第2話 いたちごっこ

 えりなは、最近駅前の喫茶店によく立ち寄っている。それは朝のモーニングの時間が多いのだが、その店は朝の七時から開店していて、サラリーマンが多いのかと思ったが、入ってみると、ほとんどが学生だった。そのせいなのか、早朝の開店時間から一時間くらいは、ほとんど客が入っていなかったりする。

 えりながこの店に最初に入ったのは、一年生の時の晩秋の頃だった。

 十一月の終わり頃で、早朝というと、すでに寒く、霜が降りていることもあるくらいだった。

 窓ガラスは水蒸気で曇ってしまっていて、中の様子を見ることはできない。その頃の七時すぎというと、まだ夜が明けていない時間帯で、中が電気がついている関係で、中からは表が見えないが、表からは中を見ることは容易だった。

 しかし、水蒸気が邪魔をして、中の様子はおぼろげにしか見ることができない。表を寒風の中歩いていると、中のぼやけた明かりが恋しくなってしまう。

 しかも、コーヒーやトースト、目玉焼きの焼ける匂いが漂ってくると、なかなか耐えられるものではない。えりなは欲望には勝てず、誘い込まれるように店の中に入った。その店の表は赤レンガに包まれているが、中に入ると木造の山小屋のような雰囲気で、湿気を木が吸い取ってくれているようで、さらに穏やかな気持ちになれるのだった。

 カウンター席に座ると、マスターが水を差しだしてくれた。

 キョロキョロと店内を見渡しているえりなに、マスターは注文を急ぐこともなく、様子をじっと伺っていた。一通り落ち着いたえりなに対して、

「ご注文は?」

 と、すかさずに聞いてきたので、

「じゃあ、ホットモーニングで」

 と、定番メニューを注文すると、

「かしこまりました」

 と、一言いうだけで、会話もなかった。

 普段のえりなであれば、あまり会話のない店では馴染みになれるはずもないと思い、

――馴染みの店になりそうにもないわね――

 と勝手に思い込んでいた。

 サラダにハムエッグ、トーストにコーヒーというどこにでもあるモーニングセットだったが、えりなにはなぜか新鮮に感じられた。

 最近では、こんな純喫茶のようなところは減ってきていて、ほとんどがチェーン店になったカフェのような店で、セルフサービスの店が多かったりする。そんなお店では、モーニングというと、サラダがついていたとしても、それは単品をセットとしてトレーに乗せただけのもので、なんとなく新鮮さに欠けると思っていた。そういう意味ではこの店のモーニングは、えりなにとって、探し求めていた新鮮さを感じるメニューだったのだ。

 えりなはこの店に立ち寄るようになってから、それまで読んだことがなかった本を読むようになった。

 それまで読むといっても、マンガだけだったので、どうして読書をするようになったのかというと、この店の雰囲気が、読書をすることで自分が高貴な趣味を持ったかのように感じられることに悦びを感じたからだった。

 えりなのよろこびは、喜びではなく、悦びだった。

 まさしく、悦に入った時間を感じられたのだ。それが一種の、

――高貴な時間――

 とでもいうべきなのか、何かをしていて、時間が経つのを意識することがないほど集中できたことなど、それまでにはなかったからだ。

 確かに、高校の頃の受験勉強では、集中力を求められ、集中できるための訓練を重ねてきた。

 しかし、それはあくまでも受験のためという目的があってのことで、自分自身を高めるという意味での集中力ではなかった。高貴な時間としてその時間に佇むことができるのは、自分自身を高める時間を得たことで感じたことだったのだ。

 えりなは、マスターと相変わらず会話をすることはあまりなかったが、本を読むことで、自分だけの空間と時間を得たことを嬉しく思っていた。

 えりなが読む本は、ファンタジー系の話だった。

 一番現実離れしているようで、そして、読みやすいと感じたのだ。

 ゲーム好きであれば、ゲームの原作というイメージ。あるいは、ゲームから派生した小説という感覚で読めるのだろうが、えりなはゲームをすることはない。だから、ある意味純粋に読むことができる。それだけに自分の世界に入り込むこともできるのだった。

 えりなが小説を読んでいる横で、時々カウンターの少し離れた席にいつも来ている一人の女性客がいた。

 彼女は、やはり大学生だろう。マスターとよく話をしているが、相変わらずマスターは相槌を打つだけで、決して愛想がよさそうだとは思わない。

――それなのに、どうして彼女はマスターに話をするのかしら?

 と、不思議に感じていた。

 別に悩みを打ち明けて、それに対してマスターが助言をしているというような雰囲気でもない。えりなは読書をしながら、彼女が店に立ち寄った時、時々自分の時間の合間に、二人の関係が気になるようになっていた。

 だからといって、それが嫌だというわけでもなかった。

 二人がえりなを意識しているという様子もなかったし、特にマスターは彼女に対して、他の人と態度を変えているわけでもない。

――相変わらず――

 という言葉が、マスターには一番似合っているように思えた。

 テレビドラマなどを見ていて、喫茶店やバーの様子が出てくることがあるが、客との会話で、自分が主導権を握っているような厚かましいマスターが登場することは確かにあまりないような気がする。

――大人の雰囲気を醸し出して、店全体を見ている――

 というのが印象だった。

 考えてみれば、マスターだけが、客とは違っているのだ。見る方向も逆だし、客は座っているのに、マスターだけは立っている。なるべく上から目線にならないように、カウンターの奥は低くなっているのだろうが、それでも少し上から目線になっている。それが慣れてくると、絶妙な位置関係になっているのだろう。違和感がない状態というのが存在しているのかも知れない。

 ある日、いつもマスターに話しかけているその女性が、完全にいつもと違う雰囲気で入ってきた。

――どうしたのかしら?

 椅子に座る瞬間から、そう感じられるほどで、明らかに落ち込んでいる。その様子は失恋ではないかとえりなに感じさせた。

 えりなの予想は当たっていた。

「ねえ、マスター。私、失恋しちゃった」

 と、いきなりマスターに切り出したのだ。

「そうですか」

 と、それこそ、相変わらずの返事しかしないマスターに、さすがにその時はえりなもじれったさを感じたほどだった。

――もう少し、言い方があるだろうに――

 と言いたかった。

 だが、口にすることはなかった。なぜから、えりなも悲しんでいる彼女の横で、自分がどのようなリアクションを取ればいいのか、戸惑っていたのだ。下手なリアクションを取って、彼女から睨みつけられたりすれば、もう本当にこの店に二度と来ることはないだろうと思ったからだ。

――二度と来ることはないという最後通牒を突き付けられるようなことはしたくない――

 と感じた。

 どうせなら、二度と来ることがないとしても、その時は自分だけで完結する結論であってほしいと思っているので、他人から与えられた思いから二度と来なくなるというのは、自分で納得できるものではなく、癪に障ることだった。

 彼女は泣いているようだった。

 そんな彼女にマスターはそっとおしぼりを渡し、その様子は他人には気付かれないように心遣いをしていた。

 えりなはじっと様子を伺っていたので、その様子は手に取るように分かった。そして心遣いまで手に取るように分かった。

――意外とマスターって気が利くんだわ――

 と感じた。

 そして、その時を境に、マスターへの見方が変わったのは間違いのないことだった。

 彼女の方はといえば、マスターの心遣いを知ってか知らずか、涙を拭ってしまうと、しばらく考え込んでいたようだ。マスターもそんな彼女を気にしている様子はあるが、決して他人に気にしている様子を見せないようにしている気配が感じられた。

――マスターって、人に気付かれないように気を遣っていたんだわ――

 と、マスターを見直すと、自分がこの店の常連になった理由の一つに、自分でも意識していないマスターへの意識が備わっていたのではないかと感じたのだった。

 その時、彼女とマスターの間に、誰にも分からないコンタクトがあることに気が付いた。そしてそのことに気付いた自分を、

――すごい――

 と感じ、そう感じたことを、まわりに知られたくないという思いが浮かんだことも事実だった。

――特に、彼女とマスターには気付かれたくはない――

 なぜなら、何がすごいのか自分でも分からないからだ。

 何とも漠然とした表現できない感覚に感動している自分自身を、自分でも分かっていないからだった。

 彼女はマスターのそっけない態度に落胆している様子もなければ、苛立っている様子もない。ただ、呟いたことを忘れてしまったかのように、彼女もカバンから本を出して読み始めた。

