第10話 運命の鐘
エイミはいつものように熊木田邸に足を運んだ。当初の約束ならば、妊娠したのだからその必要がなかった。後は出産をして赤子を熊木田に渡すだけだ。なのに、「様子を知りたい」と呼び出されると断れず、いや、むしろ彼の腕に抱かれたくて熊木田邸を訪れた。そうして彼の愛欲を受け入れるのも、小百合が表情を曇らせるのも、エイミの快楽のひとつになっていた。
熊木田がシャワーを浴びている間、ベッドの中で待つ。それもこの3カ月間で身に着いた習慣だった。
枕元の時計を見るのも習慣だ。針が午後6時を指しているのを見て「今日も50分かかった」と熊木田が自分の中にいた時間を確認した。
彼の愛のテクニックは申し分ないけれど、50分も粘膜が擦れ合うのは苦痛だった。その半ばで自分は何度も絶頂を味わって脱力した。残りは彼が果てるのを祈って待った。頭が冷めてくると彼の前後する行為が
その日、熊木田が信じられないことを言ったのは、サニタリーから出てすぐだった。下半身にバスタオルを巻いた彼の裸身は、まだシャワーの湯で濡れていた。
「エイミ、中絶しろ」
「エッ?」
彼が何を言っているのか理解できなかった。
首を傾げ、彼を見つめる。彼は短い髪をタオルで拭きながら近づくと、エイミを見下ろして「君の子供をおろすのだ」と言い換えた。
君の?……理解できなかった。……あなたの、ではないの? あなたが望んで、私が手伝った。私だけのものであるはずがない。
「慰謝料は払う」
傲慢を絵に描いたような態度だった。体内の小さな命は、エイミの運命を変えてしまう
「どうしてよ?」
「小百合に子供ができた」
「奥さんに?」
エイミは息をのんだ。上品な小百合の顔が脳裏に浮かぶ。子供を作る権利は、確かに彼女にもある。しかし、自分は熊木田に頼まれて妊娠したのではなかったか?……それに、彼女は妊娠できない身体ではなかったのか?
「事実だ」
一言で済ませようとする熊木田に、どんどん腹が立ってくる。
「奥さんに訊くわ!」
エイミは裸のまま寝室を飛び出した。
ドアが勢いよく開くと、大きな音が玄関吹き抜けで反響した。
「やめろ!」
熊木田がエイミの後を追って走り、階段の直前で腕を捕まえた。勢い、彼女の進路を妨げるように前後が入れ替わった。
エイミの腕に、千切れるような痛みが走る。
「痛い、放して!」
エイミの高い声が、教会の鐘のように吹き抜けに反響する。
「すまない……」
熊木田が手を離した。拳銃を突きつけられたかのように、両手を肩の高さに挙げた。
「お前が逃げるから悪い……」
騒ぎを聞きつけた小百合が姿を見せて、裸の2人を見上げていた。
「私が悪いの? 馬鹿にしないで!」
エイミの頭にカッと血がのぼる。無意識のうちに目の前の巨体を突き飛ばしていた。
熊木田の巨体は、ほんのわずかしか動かなかった。が、動いた先は階段の1段目で低かった。彼の足は床を捜し、手は手すりを求めていた。宙を飛ぼうとでもいうようにバタバタと手足が動き、身体が傾いた。
エイミには、まるで踊っているように見えた。そして目の前から熊木田の姿が消えた。
「アッ……」
自分がやったことなのに、一瞬、何が起きたのかわからなかった。そうして見たのは、熊木田の身体が後ろに回転して落ちて行く様子だった。
彼の肉体は大きな音を上げて空気の抜けたボールのように弾んだ。そうして1階の大理石の床に落ちて止まった。ガツンという鈍い音がした。腹に巻いていたバスタオルが宙を舞っていて、ボクシングのリングに投げ込まれたタオルのように、白い軌跡を描いて持ち主の足元に落ちた。
§
あなた!……叫んだはずの声は音にならなかった。小百合は熊木田に駆け寄った。
彼は白目をむき、口から泡を吹いている。脈を取るまでもなく、白目をむいた顔を見ると、だめだ、と感じた。
吹き抜けを見上げると、2階の手すりにつかまったエイミが時間と共に固まっていた。その若い裸体は石膏像のように白く引き締まっていて、子供を宿した下腹部だけが
小百合は恐怖を覚えた。光をまとったエイミが降りてきて、熊木田の身体にすがって泣き、子供を産み落としてしまうのではないかと。……彼女が子供を産み落としたら、自分は負けなのだ、と思った。
階下を見下ろすエイミがゆっくりと動き出す。手すりで身体を支え、1歩、2歩と下りてくる。
「こないで」
小百合は言った。
エイミの
「ダメ!」
小百合は短い声を全力で吐き出した。
「服を着なさい」
「アッ……」
エイミが小さく叫んで
どうしよう?……夫の無様な姿を見つめながら考えた。彼の名誉を守るためには、エイミの存在を世間に知られてはならない。これから研究所で生まれる子供の秘密も守らなければならない。頭の中で世間の
「どうしたら……」
自分の声を聞いて正気に戻った。
夫は相変わらず白目をむいていて、頭部から流れた赤い血は固まり始めていた。いつの間にか時が経っていたのだ。
あの
「落ち着いて」
小百合は自分に言うように告げてボタンを留めてやった。
「化粧も直しましょう」
2人の顔がドレッサーの鏡に並ぶ。小百合は自分が恐ろしいほど冷徹になったと自覚した。
「ほら、綺麗になったわ」
鏡の中のエイミの顔には、少しだけ血の色が戻っていた。
2人は恐る恐る階段をおり、熊木田を見つめながらその横を慎重に通った。
「今日のことは事故なのよ。忘れなさい」
小百合は熊木田が用意していた小切手をエイミの手に握らせた。
「慰謝料です。1千万円、これで中絶しなさい。今日のことは早く忘れるのよ」
耳元でささやくと、エイミが頷いた。
門を出たエイミが駅に向かって急ぐ姿を見送る。
「あの人の子供は1人でいい」
声にすると堕胎を要求した罪の意識が遠ざかった。
小百合は踵を返す。
門から玄関までのアプローチは長かった。これからどうすべきか、考えるには十分な距離があった。倒れた熊木田のところへ引き返し「待たせたわね。ごめんなさい」と詫びた。
熊木田は落ちたままの姿勢で白目をむいていたが、小百合の言葉に反応して指が動いた。
生きようとしている。……熊木田という人間の生命力に驚いた。
2階に駆け上がり、サイドテーブルの水差しをタオルでくるんで持って戻った。
「あなたは強いわね」
熊木田の開いた口の中に、少しだけ水を流し込む。
ゴフゴフと排水管が鳴るような音がした。彼に水を吐きだす力はなく、指先の動きが止まった。戻った瞳が宙をにらんでいた。
2階に上がって水差しを元に戻し、それから救急隊へ連絡をいれた。
落ちていたタオルを熊木田の下半身に乗せてささやく。
「あなたのDNAは必ず守るわ」
玄関ホールの時計が午後7時を指し、
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