、関係を持ったように……。

 二人は、ただの友達ではない、名前が同じというのも、少し気になるところではあったが、まさか名前が同じだからと言って、相手の考えていることが手に取るように分かるわけでもないだろう。

 五郎の頭を、偽装結婚という言葉がよぎった。

 二人の敦美の、世間では許されざる関係、女性同士の関係をまわりに隠すために、偽装結婚したのではないかという考えだ。突飛な考えすぎて、打ち消そうとしたが、一度打ち消しても、また頭によみがえってくる。考えが、あまりにも嵌ってしまっていて、信憑性がリアルなのだ。

――じゃあ、僕はただのピエロではないか?

 偽装結婚の相手に選ばれて、結婚したはいいが、都合が悪くなれば置き去りにするかのように、さっさと離婚してしまう。もし本当なら、そんなことが許されていいものか。

 そういえば、敦美と喧嘩したことなどなかった。和代とは、一時期、毎日のように喧嘩をしていた。その思いがあるから、敦美にはなるべく怒らせないようにしていたつもりでいたが、実際には。基本的にあまり相手を怒らせない性格だったのだろう。

 敦美はそんな五郎の性格を知って、利用したのかも知れない、

――敦美の手のひらの上で踊らされていたんだ――

 自分が主導権を握っているつもりでいたのに、実際には敦美の好きなようにされていた。有頂天になってしまって、目の前が見えなくなるのも、五郎の性格だ。そこも巧みに突かれたのだとすれば、怒りが自然とこみ上げてくる。

 敦美という女性の性格を思い出していた。思い出せば思い出すほど、偽装結婚など考えられない。だが、二人の敦美の関係は、間違いない。実際に友達の敦美が話したことだった。

「五郎さんなら気付いていると思ったわ」

 と、友達の敦美が言ったのは、元妻の敦美が、途中でボロを出したのではないかと思ったからではないだろうが、ボロを出してしまったことで、別れを切り出されるくらいなら、自分から相手の弱みをついて、離婚してしまおうと考えたのであれば、五郎が気付いていても無理はない。だが、そうなれば、五郎の落ち込み合何だと思ったのだろう? 信じていた相手が、性悪女で、自分のプライドをズタズタにされた後、まるでゴミ屑のように捨てられてしまうことを憂いたのだと思ったのかも知れない。

――どうして、こんなことに――

 という思いと、妻への未練で凝り固まっていたなど、友達の敦美には分からなかったことだろう。

 彼女が五郎と関係を持ったのは、好奇心からだけではなく、心底、五郎を可哀そうだと思ったからなのかも知れない、どちらにしても五郎を真剣に愛したわけではない、彼女の性格からすれば、本当に人を愛すると、まわりが見えなくなるだろう。その相手が元妻の敦美だったというだけで、彼女からすれば、

「男でも女でも、愛していることに変わりはない。本当は、隠してなどいたくないのに、相手のことを考えると、どうしても、隠す方向になってしまう」

 と、本当は自分の気持ちを押し殺すことが嫌いな性格のはずなのに、抑えなければならないことのジレンマを感じていることだろう。

 五郎は、そんな彼女に憐みさえ感じる。元々、理由はどうであれ、辛く苦しかった時期の心の隙間を埋めてくれたのが彼女だった。彼女は、自然消滅のような形で五郎の前から消えたが、それは自分が五郎が結婚した相手を奪ったことへの良心の呵責に耐えられないものがあったからなのかも知れない。

 だが、五郎には、そんなことはどうでもよかった。事実だけを見つめていれば、本当は憎き相手なのだろうが、どうしても憎めないところがあった。ただ、彼女が自然消滅で別れていった時、分かっていても引き留める気にはならなかっただろう。そうでなければ、自然消滅など、五郎の性格からは考えられないことのはずだからだ。

 五郎は自分の性格を再度考えてみた。引っ込み思案な性格は妻の敦美ではなく、自分の方だったのかも知れない。

 喫茶店で知り合ったその女、名前を香織という。香織は店で少し話をすると、すぐに、

「出ましょうか」

 と、香織の方から誘いを掛けてきたのだ。

 何が起こるのか分からないふりをして、ここは香織に従った。主導権を握らせておいた方が、楽だと感じたからだ。

 まだ、時間は八時過ぎだった。歩いていく方向には、ホテル街が並んでいた。v比較を通っている高速道路のインターチェンジが近くにあり、ホテル街があっても不思議ではない環境ではあったのだ。

「ここにしましょう」

 そこで初めて五郎の手を握り、狭いホテルの入口へと入っていく。

――常用しているのか?

 少し尻込みしそうな様子を察知したのか、香織は妖艶に微笑んだ、

「そんなに怖がらなくてもいいですよ。五郎さんも、ラブホテルが初めてなんてことは言わないでしょう?」

 友達の敦美とも、確かに再会したその日にホテルに入ったが、それは彼女のことを以前から知っていたからであって、ほとんど初対面に近い香織とこのような関係になるというのは不思議な感覚がした。

――欲求不満な身体を、ただ知り合っただけの自分で埋めようとしているだけではないだろうか――

 とすれば、彼女とは一夜限りの関係で終わってしまう。

――それもいいかな?

 今、どうしても彼女がほしいというわけではない。この場の状況とすれば、

――据え膳食わぬは男の恥――

 という表現がピッタリであろう。

 部屋に入った瞬間、思い出してしまった。

――友達の敦美の時と同じではないか――

 きっかけはどうあれ、付き合っている人ではない相手と、ホテルの一室で二人きり、この状況は、さほど変わりのあるものではない。

――そういえば、あの時、どのように感じたのだろう?

 敦美に対して、それとも自分自身の心境に対してなのか、思い出そうとするが、思い出せなかった。たとえ状況が同じでも、部屋に入った瞬間に、以前のことを思い出したとしても、思い出したのは、同じシチュエーションの一瞬のことだった。相手が違えばいくら状況に変わりはないと言っても、心境的には、まったく違ったものになっているのだ。

 同じように思い切り抱きしめてキスをする。相手もできる限り思い切り抱き付いてきて、必死に離さないようにしているのを見ると、いじらしく感じる。それが妖艶な女性であればあるほど、まるで子供を見るかのようないじらしさを感じるのだった。

 五郎は、抱きしめたまま、香織をベッドに押し倒した。少々乱暴ではあったが、香織は抗おうとはしない。されるがままで、時々身体がビクッとなり感じているのを見ると、敏感なのだということが分かった。

 こういう女性は恥かしがり屋なのだろう。普段は大人のオンナを演じているが、男と女の関係になると、相手に従順になる。それは友達の敦美で分かっていた。だが、それはあくまでベッドの中だけのことで、全面的に委ねているわけではない。そこを勘違いしないようにしないと、痛い目に遭ってしまうことだろう。

 あまり一目惚れをすることのなかった五郎だが、徐々にではあっても、相手を好きになり始めたら、後戻りすることはない、気持ちは次第に高まって行って、本当に好きだと思うようになる頃には、相手を好きになった理由もしっかりと自覚しているのだった。

 だが、それを言葉にするのは難しかった。ましてや当の本人には言えるものではない。そのくせ、相手には自分を好きになった理由を聞きたいものだ。それが男なら誰でもそうなのか、自分だけの欲求なのか人に聞くわけにはいかないので、疑問が残るところではあった。

 女性の敏感な部分は、今までの経験で分かっている。果たして香織も同じで、五郎に完全に身を任せている。

――この目だ――

 上目遣いの潤んだ眼で、五郎を見つめている。明らかに何かをしてほしいという欲求に包まれているのだが、それが言葉になることはない。言葉にしてしまっては、お互いにシラケるに違いないからだ。

「ダメ」

 ソフトタッチな指使いから、少し強めに、そして早く動かすと、身体をのけぞらせて、哀願の目で見つめてくる。

――可愛い――

 この瞬間が、男の性に火をつけるのだろう。

 同じような経験ではあるが、友達の敦美の時とは違っていた。しいて言えば、あの時は何もかもが初めてで、戸惑いもあったが、今回は敦美の時のことがあることで、少し気持ちに余裕があったかも知れない。

 さらに、五郎の中で、香織との仲が敦美との時に比べて長く続きそうな気がして、ましてや、今日だけで終わるような気はまったくしなかった。また、敦美とのことが、あの時はあっという間だったことで、すっかり記憶から抜けてしまっていたが、香織と一緒にいると思い出されてくる。あっという間だったことが少しずつ詳細になってくるようで、きっと頭の中で二人がダブっているのではないかと思えるのだった。

 だが、明らかに二人が違っていることは、自分の中で明白だった。ハッキリしているのは、その時の雰囲気に流されてしまったのは、敦美とのことで、香織に対しては、流されているわけではなく、しっかりとした意識の中でのことであった。

「五郎さんを見ていると、以前にも同じような経験がおありになるのが分かる気がするんだけど?」

 何とも鋭い。やはり香織は海千山千、一筋縄ではいかない相手ではないだろうか。敦美の時に比べて、ある程度余裕を持っていると思っていた自分の出鼻をくじかれたかのようであった。

「そんなことはないですよ」

 と、少し含み笑いを見せたが、気付いただろうか。これも五郎としては相手の反応を見るための様子見でもあったのだ。

「そうなのかしら?」

 香織の含み笑いには、余裕が感じられた。その余裕が憎らしい限りで、妖艶に感じられる理由がそこにあるような気がして仕方がなかった。そこが敦美とは違うところで、敦美の場合は、どちらかというと、切羽詰ったような感じがあった。焦りというよりも、生理的なものが、彼女を駆り立てていたに違いない。情熱的な感じはしたが、どこか危険でもあった。

 そういう意味では、香織には危険性は少なそうだが、情熱的なところには乏しかった。

 香織の手を握ると、最初は焼けるような熱さを感じた。そして、すぐに熱さが収まってくると、今度は汗が滲んでくるようで、ベタベタした感じがした。ベタベタは、汗を吸収するのを妨げているようで、ただ、熱だけを奪っている。心地よい暖かさにも感じられ、適度な暖かさは、こうして作られたのだ。

――香織は、五郎の後ろに敦美を見ているのだろうか?

 敦美であれば、香織からすれば、相手にならない気がするので、意識するほどのことではないはずだ。それなのに意識してしまうのは、今まで五郎が付き合ってきた女性たちの中に意識しなければいけない人たちがいたことになる。

――一体、誰なんだろう?

 ひょっとすると、五郎は意識していないが、香織に考えが似た人がいて、それを意識していることで、五郎を何とか自分に向けさせるように仕向けているかのようにも見える。自分の後ろの誰かを見ているということは、それだけ、五郎だけを見つめていたという考えの表れではないかと思うのだった。

 そう思ってくると、今度は香織の後ろにも誰かが見えてくる気がした。落ち着いた物腰の男性で、ただ、お人よしなのか、すぐに損を請け負ってしまうような男性であるのかも知れない。

 香織の後ろに見えるのはもちろん男性だった。ベッドの中でもその男性を意識せざる負えないことでのプレッシャーのようなものがあり、どうしても自分と比較してしまう。相手の男性は自分がいくら追いつこうとしても追いつくことができず、平行線を描いているようだ。

――まさか、もう一人の僕?

 という発想は突飛すぎて、考えてしまったことに、恥の二文字を感じてしまう。この発想は誰にも言えないが、当の本人の香織には分かったことも知れない。

 香織の身体は、今までに付き合った女性の中で一番しなやかだった。女性らしい身体だと言ってもいいだろう。抱きしめると、軽く押し返してくる感覚があり、さらには肌の毛根が身体に吸い付いてくるかのような感触に、五郎の身体は悲鳴をあげる。

――悦びの悲鳴など、初めてだな――

 今までは耐えれたものを耐えれなくなるが、耐えること自体、バカバカしく感じられる。身体を解放し、その場の現状に身を任せれば、いつだって悦びの悲鳴をあげることができるのではないかと思うのだった。

 しなやかな身体がまとわりついてくるのを感じていると、不思議と思い出すのが過去のことだ。過去のことと言っても過去の女性たちのことではなく、さらなる昔、思い出そうとしても平常時では思い出せないほどの遠い昔の、物心ついたかついてないかくらいの頃のことである。

 母親に連れられて、ベビーカーに乗っていた記憶など、普通ならあるはずがない。きっとおしゃぶりを咥えていて、目の前にあるものすべてに対して、興味のようなものを抱いていたのだろう。

 無邪気な時期を思い出すことは、今とあまりにも違い過ぎることでできないのだと思っていた。ひょっとすると、あの頃の方が頭は回転していて、物心がついたことから始まる意識が、自分にとっての意識だと錯覚しているだけなのかも知れない。もしそうだとすれば、物心のつく前だけが、唯一人生をやり直せる機会を与えられたのかも知れないと思う。

「人生をもう一度やり直せたらな」

 という人もいるが、必ずしも五郎は、そうは思わない。やり直すには、どの場面からという緻密な計算がなければ、難しいだろう。いくら、やり直したい場所に戻ったとしても、同じことを繰り返さないとも限らないからだ。

 たとえば自分にとって運命を変えた人がいたとして、その人と出会ってからの人生のやり直しであれば、また同じことをしそうである。根本から変えたいのであれば、出会う前に戻る必要があるのではないだろうか。

 それを思うと、過去に戻ること自体が、滑稽ではないかとも思えてくる。どの時代に戻ったとしても、そこから無数に広がっているはずの運命を、いかに手繰り寄せたとしても、結局は似たようなところに戻ってくるのではないだろうか。やり直すことができないのは物理的な発想でも当たり前のことだが、それ以上に矛盾を解消できない限り、してはいけないことではないかと思うのだった。

「違った人生を歩んだとしても、結局は僕たちって出会ったかも知れないね」

 と、和代に似たようなセリフを吐いたことがあった。

 その時のシチュエーションまでは覚えていないが、どんなシチュエーションでも、発想が同じところになってしまう。これこそ、その人が超えることのできない領域があり、その仲をグルグル回っているだけなのかも知れない。考え事をしていて堂々巡りを繰り返すのは、モノには必ず限界があるということの証明だと思っていたが、その最たる例が自分なのだろう。

 香織もどこか似たような考え方を持っている。五郎との決定的な違いは、香織には、どこか投げやりなところがあり、他の人から見ると、まったく似ていない二人で、火に油を注ぐようなものだと思っている人もいるかも知れない。

「他人は他人よ」

 と香織はいうが、まさしくその通りだ。

 今まで付き合った女性の中で一番気持ちが通じ合えたと思うのは、実は和代だった。最初、別れた時の辛さを思い出すと、気持ちが通じ合っていなかったからだと思ったが、その後に付き合った女性を思い出すと、和代から比べて、どうしても他人に思えて仕方がなかった。

 ただ、ツーカーの仲だったのは誰かというと、それは妻だった敦美だった。彼女は、何も言わなくとも、五郎のことを分かってくれていたし、却ってそこには言葉がいらないというべき空間が存在していた。

 気持ちが通じ合っているのと、ツーカーの仲との違いは、気持ちが通じ合っているのは、気持ち的にお互いが平等な位置にいることが分かっている時で、ツーカーの仲であると感じたのは、男が精神的な優位に立っていて、女性は三行半を決め込んでいるパターンが多いのだろう。

 五郎は今までに付き合ってきた女性のことをいろいろ思い出していた。初めて付き合ったのは、中学の頃だっただろう。付き合ったというにはあまりにもおこがましいが、それこそままごとの延長のようだった。

 相手のことがどれほど好きなのかも分からずに、愛しているという言葉を使ってしまった自分が恥かしい。ただ思春期の感情は、何事も過大に表現され、過大な表現が許される時期でもあっただろう。

 女性と付き合うことで、今まで見えていなかったものまでもが見えるようになっていた。それは、見えなかったものが見えてきた気がして、見えなかったものすべてがバラ色だったことを意味している。

 だからこそ、女性と付き合うことは新鮮で、今まで知らなかったことを知ることができる絶好の機会でもあった。その中で女性の身体という知らなかったものを知った瞬間、神秘の扉を初めて自らで開いた気がしてくる。それが男として生まれてきたことを喜びに変える瞬間だと思えていた。

「五郎さんは、楽天的よね」

 和代に言われたことがあった。

 何を持って楽天的だというのか分からなかったが。きっと、自分の気持ちが相手にも分かり、同じく相手の気持ちが分かるところから感じたことなのかも知れない。

「私ね。エッチな顔立ちでしょう? だから、男性からナンパされることも多いの」

 それは認めないわけにはいかない。五郎が見てもそう思うし、今までの自分であれば、好きになったりするのはおろか、見向きのしなかったに違いない。香織には、エッチなイメージ以外に何か感じるものがあるから、関係を持ってしまったのだし、関係を持ってしまったことに後悔もしていない。

 ただ、自慢めいたことを、なぜ今さら言うのだろう? 香織は自慢をするようなタイプには見えない。相手がウブな少年であれば、自慢することで、憧れを抱かせるか、あるいは反対に、嫉妬心を煽ることで、自分に振り向かせるための効果があるのだろうが、五郎のような男には通用しないことくらい分かりそうなものだった。

――疑念を持たせたいのかな?

 五郎がいろいろ頭の中で考えることの多いタイプの男性で、考えすぎることは、疑念を過大にさせ、香織のイメージを妖艶な雰囲気から、不可思議な雰囲気を持った女性というイメージに変えるのではないか。実際五郎は「謎多き女性」が好きであり、興味津々の目で見られることを香織は望んでいるのかも知れない。

 確かに香織は今までの女性の中で一番妖艶な雰囲気を持っているが、イメージとしては、友達の敦美の方が、エッチな雰囲気があったと思う。それなのに、妖艶な雰囲気を強く感じるのは、「謎多き女性」を感じるからだろう。「妖」の雰囲気が「艶」な雰囲気を上回っているからなのかも知れない。

「ナンパされるって、いくつくらいの人からだい?」

「若い子が多いわよ。二十歳代前後かしらね」

 香織の年齢をハッキリと聞いたわけではない。女性に歳を聞くのは失礼に当たるし、彼女も年齢には触れない。見た目は三十歳ちょっと過ぎくらいに見えるが、雰囲気は二十歳代の前半に見えなくもない。若い子が声を掛けたくなるのも分かるというものだ。

「ついて行ったりするのかい?」

「ついて行ったこともあるわね。彼らと遊んでいると結構楽しいわよ」

「それは、その、つまり……」

「エッチしたかってこと?」

「ええ」

「それはご想像に任せるわね。でも、私の言う遊びという言葉には、結構広い意味が含まれていることは事実よ」

 想像に任されてしまうと、どうしても最後まで行っているとしか思えない。別にそれでもいいのだが、なぜか嫉妬心が湧いてこなかった。

――若い連中に嫉妬してどうするんだ。今僕とは知り合ったばかりじゃないか、それ以前にはそれぞれの人生があったんだ。自分にもある。それをいちいち嫉妬していても、埒が明かない――

 もう一つ感じることは、

――香織に笑顔を感じないということだ――

 まったく笑っていないわけではなく、笑顔と表現できるものではないのだ。

 含み笑いであったり、苦笑いであったり、さらには、妖艶に歪む唇が、笑顔と言えるかどうかである。

 若い男の子には、年上に憧れる気持ちがどうしてもある。甘えたいという気持ちが強いので、笑顔を感じない香織に惹かれるのは不思議な感じもするが、普段笑顔を感じさせない女性が、自分にだけ微笑んでくれれば、これほど感動することはない。男冥利に尽きるというものだ。それが妖艶な笑顔であっても、男としては嬉しいものだ。

――僕も若い子に混じってみたい――

 若い子になった気分で、お姉さんに優しくしてもらいたいという気持ちもあった。香織の雰囲気から優しくしてもらえるとは思えないが、相手が甘えてくれば、お姉さん肌を示し、相手をしてくれるように思う。それでいいし、十分なのだ。

 香織の年齢が不詳だということは、五郎にとって好都合だった。敢えて年齢を聞かないのは、女性に年齢を聞くわけにはいかないという理由とは別に、もう一つある。勝手に年齢を想像して、自分から見た香織に対して、想像年齢相応の態度を示すことで、いろいろなサービスが受けられるように思えたからだ。

 年上であれば、甘えることもできるし、年下であれば、こちらが主導権を握ればいいのだ。

 態度がいろいろ変わると気にする女性もいるだろうが、香織に関しては、そんなことはない。

 香織の方でも、楽しんでくれるように思う。茶目っ気でも遊び心でもないが、どちらかというと、遊び心に近いだろうか。茶目っ気と遊び心は、遊び心の方には考えが後ろにあって、発想の豊かさが必要だったりするが、茶目っ気は見た目で勝負だ。見た目が違うことはないのに比べて、遊び心には発想が複数ある。それは余裕という意味も示していて、「ハンドルの遊び部分」というように、余裕のある部分を遊びの部分というのと同じようなものである。

 香織は、今までに何人の男性を相手にしてきたのだろう?

 何度かデートをするようになり、当たり前のように最後にはホテルの扉をくぐる。何回もデートしている中で、表で会う分には、ほとんど変わりはないが、いざ二人きりのホテルの扉の向こうでは、入るたびに、どこか変わっていく香織がいるのを感じた。

 最初は見た目そのままに「姉御肌」で、相手をしてくれていたが、そのうちに受け身が増えてきた。

 自分から出しゃばらないようにしているように見えるので、引いた部分は五郎が補っている。これこそ五郎が求めていた関係であった。

 今まで付き合ってきた女性たちは、表で雰囲気が変わることがあっても、二人きりになるとそれほど変わることはない。愛が深まったり、逆に冷めた気分になることはあっても、お互いの立場関係は変わらなかった。

 香織との関係はそれが逆だったのだ。

 ということは、今までの女性たちとの交際は、表での付き合いがメインで、二人きりになってからは、その気持ちを身体で確かめ合うというような補助的なものだったのかも知れない。香織との関係はそうではなく、メインは二人きりになってからなのだ。

 二人きりになると、他の女性たちとの会話は、世間話だったり、昔の自分の話だったりすることが多い、だが、香織と二人きりになると、香織は自分のことを一生懸命に話をする。それも過去の話ではない。今の話だ。

 将来の話まで出ることがある。それは表での妖艶な雰囲気からは感じられないもので、――裸の付き合いとは、本当はこういうことではないのだろうか?

 と感じさせるほどである。

 男同士の間で裸の付き合いという言葉を使うことは多いが、男女の間ではあまり言わない。言葉の主旨が違うのだろうが、香織に対しては、裸の付き合いの中には、淫靡なもの以外の友情のような感覚まで入ってきているような気がするのだ。

 そういう意味で、「大人の関係」と言えるのかも知れない。きっと、香織には、五郎の想像もつかないような過去を背負っているのではないかと感じるのは、思い過ごしであろうか?

 香織と付き合い始めて、表のデートが楽しくないというわけではないし、表にいる時から、すぐにでも二人きりになりたいという、欲望がこみ上げてくるわけでもない。その日のデートの最後に、二人きりになれればそれだけでいいのだ。こんな関係を以前から自分が望んでいたのかも知れないと、五郎は思うようになっていた。

 男女の関係は、人の数だけあると言っても過言ではないが、実はそれ以上なのかも知れない。それまで仲良くしていて、ベッドを共にしていた相手か、自分かのどちらかの気持ちが少しでも動いてしまうと、関係がもう一つ存在してしまうように思えてくるのだ。同じ相手を抱いているつもりでも微妙に感じ方が違えば、もはや、元に戻ることはできないだろう。五郎にそのことを気付かせてくれたのが香織という女性の存在であり、ひょっとすると、香織もそのことに今気付いていて、それを気付かせたのが言わずと知れた五郎なのだろう。

 最初よりも次の付き合いの方が、必ずいいとは限らない。以前の経験で教訓として身体に染みついているのだから、同じ過ちは繰り返さないだろうと思うのは、間違いではないだろうか。

 恋愛は成長していくものなのかも知れないが、恋愛感情が成長していくわけではない。前にひどい目に遭ったことで、似たような女性を好きになることはないかと言われれば、ないと答えられる人がどれほどいるだろう?

「俺は自信ないな」

 という人が結構いるかも知れない。

 実際に、五郎も今、そのことを感じはじめている。元々、五郎は逆を考えていた。最初に付き合った相手が一番よくて、次第によくない条件になっていくように思えるのだ。それは転職して、条件が悪くなるという感覚と似ているのかも知れない。少なくとも、以前は、

「どんどん男も女も年を取っていくのだから、少なくとも身体の関係としては、悪くなることはあってもよくなることなどありえない」

 と思っていたのだ。

「恋愛について真剣に考えてみたのは、香織と知り合ってからだ」

 結婚した相手までいるのに、恋愛について真剣に考えていなかったというのは、おかしなことだが、考え違いをしていたというわけでもない。真剣に考えていたと思っていたことは、慣れないのような付き合いをイメージしていたからだろう。もちろん、今まで慣れあいだったと言い切れないし、香織との仲も、慣れ合いではないとも言い切れない。付き合っていく中でのお互いの気持ちが、噛み合っているかどうかということだ。噛み合ってさえいれば、お互いに気持ちに余裕も出て来て、ベッドの中での会話も変わってくる。切羽詰ったような気持ちを相手にぶつけるのは決して余裕がないわけではない。相手にも自分と同じ気持ちにさせる迫力、それも大切なことだった。

 他の女性と付き合っている時は、それまでに付き合った女性と比較してみることも確かにあった。香織と付き合い始めても、以前と比較していないとは言い難いが、同じ比較でも次元が違っているように思えてきた。

 何が違うのかはハッキリとはしないが、単純な比較、同じ物差しでは測れない何かがあるように思える。

「香織だからなのかな?」

 とも感じたが、どうも違う。

「香織と付き合うことで、香織がそのことを教えてくれたんだ」

 と、思う方が正解ではないだろうか。

 今まで付き合った女性との比較の中で、香織は明らかに別格だ。大人の女性という表現がピッタリで、妖艶な雰囲気で大人を感じさせた外見からは想像もできないほど、考え方も大人だった。

 話をしていて、

――どこが大人なんだろう?

 と考えさせられるが、確かに漠然としていてハッキリとしているわけではない。

 ひょっとすると、香織も五郎のことを大人の男性だと思っているのかも知れない。今までどんな男性と付き合ってきたのかも分からないが、付き合ってきた男性を知ったおかげで大人になれたのか、それとも元々大人の考えを持っていて、人と付き合うことで研ぎ澄まされていったのか、そのどちらかなのかも知れない。五郎には、後者ではないかと思えるのだが、違うだろうか。

 もし、五郎と同じように、今まで付き合ってきた相手と五郎は、明らかに違う性格で、大人の男性だと思っているとすれば、お互いに醸し出すオーラは相乗効果を生み、お互い成長しているのかも知れない。

――お互いが成長する相乗効果を醸し出しているんだ――

 と考えれば、モヤモヤとしたものが晴れてくるように思えるではないか。

 香織が今まで付き合った男性の話をしないのは、したくないからではなく、する必要がないという確固たる気持ちの表れだ。そう思うと、五郎が、今まで付き合っていた女性をイメージしなくなった理由も分かるような気がする。

――比較するというレベルのものではないのだ――

 要するに、「格」が違うのだ。

 香織とのベッドの中で、香織な時々、哀願の表情を見せる。他の女性も見せていたが、その顔は、快楽に溺れた表情そのもので、愛おしさがこみ上げてきて、

「もっと愛してあげなければいけない」

 と、身体を貪る。自分の快楽も相手にぶつけることが、相手にとって求めていることと同じだという感が出あった。

 しかし、香織に対しては、同じ哀願の表情でも、そこには快楽だけではない。本当に切羽詰った感覚が見え隠れする。

――まるで、毎回今日が最後であるかのような圧迫感がある――

 だが、その中にも余裕があるからこそ、抱きしめることができる。余裕のない本当に今日が最後に思えるような雰囲気には、とても耐えられそうにもないからだ。

 確かに、今までのような感覚とは違っている。

「もっと愛してあげなければいけない」

 という思いは、今までの女性に比べれば強いのかも知れないが、自分の快楽に溺れ、相手にぶつけるかのような放出で、まかなえるものではない。

 今までであれば、放出してしまえば、そこから先は、精神的に一気に冷めてくる。男なら誰でもそうなのだろうが、香織に対しては、放出したとしても、興奮は変わらない。

 ただ、香織が相手であれば、放出がもったいないと思えるのだ。放出することが最終目的であり、後は惰性のようなものだと思っていた五郎には、最初は分からない感覚だった。――我慢することも快感の一つ――

 これを教えてくれたのも香織だった。

 他の女たちと比べて、快感は群を抜いていた。

――精神的にもピッタリ嵌っている相手だと、身体の相性もピッタリなのだろうか?