 彼女もえりなもお互いにブックカバーが掛かっている本を読んでいるので、何を読んでいるのか分からない。えりなの方とすれば、大学生の女の子が喫茶店で読むような本なのか自分でも疑問だったこともあって、なるべくなら知られたくないと思っていた。もしこれが恋愛小説などであれば、見られてもいいと思ったに違いない。

「何をお読みなんですか?」

 と、彼女はえりなの気持ちを察することなく聞いてきた。

 えりなは虚を突かれた気がして、本当なら言いたくないはずなのに、

「あ、ええ、ファンタジー小説です」

 と、思わず口走ってしまった。

 しかし、えりなに、

――しまった――

 という意識はなかった。

 思わずとはいえ、口から出てしまったものが元に戻るわけでもないし、いまさら後悔しても遅いのは分かっていた。こういう潔さは、意外とえりなは持ち合わせていたりするのだった。

 すると、彼女はえりなの様子に気を遣うこともなく、

「私は恋愛小説なのよ。それも純愛ではなく、愛欲と呼ばれるようなものなんですけどね」

 と、照れ笑いしていた。

「愛欲というと、不倫だったり、略奪愛のようなドロドロ系の小説ですか?」

 えりなは、ホラー小説は嫌いではないが、人間関係のドロドロとした愛想絵図は嫌いだった。

 ホラーのように、フィクションであれば、いくら怖くても、信じなければいいだけなのに対し、愛憎絵図のドロドロとしたものは、元々、誰かのエピソードを元に書かれたものではないかという思いを抱くことで、最初からウンザリとした気持ちで読み始めることが分かっているので、それが嫌だったのだ。

 だが、それはあくまでも自分が読むという前提に立ってのことで、人が読んでいる分には気にならない。逆にそんな小説を好んで読む人に対して、興味が湧くというくらいだった。

「そうね。不倫というか、結婚していない人が二股を掛けているというお話なんだけどね。それが自分と同じ世代の女性が主人公なので、ちょっと興味が湧いてきて読んでいるんですけどね」

 と、あっけらかんと話した。

 さっき、マスターに、

「私、失恋したの」

 と言った人間と同一人物なのかと思うほどで、何よりも失恋という失意の中で、よく愛欲お恋愛小説など読めるものだと思えたほどだ。

「それ、面白いですか?」

 えりなとしても、気にはなっているのだが、何を質問していいのか分からず、思わずそんな質問をしたが、漠然としている質問のようで、ひょっとすると、ストレートすぎる質問だったのではないかと、少し後悔した。

「ええ、面白いですよ。特に、私のように失恋した人が読むと、感慨深いところがあって、読んでいて、普段と違う感覚に戸惑いながらも、時間を感じさせないところがありがたかったりするの」

「さっき、失恋したと言われてましたけど、そんな時でも読める小説なんですか?」

 とえりなが聞くと、

「それは人それぞれなんじゃないかしら? 失意の中でこんな本、開くのも嫌だと思う人は結構いると思うのよね。私もそうだったから。でも、一度開いてしまうと、普段とは違った感覚で読み込むことができて、嫌なことを忘れられるんじゃないかって思うほどになっているのよ」

「そうなんだ」

 えりなには、理解しがたい感覚だった。

 えりなも、一人前に失恋の経験くらいはある。

 その時は友達に話を聞いてもらって、何とか切り抜けたつもりだったが、逆にそのことで友達を失くすことになってしまった。

 話を聞いてくれている時は、相手も親身になって聞いてくれていると思っていたので、こちらも甘えてしまっていたが、相手にとって、えりなの話など、しょせんは他人事だった。

 普段から無意識にでも他人事のように接することの多いえりなが、失恋したことで、人に話してすっきりさせようとするなど、普段から考えれば、虫のいいことなのかも知れない。それなのに、立ち直ってから、今度はその友達が失意の元に失恋して、立場が逆になった。

 えりなは、彼女の話を聞いてあげたが、それはいつもの他人事のような雰囲気で、失意の相手には、それが余計に感じられ、

「どうして、そんなに冷静なの?」

 と、相手に疑問を抱かせた。

 相手からすれば、

――最初、自分の話を聞いてくれたそのお返しに聞いてあげているという意識になっているだけなんだわ――

 と思わせたに違いない。

 実際は、そういうわけではなく、えりなは無意識に何でも他人事のような態度を取ってしまう性格だ。その友達もそれくらいのことは分かっているはずなのに、自分が失意にいることと、一度聞いてあげた過去を思い出すことで、えりなの態度に棘があるかのように感じたのだ。

「もういい。あなたとは、今後友達でもなんでもないから」

 と、その友達はえりなの前から去って行った。

 えりなとすれば、自業自得だと思っていた。本当なら、ほとぼりが冷めたら、自分から仲直りにいけば、修復できた仲なのかも知れないが、えりなは後ろめたさから自分から仲直りにはいけなかった。

 相手からすれば、

――しょせん、私はそれだけの仲なんだわ――

 と感じることになっただろう。

 えりなはそこで友達を失ったが、その思いはそれほど辛いものではなかった。

 他にも友達がいたというのが本音なのかも知れないが、一度一人の友達を失うと、それから時期を置かずに、他の友達とも粗悪な関係になり、気が付けば自分のまわりに友達はほとんどいなくなった。

 大学生としては、挨拶をする友達くらいはいるが、大学で挨拶する程度の相手を友達と本当に呼べるのかどうか疑問である。

 今、隣の席で本を読んでいる女性、その時の友達に横顔が似ていた。本当であれば、話くらいは聞いてあげてもいいのかも知れないと思ったが、また他人事のように思われては叶わない。

 そう思うと、この店のマスターのそっけない態度も、別に悪くないと思えた。

――マスターも、きっとどこか私に似たところがあるのかも知れないわ――

 と感じた。

 彼女は、本を読みながら、少しずつ話しかけてくる。

「私の今読んでいる本じゃないんだけどね」

 というところから始まり、

「前に読んだことのある本なんだけど、それは愛欲というよりも、純愛のようなお話だったの。最初は、愛欲のような感じの始まり方だったんだけど、私も最初を読んで、それが愛欲だと思って買って読んだんだけど、途中から愛欲ではなくなってきたの」

「いきなり、純愛関係になってきたんですか?」

「そうじゃなくって、面白いんだけど、急に途中からホラーのような感じのお話になってきたの。サイコホラーではないんだけど、おどろおどろしい感じが溢れてくるような感じなんだけど、そのうちにミステリーの様相も呈してきたの」

「それは誰かが殺されたか何かで?」

「ええ、そう思って読んでいたんだけど、実は殺されたわけではなく、自殺だった。自殺するはずのないと思われている人が自殺したことで、見方によっては、ホラーのような雰囲気だったり、殺人事件だと考えるとミステリーに見えてきたりと、見る角度によって、同じ小説でもまったく違ってくるという作風の小説だったの。これって本当にすごい作品だって思ったわ」

「面白そうですね。私も読んでみたいわ」

 というと、彼女はメモを取り出して、作者名と、作品名を書いてくれた。

「ベストセラーとかになっているわけではないので、小さな本屋さんには置いていないかも知れないわね」

 というと、ニッコリと微笑んだ。

「そういう小説を読むのって私は結構好きなんですよ。ミーハーなわけではないので、皆がいいと言う小説は、私意外と読まないことにしているんですよ」

「そうなんですね。私と似ているわね」

「そうですか?」

 と言ってお互いに笑った。

――人と目を見つめあうようにして笑ったのなんて、いつ以来かしら?

