第3話 麻衣子との出会い
正則は、高校生になってから部活をするわけでもなく、学校が終わったら、まず部屋に帰ってきていた。ちなみに小高い丘の上にある神社は、通学路とは少し離れたところにあるので、真っすぐに部屋に帰る正則が、神社にかかわることはなかった。
別に神社を避けているというわけではない。ただ行きたいと思わないだけで、寄り道をしてわざわざ行こうと思うのであれば、最初から計画を立てていなければ、なかなか思い立ったかのように立ち寄るようなことはしない。
元々、面倒臭がり屋なところのある正則は、出不精なところもあった。通学のような毎日の日課なら仕方のないことだが、わざわざ休みの日だからと言って、自分からどこかに出掛けようなどという気持ちはなかった。
それでも、
「これではいけない」
と思ったのか、この街に移ってきてから、散歩には出かけるようになった。
帰ってきてから掃除洗濯を済ませて、ちょうど夕方くらいになってから、近くの公園に出掛けるようにしている。近くの公園というのは、大きな池のある整備された公園で、散歩コースも用意されているので、すれ違う人も少なくはない。
以前の正則だったら、人とすれ違うことすら億劫だったのだが、この街に住むようになって、少し気持ちに余裕ができたのか、人とすれ違っても、あまり意識しないようになっていた。
――そういえば僕は……
人とすれ違うだけで、億劫だったのかという思いがどこから来るのか、考えたこともなかったが、なぜ考えたことがなかったのかということに、自分の中で意識しないようにしていたのだと分かっていなかった。
考えてみれば、すぐに分かることだった。自分が孤独が似合うと思っていて、人と関わらないことが自然だと思っていたのが、理由だと思っていた。
しかし、もっと直接的なことがあったではないか。それは今では思い出したくもないことだったからだと思うからで、今まで生きてきた人生を二つに分けるとすれば、完全に前半にかかわることで、それこそ他人事と思うようなことなのかも知れない。
小学生の低学年の頃、正則はいじめられっ子だった。
――どうして僕が苛められなければいけないのか?
という思いはあったが、それを深く追求できるほど小学生の低学年といえば、本当に子供であった。
苛めに対して甘んじて受け入れるしかないという思いが強く、その思いを前提に、どうすればいいかを考えるしかなかった。
そうなると考えつくこととすれば、
――いかに被害を最小限に食い止めるか?
ということである。
下手に抵抗しては、相手の気持ちに対して火に油。叩かれたりする時、いかにうまく受け身を取るかということだけが、被害を最小限に食い止めることであった。
もう少し成長していれば、力の暴力よりも言葉の暴力の方がきついのかも知れないが、まだまだ子供の正則には、力の暴力こそが「苛め」であり、それをいかに食い止めるかということに全神経を集中させていた。したがって、言葉の暴力を意識する余裕など、まったくなかったのである。
しかし、果たしてそうだったのだろうか?
正則は子供心に、言葉の暴力も何とかしなければいけないと思っていたはずだ。だが、そこは彼の本能が解決してくれた。
――何を言われても右から左、他人事だと思えばいいんだ――
という思いが本能を動かした。
そのため、彼が孤独が似合うと感じるようになったきっかけになったのは、この時だったと思われる。
ただ孤独というものが「逃げ」に繋がるのではないかという思いは正則の中にはなかった。
いや、正確には、
――意識しないようにしていたのは、本能のなせる業だった――
のである。
「逃げ」という言葉が正則の中で付きまとっていたのは自分でも分かっていた。しかし、それは同じ時期の力の暴力に対して感じていた、
――いかに被害を最小限に食い止めるか――
ということに対してであり、その裏にある本能が解決してくれた、「言葉の暴力」に対してのものだとは思いもしなかった。
本能というのは、あくまでも本人に意識させるものではなく、絶えず心の裏に潜んでいるもので、それはまるで、止めると死んでしまう呼吸のようなものではないだろうか。
呼吸が潜在意識の中の本能であるとすれば、一般意識の中にある本能が「逃げ」と言えると思うようになっていた。
そんな正則は、まわりは皆敵だらけで、四面楚歌の状態だった。しかし、ある時期から、正則には味方ができた。それは一人の女の子だったが、彼女は正則が言葉の暴力を受けた時だけ、反論してくれた。
彼女は、クラスの中でもひときわ身体が大きく、小学生の低学年でありながら、胸も膨らみ始めていた。発育の早さが群を抜いていたことで、いじめっ子たちはおろか、クラスの全員が一目置いていた。何しろ、彼女の成長ぶりは半端ではなく、先生すら一目置いていたのではないかと思えるほどだった。
正則は、絶えず逃げの態勢を取っていたにも関わらず、変なプライドだけは高かった。
「放っておいてくれよ」
せっかく助けてくれた彼女に対し、本当なら言ってはならないことを口にしたりした。それが暴言であることを正則は分かっていた。分かっていて口にしたのは、自分の中にある変なプライドが邪魔をしたからだった。
さすがにそこまで言われると、
「せっかく助けてあげたのに」
と、二度と助けてくれなくなるのは必至だった。
――これでいいんだ――
正則は、逃げの態勢を取っているものに自分の本能を感じていたから、そう思っていた。変なプライドが高いと思っていたのは、正則とまわりの人たちだった。だが、正則の中に逃げの態勢を取っているが、それがプライドからではないということに気づいていた人がいた。それが、彼女だったのだ。
さすがに、本能から来ているものだというところまでは分からなかっただろう。しかし、彼女から見ていると、正則が逃げていること、そして、このままではいけないということを真剣に考えていた人が彼女だということ。この二つは前半の人生の正則にとって、一番の転換期だったのかも知れない。
