いたちごっこ

森本 晃次

第1話 大学駅前通り

この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


 大学三年生の春、久しぶりに大学からの下校時間が一人になった。普段から友達と一緒に大学を出ることが多かったので、一人で歩くのは寂しくはあったが、新鮮な気もした。大学から駅までは歩いて十分ほど、途中に信号もほとんどないので、時間よりも結構遠く感じる。それでも人と一緒に歩いていると、そんな時間も距離も感じることはない。一人で歩くのは新鮮ではあるが、距離と時間をいつもより感じさせるものとなった。

 三軒に一軒は喫茶店が並んでいるような完全な大学を中心とした街、カレッジシティとでもいうべきか、梅田えりなが通う四年制大学の他にこの駅を基点としている大学は三つもあり、さすがにカレッジシティとしては、十分であった。

 その日はいつも友達と立ち寄る喫茶店を通り過ぎ、目的地は駅以外の何物でもないことを意識しながら歩いていた。時間的には午後四時半を回っていた。そろそろ西日がマンションの谷間に隠れてもいい頃だった。

 この辺りは大学生アパートはもちろんのこと、大都市まで電車で二十分と、完全な通勤エリアで、ベッドタウンとしても有名なところであった。マンションが多いのもそのせいで、駅近くにはたくさんのマンションが乱立しているが、そのほとんどは分譲マンションで、

――一般ピープルには縁のないところだわ――

 と、自分が就職しても、誰かの玉の輿にでも乗らなければ住むことのできないものだと考えていた。

 その日は歩いていると、西日がいつになく身体を刺すような感覚に襲われた。

――痛い――

 と思うほどの痛みだったが、嫌な感じではない。

 ただ、なんとなく感じさせる気だるさは、以前に感じたことがあるような気がしていたが、それがいつのことだったのか、よく覚えていない。

――高校時代だったか、中学時代だったか――

 正直意識の外だった。

 だが、この気だるさは空腹感を誘うものであり、

「グ~」

 とお腹が鳴ったようで、まわりの誰かに気付かれていないか急に恥ずかしくなり、きょろきょろとまわりを眺めていた。

 気だるさを感じると、足が重たくなってきた。この感覚は想像していたことなので、それほど違和感がなかったが、足の裏が痺れてくるように感じたのは、計算外だった。歩いていて、

――どこかに座りたい――

 と感じるほどになっていた。

 たった十分ほどの距離で、最初は何ともなかったのに、いったいどうしたことなのだろう?

 えりなは気が遠くなりそうになるところまで感じていた。

 しかし、それがちょうどピークだったようで、歩いていると少し回復してきた。

――こんなに立ち直りが早いなんて――

 と思いながら、まるでこの瞬間だけ夢ではないかと思えてくるほどだった。

 少し回復してから目の前を見ながらまた歩き始めると、

――おや?

 さっきまで見ていた光景と明らかに何かが違っているのを感じた。

 どこがどのように違うのか分からない。感覚的に違っているとしか説明がつかなかったが、一つ分かっているのは、

――夕焼けのように、目の前の光景がすべて紅色に照らされているように感じる――

 ということだった。

 えりなは再度歩き始めたが、目の前で光っているものが自分の目を捉えて離さないという感覚に襲われた。

――何なのかしら? この感覚――

 歩いていると、いつもの道が次第に狭くなってくるのを感じた。

 すると目の前に見えてきた店が気になった。

――こんなところにこんなお店、あったかしら?

 そこはペットショップだった。

 今まで毎日のように駅と大学を往復していて熟知しているはずのこの道で、ペットショップがあることに初めて気付いた。

――どうして気付かなかったのかしら?

 目を刺すような光は一瞬にしてなくなり、今度は目の前に広がったペットショップの光景が目の前のキャンバスをいっぱいにしていた。

 中から、犬の声や鳥の声が聞こえる。紛れもなくペットショップであり、えりなは店前でそのまま立ちすくんでしまった。

 そのペットショップは、古臭い雰囲気の店で、こんな垢抜けした大学通りにはふさわしくない。それだけに今までこの違和感に気付かなかったことが不思議で仕方がなかった。

 だが、今目の前にあるペットショップに対して、なぜか違和感を感じない。

「昔からそこにあったじゃないか」

 と、誰かに言われたとしても、

「そうだったかしら?」

 と口では言うかも知れないが、あっさりと認めてしまう自分がそこにはいたのだ。

――ペットショップが私を呼んでいる――

 別に犬を飼いたいとか、ネコを飼いたいとかという思いがあるわけではない。

 えりなは高校を卒業してからひとり暮らしをしている。田舎からでは絶対に通学できないところだからだ。

 彼女の親は、本心では寂しいのだろう。反対なのだと思うのだが、えりながひとり暮らしをしたいと言い出すと、思ったよりもあっさりと認めてくれた。あまりにもあっさりすぎて拍子抜けしてしまったくらいだった。

 ひとり暮らしは、女子大生に人気があると言って不動産屋から紹介されたコーポだった。買い物するにも近く、まわりに夜道の暗いところはなかった。大通りさえ通っていれば、安全だというのも大家さんの話で、えりなも他に比べれば格段に治安面では安心できると思い、このコーポに決めたのだ。

 しかし、というか当然に、共同住宅ということで、ペット禁止であった。騒音にはことさら厳しい管理人さんは、部屋の住人には、

「騒音は絶対にいけません」

 と念を押していた。

 えりなも友達を連れてくるというつもりもなかったので、二つ返事で、

「はい」

 と答えた。

 そんなところに住んでいることもあって、ペットを飼いたいという思いはなかった。

――いや、本当にそうだろうか?