 と感じさせる。

 確かにそうだろう。今まで気付かなかったのは、そんな女性に出会わなかったからだ。出会えたことが本当に幸せなのかどうかは、すぐには結論が出るはずはない。それに、結論を出すのは自分ではないような気がするからだ。そう思うと、

――結論など出す必要はないのかも知れない――

 と感じるのだった。

 香織という女性、幻のように思うことがある。放出して身体が痙攣するなど初めてだが、そんな時に感じることだった。

 幻だと思っても、放出した後に訪れる気だるさがマヒしてくる頃には、他の女性が相手の時では、ハッキリと相手が自分の腕の中にいることが意識できるのだが、香織の場合は、逆にとろけてしまいそうになるくらいだった。しかし、気が付けば魔法は解けて、幻が永遠に続くのではないかという霧の中に迷い込んでも、一気に晴れ間が覗くのだった。

 香織が幻だとすると、香織は五郎をどう思っているのだろう?

 身体を重ねている時に、身体が宙に浮いている感覚を受ける時がある。それはお互いの体温が同じであれば、暖かさも冷たさも感じることなく、何となく違和感だけが残るであろう。

 しかし、体温が同じなどということはあり得るはずもない。きっと、お互いの順応性で、慣れてきた身体が同じ体温になろうと調整をしているからではないだろうか。

 風呂に入った時、最初熱さで身体が我慢できないくらいであっても、次第に身体が慣れてくると、体温が湯に馴染んでいるのか、熱さを感じなくなる。それと同じなのではないかと思うのだ。

 香織が幻のように思えてくるのは、体温を同じに感じる作用が働いているのかも知れない。宙に浮いた感覚が、落下してきた時に、着地点を見つけることができないのと同じで、ふわふわした感覚だけが残っているのではないだろうか、

――快感って一体何なんだろう?

 男としての快感は放出の一点に集中していると思っていた。

 放出してしまえば、その後に残るのは気だるさと、虚しさだけだった。今までの女性では虚しさの度合いの違いこそあれ、虚しさを感じないなどということはなかったであろう。だが、香織と知り合ってからは、虚しさはない。心地よい余韻が身体を包み、敏感になった身体がこそばゆいのは今までと変わらないが、こそばゆさだけではなく、暖かさを感じさせないほどの一体感を与えてくれる香織の身体は、本当に相性が合っているに違いないのだ。

 相性が合っているという言葉だけでは片づけられない何かがあるような気がする。相性の問題であれば、身体の相性、性格の相性、いろいろあるだろう。きっと心身ともに相性が合っていなければ、香織に感じたような一体感を感じることなどできないに違いない。

 香織は友達がほとんどいない。

「私には友達なんて不要なのよ」

 と言ってはいたが、五郎は香織を抱いたことで初めて香織の中に寂しさが蓄積されていることを知った。今まで付き合った女性の中にも寂しさを感じている人はいた。いや、誰もが多少なりとも、寂しさを感じている。同じ寂しさでも、香織はどこかが違っているのだ。

 友達がいらないと言いながら、

「五郎さんとは友達という意識が強いかも知れないわ」

 いつも二人きりで愛し合っている相手に対して、ここまでアッサリと言えるものだろうか。

――香織にとって、友達って何なんだろう?

 考えさせられるところであるが、香織の中には、少なくとも、慣れ合いが友達の定義のように思えていたのかも知れない。言葉では何とでも言えるが、いざとなれば、誰もが自分が可愛い。友達を自認するなら、もう少し相手のことも考えてあげればいいのに、と思う。

 可愛いのは自分だけという考えを否定するわけではない。自分を可愛いと思えない人が、人のことなど分かるはずもない。

 五郎もしょせんは自分が可愛いだけの一人だった。身体を重ねていて、二人きりになった相手であっても、しょせんは他人。妻であっても同じような思いだったが、裏を返せば、相手も自分に対して同じことを感じているということだ。

 カップルが別れていくのは、ここに原因があるのではないか。自分が可愛いという思いは、ジレンマを感じながらでも耐えることができる。しかし、相手も同じことを考えているのではないかと思った瞬間に、もう相手を見ることができなくなる。自分が可愛いという思いだけが残ってしまい、交際を続けていくことなどできなくなる。

 夫婦であればなおのこと、ずっと一緒に、半永久的に一緒にいる相手なのだ。あまり相手の考えを読もうとしない方がいいかも知れない。

――知らぬが仏――

 という言葉があるがまさしくその通り、自分だけが可愛いという意識に留めておけば、相手との仲がギクシャクしてくることもない。自分が下手に動くとまずいことを知るべきである。

 香織が、五郎の部屋に来たことはなかった。香織自身が五郎の部屋に行きたいと望むことがなかったし、五郎も香織を自分の部屋に招こうとはしなかった。それが暗黙の了解となっていたが、それには理由があった。五郎の方に香織をなるべく自分の部屋に招きたくないという理由があったのだ。

 馴染みのコーヒー専門店で相手をしてくれる女の子が、どうやら、同じコーポに住んでいるのが分かり、しかも、隣だということにずっと気付かないでいたのは、香織と知り合って、帰宅が遅くなったからだった。朝の通勤時間も、彼女とは合わない。彼女は昼前から出かけていくので、五郎が出勤する時間は、部屋にいるのだった。

 それがふとしたことで顔を合わせ、彼女のホッとした表情を見た時、何か懐かしい思いを感じたのだが、それがずっと以前に感じた懐かしさだったのか、最近感じた懐かしさだったのか、ハッキリとしてこなかった。

「おはようございます」

「おはようございます」

 お互いほぼ同時に声を掛けた。その日はちょうどゴミ出し日で、思わずゴミの袋を後ろに隠したのは照れ隠しだろうか。亭主が奥さんに頼まれて渋々ごみを出すのを見たことがあるが、自分が妻帯者だと勘違いされたくないという思いが働いたのも事実だ。

――彼女は、どう思っただろう?

 妻帯者なら、家庭の匂いが漂わせているのを他の人に見られるのが嫌だという気持ちも分かる。ただ、独身の五郎は、妻帯者だと勘違いされることを嫌ったのだ。

 ということは、

――彼女を意識しているということなのかな?

 香織という女性が今の自分にはいる。間違いなく、香織が今までに付き合った女性の中でも最高だと言えるだろう。それなのに、他の女性を意識するというのは、香織とはいずれ別れが来て、落ち込んだとしても、復活してくれば、好きになれる女性がいるころが、安心感に繋がるとでも思ったのかも知れない。まだ、好きだという意識が芽生えているわけではないのに、まるで保険を掛けているようで本当は嫌なのだが、無意識という意味でも、男の性のようなものなのかも知れない。

 その日は、話しらしい話しはまったくしていない。通勤時間はいつもギリギリなので、ゆっくり話をしている暇などなかったのだ。後ろ髪を引かれる思いで出勤するが、その日は彼女のことが頭から離れなかった。

 夕方になると、香織と会う約束をしていた。それを午前中くらいまで忘れていたほど、彼女のことを気にしていたようだ。考えてみれば、最初に気にし始めたのは、香織よりも最初だった。香織のことが気になり始めると、他のことは忘れてしまい、香織のことで頭がいっぱいになっていた。

 それがどうしたことか、隣に住んでいることが分かると、気になるようになってしまったようで、もし、彼女が隣ではなければ、気にしなかったかも知れない。ただ、そう思うと、余計に彼女のことが気になってくるようになった。

 彼女はどこにでもいるような普通の女性である。香織の印象が強すぎるので、平凡に見えるのかも知れないが、平凡が新鮮だと感じたのも、久しぶりのことだった。刺激の強さを新鮮だと感じていた時期があったが、本当はそちらの方が、十分変わっているのかも知れない。

 何が気になったかというと、笑顔だった。今までの五郎であれば、笑顔が一番気になるのは当然のことだったが、あらためて笑顔がステキな人が気になる自分に気が付いたのだ。笑顔は、意識して作れるものではない。笑顔にはその人の性格が滲み出ている。相手にどれほど興味を持っているかなどは、笑顔を見れば分かってくる。逆に笑顔でウソをつくこともできないというものだ。

 香織という女性を愛してしまった以上、他の女性に目を向けることは罪悪であることは分かっている。相手がまだどういう人なのかも分からないのに、気ばっかり逸った気持ちになるのもおかしなものだ。

 香織は十分魅力的で。今までの自分のまわりにいた人たちとはまったく違っていた。

――本当に愛すべき人が現れた――

 と思ったほどだが、他に気になる人が現れても、その気持ちは変わらないつもりだった。

 確かに変わってはいないが、他の人が気になること自体、自分でも信じられなかった。浮気癖とは違った意味で、他の人が気になる感覚、それが恋愛に対して、感覚がマヒしているからではないかと思うようになっていった。

――勘違いだろうか?

 恋多き人は、嫌われることが多いのだろうが、五郎にはその人が、ロマンチストに見えて仕方がなかった。

 彼女とは、ゴミ捨ての時以外は、お店でしか会ったことがなかった。もちろん、お店ではコーヒーの話以外にすることはない。名前を聞くのも戸惑ってしまうほどで、彼女の前に出ると、五郎は自分らしくないと思いながらも、何も言えなくなってしまうのだった。

 香織が一時期、

「少し、実家に帰る予定があるので、寂しいだろうけど、我慢してね」

 と、言って、一週間ほど、会えない時期があった。

「うん。分かった」

 と言って、愁傷に寂しさを表に出したが、心の中では、さほど寂しさを感じていない。香織のいない時間を、いかに過ごそうかと思うほどで、寂しさよりも、先を見ることができたのは、どうしてなのだろう?

 香織が実家に帰ってからすぐのことだった。香織と会うこともなくはなく、早く帰ってきた五郎の部屋を、彼女が訪ねてきた。

「こんばんは、夕飯作りすぎたので、おすそ分けにきました」

 ブザーが鳴って、扉を開けると、そういって、屈託のない笑顔を浮かべた彼女が立っていた。さすがにビックリして、思わず背中を逸らしてしまった五郎だが、すぐに気を取り戻して、

「ありがとうございます」

 と答えた。

 もう少ししどろもどろになってしまうかと思ったが、意外と落ち着いていたのかも知れない。彼女の持ってきたのはパスタで、トマトソースの香りが、心地よかった。

「まだ、たくさんありますので、よろしければ、家に来ませんか?」

 というお誘いを受けたが、すぐに返事をしかねていると、

「どうぞ、ご遠慮なさらないでください。らしくないですよ」

 と言って微笑んでいる。らしくないという言い方は、まるで五郎のことを前から知っているかのような口ぶりだった。戸惑いながらも知っていてくれているのだとすれば喜ばしいことだと思えてくる。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 と、言って恥かしそうに頭を掻きながら彼女の後を追うように部屋に入ると、扉をくぐった瞬間に、一瞬後ろめたさを感じた。それは、くぐってしまうと、元には戻れないという意識が働いていることを示していたのだ。

 今まで、女性の部屋に入ったことがなかった五郎だったが、想像していたよりも、質素だった。ただ、部屋の中に漂っている甘い香りは、鼻孔をくすぐり、何か自分が場違いであるかのような錯覚に陥っているのを感じていた。

 こじんまりとしている部屋にはソファーが置かれ、その奥に、部屋の大きさに比べて、少々大きいかと思えるようなテレビがあった。

「一人暮らしだと、テレビを見たりするくらいしか、お部屋の中での楽しみはないですからね」

 そう言って微笑んでいる。その時初めて、彼女の名前を知った。彼女は名前を里穂といい、引っ越してきたのは最近だという。

「最近引っ越してこられたのだったら、なかなかお会いすることはなかったとしても、それは仕方がないことですよね」

「ええ、でも、こっちに引っ越してきてすぐにあのお店で働かせてもらっているので、五郎さんとお会いした時の私は、右も左もまったく分からない時でしたから、お話ができただけでも、心強さを感じたんですよ」

「そうなんですね。この間お会いした時、お店との雰囲気が少し違っていたので、気になっていたんですが、そういうことでしたら納得できます」

「お店では、お客様相手ですから、変わらないようにしているんですよ。でも、あれから少しですけど、五郎さんがお店に来られると、気になるようになっていたんですよ」

「それは嬉しい限りですね。でも、態度が変わったようには見受けられなかったので、やっぱりさすがというところでしょうか?」

「これでもドキドキしていたんですよ。そのうちに五郎さんが見えられるのを、密かに心待ちにするようになっちゃって」

「そんな雰囲気は感じなかったけど、僕が鈍感なのかな?」

 そう言って笑うと、里穂も笑う。里穂の笑顔にはえくぼが浮かび、えくぼというものを初めて見たのを改めて感じたのだ。

「里穂さんは、コーヒーが好きなんですか?」

 コーヒー専門店で働いているのだから当然なのだろうが、まずは会話のとっかかりとして軽く聞いてみた。

「そうですね。でも、以前はまったく受け付けなかったんですよ」

「受け付けないというと?」

「飲めないだけではなくて、匂いがするだけで、気持ち悪くなっていたくらいで、自分ではまるでアレルギーではないかとさえ思っていたほどなんです」

「何か、飲めるようになったきっかけでもあるんですか?」

「ええ、私が短大の頃のお友達といつも喫茶店でお話していたりしたんですけど、そこのお店のコーヒーは、私が気持ち悪いと思っていた匂いとはまったく違った香りだったんですよ。騙されたつもりで飲んでごらんと言われて口をつけたら、嫌な気がしなかったんですね。それから、コーヒーが好きになって、それまで嫌いだった他のコーヒーも飲めるようになったんですよ」

「何が幸いするか分からないということでしょうか?」

「まったくその通りだと思います」

 五郎は、最初に入ったコーヒー専門店を思い出していた。

 そのお店に入った時、五郎の気持ちは、

――心ここにあらず――

 と言った感じだった。

 ワクワクソワソワした気分になっていて、自然と貧乏ゆすりをしているのは分かっていたが、止めることはできなかった。

 その時一緒にいたのは、大学の先輩だった。

「お前のためだからな」

 と言いながら、先輩はタバコの本数がどんどん増えていく。五郎自体はタバコは吸わないので、少し鬱陶しいと思ったが、先輩には逆らえないし、何よりも先輩がこれからお膳立てしてくれることに比べれば、タバコの煙など、たいしたことではなかった。

 大学に入学してから、友達があまりできなかったが、高校時代の先輩で、五郎のことを気にしてくれる人がいた。高校時代はあまり面識がなかったが、偶然授業で一緒になった時、お互いに、

――どこかで見たことがある人だ――

 と思いながら声が掛けられずにいたが、思い切って五郎の方から声を掛けると、相手は感激し、

「本当によく声を掛けてくれたよ。俺も声を掛けようかと思ったんだけど、なかなかね」

 と言って頭を掻いた。ひょっとして、五郎から話しかけなければ、ここまで仲良くはならなかったかも知れない。もし、先輩から声を掛けてくるようであれば、五郎が、先輩が感激してくれたほどの感動を受けるはずはないと思うからだった。

 先輩が感激屋だということだけで片づけられるものではないかも知れない。

 五郎は学生時代には、閉鎖的なところがあった、だから、なかなか友達もできなかったのだし、人から声を掛けてもらえるようなタイプでもなかった。それなのに、なぜその時先輩に声を掛けたのか今となっては思い出せないが、

――ここで声を掛けなければ後悔する――

 という思いが頭の中にあったようだ。

 確かに声を掛けたことが引き金になって、それからの五郎は友達も増えていった。ただ、先輩だけは別格で、尊敬するようなところも、学び取ろうと思うようなところも何もないのに、なぜか従う気持ちにさせるのは、先輩の持って生まれた人を惹きつけるオーラのようなものがあるからなのかも知れない。

 先輩も、友達の少ない人で、

「俺は最初から友達なんていらないと思っていたからな」

 と言っていたが。寂しさという意味では、どうしようもない気持ちがあるようだった。そうでもなければ、五郎が話しかけた時に、あれほど感動するはずもない。まったく第一印象をひっくり返すだけの強烈なイメージだったのだ。

 先輩は体格もよく、高校時代は柔道をしていただけのことはあって、頼りになる雰囲気は十分に醸し出していた。大学に入ってからはサークル活動をしているわけではなく、体格を生かして、肉体労働のアルバイトに精を出している。

「アルバイトをしていると、人間関係も楽しいぞ」

 肉体労働関係で仕事をしている人は、五郎から見ていると、怖くて近寄りがたい雰囲気に見えるので、先輩の話が半信半疑であった。それでも、先輩は学校に来るよりも楽しいらしく、毎日をほとんどアルバイトで潰していた。

 そんな先輩を、五郎は、半分呆れた目で見ながら、半分は尊敬していた。呆れた目で見ているところは、多分他の人と同じ感覚ではないだろうか。しかし、尊敬しているところもあって、最初はそれが何であるか分からなかったが、あまり考えないようにすることでフッと浮かんでくるものがあった。

――潔さなのかも知れないな――

 潔さという点では、五郎にはないものであった。潔さとはその裏に何があるかで、考え方が変わってくる。五郎には、それが「覚悟」という言葉に思えてならないのだった。

 覚悟は人によって大きさも違えば、持っている人、持っていない人、そこに気付く人、気付かない人と様々であろう。

 先輩は名前を、斎藤吉之助という。

「吉之助というのは、西郷さんの幼名で、親が西郷隆盛を尊敬していたことからつけたらしい。子供にとっては、困ったものなんだけどな」

 と言いながら豪快に笑った。

 なるほど、雰囲気も風格も、まさしく西郷さんにそっくりだ。親も先見の明があったというものだ。

 吉之助先輩は、風体はいかにも「ガキ大将」という雰囲気なのだが、意外と女性にモテる。頼りがいがあるというイメージなのか、先輩を慕ってくる女性も少なくない。本人が言うだけのことはあるのだろうが、

「俺は、結構頼りになるらしい」

 と、ほくそえんでいたが、女性と二人きりになるところを想像するのは難しく、考えたくない部類の発想だった。

 実際に五郎も悩みがあると、先輩に話をする。的確なアドバイスが返ってくるのだが、なぜこの人に男性の友人が少ないのか、不思議で仕方がなかった。

――嫉妬があるのかも知れないな――

 どう見ても女性にモテるタイプではないのに、なぜか女性に人気がある。しかも、自由奔放に生きているように見えて、悩みがなさそうな雰囲気が、男性陣の怒りに繋がっているのかも知れない。

 だが、そんな雰囲気だからこそ、女性にモテるのかも知れない。その他大勢の中で目立たない男性よりも、異端児であっても、目立っている方が女性から見て魅力があるのだろう。そう思うと、自分の中にある先輩への憧れの気持ちの一端が見えてきたような気がするのだった。

 大学時代に、女性と付き合ってもすぐに別れてしまう五郎を見て、

「何となく理由は分かるような気がするんだけど、でもこんなに続くというのも不思議な気がするな。きっとお前と付き合っていける女性は、本当に素敵な女性で、そんな女性はそのうちに現れると思うぞ」

 慰めにしか聞こえない。

「慰めはいいですよ」

 というと、

「俺が慰めだけで、こんなことを言うと思うか?」

 確かに先輩の言動には、ウソはない。それが先輩の一番いいところだ。

 その次にいいと思うところは、人懐っこさだ。

 雰囲気は、西郷さんなので、なかなか人懐っこさを感じるところはない。笑顔というよりも豪快に笑い飛ばす雰囲気は、人によっては、嫌いなタイプになるだろう。そんな先輩のことを五郎は頼もしいと思うが他の人は分からない。

 もっとも、五郎が人懐っこさを感じたのは、初めて会った時の、あの喜び方に感動を覚えたからで、最初のイメージが頭にこびりついて離れないのは、ツバメの子供が最初に見たものを親だと思い込む感覚と似ているのではないかと感じると、思わず吹き出してしまいそうになるのを感じた。

 そんな先輩と、一緒に入ったコーヒー専門店。そこは、今まで五郎が足を踏み入れることのなかった場所で、一人だったら、絶対に入り込むことはないだろう。先輩と一緒だからというよりも、無理やりに引っ張ってこられたというのが、本当のところであった。

 街の繁華街から裏路地に少し入ったところ、昼間でも、一人で歩くのは少し怖い。昼間は人の往来もほとんどない寂しいところだが、夜になると、一番賑やかなところとなるのだ。

 賑やかというよりも、煌びやかというべきか。一瞬にして光が色を変えて、艶やかさが淫靡な雰囲気を醸し出す。

 五郎が来るのは、実は初めてではなかった。一度、高校卒業の時に、卒業パーティと称して高校時代の友達と飲んだ時、帰りに皆で立ち寄ろうという話になった。

 五郎も途中まで来たのだが、

「やっぱり俺は」

 と言って、何人か臆病風に吹かれたのか、最初から来ない人がいた。五郎も正直臆病風に吹かれてしまったのかの知れないが、当時まだ女性を知らなかった五郎は、

――こんなところで、初体験を済ませていいのか?

 という自戒の念に囚われていたのも事実で、ちょうど好きな人がいて、その人に対して片想いではあったが、顔が浮かんできて、

――申し訳ない――

 と、何に対してなのか分からないまま、想像の中で謝っていた。

 それでも、欲望に勝てるものはないと思って、それを言い訳に、そのまま皆について行こうと思い、申し訳程度に恐縮し、皆の後ろを目立たないようについていった。

 皆の後ろをついて歩いていると、次第に皆の身体が大きく見えてきた。背が高くなっているのではなく、全体的に大きく見えてくるのだった。

 気が付けば次第に皆から遅れていく。大きくなっているのだから、皆の歩幅は自分よりも大きいのは当たり前で、何とか遅れないでついていくのがやっとだった。

 人の背中の大きさは、その人の技量だと思っていたので、その時も黙ってついて行きながら、

――僕は間違っていないんだ――

 と、言い訳だと思わないように、言い聞かせていた。それこそが言い訳になることを分からずにである。

 さっきまで足早だったはずの皆の足が急にゆっくりになった。思わず、そのまま誰かの後ろにぶつかりそうになっていた。

 その時、皆の姿が元に戻っているのを感じた。皆は前を見ながら、何かを躊躇っているようだ。

 すると、誰かの罵声が聞こえてきた。最初に行こうと言い始めたやつだったが、何か不満を漏らしているようだ。不満をぶつけられた方を見ていると、思ったより堂々としている。五郎は意見を一方的に言われている人を見ると、どういう内容であれ、押されているようにしか見えず、言い返すことをしないと、言い返せないほどに押されていると思い、その人は技量の小さい人だと思い込む方だった。

 だが、その時のその人は、押されていながら、どこか堂々としていて、一歩も引いていない。押している方が無理難題を押し付けて、自分が情けない人間だということを宣伝していることがわがままに繋がっていることを分かっていない。

「道の真ん中で、喧嘩なんてみっともないぞ」

 一人が割って入った。喧嘩になりかかっていたところを寸前で止めたというところだが、諌められた方は、まだ不満が燻っていたが、それ以上文句を言おうとはしなかった。ここで揉めてしまえば、気持ちが萎えてしまって、せっかく盛り上がっている流れに水を差してしまう。それは避けたかったのだろう。

 それにしても、五郎にはその人の姿しかまともに見えなかった。他の人は後ろ姿だけで、こちらを振り向こうとはしないのだった。

 争いに割って入った人も、見たことがない人だった。友達同士で出かけているので、知らない人が混じっているはずもないのに、どうしたことなのだろうか。

 そのうちに荒い息遣いが聞こえてくる。最初は一人だけだったのだが、次第に複数になっていって、それが人数分になったかと思うと、さらに増えてくるように感じられた。

――一体、誰の息遣いなんだ?

 自分の錯覚だと思えばそれだけのことなのだろうが、錯覚だと思いたかった。錯覚だとして隠してしまうと、いずれ、その思いが自分に降りかかってくるように思えてならなかったからだ。

 息遣いは、次第に多くなっていったが、ある一点を超えると、今度は減って行った。息遣いが重なり合っていくような感じだった。一人一人の息遣いが違い、線上に重なる一瞬だけを聞いたのではないだろうか。まるで数種類あるバイオリズムのカーブが、一瞬だけ重なってしまうかのようにである。

 しかし、一瞬重なったら、今度は少しずつ離れて行くはずなのに、一向に離れていく気配を感じない。

 息遣いは数人のものが一緒になってハーモニーを描いていたはずなのに、一種類と化してくるかのようだった。声だけが大きくなり、その声には切なさが込められてるかのようだった。

 その声が女ではないかと思えてくると、興奮が高まってきた。これから行くであろう場所でも聞けるのかと思うと、ドキドキして、心臓が破裂しそうな感じである。

 言い争いはいつの間にか終わっていて、今度は誰も口を開く者はいなかった。歩くスピードはゆっくりで、計ったようにゆっくりと歩を進めている。

――なんて気持ち悪いんだ――

 まるで死者を運ぶ儀式のように誰もが口を開こうとはせず、歩く姿も、誰が誰か分からないほど、同じだった。

 体格まで同じに見えてくるようで、さっきまで体格のいいと思っていた人までが、やつれてきているように見えた。

――こんな連中と一緒に行ったら、何が起こるか分からない――

 と思い、戸惑っていると、一人が急に悲鳴をあげた。

「どうしんだ?」

 と一人が声を上げたが、他の連中は何もなかったかのように歩いていく。取り残された人を庇いながら、こちらに顔を向けると、さっき喧嘩の仲裁に入った人だった。

――ここでは、この人だけがまともなんだ――

 と思ったが、自分もおかしくなっていると分かっていた。誰もが信じられなくなると、本当は最初に信じられなくなるのが自分であるということを、今ここで知ったような気がしたのだ。

 その時、一つの影が、動いた気がした。脱兎のごとく誰かが駆け出したのだが、それは、先ほど喧嘩をしていた一人だった。

 血相を掻いて駆け出していく姿が見えた。それは一瞬だけこちらを振り返ったからだったが、それを見た瞬間、五郎は急に臆病風に吹かれた。

 その男の後ろを追いかけるようにして逃げ出したのだ。

 後ろを振り返ることなく必死で逃げた。どこをどう走ったのか分からないが、怖くて逃げだした。

 そのくせ、頭の中では、

――明日、皆にどんな顔をすればいいんだ――

 と、余裕などないはずの頭で考えていた。

 考えてみれば、さっきいた連中は誰も知らないと思っている連中ではないのか。どこをどう間違えたのか、ついていく相手を間違えってしまったのかも知れない。他の連中は、今頃楽しい思いをしているかも知れない。それを思うと、無性に腹が立ってきた。今まで怖がっていたはずなのに、その思いはどこに行ってしまったのだろう?

