第7話 希望
熊木田小百合は夫に連れられて、千坂朱音の研究所を訪ねていた。そこで千坂亮治と出会い、運命を感じた。ここで自分の人生が変わる、と確信した。彼は小百合が尊敬する小説家だった。
「あの子宮はどうやって作ったのですか?」
夫の熊木田が訊いた。大きなガラス容器に入った無花果形の子宮を指している。妊娠状態にあるということで、ずいぶんと膨らんでいた。
「私のクローンです」
朱音がさらりと言った。
「そ、それで代理だけれどそうではない、ということなのですな」
さすがの夫も驚いたようだ。
「ええ……」朱音がうなずく。
「武上総理の子供もあの子宮から?」
熊木田が一番大きな子宮に目をやっていた。
「あの子宮は、フル回転で赤ちゃんを産んでいますよ。私より働き者だ」
アオイを抱いた千坂が笑った。
「システムを導入するよう、政府に頼んでいるのですが……」
朱音が
「人口出産システムが導入されれば、日本の少子化問題は一気に解決しますよ。女性は出産という健康上のリスクや離職という経済的コストから解放され、子供を持ちやすくなる。不妊症や高齢出産の問題もなくなる。……母性が
苦しそうに話す朱音と違って、千坂は夢のように語り、アオイをなでた。
「産休も
笑みを浮かべる熊木田。小百合は、夫が経費の削減でも考えているのだろうと思った。
「育児休暇は要りますよ」
千坂が笑った。
「厚労省は、このシステムも代理出産と同じに考えているのです」
朱音が宙にむかって首を振った。
「代理母と違い、あの子宮が産んだ子供に愛情をもってトラブルになるようなことはない、というのがわからないらしい」
「厚労省は、世間の批判を恐れているのです。倫理的な批判があるのは間違いないでしょう」
千坂と朱音が人口出産システムを公開できない理由を話した。
「それは人工授精や遺伝子治療の導入時と同じ議論のようですな。人間の生命だけは神聖なものと考える。……一部の特権階級にとっては、現状の肯定が、自分たちの正当性と優位性を堅持する確実な方法ですからなぁ」
熊木田が感慨深げに言う。経済諮問会議に参加している老人の顔でも思い浮かべているのだろう。小百合は夫の横顔を
「神聖なものとでも考えなければ、人間は自分の精神を安定させられないのかもしれません」
朱音の言葉には力がなかった。
「人間とはそういうものなのだろうね。神を語りながら、実は、一番神聖なものは自分だと言っている。神をだしにして、自分がかわいいと言っているのだ」
千坂がアオイを抱き直す。小百合には、彼が神を抱いているように見えた。
「それで、私どもの子供を……。お願いできますか?」
熊木田が改めて依頼を口にした。
「条件がひとつ、それから問題が二つ、あります」
朱音の口調が、それまでと変わって、事務的なものになっていた。
「どんなことですかな?」
「条件は、染色体の修復は行いますが、デザインは行いません。性別の選択もしません。そこの所は了解ください」
「デザインとは?」
「目の色や顔の形を変えたりすることです」
「ほお、そんなことが出来るのですな」
「技術的には可能ですが、両親の資質を引き継ぐという意味で、デザインは行わないと決めています。もちろん、法的にも認められていません。現状、人工出産もそうなのですが。それは内密に、ということで。私たちは共犯者になるわけですから……」
「なるほど、了解しました。……で、問題とは?」
「一つは、費用が高額だということです。3000万円ほどいただいています」
「それは問題ありません」
熊木田が即答した。当然だ。エイミに約束した1億円を思えば安いくらいだ。
「もう一つは、予約が詰まっているのです。現在の所、2年待ちです」
「2年ですか。……私たちは、これまで嫌と言うほど待ち続けた。手段が無いと考えていたから、それも辛抱できた。しかし……」
問題を克服する手段を知った今、さらに2年も待つなど耐えられない。小百合の思いも夫と同じだった。
「……金なら2倍、いや10倍出します。順番を入れ替えてもらえませんか?」
「熊木田さん。ここに依頼してくる方は、貴方のように社会的な地位のある方ばかりです。順番を変えるのは出来ないことです」
「博士から話すのが難しいのなら、私から直接依頼者に頼んでみます」
熊木田の顔は、小百合がこれまで見たこともないほど真剣なものだった。小百合にしても、子供が持てるとわかった以上、1日でも早く、自分の手で抱きしめたかった。
「熊木田さんのことを他で口外しないように、他の依頼者のことを、たとえ熊木田さんでもお教えするわけには行きません」
ぴしゃりと言われ、熊木田が黙った。モーターの回る鈍い音だけが残った。
沈黙を破ったのは朱音だった。
「熊木田さんにお金を出すつもりがあるのなら、解決策があります。もう一つ、システムを作りましょう。そうすれば1年後には赤ちゃんを抱くことができます」
「大丈夫か?」
心配するのは千坂だった。仕事を増やそうという妻の身体を気遣っているのだ。
「予備の子宮はもうすぐ出来上がりますから、あとは機械だけなのですが、ここではもうスペースも電力も足りません。それさえ解決できれば、4つの子宮が並行作業に入れます」
「わかりました。施設と資金は、私が用意しよう」
熊木田が自分の胸に拳を当てた。
「熊木田さん。簡単なことではないですよ。妻はアオイを創って、働いていた研究所を辞めることになりました。お金のことだけではないのです。場合によっては倫理問題で世間から袋叩きにされるでしょう」
千坂が案じていた。施設が大きくなれば、秘密も漏れやすくなる。
「任せておいてください。ぎりぎりの所を突破するのは得意です」
そう宣言し、熊木田が笑った。
帰りの車の中で、小百合は天にも昇る思いだった。
「私の子供ができる」
「ああ、俺たちの子供だ。成功確率は90%以上というのだから、心配ないだろう」
「でも、あなたは大丈夫なのですか?」
「研究所を造ることか?……大丈夫だ。俺たちのように、子供が欲しくても持てない人間は沢山いる。研究所を造るとなれば、確かに費用はかかるが、人工出産システムを管理下に置けば、子供が欲しい世界中の権力者、財界人、著名人などと交渉の材料になるだろう。そのためなら数十億、いや、数千億かかろうと安いものだ」
いつのまにか熊木田は、自分の子供を得ることに商売を重ねていた。そんな夫の横顔に、小百合は不吉なものを覚えていた。
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