 えりなは、大学二年生の時に付き合っていた男性を思い出した。

 彼はえりなが初めて声を掛けた男性で、いわゆる

「逆ナン」

 だったのだ。

 どうして声を掛けたのか、その時の心境をあらためて思い出そうとすると思い出すことはできないが、急に思い出すことがあり、

――こんな感覚だったんだ――

 と、それがまるで昨日のことのように感じられるから不思議だった。

 彼は、えりなに従順だった。

――まるでネコのようだわ――

 と感じたが、えりなは不思議な気がした。

 なぜならえりなは、ネコが嫌いだったからである。

 子供の頃の友達にネコアレルギーの友達がいて、えりなが、ノラ猫と見つけては、

「可愛い」

 と言って、頭を撫でた時、彼女は露骨に嫌な顔をして、

「嫌っ」

 と言ってその場を立ち去った。

 ネコアレルギーなど知らなかった頃だったので、何が起こったのか分からなかったが、次の日に謝っても彼女は許してくれなかった。

 今から思えば当然である。

 もし自分がネコアレルギーで、友達に他意はないとはいえ、目の前で露骨にネコを可愛がられては、もうその子は友達ではないと思うに違いない。そんなことを知らないえりなは、子供心に傷ついた。それから少しして、他の友達から事情を聞かされて納得したのだが、それは完全に後の祭りだった。

――後の祭りになるくらいなら、何も知らない方がよかった――

 と思ったが、いったん狂ってしまった歯車は、狂いっぱなしになってしまうという仕方のない宿命を、その時のえりなは味わったのだ。

 そんなことがあって、えりなもネコは好きになれなかった。犬は好きだった。実家でも犬を飼っている。中型犬の柴犬である。

「犬は人について、ネコは家につくっていうからね」

 と、母親が言っていたが、まさにその通りだと思った。

 犬の従順さは実に自分に合っている気がしたが、ネコだけは見ていても可愛いとは思えない。犬の目にはまなざしを感じるが、ネコにはまったく感じない。夜でも見えるネコ目は、気持ち悪さしか感じさせず、ネコを従順だと比喩する人の気が知れないと思うようになっていた。

 えりなも大学に入ると、少しは色艶な話をすることもあった。友達に下ネタが好きな人もいて、そんな人を相手にカマトトぶっていても、仕方がないと思った。

 えりなは、その時レズビアンという言葉を初めて聞いた。それはえりなが今まで下ネタを得意としない友達が多かったわけではなく、友達自体が少なかったからだ。高校時代などは受験に明け暮れていて、まわりを皆ライバル視していたため、自分から心を閉ざしていたのだろう。

――大学に入るためには、何かを犠牲にしなければ――

 という思いが強かったが、友達を作らないことが犠牲だとは思わなかった。

 むしろ、ライバル視することで自分のやる気を起こさせるということで、仮想敵国の意味合いを持つことで、自分を正当化しようとしていた。

 めでたく大学に入学できたが、

――私は何を犠牲にしたんだろう?

 とえりなが考えるほど、自分が何かを犠牲にしたという意識はなかった。

 それは自分が気付いていないだけで何かを犠牲にしたのかも知れないが、その思いを誰が分かるというのか、答えが出ないまま、大学生活に突入した。

 その思いが、えりなにあり、自分から友達を作ることはなかったが、大学というところは自分から動かなくても相手の方から友達になってくれるもので、そういう意味ではえりなのような存在は、友達の間で珍しいという意味も込めて、重宝されていたようだ。

 えりなにとって大学二年生までは、友達から言われるままという生活が続いた。

 しかし、それは表向きのことで、実際には彼女には一人の恋人がいた。それは男性ではなく女性だという衝撃を知っている人が本当にいたのだろうか?

 しかも、えりなは同時期に他の男性とも付き合っていた。

 彼には従順な姿を見せていたが、本当に好きだったわけではなかった。

 えりなと付き合っていた女性が、

「えりなさんは、男性ともお付き合いしておくべきだわ」

 と進言した。

 彼女はベッドの中ではえりなに従順だが、自分の意見はハッキリとえりなにぶつけていた。えりなも彼女の意見を真摯に受け止め、その考えを分かっているつもりでいる。

「ええ、分かったわ」

 ただ、なぜ男性と付き合わなければならないのか分からなかったが、彼女にしてみれば、えりなが男性から受ける愛撫を身体が覚えていて、それを自分にしてくれるのを望んでいたというのが本当の理由だろう。

 彼女はえりなに隠しておきたい気持ちは口に出すことは決してしない。えりなも彼女によこしまな気持ちがあったとしても、それを決して疑ったりしない。そんな関係だったのだ。

――本当に愛しているんだろうか?

 と、自らを否定してみたが、否定するだけの根拠もなければ、肯定する根拠もない。

 だから、

――身体だけの関係だとしても、それはそれでいいんだ――

 と思っていた。

 快楽の中から生まれるものが何かあると思っていたからだが、一年ほど付き合ってみて、快楽から生まれるものが何もないことに気付くと、急にこの関係を冷めた目で見ている自分がいることに気付いた。

 しかし、だからと言ってすぐに別れを決断したわけではない。客観的に見ている自分を感じることで、その状況を楽しんでいる自分を感じたのだ。それは自虐ではなく、客観的に自分を見るという普段なら味わうことのできないアブノーマルともいえる感覚に快感を感じていたのだ。

――私って変態なのかしら?

 レズにアンの関係にありながら、いまさら何を言っているという感じなのだろうが、その時のえりなは、変態であるということに悪い気はしなかった。それこそ変態と言えるのだろうが、別れは自分からだけではなく相手からも宣告されるものであり、気が付けば彼女の方から別れを宣告するに至っていた。

――まあいいわ――

 その時に彼女がネコであったことに気付いた。

―ーなるほど、ネコは人につくのではなく、家につくって言っていたのを思い出したわ――

 と感じた。

 えりなは、そんな彼女を好きになった。そして、自分が一時期に複数の人と付き合えるほど器用ではないことにも気が付いた。その思いを彼にぶつけた。

「ごめんなさい。私、器用な女じゃないの」

 相手は、

「何を言っているんだ?」

 あまりにも唐突に言い出したので、相手はそれが別れ話だと思わなかった。

 えりなも、別れ話のはずだったのに、唐突に主語もなしにそんなことを言い出したのだから、本当に別れを望んでいたのか、分かったものではなかった。

 だが、相手はそのことを理解したようだ。

「そうか、別れたいんだな?」

 と相手から言われると、急に怯んでしまった自分を感じた。

「あ、いえ、そんなことは」

 と言って、それ以降の言葉を飲み込んでしまった。

 その瞬間に、相手にはえりなの気持ちが完全に分かってしまったようで、

「君に対しては、思ったことをそのまま言った方がよさそうだ」

「どういうことなの?」

「君は、僕の他に違う人とも付き合っていて、その人一本にしたいので、僕との別れを切り出した。でも、いざとなると、僕との別れに躊躇した。それは僕が可愛そうだからとか、未練があるからというわけではなく、もったいないという思いからなんだ。そこには男女関係としての気持ちがあるわけではなく、ここで別れてしまうと、あとで後悔しないかとか、損得勘定が頭をよぎった。そんな君に対して、僕は卑怯だという意識しか持っていない」

