第11話 結実

 ――熊木田生命研究所、研究室内、……千坂朱音は熊木田の子供を宿した子宮を観ていた。子宮口が開きかけている。


「もういいわね。取り出そう」


 朱音は熊木田小百合に連絡を入れた後、容器のふたを開けて子供を取り出す作業に入った。


 子宮を引き上げるウインチのスイッチを入れる。古い研究室では子宮を手で持ち上げていたが、容器の底にネットを敷いて機械で持ち上げるように改良していた。そうしたことができたのも熊木田の豊富な資金があってのことだ。


 ウインチが静かに動き、子宮がへりの低い作業用プールに移る。子宮にも筋肉をつける改良を施し、自力で出産が可能にしてある。


「陣痛促進針挿入」


 自らの行動を言葉にするのは作業ミスを防ぐためだ。手にした針を、子宮を包む筋肉の4カ所に刺した。針は東洋医学を応用した。


 子宮が伸縮して子宮口が大きく開く。羊水に続いて赤子が現れ、へその緒と胎盤が出る。スムーズな出産だ。


 プールから赤子を取り上げると、大きな産声が研究室に響き渡った。


「おめでとう」


 朱音は赤子を祝福した。


§


 連絡を受けた熊木田小百合は、タクシーで研究所に乗りつけた。ここ数カ月、マタニティードレス姿で妊婦の芝居を続けてきた。それも今日までだと思うと心が躍った。


「産まれたのですか?」


 研究所に駆け込むと、「落ち着いて、まだ妊婦さんなんだから」と制された。


「あ、すみません。お芝居が台無しですね」


 実子として届けを出す以上、自分が産んだ体裁ていさいを整えなければならない。改めて慎重にならなければ、と自分に言い聞かせた。のように。


「ええ、可愛い女の子ですよ。熊木田社長が生きていたら、どれほどお喜びになったことか……」


「今頃は、あの世で小躍こおどりしていると思います」


 熊木田は9カ月前に自宅の階段で転落して死んだ。その時のことを思うと、今でも背筋が凍る。事故死と認められたのは熊木田の名前と、被害者を演じきった慎重さゆえだ。病院の医師も検死官も、小百合の言うことを疑うことがなかった。


 朱音にしたがって新生児室に入る。タオルにくるまれた赤ん坊は、まだ赤い顔をしていた。


「まぁ、本当に産まれたばかりなのですね」


「抱いてあげてください」


 言われて赤ん坊を抱いた。それはとても軽く、頼りない存在だったけれど、宝石のように輝いていた。胸の奥から熱いものが込み上げた。


 この子が自分と彼のDNAの結晶なのだ。彼も変な欲を持たなければこの子を抱くことができたのに。いや、欲があったから、ここまで来れたのか。……感動と感慨、そして後悔。目尻に涙がにじんだ。


 子供を抱いて飾り気のない応接室に移動した。グレーのソファーはとてもすわり心地が良い。それで思い出した。そこに入ったのは、研究所が完成した直後、血液を採るために訪れた時以来だった。


「こちらが出生証明書です」


 小百合は赤ん坊から目が離せず、書類をうわの空で受け取った。赤ん坊の血液型やDNAが熊木田夫婦のものと一致しているといった書類も添付されていたが、DNAのことはよくわからなかった。


「こんにちは」


 3歳のアオイが顔を見せた。その後ろには茶の用意をした千坂がいた。


「アオイちゃん。大きくなったわね」


 小百合は頬の涙をハンカチで拭きながら、成長したアオイに目を細めた。最初に見たときはとてもうらやましく嫉妬を覚えたが、今はそれがない。


 アオイはぺこりと頭を下げると小百合の隣に座った。


「かわいいねぇ。アオイも弟が欲しい」


 小百合の抱いた赤ん坊をのぞき込み、朱音にせがむ。


「そうねぇ……」彼女は曖昧に応じた。


「熊木田社長は残念でした……」千坂が茶を置きながら、悔みを述べた。「私どもとの関係がわかると迷惑かと……。葬儀への参列は遠慮しました」


 小百合は、小説家らしい気配りだと思った。


「ご配慮、ありがとうございます。先生自らお茶出しなんて、……申し訳ありません」


「先生なんてやめてください。1年の半分は遊んで暮らしているのです。無職ですよ。……ご主人は転落事故だったとか……」


 あの事には触れられたくなかったが、拒絶して疑われるのも避けたかった。


「風呂上りに、2階から落ちたのです。湯あたりだろうって、お医者様が……」


「2階から、……ですか?」


 朱音が訊いた。2階程度の高さから落ちて死んだことを怪しんでいるようだ。


 慎重に。……小百合は自分に言い聞かせて言葉を選ぶ。 


「階段は玄関ホールにあるのです。そこの床が大理石で、打ち所が悪かったのです。……意識を失い、吐いたものが気管に入ったそうです。救急車が到着したときには手遅れでした」


「そうでしたか。元気で精力的な方だとお見受けしたのですが」


 千坂が、熊木田夫婦のために悲しんでいた。不治の病の彼がまだ生きていて、精力の塊のような熊木田があっけなく逝ったことに運命の皮肉を感じているのだろう。


「私の対応が悪かったのです。5分早く対応できたら助かったかもしれないそうです」


 小百合はすやすや眠っている赤ん坊の寝顔に目をやった。幸せで胸がいっぱいになり笑みがこぼれる。その時気づいた。朱音の不思議そうな視線に……。慌てて口を開いた。


「欲を出しすぎて神様の罰が当たったのかもしれません。欲しいものは何でも手に入れようとしましたから。……でも、そのおかげでこの子が残りました」


「奥様も欲しいものを手に入れたのですね」


 彼女は皮肉を言ったのだと思った。


 ――ホギャー、……赤ん坊が荒れる波のように泣きだした。


 荒々しくも無垢むくな叫びは神の啓示けいじだ。無神論者の魂も震えあがる。実際、千坂がギョッと身をすくませた。彼は何を怯えているのだろう?


 朱音が彼の背中に手を置いた。


「大丈夫?」


「ああ、震災で津波にもまれた時のことが……」


 千坂が津波に巻き込まれ、九死に一生を得たことは、何かのインタビュー記事で読んだことがあった。


「フラッシュバックね。休んで」


「すまない」


 ――ホギャー、……赤ん坊に追い立てられるように、千坂はアオイを連れてドアの向こうに消えた。


 朱音がミルクを用意していた。哺乳瓶を赤ん坊の唇にあてると、彼女は夢中になってそれを吸った。


「本当に事故だったのですか?」


 朱音の瞳が計測器を覗くように、小百合の瞳を見ていた。


 彼女に何がわかるというのだろう。……自分を励まし、口角を上げて笑顔を作ってみせる。動揺はなかった。


「もちろんです。あの人は逝ってしまいましたが、今、熊木田のすべてはここにあります」


 赤子に視線を落とす。


 朱音が、それから何かを追及するようなことを口にすることはなかった。彼女は、赤ん坊がミルクを飲み終えた後、ゲップをさせるやり方を教えてくれた。


「熊木田さんは少年をそのまま大人にしたような方でした。……私たちはあらゆる意味で共犯者です。お幸せに」


 彼女が意味ありげに微笑む。


 小百合も笑みを返して席を立った。

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執念のDNA ――2026―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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