第9話 受胎告知

 、熊木田が帰宅したのは深夜だった。仕事もあったが、研究所でのこともあったからだ。たとえ朱音から誘ってきたからとはいえ、彼女にとってそれは、精子の採取作業でセックスではなかったが、妻以外の女性と関係を持ったのには間違いない。その後ろめたさがあって、子会社の社長たちを誘って行きつけのクラブで時を使ったのだ。


 エイミと同じことをしていながら、何を今更と頭では思うが、朱音とのことは妻には知られてはいけないと感じていた。おそらく原因は、朱音のペースで翻弄ほんろうされたからだ。ボクシングでいえば、一方的に打ちのめされてKOされたのが恥ずかしいのだ。


 しかし今、熊木田は燃えていた。彼女と再戦し、撒き餌ではなく本体に食いついて、ねじ伏せてやりたいと考えていた。


「今日、精子を提供してきたよ」


 妻には背中を見せて言った。のことを思い出すだけで股間が反応してしまう。それを妻に知られたくなかった。


「来年は子供が抱けるのね」


 重い荷物を下ろした時のような深いため息が聞こえた。


「俺たちの子供が産まれるんだよ」


「それじゃ、浅木さんにはお断りを入れないと、ですね」


 気づいて、アッ、と驚く。


「彼女が来たときに俺の口から伝えよう」


「電話でもいいじゃありませんか?」


「それでは非礼だろう。第一、まだ研究所の方も材料がそろったというだけで、子供が形になったわけではない。成功確率は90%なんだ。確実になるまで、彼女には来てもらおう」


 小百合が露骨に不快感を表情にしたが見ないふりをした。今になれば、エイミの肉体を手放すのも惜しい。


 俺はどこまで欲張りなんだ。……熊木田はそんな自分を笑いながら、妻との会話を切り上げて風呂に入った。


§


 熊木田が月に一度の経済諮問会議に出ている時に、朱音から電話が入った。


「失礼」


 議長に断わって席を外す。官僚によってストーリーが描かれている会議よりも電話の方が重要だ。


『いま、よろしかったかしら?』


 朱音の声は澄んでいた。そのトーンで、良い話なのだろうと察した。


「ええ、暇にしていたところです」


 熊木田は会議室のドアを見て小さく笑う。


『熊木田さんのお子さんが育ち始めました。もう何も心配することはありません。その報告です』


「そうですか。それはありがたい」


 熊木田は天を仰ぎ、信じてもいない神に感謝した。


「千坂博士、これからもよろしくお願いしますよ」


 脳裏にはあの時の彼女の裸体があった。、そう思うと全身が奮い立つ。


『こちらこそ、多大な投資をいただきました』


 熊木田の耳に、朱音が笑うのが聞こえた。それには少しへこんだ。、と彼女が応じた気がした。


 電話を切った熊木田はトイレに駆け込み「万歳!」と叫んだ。再戦はともかく、子供はできたのだ。


 妻に知らせてやりたくて電話をかけた。


「俺たちの子供が無事に育っているぞ」


『そうですか。うれしい』


 熊木田は、小百合の喜ぶ顔を想像しながら再び「万歳!」と叫んだ。


「俺たちの子だぞ」


『ええ、ええ、分かりましたよ。今晩はお祝いしましょう。浅木さんに断るのを忘れないでくださいよ』


 彼女の言葉に、カッと血が上った。エイミのことであれこれ指図されたくない。飛び出しそうになった暴言はかろうじてのみこんだが、声が凍るのを抑えることはできなかった。


「わかっている。明日、彼女が来る日だ。俺から話すよ」


 プツン、と電話を切った。


 翌日、エイミが定刻通りに熊木田邸にやって来た。熊木田は書斎で彼女を迎えた。彼女と話すところを小百合に見られたくなかった。


「寝室ではないのですね。寝室以外は初めてです」


 書斎に入ったエイミが、書棚に並ぶ書籍を眺めがら言った。


「たまには雰囲気を変えようと思ってな」


 彼女の肩を抱き寄せてソファーに並んで掛ける。小さなベッドと遜色のない座り心地の良いソファーだ。


 豊かな胸に手を当てると、彼女はいつも以上に敏感に反応した。花のような唇から吐息を漏らして身体を震わせる。熊木田が更に奥深く指を進めようとすると身を固くし、「お話があります」と冷めた目を向けてきた。


 別れ話か?……熊木田は警戒した。怒りに似た感情が胃袋から湧き上がってくる。代理出産のことは、すっかり頭から消え去っていた。


「妊娠したと思います」


 彼女の告白に熊木田の眼が点になった。


「確実なのか?」


 熊木田の中で、エイミへの本当の愛着が生まれたのはこの時だった。


「市販の検査キットで調べました。間違いないと思います」


 熊木田の中で喜びが爆発した。


「見せてくれ」


 彼女を強引に裸にして、なめまわすように確認する。見たところで何もわかるはずがないのだけれど。……代わりに、欲望に火がついた。戸惑うエイミをよそに、彼女を愛した。お腹の中の子供同様、彼女も自分のものだと思った。


 エイミを返した後、彼女が妊娠していることを小百合に告げた。


「同時に2人の子供が産まれたら、世間から笑われますよ」


「ああ、わかっている。だから対策を考える」


「彼女には堕胎だたいしてもらってください」


 小百合の刺すような言葉が、熊木田の理性を打ち砕いた。


「堕胎なんてさせられるものか! 俺の子供だぞ」


 怒りが口をつく。


 小百合の白い肌が、青白いものに変わっていた。

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