次第に正則への苛めもなくなってきた。ちょうどそれと同じくらいに、彼女も親の仕事の都合で引っ越していった。
正則は思わず涙が出てきた。それは、
「もう二度と会えないかも知れない」
という思いが流させた涙で、その時正則は初めて、
「思わず泣いてしまうことってあるんだ」
と感じたのだった。
テレビを見ていて、人が泣くシーンを見た時、まだ子供だったが、
「どうして、あんなに目を真っ赤にして泣くんだろう?」
と思った。
普段苛められている時、泣くこともあったが、目を真っ赤にして泣くようなことはなかった。泣く時というのは、力の暴力に耐えられず、痛くて泣いてしまう時だったので、痛い部分は他にあった。涙は痛みを堪える時に、反射的に流したものである。
しかし、彼女がいなくなって流した無意識の涙は、目がカッと熱くなって、鼻もズルズルになっているのを感じた。
「顔をグシャグシャにして泣く」
という表現は聞いたことがあったし、テレビのドラマやアニメでもそんなシーンはあった。
「ウソっぽいよな」
と思っていたが、まさか自分がそんな感じになるなど思ってもみなかった。
引っ越していった彼女のことを、中学になって異性を意識するようになってから、
「あれが初恋だったんだ」
と感じた。
本当は異性を意識する前でも、これが初恋だったという意識はあったはずなのだが、異性を意識する感情が芽生えるまで、意識することはできない場所にあったのだ。
「記憶の奥に封印されていることは、それを思い起こすために必要な感情が芽生えなければ引き出すことはできない」
忘れてしまっていることを、一瞬でも思い出したり、
「前にも見たことがあるような気がする」
と感じさせるデジャブという現象があるが、記憶の奥の封印を解くために、ワンクッション必要だということを意識することで、デジャブなどの現象の証明にはつながらないまでも、少なくとも自分を納得させる力はあるような気がした。
小学生の頃の苛められていたということを意識することはなかったのも、
「嫌なことや都合の悪いことを封印するための記憶の奥という場所は、きっと存在しているんだ」
と思うことで、今の正則を納得させることができた。
ただ正則が子供の頃に抱えていた問題はそれだけではなかった。
「僕には、母親はいない」
という意識が無意識の中にあったことだ。
他の人には母親がいるのに、自分には母親がいないという事実を受け止めるという気持ちはなかった。母親は最初からいなかったと思う方が自然だったからである。
あの頃の自分に、
「子供は、母親から生まれる」
という意識があったかどうか分からない。学校で習うことでもなく、他の人もおそらく、いつ誰から習ったのか覚えている人は少ないのではないだろうか。ひょっとすると、母親がいないことで苛められていたのかも知れない。苛めている方も、その意識があったかどうか分からないが、母親がいないことで、何か話をしていて、正則の言動が他の人の気持ちを傷つけるものがあったとしても、その時の当事者の誰にそれが分かったというのだろう。
「あいつは生意気だ」
と言われても、本人に言われる筋合いもない。
言っている方も、何が生意気なのかを訊ねられると、答えようもない。子供の喧嘩というのは、往々にしてそんなものなのではないだろうか。
童話に、「みにくいアヒルの子」というのがあったが、親が誰であれ、子供は育つという眼で見ることのできる話であり、正則はその話に運命的なものを感じた。その話を聞いた時は、
「人は母親から生まれる」
ということを自覚していたからだった。
正則に対しての苛めがなくなってきたのは、ちょうど自分も母親から生まれたという意識を持ち始めてからだった。話を聞いてはいたが、意識としての実感はなかった頃に比べて、
――自分にも母親はいたんだ――
と思ったことを自分を納得させるには時間が掛かりすぎて、百八十度自分の考えを転換しなければ納得させられなかったことで、その転換期を迎えてから、それ以前に感じたり考えていたことを思い出すことはできなくなっていた。それこそ記憶の奥に封印されてしまったのである。
自分にとっては悪しき記憶であった。
正則は学校から帰ると、ほとんど家を出なくなった。もちろん、神社に近づくこともなかった。それでも絵を描くことだけは辞めず、家の裏から狭い路地を通って出ることのできる河原から、絵を描くことにしていた。さすがに公園や神社ほど目立ったものはないが、河原であっても、絵を描くには十分な被写体だった。あまり大きな川ではないが、川の種類としては一応一級河川に属するらしい、河原には道なき道が繋がっていて、本当は道はあるのだが、雑草が所せましと生え茂っているため、あまり人が立ち入ることもなかったようだ。
――子供の頃に冒険した河原に似ているな――
いじめられっ子だったくせに、冒険心は人並みにあった。その時一緒に冒険していたのは男の子ではなく女の子だった。恋愛感情があったわけではないが、今から思えばいつも一緒にいたのは彼女だったのだ。
名前を麻衣子と言った。いつも「麻衣ちゃん」と呼んでいたので、苗字の方は忘れてしまっていた。思い出そうとすれば思い出せるのだろうが、思いそうという気はしない。麻衣ちゃんは麻衣ちゃんなのだ。
元々、河原を見つけたのは麻衣ちゃんだった。彼女は女の子と一緒にいるよりも男の子と一緒にいる方が多く、最初は正則以外の男の子と行動を共にしていたが、
「あまり群れを成すのは嫌いなの」
ということで、彼らとは一線を画するようになり、気がつけばいつも正則のそばにいたのだ。