 息が切れて、走れなくなると、自分が一体どこにいるのかが、また分からなくなった。目の前に角があり、とりあえずそこを曲がると、

「なんだ」

 思わずホッとした気持ちになったのは、なんだかんだ言っても、結局は戻ってきていたようだ。目の前にあるのが、自分の家だったからだ。

 ホッとして落ち着いてみると、今度は、不快感が現れてきた。

 その日、五郎が他の連中と一緒に風俗街に足を踏み入れようとしていたのは、家で面白くないことがあったからだ。親とはいつもいがみ合っている時期で、その時も些細なことから口論になり、いまだむしゃくしゃが治らない。そんな状態で家には帰りたくなかった気が付けばその場から立ち去っていた。

 家の近くの公園で、しゃがみこんでいると、時間が経つのがやたら遅く感じられ、気が付けば疲れ果てていて、気分的にはどうでもよくなって家に帰った経験があった。

 こんな思い出は忘れてしまいたかったが、せっかくの風俗に行けるかと思っていた気持ちはいまだに残っている。そして、本当に連れて行ってくれた先輩。

「お前はどうも風俗に対して越えなければいけない何かがありそうだ」

 と言われ、ドキッとした。まるで見透かされているようで、怖いくらいだったが、先輩に言われるのであれば、心配することはなかった。全面的な信頼を持てる人が先輩であり、安心感をいつも与えてくれていたのだ。

 その先輩が、五郎を風俗に連れて行ってくれるという。嬉しい思いと、以前の思い出とが交差して、複雑な気持ちになっていた。ただ、先輩に任せておけばいいのだという気持ちに変わりはなく、あまり余計なことを考えないようにしていた。

 風俗が初めてだということは、先輩にはすぐに分かったはずだ。五郎の気を落ち着かせるためだと思ったのか、連れていってくれた喫茶店がコーヒー専門店だった。その店は店内にはクラシックが流れていて、調度も結構暗めである。ソファーも深いので、眠ってしまいそうになるが、ぐっと堪えて、先輩と正対するのも結構きつかった。

 部屋の中はかなり暑かった。

「お前、顔が真っ赤だぞ」

 そう言われて、反射的に手を顔に当てたが、それを見て先輩は、してやったりのしたり顔になった。先輩の術中に嵌ってしまったかのようで、少し悔しかったが、次の瞬間には笑みが毀れてきて、却って緊張の糸がほぐれたようだ。

――さすがに先輩は緊張感を和らげるのが得意だな――

 と感じた。

 緊張感は、和らげられると、和らげてくれた人が、これからの自分の緊張感をコントロールしてくれるものにように思えてくる。自分が感じる緊張感ではありながら、人が介在することで、その人への信頼感が増してくると思うのは、勘違いであろうか。

 先輩は、時々突飛なことを言いだすが、それも豪快な性格のせいだと思うと、さほどビックリもしない。それに先輩のいうことにあまり大きな間違いがあるわけでもない。一緒にいて大きなけがをすることもないだろう。

 もっとも、そんな打算的な思いで先輩と一緒にいるわけではないが、一緒にいることで、自分だけでは味わえないことを体験できると思うとワクワクしてくる。

「そろそろ行くか?」

 先輩について立ち上がるが、その時、先輩も心なしか震えているのが見えたのにはビックリした。

――ひょっとして、先輩も緊張している? 先輩も緊張するようなところに僕はこれから行くんだ――

 と思うと、さっきまでの依頼心は薄れてきて、自分がしっかりしないといけないと思うようになった。

 これから以降、五郎は先輩を尊敬し一目置いていることには変わりないが、その中でも慕う気持ちは残っているが、委ねる気持ちは薄れていった。そこが自分の成長名のかも知れないと五郎は感じたのだ。

 先輩に連れられて入った店、想像していたよりも綺麗だった。色合いは淫らな雰囲気を壊さないようにしながら、清潔感を醸し出していて、高級感というのは、清潔感から溢れ出てくるものだということを改めて感じさせるものとなった。

「いらっしゃいませ」

 タバコを勧められたが、タバコを吸わない五郎は丁重にお断りし、ソファーに腰を沈めた。これから起こることに思いを馳せていると、大学時代に行こうとして途中で逃げ出したことを再度思い出した。

――あの時に行っていれば、どんな女性が相手をしてくれたんだろう?

 どんなサービスがあるかも知らないにも関わらず、勝手な想像で、思いを逸らしていた。本気で逸らしたつもりはなかったが、いつの間にか気分は、数年前に戻っていて、今ここで目の前にその頃の自分がいて、それなりの緊張感から固くなっているが、キョロキョロと周りを見渡している自分を想像してしまうのだった。

「はじめまして、綾香です。どうぞ、こちらに」

 と言って、ひざまずいて、なかなか顔を上げようとしない女性がいた。上から見下ろす感覚が、すぐに快感に変わり、丸くなっている姿が小さく見えた。自分がまるで王様にでもなったかのような感覚は、この部屋ならではなのかも知れない。

 相手の女性は、写真で選ぶことができるが、五郎はなかなか選ぶことができなかった。言い方は悪いが、高い買い物をするのに迷わないわけもないと思っているので、何も不思議ではないが、

「そんなに迷ったって一緒だよ。第一印象で決められないのなら、俺が決めてやる」

 と言って、

「じゃあ、この娘で」

 と、先輩が勝手に決めてしまった。

 別に悪いわけではない。決断力がないのは、五郎の悪いところだ。それを優柔不断という言葉で片づけてしまうのは、この場合適切であろうか? ただ、選んでくれた女性は、見た目気が強そうで、五郎のタイプではないと思えたが、顔を上げた瞬間に見た笑顔には、癒される気がしていた。

 綾香の声は擦れていて、ハスキーボイスだった。大人の雰囲気を漂わせる女性にはえてしてハスキーボイスが多いと思っていたので、ビックリはしなかったが、果たして自分のタイプかと聞かれると、ハッキリと明言できるまでには至らなかった。

 その頃はまだ、あどけないタイプの女性が好みで、大人の色香を漂わせる女性は苦手だと思っていた。

 バカにされるのではないかと思ったからだ。

 大人しいあどけなさの残る女の子だと、決してバカにされることはないという甘い考えだったが、そんなあどけない女の子から、もし相手にされないようなことを言われたら、立ち直ることもできないほどに撃沈されるかも知れない、

 綾香は、立ち上がると、五郎に抱き付いてきた。ビックリして一瞬たじろいだが、もちろん悪い気はしない。

「まあ、可愛い」

 五郎は、自分があどけない女の子が好きな理由を思い出して、一瞬可愛いと言われるとムッときたが、すぐに顔が綻んだ。腕にしがみついて、離さないその態度は、しかみついている手を、

「これは私のモノよ」

 と言わんばかりに必死にしがみつく姿を見ていると、可愛らしく思えてならない。

――お互いに可愛いと思っている関係というのも悪くないかな?

 と、身体全体がむずがゆい気分にさせられた。

――裸になるのもいいけど、もう少し、このまま一緒にいたいな――

 という気持ちを察したのか、綾香は五郎の服を脱がせようとはしない。目線は絶えず五郎よりも下で、決して見上げようとはしない。口元が怪しく歪み、会話がそこで途切れると、綾香はすかさず唇を塞いできた。

「うっ、うっ」

 一瞬、呼吸ができなくなるほど、綾香は吸い付いてくる。五郎も負けじと吸い付くが、それ以上に、身体を求めている自分がいることに気付かされる。

 ただ、それは自分の隙間を埋める思いであって、淫らな気持ちではない。お互いに腰を抱き合いながら、隙間を埋めようと必死になる感覚は、自分が求めている女性すべてに共通していたことだった。

 綾香が吐息を漏らす。その時は、本当に女性は気持ちいいと声を出すのかという疑問が頭の中にあったので、漏らした吐息が、どこかウソっぽく感じられたのだ。

 友達の家で初めて見たAV、自分でも密かに借りて、一人で見ていた高校時代が、懐かしいやら情けないやらで、照れ臭い思い出の一つでもあった。

「綾香さん」

「あん、嬉しいわ」

 興奮してくると名前で呼ぶ癖があるのか、それを綾香は悦んでくれている。生まれて初めて、女性に喜ばれた気がして、さらに五郎は有頂天になった。

 それまでの五郎は女性から鬱陶しがられることはあっても、喜ばれることなど皆無だった。付き合いたくない男性のランキングがあれば、きっとベストスリーに入ってしまうのではないかと思うほど、自分に自信がなかった。

 自分に自信がなかった理由の一番大きな理由は、異性に興味を持つようになったのが、他の人に比べて遅かったからだろう。晩生というべきか、本当に女性を気にし始めたのは、中学三年生の終わりか、高校に入ってからだったか、とにかく微妙だった。

 中学三年生の頃は、気になった女性はいたのだが、その娘が初恋だとは思えなかった。初恋なら告白を少しでも考えるだろう。だが、その時の五郎は、告白まで考えるほどではなかった。

 それなのに、高校に入学してから最初に好きになった女の子には、すぐ告白したのを覚えている。結局玉砕だったが、それが初恋だったのかどうか、大学時代のその時では分からなかった。

――ひょっとして、まだ初恋なんてしていないのかも知れないな――

 と感じたのは、綾香と出会ったからかも知れない。出会ったと言っても、その日、一定時間自分のモノにしただけのことである。

 五郎は、綾香に裸にされる気持ちに恥かしさはなかった。

 綾香の指先から、伝わってくる魔法の感触に、つい我慢できなくなってしまう五郎だったが、

「気持ちいいですか?」

 と言って、微笑みながら見上げてくる目に、一番興奮していたのかも知れない。

 綾香と一緒にいた時間は二時間弱だった。時間としては決して短くない。長いくらいではないか。だが、五郎はあっという間だったとかしか思えない。

「もっと一緒にいたかったのに」

 これが綾香が残してくれた言葉だった。この言葉に五郎は救われた。

 風俗に行ったことを後悔しないわけはないと最初から分かっていたが、少しでも気持ちを和らげられればいいと思っていたところに綾香の一緒にいたいという言葉である。一気に虚しさは消え、救われたと思ったのだ。

 綾香は、見た目細身で、大人のオンナの色香を体型からも漂わせているように思えた。

「若いからね」

 と、慰めの言葉を受けたのは、童貞であることを敢えて言わなかった五郎に対し、気を遣っているのだろう。

 もし、他の女性であれば、

「初めてなら仕方がないことよ」

 と言って、シラケられてしまったかも知れない。男としてはプライドをズタズタに傷つけられて、立ち直るまでにかなりの時間を要することになるだろう。

 初めての相手に、「初めて」という言葉がタブーなのを分かっていないのだ。相手は自分が主導権を握っていて、相手を従えているかのような気持ちになっていたとすれば、まるでヘビに睨まれたカエル状態ではないか。

 そんな状態で初体験などしたくはない。中には風俗で童貞を失うことを毛嫌いする人もいるが、相手のことを一番分かってくれる相手であるに越したことはない。そう思えば、どこに卑下する必要などあるというのか。毛嫌いしているやつの方がどうかしている。

 五郎は、綾香に感謝する気持ちでいっぱいだった。綾香は、人に感謝するという気持ちを教えてくれた最初の人だった。それを五郎は感謝の気持ちに変えている。これから人に感謝する気持ちを忘れないようにしようと思っていたのだが、どうしても、最近は、人に感謝する気持ちを忘れてしまって、すぐに怒るくせがついてしまっていることに気付いて、ハッとしてしまうことがあった。

 綾香は優しいだけではなく、相手がお客であっても、自分の意見は言う人だった。

「もっと、こうすれば、女性にモテるようになるわよ」

 あまり気を遣う方ではないくせに、人が気を遣ってくれないと、気になるタイプで、悪いくせだと思っていたが、どうにも人に気を遣うことを嫌っていた。それは、どうしていいか分からないということを含めて感じることであって、そんなことを助言してくれる人もおらず、そのうちに考えないようになると、人に気を遣わないのが自分の性格であると思い込むようになったのだ。

 痒いところに手が届くという考えに至れば、少しは違うというのもその時に教えられた気がした。

 身体で教えてもらったと言った方がいいだろう。敏感な部分をやたらに刺激するわけではなく、触るか触らないかのような仕草が、快感を呼ぶのだ。

 さらに、一番敏感な部分に辿り着くまでにたっぷりと時間を掛ける。キスに始まって、首筋、脇、そして、胸のまわり、足の先から上がってくる時も、同じだ、

 すべてが静寂の中で繰り広げられ、舌を使う淫らな音が小部屋に響いていた。それがこの部屋での儀式であり、もちろん、相手によって強弱の付け方や掛ける時間も微妙に違っているだろうが、マニュアルのようなものがあって、それにしたがって行われていることだった。

 本当は、マニュアルにしたがったものは好きではなかった。仕事であれば仕方がないと思いながらこなしているが、一旦仕事を離れれば、マニュアル化されたことは好きではなかった。

 どこに行っても同じような態度で接せられても面白くない。まるでファーストフードの接客のようではないか。

「ポテトはお付けしますか?」

 バラエティなどで、物まねされたりするフレーズは、きっとマニュアル化されたことに対しての皮肉が籠っているのかも知れない。

 身体中を淫らな舌が這い回った後には、すべてが平等に敏感になったような錯覚があった。もちろん、一番敏感な部分には、まだ触れていない。火照った身体は感覚がマヒしているのか、それとも、感覚のすべてが一番敏感な部分に集中しているのか、一番敏感な部分は、今にも悲鳴をあげそうだった。

――このまま敏感な部分にちょっとでも触れられたら、我慢できないかも知れない――

 と、感じたが。それでも、まだ綾香は何もしてこない。

 マニュアルに沿った「儀式」がある程度終了すると、身体に神経を集中させていた綾香が五郎の顔を見て、ニッコリ笑った。

 五郎もニッコリと微笑み返すと、綾香の表情が真剣な顔に変わった。それでも笑みは残っているのは、すごいと感じた。

「うっ」

 待ちに待った一番敏感な部分への攻撃、一瞬にして果ててしまうのではないかと思ったのに、耐えられそうな気がしてきたのは不思議だった。

「あれ?」

 快感は確かにそのままだったが、秒殺を想像していただけに、我慢できそうな自分が信じられないくらいだった。

――僕って我慢できるんだ――

 と、我ながら感心した。綾香は、舌を使って、刺激する。強弱をつけているのだろうが、五郎は、快感に酔いしれるだけで、じっと目を閉じて、瞼に写るであろう何かを想像していた。

 だが、なかなか瞼の裏に写ってくるものはない。

――おかしいな――

 心地よい快感に漂っている時は、何かしら瞼の裏に写るのだったが、今はまったく映らない。それが過去の思い出だったりするのだが、なぜか酔いしれる快感の中で、あまりいい思い出ではないことまで思い出すこともあった。

――与えられる快感では、何も映らないのかな?

 とも感じたが。それは少し違っていた。

 敏感な部分全体が暖かいものに包まれたかと思うと、一気に抑えられていた快感を爆発させようとでもするかのような快感が襲い掛かってきた。だが、それでもすぐには爆発しないのが分かった。それは、最初の刺激で、焦らされているような感覚が、爆発を抑制しているかのようだった。

――これがテクニックというものか――

 何が嬉しいかと言って、快感がずっと続くことである。最初は焦らされたような感覚に襲われている時は、

――この快感は永遠に続いてほしいし、続くような気がするぞ――

 という、不思議な感覚だったが、そこに力が加わると、

――爆発しそうなのに、耐えることができる――

 と、劣等感とは程遠い感覚で、さらには、爆発しても、いつものような推奨間などありえないと思うほどだった。

 これによって快感が増幅させられ、たっぷりあるはずの時間があっという間だったように思えるほど、時間の充実にも繋がっていくのだと思えてきた。

 その時に相手をしてくれた綾香のイメージが、隣の部屋に住んでいる女性と頭の中でダブってしまっている。どこが似ているのかと言われると、ハッキリとしたことは言えないのだが、漠然と、優しさが感じられるところだった。

 優しさというのは、漠然と感じられるものなのだろうか?

 以前、優しくしてくれる人のことを全面的に信じたことがあった。

――優しくしてくれる人に悪い人はいない――

 少しでも客観的に見ることができれば、世の中そんなに甘くないという考えが浮かんできてもよさそうなのだが、優しさに包まれてしまうと、まわりが見えなくなってしまい、それが、委ねる気持ちに変わってしまうのだ。

 五郎は、誰かを慕うことはあっても、委ねることは怖いことだと思っているが、その気持ちはこのあたりから来るのかも知れない。だから、自分を慕ってくる人には暖かく迎えてあげたいと思うが、委ねようとしてくる人間には、客観的に立って見るようにしている。

 なるべくそんな連中と、関わり合いにならない方がいいと思うようになった。

 綾香のことを思い出しながら、里穂の部屋にいると、コーヒーの香りが充満してきたことに気が付いた。五郎が物思いにふけっているのを、里穂は何も言わずに見つめているだけだった。

 里穂の目は大きい。綾香の目も大きいと思っていたが、さらに大きくて、

――これだけ大きいと、ハッキリとしたモノが見えてくることだろう――

 と思うようになっていた。

――正しいことだけが見える目を持つことができればいいのに――

 と思ったことがあった。

 正しいことばかり見える目を持っていれば、間違った道に足を踏み入れることはないという考えだが、これがどれほど安直な考えなのかということに気が付いたのは、ごく最近だった。

 香織と知り合ってからかも知れない。

 だが、最初に正しいことばかりが見えればいいのにと感じたのは、綾香を知ってからだった。

 この思いが大人になった感覚と結びついて、五郎には新鮮な感覚だった。

――綾香が、僕を大人にしてくれたんだ――

 今思い出しただけでもときめいてくる。

――今まで一番好きだった女性は和代だと思っていたが、それは間違いだったのかも知れない――

 どうして和代を一番好きな女性だと思ったかというと、一目惚れだったからである。一目惚れしたことに理由などないのだろうが、どこか和代には、人に言えない境遇があり、そこが自分の感覚に似ているところがあったからだったと思う。勘違いだなどと思ったことはなかったのに、今さらどうしてだろう?

 今感じるのは、和代を見た時、

――初めて会うような気がしなかった――

 というものだった。

 里穂と一緒にいることで、綾香を思い出した。今思えば、綾香のような女性を本当は好きだったのかも知れないと思うのも、無理のないことだ。

 初めて会うような気がしない相手というのは、それだけ自分の中に思いを抱いている人がいるからで、その人が綾香であるのだが、和代に感じた面影のある女性のことは、なぜか思い出せない。

 それが誰なのかというのはもちろん、いつ頃のことだったのか、ということすら、ハッキリとしない。

 きっと子供の頃のことに違いないが、相手が大人の女性だったのではないかという思いが頭を過ぎる。

 それはたまに夢に見るからだ。

 大人の女性に連れられて、知らない家に入っていく。家は豪邸で、大きな屋敷に彼女と、召使いのような老人と、さらにはメイド服を着たおねえさんもいたっけ。

 おねえさんと比較すると、彼女は、いつも真っ白い服に真っ白い帽子、いかにもお嬢様だ。判で押したようなシチュエーションに、それが夢であることを悟らせる。

 メイド服のおねえさんは、子供っぽい服装ではあるが、大人の色香を感じさせた。おねえさんは、逆に清楚な雰囲気での大人の魅力を感じさせる。子供の五郎には、眩しすぎて、目のやりどころに困ってしまった。

「どうぞ、召し上がれ」

 テーブルの上に、たくさんのお菓子やケーキが置かれている。今まで見たことがないようなお菓子だという思いと、こんなにたくさんのお菓子を見たことがないとう思いとが交錯していた、

 家では毎日お菓子の時間があって、おやつをもらって食べていた記憶があるが、満足できるような量ではなかった。中途半端で、却って欲求不満が溜まりそうなくらいだった。

 だが、その時に見たおいしそうなお菓子は、ちょっと口にしただけで満足ができそうなほどの高級感であった。フルーツや、チョコ、クリームがふんだんに使われていて、いかにも贅沢な食卓であった。

――食後のデザートであれば、これほど贅沢なものはないだろう――

 高級レストランでの食事をイメージしていた。その時の最後に出てくるデザートは、一度食べたら、忘れられなくなりそうだ。

 元々、ここのおねえさんとの出会いは、公園で一人でいると、

「おいしいお菓子があるわよ。いただいてみますか?」

 と、声を掛けられたのが最初だった。

 五郎は、時々一人で公園にいることが多い。たまに、誰かに見られているような気がしていたが、それがおねえさんだったのかも知れない。

 公園で一人でいる時、誰かから声を掛けられることを期待していた自分がいたように思う。それは、この時の記憶が残っていて、また声を掛けられたいという思いからなのだろうが、記憶の中ではどうも、おねえさんに会う前から想像していたことのようだ。

 ただ、思い出そうとすると、今まで知り合った女性の中に、彼女ほど清楚な女性を感じたことはなかった。今まで感じたことのない女性だと、今は思っているほどだ。

 それは夢だったのだと今では思っている。だが、舌に残る絶品の味は、忘れることのできないもののようだ。

 おねえさんの記憶は、食卓での記憶しかない。

「おいしい食べ物をくれるおねえさん」

 というイメージが頭の中にこびりついているのだ。

 テーブルの上に置かれたティーカップ。あの頃は知らないのも当たり前だが、タータンチェック模様が、派手でもなく地味すぎることもなく、綺麗な幾何学模様を映し出していて、五郎には、模様が一番印象的だったようだ、

 自分が犬になったような気がした。そして、

――犬になるのもいいかも知れないな――

 と、初めて感じたことだった。

 五郎が和代と一緒にいる時にも、同じようなことを感じたような気がする。

――犬になってみたい――

 黙って一緒にいるだけで、おいしいものを与えてくれる。その思いを初めて和代に出会った時に感じた。

 だが、それがその時だけだった。その後は主導権を握るのは自分で、和代には慕ってもらえれば嬉しかった。

 だが、今から思えばその時に感じた「犬」というイメージは今考える犬と同じものなのだろうか。

 犬というのは従順で、餌を与えれば、ホイホイついてくる。教え込めば「お手」や「お座り」もする。可愛がってあげれば、必ず癒しを返してくれる。それが犬というもののイメージだった。

 だが、和代と初めて会った時に感じた犬というのは、少し違っていた。

 春になると発情し、興奮すれば誰彼かまわず足に抱き付いて、腰を振るのだ。人間だったら、許される行為ではないが、犬だったら、

「きゃあ、可愛い」

 と、いやらしさを漂わせない。

 それは女性の方が恥かしさというものを分かっていて、まわりに悟られたくないという思いから、

「可愛い」

 という言葉で、ごまかしているのかも知れないが、見ている方も、恥かしさを感じずに済むことはありがたい。

――やっぱり、犬って得なのかな?

 今度生まれ殻ったら、犬に生まれてみたいなどという妄動を抱いたりもした。

 和代に初めて会った時に感じたというのが、不思議だった。

――どうしてこのタイミング?

 今から思うと、綾香に感じた女のイメージと同じものを感じたのかも知れない。

 おねえさんの家に行った時のことを、

――まるで犬になったようだ――

 と思った。

 犬になってもいいかも知れないとは思ってみたものの、やはり自分にはプライドがあると思うからこそ、夢だったと思ってしまうのだ。

 夢だと思っていたことが、実は本当だったりすることもあるかも知れない。本当だと思っていたことが夢だったことと、どちらの方が信憑性があるだろうか。夢だったと思うことの方が、現実味に掛けるのではないだろうか。前者の方は、夢であってほしいという願望が強いような気がする。

 かつて付き合っていた人のことを思い出す頻度が高くなってきた。その中には、一度だけの、しかもプロである綾香のことが含まれているのも不思議なことだった。

 それぞれの女性には、皆違った特徴がある。それが個性なのだが、一人のことを思い出していると、他の女性の面影が見えてきて、さらにその人を思い出す。性格もまったく違っているように思っていても、実は微妙に違っているだけで、皆似ているのかも知れない。

 同じ人間が好きになるのだから、似たような人を好きになるのは当たり前のことで、まったく違っているように見えても、探して見れば共通点は多いだろう。

 和代と別れてしまった時のことを、今、思い出そうとしていた。和代とは、別れが突然にやってきたかのようにあの時は思えたが、実は、その予感は、最初から燻っていたのかも知れないと思うのだった……。


「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 いきなり別れを告げられ、青天の霹靂だったが、後からいろいろな話が入ってきて、その理由が分からなくもないと思うようになっていた。

 和代が横田を意識していたのは、事実であって、意識していたところに、横田が現れたのだろうと、思うようになっていた。

 あの時に別れが訪れなければいけなかった理由、それは、五郎では、和代の心の中の溝を埋めてあげることができなかったということだ。ただ、五郎からすれば、和代の心の中の溝を埋めてあげられる人は、その時に誰もいなかったのだ。横田にはすでに不可能であったし、それができるはずの唯一の相手が五郎だったのだ。

――僕にできなければ、他の人にできるはずなどない――

 こればかりは、自信過剰ではなかった。ただ、逆に五郎だから、ダメなのかも知れない。それは横田が不可能であるのと理由は違えども、考え方としては似たところにあるのではないかと思うのだった。

 今から思えば、和代と喧嘩が絶えなかった理由の一つは、彼女の中の横田の存在を消すことができなかったからかも知れない。和代は横田の話を五郎にしてくれた。最初に感じた和代の性格からは、考えにくいことであった。それなのに、話をしてくれたのは、和代の中に、ある種の「覚悟」があったからに違いない。

 和代と横田の話は、まわりの人間には分かっていることであって、話をタブーとしていたのは、暗黙の了解だっただろう。中には面白がって、話をする人もいるかも知れない。秘密にされればされるほど、話したくて仕方がない人というのは、いるものである。

 横田のことは、まわりの人も腫れ物に触るような気持ちだったに違いない。和代と五郎の行く末を皆がそれぞれの思いで見ていたはずだ。

――うまく行ってほしいわね――

 という殊勝な気持ちを持っていてくれている人、さらには、

――いつかそのうち別れるわ――

 と、横田の時のように、別れを期待(?)してしまう人、こういう人ほど、事情も分からずに勝手に判断して、自分の中でそれを好奇心だと思い、色眼鏡を使って見てしまう人である。

 また、傍観者を装い、うまく行っても別れても、その時の流れで、話に参加しようと思っている人、それぞれではないだろうか。

 五郎は自分のことを、その中では一番最後のパターンだと思う。一番害がないようであるが、ただ、それほどものごとに関心を持たないタイプなのだろう。

 当事者になってみると、横田の存在がどうしても気になっていた。ある日を境に和代の態度が変わってしまったからだった。

 和代に告白し、和代から付き合いたいという返事をもらったあの日から、気になり始めたのは、三か月ほど経ってからのことだった。

 次第に明るくなってきた和代と、いよいよ将来のことについて考えなければいけないと思い始めた頃で、五郎の中は複雑な気持ちになっていた。

――まだ遊んでいたい――

 という思いがあった。

 遊んでいたいというのは、和代と二人の恋愛関係を保っていたい。このままがいい。という思いがあるからで、結婚を考えて、一緒になってしまうと、今の時期はもう戻ってこないという危惧があったからだ。

「結婚は人生の墓場だ」

 と、言われているのは知っていた。もちろん、結婚したわけではないので、何が墓場なのか分からない。

 結婚してしまえば、一人の女性に縛られて、他の女性を見ることができないというのが一番の理由であるのだろうが、五郎には浮気癖があるわけではない。最初から分かっていることなので、自分には墓場などという言葉は当てはまらないと思っていた。

 和代と一緒にいる時、まわりの女性が気にならないというわけではない。むしろ比較してみて、新鮮に見える女性もいる。目で追ってみたりすることがあるが、それは五郎のくせのようなもので、浮気癖とは種類の違うものだ。

 それも和代には分かっていることだ。

 街を歩いていて可愛い女の子がいたりすると、思わず目を向けてしまう五郎に対して、

「ほら、また」

 と言って、ふくれっ面を見せ、五郎の頬を軽く撮む。そんな時の和代の顔には、幾分かの笑顔が浮かび、責めているように見えるが、五郎にはじゃれあっているようにしか思えない。五郎に浮気癖がないことは、和代には分かっている。

「五郎さんの視線は病気のようなものよ」

 と、浮気癖との違いを、そういう表現で表してくれる。分かってくれている証拠だろう。

「でも、浮気癖も病気じゃないかな?」

 と、浮気癖という言葉をハッキリ口にしても、

「そうね」

 と言って、ニコニコしている。その顔を見ると、和代は五郎に浮気癖を疑っていないことを示している。

 そんな関係が二人の交際期間を象徴していた。

――この関係がずっと続いてくれればいいのに――

 と、五郎は望んでいた。

 それは、和代も同じなのだと思っていたが、実際にはそうではないようだ。結婚願望は和代には人一倍であることを、分かってあげられなかったことを、五郎は今でも後悔している。

 考えてみれば、和代は横田と結婚寸前まで行ったではないか、結婚できなかったことへの辛さは五郎には分からないが、さぞや、ショックだったに違いない。

 ただ、それだけに、交際期間を大切にしたいという思いも人一倍なのかも知れない。交際期間を充実したものとして積み重ね、そこで初めて結婚を考える。積み重ねたものがなければ、先を考えてもうまくいかないことを一番分かっているのが和代なのではないだろうか。

 もしここで、

「結婚しよう」

 と言って、和代にプロポーズすればどうなるだろうか?