 ズバリ指摘されたと思った。

「じゃあ、どうすればいいの?」

「そんなことは僕には分からない。でも、君は自分の気持ちを隠すことのできない人だから、相手を平気で傷つけてしまう。しかも、人を傷つけたという意識がないから、厄介なのさ。僕にはそんな君とこれ以上付き合っていく気もないけどね」

 と、相手から逆に最後通牒を突き付けられた。

 えりなにとって何がショックだったのかというと、彼の口から、損得勘定という言葉が聞かれたことだった。損得勘定などという言葉は、自分には関係のない、他の人に当てはまることだと思っていただけに、ショックだったのだ。

 そして、えりなはそこまで言われて言い訳をいうこともできない。あまりにも的を得た言葉だったので、反論しようがなかったのだ。

「ごめんなさい」

 としか言えなかった。

 すると彼は、

「もういいよ。早く分かって僕もよかったと思っている。ただ、君が本当にそんな人間ではないとずっと思ってきたんだけどね。正直にいうと、今もその思いは変わっていない。ひょっとすると心変わりするかも知れないってね。でも、ここで復縁しても、また同じことを繰り返すだけだって思ったんだ。それは、君があまりにも自分のことを知らないからね。それは、自分を他人事のように感じているからだというのとは少し違うんだ。自分を他人事のように思える人は却って、自分のことをよく分かっていたりするものだよ。ゆっくり考えてみればいい」

 と言って、彼は去って行った。

「さようなら」

 と、心の中で呟くと、急に寂しさがこみ上げてきて、えりなは、その場で崩れ落ちるようにして泣き崩れた。まわりの人はビックリしていたようだが、こんな気持ちの時にまわりを意識などしていられない。

 えりなは少しして気持ちを取り戻すと、スックと立ち上がり、その場を去って行った。そこには、普段と変わらぬ空気が戻ってきたようだった。

「ごめん、来ちゃった」

 と、彼女の部屋に上がり込んだ。

「どうしたの? 洗いざらしのネコのようになってるわよ」

 と彼女は言った。

「ごめんね。彼と別れちゃった」

 というと、彼女は少し黙り込んでしまい、何も言ってくれなかった。

 えりなは急に不安になった。

「大丈夫。私がついているから、あなたは何も心配しなくてもいいの」

 と言って、慰めてくれるものだと思っていたが、彼女は何も言わない。

「これで、私はあなただけ。二人でこれからも愛し合っていきましょう」

 とえりながいうと、

「そうね」

 と、曖昧な返事しかしない彼女の顔には、明らかに影が浮かんでいた。

 無言のまま、二人は裸になり、いつもの「儀式」が始まった。

 えりなは、いつものように主導権を握って、されるがままになっている彼女を愛でていた。

 えりなの指が彼女の敏感な部分を刺激すると、

「あっ」

 という声が彼女から漏れる。

――何も変わっていないんだわ――

 とえりなは感じたが、それは、えりなが自分に言い聞かせているだけに過ぎなかった。

 すると、今までにない行動に彼女は出てきた。攻撃しているえりなに対し、今まではただ黙ってしたがっていただけだが、今日は自分からも攻撃を仕掛けてきた。

「ああっ」

 えりなは、思わず声を上げた。

 それが歓喜の声であることを分かっていない。その声は唐突な相手からの攻撃に、ただ反射的に反応しただけだと思ったのだ。

「ほら、あなたは、本当は敏感なのよ。相手を責めることに悦びを感じるだけではなく、本当は、相手からも責められたいという気持ちを持っているの。自分では分からないでしょう?」

「え、ええ」

 ビックリした。彼女がそんなことを口にするなど、普段であればありえることだったが、ベッドの中では考えられないことだった。

「あなたは、やっと自分というものに気付いたのよ。本当は最初から気付いているんじゃないかって私は思っていたんだけど、途中から、あなたが何も分かっていないことに気付いた。だから、あなたを少し好きなようにさせようと思ったの。だから男性と付き合ってもいいって言ったのは、男性と付き合うことであなたが、本当の自分に気付くんじゃないかって思ったからなの」

「言っている意味がよく分からないわ」

 快感の余韻に浸りながら我に返った二人だったが、果てることのなかった思いを悔やむことはなく、えりなは彼女の言葉の中から言いたいことを探った。

 しかし、彼女が何を言いたいのかえりなには分からない。自分の気持ちをどう表現していいのか分からないというよりも、自分の気持ちの実態すらつかめていないのだ。

「えりなという女性は、私から見ると、いつも自分を他人事のように見ていると感じていたの。でもそれはむしろ悪いことではないと思っていたのよね。あなたは自分のことを分かっていないと気付いていたので。他人事のように見ているうちに、自分の本当の姿に気付くんじゃないかって。でも、そんなことはなかった。あなたは私とは反対で、私は普段はあなたに対して従であり、ベッドの中では服なのよ。でもあなたは逆、私に対しては従であり、ベッドの中では服なのよ、お互いに二重人格なところがあり、それがうまく交差することでお互いに相手を求め合う。私はその意識があったけど、あなたにはない。それはきっとあなたが自分を他人事のように見る癖を持っているからなのかも知れないわ」

「結局どういうことなの?」

「私は、あなたと違って、服と従の関係を自由に操作することができる。自分のことを分かっているからね。でもあなたは分かっていないので、それができない。でも、これは私にとってあなたとの関係の上で、私が主導権を握れるということなの。でも、そんな関係というのは、あっという間に飽きが来る。私はあなたと今のままでしばらくはいいと思っていたけど、しかるべき時期になると、あなたに気付いてもらって、同等の関係を持つことができないと、お互いに別れることになると思っていたの」