確かに複数の男の子たちの間に、一人の女の子が入るというのは、見た目は違和感がないが、当の女の子にとっては浮いた存在に思えたかも知れない。子供の頃によくテレビで見ていた特撮戦隊ものなどでは一人は女の子がいることで、違和感がないのだろう。ただテレビは視聴率を考えるから、そういう配役にするのだろうが、実際では浮いた存在になってしまいかねないことを、当事者の男の子たちには分かっていなかったかも知れない。
だが、当の本人とすれば、どうしても男の子の視線には敏感になる。しかも、成長は男の子よりも女の子の方が早いことで、男の子たちが気づいていないのに、見られている女の子の方は、
「男の子からの視線」
を、厭らしいものとして感じていたことだろう。
そんな彼女は、次第に男の子の集団から離れていった。
男の子たちも、それを別に非難するわけではなかった。なぜなら、男の子たちの間で、無意識に彼女への想いをそれぞれに持っていた。しかし、まだ思春期に入っていない男の子たちにとって、その気持ちがどこから来るのか分からない。
言い知れぬムラムラした思いを抱いているのに、それを誰にぶつけていいのか分からない。それだけに、
「誰にも知られたくない」
という思いが皆にあった。
しかも、自分でも分からないことが他の人に分かるはずもなく、突き詰めれば皆同じところからの感情なのに、その正体を分かっていないことで、まわりに対して疑心暗鬼に陥る。
そんな状態なので、誰もがギクシャクした関係になった。そんな最悪の状態で、人のことなど構っていられるわけもない。その間隙をぬって、彼女が団体から抜けることはそれほど難しいことではなかった。
やっと抜けられたことで、彼女は後ろを振り返ることをしなかった。後ろを振り返ってしまうと、何かよからぬことが起こるのではないかと思ったからだが、その発想は、「ソドムの村」にあった。
彼女はキリスト教に造詣が深いわけではないが、なぜかこの話だけは印象に残っていた。
「決して後ろを振り向いてはいけません」
そう言われていた。
後ろを振り向かず歩いてさえいれば、悪夢のような無法地帯だった地獄の村であるソドムの村から、やっと逃げることができる。簡単なことだったはずだ。別に背中に目があるわけではないのに、後ろで何か恐ろしいことが起こっているという思いが頭をよぎった。その時、ふいに振り向いてしまったことで、その人は石になってしまったという話だったが、一体この話は何が言いたかったのだろう?
「人間は、『してはいけない』と釘を刺されると、却って見てしまいたくなる」
ということなのか、それとも、
「どんなにひどい村であっても、同じ人間が滅亡するということ、ひょっとすると、空耳なのかも知れないが、悲鳴のようなものが聞こえたのかも知れない。そんな感情が哀れみを呼んで、振り向いてしまったのか」
または、
「神、あるいは神の使者のいうことに逆らうと、どんな目に遭うか分からない。つまりは、神というのは、人間にとって、絶対の存在であるということへの教訓だということを言いたいのか」
と、様々な発想を思い浮かべることができる。
しかし、彼女はそんなソドムの村の伝説のような石になってしまうという愚を犯したりはしなかった。
彼女がドライだというよりも、「ソドムの村」という話の方が大げさなのかも知れない。確かに聖書に乗っていることなので、経典としての役割もあるので、プロパガンダ的な要素もあるだろう。しかし、実際にはもっとシビアなものだ。それだけ現代の日本人が宗教や神というものに対しての印象が薄いということなのだろう。
彼女がどうして正則に近づいたのか分からないが、正則にはその時、彼女を引き付ける何かがあったのかも知れない。そういえば、ちょうどその頃、いじめられっ子だった正則のそばにいつもいた女の子が引っ越していってすぐの頃だった。正則には思い切り隙があったのだろう。
一人でいることを何とか自分に言い聞かせていた正則は、いじめられっ子だった頃の「孤独」という言葉が嫌いではなかったという意識に戻ろうとしていた。そんな時に近づいてきたのが、麻衣子だったのだ。
考えてみれば、正則はいつも「孤独」という言葉を意識していたように思っていたが、「孤独」を意識していた時期は、思ったよりも短かった。「孤独」を意識し始めてから、いつも必ず誰かが現れ、孤独という状況に身を置くことはなかったのだ。
ただ、誰かと一緒の時期に孤独を意識していなかったというわけではない。誰かと一緒にいる時、孤独を意識していることに気づいてハッとしたことがあったが、一瞬だったこともあって、すぐに忘れてしまった。後になって思い出したのだが、それが誰と一緒の時だったのか、すでに記憶にはなかった。
正則が麻衣子と一緒にいるようになるまで、二人の間に違和感はなかった。正則は孤独を意識し始めた頃だったので、麻衣子が自分にとっての救世主だと感じていたし、麻衣子としても、集団の中の紅一点という立場から抜け出すことはできたが、今度は襲ってくる孤独にどう立ち向かおうかと思っていた時期だった。
――出会うべくして出会った二人――
と言っていいのではないだろうか。
二人とも、意識的に近づいたわけではない。
もっとも、お互いに、
――相手が近づいてきた――
と思っているだろう。
その思いは麻衣子の方に強かったかも知れない。しかし、麻衣子の方でも正則のことが決して嫌いだったわけではない。今まで意識していなかっただけで、意識してしまうと、
――思っていたよりも、この人は頭のいい人なのかも知れないわ――
と感じていた。
しかし、感情的なものはまったく分からず、冷静なところがあるという意識はあったが、それ以外には何も感じるところのないのが第一印象だったのだ。
最初にどっちから声を掛けたのか、当然覚えていない。お互いに、
「相手からだった」
と思っている。
しかし、意外とそういう中途半端な意識でいる方が、仲良くなれば長続きするのではないかという思いを抱いたのも事実である。二人とも知らないが、その思いを感じたのがほぼ同じ頃だったというのは、どこか運命的なものがあったからに違いない。