 とえりなは感じた。

――彼女も、同じことを思っているといいな――

 と、感じたが、それはあまりにも虫のよすぎることだった。

「私、今日失恋したんだけど、本当はそんなに悲しいわけではないのよ」

 と彼女は言った。

「そうなんですか?」

「ええ、どちらかというと、友達を失う方が悲しいかも知れない」

「どうしてですか?」

「実は、付き合っていたその彼というのは、友達と取り合った相手なのよ」

 という告白に、一瞬、口を開けてボーっとしてしまったえりなだったが、

「そうだったんですか。争奪戦で、あなたが勝ったというわけですか?」

「ええ、そうね。形の上では」

「というと?」

「彼を独り占めできると思った時は、私もさすがに有頂天だったわ。取り合った相手が友達だったというのは、後ろ髪をひかれる思いだったんだけど、それだけに、幸せになれるような気がしたの。そうじゃないと、友達に悪いでしょう?」

「ええ、そうですね」

 どうやら、彼女はポジティブに考えられる性格のようである。

「だから、友達とは少し気まずい関係になったけど、それでも時間が解決してくれると思っていたのよね。そうすれば、彼にも彼女にも、私は自分の立ち位置を確保できると思ったから」

「それで?」

「そこまではよかったんだけど、実は、その彼というのが、私の構想を打ち砕くだけのロクでもない相手だったの」

「というと?」

「争奪戦を繰り広げて、私が勝ったはずだったのに、私が彼の正式な彼女になってから数か月もしない間に、何と、友達とその彼とがまた付き合いだしたの」

「えっ?」

「どうやら、彼の方が、私に分からなければいいと彼女に言いよって、またよりを戻したみたいなの。彼女も私に負けたままでは嫌だと思ったんでしょうね。私に対してのあてつけのつもりもあったのかも知れない。でも、彼とは別に彼女の方は私へのあてつけがあるから、よりを戻したことを黙ってはいられなかった。だから私に告白したのよ」

「それって、修羅場になりそう」

「ええ、私は彼女から勝ち誇ったように告白された。その時の彼女に後ろめたさなんてこれっぽちもなかった。その様子を見て、私は友達が許せなかった。私は彼と付き合い始めても、気を遣っていたつもりだったのに、こんな人に後ろめたさを感じていたのかと思うと、自分が情けなくなったの」

「分かるわ。その気持ち」

「だから私は、彼女の言いたいことはそのまま受け流して、その思いを彼にぶつけたの。すると彼は開き直って、『どうせお前のような女とは、そんなに長くないと思っていたからな』なんていうのよ。彼の本心を聞けて、私はこの二人がロクでもない連中だって分かった。いや、この男がロクでもないから、よりを戻した彼女も、私に対しての敵対心をあらわにし、その思いが優越感に浸らせることになったのよ」

「それで失恋なのね」

「ええ、でも、この失恋という言葉、他の人が使うものとは違うの。恋を失ったのは私だけで、相手は最初からなかったのよ。ある意味スッキリする気持ちにもなれるんだけど、どうして自分があんな男に引っかかったのかという意味では、情けなくも思うわ。友達に対してもそう。いえ、友達に対しての方が酷い気持ちになっているのかも知れないわ」

「それは、きっと、彼氏を争奪するところから歯車が狂ったのかも知れませんね」

 とえりながいうと、

「そうかも知れないけど、最初から無理を押し通したのかも知れないわ。まさか出会いが最高で、そこからすべてが下り坂なんて、思いもしないからね。ひょっとすると、別れたことで、出会う前の自分に戻れたのかも知れない。出会いすら否定したい気分に、今の私はなっているからね」

「そこまでの経験は私にはないですね」

 えりなは、想像を絶する話に、余計なことは考えないようにしようと感じた。

「なんとなく堂々巡りを繰り返している自分が少し怖くなってしまうこともあるんですが、本当なら、こんな最低な男にかかわったことを後悔するのならいいんですが、二人がよりを戻して、万が一幸福にでもなった時には、なんて考えると、変な男に引っかかったということよりも、致命的なショックを受ける気がしたんですよ」

 彼女の話を聞いて、

――これが女としての気持ちなのかも知れないわね――

 と感じた。

 逃した魚は大きいという言葉や、隣のバラは赤いという言葉を思い出していた。彼女は自分のことよりも、まわりのことの方に目が行くようで、将来のことを考えてのことだともいえる。単純に嫉妬深いだけだと思えないのではないかとも思えてきた。

 彼女の話を聞いてえりばは、自分に当て嵌めてみた。

――私も嫉妬深いはずなんだけど、幸運なことに、嫉妬するようなことってなかったような気がするわ――

 それは、単純に嫉妬するようなできごとがなかったというだけで、

――知らぬが仏――

 という言葉で言い表させるたぐいなのかも知れない。

 しかし、人の話を聞いていると、自分にとって何がいいのか分からなくなってしまう。まだ大学生なので、これから恋愛もいろいろ経験するはずなので、余計なことを考えすぎない方がいいのだろうと思うと、気が付けば、いつの間にか他人事のように考えている自分を見ているようだった。

――だから、自分を他人事のように見るようになったのかも知れないわ――

 えりなは、そんなことを考えていると、

「あなたとは、仲良くなれそうな気がするわ」

 という彼女に言われて、

「そうですか? 私もです。あなたを見ていて今まで気付かなった。いや、気付いていたけど、どうしてそんな感覚に陥るのか分からなかった自分を顧みることができるような気がして、それが嬉しく思います」

 これはえりなの本音だった。

「それは私も感じます」

 そういって頷いている彼女を見ていると、彼女も自分のことを他人事のように考えられる人であることを感じていた。それは自分と同じなのかどうかは分からないが、自分の中でショッキングなことが起こった時、そのショックを和らげる手法として、自分を他人事のように見ることができる人だということだ。それを、

――冷静に自分を見ることができる人だ――

 と言えるのだろうが、大人の対応ができるかどうか、最終的にはその人の技量にゆだねられるに違いなかった。

「私は梅田えりなって言います。K大学の三年生になります」

 とえりながいうと、

「私は、町田あゆみって言います。同じ大学の二年生です。学部は理学部です」

 と彼女は言った。

 理学部というのもビックリしたが、自分よりも学年が下だという方がビックリした。落ち着いている様子を見ると、同い年に思えた。学年を聞いても彼女に対してのイメージは変わらなかった。むしろ年上に感じられるほどだった。これからいろいろな話をすることになるだろうが、そのほとんどは、彼女の方が話の主導権を握ることになるのだと思うのだった。

「理学部って、女性は少ないですよね?」

 とえりなが聞くと、

「そうでもないですよ。文学部の男女の比率よりもまだ男女の比率は等分に近いですよ。研究員になって残る人も多いと聞きます。私は将来どうするかはまだ決めているわけではないですけどね」

 と言っていた。

「確かにそうかも知れないわね。私は文学部に所属しているんだけど、教室はほとんどの人が女性ばかりで、男性を見るのはまばらですよ」

 とえりながいうと、

「えりなさんは、何を専攻しているんですか?」

 と聞かれて、

「私は心理学を専攻しているんですよ。文学部の中では結構異色のようですけどね」

「心理学って、文学部だったんですね?」

「ええ、専攻はしているんですが、なかなか難しくて、今でも理解できないことが結構ありますよ」

 というえりなに対し、

「私も理学部で電子工学を専攻しているんですが、最近、急に心理学にも興味を持つようになったんです。電子工学の世界も心理学にまったく関係がないというわけではないような気が最近してきましてね」

「というと?」

「電子や電気というのは、人間とは切っても切り離せない関係にあると思うんですよ。人間の身体の中には絶えず電流が流れているんですよ。そうでなければ、身体が感じた感覚を脳に送ることもできないですし、頭が考えたことを、瞬時に行動に移すための信号を身体に移すこともできないと思いますからね」

「なるほど、確かに人間の身体の中に電流が流れているということは聞いたことがあります。でも、それが心理学とどういう関係があるんですか?」

「コンピュータというのは、二進数の信号を送ることで動かしているようなものですから、その信号も、人間の身体の仕組みと似ているところがあると思うんです。電流が信号を送る流れの中核を示しているとするのであれば、人間と同じですよね」