 そんな思いを幾度となく抱いた。和代が戸惑ってしまうのは間違いないことだろう。

「まだ早いわ」

 と思うのか、それとも、過去のことを思い出して頭がパニックになってしまうかのどちらかであろう。

 だが、これは時間が解決するというものではない。プロポーズを受けるというのは、二人の間で蓄積してきた愛の重さだけで納得できるものではない。早ければいいというものでも、遅ければいいというものでもない。要するにタイミングの問題なのだ。

 結果的に五郎は、和代に対してプロポーズすることなく終わってしまったのだが、今はそれが心残りでもあった。

 別れてすぐのショックが大きく、精神的に落ち込んでいる時は、

「プロポーズする前だったことは、不幸中の斉和だったかも知れない」

 と思った。プロポーズして別れることになれば、そのショックはさらに大きなものだったに違いない。

――別れた原因で、和代の気持ちを分かってあげられなかったことがかなり大きいのかも知れない――

 と感じた。直接的な理由は違っていても、間接的には和代の気持ちを分かってあげられなかったことが、和代に別れを考えさせることになったのは間違いないだろう。

――直接的な原因――

 それは、五郎には関係ないところにあった。

 いや、関係ないというのは語弊がある。付き合っているのは五郎なのだから、和代のことをしっかり見てあげられていなかったのがいけなかったのだ。

 だが、相手の心の中、いくら最愛の人であっても入り込めない隙間もある。その人にとってのプライバシーは、いくら親であっても入り込むことはできない。そこに侵入できるのは。プライバシーの中で考えている相手だけだった。

 プライバシーほど微妙でデリケートなものはない。入り込むことができないといって、最初から無視したように相手が感じれば、人によっては、

「この人は自分のことだけしか考えていない。相手のことをちゃんと見ようとしてくれていない」

 と思われるだろう。

 五郎が別れるようになった理由の一番は、このプライバシーの読み違いがだったと思っている。普通であれば、

「そこまで僕に要求するような女とは付き合いきれない」

 と思っても不思議はないのに、和代に関しては、違っていた。一目惚れだったというのも理由の一つであるが、それ以上に、和代の中のプライバシーの部分で何があったのか、知りたいと思うのだった。

 最初は、まったく理由が分からなかった。お互いに愛を育んでいき、お互いに気持ちが盛り上がってきたところで結婚を考えればいいと思っていた。それは和代も同じ思いであり、お互いに気持ちも通じ合っていたと思っていたからだ。

――いつから、気持ちがすれ違うようになったのだろう?

 すれ違った感覚が、実は五郎の中にあった。思い過ごしかも知れないという思いもあった。心のすれ違いを感じれば、その時に少なくとも重大なことであり、何とかしないといけないという思いが頭を過ぎるであろう。しかし、その時の五郎には何とかしなければいけないという思いはなかった。それが、思い過ごしではないかという思いに至ったに違いない。

 別れることに、五郎は激しく抵抗した。

 それは、後から思い出すと顔が真っ赤になるほどの恥辱に満ち溢れていた。しかし、それでも、もう一度同じ状況に陥れば、

――また同じことを繰り返すかも知れない――

 とも感じた。しょせん人間は、辛いことがあって、それを記憶の中で覚えていても、同じことを繰り返してしまう動物なのかも知れない。本能だけではなく、意志というものが働いているからではないかと五郎は感じていた。

 実際に、今まで同じことを繰り返してきたと思うことはいくつもあった。それは過去の教訓を忘れてしまっているから、起こってしまったことではない。同じことを繰り返してしまったことを悔やみながらも、

――仕方がないことだったのだ――

 と、人間の性のようなものを感じていた。

 和代との別れの予感が、ずっと燻っていたように思ったのは、別れてからのショックが和らいでいくのを感じていく過程であった。

 すれ違うのが分かったような気がしていたように思ったのも、別れの予感が燻ってきているのが分かったからなのかも知れない。

――和代との別れのショックを、和代以外の女性でも感じたような気がする――

 それも、和代と付き合う前のことであるのだが、なぜかその時に感じなかったものを、今になって気が付いたのだ。思い過ごしだとしてやり過ごしてもいいのだが、一度思ってしまうと、気になってくるのだった。

 気になることがあると、とことん考えてしまわないと気が済まないのだが、その時は、そこまで気になって仕方がないわけではなかった。実際にその思いは一瞬だけのもので、その後には二度と感じることはなかったので、思い過ごしとして片づけてもいいはずだったのだ。

 だが、思い過ごしとして片づけられなかったのは、和代が五郎の知らない時間を作ることが増えたのに気付いてからだった。

 実はそのことにも気づいていたはずなのだが、プライバシーには侵入できないという思いがあったのと、和代が自分に隠し事をするはずなどないという慢心が、

――和代を信じることが自分の愛の形の一つだ――

 という信念の一つとして行き着いていたのだ。

 電話をしても、話し中の時が多かったが、その時に怪しむべきなのに、五郎は気にしていなかった。自分が愛されているという思いが慢心だなど、ありえないことだと思っていた。

 もちろん、

「昨日、電話してみたけど、話し中だったようだね」

「ええ、おかあさんから電話があって」

 と、最初に糾弾した時、即答で返事が返ってきたことで、次からは糾弾することはなかった。もし、そこで聞いていれば、どう答えたというのだろう?

 二度目はさすがに聞くことを戸惑った。

「私を信用していないの?」

 と言われたら、どう答えていいか分からなかったからだ。自分がどう返答していいか分からないことを、相手に聞くことを、五郎はできなかったのだ。

 その時に和代は何をしていたか? そのことを知ったのは、しばらくしてからだった。

「横田さんと一緒にいた」

 この話を聞いたのは、他の人からだ。誰だったか分からなかったが、噂になりかけていたので、最初の方ではなかっただろう。

 五郎は、怖くて和代に聞き質すのを戸惑った。その戸惑いが、結局は問いただすタイミングを逸してしまった。和代に事の次第を正すことができない間に、和代から別れの話が出たのだ。

――横田のことが絡んでいるのか?

 それ以外には考えられない。だが、問いただすことはもはやできなかった。この場で問いただすことは、自分から和代に引導を渡す覚悟がなければできないことだ。そんな勇気を持てるはずもない。

 五郎の性格からすれば、どうせ別れることが決まっているのであれば、今さら問いただすようなことはしたくない。喧嘩別れのようなことはしたくないという思いが強く、喧嘩別れをするくらいなら、理由が分からない別れの方がマシだと思っていた。

 だが、別れを切り出された時に、その気持ちが間違いであったことに気が付いた。

――こんな思いをするなら、問いただせばよかった――

 と、思ったが、青天の霹靂で頭の中がパニックになっている五郎には、すでに問いただすことなどできない状態である自分に気付かされた。

 別れの理由について、和代の答えは要領を得ない。もっともらしい話ではあったが、ごまかそうとしている素振りが見えるのだ。

 それは横田と会っていたという話を聞いていたからかも知れない。だが、もし聞いていなかったとしても、ごまかそうとする態度は、ずっと付き合ってきた五郎だからこそ分かるのだ。

 問いただせなかったことへの後悔の念が自分を苛めるだけではなく。和代に対しての不信感となる。かと言って、別れることに承知する気持ちもない、そのジレンマが、さらに別れを受け入れられない自分を苛めるのだ。

――一体、どうしろというのだ?

 訪れることなどないと思っていた別れを感じた時、それまで自分が和代に感じていたことでやり過ごしていた思いがあったことに気付かされた。その中にあったのが「すれ違い」という思いであり、横田というまだ見たことのない男性への言い知れぬ不安であったのだろう。

 横田の存在に恐怖を感じていた。直接的ではないのにここまで不安を感じさせるということは、逆にそれだけ和代を自分の中で大きくしている証拠なのかも知れない。

 和代を追いかけることだけが、五郎の中での優先順位となり、他のことは何も見えなくなった。相変わらず、和代は横田のことを口にしようとはしない。結局は何も言わずに別れるつもりだろう。

――それは卑怯だよ――

 和代に言いたかった。そして、それを言えない自分が腹立たしく、気持ちが複雑な堂々巡りを繰り返すのを、どうすることもできないでいた。

 出会った時のことを思い出す。告白した時を思い出す。そして、彼女から返事をしてもらった湖でのボートの上を思い出す。走馬灯は時系列とともに思い出させてくれたが、記憶が今に近づいていくにしたがって、時系列が崩れてくる。それだけ最近になって交錯しているに違いない。

 自分の中で膨れ上がる横田の存在は幻影でしかない。幻影はとどまるところを知らない。一度も会ったことがない相手だというのが、五郎には引っかかっていた。

――会ったことがない相手から苛まれるなど、これほど辛いことはない――

 と感じていた。

 不安が恐怖に変わったであろうその時のことを五郎は覚えていた。夢を見たのを思い出したからである。夢は目が覚めるにしたがって忘れ去っていくことが多いが、その時も夢を見たことさえ忘れていた。

――嫌な夢なら、覚えていそうなものだが――

 その時の夢は、一人の男が自分から、和代を奪っていく夢だった。顔は逆光になっていてハッキリとしないが、その人が横田であることは、その時の状況で分かった。もっとも、顔が見えないと分かった瞬間から、夢だとは分かっていたように思えるが……。

 横田のそばにいる和代の表情は、最初の一瞬しか分からなかった。その顔は嫌な顔をしていない。隣にいる男を慕う顔だった。そう思った瞬間、和代の顔や表情を確認できなくなってしまったのだ。

「和代」

 五郎は声を掛けたが、和代はそれに答えようとはしない。

――どうして無視するんだ?

 和代であれば、無視するなど考えられない。自分の立場が良かったとしても、相手が五郎であれば、何かしらの反応を示すはずだ。

 喧嘩が絶えなかったのがそのせいである。

 立場が弱くても、和代に対してだけは、反応を示すのは。五郎も同じことだった。

 五郎は、元々気が弱い。実際にまわりからも、気が弱いと思われていることだろう。少しでも言いこめられると、答えようがなくなり、何も返事ができなくなってしまう。

 現在の仕事の上でも同じことが言える、

――どうして克服できないのだろう?

 ついつい楽な方へと逃げてしまう。

 言い返すことができないのは、先を読んでも結局同じところに考えが戻ってくるからだ。堂々巡りを繰り返してしまうことで、五郎は相手の答えを予期すること自体怖くなる。予期したことが当たっていれば当たっているほど、自分が逃げられないことを悟るからであった。

 今の五郎は女性と付き合っても、喧嘩をすることはなかった。妻であった敦美とも喧嘩をしたことはない。それだけに離れていた時の敦美は、今までで一番怖い存在になっていた。それは和代との別れの時に感じた和代に対しての怖さとは比べ物にならなかった。

 和代に対しては、

「どうしてなんだ?」

 という思いが強かったが、敦美に対しては、本当に怖いと感じ、できることなら、時間が戻ればいいと、一瞬だけだが思ったほどだ。

 五郎が、

――時間が戻ればいい――

 などと考えるのはよほどのことで、今まで、同様のことを考える人の気持ちが信じられないと思っていたのだ。

 時間が戻ったとしても、戻る時間がほんの少しでも狂えば、そこからの人生はまったく違ったものでしかない。

 きっと戻った時間からその先の将来に対して、それまで培ってきた気持ちは消え失せているに違いない。戻った瞬間に気持ちが戻るだけなのだ。そうでなければ、そこから邪推が働き、先を見誤るに違いない。いわゆる時間に対しての「タブー」と言ってもいいだろう。言い方を変えれば、「パラドックス」である。

 パラドックスとは、逆説の意味。逆も真なりという言葉があるが、それを証明した形がパラドックスと言えなくもないだろう。

 戻った時間から、新たな人生がやり直せる。そんなことは不可能だと思えるが、ひょっとして夢だと思って見ていたことで、目が覚めてから、何か理由は分からないが、言い知れぬ不安とともに、どこかに分からない異変が隠されている時があれば、その時は、

――人生をやり直しているのかも知れない――

 と思うことも決して間違いではないような気がしてきた。

 今こうして和代のことを思い出している自分は、「思い出している」分過去に戻っていないことは分かっている。だが、やり直そうとは思わないが、過去を変えたいという思いがあるのも事実だ。それは自分を変えるわけではない他力本願的な考え方だ。他力本願は、本来五郎は好きではない。だが、まわりが変わることでその中に置かれる自分の立場を変えてみたいという考えはありではないかと思うのだ。

 ただ、五郎は和代との人生をやり直すことを望んでいない。やり直すには、それ以降の人生を経験しすぎた。あまりにも遠い過去になってしまっているのだ。だからこそ、思い出すのであって、近い過去であれば思い出すことはないだろう。思い出すという行為は、ある程度過ぎ去ったことでしか成しえないということを感じているのは、五郎だけではないだろうか。

――本当にやり直したいとは思わないのだろうか?

 それは和代とのことを考えて思うことであった。敦美のことは、やり直したいと思うにはきっと近すぎる過去なのだろう。ひょっとすると、和代との過去に一定の決着がつけば、敦美のことも考えることだろう。

 敦美とのことをやり直したいとは最初から思わない。やはり「怖い」というイメージが強いからだろう。

――ではなぜ、和代との人生をやり直したいと思わないのか?

 それはやり直そうにもどうしてもできない理由があるからだ。それは和代との距離を今以上狭めることができないからだ。

――どうしてできないんだ?

 理由は簡単。二人の間に一人、大きな存在の人物が立ちはだかっているからだ。しかもその人は、五郎を絶対に寄せ付けない。それは、永遠にである。

――永遠に?

 この言葉がある以上、五郎は和代に近づけない。

――永遠?

 それは、その男がもう、この世の人間ではないからだ。五郎にとって大きな存在になってしまった男、横田は、すでに他界していたのだ。

 和代はそのことを知ると、最初は、

「自分には関係ない」

 と思っていたようだ。

 その証拠に、ある時期から、急に精神状態がハイになり、まるで子供のようにはしゃぐ時期があった。何も知らない五郎は、

「おかしいな」

 と思いながらも、まさか和代の精神状態を蝕むようなことが起こっているなど、思いもよらなかった。

 ハイな状態はしばらく続いた。一日や二日であれば、問題なかったのかも知れない。それが数日も続くのだから、おかしいと思えば思えなくもなかったはずだ。それなのに、おかしいと思わなかったのは、和代のことを、本気で正面から見ていなかったのかも知れない。

 そこには油断があった。後は結婚するだけで、何も心配いらないという思いがあったのだ。

 ふと、思うと、そういえば、和代も横田と結婚寸前まで行っていたというではないか。

――和代もその時の僕と同じような感覚だったのではあるまいか――

 五郎はそう思ったが、思った瞬間、ゾッとしたものを感じた。

――辛かった思い出を、さらにそれ以前に、好きだった相手も経験している――

 しかも、自分とは違う男である。

 五郎の気持ちの中に寂しさを感じた。それは一人ぼっちの寂しさとは少し違っているのだが、根本は同じである。

――和代には、自分と知り合う前に好きな男性がいた。しかもその人とは結婚寸前まで行ったんだ――

 という事実を頭の中では分かっていたつもりでも、実際に事実として受け止めることができていたかどうかである。受け止めることができていなかったからこそ、一緒にいて幸せだと思っていた時期でも、何か寂しさを感じていた。それは不安ではなく寂しさだ。不安であれば解消しようと思えたが、寂しさは解消することのできるものではなかった。

――寂しさとは自分だけが感じているもの――

 そのうちに解消されるものだという他力本願だったのだ。

 解消されたと思っていた。寂しさは次第に薄れていったからである。だが、それはなくなったわけではなく、

――限りなくゼロに近いだけのもの――

 でしかなかったのである。

 いつまでも消えずに燻っていたことで、存在すら忘れてしまっていたことで、心の奥に引っかかっているものが何なのか分からなくなっていたのだろう。

 一人ぼっちの寂しさを感じたことが、果たして五郎はあっただろうか?

 一人ぼっちの寂しさとは違うと思うのだったら、一人ぼっちを感じたことがあるはずだ。だが、思い返してみれば、今まで一人で孤独だと思ったことはなかった。確かに一人だったことはあったが、孤独感こそ感じていたが、そこに寂しさという感情は存在していなかった。

 寂しさを今までに感じたことがないわけではない。では、一人ぼっちではない寂しさを感じたことがあり、それが、和代との間で感じた、

――一人ぼっちの寂しさ――

 とは別物であったように思えたのだ。

 同じ一人ぼっちの寂しさでも、相手によって感じ方が、ハッキリ分かるほど別物なのだろうか。もし、そうだとすれば、現実と思い出を完全に分けて考えていたことになるのだろう。

 現実とは、言葉通り、現在感じていること。それは一瞬一瞬で変わってくる。そして現実は次の瞬間、過去に回るのだ。過去は蓄積され、さらに大きくなる。もっと昔の過去は弾き出されて、そのまま記憶の奥に封印という形で収められるのではないだろうか。

――まるで数学のようだな――

 そう簡単に割り切れるものではないだろうが、理屈として考えるなら、こう考えるしかない。理屈が悪いというわけではない。何かがあって頭の中が混乱し、理解させようと思う時には、理屈が必ず必要になってくる。

 考えようとしなくても、本能が理屈を引き出してくれるに違いない。

 五郎が和代に対して感じたのは、

――絶対手放したくない――

 というものだった。

 どんなに卑屈に思われようとも、和代を離したくない。その思いが五郎をストーカーのようにさせてしまった。さすがに警察沙汰にはならなかったが、犯罪一歩手前まで行ってしまっていた。

 その意識を、五郎はすでに忘れてしまっている。都合の悪いことは忘れてしまいたいと思うのは五郎だけではないだろうが、簡単に忘れてしまうのは、五郎の悪いくせだった。

 そういえば、最近忘れっぽくなってきた。覚えていないといけないようなことを、忘れてしまっている。覚えていることができないのだ。どうして忘れっぽくなってしまったか、五郎自身には意識がない。もちろん、今でもその意識はない。だが、女性と別れる度に、自分の中で忘れてしまいたいような醜態を繰り返してきていて、そんな自分を認めたくないという思いから、その時の都合の悪いことはすべて忘れてしまってきていた。

 今までに付き合った女性と、どうして別れることになったのか分からないと思っている人もいた。都合の悪いことを忘れてしまったのだと考えれば、別れることになった理由が分からないのではなく、自分にとって都合の悪いことだったから、覚えていないだけなのかも知れない。

 いや、覚えていないというよりも、記憶の奥に封印してしまったと言った方が正解かも知れない。覚えておこうという意識どころか、忘れてしまいたいと思いながら、忘れることができず、心の奥に封印してしまう。それが五郎の習性なのではないだろうか。

――心の中に封印してしまったものが、パンクしたりしないのだろうか?

 そんな危惧を抱いたりしたが、それは、いっぱいになったら、過去の記憶から本当に消去されているのではないかと思ったからである。消去する時に、自分の中の優先順位を精査してから消えているのかが気になったからだ。もし、精査せずに消えてしまっているのであれば、覚えておきたいことが永遠に思い出せなくなってしまう。

「思い出したくないことだけを消していけばいいのに」

 元々都合の悪いことばかりを封印してきたもので、パソコンでいうところの「ゴミ箱」と同じではないか。そう思えば、古いものから消えて行ったとしても、どこに問題があるというのか。もしここで順番に消えていくことが気になるのであれば、根本の考え方が分かってくる。何とも虫のよすぎる話ではないだろう。

 ショックから立ち直れなかった時期は、自分にとって地獄であったが、まわりを巻き込んだ地獄であった。立ち直ったと思ってからも、五郎は立ち直れないでいた時期を、自分のせいだとは、まったく思っていない。少しは悪いところがあったのではないかと思うが、和代に対して悪いことをしたとは思っていない。

――僕から離れようとしたのが悪いんだ――

 と思っているのである。

 ただ、それは五郎が落ち込んだ時に考えることであって、普段考えることではない。和代のことを思い出しても、もうショックはないし、思い出すことと言っても、悪いことを思い出すわけではなく、楽しかった時のことを思い出すだけで、「美しい思い出」として残っているだけだ。

――ということは、やはり、都合の悪い思い出したくない思い出は、封印していた記憶から消去されてしまったのだろう――

 和代と別れてから、いろいろあった。中には思い出したくない思い出も、かなりあったはずだ、そう思えば、和代に対しての都合の悪い思い出は、忘れ去ってしまったに違いない。

 何と言っても、横田がこの世にいないことには参ってしまった。生きてさえいれば、

――「ライバル」として戦うこともできたであろうに――

 とも感じる。もっともライバルと感じることも癇に障ることではあったが、運命の悪戯に自分が抵抗するためには、嫌な思い出は封印して、思い出さないようにしようと考えるしかなかったのである。

 五郎の人生は波乱万丈だと思っているが、その一つが、横田がこの世にいなかったという事実である。これは和代との別れよりも精神的にきついことだった。もちろん、輪の中心にいるのは和代であり、五郎は横田という男性と一度も会ったことがない。それなのに、和代と付き合っている間も、絶えず何かに怯えていたように思えたが、それが五郎の存在であったということは、和代が別れを言い出した時に分かった。横田の死を五郎が知ったのは、かなり後になってからだ。和代との別れのショックが続いていた時であったが、脳天をぶち抜かれたような気がする事実であった。

 まったく理由が分からないと思っていた別れに対し、横田の死が伝わったことで、さらに五郎にはこの時の別れが、

――自分には関係のないことなのだ――

 と思うに至る事実でもあった。


「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 和代に対して行なったであろうストーカーまがいの行為が、五郎の中で、

「和代が、今まで一番好きだった相手だ」

 という思いを植え付けたのかも知れない。

 確かに今でもその思いは消えていないが、それを差し引けば、一番好きなのは、香織である。

 香織には大人の色香だけではない。節度のようなものがあり、ストーカーまがいのことまでしてしまった五郎を自ら戒めることができる唯一の女性だ。

 学生時代の友達から、

「お前と付き合う女性は、本当にできた人なんだろうな」

 と言われたことがあったが、五郎は今さらながら、その言葉を思い出す。だが、それは五郎に対しての皮肉であることを本当は分かっていない。

――自分ができた人間だから、できた人がついてくるんだ――

 くらいに思っている。

 勘違いも甚だしいが、香織であれば、五郎の勘違いも、本人を傷つけることなく、勘違いだと気付かせることができるかも知れない。友達が言いたかったのは、本当はそこだったのではないだろうか。五郎にはその考えの足元にも及ばないであろうが、香織を好きになった同じ時期、コーヒー専門店のウエイトレスも気になっていた。里穂のことである。

 二股を掛けるつもりは毛頭ないのだが、気になってしまったものは仕方がない。ただ、これも気持ちに余裕があるからなのかも知れないと思うのは、都合の悪いことは無視してしまう五郎の悪い性格によるものではないだろうか。

 里穂は、お姉さんというイメージが強い。子供の頃にお姉さんがほしいと思った。それは女性を意識するからというわけではなく、慕いたいという人がほしいと思ったからだ。

 それは親ではいけない。親は口うるさいだけの存在だと思っていたからである。同じ子供の立場から、少し上から目線で見られてみたいという思いがあった。五郎には弟はいたが、女姉妹はいなかった。

 中学に入った頃だっただろうか。母親から、

「本当はあなたにはお姉ちゃんがいたのよ」

 と聞かされた。なぜ中学になるまで教えてくれなかったのか分からなかったが、ひょっとすると母親も、五郎の中に姉という存在が特別なイメージとして固まってしまっていることに気付いたのかも知れない。小学生のまだ女性を意識していない時期に姉の話をしてくれていれば、少しはお姉ちゃんというイメージが変わっていたかも知れない。

 教えられた方がよかったのか、教えられなかったからよかったのか、五郎には分からない。当の母親にも分かっていないだろう。

 お姉ちゃんは、五郎が生まれる前に死んだのだという。死産というわけではなく、生まれてから一か月は生きていたという。

 由美という名前を聞いたのも、もちろんその時が初めて、五郎はこの名前が好きだったが、姉の名前だと聞かされてから、同じ好きな名前であっても、別格になった。

――もし、好きになった人の名前が由美だったら、どんな気分になるだろう――

 どちらかというと細かいことを気にしないタイプの五郎なので、深くは考えないかも知れない。

――死んだ姉の名前だった――

 ただ、それだけのことであって、五郎にはどうすることもできない。好きになった人の名前が由美だったとしても、それも仕方がない。名前で好きになる人を選ぶわけではないからだ。

――お姉さんが生きていれば――

 何度か考えたことはあったが、それも中学の頃だけだった。高校生になってから、姉のことを考えることはあったが、生きていればという、ないものねだりの考えは抱いたことがなかった。

 なぜなら、生きていたらと言われて、その後、何をどう考えていいか分からないからである。

 生きていれば、自分の人生の何かが変わっただろう。しかし、いい方に変わるのか悪い方に変わるのか、まったく想像がつかない。

 今、五郎は香織と付き合っているのに、どうしてこんなにいろいろな女を思い出すのだろう。確かに敦美と付き合っている時でも、和代のことを思い出していた。だが、同じ和代を思い出すとしても、敦美との交際期間、結婚期間を含めて思い出すのは楽しかった思い出だけなのだ。

 それなのに、香織と付き合っている今は、和代本人というよりも、その後ろに見え隠れしている横田の存在に怯えているのだった。

「一度も会ったことのない人であり、さらに今はこの世にいない人に怯えてどうするというのだ」

 と自分に言い聞かせるが、返ってくる答えは、

「この世にいないからこそ、怖いんじゃないか。この世にいれば対策の打ちようもあるというものだ」

 確かにこの世にいないということは、怖いことなど何もないはず。しかし、五郎の中で中途半端に何かが残っているようで、それを確かめることができないのが、気持ち悪いのだ。

 横田という人間のことは、ほとんどと言っていいほど何も知らない。和代と付き合っていた頃にパートのおばさんたちから聞いた数少ない情報だけだ。

「いつも大人しそうな人で、お母さんを大切にしているところがいじらしかったね。和代さんと付き合っている時は、うまくいってほしいって思ってたよ。そうじゃないと、二人とも浮かばれないような気がしてね」

 と、ここまで言うと、

「あっ」

 と言って、口をすぼめた。表情は、

「しまった」

 と告げている。相手が五郎でなければ問題ないのだろうが。今の彼氏に前の彼氏の話をするのに、うまくいってほしいという言葉はないだろう。五郎はそれでニッコリと笑っておばさんが傷つかないように配慮した。

「そうかも知れませんね」

 と、一言答えたが、その時、横田の話にはどうやら暗黙の了解の緘口令が敷かれているかのようだった。だから誰も話したがらないし、その時おばさんが少しだけでも話してくれたのは、その時の五郎の雰囲気に圧倒されたからなのかも知れない。

 和代と横田の交際は、会社を巻き込んだもののようだった。社内恋愛なのだから、当然のことだが、五郎までもが、同じ轍を踏んでしまうとは、誰が想像しただろうか。別れが訪れた後、おかしくなってしまった五郎に会社が出した結論は転勤だった。それはまさしく横田と同じ運命なのではないだろうか。

――あの人との違いは。僕はまだ生きているということかな?