お兄さんと一緒に住んでいる部屋の後ろから伸びる河原への道を発見したのも偶然だった。
ちょうど一人の男の子がバケツと釣り竿を持って、草むらの中から出てきたからだ。
「どこから出てきたんだ?」
と思った時、相手はまったく正則に気づいていないはずだった。
なぜなら、二人の間にかなりの距離があり、正則は意識しているからその少年を見ることができるが、向こうからこっちは、意識していたとしても、本当に見えるかどうかと思うほどであった。向こうの後ろには草むらしかないが、こっちには、生活の息吹を感じることのできるいろいろなものが点在している。その中に点のように人がいても、意識するのはかなりの困難を要するはずだった。
だが、その少年は正則を意識していたようだ。
正則からもかろうじてしか見えていないのに、彼は正則に対して熱い視線を浴びせている。この感覚は熱い視線以外の何物でもないという意識、それもやはり子供の頃に感じたものだった。
大人にじっと睨まれることに敏感だった正則は、相手が分かっていないと思っているだろうと思いながら、相手の視線に対して熱い視線で返すことで、相手がビビッてしまうのを感じ、楽しんでいた時期があった。
子供の頃は今よりもさらに視力がよく、少々遠くても相手の視線を感じることができた。
一度、正則が遠くから見つめる方向に二人の男女がいた。
一人は小柄な女の子で、その子がまだ子供だということはすぐに分かった。
男の人は大人の人で、その子の顔をまったく見ようともせず、繋いだ手を引っ張るように、自分勝手に先に進んでいた。
大人と子供の、しかも、子供は女の子である相手の手を引っ張って、大人のペースでも早いくらいに歩いているのだから、女の子はかなり窮屈そうに歩いていた。
時折、男は無理に女の子の手を引っ張った。明らかに女の子は嫌がっている。
先しか見ていない男性とは対照的に、女の子は必至で抗うようにまわりを見つめていた。正則の視線は彼女に注がれる。
その視線に気が付いたのか、それともまわりを見ていて、偶然正則がいることに気がつぃいたのか、彼女の視線は正則を捉えて離さなかった。
「た・す・け・て」
彼女の唇は確かにそう動いた。
その表情からも、男を抗う態度からも、そう言っている以外には考えられなかった。
正則は、どうしていいのか分からない。実際に今から追いかけたとしても、追いつけるものではないし、もし追いついて目の前に現れたとして、自分に何ができるというのか、
「飛んで火にいる夏の虫」
同然ではないだろうか。
何もできない自分は、蹂躙される彼女を見ていて、どうすることもできない。このままでは自己嫌悪に陥るばかりだった。
正則は、妄想するしかなかった。
男に蹂躙されている彼女の前に颯爽と現れる正義のヒーローである自分。
特殊スーツに身を包み、悪人をやっつけるのだ。
マントを翻している姿も凛々しく、仮面をかぶっている。
素顔でないとせっかくの彼女の気持ちを鷲掴みにできないというのは分かっているが、正義のヒーローは、最初から正体を明かすものではない。
来るべき時がくれば正体を明かすことになるのだが、ヒーロー戦隊ものというのは、正体を明かしてしまうと、そこで最終回になってしまう。
自分をいつも助けてくれていたヒーローが実は自分が知っている人で、いつもは頼りない少年だとすれば、それだけでストーリーはいくらでもできる。しかし、正体を明かしてしまうと、話はそこで終わってしまうのだ。ヒーロー戦隊ものとしては、そこで終わりなのだ。
正則は、
「正体を明かすことはタブーなんだ」
と、子供心に思っていた。
その時の女の子を助けることができなかったことで、戦隊ものを想像した正則だったが、結局は自分を納得させるまでには至らなかった。
しかも、その時の女の子の存在は、今考えればおかしなところが多かった。普通にシチュエーションを想像すれば、それは誘拐であり、立派な犯罪だ。犯罪を見て見ぬふりをしたことになるのだが、本当に目撃したのなら、いくら子供でも、警察に届けるくらいはしたはずだ。
しかも、もしそれが犯罪に結びつくなら、誘拐事件だったり、失踪事件、下手をすると殺人事件として、狭い田舎町のことなので、話題が駆け抜けるはずだが、まったくそんなものはなかった。
「夢だったんだろうか?」
そう思うしか、その状況を説明できるはずもなかったのだ。
その思いが、正則にとってのいつ頃だったのか、今なら分かる気がする。
「自分をいつも助けてくれていた女の子が引っ越していってから、麻衣ちゃんと知り合う前の『孤独』を感じていた頃だったのではないか?」
と思われる時期だったのだ。
普通なら、そんなにハッキリと覚えているはずもないのに、どうしてこんなに鮮明に覚えているかというと、麻衣子と一緒にいる時に、似たような経験をしたからだった。その方が後なのに、鮮明に覚えているのは、こちらの方である。時系列よりも、かなり印象に残ったことだったに違いない。
――あれは予知夢だったのか?
そう思えても仕方のないことだった。
誘拐された女の子のイメージは、その時は分からなかった。しかし、同じシチュエーションを今度はハッキリと、
「寝ている時に見る夢」
として見たことで、以前に見たことが夢だったのだと感じた。
実際に、そんな誘拐事件があったという話はずっと聞いていない。やはり最初に思っていた通り、夢だったのだ。
しかし、同じ夢を二度も見るというのは、おかしなものだ。
よほど意識していない限り、一度見た夢をもう一度見るなどということはないだろう。
――いや、夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れてくるものなので、覚えていないだけで、同じ夢を二度見るということは珍しくはないのではないか?