「私たちが別れる?」

「ええ、そして、その別れ方というのが最悪で、お互いにしこりを残す形になると私は思っているの。これは本当に最悪の場合なんだけど、でも私にはその確率は結構高いと思っているの。そういう意味で、あなたが男性と付き合っているのを冷静に見つめていたの」

「私は、今日、彼に引導を渡してきたわ」

 というと、

「そうね。そのようね。でもあなたは、それで満足した? その様子だと、相手に未練があるわけではないけど、相手から何かを言われたと思うんだけど、違うかしら?」

――鋭い――

 と感じた。

 まるで見ていたかのようにズバリと言われると、さすがのえりなも恐ろしくなった。

「ほら、あなたはすぐに顔に出る。私を今、怖いと思ったでしょう?」

 ますます怖くなってくる。きっと顔色も最悪だったに違いない。

「ええ、でも、どうしてそんなに私のことが分かるの?」

「それはね。あなたは自分の気持ちをすぐに表に出すタイプなのよ。だからちょっと付き合っただけでも、あなたの考えていることやあなたに起こったことを想像するのって、結構容易なことだと思うの。でも、あなたはそのことを自分で分かっていない。客観的に自分を他人事として見ることができれば、すぐに分かるのかも知れないんだけど、あなたの場合は自分を他人事のようには見ているんだけど、それが客観的ではないの。だから中途半端で、私が見ていても、あなたは自分を分かっているはずはないと思うの」

「そうなのね」

「あなたが、友達が少ないこともそこに影響しているのよ。あなたが自分を他人事だと思っている様子は、他の人が見てもすぐに分かる。でも、それが客観的ではないので、まわりの人から見ると、何を考えているのか分からないと思えてきて、仲良くなればなるほど、いざという時に、裏切られるんじゃないかって思うんじゃないかしら?」

 彼女の言葉はいちいちもっともに感じた。

 えりなは、人から言われれば、理解することができる。しかし、それも少しの間だけで、我に返ると、またすぐに分からなくなる。それが被害妄想から来ているものであることを彼女は分かっているようだが、さすがにそこまで言葉にはしなかった。

――もし、この言葉を口にする時は、k¥えりなと今後一切かかわらないと覚悟を決めた時だわ――

 と彼女は考えた。

 それでも、喉まで言葉が出かかったのは事実である。それだけ、彼女はその日、えりなを最初に見た時、

――私は、このままえりなと別れてしまうことになるかも知れないわ――

 と感じていた。

 しかも、その感情は結構高い確率であった。次第にその思いが萎んでいくのを感じてはいたが……。

 その時、彼女はえりなに対して、最後通牒のつもりで敢えて苦言を呈した。しかし、えりなにはその気持ちが通じなかったようだ。それからしばらくして二人は分かれることになったのだが、その理由は自然消滅だった。

 彼女の中で、一番考えにくい別れ方だったが、えりなの方は、自分が自然消滅を招いたにも関わらず、気持ちの中では青天の霹靂だった。

――どうしてなの?

 自分に、そう訊ねるが、答えが返ってくるはずmない。

「しょうがないわね」

 彼女は自分にそう言い聞かせたが、前に感じた時のように、

――えりなと、もう二度と関わることはない――

 というほどまでは感じていない。

 今は少し距離を置いているが、何かの機会で復縁することもあるかも知れない。彼女はそれでいいと思っていた。今まで自分の中で一番だったえりなという女性の位置が、少し下に下がっただけだと思えばいいだけだった。

 えりなの存在価値はどれほどのものだったのか分からないが、えりなの方は彼女と別れて何かが吹っ切れたような気がした。二年生になって男の人に声を掛け、逆ナンなどをしたのも、そのせいだったのではないか。

――私、こんなことができるようになったんだわ――

 それがいいことなのか悪いことなのか分からなかったが、えりなにとって初めて単独で付き合った男性。その時、えりなは自分がいつもの癖で他人事のように感じていることに気付いていなかったが、彼との関係はお互いに同等から始まった。そういう意味ではえりなにとってこの恋愛は、

――初めてのまともな恋愛なんだ――

 と感じたのだ。

 ただ、付き合っていくうちに、彼はえりなに従順になってきたが、それも、

――途中からなので、別におかしな関係というわけではない――

 と感じた。

 彼の気持ちはよくは分からなかったが、普通の恋愛ができたことが嬉しかった。だが、この恋愛も長続きすることはなかった……。

 彼が言うには、

「えりなと、まさかこんなに早く仲良くなれるとは思っていなかったんだ」

「私もよ。あなたと一緒にいると何だか、前から一緒だったような気がするくらいだわ」

 そんな会話が付き合い始めた時からされていた。

「僕、女性と付き合うのは初めてで、ずっと憧れていたんだけど、憧れだけでは分からないことっていっぱいあるんだね?」

 という彼のセリフにえりなは、

「それはそうよ。私だって最初に男の人と付き合った時、ドキドキしたものよ。それが憧れにはなかったもので、憧れというものが不変なものであるとするなら、ドキドキした気持ちというのは、その時々で違うもの。大きくもなれば、萎んでいく時もある。最初はよく分からない感覚だったわ」

「そうだよね。今の僕もそれを味わっていると思うんだ。えりなが僕の最初の女性で、本当に嬉しいよ」

 えりなは、その言葉を聞くと有頂天になっていた。

 その頃には自分がレズビアンであったこともすっかりと忘れてしまったかのように、彼一筋だった。

――私って、本当は純愛を求めていたのかも知れないわ――

 それを思うと、どうして最初にアブノーマルな世界に足を踏み入れてしまったのか分からない。それだけに、忘れてしまいたい過去でもあった。

 彼は本当に従順だった。

 えりなを呼ぶ時は呼び捨てで、他人が見ている時には、彼が主導権を握っているが、二人だけの時の主導権は明らかにえりなの方で、彼には自分が主導権を握りたいという気持ちもなく、えりなの方は、本当はどちらでもいいのだが、彼に主導権を握る意思がないのであれば、自分が握るしかないと思い、違和感なく主導権を握っていた。