 あゆみは素人にも分かりやすいように話をしているつもりだったようだ。そのため、同じことを繰り返して話すのではないかという思いを持ちながら話しているようで、そのため、余計にぎこちない話になってしまうのも仕方のないことであった。

 えりなは、人の話を聞いていて、その人の気持ちを読むのは苦手ではないと思っていた。それは中学時代から思っていたことで、大学に入って心理学を専攻するきっかけになったのは、そのあたりの思いがあったからだ。

 だが、実際に大学に入って心理学を勉強してみると、自分が思っていたような学問とは少し違っていた。

――心理学って、こんな感じなんだ――

 心理学というのが、難しい言葉の羅列であるということも、えりなにそう感じさせた要因なのかも知れない。

 難しい言葉を何とか理解しようと思っているが、

――そのうちに、自分が無意識に心理学に時分の性格を凌駕されてしまうのではないか――

 と感じることが怖かった。

 心理学を専攻している学生は、他の文学部の学生たちと明らかに違う。逆に自分たちが専攻しているのを、

「心理学です」

 というと、

「へえ、そんな風には見えなかった」

 と言われることはほとんどなく、

「心理学っぽく見えますね」

 と言われたり、言われないまでも、納得していると言わんばかりに頭をうんうんと何度も下げている様子に出会うことがほとんどだった。

――もう慣れっこだわ――

 と感じた。

 えりなも、類を漏れず、まわりからは心理学を専攻している女性として意識されているようだった。

 彼氏がなかなかできないのも、心理学のせいではないかと思うこともあった。

 もちろん、言い訳でしかないのは分かっている。心理学を志している女性の中には彼氏がいる人も結構いる。心理学を志している女性はえりなが思っているよりも多く、男性よりも女性の方が比率としては多いのは分かっていた。

「理屈っぽいって思われることが多いのは、少し考えちゃいますね」

 とえりなは、あゆみに言った。

「そうかしら? 心理学を専攻している人と話をしたのはえりなさんが初めてなんですけど、えりなさんには、そんなことは感じませんよ。むしろ、他の人の方が理屈っぽく感じられるほどで、理屈っぽい話をしている時というのは、何か後ろめたいことがある時だったり、何かを隠したいと思っている時が多いような気がします。私の気のせいなのかも知れませんけどね」

 とあゆみは言った。

「なるほど、確かにそうかも知れませんね。私はそんな人って、自分を保身したいから理屈っぽくなると思っちゃいます」

 と、えりながいうと、

「そうでしょう? だから、えりなさんがさっき言われたように、自分を他人事のように感じている人には、自分を保身するという意識はほとんどないような気がするんですよ。だからえりなさんには、理屈っぽさが感じられないと思うんです」

 とあゆみが言った。

「でも、人間には、自分が相手に対して優越感を持ちたいという意識があると思うの。だから自分が持っている知識や他人にはない自分だけの知識をひけらかせたいという感覚が出てくるのではないかって思うんだけど、違うかしら?」

「それはあるでしょうね? でも、今えりなさんは、『違うかしら?』って言ったでしょう? それは自分の意見に完璧さが感じられないから、相手に気持ちを確かめようという気持ちになるんじゃないかしら? そういう意味ではえりなさんは、知識をひけらかすという意識はないように思うんですよ。無意識にでもですね」

 というあゆみの言葉を聞いて、

――それはいい意味なのかしら?

 と、ついあゆみの言葉の裏を読んでしまおうとしている自分に気が付いた。

 えりなが少し考えていると、

「大丈夫よ。えりなさんは、人を不快にさせるような言葉を言わない人だと思いますから、自信を持っていいと思いますよ」

 とあゆみに言われて、

――どうしてあゆみさんは、こんなに自信ありげに話ができるのかしら? それに比べて私は最後に「違うかしら?」と繋げるような自信のない言い方しかできないのに――

 と考えていた。

 やはり電子工学を勉強していると、心理学に近い発想が生まれてくるのではないかとえりなは考えた。

「あゆみさんが専攻している電子工学が心理学に近い発想を生むことができるんじゃないかって今感じています」

 とえりながいうと、

「そうなのかも知れないけど、考え方を柔軟にしようと思っているんですよ」

「どういうことですか?」

「機械やコンピュータというのは、プログラムで皆動いているんですよ。プログラムというのは、基本的なシステムがあって、それに沿うように作り込んでいくんですね。つまりは、自分で作ったようにしか動かないというのが当たり前のことですが、真理なんですよね。だから、思った通りに動かなかった場合、何がおかしいのか自分でいろいろ調べたり、試したりして修正して、正しく動くようにするんですよ。基本は決まっているんだけど、そこから派生して、正しく動くように纏めるというのが、大きな作業でもある。だから、柔軟な考えを持たないとできない作業なんですよ」

「なるほど、失敗して、そこから経験を得ることで今後に生かすということもあるわけですね」

「ええ、それが中核といってもいいかも知れませんね」

 えりなは、その話を聞いて、

―ーなるほど――

 と感じた。

「えりなさんは、本を読むのが好きなようですが、本だってそうですよね。小説のようなお話には、起承転結という基礎があって、そこからいろいろ幅を広げていきますよね。最後に読み手に、なるほどと思わせたり、そうだったのか? とビックリさせたりするのが本の醍醐味ですよね」

「ええ」

「でも逆なんですよ。結末は決まっていて、そこからどのようなプロセスで組み立てていくかが問題になってくる」

「小説も同じですよ」

「そうなんですか?」

「ええ、読み手は頭から小説を読んでいくから、ラストを楽しみにする。でも書き手はラストを決めてから、途中を考える人が多いんじゃないでしょうか? もちろん、書きながら話を膨らませて、最後にラストをどうするか考える人もいる。人それぞれなんでしょうけどね」

「そうですね。私は確かに読み手の方向からしか見ていませんでした。確かに私たちが作ったものを使う人には、出来上がるまでの過程なんか、まったく関係ないですからね。そういう意味ではえりなさんのお話に同感いたします」

 とあゆみは言った。

 最初はあゆみが話の主導権を握っているようだったが、途中から話の展開からか同等な立場になってきていることに気が付いた。

――こんな関係っていいわね――

 とえりなは感じた。

「えりばさんは、心理学の勉強をしていて面白いですか?」

 とあゆみが聞いてきた。

「面白いというか、興味のあることには結構深く入っていくことが多いですが、そうでもないことは、流してしまうことが多いですね。心理学と一口に言っても、いろいろありますからね」

「それは電子工学にも言えることですね。私がどうして面白いのかと聞いたかというと、私は何もないところから何かを作り出すことが好きなんですよ。そういう意味では電子工学というのは私にピッタリだと思ったんですが、心理学というのはそういうものではなく、既存のものを掘り下げていくものでしょう? 私にはその感覚が分からなかったので、面白いのかと単純に思っただけです」

「そういうことだったんですね。そういう意味では私もあゆみさんと変わりないですよ。あゆみさんも、自分が興味のある新しいものを作り出すということだから面白いと思うわけでしょう? 私も同じです」

「でも、世の中って、自分のやりたいことだけを続けていけるほど甘い世界ではないですよね。私もそれは分かっているつもりなんですが、それでもどうせならやりたいと少しでも思うことであれば、だいぶ違うと思うんですよ」

 というあゆみの話を聞いて、

「私は少し考え方が違うんですよ」

「どういうことですか?」

「いくら自分のやりたいことであっても、すべてが思い通りにいくわけはないと思うんですよね」

 というと、あゆみはうんうんと頭を下げながら聞いていた。

 えりなは続ける。

「だから、いつかは壁にぶつかることがあると思うんですが、その時にどう感じるかだと思うんですよ。自分のやりたいことの中でぶつかる壁なので、我慢できると思うのか、それともやりたいことの中で生まれた障害だからこそ、予期せぬできごとであり、その時、頭が混乱して、どうしていいのか分からなくなるのかの、どちらからだと思うんですよ。人それぞれ、その人の性格なんでしょうが、あなたの場合はどうなんでしょうね?」

 それを聞いたあゆみは、少し考え込んでしまった。

 少し顔が引きつっているようにも思えたが、これはあゆみが自分のやりたいことを続けていると感じている以上、遅かれ早かれ訪れる問題のような気がした。

 しかし、それを仲良くなりつつあるとはいえ、初対面の相手にいきなりぶつけるというのはどうなのだろう? えりな自身も、最初からそんなつもりなど毛頭なかったはずである。

――どうしちゃったんだろう? 私は――

 と、えりなは考えた。

 あゆみを見ていると、そのことに触れないわけにはいかないと思った。あゆみはえりなに対し、興味のあることが面白いのかどうか、どういうつもりで聞いたのか、最初に考えたのだろうか?