 和代と別れて、もう十年以上も経っているというのに、未練がましいと言われても仕方がないが、不思議と五郎の中に、和代への未練はない。その証拠が敦美と一緒にいる時に思い出す和代との思い出が、楽しいことばかりだったからである。すでに五郎は、和代とのことを「楽しい思い出」としていたのだ。

 どうしても和代のことを忘れられない理由は、やはり五郎が原因である。五郎の死は、実は自殺だったのだ。

 もし、五郎の死が自殺でなかったとすれば、和代は五郎と別れることをしなかったかも知れない。

 もちろん、自殺の理由は分からない。自殺だというのも噂で聞いただけでハッキリとしたことを信頼のおける人から聞いたわけでもない。ましてや、和代の口からは、横田が死んだということすら聞いたことはなかった。信憑性などどこにもないのに、五郎は信じて疑わなかったのである。

 和代が、五郎の前から姿を消そうとしていたのは事実のようである。会社を辞めて、一人でどこか知らない土地に行くつもりだったということは、和代の口から聞かされた。横田の死を知らなかった五郎には、まさに青天の霹靂、これほど辛いことはなかった。

 横田の話で、一つ信憑性のある話を聞いたのは、彼は転勤して行った先で結婚したということだった。それを聞いたのは、和代が五郎の告白に答える少し前のことだった。だからあの日、和代が誘った時、交際をスタートさせられることを、信じて疑わなかったくらいである。

 その五郎が、和代から別れを告げられる少し前に、行方不明になったという話を噂で聞いた。これこそ信憑性のない噂として五郎は真に受けなかった。結婚して幸せな生活を送っているはずの新婚生活を捨てて、なぜに行方不明にならなければいけないというのだ。横田の話は突拍子もないことが多すぎる、何を信じていいのか分からなくなるのも当たり前で、この時のイメージがあるから、五郎は、横田のことが忘れられずにいるのかも知れない。

 五郎は、和代のことも忘れられなくなったのは、別れてから五年が経った頃のことだった。

 和代は、五郎と別れてから二年後に結婚したらしい。相手は大学教授ということで、玉の輿と言えるだろうが、五郎はそうは思わない。

――和代なら、暖かい家庭を築けるだろうな――

 と、考える。

 大学教授というと、なかなか忙しいと聞いている。学部によっても違うかも知れないが、大学に泊まり込んで研究ということも少なくないだろう。家で一人、旦那の帰りを待っている和代を想像すると、自分と出会った頃を思い出してくる。

 殊勝な姿が和代には似合っている。旦那のために、料理学校に通ったりもしているのかも知れない。お金には困らないだろうから、それなりのセレブを自分で描いているに違いない。

 ただ、セレブ奥様との昼下がりの喫茶店での紅茶は想像できない。むしろ一人本を読みながら、昼下がりの紅茶を楽しんでいる姿の方が思い浮かぶ。読んでいる本は、ハーレクインロマンスであろうか。

 一緒に飲んだ五郎の部屋での紅茶。あれはティーバックだったが、おいしかった覚えがある。五郎の誕生日に、和代がショートケーキを買ってきた。乳製品が苦手な五郎の分はショコラケーキだったが、あまり甘くないビターチョコは大人の味だった。

 五郎と和代は、一時期同棲していたが、最初に和代が買ってきてくれたのが、誕生日のケーキだったのだ。

 デコレーションケーキではないところが和代らしい。あまり大きなケーキだと仰々しいし、食後のデザートとして、二人だとショートケーキがちょうどいいのだ。それでもろうそくはもらってきたらしく、ショートケーキにろうそくをとりあえず一本立てるというユニークな誕生日となった。この時のことは、後から何度も思い出している。思い出の中で一番最初に心に残ったものだったかも知れない。

 和代との同棲は、人から見れば、ままごとの延長のようなものだったのかも知れない。だが、家族以外の人と一緒に過ごすのは初めての五郎には、これ以上新鮮なものはなかった。

――結婚すれば、これが毎日続くんだ――

 ワクワクドキドキだった。扉を開けると暖かい空気は中なら溢れてくる。これは、一人暮らしをする中で、一番の憧れだった。

 暖かさは、空気に混じって人の気配を感じるだけでも安心感が伝わってくる。それが最愛の人なのだ。これ以上の喜びはないだろう。

 喜びの中で、和代の目を感じていた。その眼は五郎を慕う目、大きな目をさらに大きく見開いた目は、ある意味、考え方をしっかりと持った女性だということを表していた。

 和代は、五郎と付き合っている時の本当の幸せは何だと感じていたのだろう? 五郎はそれが最後まで分からなかった。いや、今も分かっていない。永遠に分かることのない謎なのだ。

「五郎さんは、私のどこを気に入ってくれたの?」

「そうだな。和代には一目惚れだったんだ。僕の方を気にしながら、あまり気にしていないような顔をしていたところかな?」

「何よ、それ」

 和代は笑顔で呆れたように言った。だが、五郎の返答は、まんざらでもない。ウソを言っているわけではないからだ。

 確かに一目惚れであるし、五郎を気にしているように五郎自身は感じたが、本人はそれを隠そうとする。女性なら和代だけではなく、他の女性にも言えることだろう。だが、和代であれば、どこかが違っている。隠そうとしている態度がいじらしくもあり、五郎はそんなところに、女らしさを感じたのだった。

「じゃあ、和代は、僕のどこを気に入ったのさ」

「私はね。五郎さんの安心感。それと、子供っぽいところかな?」

 そう言って、おどけたような表情をした。

「何だい。それは」

 今度は五郎が言い返す番だったが。この返答は。五郎からすれば、願ったり叶ったりであった。返してほしいと思った回答にほぼ近い答えが返ってきたのだ。

「僕の回答が一つ増えたよ」

「えっ?」

「それは、今の和代の答えさ。そんな答えを返せる和代が。僕は気に入ったのさ」

 今度はおどけた様子はない。真剣に答えたし、和代も真剣に聞いてくれた。その眼は笑ってはいない。ただ大きく見開いて、二、三度ゆっくりと頷いたのだ。それを見て五郎も納得して、やっと笑顔になり同じように頷いた。これがあうんの呼吸というやつだろう。

 和代との同棲期間は三か月ほどだった。実際に付き合っていた期間が一年ほど、それから比べると、短かったのだろう。

 しかし五郎は、三か月間でも嬉しかった。和代が自分の部屋に戻った時も、

「いずれ、結婚すればいつだって一緒にいられるんだからね」

 と、結婚を仄めかしても、和代は頷くだけで、賛成も反対もしない。すべて分かっていると言わんばかりだった。

 結婚という言葉に、異常に敏感な人もいれば、あまり気にならない人もいる。和代は結婚という言葉に敏感だった。

 また敏感な人というのは、絶えず結婚という言葉に敏感なわけではなく、ある一定の法則で敏感になるようだった。

 和代もその一人で、下手に刺激しない方がいいと思う時もあり、なるべく結婚という二文字を言わないようにしていた。しかも以前結婚寸前まで行って、ご破算になったことがあるだけに、この二文字は精神的にデリケートな要素を含んでいる。

 今付き合っている香織はどうだろうか?

 香織の過去については。本人があまり語りたくないのか。詳しくは知らない。ただ、結婚した経験はないが、付き合った男性は結構いるとのことだ。

「結婚しようとは思わないんですか?」

 思い切って聞いてみた。香織に対して結婚という言葉はタブーではないように思えたからだ。

「そうね、思わなかったわね」

「結婚したいという相手が現れなかった?」

「そうじゃないの。結婚ということ自体が、まるで儀式のような気がして、それが嫌なのかしらね。だって、まるで就職試験みたいじゃないの」

「就職試験とは、どういう意味なんだい?」

「結婚だって、ある意味、女性からすれば就職みたいなものでしょう? 年中無休の終身雇用制のね」

「なるほど、そうだね。まさしくその通りだよ」

 主婦に日曜、祭日はない。しかも、離婚しない限り、死ぬまで一緒なのだ。確かにその通りだが、言葉にしてしまうと、本当に味気ない

「結婚は人生の墓場だっていうけど、その通りかも知れないわね。一緒にいたいと思うだけではいけないのかしらね」

 と、香織は言った。これが他の人なら

――適当なこと言って、言い訳のようだ――

 と思うのだが、香織が言うと、どうしてもその言葉の後ろに何か別の真実が隠れているような気がしてくる。

「僕はその結婚に失敗した男だ。君の言う墓場にも入れなかった男なんだよ」

「だったら、いいじゃない。これからやり直せばいいのよ」

 そんな簡単なことすら、五郎は忘れていたのかも知れない。幸せの絶頂にいたと思っていたのに、気が付いたら、一人人生から取り残され、墓場だと思っていた結婚もうまく行かず、墓場を通り越して地獄に来ていた。そのことを香織にいうと、

「違うわよ。墓場は後で、地獄を先にあなたは見ることになったのよ」

「なるほど、モノは言い様だね」

「だって、その通りなんですもの」

 香織は、冷たい言い方をしているように感じたが、五郎にはちょうどよかった。なまじ暖かそうな言葉だったら、地獄だけが強調され、墓場の存在が忘れ去られてしまう。地獄よりも墓場の方が、ここでは幾分かマシであっただろう。

 香織と、こんな話をするなんて思いもしなかったが、それも結婚にこだわりたくないという思いと、その結婚に失敗したことをいつまでも悔いている五郎への戒めの気持ちが強かったからなのかも知れない。

「別に卑屈になることなんかないのよ」

 香織は、そう言いたかったに違いない。

 結婚の話をしている時の香織はいつもと違っていた。

――どこが違っているというのだろう?

 確かに大人の会話ができる香織と、その日の香織は雰囲気が違っていた。言葉の端々に棘があるように思え。普段見られる余裕がその日には見られなかった。

――余裕がないと、ここまで女は変わってしまうものなのか?

 とも感じたが、それでも、香織に対して嫌な気はしなかった。

 ただ、香織に感じた思いはそれだけではなく、

――老けたように見えるな――

 というものだった。

 二十代というには落ち着いて見えるが、三十代後半と言ってしまうと、気の毒に見えてくる。ただ、落ち着きは一度でも結婚をしたことがある人と変わらない。本当に結婚経験がないというのであれば、推定年齢は、四十歳後半ではないかと思えるほどだ。自分と比較して二ランクほど年齢が上ではないか、勝手に思い込んだだけであった。

 香織は、たまに自分の過去を話したい時があるようだ。

――もし、付き合っている相手が僕じゃなかったら、過去を話すだろうか?

 と、五郎は感じた。今まで付き合ってきた男性経歴について、聞きたいのは山々だが、敢えて五郎は口にしない。

「五郎さんのいいところは、あまり詮索しないところかしら」

 と、ハッキリ言われたことがあった。あまり人から褒められることのない五郎は、それだけで有頂天になった。香織はおだてるのもうまいのかも知れない。

 おだてられて嬉しくないわけではない。特に香織に言われると、信憑性を感じ、他の人も同じように思っているのかも知れないと思う。

「そういえば、昔……」

 その日は珍しく、香織が自分の話しをしようとしていた。最近では、横田の死を知らされて間がないこともあってか、少しショックが尾を引いていた時期でもあった。和代のことを思い出してみたりしたのを、香織は見ていて察知したのではないだろうか。

「昔?」

「ええ、昔、十年くらい前のことだったかしら。その頃には私も熱烈な恋をしたことがあったのよ。その時は、今日が明日で、昨日が今日で、というほど、毎日が変わりようのないほど、幸せな気がしていたわ」

 今の香織は、平凡な毎日を過ごしているように見える。

「平凡な毎日を送ることが、一番難しいことのようだわな」

 と、これも香織の言葉だった。

 心に残る言葉を拾い集めると、ほとんどが香織の言葉である。

「香織語録でも作るか?」

「バカね」

 と、お互いに満足げに笑い合った。気持ちが通じている証拠である。

「平凡な毎日というのは、真剣に生きていないとできないものよね。気を抜くと、まわりから邪魔が入ってしまい、思ったように生活ができなくなってしまうものよね」

「平凡な毎日が、毎日同じ生活リズムであるから、平凡というわけではないのよ。同じリズムであっても、平凡でなかったり、まったく違った毎日が、平凡に感じることもあるのよ。平凡と、楽をすることとは違うということなんでしょうね」

 他の人がどう考えているか分からないが。五郎は平凡と聞くと、楽な人生を思い浮かべてしまう。何も考えないでも、生活ができることを平凡だと思っている。世の中の歯車の中で、うまくやっていける考えであろうか?

「私の平凡な生活は、好きな人と一緒にいることだと思っていたの。それが波乱万丈な毎日であっても、そばにその人がいてくれたらどれだけ心強いか。それが私にとっての平凡という言葉の始まりで終わりだったのかも知れないわ」

「それまでに、平凡を感じたことがない?」

「そう言われてみれば感じたこともあるかも知れないんだけど、私の思う平凡とは違っていたわ。同じリズムで毎日を送れることもなかったしね」

「僕もそうだったような気がする。波乱万丈だと思っていても、後から考えれば、今よりは平凡だったと思える時期があるんだ。でも、実際にその時のことを思い出すと、平凡というよりは、今への布石のような気がして、同じ日なんて一度もなかったんだろうね」

 と、口では言ったが、本当はまったく同じ日を繰り返したのではないかと思えることがあった。

 夢のような話だが、二十三時五十九分を過ぎると、次の日になる気がしなかった。目が覚めていたのに、午前零時になった瞬間、朝になっていたのだ。その時間が昨日目を覚ましたのと同じ時間。昨日と同じようにテレビが付いたままだった。

「消し忘れて寝ちゃったんだ」

 と、昨日の朝は漠然と思っただけだが、午前零時から一気に朝になってしまったのなら、それも頷ける。確かに昨日はまるで、翌日に意識を残しておきたいかのような出来事が、少なからずあった。それこそ平凡ではない証拠だが、平凡ではない毎日のことを、昨日の朝、思いを馳せていたのを思い出していた。

 毎日を繰り返していることが自分にとって平凡な毎日への憧れに繋がるのだと思うと、まんざら毎日を繰り返すという意識は夢の中だけではないようだった。

 平凡な毎日の中で、交錯した思いは、何度か、今までに香織とすれ違っていたのかも知れないと思った。出会うべくして出会った相手は数少ないが、香織はその中の一人ではないのかも知れない。香織に感じるスリルや意外性は、出会うべくして出会った相手には感じるものではないような気がするのだった。

 香織は続ける。

「熱烈な恋なんて、その時が最初で最後だって思ってたけど、本当なのかしらね。それ以降も何人かと付き合ったけど、確かに後味が悪そうな恋ばかりだったわ。甘いものを食べた後のようにね」

 香織は甘いものを好まないタイプだった。見た目や素振りにピッタリだが、酸いも甘いもどちらも知っているように思えた。

「私は、いつも年上ばかりに恋してた。三十歳も上の人と付き合ったこともあるのよ」

 三十歳も年上というと、二十歳の時に五十歳の相手と付き合っていたということか?

 女が年上と付き合うのはさほど不思議ではないが、年を取った男が若い子と付き合って、やっていけるのかどうなのかが疑問だった、

 身体がついてこないし、話題も合わない。何よりも相手に合わそうとして下手に出ると、相手に付け込まれる可能性がある。よほど、女性もできた人でないと務まらないだろう。

――相手ができた人?

 そういえば、五郎も、自分の相手になる人は、できた人でないとダメだと言われたことがあった。屈辱的な言われ方だが、それでもいいと思ったのは、平凡な暮らしに憧れていたせいかも知れない。

――香織のような女が甘えたいなどと思うはずもない――

 それなのに、どうして年上を好むのか。

 年上の男性が甘えさせてくれるだけの人なら、香織は見向きもしないのではないだろうか。甘えん坊な女は、年上から見れば可愛く見える。娘のように思うかも知れない。

 そこで普通の男性なら、娘のような年齢の女の子を愛するというのは、罪悪感を感じさせ、父親として見せていた威厳はどこに行ってしまったのだろうか。

 父親としても、本当は甘えたいと思っている娘を思い切り甘えさせてあげたいと思っているのだ。教育上、それが難しいため、どうしても叱る時は叱らなければいかず、憎まれ役を敢えて引き受けるしかないこともあるだろう。五郎にとって香織は、今まで一面しか見ていなかったのかも知れないと思うのだった。

「その人はどんな人だったの?」

「そうね。今では思い出すことも困難になってきたけど、しいて言えば、五郎さんが年を取れば、あんな感じの年の取り方をするんだろうなって思うわ」

「それは、ありがとうと言えばいいのかな?」

「ええ、それでいいの。でも,あなたと、あの時の人は比較できないの。二人は平行線を描いている気がするので、どこでも交錯することはないの」

「交錯しないということは、僕には意識することすらできないんだね?」

「そうね、その通り、でも、これは誰にでも言えることで、あなたにも、私に対して同じような人がいるはずよ」

 五郎は、今までの恋愛経験は漏らさずに話してきたつもりだった。もし、香織の言うことが本当であれば、その相手とは、ひょっとすると、まだ五郎の前に現れていないのかも知れない。いや、逆に表れているのだが、そうだとは気付かずに、つかず離れずの距離にいるのかも知れない。

 五郎の気持ちが分かるのか、香織はにこやかに笑っていた。

「私もあなたにとって平行線になる人がいて、まったく知らずに過ごしてしまう人がいるのかも知れないわね」

 和代のことだろうか? それとも敦美?

「そういえば、五郎さんに初めてこんな話をするんだわね」

 と言って笑った。

「そうだよ、今気付いたのかい?」

「ええ、今まで付き合ってきた人には、結構早い目に自分の過去を話してきたのにね」

「どうして、過去の話を早めにするの?」

「それは五郎さんと同じ気持ちかもね」

「相手に分かってもらいたいから?」

「それもあるけど、どちらかというと、相手に話して、その反応を見たいからかしら?」

 五郎にはそんな思いはほとんどなかった。頭を傾げていると、

「駆け引きしているみたいで嫌でしょう?」

 見透かされていた。五郎が返答に困っていると、

「そうなのよ。図星なのよね。でも、それって駆け引きというよりも、その人の中にある打算なのよ」

「駆け引きと打算とはどう違うの?」

「駆け引きは、相手があってのこと、でも打算は自分が勝手に判断したこと」

 打算の方が、悪いことのように思う。だが、香織は打算が悪いことではないように思っているようだ。

「実は、私、一度結婚経験があるのよ。つまりバツイチというやつね」

 そんな気はしていた。香織に感じる妖艶さは、結婚経験があるが、男性に対して、まわりの誰にも負けたくないと言った闘争心のようなものがあるのではないかと思っていたからだ。

 だが、闘争心というのは少し違う。ライバルがいて、その人に負けたくないというのであれば、自分の中の女を磨くという意味もあるのだろうが、そういう人がいるのであれば、付き合っていれば分かってくる。香織に感じるのは孤独感である。ただ、同じ孤独感でも、寂しさを感じさせる孤独さではない。もっと力強いものだ。今まで一人で生きてきて、これからも一人で生きていくという感情が見え隠れしている。

 そんな香織の中に五郎はいる。そのことを五郎は誇りにも思えるほどだった。

「結婚経験なら、僕にもありますよ」

「そうだと思っていたわ。そういえば、私たちって、ほとんどお互いのことを何も話していなかったわね」

 今さらながらという顔で香織が微笑んでいる。

「それだけ、お互いに違和感なく付き合っていられるというわけだよね。過去なんて関係ないって思ってる?」

「いいえ、そんなことは思わないわ。だって、過去があって現在がある。現在があって未来がある。私はむしろ、過去は大切だと思う方なの。でも、こだわるつもりはないのよ」

「と、いうと?」

「過去、つまり昨日があって現在、つまり今日がある。今日があって、未来、つまり明日がある。さっき平凡な暮らしのお話の時に言ったでしょう? 感覚的なものを持っているから口から出てきたのよ」

「こだわらないようにすることってできるんですか?」

「こだわるという言葉が漠然としているから難しい言い方になるのかも知れないけど、一口に言うと時系列というものは、逆らうことのできないもので、それをどう受け止めるかということでしょう?」

「時間の流れは変えられないと?」

「その通りね。変えてしまうと、すべてが変わってしまうでしょう? ここで言うすべてという言葉も曖昧なんだけど、自分だけではないという意味ですべてという言葉を使ったんだけどね。それだけに、だから人間は、時系列を意識していないのよ。本当は絶えず意識しているのにね」

「それって、まるで心臓の動きみたいですね」

「そう、心臓は意識して動いているわけではないけど、止まってしまうわけにはいかない諸刃の剣のようなものでしょう? そういう意味では同じなのかも知れないわね。そういえば、五郎さんは、こういうお話って私以外の人と話したことがあった?」

「あったと思うんだけど、相手が誰だったか、思い出せないんだ」

 実はこの言葉は半分ウソである。思い出せないわけではなく、さっきまでは誰かと話したのを意識していて、相手が誰だったか覚えてもいた。しかし、不思議なことに、ここで香織と話をしている間に忘れてしまっているのだ。

「そうなんだ。私も以前にこういうお話をするのが好きな男性とお付き合いをしたことがあったの。その人は元旦那というわけではなかったんだけど、その人とは結構長い間付き合っていたわ。交際期間が終わってもお友達として、いろいろアドバイスしてくれたのよ。そういう関係って信じられる?」

「僕にはそういう経験はないけど、でも、信じられる気はするね」

 今まで付き合った女性を思い出した。だが、彼女たちには考えられないことだった。別れる時は壮絶な別れが待っていて、落ち込んだら立ち直るまでにかなりの時間を要したものだ。

「その人とは、もう会うこともないんだけど、でもその人には他の男性にはないものがあった。たくさんあったというわけではなく、その部分だけでも彼を忘れられなくなるのに十分だったわ」

 今まで付き合った男性の話を、付き合っている女性から聞くのはあまり気分のいいものではない。だが、香織に関して言えば、そんなことはなかった。それだけ香織を真正面から見つめていたいという意識が働いているのだろう。香織の一言一言に重みを感じているのだった。

「僕にもそんな人がいたような気がしていたんだけど、今では思い過ごしだったのかも知れないって思うようになってきた」

「思い過ごしではないと思うけど、でもそう思うようになったということは、きっと五郎さんの中で新しいステップに入ったことを示しているように思うのよ。恋愛感情だけではなく、異性に対しての思いって一つの感情だけではなく、他にもいっぱいあるような気がするのよね」

 お互いにバツイチだということで、

「同じバツイチ同士だね」

 などという言葉は必要ない。下手にそんな言葉を口にすると、却ってお互いがぎこちなくなりそうだったからだ。バツイチがマイナス思考だというわけではないが、プラスに考えようとしている発想の中では不要なものである。その証拠に会話はとどまるところを知らずに、時間の感覚を忘れるほどに、弾んでいるではないか。

「香織さんも、いろいろな経験をされているんですね」

「そうね、自分でも、それは思うわ。だから、こういうお話をするのは好きなんだけど、できる相手はしっかり吟味しているつもりなのよ」

 五郎も同じだった。ただ、五郎の場合は自分から話し始めるわけではなく、相手は始めた話に乗っていくだけだった。だが、それも相手が吟味した中で、

「この人なら、こういう話をしても大丈夫だ」

 と見てくれたからだろう。そういえば、

「お前だからこそ、こういう話をしているんだ。他の人にはちょっと話しにくいからな」

 と言われたことがあった。そう言われると嬉しくて有頂天にもなる。それだけ調子に乗って口調も滑らかになるというものだ。

 香織に感じていたのは妖艶さだけではなく、こういう話もできるところに大人の女を感じていたのだ。

「香織さんは、結婚についてどう思ってますか?」

「結婚というのは、最初は憧れから始まるものなのよ。相手がハッキリする前から意識するのは、憧れがあるからだと思うのよね。でもその中にある不安をその時はあまり意識していない。だから、相手を意識し始めると、不安が少しずつ頭を擡げてくる」

「確かに不安は見え隠れしているんでしょうね。憧れや期待があれば、その裏には必ず不安が燻っているものなのかも知れないね」

「そうなのよ。それを意識していないから、未婚の人と、結婚経験者とでは大きな違いがあるの。結婚経験者の話を未婚の人が聞いても、きっと納得できる人はいないでしょうね。納得できると思っているのは、錯覚なんじゃないかしら?」

「そこまで言い切ります?」

「ええ、五郎さんも、感じていることじゃないのかしら?」

 確かに香織のいう通りである。

 五郎は、今までの自分を思い返してきた。それは、一つの大きな物語を形成していて、すべてを繋げて考えられるものだと思っていたが、果たしてそうなのだろうか?