と感じた。
それでも、覚えている夢をもう一度見るということはなかったのだ。やはりこの夢は特殊なものであった。
二度目に同じ夢を見たと思って目が覚めたその朝、同じ夢を見たと思っている一度目の夢をいつ見たのかということを思い出そうと思ったが、ハッキリとしなかった。
――確か、つい最近見たような気がするんだけどな――
と思ったが、今回見た夢に出てきた女の子は、自分から見て幼い女の子だと最初から分かった。それなのに、最初に見た時感じた女の子には、その子が子供だとは思ったが、主観で見ている自分から見て、それほど幼いとは思わなかった。
二度目で見た夢では、自分がヒーロー戦隊になって、彼女を助けるというシチュエーションはなかった。
「何とかしなければ」
という思いだけが先行して、できることとすれば、警察に通報することくらいしかなかった。
ただ、警察に通報したとして、本当に信じてもらえるのかどうか、最初に考えたのはそれだった。
「誘拐ということであれば、被害者がいて、その被害者の身内に身代金要求があるか、あるいは、行方不明になったということで、捜索願が出ていることが前提となる。
身代金要求であれば、
「警察には知らせるな」
と、犯人は言うだろう。
そうなると、脅迫を受けている人が届けることは普通ありえない。警察に届けていたのであれば、すでに捜査は始まっていて、いまさら通報しても遅いというものだ。
また、通報することで、警察には知らせてはいけないという警告を、知らない人が知らないところで届けているとしても、犯人にはそのことは分からないだろう。一歩間違えると、被害者の命が危なくなるというのは必至である。
行方不明になったということで捜索願が出ていた場合も同様である。もし、犯人がいるとすれば、最初から犯人の計画はとん挫している。犯人が狂気の沙汰ではない状態になってしまうと、予期せぬ状態になりかねない。危険な状態と言ってもいいだろう。
もし、正則の勘違いで、実際に犯人はいないのだとすれば、行方不明者の捜索願などかなりの数が警察に通報されているだろう。そう思うと、その中から一致する人を探すことは至難の業というものだ。
結局正則は何もできなかった。
もっとも、正則でなくとも、他の人が目撃したのだとしても、考えることは正則と同じである。
一度目に見た時は、自分がヒーロー戦隊になっているという妄想をすることで、自分を納得させた。妄想というのは、子供の頃結構していた。今から思えば、自分を納得させることというよりも、元々はいじめられっ子だった頃の意識が残っていて、
――自分がスーパーヒーローになって、いじめられっ子になる前に戻りたい――
という意識が強かったのかも知れない。
スーパーヒーローになっている時というのは、自分がいじめっ子になって、自分を苛めていた連中をやっつけるというシチュエーションではない。
誰か他に苛められている子がいる。苛めているのは、いつも自分を苛めている連中だ。スーパーヒーローの仮面をかぶっていることで、いじめっ子には相手が自分だとは分からない。
少し複雑な気分だった。
自分を苛めている連中に顔を見せて、立場が変わったということを思い知らせたいという思いがあるのは山々だ。しかし相手に自分だと分かってしまうと、いくら不思議な力を持っているとしても、自分の気持ちが萎縮してしまって、せっかくのコスチュームも役に立たない。ヒーローの恰好をしていると言っても、中身は正則なのだ。考え方一つで、弱くも強くもなるのだ。
それは夢であっても同じことだ。
夢だと自覚していたとしても、自分の中に弱い心があれば、それ以上の力を出すことはできない。正則にもそんなことは分かっている。分かっているだけに強い心を持つには抵抗があった。
その思いは、自分が苛められっ子だったというトラウマが夢の中にも出てくる時期にしか現れないもので、大人になってからでは見ることのできない夢や妄想だと思っている。
子供の頃に見た夢であるとすれば、なぜ今頃、もう一度同じシチュエーションの夢を見るというのだろう。
――いまさら――
という思いが強く、そう思うと、
――今の自分の気持ちが子供の頃に近づいているのではないか?
と思うようになった。
さらにもう一つ考えられるのは、
――引っ越ししたことで、忘れていた何かを思い出したのではないだろうか?
という思いだった。
環境が変わることで、変わった環境がまったく真新しいものではない限り、過去にあった出来事に思わず重ねてしまおうという意識が生まれるようだ。この街に来て最初に感じたのは、
「この街、どこか懐かしさがある」
というものだった。
正則は、子供の頃に住んでいたところから一度引っ越している。子供の頃に住んでいた街は、引っ越した街よりもさらに田舎だった。今度引っ越してきた街には都会を感じるのに、かつて住んでいた片田舎の街を思い出すというのは矛盾を感じるのだが、それでも懐かしさを感じるというのは、個々の部分を見るからというよりも、全体を漠然と見て感じることだと分かるまでには、さすがに少し時間が掛かった。
子供の頃に住んでいた街全体を見渡したという記憶は確かにあった。そしてその光景をイメージするたび、誰かの顔を思い出しそうになるのを感じていた。その相手というのはいじめられっ子だった正則を助けてくれていたが、小学校卒業を前に引っ越していった女の子のことである。
その女の子の顔は思い出せそうで思い出せなかった。正則を苛めていた男の子たちに対しては毅然とした態度をいつも取っていたのに、正則に対してはいつも優しかった。本当なら、
「男のくせにしっかりしなさい」
と、一喝されてもいいはずである。
その方が正則にとって本当はよかったのかも知れないが、どうしても彼女の方で、正則に対してきついことが言えないようだった。
そんな彼女のことを正則は好きになっていた。もちろん、異性に対しての意識などまだない時期だったので、女性として見る目があったわけではない。
――自分を助けてくれる頼れる女の子――
というイメージとは別に、正則のことを慕っているように見えるその態度に、正直戸惑っていたのも本音だっただろう。
彼女のことを二重人格のようにいう噂を聞いたことはなかった。しかし、正則から見れば、自分を苛めている男たちに対しての毅然とした顔には怖さが見えていて、正則に対しても同じ顔をしたのだとすれば、いくら助けてくれる相手だとはいえ、引いていたに違いない。
しかし、正則の前にいる時の彼女は、完全な「女の子」である。
正面から見つめられると、金縛りに遭ってしまっていた。本人に意識はなかったかも知れないが、彼女に女性を感じていたのだろう。
――夢に出てきた女の子――
女の子を正面から見たわけではないので分からなかったが、正則を助けてくれる女の子が正則を正面から見つめる顔に似ていた。
――潜在意識として残っている記憶が、夢になって出てきたのだろうか?