 もちろん、その時、自分が皮肉を言われたという意識があったわけではない。皮肉を言われたのであれば、これくらいの話を返すくらいは問題ないと思うが、相手に悪気がなければ、初対面の相手にすることではない。

 それとも、その時のえりなに、

――この人には、言っておかなければいけない――

 とでも感じたというのか、よく分からなかった。

 それよりも、えりなの中で、あゆみが言った言葉の何かに反応し、その言葉が枕詞のようになり、えりなを動かしたのかも知れない。

 もし、そうであれば、えりなが意識してそのことを言ったのではないともいえる。ただ、それを認めてしまうと、自分の中にもう一人の自分がいて、表に出ている自分に関係なく、裏から動かしていたと言える。心理学ではありがちな話だが、やはり現実的ではない。

――それとも、私の中に何かのトラウマがあって、トラウマは普段意識するものではないとすれば、彼女の話の中に、トラウマを思い起こさせるキーワードがあったと考えれば、納得させるに値する発想にもなるのではないだろうか――

 えりなは、自分が頭の中でいろいろな可能性を組み立てているのを感じ、

――面白い――

 と思った。

 ただ、この思いは今感じたことではなく、時々感じているように思えた。無意識にとった自分の行動を、あとから振り返って、いろいろな可能性を考えるというものだ。

 えりなは、それを、

――積み木遊び――

 だと思っていた。

 積み木を組み立てる発想は、彼女のいう、

――何もないところから新たに組み立てる――

 という発想に似ている。

 そういう意味で、えりなはあゆみと気が合うのではないかと思ったのだろう。それなのに、どうしてあゆみに対して皮肉めいたことを口走ってしまったのか、自分でも分からない。

 えりなはそれを後悔しているわけではない。むしろ、口にしなければいけなかったことだとあとから考えても思うのだった。

 しかし、あゆみの雰囲気を見ると、後ろめたさがあった。それは後悔ではなく、罪悪感に近いものだろう。

――言わなければいけないと思ったことを言っただけなのに――

 えりなの中では、やりきれない気持ちになった。

 あゆみもえりなも、お互いに気まずい気持ちになった。だが、ここで会話をやめてしまうとこのまま彼女とは終わってしまうように思えた。まだ始まっていないと言われれば、そうなのかも知れないが、えりなとしては、

――始まってもいないのに、終わるというのはおかしなものだ――

 という矛盾を含んだ不思議な感覚に襲われていた。

 会話を何とか修復しようと思っていたが、すぐには言葉が浮かんでこない。すると、あゆみの方から言葉が発せられた。

「えりなさんは、失恋したことありますか?」

 と、言ってきたあゆみに対して、えりなはどう答えていいのか、躊躇した。

「ええ、ありますよ」

 というと、

「失恋って、その時は本当につらいものですよね。私の場合は、楽しかった頃のことが思い出されて、やりきれない気持ちになるんですよ」

「そうかも知れませんね。私はそこまでたくさんの思い出ができるほどの恋愛をしたことがないので、よく分からないんですが」

「それは、羨ましいというべきなのか、私にはよく分からないけど、失恋というのは、自分がフラれる場合は、必ず青天の霹靂ですよね。兆候を感じていても、それでも修復を考えていれば、まだまだ恋愛期間には変わりはないからですね。つまり、昨日までは楽しかった思い出に包まれている自分の足元が急に開けて、気が付けば奈落の底に叩き落とされているわけですよ。そんな自分を私は認められないというか、存在自体納得がいかないような不思議な感覚に襲われるんです。そして考えることは、『何が悪かったんだろう?』という思いですね。別れることになったすべての理由は自分にあるという思いに駆られるんですよ」

「そうかも知れませんね」

 えりなは、よく分からないという思いがあったので、曖昧にしか答えることができなかった。

 あゆみは、さらに続ける。

「すべての非が自分にあると思っているくせに、相手に罵倒されたりすると、たまに反抗してしまうこともあるんですよ。ほとんどは、相手のいいなりになっていることが多いんですが、反抗する時というのは、不思議な感覚に襲われているんです」

「というと?」

「もしここで反抗してしまわないと、このあと絶対に後悔すると思うんですよ。このまま言いなりになってしまうと、なし崩しに別れを既成事実のようにされてしまい、すべての非を私に押し付けられたまま終わってしまう。さすがにそれには納得がいきませんからね」

 少しあゆみは興奮しているようだった。

「それはそうですよね。私でも同じことを考えてしまうでしょうね」

 あゆみのつもりになって考えると、十分納得のいく考えだった。

 ただ、興奮しているあゆみを見ていると、それに反して次第に冷静になってくる自分をえりなは感じていた。それは、自分を他人事のように見ている自分に似ているようで、

――こんな時にも、他人事の自分を感じるんだわ――

 と、普段と違う心境から入り込んでしまった他人事を感じる自分に、陶酔する気分になりかかっていた。

「あゆみさんは、自分が納得いかないことには、徹底的に反抗するタイプなのかしら?」

 というと、

「そんなことはないと思うんですが、納得のいかないことを認めるような考えは私の中にはないと思っています」

「それは私も同じなんですが、その時にどう感じるかで、その人の性格、つまり表に出る感情が分かるというものかも知れませんね」

 と、えりなは言った。

「どういうことですか?」

「私の場合は、納得のいかないことがあると、自分を他人事のように感じている時がほとんどなんです。もっとも、自分を他人事のように感じるのは今に始まったことではなく、ずっと以前、子供の頃から感じていたことのように思えるんですよ」

「それは私もありますね。客観的に自分を見てしまうということですよね。そんな時、我に返ることもあるんですが、それまで自分が興奮の極地にあって、我を忘れてしまっているということだったんだってあとになって思うんです」

「客観的に自分を見るわけですね」

「ええ、そうですね」

「でも、私は少し違うんです」

「というと?」

「私が言っているのは、自分を他人事のように見るということです」

「一緒じゃないんですか?」

「違います。客観的に見るというのは、あくまでも、自分を自分として見ているということですよね。そうじゃなくて、本当に他人のように見るんですよ。だから、見ている自分が他人なのかも知れないし、見られている自分が他人なのかも知れない。ひょっとするとどちらも他人なのかも知れないとも思うことがあるくらいです」

 とえりながいうと、

「よく分かりません、私には自分を他人事のように見るなど、想像できないんですよ」

「それはきっと、子供の頃に何かそそうをして、誰かに怒られた時、子供としては、他人事のように考えようと無意識かも知れないけど、すると思うんですよね。大人はそのことを看過して、『あなたが悪いのよ、誰が悪いわけではない』って言って怒られると思うの。それが頭に残ってしまい、奥深く入り込んだトラウマとなって、自分を他人事のように思うのは悪いこととして、無意識にそう思うことをしないようにしているんじゃないですか?」

「そうかも知れません」

「だから、他の人が自分を他人事のように思おうとしている人がいると、嫌悪を感じてしまうんじゃないですか? そういう意味では私も今までに何度もまわりからそう思われていると意識したことがあります。それでも私は他人事のように思うことをやめないと思うんですよ。決していいことではないとは思うんですが、トラウマとして抱えてしまうほど悪いことだとも思えないんですよ」

 というえりなの言葉を聞いて、

「なるほど、そうかも知れません。私はずっと漠然とそのお話を聞いていたんですが、ここまで言われたことを咀嚼すると、何かの結論が生まれてくるような気がするんです。それがどんな形なのか分からないんですが、今までにはない感覚ですね」