 それも、女性を愛した経験があるから、違和感を感じないと思っていた。そういう意味では別れたとはいえ、彼女には感謝の気持ちしかなかった。

 従順な男性を見ていると、いつの間にか自分を他人事のように見ている自分に気付き、ハッとする。

――まただわ――

 自分を他人事のように見ることを嫌いではないえりなだったが、その時々で、

――余計なことに気付かなければよかった――

 と感じることがあった。

 そのことにハッとして気付くと、急に我に返ってしまって、思い出さなくてもいいことを思い出している自分に気付くのだった。

 思い出さなくてもいいことというのは、その時々で違っている。その時に、思い出す必要のないもの、思い出したくないもの、それぞれなのだが、えりなにとっての思い出さなくてもいいことは、その必要がないことを思い出す方が嫌だった。

 それは、余計なエネルギーを使うような気がしたからだ。

 思い出したく阿仁ことを思い出す方が余計なエネルギーを使うような気がするが、思い出したくないものほど、思い出してしまうと、すぐに忘れようと思うものだ。そう思うとそこから忘れてしまうことにはさほどの労力がいるものではない。それに比べて思い出す必要のないものを思い出した時というのは、忘れてしまいたいという気持ちが中途半端なのだ。

 中途半端な状態で忘れようとすると、そう簡単に忘れられるものではない。それでも強引に忘れようとするので、自分が感じているよりも、さらに余計な力がそこに掛かっているのだった。

 えりなは、そのことを意識している。

 どうして意識できるのかというと、やはり自分を他人事のように感じているからだ。そのことを意識できていないので、たまに感じる自分を他人事だと思うことを余計なことだと思うのだ。

 本当であれば、何とも皮肉なことである。堂々巡りを繰り返しているようで、その意識がないからなのか、

――私って、時々いたちごっこを繰り返しているような気がする――

 と思っていた。

 そのことをたまに感じていたことを、まさか他の人から指摘されるとは思ってもいなかった。

 しかも、それが当時付き合っていたその男性で、

――彼はいつまでも私に従順なんだ――

 と、半永久的な従者を得たかのような錯覚を覚えていた。

 しかし、そんなことなどありえるはずもない。

 奴隷であればそれもありえるのかも知れないが、絶えず自分が相手の主であるかのように思っていると、相手が少しでも疑問を抱けば、そこから気持ちのすれ違いを引き起こし、決して戻すことのできない亀裂を生じさせてしまうことは、他人事のように聞いた人であれば、容易に想像できたものなのかも知れない。

「俺とえりなって、いったいどんな関係なんだ?」

 付き合い始めてから、まだ数か月しか経っていない。

「えりなが僕の最初の女性で本当に嬉しいよ」

 と言っていた言葉が、まだ耳の奥に残っているほどの最近のことだったのだ。

 だが、それは二人の間で時間の流れの差が現れた証拠なのかも知れない。彼としては、そんな言葉を吐いたのは、かなり昔のことだったように感じていた。彼の方が先走った気持ちになっていて、その思いについていけなかったえりなは、まるでカルチャーショックを受けているようだった。

「結局、えりなはついてこれなかったんだよ」

 と彼はえりなに罵声を浴びせるわけではないが、それ以上の屈辱をえりなに味あわせたのだ。

 それは、彼の口調が完全に、

――上から目線――

 であり、それまで彼の主でもあるかのように思っていたえりなには、信じがたいものだった。

「ついてこれないって?」

 とえりなが反復すると、

「そう、そういうところなんだ。えりなは、俺の主であるかのように言っているけど、結局主であるための大切な何かが欠けているんだと思う。最初は何かが欠けているということさえ分かっていなかった俺は、えりなの従者となっていたけど、俺は奴隷じゃないんだ。主従関係にあったとしても、そこにはケースバイケースで、ギブアンドテイクが備わっていなければいけないと思うんだ。そのことをえりなは分かっていない。あくまでも、君は自分が主として俺に接することだけが、僕に与えるものだとしか思っていなかっただろう? それは、相手に何かを気付かせる一つのきっかけになるのさ。そのきっかけが最初はどんなに小さなものでも、不変の態度で挑んでくる相手であれば、絶対に小さなものはどんどんと大きくなってくるものさ。そのことに気付いた俺と、まったく気付かなかったえりなの間には、もう埋めることのできない遠い距離が生まれてしまったというわけさ。もうどうすることもできないね……」

 そういって、彼はえりなを見下した。

 えりなは、ハッとして、彼を見上げた。

 今まで見下ろしていた相手から見下されることに、屈辱しか感じることのないはずなのに、えりなは見下されることで、それまで気付かなかった何かに気付いた。

――そうだわ。こんなに相手の顔が近くに見えるなんて――

 見下ろすよりも、見上げる方が、同じ距離であっても、近くに感じるということは分かっていた気がする。

 だが、もう一つ別の感覚も浮かんできた。

――見下ろしている相手の顔には影が掛かっていて、その顔をハッキリと見ることができない――

 という思いだった。

 そして、もう一つ感じた思いがあって、それは相手の顔がハッキリと分からないことからの派生であるが、

――何て怖いのかしら――

 相手の表情が分からない。それがこれほど恐ろしいものだということにいまさらながら気付いた自分が、怖いとも思った。

「やめて」

 えりなは、彼が自分に罵声を浴びせているわけではないと分かっている。

 だが、この冷静で淡々とした口調は、彼はなんでもお見通しで、まったく何も分かっていないのが自分だということを宣告された気持ちになっていた。これ以上聞いているのは、自分のプライドが許さない。

――プライド? いったい誰に対してのプライドなのかしら?