夢の中で、正面から見つめられたわけではないのに、金縛りを感じた。彼女を助けたいのに、飛び出していくことができなかった。正則はそれを、
「夢の中だから」
と思ったが、そうではない。
記憶の中から出てきた彼女の顔が、正面から正則を見つめたことで、金縛りに遭ってしまったのだった。
正則は、彼女が引っ越していった時のことを思い出してみた。
「俺の知らない間に引っ越していったような気がしていたけど、彼女は最後に話にきてくれたような気がする」
と思った。
その時、何を話したのか覚えていないが、引っ越しの理由については一切何も言っていなかったようだ。正則に対しての気持ちも一切話していなかった。ただ、別れを目の前にして、言葉少なく、その場に立ち尽くしていたように思えた。
「さようなら」
彼女のその一言に対して、正則は名にも言わず、ただ俯いていた。彼女の顔を見ることができなかったのだ。
それから少しの間、彼女がどんな顔をしていたのか忘れてしまっていた。
――こんなことなら、最後くらい、顔を真正面から見つめてみたかった――
と感じた。
せっかく彼女が正則を正面から見つめてくれていたのに、正則は、その顔を凝視できなかった。
金縛りに遭ってしまうことを恐れたのか、それとも、これ以上彼女への想いをハッキリさせてしまうと、最後は自分が辛くなると思ったからなのか、結果的に彼女の顔を凝視することができなかったことで、彼女への想いは中途半端なまま正則の心の中に残ってしまい、記憶の奥に封印されてしまったのだろう。
それなのに、正則は彼女の顔を時々思い出していた。しかも、思い出したとしても、それが彼女であるということはほとんどなかった。
「誰だったっけ?」
彼女への想いはしっかりと残っているのに顔と一致しない。それがいいことなのか悪いことなのか、すぐに分からない正則だった。
正則は、誰かを助けたという意識はないのに、ヒーローになったという記憶があった。
戦隊ヒーローものの主人公になったという妄想は、本当に妄想だったのだろうか。
彼女の視線を正面から浴びて、照れくささからまともに見返すことはできなかったが、それは自分を助けてくれた相手からそんな視線を感じたからだという意識だけではなかった。本当に、
「彼女のことを助けたのは自分なんだ」
と感じていた。
人を助けるなど、自分がヒーローでもなければありえない。普通の人間としての自分は臆病で、誰かから苛められることはあっても、人を助けるなど、おこがましい考えだとしか思っていない。
正則は、引っ越していった女の子のことをウワサしているおばさんの話を聞かされたことがあった。
――あんなおばさんの言うことなんか、しょせん、まともなことではない――
と思っていたが、今思い出してみると、
――まんざらでもなかったか?
と感じるようになっていた。
「あそこの家庭、逃げるようにして引っ越して行ったわね」
「ええ、そうね。でも、引っ越すまでしなければいけないのかしら?」
「親のことが問題であれば、いろいろな選択肢もあるでしょうけど、問題が子供にあるとすれば、やはり引っ越すしかないんじゃない?」
「そうかも知れないわね。もし私がその立場だったらと思うと、ゾッとするわ」
「私は自分のことのように考えるのが怖くてね。勝手な噂をしているんだけど、相手の立場に立って考えたくないという思いが、余計な発想を抱かせるのかも知れないわね」
子供心に話の内容は難しかったのだが、
「自分のことのように考えられない」
という言葉を聞いた時、ゾッとするのを感じた。
――これは聞かなかったことにしないといけないだ――
と感じた。
その時、街のほとんどの人は知っていたらしいのだが、誰もが引っ越して行った家族の話題をすることはなかった。まるで最初からいなかったかのように存在を消そうとするのは、子供にとっての想像を絶するものだったのかも知れない。
正則は、その時彼女の表情が、
――この俺なら助けてくれる――
という思いがあったのだと、今となっては確信めいたものに感じられた。
「俺なら、本当に彼女を助けられたのだろうか?」
と思ったが、次第に無責任な噂をしている人たちが憎らしく感じられた。
――どうせ何も知らないくせに――
と言いたかったのだろう。
おばさんのことが嫌いになったのは、その頃からだった。元々虫が好かなかった人だったが、ハッキリと感じたのはこの時だった。しかし、本当はおばさんを嫌いになっただけではなく、他の大人も嫌いになった。おばさんと話を合わせているのか、話に盛り上がっている他のおばさん、それを見ていながら誰も何も言わない大人たち。
「黙って傍観するのも同罪だ」
と、自分のことを棚に上げてそう思ったが、子供には大人に逆らう権利はないという意識を植え付けられていたことで、子供には関係ないと思った。そう思うように仕向けたのは大人たちで、そんな大人たちの思惑通りに動かされている自分が、情けなくも悔かった。
――大人になんかなりたくない――