「というと?」

「私は、今まで話を聞いていて、最初から漠然としていて、理解できないと思えていたことは、話を聞いたあとでも、理解できることはできなかったんです。それだけ自分の思い込みがあったからなのか、それとも最初から無理だと打て合わなかったのかのどちらかではないかと思うんです」

「私は、その気持ちはよく分かる気がします。しかし、そんな感覚に陥ったことはないんですよ。他人事のように自分を見ているからで、見られている自分はひょっとするとそう感じているのかも知れませんね」

「まるで、幽体離脱のようですね」

 とあゆみがいうと、

「何とも怖い発想ですね」

 とえりなは笑みを浮かべた。

 だが、えりなもそのたとえを聞いて、

――何ともユニークな発想だ――

 と感じた。

 ユニークというのは、面白いという意にではなく、

――唯一の、単一の――

 という意味のユニークであった。

 確かに幽体離脱という発想は面白い。ただ、他人事のように感じているえりなの発想とは相容れるものではないように思えた。

「心理学というものを勉強してみたくなりましたね」

 というあゆみの言葉を聞いて、

――私は、心理学を勉強したからこういう性格になったわけではないと思っていたけど、彼女と話をしていると、こういう性格だから、心理学を専攻しようと思ったのかも知れない――

 と、いまさらながら思い知らされた気がした。

 あゆみと話をしていると、この間見た夢を思い出した。普段からあまり人と話をすることのないえりなは、自分でも珍しく、夢の中では饒舌だった。

 しかし、それは夢から覚めて感じたことで、夢の中では饒舌な自分を当たり前のことのように思っていた。普段から人の輪の中にいて、中心ではないが、暗黙の了解のように、えりなの立ち位置は真ん中に近いところにあったという意識である。

 えりなは電車に乗っていた。

 その電車は、満員ではなかったが、座席をゆったりと使って座っている人が多いので、自分が入ると、誰かを押しのける形になるので、それが鬱陶しかった。普段から立ちくらみを起こすことが多かったので、なるべくなら席に座ることにしていたえりなにとって、その時は、少し覚悟を要する気がした。

 実際に窓際に立って、車窓から流れる風景を見ていると、普段とは違った光景が見えてきたことに気付いた。

「あれ?」

 えりなが住んでいるところは大学が密集しているほどの場所で、近くには高級住宅街などもあり、都会へのベッドタウンとして発展していた。決して田舎ではないと思っているし、田んぼなどが見えるような場所ではなかったはずだ。

 最初車窓を眺めていて、田んぼがあることを意識してはいたが、それが変だとは思っていなかった。急に我に返って、

――田んぼが見えるなんて――

 といまさらながらに感じた。

 えりなは、田んぼが見えたことよりも、自分が意識しながらも、それをおかしいと思わなかったことにビックリしていた。

――これって夢なのかしら?

 と、早々と夢であることに気が付いた。

 普段から、おかしなことが起こると、夢だと思うようにしている。そう思うと十中八九夢である。また、夢でなければおかしいと夢から覚めて思うのも当たり前のことで、ちょっとした普段と違うことであっても、

――これは夢なんだ――

 と思うようになっていた。

 田んぼが見えてからすぐ、電車は減速をはじめ、まもなく駅に到着した。

 その駅は、いつもと変わらず、都会の中にある駅で、さっきの田んぼの光景が何だったのかと思わせた。この駅では乗ってくる人はあまりおらず、降りる人の方が多かった。そのおかげで、座席はほとんど空いてきていて、えりなも席に座ることができた。

 えりなの正面に、一人の少年が据わっていた。彼は学生服を着ていたので、中学生か高校生だろう。成長期特有のニキビが顔には表れていて、えりなはなるべく彼の顔を見ないようにしようと意識していた。

 この意識が普段よりも強かったのか、それとも彼が聡いたちなのか、えりなの視線に気が付いたようだ。彼はえりなを見つめていて、ニッコリと笑った。

「こんにちは」

 と、言って、彼は顔に浮かんだニキビの印象とは裏腹に、あどけない表情を見せると、立ち上がって、えりなの隣に腰かけた。

「こんにちは」

 普段のえりななら、完全に無視を決め込んでいたに違いないが、その時のえりなは違っていた。

 彼に対する返事には、引きつった顔がついてきたはずなのに、彼は人懐っこそうな顔を変えることもなく、笑顔を振りまいている。

「えりなさんは、今おかえりですか?」

 と彼はふいにえりなの名前を呼んだ。

「えっ? どうして私の名前をご存じなんですか?」

 というと、

「えりなさんのことはこの世界の人は誰でも知っていますよ」

 と答えた。

――やはり夢なんだ――

 という意識がなければ、信じられないという思いが強く、戸惑ってしまっていたことだろう。

 しかし、最初から夢だという意識を持っていたことで、彼がいう

――この世界の人――

 という言葉の意味が分かる気がした。

 ここはえりなの夢の中だと考えれば、彼が発する言葉というのは、えりなが考えている言葉でしかないことは明白である。

「えりなさんは、田舎に憧れているんですか?」

 と、彼は言った。

 それは、自分がさっき、車窓から感じた田んぼの風景を言っているのだとすぐに分かった。

「田舎に憧れているというか、田んぼの風景は時々想像することがあるんですよ。ただ、電車に乗っている時に感じたことはなかったんですけどね」

 というと、

「えりなさんは、最近電車の中に何か忘れ物をしたことがありませんでしたか?」

 と言われて、ハッとした。

 あれは、数日前のことだったが、いつものように席に座ってボーっと車掌からの風景を眺めていたが、自分の降りる駅になって、駅に電車が滑り込んでいるにもかかわらず、降りる駅だという意識が飛んでしまっていた。扉が開いてすぐ、

「あっ」

 と気が付いて、急いで扉に向かったのだが、その時、正面の席に座っていた人が、

「すみません、あの財布、あなたのではないですか?」

 と声を掛けてくれた。

 反射的に振り向くと、そこには見覚えのある財布が座席の上に落ちていて、思わずえりなはポケットを探ってみた。

――ない――

 そう思うと、目の前にある財布が自分のものであるということを理解した。

「ありがとうございます」

 と言って、財布を取り、すぐに電車を降りようとしたが、時すでに遅く、扉が閉じてしまった。

――ああ――

 と思ったが、財布がないよりも一駅乗り過ごすことくらいなんでもないことのように思った。

 ゆっくりと、気持ちを落ち着かせてきたが、そのうちに、苛立ちを覚える自分を感じた。

――財布さえ落とさなければ、自分がボーっとさえしていなければ、今頃電車から降りて、家路についていたはずなのに――

 と感じた。

 そう思うと、まわりの視線が急に憐れみを帯びているかのように感じられた。その思いはえりなにとって、耐えがたいものに感じられた。

――どうして私がこんな思いをしなければいけないんだ?

 考えてみれば、財布を落とした自分が悪いはずなのに、何をこんなに苛立っているのか、自分でも分からない。

 しかも、自分が悪いことなので、怒りがあっても、それをぶつけるところなどあるはずもないことを分かっているはずなのに、怒りのやり場に困っている自分に苛立ちを覚えているようだ。

 そんな時のえりなは、精神状態が空回りしている。その時に感じたのは、先日ペットショップで見た。小屋の中を永遠に走っているハツカネズミの姿だった。

――私はあのハツカネズミなんだわ――

 堂々巡りを繰り返し、いつ果てるとも知れないマラソンを続けているような気分だった。倒れても倒れても走り続けないと、後ろに迫っている奈落の底に叩き落とされるという感覚なのだ。

 えりなはそれを、

――怖い夢――

 として認識している。

 幽霊が出てきたりするような、ハッキリと恐怖を感じるものではないが、漠然とした恐怖が襲ってくる。それが今の意識の中でイメージするのが、ペットショップで見た、永遠に走り続けるハツカネズミだったのだ。

