第8話 命の種

 熊木田は、出資名目で会社から100億円の資金を用意した。利便性を考えて横浜市郊外の3階建ての店舗を買い取り、朱音のための研究所に改築した。


 人工呼吸器やポンプ、透析とうせき器、栄養補給機などの設備は1カ月で整った。全て2台ずつ用意し、停電に備えてバッテリーや自家発電装置も設置した。それはすべて熊木田が自分の子孫を確実に手に入れるための投資だった。


 研究所が完成しても、それは公にされなかった。倫理的な批判や嫉妬の流言から千坂一家を、ひいては自分を守るためだ。


 そこでの最初のクライアントが熊木田夫婦だった。


 小百合の細い腕に刺された注射器に赤い血液が満たされていく。熊木田はそれに感動を覚えていた。


「私は赤血球からiPS細胞を作るのが好きなのです。……熊木田さんは、来週、来ていただけますか?」


 採取した血液を確認しながら朱音が言った。


「それは構いませんが、私の血液は採らなくてよいのですか?」


 熊木田にすれば、自分のDNAを引き継がない受精卵に意味はない。


「大学病院の検査結果では、ご主人の精子は問題ありません。それならば、わざわざ細胞から遺伝子を取り出す必要はありません。卵細胞を作ってから、ご主人に精子を提供していただきます。できるだけ元気な精子の方が良いので、来所まで射精はつつしんでください」


「ハァ……」


 朱音があっけらかんと話すので、苦笑するしかなかった。


「不思議なものですね」


「何が、ですか?」


「地位や名誉のある人物ほど、自分のDNAを残したがります」


 彼女の発言が皮肉に聞こえた。熊木田は自分の顔がゆがむのがわかった。


「皮肉に聞こえたならごめんなさい。自分の子孫を残そうというのは生物の本能、生きている証です。私だって、そうしたくてアオイを創りましたから」


「弱い者は、繁殖意欲さえ失っているが……」


 熊木田の頭に、恋も知らず、家族も作らず、童貞であることを恥じず、ただ自分の幸福だけを追求し、豊かな老後を語る同世代の社員の姿が浮かんでいた。


「子供はいらないなんて言うのは、生物として終わっているのです。それが蔓延まんえんしたら人類は滅びるでしょう。もちろん、人間は社会的生物です。アリやハチが仕事を分担し、繁殖をコントロールするように、人口が一定程度減ったら、人間の行動も変化するのかもしれませんが……」


 今度は彼女が顔をゆがめた。


 彼女がそんな風に感じているのに熊木田は興味を覚えた。


「今の日本では、快楽としてのセックスさえ拒む若者がいるようです」


「セックスによる快楽はどうでもいいのです。あれは、出産というリスクを生物に受け入れさせるためのにすぎません」


 彼女がピシャリと言った。


 撒き餌?……熊木田が理解できずにいると、千坂が口を開いた。


「若者のセックス離れは、それに至るまでの手間とコストが増えたからでしょう。それに、周囲の評価も気になる」


「セックスの評価?」


 この夫婦はどんな感性をしているのだ?……熊木田には、彼の言うことがわからなかった。それの上手い下手とか、テクニックに関する記事が、猥雑わいざつなメディアのネタにはある。それが若者の行動に大きな影響を及ぼしているというのか?


「まさか。どんな相手を選んだか、という評価ですよ」


「あぁ、伴侶のことですな。そんなに気になるものですかな?」


「今の世間が、経済力と全人格を同一視するからです。他人には、恋人の魅力はわからないものです。しかし、数字はわかる。収入はいくらとか、財産はいくらとか……。貧しい相手と付き合うと、自分の人格も低く見られると考えてしまうのでしょう。そんな不安を抱えるぐらいなら、いっそ恋人などいない方がいい。そんな風に考えても不思議ではありません」


「なるほど」


 欲望のままに生きてきた熊木田には、感じたこともない問題だった。


「僕みたいな売れない作家は、伴侶としては失格というわけです」


 彼が自虐じぎゃく的に言って微笑んだ。


「千坂さんの本は売れているじゃないですか。私でさえ持っています」


 小百合が割って入り、朱音が「いくら売れるかより、何が書いてあるかが大切よ」とフォローした。


「人格を経済指標で計るのなら、熊木田さんの細胞から作った卵子や精子は高く売れそうです。……人気のある精子や卵子が取引されたら、世界中が兄妹だらけになるかもしれませんが」


 千坂が自分の発想に表情をくずした。


「私の細胞にそんな価値が……」熊木田は内心、歓喜した。


「そんな話は、貴方の小説の中だけにしてね」


 朱音が千坂をたしなめた。


「アオイ、弟が欲しい!」


 突然、千坂の腕の中のアオイが言った。その声を潮に大人の雑談は切り上げられ、熊木田と小百合は研究所を後にした。


 熊木田が研究所を訪れたのは翌週のことだ。


 朱音は、ゼリーやオイルを綺麗に洗い落した避妊具を渡した。


「この中に精子を出してください。不純物を取り除いてあるので付け心地は良くないと思いますが」


に?」


 熊木田は、ただのシリコンの袋に変わってしまった避妊具を目の前にかざした。


「そうです。に、です」


「冗談ではなさそうだな。場所は、どこで?」


「隣の応接室では、いかがですか?」


 熊木田は困惑した。エイミを相手にしても射精するまでに50分ほどかかっている。応接室などで射精できるだろうか?


「あの……」


「なんでしょう?」


「少し時間がかかるかもしれません」


「それは困ります。予定が詰まっているものですから」


 この女は他人の気持ちが分からないのか!……熊木田は憤ったが、子供を得るためなので怒って帰るわけにもいかない。


 憮然ぶぜんとすると、「仕方がないですね。お手伝いしましょう」と、彼女が熊木田の手を取った。


「エッ?」


 導かれた応接室はブラインドがおりていて薄暗く殺風景だった。ただグレーの応接セットは座り心地が良かった。


 朱音が熊木田の前に屈み、彼のベルトを緩めた。


 まさか?……戸惑っている間に、彼女がどんどん準備を進めていく。


 露出した下半身にむかって「準備完了」とおちゃめな声を発した。


「いいのかい?」


 熊木田の緊張が解けた。


「今更、なんです」


 彼女が熊木田の股間のモノをツンツンつついた。


 驚いたことに、立ち上がった彼女は裸になった。その勢いに熊木田の方が慌てたが、股間のモノが反応していた。


「さあ、はじめましょう」


 朱音のペースに熊木田は巻き込まれていた。無機質な避妊具が熊木田を覆い、それを彼女がのみこんだ。かつて想像もしなかった刺激的な光景だった。熊木田の陰嚢いんのうが震えた。


 射精のためのツボでもあるのだろうか?……熊木田は首を傾げるほど早く射精していた。2人が応接室を出るまで、20分ほどしか経っていない。


「十分な量です。使用後、残ったものは破棄しますので」


 朱音が精子のたっぷり入った避妊具をぶら下げて妖しく微笑んだ。


「助かりました。1人ではとても無理だった」


 熊木田は頭を下げた。昔、母親にしかられた時のことが脳裏を過った。その時、、と彼女が言ったのを思い出した。避妊具をつけたセックスなど、彼女にとってはセックスですらないのに違いない。どうやら自分も撒き餌にだまされたようだ。


「いいえ。良くあることですから」


 謎めいた天才科学者は、応接室で見せた女の表情をすっかり消して、ブロンズ像のような顔をしていた。


「今、受精させます。ご覧になりますか?」


 熊木田は、朱音の誘いを断って研究所を後にした。彼女の言うがままに行動するのは面白くなかった。

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