大人全員がそうだとは思わないが、少なくとも自分のまわりにいた大人たちは、ろくでもない人たちばかりだった。それを思うと、限りなく全員に近い大人が、自分の敵に思えてきた。
「どうして今頃、あの時の夢を見るんだろう?」
正則は最近自分のことを嫌になりかかっていた。
この街に引っ越してきたことで、少しはましになってきたが、前の街にいた時の最後の頃は、自己嫌悪に打ちひしがれそうになっていた。
「何をどう考えていいのか分からない」
その状態は鬱状態に似ていた。
しかし、鬱状態との決定的な違いは、鬱状態のように、躁状態から入り込んだわけではないということだった。しかも鬱状態のように、
「そのうちに鬱状態から抜けてくれる」
という思いが浮かんでこなかった。
まったく見えない出口、自分がどこにいるか分からない状態、少しでも動けば奈落の底に叩き落されるような気持ち。気が狂いそうだった。
しかし、それでも何とかもったのは、奈落の底を意識した時間が一瞬だったということだ。定期的には襲ってくるが、ずっと続く気も狂いそうなっ状況ではない。それだけが救いだったと言えるだろう。
そんな時、この街への引っ越しの話が出たのは、天の助けだと思った。実際にこの街に引っ越してきてからは、それまでの気が狂いそうな状況がウソのようになくなっていた。
しかし不思議なことに、今度は鬱状態が襲ってきた。これも原因は不明である。躁鬱症に入ると、定期的に躁鬱を繰り返すことになるが、どちらが先なのか、ハッキリとしていない。今回は鬱状態が最初のようだった。
この鬱状態はいつものことのようだ。
「そのうちに抜け出せる」
と、鬱状態に入った時から、すでに出口は見えている。
出口からは一筋の白い閃光が見えている。まるで昔のブラウン管のテレビが消えた時の瞬間のようだが、正則にそんなことは分からない。しかし、どこか懐かしさを感じたが、気のせいだと思いそのままスルーした。
鬱状態に陥ったのは、正則が神社に行った次の日だった。
前の日、まったく鬱に突入する意識はなかった。朝起きたら、いきなり鬱状態だった。どうして鬱状態だと分かったのかというと、目が覚めて見えた天井が、やたらとハッキリと見えたからだ。
それほど視力のよくない正則は普段眼鏡かコンタクトをしているが、寝る時は外している。目が覚めた時は裸眼だというわけなのに、眼鏡をしている時くらいに天井がハッキリと見えたことで、いきなり違和感があったのだ。
ということは、おばさんや大人が嫌いだと思った夢は、さっきまで寝ていた夢で見たものに違いない。
その日、正則は身体が重たかった。目が覚めた時は、こんなに身体が重たくなるなど想像もできないほど、スッキリとした目覚めだった。嫌な夢を見た時、身体に必要以上に筋肉がこわばっている時もあるが、逆にスッキリとした目覚めを感じる時もある。そのどちらも見た夢を忘れているわけではないのだが、ぞれぞれの状態で、同じ嫌な夢でも種類があるのではないかと感じたのだ。
学校に着くまでに、結構汗を掻いた。そのおかげなのか、それまで重たかった身体がすっかり元に戻っていた。筋肉も変にこわばっているわけではないし、目もすっかり覚めてしまったことで、その日、怖い夢を見たという意識は遠い過去のものになったかのように、封印されていたのだ。
一時限目は担任の先生の授業で、いつものように机の上に教科書、ノート、そして筆記具を用意して先生が来るのを待っていた。
教室の扉が開き、先生が入ってくる。その後ろに一人の女の子が無言でしたがっていたが、ショートカットのその女の子は、小柄な上に、華奢な身体つきをしている。一見してひ弱な感じが滲み出ていた。
「よし、皆注目」
皆席に座り、先生の隣の女の子に視線が集中した。彼女はそれが分かっているのか、顔を上げようとはしない。よほどの恥ずかしがり屋なのだろう。
「最近は、転校生が多いが、今日から一人仲間が増える」
と先生が言って、チラッと正則を見た。
多いと言った転校生の一人が正則である。そういう意味では壇上にいる彼女の気持ちは一番自分が分かるのではないかと思った正則だった。
そう思って彼女を見つめていると、彼女の気持ちが分かる気がした。
彼女の気持ちが分かるということは、彼女も正則と同じように、孤独や孤立という言葉に意識があり、あまり嫌な言葉だと思っていないのではないかと勝手に想像を膨らませていた。
先生が黒板に彼女の名前を書いた。
「新垣麻衣子」
「……」
それを見た正則は驚愕した。
――子供の頃の記憶の中にいる麻衣ちゃんなのだろうか?
最近思い出したばかりだった。これをただの偶然として片づけることは正則にはできなかった。
麻衣ちゃんの苗字は覚えていなかったが、「新垣」という苗字に、聞き覚えはあった。その苗字をどこで聞いたのかということはすぐに思い出せなかったが、正則にとって、それを思い出すことが本意であるという気はしなかったのである。
「できることなら、聞きたくはなかった」
というのが本音だった。
正則の驚愕はどっちだったのだろう?