「えりなさん、その時、自分が財布を落としたことを、本当は自覚していたんじゃないですか?」

 何をいうかと思えば、想像もしていなかったことが彼の口から洩れてきた。

 それと同時に、

――この子、あどけない表情をしているけど、相手の考えていることをすべて看過しているようで怖いわ――

 と感じた。

「そんなに怖がらなくてもいいですよ。ただ、僕はえりなさんが考えていることも分かっているし、意識していないつもりでも、意識していることが分かっているだけですからね」

 と言われて、またビックリした。

「それだけ分かっていれば、私よりも分かっているということじゃないですか。こんなに怖いことってあるのかしら?」

 と、えりなは彼に挑発的な言葉を使ったが、それは空元気にも似たもので、子供が暗い夜道を歩いていて、恐怖から、大声で叫んでいるような感覚に似ていた。

 それは、何かあった時にまわりから助けてもらいたいという思いよりも、自分の存在がこの場所にあるのだということを、他の人にも知ってもらいたいという気持ちの表れではないだろうか。

「えりなさん、そんなに怖がらなくてもいいですよ。あなたが思っているように、ここはあなたの夢の世界です。ただ、これは私の世界でもあるんですよ。えりなさんは、そのことを理解できていると思っていますが、ただ、それを認めたくないと思っているだけなんですね」

 と彼は言った。

 心理学を専攻しているえりなにとって、非科学的なことでも、少しは理解できるつもりでいたが、逆に人の心理というのも、一種の科学だと思っている。そう思うと、

――科学というのがすべて理屈で証明できるはずだという考え方自体が、科学に対しての冒涜ではないか――

 と考えられるのではないかと感じていた。

 そのうえで、

――科学には、使ってはいけないものもある。それが人間の心理を利用するものではないだろうか――

 というものだった。

 えりなは、心理学の立場から、この発想は認めていた。ここでいう、

――使ってはいけない科学――

 それこそ、心理学ではないかと思っている。

――使う――

 という言葉は、

――利用する――

 という言葉に置き換えられるのではないだろうか。

 利用したり、利用されたりするというのは、俗世間ではこれほど人間臭いことはないと思われがちだが、科学を利用し、科学から切っても切り離せない生活をしている人間に、いまさら利用したり利用されたりすることに対して、あれこれいうのは筋違いというものである。

「えりなさんは、普段は自分がいつも他人事として世の中を見ているとお考えですよね?」

 と言われて、

「ええ、そうです。でも、それが何か?」

「えりなさんは、この間財布を落とされた時、財布があったことを素直に喜んでいましたけど、その後はどうでしたか?」

 と言われて、固まってしまった。

――やっぱりあの時、私は財布があった喜びよりも、そのあと、電車から降りれなかったことを後悔していた。それは仕方のないことで、自分が悪いことだけに、余計に苛立ちをどこにぶつけていいのか分からないという思いから、内に籠ってしまったような気がする――

 と考えていた。

 それを彼に看過されたということは、夢の中だと考えれば、自分の中でしこりのようなものが残っていたということになる。

 彼は続けた。

「えりなさんは、別にそれでいいんですよ。自分の苛立ちをどこにぶつけていいのか困っていたわけでしょう? ただ、それを自分でちゃんと意識せずに忘れてしまうと、将来また同じようなことが起こると、今度は自分で抑えておくことができなくなると思うんです。つまり、一度抑えてしまうと、もう一度同じことが起これば、抑えが利かなくなるんじゃないかってですね」

「それって、免疫ができるから、緩んでくるという発想とは逆じゃないんですか?」

「いえいえ、免疫ではなく、自分を抑えるということに抱いた疑念が大きくなってくるということです。心理学を専攻しているえりなさんなら、分かるんじゃないかって僕は思っていますよ」

「どういうことかしら?」

「あなたは、過去に何かのトラウマがあって、目の前の誰かと争奪のような関係になった時、普通の人なら、相手に気を遣って譲るのが大人の行動だって思うんでしょうけど、あなたの場合は、そのために後悔することを望んでいないように思うんです」

 一番看過されたくない部分を彼は抉ってきた。

「人の一番触れられたくない部分に、土足で上がり込むような発言はいかがなものかと思うのですが?」

 怒りを堪えて、何とか言葉を選びながら話をしたつもりだったが、

「その口調自体が、あなたの性格を表しているんですよ。でも、それはあなたがその性格を悪いと思っているから、人に看過されたことを土足で踏みにじられたと思うんでしょうね。そもそも、そこからが違っているんですよ」

「じゃあ、あなたは私のような性格の人を好きになれますか?」

 と聞くと、

「それも違っている。私はそんな性格の人が好きなんです」

「どうして、そう言い切れるんですか?」

「だって、僕が一番あなたのことを理解できる人間ではないかと思うからです。そして、自分に近い人間だと思いますしね。要するに、私もあなたと同じ穴のムジナなんですよね」

 と言われた。

 そう言われて、どこか安心している自分がいたが、それよりも、彼に対して、

――この人は何者なの?

 という思いであった。

 ここまでくれば、見ているのが夢であるという認識は強かったが、もうそんなことはどうでもよかった。

――夢なんだから、自分にもっと都合よく見れていいんじゃない?

 と言い聞かせるが、夢を見ている自分は夢の中の主人公であり、実際の自分ではない。

 もっとも、今まで見た夢で、自分に都合のいい夢など見ることができたというのだろうか? 夢というのは確かに潜在意識が見せるものなのだろうが、そのことを意識していればいるほど、意識とは裏腹な夢を見てしまう。

――元々、ノンフィクションよりもフィクションの方が先だって思っていたじゃないの――

 それは本や映画の話であって、実際に見る夢とは違う。だが、夢というのは、そのほとんどを覚えていないという感覚を考えれば、覚えている夢がフィクションばかりだと思うのもあながち間違いではない。

 そう思うと、自分の考えから逸脱した夢であるのが必然であり、当然、思い通りにいかない夢がほとんどだと理解もできる。

 だが、それは自分にとって不本意なものであり、本質的な考え方から離れているように思えた。夢に出てきた彼も、完全に自分の創造であり、普段の生活では絶対に出会えない人だと思うと、却ってあきらめがつくというものだ。

 こんなおかしな考え方を持っているえりなは、彼の言葉の一言一言が、目が覚めても忘れることがないだろうと思っていた。

――もし、忘れていたとしても、必ず何かの拍子に思い出すことであって、その拍子は必ず訪れるものに違いない――

 と勝手に思い込んでいた。

 それに、一度見た夢の続きを見ることなどありえないと思っているので、この男が夢に出てくることもないだろう。もし夢に出てきたとしても、その夢はきっと記憶の奥に封印され、二度と表に出ることはないと思うのだった。

「えりなさんが触れられたくないことだって言っているけど、実際には誰かに自分を分かってほしいと思っているはずですよ。実際の友達や、自分と利害関係のある人からこんなことを言われると困惑し、憤慨するかも知れないけど、私のような、夢の中に出てきた人から言われただけなら、現実に戻るとすぐに忘れられると感じていると思いますよ」

 と彼は言った。

 まさにその通りなので、本当であれば、言い返しなどできないはずなのだが、彼の言葉の中に、

――夢――

 という言葉が含まれていたことで、えりなは、自分が彼に対して優越な立場にいるのではないかと感じた。

「ええ、あなたは、やはり私の夢の中に出てきただけの人だったんですね。ということは私が持っている潜在意識の中でしかいられない人なんですよね。つまりは、私にはあなたに対しての絶対的な優越が存在していて、私が思えば、あなたは存在することができなくなるはずなんですよね」

 というと、

「確かにそうですね。でも、あなたにはそんなことはできない。できるはずはないんですよ。もっというと、あなたが私に対して優越感を持っている時点で、あなたは私から逃れることはできない。いいですか、ここは夢の中の世界なんですよ。現実の世界の考え方なんて通用しないんです。それを捨てることができない限り、あなたは私に対して優越を持つことなんかできるはずはないんです」

 彼の言う通りだと思った。

――そうか、ここは夢の世界なんだ。私は現実の世界の人間で、夢を見ているだけ、実際に夢の世界の人間に適うわけはないわ――

 と感じた。

「どうやら、あなたにも分かったようですね。でも、私もあなたのいる現実世界では、どんなに頑張っても、あなたに適うわけはない。だから、あなたの前には絶対に姿を現さないんですよ」