 香織と話をしていると、すべてを時系列に伴って、一つの大きな物語にしてしまうのは少し違っているのではないかと思うようになっていた。

 確かに事実だけであれば、時系列以外の何者でもないが、意識の中にある潜在意識であったり、その時に感じた思い、さらには。将来のことを夢に見たように思う不可思議な感覚、それは時系列だけで説明のつくものではない。

「私は、自分の中で年齢を意識できない時があるの」

「どういうことだい?」

「もちろん、意識の上でのことなんだけど、時々、子供の頃に戻ったような感覚になったり、将来の自分が見えたりするのよね。それも信憑性があるようで、怖いくらい。かなりリアルという意味でね」

「子供の頃のことは、僕もよく思い出したりするんだけど、将来のことまでは想像できないかな?」

「でも私が思うに、それはできないんじゃなくて、できないって思いこんでいるからじゃないかって思うの。将来のことがイメージとして浮かんでくるのは、決して不思議なことじゃない。それは時系列でしか物事を考えられないと思い込んでいるからじゃないかって感じるのよ」

「そこでまた時系列に戻ってくるんだね」

「五郎さんは、自分が堂々巡りを繰り返しているって思ったことはない?」

 ハッとしてしまった。堂々巡りを繰り返しているという感覚は、今までに何度も感じたことではないか。

「あるよ。それもいつも感じていることかも知れない。でも、それは狭い範囲の中で蠢いているような感覚で、時系列を意識しているわけではないと思っているだ」

 時系列という感覚は堂々巡りと別物だと思っていた。それは時系列には逆らえないという感覚があるからだ。ただ、時系列を変えることができるとすれば夢の中だけのもので、それは現実とは交錯するものではないという思いのもとに立っていることを示しているのだった。

「五郎さんが考えていることは間違いではないわね。でも、私との話の中で、それが少しずつ広がってくることを意識してくれていれば、嬉しいと思うわ」

 人生経験が人間を大きくするという言葉にウソはないが、話だけでも、相手を納得させられるだけの説得力を持つには、それだけではないように思う。自分の経験を他人に押し付けても、結局はゴリ押しにしかならない。却って反発を生む結果にならないとも限らない。

 時系列に関しては不思議な感覚があった。

――同じ時間を繰り返している――

 と感じたことが何度かあるが、たまに、数分先、あるいは数分前の自分を感じることがある。ただ、それは夢の中で想像したことへの感覚であって、決して交差することはありえない人間だからこそ、見ることができるのだろうか。

 数分前の自分であれば、記憶に残っているはずなので、分からなくもないが、数分先の自分を感じるということは、先に進んでいる自分が、後を進む自分を意識することで、客観的に感じることだろう。ただ、それも限界があり、絶えず感じることができるわけではない。共通点があるとすればどこなのか、想像もできなかった。

 ただ、数分先を進む自分が本当に未来の姿なのか、それは分からない。現在に続くものが未来であって、必ず過去からの続きとして未来が存在しているわけではないという思いが働いていた。そこにはハプニングも含まれている。未来とは、そんなハプニングまでもすべて含んだものであるとするならば、今の自分には予測不可能である。言い換えれば、ハプニングさえ予期できれば、未来を予知することは不可能ではないと言えるのではないだろうか。

――頭がおかしくなってくる――

 まるで箱を開けたらその中に箱が入っていて、さらに箱を開けると、その中にはまた別の小さな箱が……。そんな感覚を感じたことがあるのは、五郎だけではないだろう。

「私は五郎さんと、こうやって話している時間が好きなの」

「僕もそうだよ、きっとこんな話ができる人を探していたのかも知れないと思うんだ」

 その日の香織はいつになく激しかった。気持ちのタガが外れたかのように、五郎を求めてくる。

 五郎も思いを香織にぶつけていた。元々受け身だと思っていたセックスも、香織が相手だと力が入る。

 相手が受け身なら奉仕に燃え、相手が奉仕好きなら、受け身に徹する。それが五郎のセックスだったが、香織との間では、気持ちをぶつけている。どんな相手でも逃げているつもりなどないが、香織が相手だと、今まで何かから逃げていたように思えた。逃げていたものが何からなのか分からないが、気持ちをぶつけて、跳ね返ってきたものに生命を感じる。

 生命は一定間隔の息吹を発している。心臓の鼓動を感じているようだ。息吹は熱を持っている。鼓動に熱。これが生命の源ではないのだろうか。

「私の結婚というのは、本当に平凡なもので、自分が生きてきた中で、一番自分らしくないものだって思っているのよ」

 先ほど話した平凡とは、言葉の意味が違っているようだ。

「どういう意味なんですか?」

 自分らしくないことが平凡だと言っているが、自分らしいことは平凡ではないということである。五郎も何となく分かるのだが、それは、香織には平凡という言葉が似合わないということだ。

 五郎は自分の中の「らしさ」を思い浮かべてみると、そもそも香織と付き合っていること自体、自分らしくないと思うのだった。

――数分後を歩んでいる自分なら、香織のような女性と付き合っても不思議はないかも知れないな――

 漠然としてだが、そんな風に思った。

 数分後を歩いている自分は、本当に今の自分の「分身」なのであろうか? 分身である必要はないのかも知れない。同じような考え方であれば、まったく違った雰囲気を醸し出していても、それは自分だと感じる。他の人が感じなくとも、自分がそう思うだけでそれだけでいいのだ。

 逆に考え方は違っても、外見や風体が同じで、誰もが見間違えるようであれば、それも分身だと考えて間違いではない。

「パラレルワールド」

 という言葉を聞いたことがある。まったく違う世界が同じ時間に無数に存在するという考え方だ。それは「次元の違い」という言葉で表現することもでき、四次元と三次元、三次元と二次元でも違っているが、四次元という世界でも、それぞれに時空を超越したものが存在しているという考えもあるようだ。難しいことは学者の先生のような専門家でしか分からないが、考えてみれば考えられないこともない、漠然とした理論なのだろう。

 五郎は、次元の違いを、「生と死の世界」の狭間としても考えることがある。不気味な話であるが、三途の川であったり、天国と地獄であったりと、あの世へ思いを馳せればいくつもの世界が想像されている。

「生と死の世界」を人類の永遠のテーマだとする人もいる。宗教もその考え方によっていくつもあるのと同じである。だが、その多くは崇拝すべきものがあり、戒律のようなものが存在し、

「この世があって、あの世がある」

 と、まず中心はこの世界であり、想像される世界のために何をすべきかが説かれているのだ。

 そう思うと、

「あの世の世界の創造にも限界があるんだ」

 と思えるようになっていた。

 どんなに創造しようとも、潜在意識を超えるものはありえないのだ。だからこそ宗教では絶えずの鍛錬が必要であり、潜在意識をいかに増幅できるかということが重要になってくる。潜在意識が調節した世界を作り上げるのが、宗教ではないかと五郎は感じるのだった。

「想像と創造の違い」

 というものを考えたことがあった。

「想像することで、創造ができあがると思っていたが違うだろうか?」

 発想が作り上げるもの、それが創造であろう。

 五郎が「生と死の世界」をこの時に考えたのは、偶然ではなかった。少なくとも横田という男の死に対してショックを受けた。いくら以前付き合っていた女性が自分の前に付き合っていた男性とはいえ、一度も会ったことがない人である。何をそこまでショックを受けるのだろう?

 だが、今はその理由が何となく分かってきた気がした。

「横田という人間はこの世にいないのだ。そして、横田のことを知っている和代も、もう自分の前にはいない」

 このことが大きなショックの源であった。つまりは二度と会うことができなくなってしまったということであり、和代の中にだけ、横田は生き続ける存在になってしまった。

「和代と別れたのだから、今さらそれは未練ではないか?」

 と言われるかも知れない。確かに未練でしかないのだが、和代の中に残ったのが五郎のことではなく、横田のことだけである。横田はもうすでにこの世の人ではなく、見たことがないだけに、無限な可能性を秘めたまま、五郎自身の心の中にも残ってしまったことに今気が付いたのだった。

「あの人は永遠に年を取らないんだ」

 ひょっとして、横田と似た人物が目の前に現れても、横田も五郎を、五郎も横田を知らない。生きている間に出会ったことがあったのではないかという想像が次第に膨れ上がっていた。

――和代が別れを切り出したのは、そのあたりにもあったのかも知れないな――

 和代の中で、五郎と横田は、決して交わることのない平行線でなければいけなかった。それがどこかで狂ってしまったために、横田は死ぬことになったのだと思っていたとすれば、一体誰がこのような残酷な末路を用意したというのだろう。和代の思い過ごしであったとしても、五郎の考えすぎであったとしても、想像できてしまうということは、起こる可能性は皆無ではないのだ。

「私は、子供が産めない身体だって思ってたのよ」

「えっ?」

「本当の私は怖がりで、いつも不安ばかりを抱いている女だったのよ。そのおかげで、自分が子供の産めない身体だって思い込んでしまうことに陥ってしまったんだけどね」

「それで?」

「結婚していた相手は子供が好きで、それだけに、私には大きなプレッシャーだったのかも知れないわ。彼は、私が小心者だということは分かっていたけど、悪い方にばかり妄想を抱くほどだとは思っていなかったのかも知れないわね。悩んでいる時の私って、見る影もないほどで、とっても声を掛けられる雰囲気ではなかったって言われたくらいなのよ。そんな時にこそ、体調は崩すもので、生理不順がひどくなり、病院に行ったんだけど、そこで先生から、このままだと、子供が産めなくなるかも知れないって告知されたの。それを私は信じ切ってしまって、産めない身体になってしまったって思ったのよ」

「でも、実際は違った?」

「ええ、思い込みの激しさも私は酷いものだったので、産婦人科から、今度は心療内科に回されて、そこから先は薬漬けの生活。身体はおかしくなるし、精神的にも結構苦しいところまで行ったみたい。でも、それでも何とかなったのは、病院を変えたからかも知れないわ。薬をやめて、しばらくリハビリみたいなことをしていると、精神的に楽になっていく自分を感じていたの」

「でも、実際には、子供が生める身体なんでしょう?」

「ええ、そうなの。でも、その時のショックが尾を引いているのか、その時のことがトラウマになってしまって、しばらくは、本当に子供ができない身体になっていたのよ」

 同じショックでも受ける人によって、表れる効果はまったく違ってくる。少々のことではショックを受けそうにもないと思えた香織でも、さすがにショックだったようだ。いつも気を張っている人ほどショックを受ける時は大きいということなのか、それとも受けたショックが大きかったからこそ、今の香織は威風堂々として見えるのか、五郎には、そのどちらもあるように思えた。

 一見、相容れない考え方に見えるが。香織に関しては時系列では判断できないという話を聞いたことで、想像できるどちらも香織であるという考えもできるのであった。

「離婚の原因というのは、それだったの?」

「そうかも知れないわね。ハッキリとしたことを彼は言わなかったから」

 言わなかったわけではなく、言えなかったのかも知れない。言ってしまうと彼女に悪いという思いよりも、自分がそんな理由で離婚を考えていることに対して、自分自身の罪悪感があるからだろう。自分のことを許せないという理由を相手に押し付けるのは決していいことではないが。関係を修復することができないという結論に至るだけの理由としては十分なものなのかも知れない。

 ハッキリとした理由を言わないのは、相手が卑怯な場合もあるが、自分が悪いということも忘れてはいけない。相手が口にすることができないほどの理由があるからかも知れないからだ。だが、仕方がない場合もある、それが、香織の場合だったのだろう。

 五郎の場合はどうだったのだろう?

 離婚の原因に関してはハッキリとは言われなかった。そういえば今まで付き合っていた女性から別れを告げられた時、明確な理由を言われたことなどなかったかも知れない。

「自分の胸に聞いてみればいいじゃない」

 と言いたげに睨みつけられたこともあった。和代は確かにそうだった。睨みを利かせた目は、前の日まで一番接しやすかった相手が、一日で一番近づきたくないと思うほどに豹変した瞬間であった。

 元妻の敦美も同じであったが、和代の時ほど五郎は取り乱すことはなかった。何が起こったのか分からないほどのショックを受けたが。その中には、離婚という二文字が今後どれほど自分に対してマイナスな影響を与えるかがまったく未知数だったことへの戸惑いだった。

 恐怖に近いものだったに違いない。

 今、女性の立場から離婚についての話を聞いてみたが。離婚というのは、告げられる方は青天の霹靂だが、言い渡す方はどうなのだろう? 女性の方から言い出す場合には、女性の性格を考えればおのずと分かってくる気がする。それだけに、言われた男性には余計に承服できないところがあるのだ。

「女性というものは、ある程度まで我慢するけど、我慢できないところまで行って行動に移すと、引き下がれないところまで来ている証拠なんだよ」

 という話をしてくれたのは、吉之助先輩だった。

 それだけ扱いにくいのが女性であると言えよう。相手に相談することもなく、一人で悩んで、悩んでいることを悟られないようにしながら、我慢できなくなったら、気持ちを爆発させる。女性全員がそうであるわけではないので、偏見と言われればそれまでだが、少なくとも五郎のまわりの女性は皆、この言葉に当て嵌まった。

 しかし、逆に言えば、それだけ男性も相手の気持ちを分かっていないことになる。

「真剣に相手を想っていない証拠じゃないの?」

 と言われても仕方がないだろう。

 想っているつもりでも、それが相手に正確に伝わっていない場合もある。五郎の場合には、

――困った時には相手の方から話しかけてくれる――

 という考えがあった。

――相手は自分を慕ってくれているので、自分の気持ちをよく分かってくれている。だから、相談事があれば、話してくれるに違いない――

 という思いが頭にはあり、途中の段階がないまま結論だけに目を向けてしまったことでの勘違いが芽生えていた。しかもその勘違いは、自分勝手な都合によるものである。

 だから、五郎は相手を手放したくない。慕ってくれているという思いが根本にあり、

――慕ってくれている相手が、そう簡単に自分を嫌いになるはずはない。だから、修復は十分に可能で、今は誤解を懸命に解くしかないのだ――

 と思っている。

 では、離婚を男性の立場から考えるとどうなるのだろう?

 五郎は、自分から離婚を言い出すようなことを考えたことはない。自分が結婚しようと選んだ相手が、そんなに悪い人ではないと思うからで、実際に、付き合ってきた人で、性悪だった女性はいない。別れた理由としても、五郎自身に落ち度があったり、仕方がなかった場合もあるのだろう。どうしても贔屓目に見てしまうのだった。

 それでも、男性から離婚を言い出すことを考えてみた。それは、テレビドラマなどでよくあるシチュエーションで、それ以上の発想を抱くことはできなかったのだ。

 まず考えられるのは、妻の不倫である。

 テレビドラマなどでよくあるパターンは、中流階級の家庭で、家は住宅街の一軒家。会社では課長クラスの中間管理職、ということは年齢的に、四十歳を超えていることが多いだろう。

 パートに出ている奥さんであれば、パート先の店長との不倫が一番頭に浮かぶが、専業主婦でも、不倫がないとは言い切れない。むしろその方が強いのではないかと五郎は思う。家庭でのストレスがそのまま表に出るのだ。

 子供は中学生くらい。思春期の一番多感な時期なので、デリケートな神経を逆撫でしてしまいそうで、ドラマとしては、格好の題材であろう。

 そんな家庭環境をプロファイルしてみたが、その中でどうしても浮かんでこないのが、輪の中心であるはずの旦那だった。

 ドラマでは旦那はある意味、悪役を演じることになることが多い。主人公を奥さんに置いてしまうと、どうしても仕方がないのだろうが、これでは男の立場はないというものだ。ある程度社会的な立場のある男性であれば、離婚はなるべくしたくない最後の手段のはずである。出世という意味でもプライベートでのスキャンダルは致命的だったりする。

 しかも、ドラマではそれを悪いイメージとして描いてしまう。

「出世や会社のことしか考えない夫に。妻はストレスを抱えていた」

 こんなシチュエーションが成立してしまうのだ。

 だからこそ、男は離婚に対して、慎重になってしまうのだ。

 それでも、妻の態度が治らないと、さすがに旦那も切れてしまう。夫の中には、自分も不倫をして、ダブル不倫で欲求を満たそうとする人もいるだろう。完全に仮面夫婦を描く構図である。ただ、そうなると可哀そうなのは子供であって、ここでは子供は登場しない。いや、子供を主人公にしたドラマであれば、このシチュエーションが一番多いだろう。だが、旦那が主人公である場合は少ない。なぜなら、その時には離婚を言い出すのは奥さんの方が圧倒的に多いからだ。

 それでも五郎は、自分が主人公になったかのように想像してみた。

 その時に浮かんでくるはずの奥さんの顔は逆光になっていて、見えてこない。

「あなたは誰ですか?」

「何言ってるの。あなたの妻じゃないの」

「顔が分からない」

「ひどいわ。忘れてしまったの?」

 妻と名乗る女は、必死で訴えるが、五郎には、そのすべてがウソにしか思えない。妻だという言葉すら信じられない。

 普段だと、妻だと言われると、信じてしまうだろうが、顔が見えないのがこれほど怖いとは思わなかった。

 五郎が見る一番の怖い夢は、夢の中にもう一人の自分が出てくることだった。一番身近なはずなのに、普段見ることのない顔、鏡だったり、水面だったり、映し出す媒体がなければ見ることはできない顔なのだ。最初にそれが自分だということを認識するまでに時間が掛かるはずなのに、なぜかすぐに自分だと分かってしまう。それも恐怖を煽る一つの理由だった。

 そういう意味でも相手の顔が分からないことほど怖いものはない。声には確かに聞き覚えがあるだけに、

――本当にその人でなかったら――

 という思いが恐怖心に繋がるのだ。

 主人公になってみると、妻の顔が見え隠れしているのは当然に思えてきた。何しろ自分が離婚を切り出すための相手なのだからである。

 よほどのことがない限り、自分から離婚を言い出すことなどないと思っている五郎。一瞬その時に浮かんだ顔があったのだが、それは、和代でも敦美でもなければ、香織でもなかった。

 浮かんできた顔。それは綾香だったのだ。短い時間だったが、今までで一番満足できた相手だったと言っても過言ではないが、

――なぜ今になって綾香なのか?

 それは、思い出したいと思っていたところで、決して結婚できるはずのない相手だという自分の中に縛りを設けていたから、離婚という悪いイメージの中でしか浮かんでこなかった相手なのかも知れない。

 奉仕されることが大好きな男性は、女性を苛めたくなるものなのかも知れない。最初に綾香によって奉仕される悦びを得た五郎は、自分が、女性によって態度を簡単に変える男であることに、結構早い段階から気付いていた。

 和代に対しては、喧嘩が絶えなかった。殴るまではいかなかったが、引っ掻いたりされると、五郎もムキになって、髪の毛を引っ張ってみたりした。女だからといって、手加減をするようなことはなかったし、お互いに気持ちをぶつけあっていたことで、痛いという思いよりも、意地のぶつかり合いの方が意識としては強かった。

 敦美に対しては、喧嘩などしたことはない。喧嘩をすること自体が怖く、今出来上がっているものをわざわざ壊すのが怖かったのだ。友達の敦美に対しても同じで、性格の違いはあっても、同じ時期にしかも相手がそれぞれ友達ということもあって、何となく腫れ物に触るような感じだった。

 敦美は、いつも気を遣ってくれていると思っていたが、結局は、自分のことしか考えていないのではないかと思うようになっていた。誰でも自分の身が可愛いのだが、それをいかに仮面の下に隠して演技ができるかというのが、結婚生活なのではないかと思うと、やりきれない気持ちになったりしてくる。

 ただ、敦美と結婚したすぐ後くらいになってからだろうか。五郎は、妻を苛めたくなる衝動に駆られていた。

 SMの関係などというのは、自分とはまったく違った世界なのだと思っていたが、それは行為にだけ、目が行ってしまからである。行為というのは、儀式のようなもので大切ではあるが、気持ちが伴っていなければ、行為だけでは成立しない。しかも、相性も微妙に関係してくるので、少しでも合わないと、苦痛は苦痛でしかないのだ。

 妻の敦美は、苦痛に耐えながら、何も言い返してこない。それが五郎に対する礼儀だとでも思っているのか。五郎にしてみれば、ただの苛めっ子でしかない。相手を苛めるということは、相手に苛めることによって快感が芽生えるのを手助けする気持ちも多分に含まれている。

「苦しいか?」

「ええ」

 苦しんでいる姿を見せることで、五郎がそれだけで喜ぶとでも思っているのか、真っ赤になった顔は苦痛に歪み、今にも

「堪忍してください」

 と言いたいのを必死で我慢しているようだった。

 確かに我慢している顔を見るだけで快感を覚える人もいるだろうが、五郎はそうではなかった。相手が苦痛の中なら何かを見つけてくれるところまで望んでいる。ある意味で厳しさがあったのだ。

――言いたければ言えばいいんだ――

 心の中でそう叫ぶと、余計に苛めに拍車がかかる。これ以上、どう苛めていいのか迷うところだが、いつの間にか、五郎の中で満足のいくような苛め方になっていた。

――僕って、結構最後は辻褄が合うようにできているのかな?

 女性と知り合うのもそうかも知れない。

 いつも付き合っていて、いろいろ問題が起こったり、喧嘩してみたり、喧嘩がないならないで、相手の気持ちを考えるに至らなかったりして。すぐに悲惨な別れが訪れることになるが、別れてから立ち直ってすぐ、他の女性と出会うようになる。実際に付き合っている時期は長く感じるが、別れてしまったらあっという間、別れから立ち直るのに時間が掛かるのに、いつも堂々巡りを繰り返し、その場所に戻ってきた時には、長かったような気していた。

「お前って、女に困らないタイプなんだよね」

 と、

――こっちの気も知らないで――

 と、自分が普段からまわりに、女性に関してそんな目で見られていたということにショックを感じながら、心の中で呟いた。

 しかし、一人になって考えると、

――確かにその通りかも知れない――

 とも感じる。女に困らないタイプという言われ方には語弊があるが、女性と付き合っていない期間は、思っているよりも短いのかも知れない。新しい女性と付き合い始めると、すぐに辛かったことを忘れてしまうのが、そのいい例ではないだろうか。

 五郎のような男性に、女性は惹かれるということだろうか。

 いや、五郎と付き合っている女性は、一見皆瀬角が違っているかのようだが。共通点も多いような気がする。

 相手がどうのというよりも、むしろ女性によって態度をコロコロ変える五郎の方に問題があり、そのことを五郎自身がなかなか気付かないことも問題なのかも知れない。

 ただ、一貫して、女性に対して苛めたいとう気持ちだけはあるようで、それが、性格的なS性なのかどうか、自分でも分からないところがあった。

「Sなくせに女性によって態度を変えるなんて、本当のSじゃないな」

 と言われたことがあった。

 五郎には男性の友達あまり多くない。最近では、極端に減った。女性とも一人が決まれば、他の女性に食指を伸ばしたりしないので、基本的に友達や知り合いは少ない。それでもいいと思っているのは、下手にたくさんの知り合いを作ると、自分の中で収拾がつかなくなり、何を信じていいのか分からなくなることを危惧したのだ。

 好きになる相手も、若い頃は、自分より年下がよかったが、最近では、年上がいいなどと思うこともある。以前のように一人が決まれば、その人だけだという思いも次第に薄れていき、二股、三股も、

「別に構わないんじゃないか」

 と、言えるようにもなっていた。

 身体を重ねることよりも、最近では会話に重きを置くようになっていた。一緒に食事をしたり、スナックで飲んだりしながら、気持ちを高めていって。次第に身体を寄せあう。その時に感じる暖かさが、

――これが本当に僕が求めていたものなのだ――

 と感じるようになるのだった。

 五郎に暖かさを再認識させたのが、香織だった。

――再認識――

 そう、最初に感じさせた女性がいたのだ。その女性がいたからこそ、五郎は今の自分がいるとまで思っているほどで、付き合っていたわけでもないのに、気持ちが通じ合った気がしたのは、

――もったいないことだ――

 と思うに至るまでになっていた。

 その女性はまたしても、綾香だった。

「あなたの暖かさ、私には十分に伝わってきたわ」

 本気の言葉かどうか分からないが。説得力がある。

――風俗の女性は、皆、説得力のある言葉が言えるものなのだろうか――

 と感じるが、相手を見る目、そして、自分の立場を超えないと見ることのできないものを綾香は感じてくれたのだろう。

 綾香を思い出すと、目の前に浮かんでくるのは、里穂の住んでいる屋敷だった。

 一度だけ食事に呼ばれて行ったが、それ以降、会おうと思ってもなかなか会うことができない。

――里穂って幻のような女だ――

 コーヒー専門店に行けば、会えるのは分かっているが、実はその日から、あの店には言っていない。

――もし里穂がいなかったらどうしよう? もしいたとしても、無視されないとは限らない――

 そう思っていると、会うのが怖くなり、店に近づけなくなった。

 今までにそんな思いをした女性はいなかった。だからこそ、五郎は余計に香織に接近してしまうのだし、香織の口から、何かヒントのようなモノが生まれるのをじっと待っているのかも知れない。

 確かに今まで付き合っていた女性とは、別れの時には悲惨な思いをし、二度と会いたくないというところまで追い詰められたりしたものだ。それでも五郎は諦めの悪い性格である。

 里穂とは一度も肌が触れたわけでもないのに、綾香に感じた暖かさがあるように思えてならない。まるで同じ人間の分身ではないかと思うほど、五郎には二人がダブって見えるのだった。

 里穂は、一度お店で頭にリボンをつけていた。普段からポニーテールにしていた頭の結び目部分に、ちょっと大きな蝶々のようなリボンをつけている。

 そんな里穂を見た時、五郎は、

――リボンをつけているのを見る方が、大人の女性に見えてくるから不思議だ――

 と思うようになっていた。

 ポニーテールの髪型は、顔を少し大きめに見せるが、リボンをつけることによって、今度は小さく見せる。ちょうどいい顔の大きさのバランスは、大人っぽさを感じさせた。笑顔には変わりないが、真剣そうな表情は、肌の細かさを露呈しているようで、そこが落ち着いた大人の表情に見せているのかも知れない。

 里穂は、綺麗というよりも可愛いという雰囲気の女性だ。女の子と言ってもいいくらいで、体型も幼児体型。本当は五郎の好きなタイプであった。

「お前は八方美人だからな」

 と言われたことがあったが、その通りかも知れない。ただ、誰でもいいというわけではなく五郎にも好きな女性の共通点はある。ただ嫌いなタイプの女性はハッキリしていて、それだけに嫌いな人に対しては徹底的に冷たくなったりする。

 そういえば、小学生の頃に、やたら五郎になついてきた女の子がいた。五郎は好きなタイプだったわけではないが、嫌いだったわけでもなかったはずだ。

 逆に懐かれていると、情が移ってくるのか、可愛らしいと感じた時期もあったくらいで、ただ、異性に対しての感情ではなかっただけに、妹のような感覚だった。

――慕われることを至高の悦びだと最初に感じたのは、その時だったのかも知れない――

 と思った。

 慕われるのが至高の悦びだと思うのは、生まれついての自分の性格から由来していると思っていた。性格というものが、生まれつきである要素と、育ってきた環境によって培われたものから形成されているとすれば、五郎の性格を形成しているものは、五分五分か、少し生まれつきが多いか程度のものだと思っていた。

 それは他人がどうなのかを気にしながら考えていたことで、五郎としては、他の人よりも育ってきた環境が多く作用しているのではないかと思っていた。それは今の自分がまだ人間的に形成されているわけではないことから、生まれつきに持っていたものは、さほどなかったように思う。

――生まれつきに持っていた性格を、育ってきた環境で変えることができるものなのだろうか?

 育ってきた環境はまわりから影響を受けたくないという反発心が強ければ強いほど、影響を受けやすいのかも知れないと思っている。考え方が天邪鬼なのだが、これも五郎の育ってきた環境によるものなのかも知れない。

 五郎は、子供の頃から、自分が実際に見たり触れたり、そして実際に納得したことしか信じない性格だった。慎重な性格といえば聞こえはいいが、人のいうことを素直に聞く耳を持っていなかったということでもある。

 小学三年生くらいまでは、まわりのいうことをほとんど聞かなかったかも知れない。何しろ理解できないのだから、聞く耳を持っていなかった。

 学校で宿題を出されても、

「どうして宿題をしなければいけないんだ?」

 という疑問が浮かぶだけで、していこうという発想が浮かばない。だからやっていかない日々が続くと、今度は宿題が出されてことすら忘れてしまっている。

――僕の忘れっぽい性格は、この時に形成されたのかも知れない――

 と感じた。

 納得のいかないこと以外は、いくら叱られてもやる気が出ないのだ。

「じゃあ、どうして、宿題ってしなければいけないの?」

 と聞くと、まともな答えが返ってくるわけがない。まともな答えというのは、五郎を納得させられるだけの答えということで、世間一般の人がいう言葉など、説得力のかけらもないと思っていた。

「ちゃんと学校で言われたことをしないと、まともな大人になれないのよ」

 案の定、そんな答えだった。

 苦し紛れもいいところで、

「まともな大人って何なの?」

 と、聞けば、さらに相手は困ってしまって、

「そんなことは子供が考えることではありません」

 と、とどのつまりが、逃げの返答しかできないのだ。そんな人たちのいうことを誰が聞けるというのだろう。

 大人の理屈を押し付けられて、承服できないまま、逆らいながら生きていたが、小学四年生になった頃に、一人の先生に出会ったことで、五郎は少し変わったのかも知れない。

 やはり五郎も子供である。子供だからこそ、受け入れやすいというのか、後から考えれば、うまく丸め込まれた。あるいは、騙されたとも言えるかも知れないが、自分が納得できる答えさえ見つかれば、それだけでいいのだ。要するに、

「きっかけ」

 が、必要だったということなのだ。

 四年生の頃に担任になった先生は、宿題を課すことはしなかった。ただ、子供たちの自由意志で、復習、予習をやってきて、ノートにまとめていれば、サインをくれた。それが溜まると、記念品のようなものをくれるというやり方で、まるで、目の前に餌をぶら下げて、生徒を釣るというやり方だったのだ。

 ある意味、踊らされているだけなのに、五郎には納得させられるだけの説得力があった。「きっかけ」

 が見つかったのだ。

 先生にしてみれば、こんなやり方でも、五郎が感じたように、「きっかけ」になればいいと思っていたのだろう。五郎以外の生徒も、こぞって課題をこなしていった。

 もし、まわりが反応しなければ、どうだっただろう?