 いまさら、彼に対してのプライドなど、何の力もない。

 もっとも、彼に対してプライドなどあっただろうか? あったのは主という思いだけで、自分が主であれば、プライドなどというものは余計なものでしかないはずである。

 もし、プライドがあるとすれば、別れようとしている彼に対して、自分に未練があるような態度をとることではないだろうか。もし、そんな態度を彼に示すのであれば、今まで主であったことをすべて否定することになり、それは、自分のすべてを否定されるかのように感じたからだ。

 えりなはそれ以上言葉が何も出てこない。彼の方も何かを言おうという気はないようで、お互いに静寂の時間が過ぎていった。

 彼は、その時間を余裕をもって過ごしていた。その様子を見ているだけで、額から汗が滲んでくる自分を感じたえりなは、時間というものの遅さに、自分が焦れているんだということに気付いたのだ。

――時間なんて、本当に他人事だわ――

 またしても、他人事だと考えようとしている自分を感じた。

 他人事がいいことなのか悪いことなのか分からない。しかし、他人事という意識を逃げの気持ちで使っている自分をその時に感じていた。しかし、それは初めての経験であり、いつも感じている他人事とは明らかに違っていた。

――今日の私はどうかしているんだわ――

 と感じた。

 しかし、それこそが他人事である。どうかしているなどと、別れが目の前に迫っている女が考えることではないだろう。やはり、逃げの姿勢がそんな思いを抱かせていたのかも知れない。

 そんなえりなを見た彼は、

「もういいだろう。ここらでお開きと行こうじゃないか」

 彼の言葉はベストなタイミングだったのかも知れない。

「そうね」

 その言葉を聞いたえりなは、自分も今なら開き直れる気がした。

「じゃあ、お元気で」

「あなたもね」

 えりなは踵を返して歩いていく彼の背中から目が離せなかった。

 それは、未練からではない。ただ、小さくなっていく彼の背中を感じていた。普段もその日の別れに彼の背中を見るのが恒例だったが、その時は彼が小さくなっていくという感覚はなかった。ただ、遠ざかっていくという感覚があっただけだ。だから、彼が消えてしまうという思いはその時はまったくなかったのだ。

 しかし、永遠の別れになったその時、小さくなっていく彼の後ろ姿を見ていると、彼が目の前から消えていくのをずっと見ていたかった。それが別れの儀式だと思うからで、目の前から消える彼を見ることで、

――明日からの私は違う自分なんだ――

 と、またしても、もう一人の自分になったつもりで自分を見ていた。

 だが、これはいつもの他人事とは違っていた。それは、他人事として見ている相手は本当の自分であり、その日のえりなが見ている相手は、

――もう一人の自分――

 だったからだ。

 もう一人の自分の存在を感じたのはその時が最初だった。今までにも別れを何度か感じたが、今までの別れの時に感じたことのない思いだった。

 この別れが今までと違っているからなのか、それとも、えりなの今までの経験によって培われたものが、今回成就することで初めて感じられたものなのか、えりなには分からなかった。

――いったい、本当にどうしたのかしら?

 えりなは自分を鏡に映して問いかけてみたが、その答えを鏡の中の自分は与えてくれない。

 鏡の中の自分が本当の自分なのか、それとももう一人の自分なのか、えりなはその日から時々鏡を見ることで感じることがあった。そんな時のほとんどが、

――鏡の中の自分こそが本当の自分なんだわ――

 と感じるのだった。

 鏡を見ていると、上から目線である時、逆に自分が相手を見下ろしている時があるのを感じる。そんな時に限って、その日はあっという間に過ぎてしまう。

――今日、何かがあったように思うんだけど、それが何だったのか覚えていない――

 と感じる。

 それはまるで自分が記憶喪失になったかのようなのだが、敢えてえりなはそのことを意識しようとは思わない。

 その理由としては、

――下手に思い出そうとすると、それ以外の今までの記憶を忘れてしまいそうな気がして怖いのよ――

 と感じていた。

 一時的な記憶喪失というのは、失っていた時の記憶を思い出すと、それ以降の記憶を失ってしまう可能性があると聞いたことがある。えりなはそれを怖いと感じたのだ。

 付き合っていた頃の彼はえりなに従順だった。そのことをえりなは記憶の奥に封印しようとしているようだ。

――この部分も、記憶喪失の一部に加えてほしい――

 と感じた。

 そんなことを思い出していると、自分が時々記憶喪失になることをいまさらのように感じていた。

――記憶喪失というのは、癖になるのかしら?

 そんな話は聞いたことがなかった。

 かといって、誰かにそのことを聞くことはしなかった。

「何言ってるんだよ。おかしいんじゃないか?」

 と言われるのが怖かった。

 どちらかというとまわりから、

「あの子は少し変わっている」

 と陰で言われていた。

 そのことを知ったのは、実はこの間別れた彼から聞かされたことであり、彼には人が聞きたくない余計なことを口にしてしまうところがあったようだ。本人はそのことを意識していない。軽い世間話のつもりで話をしているようなのだが、えりなにはその気持ちが分からない。

――彼と別れるきっかけの一つに、このことも含まれているんだわ――

 別れのきっかけというのは、たいてい一つや二つではないものだ。

 えりなにとって、少しのことの積み重ねが苛立ちになり、別れる決意をさせたのだろうが、その一つ一つをいちいち覚えているわけでもない。

 こうやって時々感じることの中に、彼との別れのきっかけを思い出すのだが、今となっては後の祭りだと思いながらも、感じたことが自分のこれからにかかわっていくという予感があることから、スルーしようとは思わない。

 その日、普段から気にすることのないペットショップに目が行ってしまったのも、何か自分を引き寄せるものが、その日に限ってあったのかも知れない。そのキーワードが、「従順」という言葉なのかも知れない。

 ペットショップに近づくと、当たり前のことだが、動物の臭いがした。いろいろな動物の臭いがするので、本当であれば、気持ち悪くて吐き気を催すのだろうが、その日は感覚がマヒしていたのか、吐き気を催すよりも、先に臭いを感じなくなっていった。臭いに慣れてきたことで、鼻孔がマヒしてしまったのかも知れない。

 中からは奇声が聞こえてきた。

――あれは鳥の鳴く声じゃないかしら?