「それは、あなただけのことなの? 今の話を聞いていると、夢の世界に出てきた人は、現実世界でも存在しているように聞こえるんですが」

「ええ、存在していますよ。でも、今言ったように、夢の世界の人間は、現実世界のあなたたちよりも、少し自分の立場を分かっていて、そのために、優越が絶対的に不利になると思われる現実世界で、夢の世界で出会った人と出会うことはないんです」

「でも、中には出会うこともある人っているんじゃないですか?」

「ええ、間違って出会ってしまう人も確かにいます。でも、その人は夢の世界と現実世界を混同してしまって、自分から抜けられなくなるんです」

「どうなってしまうんですか?」

「二人は、それぞれ入れ替わります。でも、入れ替わったという意識はないんですよ。今まで現実だと思っていた世界が夢になり、夢だと思っていた世界が現実になる。しかも、それはお互いに意識せずにですね。あなたもそうかも知れませんがあなたのそばにもいるでしょう。以前にどこかで見たことがあるような景色を見たり、人を見たという現象にぶつかることが」

「ええ、いわゆるデジャブ現象ですね」

「はい、心理学や科学を専攻している人は、そのメカニズムを研究し続けているんでしょうが、きっと誰にも分からないと思いますよ、人間にはしょせん、夢の世界と現実世界の両方を理解することができる人なんかいないんですからね」

「じゃあ、私とあなたが、今こうやってお話をしているというのはどういうことなんですか?」

「このお話は、あなたがある程度するとすぐに忘れてしまうと思います。ただ、覚えていたとしてもあなたにはどうすることもできない。人に話しても、あまりにも奇抜な発想すぎて、誰も信じてくれないでしょうね。特に心理学者や科学者というのは、自分の考えと少しでも違う人の意見をなかなか取り入れようとはしない。下手なプライドがあるからなんでしょうが、それはそれで仕方のないことなんですよ」

「あなたは、いったい何が言いたいのかしら?」

「私はあなたに対して、あなたの本当の性格を言いたいと思って出てきました」

「本当の性格?」

「ええ、ひょっとするとあなたにはもうある程度予想がついていることなのかも知れないんですが、そのことをお知らせしたいと思ってですね」

「あなたは。私のことをよく分かっているようだけど、私が何を考えているかということは分からないんですね」

「ええ、それはもちろんです。あなただって、私が分かっているとは本当は思っていないでしょう? こうやって指摘しているのだって、本当は信じたくないと思う自分がいるのも事実で、そのことを早く自分で理解したいと思っているはずです」

 ここまでよく分かっているくせに、それでも人の心や何を考えているかということが分からないということは、ある意味ホットした気分になった。万能の神が存在しているのであれば、もし、その神が暴走を始めれば誰が制御するのかと考えると、考えるだけで恐ろしくなる。

「ねえ、私の本当の性格って何なの?」

「それは、あなたがいたちごっこを繰り返す性格だということです。あなたはこの間、ペットショップに立ち寄ってハツカネズミを見ていたでしょう? あの時、あなたはひょっとすると自分とハツカネズミを重ねて見ていたんじゃないですか? 私もあの時、陰から見ていたんですよ。実際には、私はこの世界にはほとんど存在することはできないんですが、あなたが自分の本質に気付きそうな時だけ、現実世界に現れるんです」

「なるほど、だからあなたには私の本質を分かるというわけですね。でも、私とあなたの関係というのはどういう関係なんですか?」

「夢の世界と現実世界というのは、表裏一体の世界なんですよ。どちらかが表にある時は、どちらかが裏になる。しかもそれは個人個人で別々の世界があるということです」

「ということは、夢の世界には対になる人が必ずいるということですか? じゃあ、人口も同じと考えていいんでしょうか?」

「そうですね。鏡に映る世界と似ていると言ってもいいでしょうね。でも、鏡の奥に世界が存在しているわけでないんです。あくまでも鏡の世界は、現実世界の裏を示しているだけで、夢の世界とはまったく関係がありません」

「そうなんですね。それにしても、ためになるというべきなのか、話を聞いているとあなたに引き込まれてしまうようですよ」

「そうでしょう。あなたはさっきの私の話を覚えていませんか? 私があなたの前に現れたということは、あなたと入れ課wる可能性があるということになるんですよ。しかもあなたは私に対して絶対的な優劣を抱いているでしょう?」

――ああ、そうだった――

 えりなは、こんな話は信じられないと思いながらも、彼の話を聞いていて、いつの間にか信じてしまっている自分にビックリしていた。

 しかも、信じながらも、自分に不利になるような話は聞き流そうという意識を無意識に持っていたようだ。だから、彼がいうさっきの話というのを忘れてしまって話を聞いていたようだ。

「私って、今都合の悪いことを忘れようとしているのかしら?」

「そうじゃない。私の話に共感しながら、少しでも粗を探しているという感じだって私は思っています。でも、実際に私が話している話だてt、本当にすべてが本当のことではないんですよ」

「どういうことですか?」

「さっきも言ったように、現実世界と夢の世界というのは、個人差があるんですよ。だから教科書のように、すべてに当て嵌めて書かれているわけではないということですね」

「じゃあ、この会話や、出来事の一つ一つは何かに記載されているということですか?」

「ええ、現実世界のことも、夢の中でのことも、すべては過去に予言されていて、書物に記載されているんです」

「どうしてあなたはそのことを知っているんですか?」

「知っているのは私だけではありません。夢の中の人間は皆知っています。現実世界の人間だけが、その存在を知らずに生きているんです」

「どうしてですか?」

「差別化なんじゃないですか? 私も詳しいことは知りません」

「それって不公平じゃないんですか?」

「そんなことはありません。夢の世界と現実世界を比べると、絶対的に現実世界の方が強いんです、だから、それを補うために、夢の世界の人間にはいろいろな情報が与えられています。この予言もその一つなんですよ」

「なるほど、だから夢の世界の人は現実世界の人とのかかわりを嫌うんですね。夢から覚めるにしたがって夢の内容を忘れていくというのは、そうやって考えると理屈に合っているような気がしますね」

「ええ、きっとあなたになら分かる気がしました。私があなたとこれから入れ替わるためには、今のあなたに少し私のことを意識したまま夢から覚めてほしいと思っていたんですよ」

「どうしてなんですか? 私とあなたが入れ替わるって、それはどの段階からのことなんですか?」

「それも個人差があるので何とも言えません。実際に入れ替わった人というのもごく少数で、同じ時代であれば、ほとんどいないかも知れませんが、過去にさかのぼれば、そんな人たちはもっとたくさんになるでしょう? 特に過去の世界というのは、人間が殺しあう世界が長く続いたので、それだけでもm入れ替わりが激しかったんじゃないかって私は思っています」

「どれくらいの人がいて、その人の情報ってあるんですか?」

「いいえ、ありません。その情報は未来に残さないようになっているんです。これは現実世界と夢の世界の間での暗黙の了解であり、本当は許されることではないと聞いたことがありました」

「何か怖いわ」

「でも、こうなってしまった以上、入れ替わらないと何が起こるのか、私にも想像がつきません。私もあなたと入れ替わることを決意するまでには時間がかかりましたからね」

 と、彼は答えた。

 えりなは、本当に、

「キツネにつままれた」

 という表現がぴったりに思えるほど、話を聞いていて、何とか他人事のように考えようと思っていた。

 しかし、皮肉なことに、こんな時に限って他人事のようになりきれない自分がいる。それを感じると、皮肉なことが忌々しく感じられ、彼の話していたことが、ただの夢であってほしいと思うのだが、その思いは虚しく頭の中に響くだけだった。

 彼がいう、

――いたちごっこ――

 とはいったいどういうことなのだろう?

 そしてその言葉が枕詞のようになったかのように思い出すのはペットショップで見たハツカネズミだった。

 えりなは、本当に夢から覚めることができるのか? そんなことを夢の中で考えていたのだった……。

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