 先生のやり方はいいやり方ではなかったということで、中止を余儀なくされたに違いない。そう思うと、まわりも一緒になって反応してくれたのは、五郎にとっては幸いだったことだろう。

 学校が楽しいというところまでは行かなかったが。とりあえず勉強することに子供としての生きがいのようなものを見つけたのは事実だった。勉強が楽しいことで、ここまで自分の性格が変わるのかと思うほど、自分の中で変わっていった。ただ、それをまわりはほとんど気付いていなかったに違いない。

 それでも一部の人は気付いていたようだ。鬱陶しいと思っている親は別にして、五郎を慕ってくれた女の子もその中の一人だっただろう。

 親に関しては、勉強を好きになってから、まるで手のひらを返したかのようになっていた。

「やっとやる気を出したのね。お母さんは嬉しいわ。今度のテストで成績が上がっていれば、五郎ちゃんの好きなもの、何でも買ってあげる」

 実に勝手なものである。心の奥で舌打ちをしなから、これも役得だと思い、

「うん」

 と言って、買ってくれるものならいくらでも貰おうという態度を示したのは、親に対しての皮肉も込められていただろう。

 女の子からなつかれるのは、嫌ではなかった。もし、それが三年生までの自分であれば、きっと相手を近づける雰囲気ではなかったに違いない。彼女は五郎の中に芽生えた新しい性格を慕うに値すると思って、五郎になついてきたのだ。

 まるで猫のような感じだったが、決して猫のような性格ではないことは分かっていた。

 彼女の名前は奈保子。家族公認で、お友達としてお互いの親から迎えられていた。

 五郎の親からすれば、奈保子の親は、PTAに顔が効くということで、繋がりを持っていたいという思惑があったようだ。何と、それを子供の前で公言するくらいなので、何とも呆れたものだ。

――こんな親から、生まれたのか?

 とさえ思ったほどで、自分でも親に対してビックリさせられた。だが、それでも、

――この親なら、それくらい考えそうだ――

 という納得もあった。何しろ三年生の時に、自分の質問にまともどころか、最低の答えしかできなかった人なのだからである。

 やる気が出た途端、取って返したような豹変ぶり、今さら驚かされたとしても、別にそれだけのことだとすぐに感じるのだった。

 五郎にとって奈保子は、初めての女友達。最初は、どう対応していいのか戸惑ったが、それも照れ隠しからだと思うと、すぐにいとおしくもなっていく自分を感じていた。

 五郎が、有頂天になった一番最初がこの時だったのかも知れない。

 今までにも何度か有頂天になった時期があったが、この時だけは違った意味での有頂天だった。

 納得がいく生き方を自分自身で見つけたことだけでも、心の中で有頂天になっていた。そんな人間に、ついてこようとする人が寄ってくることを、最初、五郎は分かっていなかった。

――そんなものなんだ――

 と感じた時、すでに奈保子をいとおしいと思うようになっていて、迷うことなど何もなく、奈保子と一緒にいればいいと思った。

 お互いの家に遊びに行っては、親からもてなされる。奈保子はまんざらでもない雰囲気だったが、元々が大人しい性格、よく見ていないと、感情を感じ取ることはできなかったに違いない。

 奈保子の親とすれば、

「親は子供のために、PTA頑張っているんだから、あなたも、もう少し気持ちを表に出して。お母さんを助けてくれないとね」

 と、言われたことがあると教えてくれた。

 言葉の最初の方はいいのだが、最後の言葉がどうしても引っかかる。奈保子は本当は感情に激しさを持っているのに、それを表に出さないのは、彼女も育ててくれている親を見ていて、出してはいけない言葉があることを感じると、それに伴って、感情も抑えるようになってしまったのかも知れない。

 奈保子はいつも五郎の後ろにくっついている女の子だった。前に出ることはなく、五郎も後ろにくっついている奈保子を憎まざる相手として見ていたのだ。

 後ろから視線を浴びるのはあまり好きではないが、奈保子のような視線であれば、悪い気はしない。慕ってくれているという気持ちが伝わってくるからだ。

 一緒にいて、会話が弾むことはあまりなかった。部屋にいて本を読んだり、テレビを見たりして過ごす時間の方が多かった。異性を感じるわけではないので、それでもよかったのか、そばにいるだけで楽しい気分にさせられた。

 それは奈保子も同じだったかも知れない。

 五郎も同じだったが、それまでいつも一人でいたのだろう。孤独に慣れてしまっていると、今度は下手に賑やかになってしまうと、とてもその賑やかさに耐えられなくなってくる。

 何も話さない時間を過ごしていると、時間が経つのがゆっくりで、

「まだ、こんな時間だよね」

「ええ、そうですよね」

 と、時間に関しての言葉を交わすことがあり、却って皮肉な感じがしてくるのだった。

 一人でいる時間よりも長く感じられる。五郎はあまり意識していないようだったが、奈保子の方が、

「時間が長いと一緒にいる時間も長くて、嬉しい」

 と思ってくれているようだ。

 実際にその言葉を聞いたことがあるし、そう言った時の奈保子の顔に、安心感が浮かんだのを感じたほどだった。

 二人とも、お互いに男女であることを意識していないようだった。このまま二人に別れなど訪れないだろうと思っていた矢先のこと、五郎の中に微妙な心境の変化が訪れた。

 今まで綺麗に光るロングヘアをずっと気にしていたのに、ある日急に髪の毛を切ってきたのだ。雰囲気はおかっぱっぽくなって、完全にそれまでのイメージとは違っていた。

「どうしたんだい?」

 というと、照れたように、

「髪を切ってみたの。似合うかしら?」

 と、ニコニコしていた。

 五郎は、違和感を感じていた。せっかく長かった髪を切ってしまったことを残念に思うよりも先に、寂しい思いを感じてしまったのだ。

 寂しい思いを感じると、奈保子が自分の知らないところに行ってしまったかのような感じを受け、自分にこんな気持ちを抱かせた奈保子を、憎むようにさえなってくる。

「奈保子が悪いわけではないのに」

 そんなことも分かっている。しかし、すでに自分の知っている奈保子ではなくなってしまい、知らない相手にしてしまった髪を切った奈保子と、今までと同じように付き合っていく気には、どうしてもなれなかった。

 一緒にいても、さらに時間が長く感じられ、

「同じ時間の長さでも重みが違うとここまで変わってくるものか」

 と思うようになり、重みのある方が、不快感を感じるのだった。

 態度に露骨に表れるようになると、奈保子は五郎から去っていく。背中からの視線を感じなくなると、身が軽くなったような気がして、安心感が戻ってきたように思ったが、今度は、他の視線を感じるようになった。

 その視線の主が、もう一人の自分であることに気付いたのは、奈保子が完全に五郎の前から、そして後ろの存在が消えてしまった時のことだった。

 感じる視線は重たさというよりも、締め付けられる痛みであった。視線が人に痛みをもたらすということを聞いたことがあるが、まさしくそのイメージであった。

 五郎にとって奈保子とはどういう存在だったのか?

 子供の頃にも考えていたはずだった。だが、それは大人になってから思い出すのとではかなり違っているに違いない。何が違うといって、一番違うのは、やはり異性を意識していなかったということだろう。

 だが、大人になって考えると、異性を意識していなかったというのは、本当だろうかと思うのだった。髪を切ってきた奈保子に対し、自分の中で勝手に残念に思い、そして自分にこんな思いをさせた彼女に恨みを抱くほどになった。逆恨みもいいところだが、これも相手を異性として意識していたからこそ思うことだ。

 相手に対して気を遣うということを、その頃の五郎は考えたこともなかった。自分が考えていたことを狂わされたら、即相手を恨む。そんな気持ちにさせられるのだ。

 高校二年生の頃だった。その時から、まったく意識することもなく、小学生時代を過ごし、違う中学に進んだことで、忘れてしまうほどの存在になっていた奈保子を偶然に見かけたのだ。

 それは、初めてアルバイトした時のことだった。郵便局での、年賀状配り。五郎は配達員、奈保子は仕分けを行う人、立場は違うが同じ職場であることは変わりなかった。

 その時に見た奈保子は、小学生の頃と、ほとんど変わっていなかった。身体が大きくなっているだけで、や異形も幼児体型のまま、大人しい雰囲気はそのままで、異性に興味をあるその時の五郎には、

「抱きしめてあげたい」

 と、思う相手になっていたのだ。

 相手が変わったわけではなく、自分が変わったのだ。話をしたわけではないので、奈保子がどんな女の子になったのかも分からない。

 奈保子は五郎に気付かないはずはないのだが、五郎を気にするわけでもなく、いつも一人でいるところは昔に似ていた。

「あの頃のことを謝りたい」

 自分のイメージとは違う女の子になってしまった奈保子に対して、離れて行くような態度を取った五郎。奈保子にはなぜ五郎が離れていったかなど、分かるはずもない。

「ごめんね」

 と、素直な気持ちで面と向かって言えれば、どんなにいいだろうか?

 五郎のそれからの人生で、素直に謝ることができたことなど、あっただろうか?

 謝りたいと思った時、すぐにであれば、それほど気を揉むこともなく謝れるに違いないのに、時間が経ってしまうと、謝ることがどんどんできなくなってしまう。そのことを五郎は反省していた。

 ただ、どうしてそうなってしまったかという原点は、奈保子との再会の時に、謝ることができなかったことが大きなトラウマとして残っているからであろう。

――その時にできていれば――

 こんな思いをしたのは、一度や二度のことではない。

 その時に、奈保子が五郎に向かって話しかけてくれた。五郎は、その時に言われた一言に対して、何も言い返すことができずに、その場に立ち尽くしていた。もし言い返すことができていれば、将来が違っていたかも知れない。奈保子のことをもう一度考えることができたであろうに。

「五郎さん。全然変わっていないわね」

 この一言だったのだ。

 五郎の頭は、その瞬間、パニックに陥った。

――どう解釈すればいいんだ?

 変わっていないというのは、五郎が奈保子に対して感じたイメージではないか。

 まるで、そのことを最初から言いたかったのか、奈保子の表情が歪んだように見えた。だが、それは思い過ごしであるかのようにすぐに元のポーカーフェイスに戻っていた。

――奈保子がそんな顔をするわけがない――

 と思ったが、大前提として五郎の心の中にあるのは、その発想だったのだ。

 奈保子の目には、五郎がまったく変わっていないように映ったのは間違いないことなのだろう。確かに五郎自身、それほど性格は変わったとは思わないし、派手になったわけでも、人から流されやすいような流行を追っているわけでもない。まったく変わっていないように見えても不思議ではなかった。

 だが、それだけだろうか?

 変わっていないと言ったのが、離れて行った時の、冷徹な五郎を見て、

「変わっていない」

 と言ったのだろうか?

 もしそうであるとしたなら、五郎の顔は真っ赤になり、これから奈保子だけではなく、他の女性に対して、どう接すればいいかということも考えなければいけない。

 さらに奈保子が五郎に対して発した言葉が結局その一言だけだったのが、もっと気になる。

――一言言うだけなら、何も言わなければいいのに――

 と、普段の五郎なら思うことだろう。

 自分から離れて行った五郎からすれば、声を掛けられないのは無理もない。我ながら、

――今さら――

 という思いが強いからだ。

 五郎にとって、自分から離れて行った罪悪感があるのは当然なのだが、奈保子の顔を見ていると、罪悪感よりも、もう一度仲良くなりたいという思いが強くなってきた。

――しまったことをした――

 自分から離れて行ったことへの後悔が頭を過ぎる。

 そういえば、あの時、まわりの男の子たちから、からかわれていた覚えもあった。

「女の子とばかり一緒にいる軟弱者」

 という苛めに近い中傷を浴びていた。

 奈保子はそのことを気にしていたのかも知れない。誰よりも、じっと五郎のことを見つめていたのが奈保子である。特に後ろ姿は、

――誰も知らないことを自分だけが知っている――

 と思わせるに十分な迫力を感じていた。

 久しぶりに会った奈保子と、一言も話すことができなかった自分に五郎は腹を立てていた。

――ここまで僕は卑屈なのか?

 という思いと、一度話すタイミングを失うと、二度と声を掛けることができなくなるのだという思いとが交錯していた。それでも、タイミングを失うのも自分が悪い。そう思うと、自己嫌悪に悩まされるのだった。

 その思いが、今も五郎を悩ませる。女性に対して言わなければいけないことを言えなかった。それが離婚に繋がったことも事実であった。

 今までに経験した女性との別れ、その中には、話してあげられなかったことでの別れもあったはずだ。余計なことは言うのに、肝心なことを言わないと思われていたのかも知れない。

 その時の奈保子と、里穂がダブって見える。ということは、綾香の中にも、奈保子を見たということであろうか。奉仕に徹してくれる綾香と、何もしないが、ただそばにいるだけで安心感を与えてくれた奈保子、まったく違っているようで、同じ感覚で見ている自分がいることに気付かされる。

――里穂は、どんなタイプなのだろう?

 癒しを与えてくれるという意味では奈保子や綾香と同じである。里穂を見ていて、綾香と奈保子の間の共通点をハッキリと認識させられる気がしてくるのだ。

 里穂と一緒にいると、余裕が感じられるが、余裕のほとんどが笑顔から与えられるものだった。香織と一緒にいる時も、余裕を感じるが、香織から与えられる余裕がどこから来るのかは分からない。香織は里穂のように笑顔を振りまくようなことをしないからであった。

 里穂と香織を比較していると、次第に比較すること自体がバカバカしく思えてくるのだった。

――二人で一人――

 だという発想も生まれてきたが、それもすぐに、

「そんなバカな」

 と打ち消していた。

 二人に対して、いろいろな発想が浮かんできては、すぐに消えている。ただすぐに消えるからと言って、信憑性が低いわけではない、むしろ高いからこそ、すぐに打ち消さないと、考えている自分が怖くなるからであった。

 里穂と、一緒に食事をして、テレビに映っているドラマを見ている。会話はほとんどないと言ってもいい。

――あれ? どこかで感じた思いだ――

 と、思い出そうとするが、簡単には思い出させてくれない。里穂が五郎の顔を見て、ニッコリ笑ったことで、どこで感じた思いなのか、思い出したのだ。

――そうか、小学生の頃に、奈保子と一緒にいた時の感覚だ――

 なぜ、すぐに思い出せなかったのか、自分でも不思議だった。

 すぐに思い出せなかったわけではなく、思い出そうとしたが、厚いブラインドに阻まれて、記憶を呼び起こすことができなかった。奈保子という女の子の印象が薄かったからでは決してない。

 奈保子は印象が薄かったのは、五郎に対してではない。五郎以外の他の人に対して印象が薄かったのだ。それを一緒にして考えると、さらに記憶が遠い昔のように思えてきて、思い出せることであっても、思い出せなくなってしまうことに気が付くのであった。

 奈保子のことを一生懸命に思い出そうとすればするほど、奈保子が遠い存在に思えてくるのだ。自分から遠ざかって行ったことは覚えているはずなのに、そのことを棚に上げて、五郎は自分の気持ちを過去の思い出として引き出そうとしようとすることで、自分の正当性を確かめようとしているのかも知れない。

――どうしてあんな態度を取ってしまったんだ?

 すべてが後の祭りだが、その時のことを五郎は

――本能による行動だ――

 と思うようにしている。

 もちろん、言い訳でしかない。本能という言葉は漠然としていて、使い勝手もいい言葉だ、本能という言葉で片づければ、一つのことに熱中している時でも納得がいく答えを引き出せるような気がするのだった。

 本能は、誰もが持っているもの。人間に限らず動物であれば皆そうである。

 奈保子と過ごした日々のことは、完全に頭から消えていた。まだ、異性に興味を持つ前だったこともあって、今までに知り合った女性たちとの記憶が、奈保子とのひと時を、忘却の彼方へと追いやったのかも知れない。

 奈保子との思い出が今、少しずつ記憶の奥からよみがえってくるのを感じる。暖かいものがこみ上げてきて。これも最近感じた暖かさに似ている。

 暖かい感覚は、部屋が暖かかったことを思い出させ、里穂の部屋の暖かさと同じであることを意識している。

 里穂の存在が次第に自分の中で大きくなってくるのを感じるが、奈保子の思い出とともに、香織のイメージまでも引き継いでいるように思えるのだった。

 里穂の存在が大きくなるにつれて、香織が次第に遠い存在に感じられた。

――香織と出会うのが早すぎた?

 そう感じたが、

――いや、そうではない。今、出会わなければ、ずっと出会わないままであったと思のだ――

 出会うべくして出会った相手、それが香織だった。今まで付き合った女性にもそれは感じるが、ハッキリと意識させられることはなかった。香織に対してその思いを抱かせたのが里穂の存在であることを、五郎は意識していた。

 里穂に対して、

「触れてはいけない相手」

 だと思っていた。ちょっと触ってしまっただけで、崩れてしまいそうな弱弱しさが里穂にはあった。そう思って見ていると、里穂の影が薄くなっているのを感じる。

 人の影が薄くなっていくのを感じたのは、実は里穂が最初ではなかった。何人かいたような気がしていたが、一番印象的だったのが、和代だった。

 横田という男の存在を感じるようになってから、急に和代の影が薄くなっていくのを感じたのだが、里穂に感じる薄い影とは、イメージが違っていた。

 それまで大きな存在だった和代が、ろうそくの炎が消えていくかのごとく、急に影が薄くなっていったのだ。里穂に対しては最初から印象が薄い雰囲気だったので、さほど影の薄さが気にならなかったが、里穂の場合でも、やはり薄いことに気付いてしまうと、気にしないわけにはいかなくなった。

 里穂の影の薄さに、嫌な予感があった。

 和代のことを、少し小耳に挟んだのだが、あまりにも突拍子もないことだったので、信用していなかったが、今考えてみると、その噂も信憑性がまったくないわけではないと思うようになると、気持ち悪くなってきたのだ。

 その噂は、会社内部の人からだった。

 和代と横田のことは、ある程度会社でも知られていた。ということは五郎と和代のことは、もっと知られているのだろうが、そのせいもあってか、噂が耳に入ってくるのは、かなり遅かったようだ。

 噂の元は、彼女の友達だったらしいが、彼女もすでに会社を辞めていて、噂の真意をただすことはできない。

 しかも、転勤になって何年も経ってからの噂だったので、五郎がそれを問いただすことは難しかった。

 五郎がまだ敦美とは交際期間で、結婚の話が出てくる前のことだった。和代のことを忘れかけていた五郎だったが、それでも大学教授と結婚したと聞いた時に感じた嫉妬を、そう簡単に忘れられるものではないと思っていた。

 大学教授との幸せな日々を送っていたであろう和代だからこそ、忘れられそうな気がしていたのも事実で、考えていることの矛盾を感じながら、和代の噂を聞いた時、

「信じられない」

 という思いからか、自分が他人事のように思っているのに気が付いた。それはあまりにも恐ろしい発想だったので、夫である大学教授の気持ちを考えるだけの気持ちも生まれてきた。

――僕と同じ立場なのかも知れないな――

 そう思うと、結婚しなかったことは、正解だったのかも知れない。

 和代の話は、彼女がいた支店ではある程度タブーだったようだ。会社の人間の中には賛否両論があるようで、

「彼女は魔性の女、横田さんや、斎藤さんが可哀そう」

 という意見と、

「彼女も悪いんだろうけど、彼女に近づく男性が頼りないのも彼女が不幸だった一因かも知れないわね。その証拠に、今度の男性は大学教授。やっといい人を捕まえたって感じじゃないかしら」

 と思っている人たちからすれば、どうしても相容れない意見を持った人との話は喧嘩になりかねない。他人のことで喧嘩になるほどバカバカしいこともなく、そう思えば、話を封印するのが一番いい。

 何と言っても、当事者が誰もいないのだから、噂するだけ疲れるというものだ。タブーと言われるのは、少しは彼女の経歴から色が付いたからではないだろうか。

 和代に対しての噂を直接聞かされたのは、当事者どころか、和代のことを一切知らない人で、完全な部外者。そんな人の他愛もない噂話にしかすぎなかったのだ。

「斎藤さんは知ってますか? 以前私がいた支店に勤務していた女性が亡くなったって話を」

 その男は、和代と五郎がいた支店にもいたことがある後輩であった。もちろん、五郎や和代とその支店で一緒だったことはなく、つい最近、五郎のいる部署に転勤でやってきたのだった。

 彼は、パートのおばさんたちともうまくやっていたようだ。

 五郎の場合は、うまく載せられてしまったところがあったが、彼は逆におばさんたちの情報網をうまく利用したようだ。

「他の人には話せないことなの」

 と、言いながら、彼には話をしてくれたことも多いという。

 その言葉のどこまで信じていいのか分からないが、彼のしたたかさは、五郎など足元にも及ばないことは間違いないようだ。

 その時に聞いたのだという。

「前ここにいた女の子は、転勤で来た男性何人かと仲良くなって、いつも最後は、悲惨な別れ方だったんだけどね……」

 というところから始まった。おばさんが相手のことまで話さなかったので、そのうちの一人が五郎だとは、さすがに気付かなかっただろう。

 五郎のことを聞かなかったのは彼にとって幸いだったのか、分からないが、五郎にとっては、あまりよかったとは言えないかも知れない。そのせいで、聞きたくもないことを聞かされる羽目になってしまったのだから。

 もし、彼が五郎と和代のことを知っていれば、さすがに五郎にこんな話をするわけもないだろう。和代の話はタブーと言われているだけに話をする相手は、彼としても選んでいたはずである。それにしても、彼には和代の相手の一人が五郎だということを、本当に気付かなかったのだろうか。

 彼の話を聞いていると、最初は、何が言いたいのか分からなかった。

――彼が何かを言いたいと思っているから、分からないのかな?

 と思うようになると、少し聞き方が変わってきた。

 五郎自身が、時間が経っているとはいえ、完全な当事者で、彼は五郎が当事者であるということを知らない。それだけに自由に発言できるのであって、それが五郎にとってどういう意味を示しているのか、分かるはずもなかった。

 かいつまんで話をしているところもあり、要点だけを聞くと、どうやら、和代はすでにこの世の人ではないということらしい。五郎にとっては、相当ショッキングなことではあるが、他人からすれば、興味本位でしかない。

 しかも、横田のことも聞いているらしいが、どこまで聞いているのか分からない中で、横田もすでにこの世の人ではないことは、承知しているようだ。

 それだけを線で結ぶと、興味深い話が生まれてくる。何とも野次馬根性が湧き出てくるような発想が生まれるのも仕方がないことで、五郎の発想とはまた違った発想も、人によって様々生まれているに違いない。

「和代は死んでいるのかも知れない」

 という思いが、実は以前からあったように思えてきた。それは、横田がすでにこの世にいないと聞かされた時、すでに、和代の中にも生きていく支えがなくなってしまったように思えたからだ。

「それなのに、結婚などしてしまって」

 と、和代のことが分からなくなっていた。

 ただ、勝手な想像にすぎないことを、どこか信憑性が深いように思えるのは、不思議な思いが和代の気持ちの中から伝わってくるように思えたからだ。

 虫の知らせというものがあったのだ。

――ひょっとして、和代はすでに、この世の人ではないのかも知れない――

 そう感じた瞬間が確かにあった。しかもその瞬間というのが、友達の敦美を抱いている時だったのだ。すぐに打ち消したくなったのも後ろめたさというよりも、偶然の恐ろしさに、背筋が寒くなるのを覚えた。

 今までに感じたことのない快感を、その時に味わった。それから以降、誰を抱いても感じることのない思い、

「夢か幻のようだ」

 と思ったにもかかわらず、背筋に感じた重たさと冷たさ、それが和代の死を予感させるものだったのだ。

 後輩が、和代の死を伝えた時、さすがにそのことの重大さに、後輩も気付いたようだ。急に話ができなくなって、声を出すこともできない。顔面蒼白で、まともに五郎の顔が見れなかったようだ、それだけ、五郎の顔に鬼気迫るものがあったようである。

 きっとお互いに相手の顔に自分の表情を見たのだろう。それだけ同じような表情だったのかも知れないが、すぐに我に返った後輩は、それ以上話をすることもなく、そそくさと席を離れたのだった。

 和代との思い出が走馬灯のようによみがえってきたが、和代の顔がなぜか思い出せない。思い出そうとすると、見たこともないままに会うことが永久にできなくなった横田の顔が見えてくる。

 横田が死の形相で笑っている。その顔はひきつっていて、断末魔の恐怖に歪んでいるようだ。

――そういえば、自殺じゃないかという話もあったよな――

 横田の噂を思い出したが、

――じゃあ、和代も自殺したんじゃないだろうか?

 まさか、別れてから相当経っていることだし、しかもいい縁談に恵まれて結婚もしているというではないか。

 そういえば、五郎は、和代と付き合っていた時の和代の気持ちの大きかった部分を今思い出していた。

――和代には結婚願望が強くあったな――

 本人もそうなのだが、彼女のまわりが結婚を焦らせているように思えてならなかった。横田との別れのショックから立ち直るには、結婚しかないとでも思っていたのか、その思いは本人も強かったようだ。

 そこに現れた五郎に、好きになられて、嫌な気がするはずもない。どうしても横田と比較してしまうところは仕方がないとしても、和代と五郎は、いつも喧嘩をしていたが、それはお互いの気持ちを確かめ合っているからだと思っていた五郎は、めでたい頭をしていたのかも知れない。

 そういう意味では、五郎は和代に引っ掻き回されたのかも知れない。だが、五郎は後悔はしていない。

――もし、もう一度同じようなことになっても、また同じことを繰り返すだけではないだろうか――

 五郎は、そう思っていた。

「人生は繰り返す」

 という話を聞いたことがあるが、あまりにも言葉の解釈が漠然としていて。その意味についてあまり考えたことはなかったが。今思えば、

「和代とのことを繰り返してしまうということが起こるのではないか」

 と思えたのだ。

 もう一度同じことを繰り返すというのは、学習能力がないのだろうが、

「今度は同じ轍を踏まない」

 という思いも少なくない。分かっているだけに、

「今度はうまくやるさ」

 と楽天的に思うのだが、そう思えば思うほど、不安が頭を過ぎるのだった。

 ただ、二人はあの世で出会っていると思うと、少し気になってしまう。今を生きている五郎には、香織がいて、今自分の前には里穂がいる。今さら和代を思い出して、もう一度同じ道を歩みたいなどと思うのは、考えにくいことだ。

――どうして、そんなに和代が気になるんだ?