 子供の頃、家でインコを飼っていたことがあった。たまに奇声を叫ぶので、子供心に、

――鳥って、言いたいことを言葉にはできないけど、気持ちを表すことはできるのよね――

 と感じていた。

 その気持ちがどういうものなのか分からなかったが、子供の頃のえりなは決して自分の気持ちを口から表に出すことがなかったので、羨ましく感じられた。

 店内に入ると、さすがに吐き気を催しそうな臭いが感じられた。だが、それも一瞬で、すぐに慣れてしまったようだ。店内には誰もおらず、店主はどうやら、奥に引き籠って何か作業をしているようだ。

 考えてみれば、大学通りにペットショップなど、流行るのかどうか、えりなには想像もつかなかった。

 だが、実際には今の時代、ペット可というマンションも少なくなく、大学生の女の子など、ペット可のマンションに住んでいる子は、実際に犬や猫を飼っている人は少なくなかった。そんな人たちをターゲットに商売をしているのだとすれば、先見の明があるというものだが、どう見てもこの店は一昔前のペットショップで、かなり昔からここに店舗を構えているのは明白な感じがした。

――代々、ここで商売をしてきたんでしょうね――

 とえりなは感じながら、店内を見渡していた。

 奥の方にいけば、犬や猫のスペースがあり、ガラスケースの向こうで、子犬や子猫が、同じ種類の仲間とじゃれあったりしている。それを可愛いと思いながら見つめていると、じゃれあっている子犬以外の犬猫は、お昼寝中だったようだが、その中で何匹か、目を覚ましたようで、眠い目をこすりながら、必死にこちらを見ていた。その様子がこれまた可愛らしく、

――目の中に入れても痛くない――

 と思わせるほどのいじらしさであった。

――この子たちの親は、どうしているだろう?

 子犬たちの無邪気な姿を見ていると、この子たちの親が気になってきた。

 ペットショップには子猫や子犬しかおわず、親はブリーダーによって、子供を産まされ続けているんじゃないかと思うと、急に子猫や子犬を見る目が、覚めてきたのを感じた。

――かわいそう――

 という意識が芽生えてきて、

――ペットって飼い主を選べないものね――

 と感じた。

 えりなは、自分も以前に、

――子供は親を選べない。親が子供を教育すると言っても、とんでもない親だったら、子供がかわいそう――

 と感じたことがあった。

 そういえば、ドラマで似たようなセリフを聞いたことがあった。ニュアンスが同じという意味で、同じ説得力ではないと思ったが、どちらもえりなにとっては気になる言葉だったので、次元が違っているとしても、同じ時に思い出すのに、違和感はなかった。

 その言葉というのは、

「人間は、生まれてくるのを選べないけど、死ぬことを選んでもいけないのよ」

 というものだった。

 自殺をしようとした少女への言葉であったが、その言葉はなぜかえりなの頭の中に残っていた。

――確かにそうだわ――

 生まれてくる時は、自分の意思によって生まれてくるわけではない。

 かといって、親になる人も、子供が生まれてくるというのは分かっていても、その子の親になるという思いを持って、子供を授かるわけではない。子供がお腹の中で大きくなり、実際に生みの苦しみを感じることで、親になっていくのだろう。そういう意味では、父親には生みの苦しみはない。それでも、自分の子供はかわいいという。どうしてそんな感情が生まれてくるのか、えりなには分からなかった。

 人間と他の動物との違いは、考える力があるかどうかということだとえりなは思ってるが、それは本当だろうか?

 ペットを見ていると、人間にはない特殊能力を持っている動物はたくさんいる。

 たとえば、犬などは、どんなに遠くに離れていても、飼い主や自分の知っている人間を感じることができる。嗅覚が人の何十倍も発達しているからであるのは分かるが、それだけなのだろうか?

 相手をしっかりと認識していないと、その人が自分にとって大切な人なのかどうかわかるはずもないからだ。犬が従順なのは、相手を認識する力が優れているからで、これも人間にはない特殊な能力だと言えなくもないだろう。

 ただ、他の動物は人間のように、思考能力があるわけではなく、その優れた能力は、本能と結びついて、自分たちが生きていくために発達した能力だと思うと、納得のいくところである。

 中学の頃には、よくクラスメイトを動物にたとえたりして、話題にしたこともあったと記憶している。

――そういえば、私はなんと言われたんだっけ?

 えりなは思い出そうとしたが、考えてみれば、一定していたことがなかったような気がする。

「えりなは、犬のようだ」

 と言われたこともあれば、

「ネコのようだわ」

 だったり、たまに、

「ウサギのようだ」

 と言われることもあった。

 だが、そのほとんどは、あまり記憶していたいことだとは思わなかった。なぜなら、ペットとして比喩される時、あまりいい理由だった覚えがないからだった。

 犬や猫にたとえられる時というのは、そのほとんどが、

「従順だから」

 というもので、そこに可愛らしさというイメージはなかった。

「えりなを見ていると、服従させたいという意識が働くのよ」

 と言われる。

――どうしてそんな言い方しかできないの――

 と心で訴えていたが、えりなの気持ちの入ったその視線を、服従させたいと言っている人は、誰も気付いていないようだった。

 むしろ、服従させたいという言葉を浴びせることで、えりなが悦んでいるかのように思われているようだった。

――私って、Mなのかしら?

 と思わせた。

 いや、相手にそう誤解させる何かがえりなの中に備わっている。そう思うと、自分の中にある何かというもので最初に思い浮かんだのが、

――他人事のように感じるという性格――

 だったのだ。

「私に服従させたいって、そんなに私は、従順に見えるの?」

 と聞くと、

「えりなは、従順というよりも、その反対で、従順に見えないから、服従させたいと思うのかも知れないわね。でも、服従させることができれば、あなたはきっと今まで私たちに見せたことのない従順さを、披露してくれるように思えてならないの」

 と言っていたのは、中学時代から一緒だった友達が高校時代に言った言葉だった。

 まさか、女性からそんな目で見られるとは思っていなかったが、そんな感情があったから、大学に入って、レズビアンに走った時期があったのかも知れない。

 大学で付き合った女性も、

「あなたの従順さは、私が一番よく知っているわ」

 と言っていた。

 しかし、

「でも、その従順さは、まわりに発散させているにも関わらず、他の人には気付かないものなの。それはまるで保護色のようになっていて、目の前にあっても、誰も気付かないもので、えりなの最大の特徴でもあるの。それがいい意味なのか悪い意味なのか、それはこれからのえりなを取り巻く時間が、形にしてくれると思うの」

