第3話 淑女
熊木田のベッドは寝心地が良く離れ難い。このまま眠ったらどれほど気持ちが良いだろう。……エイミは高い天井を見ながら考えた。……だけど、同じ屋根の下に彼の妻がいるのだ。のんびりと寝ていられるはずがなかった。
もともとエイミは、セックスをするなら自宅ではなくホテルにしてほしいと熊木田に頼んだのだ。安いラブホテルでも、それがホテルならいいと思った。が、ホテルは監視カメラや人の目が多い。世間で顔を知られた熊木田としては、妻以外の女性とホテルに入るわけにはいかない、と断られていた。
サイドテーブルの時計が熊木田から指示のあった30分が経過したことを示していた。
「奥さんより他人の目が怖いなんて、普通じゃないわね」
エイミはベッドを抜け出して奥のドアを開けた。寝室専用のサニタリーで、大きな浴槽には適温の湯が張られている。
「大金持ちは違うわ」
湯を使い。髪と身体を洗う。石鹸の香が、汗臭いセックスを忘れさせた。
「妊娠かぁー。した?」
風呂を出て、ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡の中の自分に問う。
鏡の中の自分は「さぁ?」と首を傾げた。過去2カ月、生理が来るたびに、また100万円もらえる、と嬉しかった。熊木田のように、今度こそ! といった意気込みはない。
身繕いを済ませ、吹き抜けにぶら下がったクラッシカルなシャンデリアや振り子時計を鑑賞しながら階段を下りる。
中ほどまで下りたとき、小百合が玄関ホールに顔を出した。いつものことだ。彼女の影が大理石の床に妖しく写っている。熊木田が「君は若いころの妻に似ているのだ」と言った声が頭を過る。
自分も齢を重ねたら、あんな素敵な女性になれるだろうか? いや、それはないな。その女性の夫と寝た自分に、そんな資格があるはずない。……思いながら脚を進めた。
階段を下りきったところで会釈した。それはいつものことだった。
「ごめんなさい」
どうして謝るの?……理由が分からずエイミはぽかんとした。
「私どものために、ありがとうございます……」
言い換えた彼女の言葉が濁っていた。
「いえ……」何と答えていいのか分からなかった。夫と寝た女に対しても礼儀正しい淑女に感心し、同時に、そんな女性が気味悪かった。自分なら殴りかかっているに違いない。
自分のことを、子供を作る道具と思っているのだ。そう解釈すると納得できたけれど、不快に感じた。
「こちらこそ、ごめんなさい」
謝り返してやる。見た目は謙虚に、心中、得意に。……私はあなたと違って子供が産めるのよ。……たぶん……。
「こちらに……。お茶を用意しました」
小百合の言葉にたじろいだ。言われるままにリビングに足を運び、ソファーに掛けた。
学校の教室ほどの広いリビングには寝室同様、高価な家具や絵画、彫刻などが並んでいた。カップボードには熊木田が大学時代に手にしたアマチュアボクシングのトロフィーがあって、それが男の象徴に見えた。そんな中でテーブルの上に置かれた〝偽りの記憶〟という小説は、エイミをホッとさせた。それだけはエイミの家にもあった。そして思う。今こうしているのは偽りの記憶に違いない。
エイミは紅茶を入れる小百合の横顔を見ながら、熊木田がベッドで言ったことを思い出す。「あいつは子供が産めないからな。こうすることに納得しているはずだ」
彼女の白い指が震えているのを認め、この淑女は納得していないと感じた。ならば、紅茶に毒を盛られるのかもしれない。想像すると背中を冷たいものが流れ落ちた。
一つのティーポットから二つのティーカップに紅茶が注がれる。
「どうぞ」
目の前に出されたティーカップに向かって「すみません」と言った。「ありがとう」ではなく「すみません」と……。謝罪にも似た言葉を使ったのは自分の身を案じてのことだ。少しでも淑女の気持ちが穏やかであってほしい。
「お口にあいますかどうか」
硬い表情の小百合がティーカップを口にするのを見てから、エイミもティーカップを唇にあてた。柔らかな紅茶の香りが鼻をくすぐり、僅かばかり緊張が解けた。
2人は黙って紅茶を飲む。
淑女はエイミを責めるでもなく、質問をすることもない。ただ紅茶を飲んだ。エイミはひどく居心地が悪い。
「これを。主人からです」
小百合が差し出したのは銀行名の入った封筒だ。
エイミは会釈をして封筒を受け取った。封筒の厚みに満足を覚える。代理出産の報酬だ。
小百合の視線を感じて頭の中が熱くなった。彼女はエイミを、夫のセックスの相手として見ているのに違いないと思った。熊木田に初めて裸を見られた時よりも、とても恥ずかしかった。
静寂の中、玄関ホールの吹き抜けの時計が午後4時の鐘を打った。その鐘の音は、大理石に反響して寺院の鐘のように神聖なものに聞こえた。
恥ずかしさをエネルギーに、そして鐘の音を合図に、エイミは立ちあがった。それから建物の外へ出るまでのことは夢中で記憶にない。
玄関から道路まで長い通路が続いている。車なら内と外を隔てるちょうど良い距離なのだろうけれど、歩くには遠すぎた。その距離が人をみじめな気持にする。……「違う」と声にした。みじめさの原因は百万円の重みなのだ。
歩いていると股間が濡れた気がした。
熊木田に子供ができなかったのは淑女のせいではなく、熊木田の精子に根性がないからだ。そう考えると、自分の魂が少し救われた気がする。1億円は無理かな、と思った。
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