 確かに、和代に対し、今までで一番好きだった相手だという認識を抱いているのは間違いない。それは、和代の死というものをイメージとして抱き、覚悟を持っていたからなのかも知れない。

 一番好きだった相手、そして、今実際に好きな相手。誰もが同じような思いを抱いているように思えた。その中で、目の前にいる人をどれだけ愛することができるかを考えなければいけないのだろう。

 浮気をしたことがないと思っている人でも、かつて好きだった人のことを思い出して、物思いにふけることもあるだろう。その時に、その人が感じる罪悪感。それがその人にとっての浮気の定義であるとすれば、五郎のようにたくさんの人と付き合ってきた人間には、浮気という定期はあってないようなものかも知れないと思う。

 和代の死が五郎に対してどのような影響を与えるか、今は話を聞いたことで、自分の感じていた和代の死が信憑性を深めたという事実、本当は、この期に、和代のことを忘れてあげなければいけないのではないかと思うのだった。

――そうじゃないと、和代も、僕も浮かばれないよな――

 と考えたが、それも和代の死の理由による彼女の気持ちを、少しでも感じることができないと、いつまでも、和代が頭から離れない気がした。

 和代の死によって、和代の記憶を封印してあげた方がいいのか考えてみた。

 和代の死が、果たして横田の死に関係しているかどうかが、問題であった。

 五郎の考えとしては、どうしても二人を切り離すことはできない。そう思うと、和代の死が横田の死と関係しているかどうかなど、関係ないと思えてきた。

――やはり、忘れてあげる方がいいんだ――

 それは自分のためでもあった。香織のことが一番好きだと思っているところに現れた里穂という女性の存在。いや、正確に言えば、最初に出会ったのは、里穂の方が先だった。ただ、香織という女性のイメージが強すぎて、そして考え方や身体の相性などを考えれば、香織が最高であった。

 里穂のことは最初から気になっていたのは事実だ。ひょっとすると、里穂を意識していたから、香織のことを好きになったのかも知れない、まったく違う性格に見えるが、感じている共通点は多いのだろう。

 どこが共通点なのかと言われればハッキリと答えるのは難しい。ただ、感じるのは、同じ次元で二人を見比べることはできないということだろう。

 同じ次元で見てしまうと、お互いにすれ違いを感じるからだ。

 数分前を歩いている自分の存在を考えた時のことを思い出した。決して交わることのない平行線は、違う次元を同じ物差しで見ようとするタブーを感じていた。夢で片づけるのならいいが、現実として考えると、タブーへの挑戦である。SFなどで過去と未来の人間が同じ次元に存在することが許されない発想である。そのことが分かっているので、誰もが考えることなのかも知れないが、話題として上ることがないのだ。

 そこに知らない力が存在していることは否定できない、知らない力の存在がなければ、説明できないことばかりだからである。

 和代の死は、横田の死と時間的にはかなり離れているが、ひょっとして、

――その時でなければいけなかった――

 のかも知れない。

 たとえば、その日が二人にとっての記念日であったり、横田の命日であったり、和代にとって、横田との記念日だったらどうだろう?

 いや、まさか自分との記念日だということもないだろうか。考えすぎかも知れないが、和代の中にはまだ五郎の存在があり、記念日に決別を考えるというのは、あまりにも突飛な考えであろうか?

 和代の性格からすれば、それくらいのことは考えそうな気がする。余計な発想ではあるが、そう思うと、和代の死に、五郎も少なからず関わっているのかも知れない。

――確かあの日は――

 五郎が、和代が死んだのではないかという予感が走った日というのは、確か和代と初めて話をした日だった。告白した日でも、和代に答えを貰った日ではないことが、和代のせめてもの横田に対する気持ちの表れだったのではないだろうか。

 そう思うと、記念日の考え方が、和代の性格を表しているのを感じる。

 和代は原点という発想をすることが多かった。何事もきっかけや原点があり、そこからの波及が結果をもたらす。すべてはきっかけから始まることで、原点を大切にすると言って、誕生日に対して他の人よりも思い入れが激しかったのだ。

 そういう意味では、人間の原点が生まれることである。死はその正反対であることから、まったく違うものという考えもあるが、見方によっては、三百六十度回って、元に戻ってくるという発想もある。マイナスにマイナスを掛けると、プラスになるという発想にも似ているかも知れない。

 和代が死んだことを、今頃聞いたのも、何か意味があってのことではないだろうか。すぐに聞いてしまったとして、今のように深く考えることができるだろうか? ショックが少なからず尾を引く形になるかも知れない。

 香織と知り合ったことが、深く考える自分を形成できたのだと、五郎は思っている。それだけ香織という女性は五郎にとって成長を与えてくれた存在であり、気持ち的な余裕が生まれる余地を、まわりから与えてくれている女性であった。

 ただ、里穂に関しては。見ているだけでよかった。もちろん、話ができるのが嬉しいに違いないが。それ以上にそばにいてくれることが大きな存在となっているのだ。

 里穂と一緒にいるだけで、気持ちに余裕ができるが、それは心の中が無の状態になるわけではない。過去のことを思い出していることの方が多かったりする。過去のことを思い出すと五郎は、時々不安を感じることがあったが、里穂といると、過去に不安を感じない。不安になる要素をすべて里穂が取り除いてくれているようだ。

 里穂の部屋に二人きりになる機会があった。

 それは里穂が望んで作ってくれた時間だった。

――里穂もまんざらではないんだな――

 ただ、五郎の中に、里穂と二人きりになることに不安がないわけではなかった。今まで女性と二人きりになると、不安がなかったわけではない。だが、期待と興奮が大きすぎて、不安を忘れてしまうほどだった。

 里穂といると、期待や興奮は、それほどない。期待は他力本願のようで、里穂に対して他力本願は通用しないような気がするのだ。

 興奮も同じで、本能が引き起こす興奮にしても、里穂に対しては、冒涜のような気がしていた。

――里穂は、僕にとって新鮮な存在なんだ――

 と思いからだった。

 となると、残るのは不安だけではないか。ただ、その不安もどこから来るのかが、ハッキリしない。

「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 という不安が頭を過ぎる。

 自分のことを知っている人、それは、逆に自分が知っている人のことである。頭に浮かんでくるのは女性ばかり、男性とは、その時だけの付き合いであったり、仕事上だけの付き合いでしかない。

――僕が、それほど女好きということか?

 女性を女として見ているから、女性を好きだという発想は、あまりにも乱暴すぎる。癒しを求めたり、慕われてみたいという思いが強かったり、それが五郎がいつも考えていることだった。

 里穂に感じた思いは、徐々に好きになっていける相手だということだ。今までにも徐々に好きになっていった女性は多いが、里穂に対しては少し違う。他の女性に感じる、こみ上げてくるような思いが、少ないのだ。

 セレブな雰囲気を醸し出し、男から見て、憧れのようなものを感じるのだ。

 他の女性は、憧れはなかったように思う。

 里穂に対しては、他の女性に感じなかった、不可思議な魅力があった。妖艶さがあるわけではないが、慕ってくれる雰囲気もなく、五郎が今まで好きになられて嬉しかった思いができるような気もしなかった。

 里穂に感じたのは、綾香のイメージだった。

 綾香はプロの女性だったが、五郎にはとてもプロのような感じがしなかった。癒される感覚が強かった。

 もちろん、里穂は綾香ではない。綾香の残ったイメージが、里穂にシンクロしているというべきか。興味があって、その人のイメージが頭に残っていると、残っているイメージは次第に自分の感情や妄想が重なり合って、自分流にイメージを作ってしまうことが多いだろう。

 綾香に対してもそうだった。綾香は五郎の中で普通の女の子になってくるイメージがあった。

 最初のイメージが強烈だっただけに、次第に冷めていっているのか分かる。

 それも仕方がないことだ。綾香を知ってからの五郎は、いろいろな女性と付き合ってきた。結婚したりもしたが、その間に女性に対しての気持ちが山あり谷ありだったりしたものだ。

 五郎にとって、綾香の存在は、今では普通の女性である。もし、街で出会ったら気軽に声を掛けてしまいそうだ。

 さすがに綾香にはできないだろうが、できないだけに、声を掛けてしまいそうな衝動に駆られてしまう。

 里穂には、街で出会ったら、必ず声を掛けるだろう。里穂もそれを望んでいるように思えてならない。

「どう言って、声を掛けるだろう?」

 里穂は、思ったより、他の人から見れば、存在感が薄いように思う。薄い存在感は、他の人から見れば、何ら違和感はない。違和感がないだけに、彼女の存在が、他の人から見れば薄いのが分かるというものだ。

――まるで、小学生の頃の奈保子のようじゃないか――

 奈保子も存在感が薄い女の子だった。

――僕はやはり、存在感の薄い女の子が好きなんだな――

 と、感じさせた。

 綾香も考えてみれば、表で見ると、存在感の薄い女の子なのかも知れない。小部屋では主役であり、女優だということだろうか。

 綾香から受けた「もてなし」を、他の女性で感じることはなかった。あの時、綾香だったからこそ、里穂や、香織に会うことができたのではないかと思うくらいだ。

 五郎の脳内中枢を刺激する快感、それが綾香から受けた「もてなし」なのだと、頭の中にインプットされていて、他の女性から受けた感情はすべて薄いものにしか感じない。

 印象が薄い女性を好きになったのが、最初に意識した女の子である奈保子であったことと似ている感覚であろう。

 香織にばかり行きがちだった感覚が、里穂に移りつつあることに気が付いていた。

 里穂への安心感を崩さないようにしながら、香織に感じていた大人の魅力をいかに引き出そうかと、五郎は考えていた。

 大人の魅力を引き出してしまうと、里穂ではなくなってしまうような気がしていた。大人の魅力を引き出した里穂が、今の香織とダブって見えてくるからであった。もちろん、違う人間なので、それぞれに魅力は違いのだが、今のままの里穂に感じる大人の魅力が中途半端な気がするからだ。

――それでは満足できない?

 五郎は、自問自答を試みた。

 満足できないわけではないが、このまま里穂を見続けていれば、いずれ自分が辛くなるのを感じたからだ。

――何が辛くなるというのか?

 奈保子ほどの大人しさがあるわけではなく、和代のような自分を表に出そうとすることもなく、敦美のようにM性もなく、さらに香織ほどの大人の魅力があるわけではない。

――中途半端な魅力が、彼女の魅力なのかも知れない――

 ただ、五郎の好きだと思っている女性の魅力は、

――他の人にはない魅力を持っている――

 ということだったのだ。

 平均的な魅力の人はあまり好きになることはない。だからこそ、別れが突然だったり、受けるショックが大きかったりするのだろう。

 だが、里穂は明らかに平均的だ。

 奈保子ほどの大人しさはないが、ゆっくりとした佇まいは奈保子を思わせる。和代ほど自分を表に出すわけではないが、芯は通っているように思う。敦美ほどハッキリとしたMではないが、興味津々な態度から、M性も伺える。香織とのイメージに関しては、全体的にイメージがかぶっている。

――きっと気持ちの中にある余裕が、それぞれの人とかぶって見せているのかも知れない―― 

 まるでカメレオンのようだ。

 カメレオンは、保護色を使ってまわりの脅威から自分を守っている。護身という意味では、コウモリにも通じるものがある。動物は本能から身を守るすべを見つけた。里穂も同じように何かから身を守っているのであろうか。

 さらに里穂のことを考えようとすると、今まで付き合ってきた女性のイメージが勝手によみがえってくる。奈保子のことも、綾香のことも、忘れてしまったわけではないと思ったが、思い出すこともないだろうと思っていた。それなのに思い出してしまったのは、里穂と出会ったことが大きな影響を与えているに違いない。

――過去の記憶を思い起こす不思議な力が、里穂にはあるのだ――

 過去のことというと、どうしても、和代が引っかかって仕方がなかった。和代が死んでしまったとすれば、もう会うことができないのだ。和代の死の話を聞いて、余計に里穂が気になってきた。

 里穂に感じた他の女性との共通点。それは

「余計なことを言わない」

 ということだった。物静かな女性、自分を表に出そうとする女性。M性のある女、そして大人の魅力を感じさせる女性、そのすべてに共通して感じることが、余計なことは言わないということだった。

 和代との共通点は、里穂にはあまり感じられない。

 一つ考えられるとすれば、強い女性に見えて、五郎が見ると、弱弱しいところであろうか。

「僕が守ってあげなければいけない」

 他の人からは、決してそんな女性には写らないだろう。だが、弱弱しいところがあるのは間違いなく、その表情を見える相手が五郎だけなので、他の人には感じられることではないのだろう。

 ひょっとすると一番余計なことを言わないのは、里穂なのかも知れない。余計なことを言わないのは、一番自分に自信があるからで、その証拠がいつもニコニコしていることではないだろうか。

 余計なことどころか、肝心なことも言わないかも知れないと思えるほど無口だった。かといって暗い雰囲気ではない、いつも笑顔が爽やかで、何も言わなくても相手に安心感を与えるのは、そんな女性なのだろう。

 そういえば、香織も、

「こう見えても、私は以前は、本当に無口だったのよ」

 と言っていた。

 その時は、饒舌な彼女を無口にするくらいのショックなことがあったのかも知れないと思った。

 香織の口振りからは、過去に経験したことがなければ、口にできないはずだと思うことを、平気で口にできる性格だった。

 そんな性格を生まれ持っているわけもない。どこかで備わったものだろう。それがいつのことなのかと思うと、里穂の年齢くらいに培われたものではないかと思うのだった。

――香織って、一体いくつなんだ?

 付き合っていてもハッキリとした年齢を知らない。香織が自分から言うわけでもないし、五郎が自分から聞くわけにもいかない。

「お前、一体いくつなんだ?」

 冗談で聞いたことがあったが、返ってきた答えが、

「四十五歳」

 だったのだ。

 思わず、吹き出してしまったが、今思えば嘘ではなかったのかも知れない。五郎が笑ってしまったことで、その場の緊張が切れてしまい、それ以上詮索することができなくなってしまった。真意を確かめられなかった理由は、五郎にあるのだ。

 その時の香織の真剣な表情に、五郎がビックリしたのも事実だった。なぜその時に笑ってしまったのか、自分でも理解できない。年齢を聞いた時、少なくとも一瞬は納得したのだ。

 笑ってしまったことで、もう年齢を聞くことができなくなった。

「四十五歳」

 本当のことのように思えてならない。

 そして、香織が自分よりも、かなり先を生きている女性であることに気付き始めていた。

 何と、そのことに気付き始めたからであろうか、次の日より、五郎の前から、香織はいなくなってしまっていた……。


「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 香織という女性がいなくなったことを、誰も気が付いていなかった。当の五郎も、

――昨日まで誰かの存在に気付いていたはずなのに、誰だったというのだろう?

 というほど、記憶から消え失せていた。

 ということは、五郎のことを知っている人がまた一人減ってしまったということであり、次第に自分が孤独というトンネルに入りかけていることなのだ。

 ただ、今まで、誰か一人が自分の前から消えたら、新しい人を思い出すか、あるいは新しい出会いがあるかのどちらかだった。だから、孤独に足を突っ込むという感覚がなかったのである。

 果たして、今回もそうだった。

 新しい出会いではないが、友達の敦美が五郎の前に現れた。

 ただ、これからずっと一緒というわけではなく、一度きりの再会だったのだ。

 お互いに身体を貪り合い、翌日、ベッドの中には五郎一人しかいなかった。

 寂しさがこみ上げてきたが、不安はなかった。最初からいなかったのだと思えば、寂しくもないということを今さらながらに悟っていた。

――人生、ターニングポイントがたくさんあるというが、それは辻褄合わせのニュアンスもあるのではないか――

 と思っていた。

 ターニングポイントが心境の変化をもたらし、自分をいい方向に招いてくれることも少なくないが、その時は、必ず誰か過去に関わりのあった人が意識の中によみがえってきて、自分に影響を与えてくれるものだと思うようになった。

 過去を振り返ることは悪いことではないが、過去にこだわりすぎると、正面に控えていることを見誤るというイメージもあるが、決してそうではないのだろう。

――過去があって現在があって、未来がある――

 すべてが延長線上に存在するものではないだろうが、一つのことが、すべてに繋がっているという考えも間違いではない。

 五郎にとって、気になるのが、横田と和代の死だった。この事実が、五郎に与える影響は何であろうか? 少なくとも、今の瞬間、目の前にいるのは里穂なのだ。

――振り返った過去から現在を見ることで、本当に今自分の目の前にいる人が誰なのか、分かるような気がする――

 いつも同じ人のはずはないが、必ず見えてくる人と、おぼろげにしか見えてこない人がいる。おぼろげな人が真実なのかどうか、五郎には分かりかねていた。

 里穂のことが気になり始めてすぐ、里穂の方から五郎に誘いがあった。

「五郎さんと、愛し合いたい」

 それは今までの里穂と、まったく違った里穂だった。寂しさを凌駕し、大人しさの中に自分を出す勇気を持ち、相手に委ねる気持ちを前面に出すことで、大人の色香が自然と滲み出ているようだ。

 五郎にとっては願ってもないことで、その日は、朝から里穂を抱く夢を見たような気がしていた。

 目が覚めるにしたがって忘れていく夢の中の記憶、抱いたという記憶だけがあるつもりだったが、ムズムズした感覚は身体にも残っているようだった。

「じゃあ、ついておいで」

 最初の日こそ、里穂の部屋に招かれたが、次からは表で会うようになっていた。里穂の過去も少しずつ分かってくるようになり、どうやら、里穂も以前に、

「この人しかいない」

 と心に決めた人がいて、その人が、会社の上司の娘との婚約を決めたことで、別れを余儀なくされた。

「私は諦めがいいのよ」

 と、言ったこの時に見せた寂しさが、五郎が知り得た中で、里穂の一番寂しさを感じた時だった。

――諦めがいいというが、そんな問題なのかな?

 里穂を見ていて、どうしても心根の奥が見えてこないところがあった。必死になって気持ちを隠しているのか見えるが、その手前に厚い壁があるわけではない。半透明のオブラートのようなものが張ってあって、見えそうで見えない感覚に、下手に想像を巡らせてしまうと、違うものが見えてきて、それが間違った判断を相手に与えるように思えた。

――これこそ、里穂の防衛本能なのかも知れない――

 と、感じた。

 口で言い訳する人、言い訳をすることもなく、内に籠ってからに閉じ籠ってしまう人、保護色で身を守ろうとする人、様々な人を今までに見てきた。

「もう僕のまわりに女性というと、里穂しかいないんだ」

 香織が自分の前から姿を消したことは、なぜかそれほど辛くなかった。香織は自分がいなくなることで、何かを残してくれたという思いがあるからだ。

 もちろん、里穂の存在は、別としてのことだが、香織がいなくても寂しくないのは、彼女の存在感が、本人はいなくても、五郎の中に残っているからなのか、それとも、最初から存在感などなかったかのようなイメージを、いなくなった瞬間から、五郎に与えたのかも知れない。

 昔のおとぎ話などでは、よくあることだが、タブーを犯したことで、その人の存在を記憶の中から抹消してしまう効果である。

「タブーというのは、まさか里穂を意識してしまったこと?」

 だとすれば、もっと五郎が辛くなる仕打ちが待っているはずなのに、五郎にとっての辛さはさほどない、

 香織が五郎の中に残してくれたものがないわけではない、記憶をすべて消してしまったわけではないだろう。その証拠に意識のようなものは残っている。

 普通であれば意識が残ってしまえば辛さも一緒に残っているものだが、辛いという意識はない。それは残った意識は里穂に繋がるものがあり、里穂を見ていると、その後ろに香織が見え隠れすることがある。

 だが、決して里穂は香織ではない。面影があったとしても、あくまでも五郎に寂しさを残さない程度のものだ。

 和代が、五郎と付き合っていた頃、和代の中にどれほど横田の存在があったのかということを考えてみた。死んでしまった二人を今さら比較しても仕方がないことだが、今の自分の気持ちを整理するには不可欠なことだった。

 五郎が見ていた和代の中には確かに横田の存在が見え隠れしていた。それはある意味、五郎の中に香織がいることを里穂にも分かっていたのではないかという想像を引き出すこともできる。

 五郎は、和代に知られないように、観察していたつもりだったので、和代は知らなかったに違いない。それは五郎が里穂を見ていて、そんな素振りを感じないのが分かっていたからだ。

 だが、決定的な違いは、五郎は最初から横田の存在を知っていたが、里穂には香織の存在を知っていたはずがないからだ。見ている人間に男と女の違いがあるとはいえ、どこまで里穂が勘の鋭い女性であるかは、まだ五郎には分からなかった。

 それに付き合いの度合いからすれば、里穂とは和代との出会いほどのセンセーショナルな衝撃はなかった。一目惚れを初めてした女性で、今までで一番好きだったと思っている和代に対して、里穂との関係は、腫れ物に触るかのようにゆっくりと温めていくものだからであった。

 五郎にとって、和代は思い出でしかない。あれだけ好きだったにもかかわらず、本当に今までで一番好きだったのではないかという気持ちが今では少し薄れてきた。最初に感じたのは香織との大人の付き合いからであったが、さらにその思いを進化させたのは、里穂の存在ではないかと思っている。

「里穂の存在は、今までの自分の経歴を覆すだけの力を感じさせるものではないだろうか?」

 とさえ思えていた。

 里穂は、いつも五郎のそばにいてくれて、安心感を与えてくれる存在になっていた。言葉にすれば、今までに付き合ってきた女性たちの中にも同じ思いを抱いていた人もいただろう。

 ただ、記憶の中にしかない感覚は、一度記憶の中に封印されてしまえば、どれほど時間が経とうとも風化されない限り、平面のように薄っぺらいものでしかない。

「次元が違うんだな」

 平面というと二次元である。三次元の世界とは明らかに次元が違っている。記憶に奥行きがないのであれば、その記憶から引き出される意識に、奥行きがあるはずもない。そう思うと、五郎には過去の女性とその時に付き合っている女性との感覚の違いを説明できるのではないかと思えてくるのだった。

 ただ、それも口頭上のことで、本当の感覚とは、ずれているのかも知れない。そのことを教えてくれたのは、里穂のような気がした。

「香織とは、会話の中で色々なことを教えられたが。里穂からは、何も言わずとも、感覚的なものが伝わることで理解できるようになっているのかも知れない」

 と思うのだった。

「里穂の魅力はそこなんだ」

 里穂の中に、まるで今まで付き合ってきた女性を凝縮したような感じがしていたのは、そういうことだったのだろう。

 そんな感覚を最初に教えてくれたのが、妻の敦美だった。敦美は黙っていてもすぐに気付いてくれて、気を利かせてくれる。ただの、M性の強いというだけの女性ではなかった。

「そんなことは分かっていたはずなのに」

 別れてしまったということと、今までに付き合った女性とを比較して考えると、どうしても曲がった感覚で意識してしまうのだった。

 五郎は、パラレルワールドを意識し始めた。

 意識の中で今までの女性と思い浮かべることで、それぞれに付き合ってきた瞬間を思い出すと、そこから先に広がる無限の可能性。つまり、その時々で違った感覚が生まれてくることで、その時だけのパラレルワールドを完成させてしまっていたに違いない。

 今は里穂のことを一生懸命に考えているが、次の瞬間の自分が何を考えているのか、分からない。ひょっとすると、パラレルワールドのタガが外れて、違う自分が飛び出してくるかも知れないと思ったからだ。

「こんなバカなことを考えているのは、僕だけかな?」

 誰もが口にしないだけで、同じことを考えているのかも知れない。タブーであることを自分以外の皆が知っていて、知らないのは自分だけ、そんな発想が生まれてくる。

 だが、それも自分の意識の中でだけのことである。他の人が何を考えているかなど、分かるはずもない。勝手な想像が自分の意識の外に飛び出していくことはできないのだ。

 里穂が五郎に開く身体、それは紛れもなく男性を知らない身体だった。

「どうして?」

 五郎は、聞いてはいけないと思いながら、聞かないではいられなかった。

「別に今まで大事にしていたわけではないですよ。自分が気に入った人がいなかったからです」

「じゃあ、気に入った相手が僕だったと?」

「ええ、少なくとも、今私はそう思っています。それに五郎さんも、私の中の私に気付いていると思うんですよ」

「里穂の中の里穂?」

「私の中に私がいて、五郎さんが見ているのは、きっと、私の中の私だと思うんですよ。私を愛してくれた時に、気付いたと思うんですけどね」

 確かに、里穂の後ろに何かを感じた。だが、それは里穂ではなく、香織の存在が見え隠れしたものだったのだ。

 人の後ろ、特に好きになった女性の後ろに他の人を見ることは、今までに何度もあった。その相手が女性であることも、男性であることもあった。男性である場合には、目線はまず彼女にあって、後ろで男性が見え隠れしている様子は、隠れている方が多かった。

 だが、相手が女性である場合には、目線はそれぞれに向けられ、見え隠れも、隠れている時は、表に出ている女性の方を見ている時なので、すべてが見えているような錯覚に陥るのであった。

 和代に感じたのは、もちろんのことで、相手は横田だった。

 里穂に感じたのが、香織であるなら、香織に感じたのは誰だったのだろう?

 香織が五郎の前から姿を消したのは、その人の存在が少なからず影響しているに違いない。その相手が男性なのか、女性なのかも分からない。ただ、五郎が気になっているのは、その相手というのが、

「いつも同じ相手ではなかったのではないか?」

 と、感じることだった。

 香織には、数人の相手が見えた。今まで付き合った女性の中でも不詳部分の多い女性であったのも事実だ。その中に男性の姿が見えるのは納得できるかも知れないが、女性の姿があるのは、意外だった。

 香織の年齢が不詳ということもあり、香織の後ろに見えた女性が、香織よりも年上の場合と年下の場合とどちらが多いかは、分からなかった。

 香織にとって、後ろで見え隠れしている女性は、やはり絶えず見えていた。その表情は、相手にもよるが、笑っていたり、悲しんでいる時もある。多種多様な表情を感じるのは、香織自身が波乱万丈な人生を歩んできたからではないかと思うからだ。

 今の香織からは、にこやかな表情は見えてこないと思っていた。大人の雰囲気は、香織からにこやかな表情を奪っているかのようだった。かといって、感情が一つにだけ偏っているというわけではなく、見えるものと見えてこないものにハッキリ分かれているだけのことであった。

 香織を見ていると、後ろに見えてくる人がかすんでいるくらいに彼女自身の印象が強かった。だから、後ろに見えている人のことは気にはなるが、表情はなかなか見えてこなかった。あくまでも、印象としてにこやかだったり、悲しんでいたりする感覚があるだけだった。

 表情が見えなくても、香織の様子から後ろに見えている人の心境が分かるような気がするのは、香織の後ろだからなのかも知れない。他の人の後ろだと、その人よりも、見え隠れする人が気になってしまう。気になってしまうと、本人とどういうつながりなのかを考えてしまい、それが邪推に繋がるのだ。集中して見きれないというところであろうか。

 香織が五郎の前から来た瞬間から、里穂も消えるのではないかと思ったのは、最初から予感があったと感じたからだ。

 それは、五郎の前から姿を消す予感がある時、それは、いつも後ろの誰かを感じた時だった。

 五郎は、里穂にも誰かを感じた。しかもその感じた相手というのが、その後自分の前に現れることになる人であるということに気が付いたことで、やっと、最初から皆が自分の前から消えていくことに気付いたのだ。

 里穂の後ろに見えた影、それは、奈保子であった――

「奈保子」

 思わず声が出てしまった。

 五郎は堂々巡りを繰り返し、やっと元の場所に戻ってきたかのような錯覚に陥っていたのだ。

「自分のことを知っている人が減ってきているような気がする」

 それは、見え隠れしていた人たちが五郎の前に現れて、目で訴えていたことであった。五郎にそのことを教えてくれたのは、死んでいった人たちだったのかも知れない……。


                 (  完  )

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墓標の捨て台詞 森本 晃次 @kakku

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