 とも言っていた。

「私の将来って、どんなものなのかしらね?」

 というと、

「私に分かるはずないじゃない。でも、えりなはきっと自分で分かっていると思うの。でも、あなたが自分を他人事のように見ている限り、ずっと分からないままだって思うのよ」

「ということは、私が他人事だって思わなければ、自分を分かるということなのかしらね?」

 と聞くと、

「そんなことはないわ。あなたが自分を他人事のように思えなければ、あなたが自分のことを分かるということすら、及ばないと思うの。そういう意味ではあなたが感じている他人事というのは、あなたにとって、一種の特殊な能力のようなものなんじゃないかしら?」

 と言われた。

「じゃあ、他人事のように思うことを、悪いことだって思わなければいいのかしら?」

「いい悪いの問題じゃないと思うの。要するにあなたが自分のその性格に、どれだけ素直に正面から向き合うことができるかということなんじゃないかって思うのよ。人の性格なんてものは、なかなか自分じゃ分からないものだからね。そういう意味で、少しでも分かっているあなたは、すごいんじゃないかって私は思うの」

「でも、それだけ私のことを分かってくれているということは、あなただって自分のことが分かっているんでしょう?」

「そんなことはないわ。誰だって、自分のことが一番分からないものよ。人の姿は自分の目で直接見ることができるけど、自分の姿は鏡などの媒体を通してでなければ、決して見ることができないでしょう? それと同じことなのよ」

 と言っていた。

「なるほど、そうなのかも知れないわね」

 そんな話をしていた自分を思い出していた。

 ペットショップに今まで入ったことがなくて、その日が初めてだと思っていたが、中に入って中学、高校時代を思い出していると、今までにも何度かペットショップに入ったことがあったかのような気がしていた。

――これってデジャブなのかしら?

 今まで見たこともないはずの場所なのに、どこかで見たことがあったとか、行ったことがあったなどという思いに駆られることがあるという現象があるが、それをデジャブ現象というのだということは知っていた。

「デジャブというのは、辻褄合わせのようなもので、自分の曖昧な記憶を強引に繋ぎあわせようとして起こる現象なんだって話があるのよ」

 というのを聞いたことがあったが、まさしくその通りに感じた。

 さすがにペットショップの異臭はすごいものがあった。それでも表に臭いが漏れないのはさすがだと思ったが、それでもこの密閉した部屋にどれくらいの時間我慢していられるかを考えると、少し入ってしまったことを後悔した。

 せっかく入ったのだから、いきなり踵を返して出てしまうようなことはしたくない。もし、そんなことをすれば二度とこの店に入ることはできないだろうと思うし、一度やってしまうと、免疫のようなものができてしまい、他の店でも同じことをしてしまうような気がしたので嫌だった。

 なるべく異臭を感じないようにしようと思いながら店の中を散策していると、奥の方で子犬や子猫のゾーンに立ち止まったのだった。

――そこからいろいろな発想が浮かんできたんだわ――

 と思ったが、子犬や子猫には、最初はかわいいと思い、ずっと見ていても飽きがこないと思ったのに、気が付けば、もう一度同じところに考えが戻ってきてしまうようで、堂々巡りを繰り返してしまうことに、少し違和感を覚えた。

 子犬のゾーンを反転して、表と反対側の通路の奥に行ってみると、そこは鳥や小動物のコーナーだった。

 えりなはその中で一つ気になるものを見つけた。

 檻の中にクルクル回る輪があって、その上を一匹のハツカネズミが走っている。それを見ていると、目が離せなくなってくる自分を感じた。

――走っても走っても、その場所から逃れることのできないなんて――

 と、虚しさを感じた。

――このまま、死ぬまで走り続けることになるのかしら?

 と思うと、普通なら、

――休めばいいのに――

 と思うのだが、相手は動物、走り続けることが本能であり、人間にしてみれば生きがいのようなものだとすれば、どうなのかを考えてみた。

――人間だって、生きがいを感じながら生きている人がどれほどいるんだろう? 私には、明確に生きがいが何か、口にできるものがあるというのかしら?

 と感じた。

 確かに生きがいというと、漠然としては持っているような気がする。人間は誰でも大なり小なりの生きがいを持っていないと生きられないものだと思っているからだ。

 だが、それって本当にそうなのだろうか? 生きがいなどというのは一種の綺麗ごとであり、持っていなくても、泥臭く生きている人だってたくさんいるのではないだろうか。

 いや、泥臭く生きている人の方が、本当は明確な生きがいを持っているのかも知れない。泥臭さを感じている人が生きがいを感じることができなければ、生きることに必死になれるはずもないと感じていた。

――でも、この考えこそが上から目線なのかも知れないわ――

 と感じることもあった。

 曲がりなりにも大学生になり、大学生活を営んでいられるのは、それだけで幸福と言えるのではないか。だが、そこに生きがいを感じているかと言われると、えりなは何とも言えなかった。明確に口にできるような生きがいを、見つけることができないからだ。

――だからこそ、いつも他人事のように自分を見ているのかしらね――

 いくら大学生活を営んでいられるとはいえ、生きがいを明確に感じていなければ、まるで誰かに敷いてもらったレールの上を走っているだけに思えるからだ。それを果たして、

――自分の意思で生きている――

 と言えるのだろうか?

 そんなことを考えていると、いつの間にか、堂々巡りを繰り返していることに気が付く。

――何度同じことを考えているんだろう?

 一度の長考の中で、何度も同じところを回っていることに気付くというのは、そうあることではない。

 しかし、えりなはここ最近、同じことを考えている自分に気が付いて、ハッとしてしまうことがある。それだけ考えが深くなってきたのか、それとも、余裕を持てるようになってきたからなのか、ポジティブにしか考えられない自分を思った時、やはり他人事として見るとポジティブになれるから、他人事として見ることをやめないのだろうと思うのだった。

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