麻衣ちゃんと思しき人が目の前にいることなのか、それとも、聞き覚えのある新垣という苗字を聞いたからなのか、少なくとも新垣という苗字に対して、嫌な思いさえなければ、ここまでの驚愕はなかったという思いを抱いている正則だったので、新垣という苗字に対しての印象の方が深いのかも知れない。
人間は、自分に対していいことが迫っているよりも悪いことが迫っているのを知ることの方が驚きは大きいものだ。期待と不安、同じ大きさであるとすれば、どちらが表に出るかといえば、やはり不安であろう。払拭できるものなら早めにしておきたいと思うからに違いない。
「新垣さんは、一番後ろの空いている席についてください」
「はい」
と、先生が指名した席は、正則の隣だった。
「新垣と言います。よろしくね」
席についた彼女は、そういって微笑んでいた。
まだ驚愕から目が覚めていない正則は彼女の笑みに向かってたじろぎながら、
「ああ、こちらこそ、よろしくお願いします。僕は、門脇といいます」
「門脇君ね。仲良くしてね」
その笑みで、やっと驚愕から抜け出せた気がした。
「門脇正則といいます。僕の名前に聞き覚えありませんか?」
と、聞いてみると、訝しそうな雰囲気はなかったが、少し考えた末、
「いいえ」
と、麻衣子は一言答えただけだった。
その声は明らかに低い声で、何かを思って答えているのは分かったのだが、何を考えているかまでは分かるはずもない。訝しがられなかっただけでもよかったと思うべきであろう。
「それでは授業を始める」
と言って、授業は始まったが、正則の気持ちは授業どころではなかった。
さっきまでの驚愕が消えたおかげで、「新垣」という苗字に対しての不安よりも、麻衣子に対しての期待の方が大きくなり、その横顔を見ながら、
――やっぱり、子供の頃に一緒だった麻衣ちゃんなんだ――
という思いを次第に膨らませていった。
それなのに、彼女が自分の名前に聞き覚えがないというのはどういうことだろう?
声が低かったのは、何か訳ありの気がしたが、その理由を想像するに、
――子供の頃の記憶がハッキリしないのかな?
という思いと、
――わざと僕のことを思い出さないようにしようとしているのか?
という思いがあった。
後者であれば、麻衣子にあれから何かがあって、思い出してはいけないと自分に言い聞かせているのかという不安も募ってきたのだ。
麻衣子の横顔を見ていると、正則がいじめっ子から苛められていた時に助けてくれた女の子が親の仕事の都合で引っ越して行った時のことを思い出した。
――どうして今思い出すんだろう?
正則の頭の中で、麻衣子とその女の子の雰囲気が交差して記憶されているように思えてならなかった。特に気になったのは、引っ越して行った女の子の名前を思い出せないことが一番の原因だったのだ。
二人はイメージも違っている。
自分を助けてくれた女の子は、いつもしっかりとしていて、ハッキリとした性格そのものが正則の心に残っていた。
麻衣子の場合は、正則と同じように孤独が似合う女の子で、
「この子だったら僕の気持ちを一番分かってくれるだろうし、僕だからこそ彼女の気持ちを一番分かる気がする」
と感じた相手だった。
一言でいえば、
「似た者同士」
というべきなのだろうが、それでも、交わることは決してなかった。ある程度近づけばそこから先は平行線を描くように、一定の距離を保っていた。どちらかが、近づかないような意識を持っていたのだろう。正則は彼女の方が自分を近づけないと思っていたが、離れてしまうと、自分が近づけなかったのかも知れないと思うようになっていた。離れることで初めて気づくこともあるのだと、正則はその時ハッキリと気づいたのだった。
ただ、今でもハッキリとしていると感じていることはあった。あの時の麻衣子は、明らかに正則を慕っていた。慕うことが麻衣子の中の孤独を自分で納得させることではないかと感じた正則だった。
同じ孤独を感じていた正則だからこそ分かることで、そんな正則を慕っている麻衣子も、自分を納得させることが、自分にとって一番大切なことだということを感じていた一人だったのだ。
正則が自分と麻衣子の平行線を想像していた時、さっき思い出した子供の頃に自分を助けてくれた女の子と麻衣子の関係について想像してみた。
二人を同じステージに上げて考えたことなどなかった。二人は子供の頃の一時期に自分にかかわった相手ではあったが、決して同じ時期にかかわっていたわけではない。それだけに想像が重なるなどありえないことだったが、今のように遠い過去として昔を振り返ると、どこか重ねて見てしまうことがあるような気がしていた。
――ひょっとして記憶の中に、交差して覚えている部分があるのかも知れない――
錯覚が重なったという意味だが、思い返してみると、二人の間にまったく共通点がないことにいまさらながら気が付いた。
それにしても、同じくらいの時期に、まったく共通点のない女の子二人にかかわっていたにも関わらず、感じていた思いにさほど差がないのは不思議だった。
助けてくれていた女の子を慕っていたつもりでいたし、麻衣子には慕われているつもりでいたのに、二人ともから慕われていたという意識を持ったのは、後で知り合った麻衣子の印象が深かったからなのかも知れない。
しかし、今思い出してみると、自分を助けてくれた女の子が転校していった時に感じた寂しい思いは、今までに感じた寂しさの中でも群をぬいていた。むしろ、彼女との別れがあったことで、寂しさを自分の中で封印することが自分を納得させることだと気が付いたと言っても過言ではない。
正則は、確かにこの時、麻衣子と出会った。それは運命と言ってもいいはずだった。
しかし、麻衣子の方では何も感じていない。それはボクシングのパンチを入れているのに、相手にはまったく効いていないのと同じで、力を入れるだけ相手に吸収されてしまうことで、余計な力が却って自分を消耗させることになる、
――やはり麻衣ちゃんとは、近づけば近づくほど、超えられない何かがあるのを暗示しているかのようだ――
と感じさせられた。
いまさら思い出したくないおばさんの顔が頭をよぎる。首を振ってその思いを断ち切ろうとするが、今度は頭の芯が痛くなってくる。
――思い出さないようにしようと思うのも叶わないのか――
正則は、その場の自分の状況を受け入れるしかなかった。
横を見ると、何もなかったかのように無表情で前を見ている麻衣子が恨めしい。
――何も思い出さなかった方がよかった――
そう感じた正則だった……。
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